痴れ者



 テーブルの上に、茶封筒を置き、ペンのキャップを開けて、清次は動きを止めた。開けたキャップを閉めて、ペンを指に挟み、眉間にしわを寄せる。目は、壁に向けていた。窓の下。畳んだままの布団がある。それをひとしきり睨んでから、清次はペンをテーブルに放り投げた。

 その男の笑った顔は、見たことがない。来る時、その顔には大概、困惑が浮いている。また、諦念に満ちている場合もあれば、憤りを溜めている場合もあるし、失望に覆われている場合もある。愛想笑いや、嘲りや、自嘲は、一つもなかった。

 友人の家に行った時のことだ。晩秋の夜、どんよりとした天気だった。友人の住むアパートの前の道路、塀に手をつきながら、嘔吐している男がいた。素通りするにも、ひどい嘔吐の音だったので、気になって、ついその背に、声をかけていた。大丈夫かと。男は、荒い息の中、一つ大きく唾かげろかを飲み込んでから、ああ、と言った。気にしないでくれ、とも言った。それ以上、清次の前では、男は嘔吐をしなかった。お大事に、とだけ言って、清次はアパートに行った。家主と会い、足の早い手土産を押し付けて、数分雑談をした。部屋に上がりはしなかった。夜も更けかけていたし、特別話もなかった。部屋を出ると、先ほどまで嘔吐していた男が、塀にもたれてうずくまっていた。一度声をかけている手前、気になって、やはり素通りはできなかった。はじめ、酔っ払いかと思った。違うと知れたのは、近寄っても、酒の匂いがしなかったためだ。男の前にしゃがみ、もう一度、声をかけた。大丈夫かと。男は、ゆっくりと、顔を上げた。本来、剛健な印象を与える容貌に見えた。全体的に骨組みがしっかりしており、眉が太い。ただ、その時は、街灯の明かりで窺える顔は、青白く、頬は極端に削げていて、大ぶりの目が、不健康に充血していた。大丈夫かと、清次は再度聞いていた。尋常には見えなかった。ああ、と男はゆるく頷き、立てている膝の間に顔を埋めた。先ほど、男は、気にしないでくれ、と言った。構われたくないだろうとは、何となく、察しがついた。だが、一度気にしたものを、意識から除外することは、清次には難しかった。物事を、器用に割り切ることのできる方ではなかった。

 男は一ヶ月に三回、清次の家に来るか来ないかというところで、来る時はいつも、夜半だった。夜半に来て、玄関先で、その顔に、困惑を浮かべていたり、諦念を浮かべていたり、憤りを浮かべていたり、失望を浮かべていたりしながら、決して笑わずに、泊まらせてくれねえか、と言うのだ。清次には、拒否する権利はある。それを、行使する気は起きなかった。この地で、男に自分の家以外に泊まるあてがあるとは思えない。もう、冬も迫っているこの時期、どこかでぶっ倒れられても、後味が悪い。それに、ひどく優れない顔に、いつでも遠慮を含ませながら、玄関先に立っている男を見てしまうと、あえて拒絶をするのも、面倒に思えるのだった。

 変わらずうずくまったまま、動かない男に、同じく男の前にしゃがんだまま、ダチの家がそこなんだ、と清次は言っていた。まだ起きてるし、頼めば休ませてはくれるはずだ。そう言い終える前に、いい、やめろ、と男は、叫ぶように言った。清次は、何か妙なものを感じながら、いい奴だぜ、と言い返した。面倒見がいいし、しっかりしてるし、あんた一人くらいどうってこたねえよ。それも、言い終えることはなかった。言い終える前に、そんなことは知ってんだ、と男は言った。知ってる?、と清次は言った。男は何も答えなかった。ただ、顔を上げた。目が合わされた。会話を持つ意思が、その時点で、生まれたようだった。だから、清次はもう一度、言った。
「知ってる?」
「ああ」
「誰を」
「いい奴、だろ」
「あんた、それは、京一をか? 須藤京一。そいつを知ってるって?」
「ああ。お前のことも」
「俺?」
「一回、会ってる。あんたは、覚えてねえだろうけど」
「お前、走り屋か?」
「ああ」
「地元はどこだ」
「群馬だよ」
「群馬」
「妙義山」
「妙義山。行ったぜ、そこは、前に」
「ああ、来たぜ、お前らは」
「俺と、走ったか?」
「俺が、走った」
「お前が」
「俺だ」
「群馬の、妙義山か」
「ああ」
「ヒルクライム」
「ああ」
 そんな悠長な会話をしている間に、小雨がぱらついてきた。清次は灰色の闇を見上げながら、言った。
「GT−Rはどうした」
「覚えてたのか」
 その一瞬、目に力の戻った男の顔を、見た。
「うち来いよ、とりあえず」
「何で」
 何で、と思いながら、清次は言っていた。
「雨、降ってきたからな」

 それ以降、男が、自ずから来るようになった。

 主に、風呂場を貸して、寝床を提供するだけだ。男は何も話さない。清次も何も話さない。男の来る時間帯に、まだ起きているとはいえ、眠気はあるから、そう話す気も起きない。男には、好きにしてくれ、と言ってある。生活が著しく侵害されないなら、清次は他人が自分の家で何をやろうが、特別気にはならない。頼まれれば、水も出すし、コーヒーも出すし、酒も出すし、救急箱も出す。コーヒーと酒は頼まれたことがない。

