共生



 岩城清次と同じベッドに寝て、裸で朝を迎えることは、その都度中里を戸惑わせる。目を覚まし、全身に疲労を感じつつ、すぐ横、髪の生え方がよく見えるほど近くで寝ている裸の岩城を見て、溜め息を吐き、何で俺はこんなことをやってんだ、百回は考えて、百回は答えの見つからなかった問いを、飽きもせずぐるぐると頭の中で回すのだ。
 初めてこの男の部屋に行ったことに他意はなかった。リベンジ準備のために幾度か岩城の地元に通ううち、走り屋として話をするようにはなり、岩城が車関連の動画を数多く有しているというので、走り屋として興味を持っただけだ。その適切に編集された車載動画や追走動画は中里に好奇心以上の研究欲と、追体験のごとき興奮ももたらした。楽しくなっていた。ついでと言うから夜食は頂いたが車で帰る心算だったので、酒は入れなかった。岩城は酒を飲んでいた。岩城の家だからだ。それで、動画と動画の切れ目、急に、目が合った。中里は、隙だらけのドリフト動画を見た影響で、笑っていた。岩城は笑っていなかった。なぜそこでキスをされたのか、なぜそこで自分が殴ってでも跳ね除けなかったのか、いくら考えても中里には当時の自分の行動が、理解できない。アルコールは入っていなかった。酔っていたのは岩城だった。素面の自分こそが理性を発揮して、よりにもよって野郎を押し倒そうとした岩城を押しとどめるべきだったというのに、押し流されて、はめられた。せめて岩城に自分がはめたのならばもう少し妥協もできたのかもしれないが、丁寧に体をまさぐられてはめられたという事態は、内情がどうであれ、岩城に屈したという意識を中里に植え付けるものだった。
 何で俺は、こんなことをやってんだ。
 考えても考えても答えは出ず、岩城の部屋で目が合う度に、結局押し流されている。もう七回だ。七回こうして岩城のベッドで目を覚まして、裸の岩城を隣に寝かせたまま、裸の自分はうつ伏せのまま溜め息を吐いている。溜め息を吐いたところで現状は何も変わらない。しかしさほど不快さはなく甚大に快楽のある行為を思い出すと、どうしても溜め息を吐かずにはいられない。ああ、何で俺は、こいつとこんなことをやっちまってるんだ。
 六度目の溜め息を中里が吐いたところで、岩城が目を覚ました。覚醒が迅速なのがこの男だった。目がぱっちりと開き、先ほどまで熟睡していたとは思えないほど、滑らかな声を出す。
「何溜め息吐いてんだ」
 意識が正常な人間の目を向けられ、寝起きの中里は、話の筋道を失った。だから、どういうことだ?
「……俺は、お前に、リベンジしなきゃ、なんねえのに……」
「リベンジィ?」
 岩城が上半身を起こし、見下ろしてくる。その視線を背中に感じつつ、中里は思い浮かんだことを、整理をつけずに呟いた。
「俺はお前に、あそこで負けるわけには、いけなかったってのに、だから……俺はお前に、勝たなきゃなんねえんだ」
 勝たねばならないから、わざわざ栃木まで通ったというのに、それがなぜ、岩城の部屋で朝を迎えることにつながるのか。いや、そういうことではない。いや、そういうことだ。そういうことか? 考えがまとまらない。
「自信はあんのか?」
 低く、舌に絡む、さっぱりとした声。ライターが点火された音がし、煙草の匂いが漂ってくる。
「……妙義なら、俺は負けねえ」
 もう二度と、負けはしない。負けたくはない。負けてたまるか。勝ち続ける。Rに敗北の汚辱はつけさせない。
「地元で負けねえと思うのは、当然だろ。威張るもんじゃねえよ」
 嘲笑の色が、岩城の声に混じった。この男は、走りの話になると瞬間的に甘さを殺す。中里とて一端の走り屋であるから、けじめをつけることは当然だと思うが、岩城の脳みそが二つに分かれているのではないかというほどの変わりようには、よくよく頭がついていかなくなるものだ。
「そっちの地元でも、負ける気はねえよ」
