勢い



 頭の痛みで目が覚めた。
 後頭部からこめかみへかけて、絶え間ない鈍痛が走っていた。頭蓋骨を突き割られているような、よく眠れたものだと思えるほどの、ひどい頭痛だ。蛍光灯の眩しさが余計に痛みを際立たせるようだった。
 中里は呻きながら、ベッドから起きようとした。途端、腰から尻にかけても痛みが走った。肛門を押し広げられて、中をえぐられたような痛みだった。中里はまた呻き、ベッドに沈没した。
 痛い。とにかく痛い。頭の痛みと尻の痛みを除いても、節々の痛みがある。首やら腹やら背中やら二の腕やら太股やらふくらはぎやらに、変な筋肉痛もある。全身が痛みの塊になってしまったようだ。
 何だ、と中里は思った。頭の痛みの理由は分かる。頭がずきずきして、口がからからして、喉がひりひりして、胃はむかむかとしている。完璧な二日酔いだ。それに、酒を飲んだ記憶はある。岩城清次と飲んでいた。
 そこまで思い出し、中里はがばりと上半身を起こした。全身に走る不規則な痛みに歯を食いしばりつつ、恐る恐る、横を見る。岩城清次がうつ伏せに寝ている。長い黒髪が顔を隠しているのではっきりとは分からないが、動きはないので寝ているはずだ。それはいい。ここは岩城の部屋で、これは岩城のベッドだ。岩城が寝ていたところでおかしなことは何もない。
 ただ、岩城は裸だった。毛布は奥に追いやられているから広い背中も意外に締まっている尻も丸出しだ。
 中里も裸だった。
 ここは岩城の部屋だ。これは岩城のベッドだ。そこで中里と岩城は寝ていたということになる。裸で。これはいいとはいえない。この状況を踏まえると、中里の尻を襲っている肛門を押し広げられて中をえぐられたような痛みの理由も、容易に推測される。
 客観的に見れば、二人の男が一つのベッドで寝ていたことになる。裸で。そして一方の男の尻が痛いという結果がある。
「……やっちまった」
 中里は呟き、数拍置いてから、のか?、と付け足した。やっちまったのか。やっちまったのか? 岩城清次と?
 やっちまった記憶はなかった。うつ伏せの岩城からは目を背け、辺りを見回す。部屋の中央にはテーブルが据えられている。そこに多種多様な空き缶とボトルが規則正しく小さいものから奥から手前へと順番に載っていた。ビール、チューハイ、日本酒、焼酎、ウィスキー、ブランデー、シャンパン、ワイン。共通点はアルコール分が含まれているということだ。全部空けたのだとすると、アルコール摂取量は結構なものになるし、チャンポンも甚だしい。いつになく二日酔いがひどいのも頷ける。記憶が飛んでもおかしくはない。
 中里はベッドの上にあぐらをかき、腕を組んで目を閉じて、とりあえず自分がどこまで覚えているのかを探った。
 昨夜は確か、最初は妙義山で走っていた。庄司慎吾は来ていなかった。あの男以外、あそこでまともに自分のGT−Rと競える走り屋はいない。一人で走るにも、少し、つまらなさを覚えた。そこで、そうだ、思いついて栃木へ行くことにしたのだ。いろは坂。先月二回ほど行って、顔なじみ程度にはなっていた。岩城清次。その男と挨拶がてら話しているうちに、一緒に走ってみるかと誘われた。誘いに乗った。そして走った。後追いだ。抜かせなかった。二回目だった。悔しかった。ただでさえホームで負けている相手だ。岩城と講評しているとますます悔しさが募ってきた。飲みてえな、と呟いていた。明日は休みだ。なら飲むかと岩城が行った。丁度酒が余ってる。走った後の興奮が身を包んでいた。勢いがついていた。誘いに乗った。岩城の家だ。飲んだ。とりあえず飲んだ。何はなくとも飲んだ。岩城が知人に買わされたという赤ワインを持ち出してきた。とりあえず空けた。
 そこから記憶は、先ほど頭痛で目が覚めたところまで飛んでいる。
 テレビの上に置いてある時計を見る。午前九時。飲み始めたのは午後十一時頃。だが記憶を失ったのが何時かは分からない。空白の時間に何があったのか、思い出そうとした。
 思い出せなかった。
