いつかのリアライズ
いつの間にかいろは坂に来るようになった男だった。一ヶ月に四回ほどは見る。といっても週一で来るわけではない。二日連続で来る場合もあるし、三週間近く見ない場合もある。不規則な男だ。挨拶はされる。だからこちらも挨拶はする。どうも、とか、こんばんは、とか程度だ。長く話をしたことはない。世間話すらしたことがない。男はいつも清次とつるんでいる。つるんでいるというよりはいつも一緒にいる。峠を走る時には許可を求めてくる。つまり、清次はこちらのチームのメンバーであり、男は違うチームのメンバーだ。群馬の妙義山を根城にしているらしい。清次が話していた。男から直接聞いたわけではない。だからあくまで『らしい』ということだ。その男がこちらで清次と走るにあたってはチーム間の事情も絡んでくる場合がある。それがないことを男は主張する。だから許可を求める。何もないから走ってもいいだろうと。押し付けがましくはない。全般的に礼儀正しい。ただ野暮ったい部分がある。洗練されていない。そんなことは京一には関係がないしチーム間でどうこうという煩雑な条件が見当たらないので許可は出す。いちいち物事に許可を出すような偉い立場でもないが、許可を出せない立場でもない。だから認める。どうぞ走ってくれと。そして男は走る。一人で走ることもあるし清次と競うこともある。32のGT−R。こちらのチームはランエボのみだからその中にあると異様な感じがする。同じ四駆だがタイプが違う。ベースにするものが違う。サーキットかラリーか。そして向こうは通常ではドリフトの可能な車ではない。滑らせることを前提としていない。滑ることを前提としていない。こちらは違う。技術さえあればいくらでも適切に滑らせられる。摩擦を操ることができる。外観からして違いが明確だ。衝撃に耐えうるか空気抵抗を削減するか。そんな違う種類の車が来ると目立つ。車は目立つが男はそれほど目立たない。髪は黒くて闇に紛れやすいしはっきりとした顔立ちではあるが特別美形でも特別不細工でもない。太い眉も大ぶりの目も人目を引くものでもない。性格にせよとびきり悪いわけでも良いわけでもない。普通の走り屋だ。それが清次と一緒にいる。清次も特別目立つ奴ではない。顔はごついが見られなくはないくらいには整っている。長くしている黒髪をすべて後ろで括ってあるのは特徴的だが毎日そうなので故郷の景色と同じようなものである。見れば懐かしさを覚えるがそうそう目にはつかない。清次のチーム内での実力は京一に次ぐ。だが上に京一がいることを自覚しているのでここでは自慢をしない。する必要を感じていない節がある。清次が実力をひけらかして相手を貶めるのはチーム外の走り屋に対してのみだ。その実力が過小だと過激になる。遅い走り屋に価値を見出さない。だが速いと認定した走り屋や身内の人間に対しては特に意地悪くも粗暴にもならない。その価値を認める。優しいわけではない。無神経なほどに素朴な面がある。頭が悪い面もある。しかしそれもひどくはない。妙に鋭く賢いところもあるし、過不足のない人間関係を保つことのできる器用さもある。だから実力はあるが特別は目立たない。そんな特別目立たない人間同士の32の男と清次が一緒にいれば勿論特別目立たない。しかも32の男はこの地に馴染んでいる。というよりこのチームに馴染んでいる。というより清次に馴染んでいる。清次と一緒にいる姿にまったく違和感がない。談笑したり真面目に議論している姿に清次の髪型ほどの当たり前さがある。だから誰も気にかけなくなっている。男は悪い人間ではないしこちらのチームには決して存在しない種類の走り屋だ。チームのメンバーも特に歓迎するわけではないが忌避もしない。有意義な情報交換ができるから男の存在を認めている。つまり男は普通にこちらにいる。
