賞玩
こたつにみかんは冬場の風物詩だろう。だが岩城の家にはこたつがない。小さめのローテーブルはある。その上には、みかんもある。
「実家で安いからって毎年まとめ買いして、そのくせ食いきれねえからって絶対いくらか送ってくるんだ。この時期に」
テーブルの上に置いた五個の丸々としたみかんをちらちら見ながら、岩城はげんなりしたように言った。話によれば、今月に入ってから既に五十個は食べているらしい。今日は十日だ。つまり岩城は一日平均五個のペースでみかんを食べていたことになる。それだけ続けて食べればげんなりもするだろうと思われた。そして送られてきたみかんの残りがこの五個だという。
「お前、食ってくれよ。俺はもうしばらくみかんは見たくねえ」
みかんを置いたテーブルを挟み、岩城が知人に借りたという古い洋画のビデオを二人床に座って見た。映画は西部劇のようで、カウボーイが悪漢を銃で撃ち殺していくものだった。見ている途中で小腹が空いてきたので、小声でいただきますと言って中里はテーブルの上のみかんを手にした。皮を剥いては一房ずつ口に放り込んでいるうちに、五個のみかんすべてを平らげていたが、テレビを見ながらだったため、食べ終わったことに気付かず少しテーブルの上を手で探っていた。だが手に触れるのは皮だけだった。そこでようやく中里は思い至った。
「あ」
「あ?」
つい呟くと、横で小難しい顔をしながらテレビを見ていた岩城が、驚いたような顔を向けてきた。髪を後ろで括っていて額が露わになっている分、表情の変化が分かりやすい。根っから隠し事もできないようで、普段なら中里にとって気安い男だった。中里はみかんの果汁でべたつく手をテーブルの上で払いながら、その岩城に言った。
「全部食べちまった。悪いな」
「何だ、そんなの、食ってもらう方がありがてえよ。しかし早かったな」
「自分じゃ買わねえからよ。久々食べると、止まんねえものがある」
「久々だったらいいよな。俺もだから、最初は食ってんだけどよ、腐りそうなのばっか送ってくるし、腐り始めたらありゃもう終わりだし、さっさと食わねえともったいねえし。けど毎日はさすがに飽きるぜ、ホント」
テレビに顔を戻した岩城の嫌気の表れている声を聞きながら、なおもべたつく指を、中里は部屋の明かりに照らして見た。爪の先がみかんの皮の橙色に染まり、端には白い筋が絡まっている。手を洗わないとみかんの残骸も果汁のべたつきも取れそうもない。そのままじっと見ていると、岩城が声をかけてきた。
「何だ」
「あ? ああ、どう見ても、みかん食べた手だと思ってよ」
中里は自分の十本の指を見たまま言った。どれ、と岩城が中里の右手をその右手で取った。手の甲側を、そのごつごつとした顔の前に引っ張り寄せて、興味深そうにじっと見ている。何となく落ち着かなくなり、そんな見るもんじゃねえだろ、と中里は言っていた。まあな、と言いつつも、岩城は手を離さず、まあ、と続ける。
「これでみかん食ったんじゃねえなら、何食ったって話だな」
「柑橘系になるんじゃねえか。この色だと」
「焼き芋とかもあるかもな。でもみかんの匂いはしねえか」
岩城は鼻を寄せて中里の指をかぐと、訝しげに眉を寄せ、おもむろに中指を口に咥えてきた。それはごく自然な動きだったが、自然な行いと中里が感じるには突飛すぎた。
「お、おい……」
中里は呆気に取られ、ろくな言葉も発せなかった。指が根元から吸われ、爪まで舐められる。岩城の口腔内は生ぬるく、ぬるぬるとしていた。唾液のせいだろう。爪の間までしごくように舐めた岩城が、中里の指を口から抜き、だが手は握ってきたまま、納得顔で言った。
「みかんだな」
「……そりゃ、そうだろ」
指にはみかんの果汁がついている。みかんの味がするのは当然だ。中里は右手をそっと自分のもとへ戻そうとしたが、岩城にしっかりと握られていたので、無理だった。岩城は再び訝しそうに眉を寄せ、中里に目を合わせてきた。
「興奮すっか?」
「あ?」
「指舐められて」
真剣に岩城は尋ねてきているようだった。中里はどう答えたものかと目を泳がせ、とりあえずまだ続いている洋画を見た。カウボーイはなぜか他のカウボーイに追われており、銃の打ち合いが始まった。殺すか殺されるか、緊迫した場面だ。つい意識がそちらに向いた。
「どうなってんだ、これ」
岩城がぎょっとしたような声を出す。既に同じくテレビを見ていた。中里は取られた手を今のうちに何とか抜こうとしたが、岩城が力を緩めないので、一旦それは諦め、いや、と言った。