 男が笑わないことに気付いたのは、ごく最近だ。ただ、ふと、気付いた。何か、暗い男だとは思っていたが、笑顔がないのだとは、そう思いつきもしなかった。本来、そういう男ではないようには見える。本来は、剛健であろう容貌も、清次の家に来る時は、うらぶれている。そういうのと、同じなのだろう。おそらく、男は、男が本来いる場所では、様々な笑顔を浮かべており、様々な強さも浮かべているのだろう。おそらく、朝になり、畳んだ布団の上に千円札を一枚残し、姿を消した男が、帰った場所では、男は本来の男でいるはずだった。それを一旦捨ててまで、男がこの地に来る理由は、清次も気にならないわけではない。だが、知ることも、ためらわれた。知れば、秘密が増えるだけだ。元来、隠し事は下手だった。それほど欲してはいないことで、追及されたくはなかった。それもしかし、決まりは悪かった。どっちつかずは、好きではなかった。

「お前の名前、何だった?」
 風呂から上がってきた男に、清次は聞いていた。男は、訝しげに、清次の前に座った。
「名前?」
「名前。フルネーム。覚えてねえんだ、生憎」
 言って、テーブルの上、紙と、ペンを差し出した。男は訝しげなまま、ペンを手に取り、紙に文字を走らせた。角ばった字だった。清次は缶ビールに口をつけながら、それを見ていた。
「ナカサト?」
「ナカザトだ。ナカザトタケシ」
「中里毅。普通の名前だな」
 キャップを閉めたペンをテーブルに置いた男が、訝しげというより、窺うように、清次を見た。清次は眉根を寄せた。
「何だ」
「わざわざ、普通の名前って言われることは、ねえからな」
「ふうん」
「お前は?」
 男は、清次を見たまま言った。清次は寄せた眉を、上げた。
「俺がどうした」
「お前の名前」
「俺の?」
「ああ」
「知りてえのか」
「呼ぶ時、困らねえだろ」
 男は、紙を見た。男の名前が書かれた紙だ。清次は缶ビールをテーブルに置こうとして、持ったまま、聞いた。
「飲むか?」
 男が、目を瞬いた。
「それか?」
「ほとんどねえけど」
 缶をわずかに、男の側に向ける。男は、戸惑ったように目を泳がせてから、缶を見て、曖昧に頷いた。
「ああ」
「ほら」
 缶を、男にやってから、濡れた手を着ているシャツで拭い、清次はペンを取った。紙を引き寄せ、男の名が書かれている横に、自分の名前を書く。缶をあおった男が、覗き込んできた。
「イワキ、セイジ」
「普通だろ」
「次男か」
「親父がキヨシで、兄貴がセイイチだ」
 男が見ている紙の、『岩城清次』の『清次』の横に、『清』と、『清一』と書いた。数秒してから、横で、変な音がした。男を見ると、口を、手で押さえ、顔を背けていた。清次は、紙に目を戻し、『清一』の隣に、『隆弘』と書いた。ほら、と言って、紙をキャップをしたペンで叩くと、口を手で押さえたままの男が、顔を戻してきた。
「弟は、これだ。タカヒロ。清一清次ってきて、一人だけ違いすぎるから、グレかけてたぜ、あいつ。オリジナリティに目覚めるのが遅いとかよ。カッコイイからいいじゃねえかって、俺は思うけどな。俺なんて、いつも字面で次男かって言われるし、親父なんてよ、婿養子だから、マエカワキヨシが、イワキキヨシだぜ。まあ元が元だから、変わったのは良かったとか言ってたけど、言いにくいったらありゃしねえだろ、イワキキヨシって。それに比べりゃタカヒロなんて……」
 そこまで言ったところで、男が、噴き出した。清次は、手からペンを落とした。男が、笑っていた。口や額や頬に、手を滑らせながら、大層おかしそうに、目に涙すら浮かべて、笑っていた。
「そうか、そりゃ、タカヒロなんて、可愛いもんだな」
 笑いながら、男が言った。息が苦しそうだった。清次は、落としたペンを手に取って、その先端でまた、紙を叩きながら、言った。
「ああ。けど、そんなにおかしいか」
「わりい。お前、真面目だからよ」
「そりゃ、二十何年付き合ってる名前だぜ。おかしがることでもねえだろ」
 言うと、ますます男が笑い出した。清次は、釈然としない顔になって、ペンをテーブルに放り投げた。

 カーテンは、閉められたままだ。開けると、明るい空と、道路と畑が見える。部屋が、日の光によって、明るくなる。ベッドの横、テーブルを挟んで、布団が畳まれている。その上に、千円札が一枚ある。それを取り、本棚の上から二段目の本の上に乗っている、茶封筒を取った。茶封筒に千円札を入れ、テーブルの前に座る。文字の書かれている、紙がある。それを見ながら、清次は茶封筒の表に、『中里毅』と書いた。封筒は、本棚の上から二段目の、本の上に戻す。それから、少し、じっと、正座をして、まあ、今更増えても関係ねえか、と思った。
(終)

2007/11/26
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