勿論、やりません



 秋の終わりにしては暖かな気候だった。夜の山でもそれは変わらず、長袖のシャツや薄手のセーターで上着を済ませている人間が多かった。
 庄司慎吾もその時は黒無地のロングTシャツを着ており、半袖で平然としている奴に対してお前の存在が寒いからとっとと帰れ、などと半分本気で言っていた。俺暑がりなんだよ、とそいつは言い、お前人間じゃねえべ、と他の奴らがげらげら笑う。そんな会話の終わりは唐突に、峠を走りたがる者によって告げられる。慎吾はまだ、そうと主張はしなかった。気分が乗らなかったのだ。だから他の数名がその場を去ると一人になり、かといって一人で何がしたいわけでもなかったので、暇つぶしの相手はいないかと辺りを見回した。
 思いのほか、近くに相手はいた。声をかけようとして、そして慎吾はやめた。二メートルも離れていないところにいる男の背中、斜めにずれているセーターの襟から、覗いて見えるものがあった。そう、うなじよりも背に近かっただろうか。出っ張っているように見えたから、おそらく椎骨ではあっただろう。指先程度の小さな、不恰好な青紫の痕だった。打撲ゆえのあざにも見えなくはなかったが、色と形と規模の小ささと位置の特有さは、それとはまったく別物だと示しているようだった。
 その時点で他の誰が気付いている様子もなく、また次には着心地でも悪かったのか、その男がセーターの襟を肩側から引き上げたことにより、至極分かりやすい痕跡はあっけなく隠された。それ以後も、他の誰が注目した様子もないように慎吾には思えた。
 実際、それを持っていた男、中里毅にわざとらしく女の話を振る者もおらず、慎吾にせよ、情熱的な恋人でもできたのか、とからかうことはしなかった。それ以降、敢えてそういった話題は避けた。違和感が強かったのだ。
 中里という男の女性に対する免疫のなさは、女ひでりが続いて久しいチーム内でも屈指のものである。走り屋といえば大概車一筋になるか車と女遊びと他の遊びが同率になるものだが、前者である中里の車への傾倒っぷりは狂気を備えているようでもあり、同じ走り屋には妙な尊敬を抱かせるほどのもので、したがって女遊びとは縁遠かった。他の奴らもそれを分かっているものだから何とか良い娘を紹介してみようともするが、本人にそもそも免疫がないものだから女の子の扱いが下手すぎて、関係を持つまで事が発展せずにトラウマを持つという最悪のループに陥っている。慎吾の認識する中里毅とはつまり、そんな男であった。
 そんな奴が、ちょっと油断をすれば人目に触れてしまうような場所にキスマークをつけるほど情熱的な恋人を持って、浮かれないことがあるだろうか? その疑念こそが、慎吾の得た違和感の正体だった。何せ近頃の中里の様子は、浮かれているとは言いがたかった。週に何度か日を越えぬうちに帰ることや、他のメンバーを自宅に呼ばなくなったことなど、常とは変わった行動が増えてはいたが、決してウキウキとはしておらず、むしろ人生における苦悩を一身に背負ったような深刻な顔ばかりがあった。それでもいつも通りに無駄なカーキチぶりを発揮していたし、些細な揶揄に逐一反論していたし、妙な部分で崇められていた。
 その状態で、あの痕が意味するはずの事態が中里に起こっているという推測を、慎吾は信じきれなかった。怪しんだ。怪しんだ結果、見ざる聞かざる言わざるを選択した。未知のことには近寄らない。好奇心はさっさと潰す。それが慎吾の中里毅という走り屋が関わる物事に限っての、処理法であった。
 といっても、あまりに遠ざかっても怪しまれ、結局嫌なゴタゴタに取り込まれてしまいかねないので、あくまで普段以上に足を踏み入れないまでである。慎吾には自信があった。自分の利益につながらないことを避ける技術は、これまでの人生で嫌になるほど高められていた。
 だから、チームのメンバーではない走り屋仲間が事故に遭ったということを、携帯メールで知らせるのも電話で伝えるのも億劫に感じた時、仕事帰りの夕飯時、偶然近くを走っていたから直接会って話せば簡単だ、と考えても、別に何もない、と確信していた。何が起こるわけもない。数分で終わるはずの話だった。
 ――あんなことを予想できる奴が、この世にいるのだろうか?
