無知
子供向け玩具のように大げさなリアウィングは、手入れの行き届いた白さを発している。無残なステッカーが貼られていた痕跡はどこにもない。そこにあるように見えるのは、錯覚でしかない。いつまで引きずってんだ、と思う。敗北の屈辱は挑戦へと導くが、苦痛は逃避を誘うだけだ。いい加減もう、忘れるべきだろう。怒りだけを保持していれば、十分なのだ。
処理しきれない感情を抱えたまま回れ右をすると、目の前に、その白い車の持ち主が立っていた。剥き出しの額に丸めた新聞紙でもぶつけられたような、妙な呆れ顔で、何やってんだ、と言う。そう言われても、何もしてはいない。別に、と返して、その横を、努めて淡々と過ぎようとしたら、左腕を掴まれた。つっかえて足が止まり、体が斜めを向く。
ありゃあ俺も、ちょっとやりすぎたかもしれねえとは、思ってんだよ。
不服そうに言った岩城は、なぜか困ったように眉根を上げる。ちょっと? かもしれない? 何がちょっとで、かもしれないんだ? いや、何かは分かる。何のことを言っているのかは分かっている。分からないのは、その範囲だ。こいつはいつからどこまでを、やりすぎたと思ってるんだ?
知りたくもないことを考えながら、そうか、と頷いて、腕にかかる手を払おうとするが、びくともしない。指の一本一本で、骨まで掴まれている。岩城は、眉は元の位置に戻しながらも、隆起の多い顔からは、困惑を消していない。そんな、何か言いたげで、何かを解決したそうな顔で見られると、怒り以外の感情が刺激されて、他意を含まない表情を作るのに、難儀する。
お前が思う必要ねえだろ、そんなこと。
言い聞かせるように言って、腕を引く。手が離され、うっすらと痺れが残る。あけすけな物言いを本領とする男が、変わらず何か言いたげな顔で、何も言えずにいる姿は、俺は別に、何も気にしちゃいねえんだ、と分かりきった嘘で会話を切り上げずにはいられなくなるほどの、嫌な違和感と、神経の痺れをもたらした。
(終)
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