 中里は再び隣を見た。岩城清次はまだうつ伏せに寝ている。起きている気配はない。
 帰るなら今のうちだった。岩城が起きれば何があったのかは話さずにはいられないだろう。何もなければいい。尻の痛みは例えば酔った勢いでワインの空き瓶でも自分で突っ込んだためかもしれない。裸になったのも酔った勢いで、そのまま寝たというだけかもしれない。どうにでも考えられる。
 だがもし岩城と自分がやっちまっていて、岩城がそれを覚えていたとしたら、これは決定的だ。だから岩城が寝ている今のうちに帰れば、どんな想定にも確実性を与えることなく済ませられる。
 中里は痛む首筋を揉みつつ、どうしたもんかと途方に暮れた。今のうちに帰ってしまいたいのは山々だが、それは逃げるようで癪だし、考えてみれば、仮に自分の尻の痛みが岩城にやられちまったためだとして、では自分は岩城をやっちまっていないかというと、それは分からない。もしかしたら、岩城にも同じ痛みを味わわせたのかもしれない。考えられないことではない。酔っていた。そして記憶はない。
 勿論自分と岩城はやっちまうような仲ではない。友人ですらない。共通点といえば走り屋というだけだ。
 中里は岩城にホームである妙義山で徹底的に負けている。遺恨があった。それを晴らすべく先月いろは坂に行った。だがいざ岩城と会うと、意気込んでいる自分が馬鹿らしく思えた。極悪人のように思えていた岩城は、柄が良いとも口が良いとも言いがたいが、極悪人とも言いがたい走り屋だった。中里の所属している走り屋チームには岩城の柄の悪さを上回る男がごろごろいた。そんなものかと思った。思うと、怨敵とは考えられなくなった。バトルに遺恨を持ち込む自分にも疑問を覚えた。恨むなら負けた自分であって、自分を負かした相手ではない。遅い自分であって、速い相手ではない。遺恨などはない。あったのは悔しさだ。チームの面目は忘れなかった。ただ個人的に恨むのは違うと思った。悔しさに体面を考えた理由をつけるべきではないと思った。そこらの気持ちの整理をつけるため、その日はコースを走るだけで終えた。二度目に行くと一緒に走らないかと誘われた。後追いだ。抜かせなかった。三回目が昨夜だった。その間、大した話もしていない。素性もよく知らない。ただ気は合わなくもなかった。余計な気遣いを無用とできる気楽で投げやりな雰囲気があった。だから岩城の自宅で二人で飲むという話も転がった。
 そのくらいの関係だ。中里は岩城に欲情したことなど一切ない。今、うつ伏せの裸体を見ても、どうにかしたいとは思わない。見ていても面白くも何ともない。長時間見ていたくもない。では岩城はどうだろうか。岩城のことは岩城にしか分からない。だが岩城が自分に欲情したことがあるとは考えがたい。自分と同じでそういう男ではないはずだ。
 しかし何はともあれ酔っていた。記憶が飛ぶほど酔っていた。自分が酔った挙句に男とやっちまうような人間だとは思えない。思いたくない。だが覚えてない。そして尻は痛い。何となく体はべたべたする。
 五里霧中であった。
 隣でうつ伏せになって寝ている裸の岩城を見るでもなく見たまま、中里はため息を吐いた。岩城がもぞりと動いたのは、その時だ。
「……あー、クソ、あったまいて……」
 岩城はシーツに手をついてうつ伏せの身を起こすと、膝を折って座り、顔を隠すように垂れている長い黒髪をかきあげ、ついで頭を上げた。中里は驚きのあまり固まっていた。まさかこんなに早く起きてくるとは考えてもいなかった。ため息を吐いた岩城がしかめている顔を、不意に中里に向けてきた。唐突だった。目が合った。中里は何も考えないうちにあとずさっており、ベッドの上だということは忘れていたので、そのまま床に落ちた。
「お、おい、大丈夫か」
 ベッドの端に腕を乗せながら床に座って体勢を立て直すと、横から焦ったような岩城の声がしたが、顔を合わせづらく、ああ、と中里は言ってベッドに背を向けた。