 後になり、慎吾はそう考えるわけだが、勿論中里のアパートの前に立ち、インターフォンを押している時には、さっさと帰って飯食おう、くらいしか思ってはいない。ただ、玄関のドアを開いたひどくラフな格好の中里が、不思議そうな声でまず、
「どうした、いつになく……」
 と言い、慎吾をそうと確認した途端、ぎょっとしたように目を見開いた時点から、あれ、とは思っていた。それでも慎吾が選択したのは、見ざる言わざる聞かざるである。ただ場の流れを壊さない冗談を言うだけの自信は、まだあった。
「いつになく、男前ってか?」
「し、し、し、慎吾?」
 どもる中里へ小ばかにする笑いをやり、こんばんは、と挨拶をする。な、な、何だ、とどもり続けた中里が、え?、とようやく疑問を呈した。
「何、あ? どうしたお前、何の用だ」
「何の用って、話だよ。単なる」
「え、いや、あー……えー、話か、話なら、とりあえず入れよ、うん」
 どこに入ってするほどの話でもないのだが、混乱している中里に一を反論すると十の不条理な反論をもらうことは知れきっていたので、慎吾は素直に従った。玄関のドアを閉め、結局土間で留まる。一段上にいる中里をそれでも見下ろすようにしながら、っつーか報告だけど、と慎吾は言った。
「高野の奴が事故ってホスピタル行ったから、一応な」
 中里は二回正確に瞬きをし、あ?、と無理解を示すような間の抜けた声を上げた。だから、と慎吾は繰り返した。
「高野いるだろ、高野幸一。酒屋の。あいつが単独事故起こして入院したんだよ。俺おとつい見舞い行ってきた」
「高野ォ? 何で」
「事故ったっつったじゃねえか」
「いやだから、何で」
「単車で遊んでたら滑って転んで骨折った、って楽しそうに言ってたぜ。全治一ヶ月くらいだと。見舞い行くなら入院先教えるけど」
 そうか、なら頼む、と腕を組んだ中里は頷いた。慎吾は数秒じっと中里を見てから、書くもんあるか、と聞いた。
 一人土間に残った慎吾はふと、口頭でいいじゃねえか、と少し後悔したが、大した手間でもない、と思い直した。何となく、峠だの走りだのを挟まない時間、会ってみたくはあったのだ。それでどうするわけでもない。ただ、存在を感じたかった。少なくとも、突然後ろのドアが開いたことに驚いて振り向き、そこに立っている男を視認するまでは、終わりには全身を余すところなく侵食した後悔は、少ししかなかったのだ。
「……あれ?」
 我が物顔でドアを開けて入ろうとしていた男は、土間に立つ慎吾に気付いて首を傾げた。そして外に半分身を出して、おそらく表札を確認したのだろう、首を傾げながら戻ってきた。普段なら、このように他の人間が親しげに入ってきた段階で「どうも」なり「ここは中里さんのお宅ですよ」なり、瞬時に反応できる慎吾であったが、その時は不審げに眉をひそめた男に、
「中里は?」
 と問われてようやく、
「奥だ」
 とだけ、言った。数秒何かをかみ締めるような間を置いてから、そうか、と男は頷きドアを閉めた。一歩ほどの間合いも取れぬ狭い土間の中、慎吾はその男の顔をじっと見ていた。後ろにひっつめられた長そうな、脂ぎっていそうな髪、岩石を何とか見られるくらいには整えたようなごつごつとした顔、その割に生え方が一定の眉と、威嚇的な目。夜になれば寒さもひとしおになるこの季節、青みの多いネルシャツの下は黒い単なるTシャツのようだ。それにベージュのコットンパンツ、そして革靴。とりあえず落ちていたものを着た、というような、統一性があるのかないのか分からない格好である。片手にスーパーのビニール袋があるあたりがまた余計に雰囲気を混沌とさせていた。
「何だ?」
 慎吾の視線に気付いた男が、不愉快そうに顔を歪める。歪んでも元と大差のない威力を持つ顔だった。
 ――これは、見覚えがある。
 確信したものの、いや、と慎吾は男から顔を逸らし、狭い玄関の壁に寄りかかって、中里をただ待った。待つまでもなく、紙とペンを持った中里が戻ってきて、玄関までの道程の途中で硬直していた。よお、と声を上げるのは統一性のあるのかないのか知れぬ男だ。中里は硬直し続ける。慎吾はその二人を一度交互に見て、唐突に、見て見ぬふりをしていたものを思い出し、冗談、と呟いていた。あ?、と男が相変わらずごつい顔を向けてくる。中里は固まっている。慎吾はため息を吐き、中里へはっきりと声をかけた。
「俺よく覚えてねえからよ、やっぱ後で田代にメールさせるわ」