 それでも決意を込めて言うと、やはり岩城は、人を馬鹿にするように笑う。
「気だけなら誰でも持てらァな。お前、俺があそこでどんだけ走ってると思う。しかも京一にしごかれて。あいつは容赦ねえぞ、一回でもタイムが平均値から落ちるだけで、その原因の合理的? な説明求めてくるし、バトルに負けでもしたら一時間はたっぷり、ドライビングのアドバイスにパーソナルなお説教を貰えるからな。命令破りゃあ拳骨は飛ばされるし」
「拳骨?」
 話が物騒になった。岩城は声から笑いを引っ込め、そこに疲労を漂わせた。
「仲間内だと遠慮がねえんだよな、あいつは。俺はそれで、何回口切ったか分からないぜ。人は客商売だってのに、構いもしねえ。まあ、顔面殴られるくらいなら平気になったのは、不幸中の幸いってやつか。おかげで変な奴に絡まれてもキレずに済んで、揉め事が減ったしよ。脳直でショックいかなきゃどうにでもなるもんだ」
 疲労は抜け、日常の会話に戻る。だが中里の頭には日常が戻らない。岩城の言う京一とは須藤京一だ。岩城の属するチームのリーダー。顔は見たことがある。何度か言葉を交わしたこともある。自身が把握するもの以外には興味も持ちそうにない、冷厳な男だった。あれが、岩城に拳骨を飛ばしている。
「……須藤京一ってのは、そんな……」
 そこまで言ってみたものの、そんな、どんな奴なのか適当な例えが思い浮かばず、中里は声を呑み込んだ。岩城がこちらを向いた気配があり、いや、と若干の焦りと得心が混じった声が響いた。
「そんな乱暴な奴じゃないんだぜ、京一は。立派だよ。話で全部片つけようとする。辛抱強い。尊敬してるぜ、俺は。あいつが手ェ出すのは要するに、納得されて決められたこと、あいつが決めたことが、破られた時だけだからな。はっきりしてる。で、俺はあいつの言うことをよく聞かねえからよ。聞きゃあいいんだろうが、俺にも俺の考えってのがあるからなァ。障害なくってわけにはいかねえ」
 乱暴な奴ではない。岩城が言うならばそうなのだろう。付き合いは長いはずだ。しかし岩城は須藤に拳骨を飛ばされているとも言う。命令を破るからだ。エンペラーとはスパルタ的なチームなのか、中里はぼんやり思った。地元のチームで実力的に上に立つ中里も、命令を破られたからといって下の人間に拳骨を飛ばしたことはない。拳骨を飛ばそうかと考える前に、命令破りを不快に思った他の人間が真っ先に足なり頭なりを飛ばし、喧嘩が勃発するから、命令違反を戒めることでなくいさかいを収めることが上に立つ中里の仕事となる。岩城のチームと比べれば理性的でも体制的でもないだろう。だが地元の方が馴染みがあるし愛着もある。だからこそ面子を汚したくはない。二度と誰にも負けられないのだ。
 それで何で俺はこんなことをやってんだ、とまたぞろ疑問が思考にのぼり、中里は頭痛を感じた。
「まあだから、俺に勝てるなんて思うなよ、中里」
 再び嘲りをもって、岩城が言った。話の終着点らしかった。走りに関して、見くびられているのがよく分かる。腹立たしい。リベンジだ。リベンジせねばならない。この男と会うようになったのはそのためであって、同じベッドで寝るためではないのだ。中里は頭の奥に痛みを感じたまま、枕に半分顔を埋めたまま、声を振り絞った。
「思うぜ、俺は」
「あ?」
「お前には、二度と負けねえ」
 沈黙。煙草の匂い、岩城の匂い。動く気配。背中に空気の流れを感じた。
「そりゃ、楽しみだ」
 耳の皮膚に直接響く声、背中に優しく触れる手。瞬間的に状況は変わり、頭がついていかなくなる。
「おい……」
 横を向けば、髪の生え方がよく見えるほど近くに岩城の顔がある。岩城は笑っている。目が合って、唇を寄せられても中里の頭はついていかず、ただ疑問だけが消え去った。
(終)


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