「分かんねえ。よく見てなかった」
「殺されんのか? そういう筋か?」
「見たことねえし、知らないぜ、俺は。お前、聞いてねえのか」
「予備知識入れるな、って言われたからよ」
映画ではタンタンと銃声が響いている。中里は話の筋を解説する台詞が出ないかと見入っていた。岩城が再び指を咥えてくるとは思っていなかった。今度は人差し指だった。反射的に岩城を見ると、岩城はテレビを見ていた。テレビを見ながら中里の指を舐めている。時折柔らかい皮膚に歯を立てられ、その後を舌でじっとりと舐められる。こそばゆいようなぞわぞわするような感覚があり、顔が火照ってきて、落ち着かないことこの上なく、中里は自分の指の行く末を見ていられなかった。テレビを見る。カウボーイは切り立った山を走って逃げていた。話が追えなくなっていた。意識はどうしても自分の指にいく。岩城に吸われ噛まれ舐められている指だった。そこから二の腕と背中を飛び飛びに通って腰に落ちてくる刺激がある。そのうち指から一際大きな音がして、指は岩城の口内から抜かれ、外気に触れたようだった。
「もう一回見ねえとよく分かんねえな、こりゃ」
岩城が深刻に言った。中里は岩城を見た。岩城はテレビを見ている。中里の右手は岩城に取られたままだ。自分の指が岩城の唾液にまみれて光っているのを中里は見た。そしてこちらを向いてくる岩城の顔も見た。岩城は口を開いて、だが言葉は出さずに閉じた。中里の右手に目を落とす。そして直線的な眉を寄せながら、再び中里を見た。
「これでできるか?」
深刻な問いに聞こえた。中里は若干熱くなっている顔をしかめた。
「何が」
「濡らしたからよ。これじゃ足りねえかな」
真面目な岩城の容貌だった。そんな顔をされると、真面目に対応するしかない。
「いや、そんなこと、足りるも足りねえも……」
抽象的な問いだったが、岩城の言わんとしていることは理解できた。だがいざ言い返すと、そんなことを理解できている自分が恥ずかしくなり、中里は途中で言葉を呑み込み、苦し紛れにテレビに目をやった。カウボーイが腹から血を流している。先ほど乾いた何発かの銃声はテレビから聞こえたが、何が起こったのかは分からなかった。
「あれ、やっぱ死ぬのか」
間の抜けた岩城の声がした。岩城に目を戻すと、テレビを見ていた。
「じゃねえか。犯罪者みてえな描かれ方もしてたしな」
言いつつ中里は三度目の正直で右手を岩城の手から抜こうとしたが、やはり岩城はしっかりと力を込めてきているため、抜けなかった。濡れている指は空気の流れを冷たく感じた。まだ乾燥してはいない。
「何だ、死ぬばっかだな、こういう映画は」
つまらなそうに言った岩城が、中里に顔を戻した。そして、突然にやりと笑った。
「俺は、結構きたけどよ」
話の流れが分からず、中里は左右の眉を別々に上げて下げた。
「銃撃シーンか?」
「お前の指舐めんのも」
岩城の笑みは嘲笑のようで、ただ自信に満ち溢れているだけのようでもあった。出会った当初は馬鹿にされているとしか感じられなかったが、今ではどう感じればいいのか分からなくなっていて、対応に困る。
「……舐めてただけじゃねえか、お前」
「まあ、そうだけどよ。したくなんねえか、お前は」
その笑みがすっと引き、意外そうな表情が浮かぶ。その素直さは中里に感情を繕うことを忘れさせる。内心を剥き出すことの躊躇を消される。
「……そういうわけでもねえが……」
だが、それは明快に言葉にできるものでもなかった。肉欲の類が溢れ出そうになった時には、表現もせずにとりあえず頭から追い出す癖がついていた。長年の癖だから直しようもない。それを何とか言い表そうとしても、曖昧さは取れない。それでも岩城は理解することがある。理解しないこともある。今は、理解したようだった。
「じゃ、しようぜ。丁度終わったしな」
言われてテレビを見ると、音楽とともに、スタッフロールが流れていた。映画の後、見るべきテレビの番組もないし、別段やらねばならないこともなかった。中里は岩城を見た。岩城は再び笑っていた。情交への期待のほどが分かる笑みだった。中里はどういう表情も作れずに、ただ顔の火照りは消せぬまま、俯きがちに、まあ、いいぜ、と呟くように言った。岩城に床に押し倒されて、また指を咥えられたのはその直後で、それは足りるとも足りぬとも言いがたい具合となったが、最終的には事足りた。
(終)
2008/03/02
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