その普通に清次とともにこちらにいる男を京一は見ていた。駐車場だった。二人は向かい合って何かを話している。京一には気付いていない。清次はグレーのTシャツを着ている。その黒いプリントがある背中のまばらな汗じみも、露わになっているうなじも見える位置と距離に京一はいる。男の方は黒いポロシャツを着ている。そのポロシャツの第一ボタンはかけられていない。第二ボタンもかけられていない。第三ボタンのみがかけられている。それを視認できる位置と距離に京一はいる。そちらを見たら二人がいただけだ。じっと見るつもりもなかった。男二人で話しているところなど見ても楽しくも何ともないものだ。話の内容も分からない。だから意識から排除しようとした。その前に男のポロシャツの襟元が視界に入ってきた。開いている。首のつけ根が見える。両の鎖骨の内側の先端も見える。それを見てしまうと意識から排除できなくなった。中途半端に襟元が開かれている。中途半端に首のつけ根が見えている。中途半端に両の鎖骨が見えている。中途半端だ。中途半端である。しかしそんなことを気にしても仕様がない。あの男は他人だ。チームのメンバーではない。京一は二人から顔を逸らした。元々横を見なければ視界に入ってこない場所に二人はいる。前を見ればいいだけだ。前を見たところでメンバーが点々といるだけだ。瞼の裏に映像がちらつく。遠い首。京一は頭を振った。どうも神経質になっている。
「あの、京一さん」
清次と32の男がいる方向とは逆から声がした。向けばメンバーの一人が立っている。似たような年の奴だ。手に紙を持っている。車のデータが打ち出されている。セッティングに自信がないということだった。このメンバーも大概神経質だった。潔癖症のきらいがある。だがひどくはない。細かいことが気にかかるらしくよく質問を畳みかけてくるが途中で我に返る。自分の行いを客観性をもって判断できる。同じことは確認のため以外に二度は聞かない。だからメンバーになっている。京一は問われたことに答える。自信を持つには他人に評価されることも必要であるから過剰にならない程度にその人間の良い部分も褒める。貶すのはよほどのヘマを踏んだ時だけだ。格下に負けるだの慢心して失敗するだの、褒める部分がない場合のみだった。だからそのメンバーのことは評価した。すると喜んで走りに行った。褒めると伸びるタイプというのがいる。褒めると慢心して伸びないタイプというのもいる。清次などは後者だ。いちいち褒めると舞い上がって落ち着きがなくなる。毎回悪い面を指摘をして年に一度くらい褒める方が伸びる。清次は辛辣な批評をしても病まない頑丈な精神を持っている。人並みに悩むこともあるようだが二日以上湿っぽくなることがない。大抵一日で精神にケリをつける。異常なほど図太い男だ。だが常識はある。普通の神経も持っている。会話の運び方には致命的な勘の鈍さが窺えるが動物的な勘は鋭い。反射神経は優れているしきな臭い空気をすぐに嗅ぎ取るし、言ってしまえば動物的な男だ。この世で京一が遠慮なくものを言えかつ信頼できる唯一の男だった。
その清次と最近よく一緒にいる男については京一はよく知らない。サトナカだかナカサトだかいうらしいがはっきりと名前を聞いたことはない。京一にとっては32の男でしかない。そうこう考えているうちに気付けば京一は清次とまだ何か話しているその男を見ていた。黒いポロシャツのボタンは変わらず下の一つしかかけられていない。首のつけ根が見えている。両の鎖骨の内側の先端が見えている。中途半端な見え方だ。
京一はしかめた顔を二人から再び逸らした。先ほど声をかけてきたメンバーのいた方を見る。他のメンバーが数名おり車が数台ある。それだけだ。誰と話す用件もない。自分の車から降りてこうして立っているのは単に外の空気が吸いたくなったからだ。車に戻ればいい。しかし頭が痒い。京一は巻いてあるタオルを取って頭皮を指で掻いた。痒みはおさまったが何かすっきりとしない。タオルを頭に巻き直す。この時期はまだ軽い。夏場は大量の汗を吸って重くなる。清次は今でも汗をかいている。背中に汗じみがあった。先ほど男と走っていたからだろう。まだ二人は何か話している。
また京一は二人を見ていた。気付いて舌打ちした。気にしても仕様がないと分かっている。気にしてはいけないことも分かっている。32の男はチームのメンバーではない。だが気になる。気になるものは仕様がない。京一は二人に向かって歩き出していた。分かっていてもどうにもならないことがある。動かねば気が済まないことがあるのだった。