 沈黙が落ちた。後ろに岩城がいる気配がある。何か言わなければならないと思った。だが頭痛がひどくてまともな思考が組み立てられない。この場でまず何を言うべきか分からなかった。
「ちょっと待てよ」
 と、沈黙を破ったのは岩城だった。待てと言われてもまだ何もしていないから何を待つべきか分からない。
「何だ」
「待て。今思い出す」
「思い出す?」
「ああ。だから待て」
 再度沈黙。思い出す、と岩城は言った。ということは、おそらく、岩城も忘れているのだ。だから思い出そうとしている。中里は言われた通りに待った。何があったのかが明らかになるのは空恐ろしいが、岩城が起きてしまった以上、明らかになってくれないことには話が進まない。
 中里は待った。やがて、「駄目だ」、と晴れない岩城の声がした。
「思い出せねえ。なあ中里、俺らはやっちまったのか?」
 岩城が何をやっちまったとして聞いてきているのかは推測するしかないが、しかし何を聞かれたところで中里にも記憶はない。
 岩城とベッドに背を向けたまま、分からねえ、と中里は正直に言った。
「俺も思い出せねえんだ。赤ワインを空けたところまでしか覚えてねえ」
「俺はその後、泡盛出したところまでは完璧に覚えてんだけどよ。そっから先が駄目だ、全部消えてる」
 そうか、と中里は少しほっとしながら言った。岩城も覚えていない。覚えていなければ何があったかは闇の中だ。だが、ほっとした直後、それ以上に不安になった。今までも、たまに酒を飲んで記憶が怪しくなることはあった。いつの間にか財布の中の金が増えていたり減っていたりした。居合わせていたらしい人間に妙なからかいを受けることもあった。しかしいつの間にか知り合いの男と同じベッドで寝ていたということはない。裸で。そして二人して何があったかまるきり覚えておらず、自分は尻が猛烈に痛い。こういう場合の対処法など中里は知らなかった。まさに何も見えない闇の中にいるような不安が喉元までせり上がってきたが、どうしようもない。中里はまたもや途方に暮れた。
「あ」
 何かを思いついたような岩城の声が聞こえたのと、隣の空間に岩城が下りてくるのとは、ほとんど同時だった。中里は思わず岩城を見たが、岩城は中里に背を向け床にしゃがみ込んでいた。
「な、何だ」
 中里は代わりにベッドに上がろうかもっと距離を置こうかと混乱しつつ逡巡しつつ、そっと声をかけた。途端に岩城は振り向いてきて、指でつまんだ何かを目の前に掲げた。
「ほら」
 いきなり現れた岩城の顔は何の粉飾もされていない、馴染みのあるものだったが、その顔をしている岩城が指でつまんでいるのは、どう見ても昨夜には馴染みのないコンドームだった。その上どう見ても使用済みだった。中里は岩城の顔と使用済みのコンドームを交互に見て、最終的には岩城の顔を見ながら、念のため聞いてみた。
「他の日に、使ったやつ、とかじゃ……」
「しばらくうちじゃ誰ともやってねえよ」
 中里が皆まで言わぬうちに、岩城はつまらなそうに言って、指でつまんでいたコンドームをゴミ箱に戻した。中里は頭痛を抱えたまま考え、しかし、と言った。
「それがあったからといって、それがそういう目的で使われたと断定は、できねえんじゃねえか」
 使用済みコンドームは使用済みコンドームであって、使用済みコンドームでしかない。そうとしか考えられなかった。中里は頭痛に邪魔され、あるものとあるものを関連づけて考えることができなくなっていた。岩城は眉根を寄せ、軽く頷いてから、髪をかきあげて言った。
「腰がいてえんだよ」
「あ?」
「やった後にはいつも痛くなっちまう、俺はな。だからこれまで見たら」、とゴミ箱を一瞥した岩城は、真っ直ぐ中里を見ながら言った。「やっちまったとしか思えねえな。覚えてねえけど」
 中里は顔をしかめ、真っ直ぐ岩城を見返した。
「腰が痛い」
「ああ」
「俺は、腰、というか、全体的にこう、ケツがいてえんだが……」
「俺は痛くねえよ」
 岩城は即座に言った。中里は岩城から顔を背け、顎を撫でた。ひげが少し触れた。
「……そうか」
