爪
京一ならこんなことはねえだろうな、と清次は左の前腕にティッシュを押し当てたまま考えた。あの男なら無意識に人の体を傷つけることはないだろう。基本的に、考えたことをコンマ単位で行動に直結できるタイプの人間だ。感情だの欲望だのに支配されることもない。堅実で慎重で、頼り甲斐はあるが、清次にとっての面白さの基準である人間的なイレギュラー性はほとんど持ってもいない。
だから、テコでも動かせないほどの頑固さを見せたかと思えば、人の言うことを素直に聞いたりするような、前日嫌がっていたことを翌日何もなかったような顔をして行ったり、逆に前日受け入れたことを翌日嫌がったりと、言動に一貫性がなく、すぐに感情に流されるような相手の場合、これは清次にとって面白かった。なぜコロコロ変わるのかは理解できないし、ならこちらがどういった状況でどういった対応を取ることがベストなのかも分からないが、分からないからこそ、相手の顔色を窺ってビクビクする必要がない。何が好かれて何が嫌がられるのか、やるまで知れないのならば、とにかくやりたいことをやってしまえばいいのだ。それは煩雑な計画を立てずに済む点において最高だった。
限定されている現在、その相手の思考回路を、清次はいまだ理解できない。だが、根拠となる感情だけは顔を眺めればすぐに予想がつくし、だから何もかもが分からないということはない。また、それを指摘するだけで揺れ動く精神の軟弱さと、相反するような腹の据わり具合は、気に入っていた。それは清次にとっては好きになったということであり、そういった場合は自然と相手に欲情するのだが、それが違う地域の走り屋で同性であっても、それはそれ、とできるほどのわき道のない一直線の考え方を清次は持っていたので、思うように動き、今回は制約下にあっても、満足する結果は得られていた。
その結果から続く今、左の前腕中ほどに、指四本分の爪跡がくっきりついている。
比較としてふと思い浮かべた須藤京一と、清次はセックスをしたこともないが――死んでもすることはないだろうと思う――、衝動的にこんな傷をつけてくるほど乱れはしないだろう。やるならば、わざとに違いない。だが演技にせよ、故意のマーク付けだとしても、そこに冷静さが感じ取られることは、清次にとって違和感をもたらすものだった。だから清次は一人勝手に、相性合わねえだろうな、絶対やるこたねえけど、と他人の嗜好を決定しながら、じんじんと、深くに痛みが落ちているような傷口からティッシュを除いてみた。皮膚が削り取られた場所には、まだ血が溜まっていく。相手の爪がとがっていなかったためか、傷は幅広かった。面倒になったので、ガーゼを押し当て、そのままテープで適当に固定する。しばらくすれば血も止まるだろう。そうすれば、問題はないのだ。
最後の最後、向き合った状態だった。その頃にはもう、相手も声を抑えるということを忘れていて、口をふさがない限りは泣いているようだった。そこまで持っていくために、時間は多くかかる。正直今もって、相手がこちらを好いているかはかなり怪しいところで、その上でなぜ相手がセックスだけは受け入れるのかも分からないが、ともかくできることはできるので、そこで清次はその男としかできないことを追求する。体中、余すところなく手で指で撫で上げて、舌を這わせ、唇で吸う。どんな場所でも、相手の一部だと思えば触れずにはいられなかった。そして中に入った時の感触と刺激と気分は、格別だ。時間を忘れる。理由は要らない。わき上がる快感と充足感が後は指標となり、幾度も幾度も抱き合って、そして最後の時だ。シーツについた右腕は取られ、左腕は掴まれていた。苦しげに眉根を寄せ、快楽で目を潤ませた男が、堪え切れないように喘いでいた。狭まる声の間隔と締め付けてくる肉の感覚で、経験的にその絶頂が近いことは分かった。後は早かった。熱さと痛みが左腕に走ったと同時に清次は射精して、男の体は痙攣し、萎えたものを抜くまで時間を置かねばならなかった。
問題は、舐めても舐めても血が腕を伝っていくことで、煩わしくて仕方がなくなり、快感に惚けていた相手を放っても始末しなければ気が済まなかったのだが、そして一時的にでも出血を止めた今、それは解決した。ベッドの上では立てた膝を開いたままの男が、まだ浅い呼吸を繰り返している。その隣に戻った時、居た堪れない風に謝られるのか、腹立たげな舌打ちとともにそれ以上の接触を絶たれるのか、何もなかったようにされるのか、心配されるのか、憎まれるのか、可能性は多くあるが、どれが高いのかは分からない。そこに、かつての生活にはない、安定に裏打ちされたスリルがある。ガーゼで覆った左の前腕を一度軽く叩いてから、清次はにやける顔をそのままにして、一つ血の跡のあるシーツの上へ体を乗せた。
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