日課
運動した翌日はすっきりと目覚めることができる。この場合の運動というのは、大人になった今ではドライビングとセックスくらいなものだ。昨日は両方行って、肉体も神経も散々にくたびれたが、目覚めが良ければその疲労感も心地良い。シメにセックスを持ってきたから、幸福な興奮が持続しているのかもしれない。
隣で寝ている中里には、まだどんな目覚めも訪れていないようだった。朝の挨拶をかましてやろうか、清次は束の間考えたが、その前に迫った尿意を処理することにして、一人ベッドから抜け出した。髪をまとめて後ろで括り、床に落ちていたジャージを直に履き、トイレで用を足し、ついでに歯を磨いて顔を手入れして居間に戻ると、服を着た中里がダイニングテーブルに手をつきながら立っていた。不埒な挨拶をかます機は逸したようだ。
「よお、起きたか」
「……ああ」
声をかければ中里は薄く開いていた目を閉じて、掠れきった小さい声を返してきて、緩く頷く。白いTシャツにジーンズという出で立ちは、昨日ここに来た時と同様だが、下りきった前髪はそれより柔和さを醸し出していて、動きはそれより精彩を欠いている。無言で横を通る際にも、両足を引きずっていた。寝る前まで散々やったことを考えれば、起きてすぐ着替えられるだけでも感心してしまう。以前、ゆっくりしときゃいいじゃねえか、どうせ何もできねえんだからよ、とご忠告差し上げたら、着替えねえと落ち着かねえんだよ、俺は、と血走った目で睨まれた。朝っぱらから、といってもほとんど昼前だから気分的な、朝っぱらから身支度を整えられるとこちらが落ち着かないのだが、寝起きで押し問答をするのも面倒で、その時は言い分を認めてやるだけにした。目覚めが良いか悪いかと、目覚めてすぐ動く気になるかどうかは、まったく別の話なのだ。
冷蔵庫から一リットルの牛乳パックを取り出して流し台を向いた清次は、そこに使用済み食器が半端に溜まっていることに気付き、昨夜のことを思い出した。中里が、食器を洗っていたのだ。別にやれと言ったわけではない。家事を他人に押し付けられるほど優雅な暮らしも育ちもしていない。ただ中里はこの家にじっとしていると居心地が悪くなるようで、何かにつけて手伝いたがる。それを拒まなければならないほど清次は自分の手技にこだわりもしないから、昨日も好きにやらせていた。そして、好きにしている中里を見ていた。後姿。刈られたうなじ、白いTシャツ、小さくも大きくもないジーンズ。煙草を吸いながらそれを見ていたら、尻に目がいった。ジーンズに包まれた尻だ。何の変哲もない尻。見た途端、そこに突っ込むこと以外考えられなくなった。だからすぐに傍に寄って、振り向かせてキスをして、嫌がった末に腰の砕けた中里を、抱きつかせながらベッドまで運んだ。結果、洗い物は半端に放置されている。
放置されている以上、勝手に増えも減りもしない。慌てて洗う必要もないだろう。それは昼食に近い朝食を用意してから片付けることにして、清次は持っていた牛乳を容器に注ぎ、そこに粉末のプロテインを加えた。タフな筋トレをやっているわけでも味が好きなわけでもないが、高校生の時に兄に薦められて飲み始めて以来の習慣に成り果てている。起きたらまずプロテイン入りの牛乳を飲まないと、気分がどうにも落ち着かないのだ。それは中里が朝から着替えずにはいられないのと同じことなのかもしれない。要不要に関わらずにやってしまうのがルーティーンというものだ。とはいえ太りも痩せもしていないのだから、きっと不要というわけではないのだろうし、それが中里との共通点になるならば、決してうまいとは言えないバニラ風味のプロテイン入り牛乳も、悪いものではないように清次には思える。少なくとも両親が好んで飲んでいた青汁よりも、味はマシだ。
テーブルの上に置きっぱなしの煙草を吸いながら、蓋をした専用容器を振っていると、中里が戻ってきた。髪を後ろに撫でつけているから額が半分見えていて、半開きの目は全部見えている。かなり眠たそうに、歩くのも辛そうに中里はテーブルについた。その前に牛乳パックとコップを置いてやれば、のろのろとコップに牛乳を注ぐ。一度プロテイン入りを分けてみたところ、一口飲んでひどい顔をした。その中里の顔のしかめっぷりは清次に京一を思い起こさせた。二日酔いの京一も、それを一口飲んで同じような顔をしていたのだ。二人はまったく似ていない。外見も中身も重ならない。だが同じような反応をすることがある。プロテイン入りの牛乳を分けた時にはどちらもひどい顔をしたまま飲み干したし、朝食に煮込みハンバーグを出した時にはどちらもしばらく顔を手で覆い、そして無言で食べきった。二日酔いの京一と散々やった翌日の中里は、同じような状態になるのかもしれない。しかしやはり二人はまったく似ていない。京一は何度この家に泊まっても朝一番に牛乳を飲む清次のルーティーンには影響されないし、何より清次は京一相手には盛らない。