「ああ」、と岩城は後方にある黒いエボ3に顎をしゃくり、一つ一つの言葉を噛み締めるように、静かに言った。「そうだな。例えば車に関したことじゃ、一応俺も知識は持ってるけどよ、それがどういうことかって他の奴に説明できる気はしねえんだ。分かってねえ奴のことなんざ、俺には分かんねえしよ。その辺は特に、京一はすげえな。俺が分かってたつもりだったことでも、あいつに説明されると全然理解してなかったって気付かされる。何か違うんだろうな。考え方とかよ。尊敬してるぜ」
なるほどな、と中里は頷き、ポロシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出した。中里が煙草を一本口に咥えてライターで火を点ける間に、岩城は言葉を続けた。
「何だかんだで周りのこともよく見てるしな。見落とすことがねえっつーか。どういう頭してんのかって思うことあるぜ。そんなしょっちゅう目端利かせててよ、疲れやしねえのかって。大丈夫かとか。ま、俺が思うことじゃねえだろうけどな」
言って岩城は右の頬を小さく上げた。自嘲気味でありながら、それは決して卑屈には見えない笑みだった。中里は煙草を吸い、煙を吐き出し、岩城と似たように笑っていた。その言を否定すべきか肯定すべきか、を考えさせない男だ。自己完結が極まっている。その割に自己主張は少ない。話をしていると、たまに、気を遣うということを忘れる。昔からの友人といるような気安さがある。岩城に対して中里は最初、無礼で傲慢で意地が悪いという印象しか持っていなかった。実際そういう面がないわけではない。だがそればかりというわけでもない。話してみれば案外普通の奴だった。中里の地元チームの連中よりもまともさはある。思いつくままにした須藤京一を人間として尊敬しているかという問いにも、こうして真面目に答えてきた。された質問を別の方向にぶん投げてそのままということがない。
いい奴だよな。結構。
そう思う。顔はごつく嘲笑も似合い、時折、というか頻繁にものすごい鈍感な発言をするし、自分より格が下と見なした相手には優しさのかけらも見せないが、悪いことをして謝らないほど意固地でもないし、斜に構えるということがなく、根が悪い風にも見えない。一部どこかの誰かを思い起こさせる物騒さと繊細さもあるが、それを上回る神経の頑丈さと物事に対する真摯さを感じさせる。そんなものはどこかの誰かにはないし、常識的に考えて、というセリフもどこかの誰かは皮肉以外では吐きもしない。どこかの誰かと比較すれば、まともさが強い。いい奴だ。
「何だ?」
というようなことを中里は岩城の隆起の多い顔を眺めたまま考えていたので、それだけ見られていれば岩城も不可解に思ったらしく、顔をしかめて問うてきた。いや、と首を横に振り、中里は煙草を吸った。そうか、と頷き、岩城も煙草を取り出した。そのままこの話は終わらせるつもりの中里だったが、岩城の顔をまた見ると、先ほどまでの考えが頭に浮かび、どちらかといえば脳と口が直結している方である中里は、
「お前、いい奴だな」
と、つい口に出していた。岩城は口から紫煙を吐き出して、言われたことを理解しがたいように、更に顔をしかめた。
「ああ? そうかあ?」
「あー、まあ……何となくな。そう思うぜ、俺は」
その岩城のしかめ面を目にした途端、面と向かって何を言ってんだ俺は、と思い、中里は岩城と似たように顔をしかめた。すると岩城は、途端に笑った。
「ま、ありがとよ」
明朗な笑顔だった。中里はどきりとした。見ていて胸が高鳴るほどの美麗な顔を岩城はしていない。だから別に岩城の笑顔にときめいたとかいうわけではなく、ただ走り屋間においてこれほど素直な笑顔とともに感謝の意を表明される記憶が遠かったので、不意打ちを食らったようなものだった。
「いや……礼を言われることじゃねえ」
とどもりかけつつも言い、中里は岩城から目を逸らした。ああ、と岩城の相槌がある。半端に焦っている気分を煙草を吸って落ち着けながら、中里は考えた。そういえば、地元のチームの連中はどいつもこいつも笑うにしても、年がら年中へらへらしているかにやにやしているか、嘲笑しているか哄笑しているかだ。今の岩城のように真っ直ぐ虚飾なく、かつ対等に笑いながら礼を言ってくるような奴がいた記憶がない。
俺の周りには、ねじくれ曲がってる奴しかいなかったっけか?