「そ、そうか……うん、ああ、そうか、そうだな、うん」
 紙とペンを片手に握り締めたまま、中里は慎吾と目を合わさずに頷き続けた。あ?、と男はまたもや不可解そうな声を上げる。もう一度ため息を吐いた慎吾は、改めて男を見た。男はこの家の玄関のドアの前こそが自分の領域であるかのようにそこに堂々と立ち、値踏みするように慎吾を見返してくる。無視するには存在感がありすぎるが、力と言葉でどかそうと思わせるほどの重厚感はない奴だ。どうしたもんかと慎吾は数秒考え、それだけで考えることに飽きたので、ひとまずこの場に限定されない、この男に対する個人的な事情を腹の底から引きずり出した。
「お前、エンペラーのエボ4だろ」
 そこで最も思い出されたのは、不敵な面への生理的な嫌悪でも地元の尊厳を踏みにじってきたことへの憤慨でもなく、この程度の相手はもうどうでもいいとする諦めだった。よって尋ねる声は単に確認するだけのものとなったが、男は否定はせず、ただやはり不可解そうに顔をしかめるのだった。
「誰だァ、お前」
「妙義ナイトキッズの最速ダウンヒラー、庄司慎吾サマだよ」
「はあ?」
 気合を入れずに言ったというのに、人の頭を疑うような頓狂な声を上げた男をじろりと睨み、だが時間が経ちすぎたのかあるいはこの場の雰囲気に呑まれているのか、苛烈な感情は浮かび上がってこなかったので、分かったらそこをどけ、と慎吾はため息とともに言った。「俺は帰るんだ」
「妙義……」
 男はドアの前から動かずそれだけ呟き、細めた目で慎吾を睨んできた。十秒ほどだろうか、互いの隙を探るような見詰め合いののち、先に顔を明るくし、「ああ」、と大声を出したのは男で、
「お前あれか、結局てめえは走ってねえのに思わせぶりなこと言った!」
 更に指まで差してそう言ってきたものだ。慎吾はそこでようやく怒りをもたらす不快さを思い出すことができ、わざとらしく頬を上げ、思い出していただけて光栄だな、と皮肉をやった。この男が率いた走り屋どもが人のチームを蹂躙していった際、怪我をしていてバトルすることさえ敵わなかったことは、慎吾にとって否定しようのない事実であり、同時にあまり触れられたくもない事実であった。
「で、分かったんならそこをどいてくれねえかな。俺は帰りてえんだよ。もうここには用事もねえし」
「あ? じゃあお前がEG−6か?」
 慎吾が厄介事を招かぬようにと引きつってはいるが若干の愛想もなくはない笑みを向け、分かりやすい言葉を選んで頼んでも、男に人の話を聞く気はないようだった。この状態で仮にその体を押しのけても、喧嘩を吹っかけていると取られかねない傲慢さを男から嗅ぎ取ることが慎吾にはできた。既に厄介は招いてしまっているようだった。じわじわ指先にまで後悔が浸透してくるのを感じながら、慎吾はこの聴覚が正常かも疑わしい男とまともに話しているのも馬鹿らしくなってきたので、とにかく男が自らドアの前を譲るまで適当に喋くることに決めた。
「俺についてのどういう説明をこいつから受けてんのか知らねえが、そうなるんじゃねえの」
「赤城で俺があのクソ生意気なガキとやった時、後ろからひっついてきたのは、じゃあお前か」
「赤城?」
「妙な走りしやがってよ、引き剥がす気も起こさせねえような」
「あー……お前んとこの総長が高橋涼介に負けた帰りか?」
「総長って何だ」
「いや。前に車あんのにそうそう飛ばすわけにもいかねえだろ」
「何ィ?」
「……まあ、あの時お前のケツにひっついてやったのは俺だよ。だからどうした」
「で、お前はこいつに何の用なんだ」
 男は承知しがたそうな顔をし、中里に顎をしゃくった。どうも話が半ば通じていないような違和感と、言いがかりをつけられているような不愉快さはあったが、黙っていても事態が進展するとも思えず、慎吾は力を入れずに答えた。
「知り合いが事故ったから、それ知らせに来ただけだ」
「へえ。走り屋か?」
「単車野郎だよ、冬でも回してぎゃーぎゃー喚いてるような。それが雨でもねえのにスリップして、足折ってレッツゴーホスピタル」
「足?」、とそこで久々にここの家主の声がして、ああ、と慎吾は先ほどと変わらぬ場所に立つ中里を見た。
「複雑じゃねえから治りは早いとか言ってたけど、ギプスはしばらく外せねえって」
「バイクに潰されたか」
 それはかわしたみてえ、と返してから慎吾は、目の前の男こそがこの家における最大の権力者であるということを今更思い出した。