中里の反対側に座り、清次は牛乳を飲んだ。中里はコップを持った右手は動かさず半開きの目をゆっくりと動かして、灰皿を見た。中里の口から言葉が出てくるまでそれから二十秒は経っていた。
「煙草、いいか」
「ああ」
清次は頷いて煙草の箱とライターを滑らせてやる。中里はのろのろとコップをテーブルに置き、その手で一本箱から出した煙草を咥え、火を点ける。一つ吸って、煙を吐くと同時に軽く咳をして、目を閉じ少し動きを止めると、左手にのろのろとコップを持って、ようやく口をつけた。どうも寝ぼけているようだ。着替えの有無と、寝ぼけずにいるかどうかも、まったく別の話なのだろう。
清次は粉っぽい牛乳を飲みながら、昼食に近い朝食について頭を巡らす。昨日揚げた豚カツが残っている。ソースを染み込ませてせん切りキャベツと一緒に焼いたパンでサンドして、昨日のサラダの余りを添えれば無駄もない。リンゴを加えて新鮮さを少しは補うか、考えながら清次は中里を見ていて、中里はテーブルの上の牛乳パックを見ていた。そこから目を離さず、コップに入れた牛乳をちびちびと飲んでいる。煙草はほとんど吸っていない。灰はもう落ちそうだ。
「変な味でもすんのか」
なぜそんなにも牛乳パックを見ているのか気になって尋ねると、中里はびくりとして、その体が揺れた拍子に煙草の灰はテーブルに落ちた。首を傾げた中里が、十秒ほど眺めていたそれを煙草を挟んでいる右手の人差し指と中指以外の指でつまんで灰皿に入れようとする。だがつまむ度に灰はぱらぱら崩れて散らばった。しばらく終わりそうもない清掃作業を見かねた清次は、伸ばした左手で灰をテーブルの上から払い落とす。中里はそこで顔を上げ、目の前に清次がいることに初めて気付いたように瞬いた。
「ああ……悪い」
「いや」
割れた声で小さく言った中里に短くそう返すと、中里はぎこちない動きで煙草を灰皿に置き、再び牛乳パックを見た。傾げた首をわずかに戻し、さっきよりも大きな声を出す。
「見ねえんだよ、こっちで」
中里は牛乳パックを見続けている。清次は少し考えてから聞いた。
「見ない?」
「ああ」
「売ってねえってことか?」
「見ねえんだ」
中里は繰り返す。見ないという言葉に何かこだわりを持っているのかもしれない。見ないものは見ないのだろう。確かに店によって見ない牛乳はある。県によって見ない牛乳があってもおかしくはない。
「味、違うからよ。うちで飲んでたのと、昔」
牛乳パックを半開きの目で見続けたまま中里は言う。普段人の話の辻褄を合わせることにも躍起になる男の話にしては珍しく、からかう気も殺がれるほどに飛び飛びだ。すっかり寝ぼけているのだろう。
「まあ、こっちの牛乳でも味は違うからな。成分変わんねえやつでもよ」
何が差をもたらしているのかは知れないが、味が違う以上は好みのものを選びたくなる。そうやってわざわざ選んで買っているプロテイン入りのそれを飲み干して、清次は立ち上がった。煙草を咥えながら流しで使用した容器だけを洗い、食器カゴに刺してから、テーブルに戻る。中里はまだ牛乳パックを眺めている。本当にそれを見ているのか怪しく思えるようなぼけた目つきだ。というか本当に起きているのか怪しく思える。それでも一応これから用意する昼食に近い朝食についての意見を聞いてみようとした清次が煙草を灰皿に潰すと同時に、起きてはいた中里が、牛乳パックを見ながらぼんやりと言った。
「お前の味みてえだな、これは」
そして中里はコップに入ったその牛乳を、ゆっくりと飲む。これはもう確実に寝ぼけている。寝ぼけていることにも気付かないほど中里は寝ぼけている。でなければこんな、朝っぱらから人を煽るようなことを、人を煽るような悩ましい顔つきで、わざわざ言いもしないだろう。清次は昼食に近い朝食と半端な使用済み食器を思い浮かべたが、それらをすぐに頭から追い出して腰を上げた。無自覚な相手に紳士を気取るなら昨夜の時点で我慢しているし、そこで我慢ができるならここまで関係を強いてもいない。一ヶ月に一度の交接にルーティーンと同じ感覚を与えようと努力もしていない。結果今日まで関係は続いていて、それが絶たれる心配はもはや存在しない。
中里の目は相変わらずの半開きで、いつもよりも迫力はなく、色気はある。横に立ってそれをしばらく見下ろして、そこにわずかな自覚が紛れたところで、気分的な朝っぱらから幸福な興奮を生み出す運動に励むために、清次はまず口の中に残る味を中里と分け合った。
(終)
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