疑問に思えてくる。いや、チームの中には真面目な奴もいる。だがそういう奴は滅多に笑わない。笑いかけてこない。礼を言う時ですら真面目に頭を下げてくる。立派だが堅い。チームの中には慕ってくる奴もいる。だがそういう奴はこちらが何をやっても持ち上げてくる。若干情緒がないし度が過ぎるので馬鹿にされてるような気もしてくる。他の奴らは大概昨日の自分の言動ですら記憶の彼方にやっている。自分の言動を覚えている奴らは他の奴らの言動も覚えているのでそいつらの揚げ足を取ってからかって遊んだりする。
極端なのか、うちのチームは。
己の属するチームの傾向について、入ってもう数年になる今更中里は思い至った。よく考えてみると我が妙義ナイトキッズとここ栃木いろは坂をホームコースとしているチームエンペラーとではいる人間の質が明らかに違う。ここではそこらにいる走り屋にせよこの岩城にせよこの岩城が人間としても尊敬しているというチームリーダーの須藤京一にしても、常時へらへら笑っているということがない。皆ほぼ真面目な様相だ。耳に聞こえてくる話といえば車や世間が主題で、良質な風俗店について情報交換をしている風もなければ口論からのプロレスもどきや漫才やコントが始まったりもしない。脈絡のない馬鹿騒ぎなどしないのだ。最近では他の走り屋チームと交流することもとんとなかったのでまったく気付きもしなかったが、我らがナイトキッズは走り屋であることを除いてしまうと、単なるよく分からない野郎どもの集団になるのではなかろうか。
それもどうだ。もっとこう、ちゃんとしたチームでいた方がいいんじゃねえか。
「おう」
そう少し深刻に考え出した時だった。他人へ注意を向けた岩城の声が聞こえ、中里は顔を上げた。岩城は変わらず前にいる。そして岩城はこちらを見ていない。右を見ている。中里は煙草を一つ吸ってから岩城の見ている方へ顔を向けた。すぐそこに、頭に白いタオルを巻いた男が気配もなく立っていた。驚きつつも、あからさまにびっくりするのも無礼であるから、なるべく平静に、挨拶をしようとした。あ、どうも。口を開いてそう言う前に、その男、須藤京一がこちらに手を伸ばしてきた。中里は反射的に足を引きかけ、しかし避けるのも失礼だろうと考えて足は動かさなかったが、須藤の手が首に近づいてきたので煙草を持っていた手は上にやっていた。須藤は中里の顔を見てはいなかった。中里の首のあたりを見ながら、そこへ伸ばした手で、開いていたポロシャツの胸元のボタンをかけてきた。第一ボタンと第二ボタンだった。鮮やかな手際だった。中里が唖然としている間に満足そうに作業を終えた須藤は、岩城を一瞥してから中里の顔を見て、少し考えるような間を置いたのち、
「ごゆっくり」
と言った。
中里は手を頭上にやったまま、エボ3へと歩いて行く須藤京一の後ろ姿を眺めていた。白いシャツを着ていても肌着に見えないあたりが肉体派だ、などとぼんやり思いつつ、隣に岩城がいることを疑いもせず、なあ、と中里は言った。何だ、と岩城の声が返ってくる。中里はエボ3の運転席のドアを開けた須藤を見ながら、岩城に聞いた。
「俺は、あいつに、嫌われたのか?」
「何で」
不可解そうな岩城の声だった。須藤はエボ3に乗り込んだ。中里はそこで岩城に顔を戻した。岩城は中里を見ていた。不可解そうな顔だ。それはこの事態というよりも、中里が不可解だと言っているような顔だった。それに不可解さを感じつつ、中里は言った。
「いや、今の」
「あ? ああ、いや、あいつは、ああいう細かいところが気になる奴なんだよ」