「そうだ」
 岩城が頷いたらしい空気の動きがあった。疑念はあったが、言葉にせねば何も明らかにはならない。中里は顎に手を当てたまま、意を決して岩城を見、そりゃ、と言った。
「俺が、お前に、いやお前が俺のケツだけに、いやケツだけっていうのもなんだが……いやいやつまり、お前の方が俺に、そうしたってことか?」
「そうだろうな、多分」、と言って岩城は目を伏せた。「悪かった」
「謝るなよ」、と中里はすぐさま言った。「覚えてねえんだ。どっちのせいだとも言えねえだろ」
 岩城は目を上げた。割り切る話の通じやすい男だ。納得した様子で、分かった、と言った。
「まあ俺も、ケツは痛くねえだけで、実はやってるというかやられてるのかもしれねえが、俺はお前にケツは貸さねえとも思うしな」
「俺だって、お前にケツを貸すとは思えねえよ、俺が」
 じくじくと痛んでいる尻さえなければ、胸を張って言えたことだった。今はどうにも言い訳がましくなった。それを消すように、ともかく、と中里は声を大きくして、正座になり、思いつくままに喋った。
「やっちまったというのはやっちまったとして、しかし、まあ何というか、俺もお前もそういう仲でもねえし、これはやはり、それはそれとして、置いておくのが一番、後腐れのねえことになるんじゃねえかと俺は思うんだが、どうだ」
 岩城はしゃがんだままだ。二人して裸で床の上に座り、向かい合っているのは滑稽に思えるが、着替えを挟んでも尚更滑稽になりそうだし、第一着替える前に風呂に入りたかった。体が変にべたべたしている。なぜかは考えいようにした。
「そういう仲でもねえか」、と岩城は顔をしかめながら言った。
「ああ」
「でも、だったら酔ったからってやっちまうか?」
 心底の疑問のようだった。中里は痛む首を揉みつつ言った。
「酔ってたんだぜ」
「酔ってたな」
「覚えてねえんだ」
「ああ、覚えてねえ」
「何があってもおかしくはねえだろ」
「そうか」
「そうだ」
 岩城は顔をしかめたままだったが、そこには不審の色はなかった。話はついたようだ。酔っているから仔細は分からないし、やっちまっていたとしてもどちらの責任とも言えない。だからそれはそれだ。どこに置いておくかが問題だが、時間が解決してくれる。多分。じゃあそういうことで、と中里は言い、風呂場を貸していただけないかと申し出ようとしたところで、まあ、と岩城が言った。
「素面じゃお前とやりてえとは思わねえな。全然」
 そう断言されるのも妙な気持ちだったが、そう断言されない方がまったくもって嫌である。中里は頷いた。
「俺もだ」
「でもやれって言われりゃ、できるような気もする」
「何?」
「酔った勢いとか、そういうのがありゃあな。なけりゃできそうもねえけどよ、お前となんて。まあ何だ、だから今度酒飲む時は、ほどほどにしようぜ、中里」
 うんざりしたように言って岩城は立ち上がり、風呂わかしてくる、と裸のまま部屋から出て行った。
 頭痛はひどいし、口はからからして、喉はひりひりして、胃はむかむかして、体は変にべたべたしている。節々は痛く、体のどこかを動かすたびにどこかしらが筋肉痛を主張する。散々だ。中里はとりあえず、岩城のベッドにのぼり、裸のままうつ伏せに寝転がった。ベッドは清潔な匂いがする。シーツは換えたてのようだ。なぜかは分からない。覚えていない。
 やっちまったとは、いまだ信じがたい。が、現実なのだろう。おそらく、岩城の言った通り、酔った勢いなんぞがあれば、もう一度ということも、できるのかもしれない。でなければ、自分がやられることを受け入れるとは考えられない。考えたくない。思いたくない。しかし尻は痛い。散々だ。
「お前とはもう、飲みたくねえよ」
 ベッドの上で全身の痛みを軽減できる格好を探しながら、中里は風呂をわかしているのであろう岩城に対し、聞かれぬ呟きを吐いた。
(終)


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