やられたらやり返す
こう、と言いながら、肩から肘、手首としならせ腕を振る。ブン、と空気を重たく切る音が立ち、目の前に立つ中里は、やたらと角張った目をぱちくりさせてから、太い眉の根を難しそうに寄せた。
「……痛そうだな」
「痛えよ」、清次は掌をかざし、即座に言い返した。「痛えに決まってんだろ、本気のビンタだぜ」
京一のそれときたら、闘魂注入モノである。目から火花が飛び出しそうな衝撃がある。鼓膜が破れかねない威力がある。それを食らって痛くないと言うのなら、病院で感覚の検査をした方が良い。重大な欠陥が見つかるだろう。そのくらい、強烈千万なビンタなのだ。まったく手加減ってもんがねえ、ぼやきつつ清次が肩甲骨から掌までの素振りを繰り返すと、中里はものすごく嫌そうに顎を引いた。そこまで威嚇するつもりはないので、まあ、と清次は手を下ろした。
「かわそうと思えばかわせなくもねえんだけどよ」
「……そうなのか?」
見上げてくる中里は、何とも訝しげだ。そんな必殺一撃モノをかわせるわけがあるのかとでも言いたげだ。清次は複雑な同意を示すように肩をすくめてから、けど、と右手で拳を作った。
「当たるまでやめえねえからな、あいつ。五回かわした時、六回目で右ストレートに変えやがった」
あの時はそのままかわし続けられるのではないかと思いもしたが、現実は甘くなかった。左手でもう一発と見せかけての、顔面直撃右ストレートに、清次の鼻はしばらく赤い滝を作り出した。それを再現しようとすると目の前の男を昏倒させかねないので、構えの真似だけで済ませたが、それでも中里はますます嫌そうに顔をしかめる。
「随分なリーダーだな、そりゃ……」
関わりを避けたそうな響きが満点な呟きだった。それを聞いて清次はふと誤解を招いたような気分にさせられた。確かに京一はビンタを少しスウェーされただけでも手応えの変化で気付き直後キッチリ一発食らわせるほど容赦のない奴だが、それはそういう制裁を加えねばならない正当な理由があるからで、事前通告なしの暗黙の了解的体罰もチームの統率を大事にする厳格さに基づいているだけに過ぎない。つまり我らがエンペラーの須藤京一は、立派なリーダーなのだ。
「随分もクソもあるか。お前だって他のメンバーがおかしなマネしやがったら、手ェくらい上げるだろ」
こちらと中里の属するチームとではタイプが違うが、属するメンバーが大抵賊っぽい点ではよく似ている。頭よりも体でモノを覚える人間が多い、というか、頭でモノを覚えられない奴らがよく目立つのだ。そういうドラテクは体で呑み込んでいても社会性は忘れがちな鳥頭どもをまとめ上げるのに、暴力が必要な装置であることは共通事項だろうから、清次はそう話を振ったのだが、中里は意表を突かれたように片眉を上げてから腕を組み、しかつめらしい顔をし考え込み、いや、と結局首を斜めにした。
「うちの場合、俺が手ェ上げるまでもなく、自業自得な目に遭ってる奴ばっかりだからな。まあどうせ、殴って分かるような奴らでもねえし。喧嘩してる時に止めに入って、とばっちり食らった時には俺もやり返すが、それ以外じゃあ手出しはしねえよ」
何とも拍子抜けな答えだった。だがすぐに、合点のいく答えでもあった。殴らなければモノを理解しない馬鹿というのがこの世の中には数々いるが、そいつらはまだ、殴れば分かる馬鹿でもある。だが、殴っても分からない馬鹿も、この世の中にはちらほらいる。そういう馬鹿は、どうしようもない。処置不能だ。死ぬまで放置するしかない。そしてエンペラーにはそういう馬鹿はまずいないが、ここではなぜかやたらと存在する。妙義ナイトキッズとは、日系ブラジル人を集めた方がまだまともになりそうなほどの純日本人馬鹿の団体である。類が友を呼ぶように、馬鹿は馬鹿を呼ぶのかもしれない。したがって、他人がシバく必要もないほど自業自得な目に遭っているのは予測が容易いし、何より殴って分かるような奴らでもない以上、かかってこない限りは殴ることもないという中里の言は、もっともなわけである。話を振った相手が悪かった。ふうん、と清次は軽く興醒めしながら右の小指で耳をほじり、ついでに他の指でほつれ毛を整えたところで、何の話をしていたか思い出せなくなったので、とりあえず中里を見た。中里は腕を組んだまま、先ほどと同様の濃い顔を更に濃くするような真面目腐った顔で地面を見据えている。まだ何か、手を上げる上げない件について考えているのかもしれない。そうだ、と清次は自分の考えを思い出す。この男に比べれば、京一はよほど立派なリーダーだ。チームをしかと掌握し反乱分子を抱えもしない。紛う方なし指導者だ。ただその立派さを相棒として身近で長く実感している清次であっても、それがここで通用するとは信じられない。
「まあ、似合わねえしな」
一人さっさと結論を口に出すと、「あ?」、と中里が不可思議そうに顔を上げる。間抜けさが拭いきれない顔の男だ。京一とは大違いである。どちらが優れているかは言うまでもない。どちらが立派か考えるまでもない。どちらがこの、一見閉鎖的なクセにどこよりも開放的で、馬鹿の流刑地のようで一般人の憩いの場に過ぎない峠に似合うのかもだ。
「似合わねえんだよ」、清次は改めて言った。「お前に京一みてえなやり方は。身分が違う。釣り合わねえし、格にも合わねえ」
中里は意外そうに二度瞬いてから、胡乱げな半目になり、それで五秒ほど清次を睨むように見てから、一応確認しておくが、と言った。
「その格ってのは、俺の方が上って意味だよな」
「馬鹿だろお前」、清次は即座に真顔で言った。
「おいコラ」
「まあそもそも、お前なんかと比べるのが、あいつに失礼な話なんだよな」
「そりゃ、俺には失礼じゃねえってか」
「ああ」
「てめえな。いい加減にしろよ、岩城」
笑うように頬を引きつらせた中里が、肩から怒りの気配を漂わせる。そろそろ潮時だ。別にこの男と喧嘩をするために、貴重な時間とガソリン代をかけて、こんな辺鄙な土地に来ているわけではない。モノには限度がある。何かを味わうにも、リミッターは大切だということだ。
「ホントのこと言ってるだけだぜ、俺は」、清次は一歩下がりながら言った。「お前だってもうちょっと努力すりゃあ、あいつの靴舐められる高さには届くかもしれねえんだからよ」
せいぜい頑張れよ、最後の挨拶と同時に背を向け歩き出すと、三秒後、足元じゃねえか、という怒声が後ろから飛んでくる。清次はそれに振り返らず右手を上げ、先ほどから体を貫きまくってきていた視線の発信源へと足を向けた。
(終)
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