合点がいったように岩城が言い、煙草を吸う。細かいところ、と中里が鸚鵡返しにすると、頷いた岩城が続けた。
「だから、みんな、大体はそうだな、シャツとかのボタンは全部かけるか全部しねえかのどっちかにしてるんだ。チャックもな。ほら、見てみろよ。途中から開けたり途中から閉めたりしてねえだろ、ほとんど。しててもだらしなくねえ感じに仕上げてる。京一が気にするからな」
言われるがままに辺りを見回してみる。Tシャツの奴はともかく、ダンガリーシャツやポロシャツや薄手のジャケットを着ている奴は、皆半端に胸元を開けたりしていない。開ききっているか閉じきっているかのどちらかだ。分かって見てみると惚れ惚れするほどの統一感のある風景だった。
「おお……確かに」
中里は感嘆の声を上げていた。だろ、と岩城が特に感慨もなさそうに言った。
「変なとこで気にしいなんだよな、あいつ。好き嫌いってことじゃなく。だから気にすんなよ。お前はチームの人間じゃねえし、まあ、京一もそんな気にしてねえと思うぜ。今日は、何かあったんだろ。あいつはそういう奴だから」
そういう奴だと言われても中里にはそれがどういう奴を指しているのかさっぱり分からなかった。岩城にとっては須藤京一がどういう奴であるかは言うまでもない当然のことのようで、それ以上言葉を続ける気配ない。岩城が須藤京一についての独自の情報や見解を持っていることは疑いようがない。だが先ほど岩城は知識は持っていてもそれがどういうことか他の奴に説明できる気はしないと言っている。分からない奴のことなんざ分からないと言っている。そんな岩城に須藤京一にがどういう奴かを説明してもらっても、中里は自分がその説明を理解できる気がしなかった。ともかく須藤京一と近しいこの男が気にするなと言っているのだから、その言葉をそのまま受け取るべきだろう。岩城がこのように簡略に言うのも須藤京一がこの場で『そういう奴』として広く認知されているからかもしれないのだ。そしてリーダーがそういう奴だから、チームのメンバーもきちんとした服装に仕上げているのかもしれない。
これは、なんとまとまっているチームだろうか。
中里は瞬間的にそう思い、どちらかといえば脳と口が直結している方のままであるから、
「しっかりしてるチームだな、エンペラーってのは」
と、またつい言っていた。今度はそれは独り言だったのだが、目を瞬いた岩城が気取ることもなく言葉を返してきたので、会話となった。
「そりゃ、あいつがリーダーだからな」
「いや、そういうことじゃ……」と中里は否定しかけたが、ちょっと考えてから、「まあ、そういうことか」、と頷いた。
「おう」、とこちらも頷いた岩城が、不意に、ところで、と怪訝そうに言ってきた。「お前、いい加減その手、下ろしたらどうだ?」
そうして指差しされて、ようやく上げっぱなしだった煙草を持った右手のことを思い出した。顔の前に戻してみれば、あまり吸ってもいないのに煙草は終わりかけていた。顔をしかめつつもそれを貧乏たらしく吸い、岩城を見ると、平然たる態度で煙草を吹かしている。まるで何事もなかったかのようだった。実際岩城には何があったということもないのだろう。この場にいる他の走り屋もそうなのかもしれない。そう思いつつ大雑把な造りの岩城の顔を眺めていると、皮肉が得意なくせに小心なところのあるどこかの誰かを筆頭にした地元の連中が急に懐かしくなり、まあ、うちはあれでいいんだよな、と中里は一人納得した。
(終)
2008/02/08
トップへ