試行錯誤はあだとなるか
岩城清次との性交において中里はいつの間にか様々な姿勢をとっている。向かい合っていたはずが横になっていたり、うつ伏せになっていたり、岩城をまたいでいたり、足を抱えられていたり、腕を抱えられていたりで、自分の体勢が把握できなくなる。流れとはまったく関係ないように足をねじられても、流れのままに突き上げられて、快楽にさらわれるしかなくなる。それを止める隙はない。流れは岩城が果てるまで終わらない。始まる前ならどんな話でも通ずる。苦痛を訴えれば止められる。始まってしまえば岩城が終わるまで終わらない。中里では終えられない。終えられないので苦痛を減らそうとする。快感に集中する。するとあらゆることは快楽にさらわれる。激流に呑み込まれて自分を把握できないままにあらゆる姿勢をとっている。岩城にとらされているのか自分が進んでとっているかは分からない。何が何やら中里には把握できないのだ。終わった後に最中のことはあまり思い出せない。混乱している。混乱が過ぎ去った後にも最中のことはあまり思い出せない。思考を奪った快楽しか大概は思い出せない。無理矢理ではないがどこか一方的な性交だった。癪といえば癪である。それさえなければ岩城と一緒にいることに悪い点はない。価値観には憎しみを覚えるほどの差異はないし、岩城には気を配らねばならないほどの粗暴さも繊細さもないので付き合いやすい。そこに性交が入ってきても関係は進みも戻しもしていない。だが癪なのは癪だった。ひとたび始まれば中里では終わらせられない。中里から始めてもそうだった。終わりたくとも終われないし終わりたくなくとも終わってしまう。訴えは何一つ聞かれない。癪だった。癪だから、また流れに身を任せる他はないのだった。
(終)
2007/11/22
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