「それでな毅、俺はもう帰っていいか?」
 尋ねると、ああ、と家主は自然に頷いた。よしオッケー結果オーライ、と慎吾は、そこをどけウドの大木め、と言おうとして玄関ドア前の男に体を向けたが、
「いやッちょっと待て! 待て待て待て!」
 という叫びとともにバタバタやかましい音を立ててきた中里に、後ろから腕を引っ張っられた。
「何だ、いてえなバカ」
「待ってくれ慎吾、これには……色々、事情があってだな」
 軽く睨んだところで、中里は必死の形相ですがってくるのだった。何となく空恐ろしいものを感じつつ、慎吾は身を寄せてくる中里と、ドアの前に立ったままの男双方から、狭い玄関内でできるだけ距離を取るように体勢を整えから、お前、と中里に言い返した。
「俺は帰っていいかって聞いて、お前はああっつったじゃねえか。それで待てとは何なんだ」
「いやだから頼む待ってくれ、この状況で帰られると俺はすげえ、やばい。困る」
「っつーかお前の事情なんて俺は知りたくもねえし、んで俺は困りもしねえし、手ェ離せコラ」
「そう、そうだ、これはだな慎吾、事故なんだ。事故。避けられない事故だったんだよ、な」
 腕を掴んでくる中里の力の強さは尋常ではなかった。よほど恐慌しているらしい。なるほど自分の得意分野で手ひどく負かされた相手、チームの面目を潰された相手と、自宅に招くほど親しい仲を育んでいるということを、仲間に知られればそれはさぞや狼狽するだろう。それが『事故』と呼べるような偶発的で悲惨な事柄に起因しているのであれば、尚更かもしれない。
 だが避けられない事故があったにせよ何にせよ、この状況は現実である。そしてこの男の関係するこんな現実に至った過程を分析し客観的に結果を受け入れる作業など、今の慎吾はしたくもなかった。それより早く家に帰って飯を食って仲間に借りた裏ビデオをダビングしたいのだ。だから俺には関係ねえって、と慎吾はため息混じりに中里へ言った。
「お前がこのエボ4野郎とどういう事故を起こしてようが、元々そういう仲だろうが何だろうが、俺にそんなお前の個人的なことは関係ねえんだ。分かったな。分かったらいい加減この手を離せ、お前の馬鹿力は俺の繊細な腕を壊しかねねえんだよ」
 渋々というように手から力を抜いた中里はだが、慎吾が捕らえられていた腕をさすっているうちに、でも、と続けてきた。
「お、お前には俺は、誤解されたくないというか……」
「誤解も二階も一階もねえよバカ、お前は俺に何を求めてんだ」
 いや、と中里が口ごもったその時、
「ところで」、と黙っていた後ろの男が、空気を読んだとも読んでいないともいえぬタイミングで話に入ってきた。「俺は中に入っていいのか?」
「そんなことをいちいち聞くな鬱陶しい!」
 瞬時に中里は顔を赤くして男に叫び、ああ、と男は中里の威嚇的な態度を気にした様子もなく、もぞもぞと靴を脱ぐと慎吾の前を悠然と通った。だが中里の横で立ち止まり、そこでなぜか慎吾を見てきた。
「あれ、あいつも飯食うのかよ」
「は? え、あ、いや……おい慎吾、お前、飯食ってくか」
 男に尋ねられた中里が、その話の中身も吟味していない風に言ってくる。慎吾は思いきり顔をしかめ、お前よ毅、と不機嫌な声をくれてやった。
「お前とそいつと俺が三人食卓囲んで飯を食うって場面を想像した上で、そんな誘いをかけてくださってんのか?」
 あ?、と中里が鳩のように首を前に出し、先に想像したらしき男が、分かんねえ場面だな、と妥当なことを呟いた。中里は男を慎吾を交互に見て、何かを耐えかねたかのように、ああっ、と頭を掻きむしった。
「もう分かんねえ! お前ら適当にやってくれ! 俺は何も知らねえ、分からねえ!」
 一人叫んだ中里が先に奥へと進んでいく。え、おい、と男が中里にかけようとした手は、触るなクソ野郎、とにべもなく振り払われていた。慎吾の知る中里にしては横暴な振る舞いだったが、男は機嫌わりいな、と不思議そうに呟くのみで、特に傷ついた風もなく、そしていまだ玄関から抜け出していなかった慎吾を見てきた。
「キムチ鍋だけどよ。お前、食べてくか?」
 ものすごく嫌そうな顔と声で問われ、こちらもものすごく嫌そうな顔を作った慎吾は、遠慮させていただきます、と断ろうとして、自分の腹が鳴るぐぎゅるるるという音にさえぎられた。開いた口はそのまま閉じていた。男は何か得心したように頷き、何も言わずに奥へと行った。
 誤解をされたくないと人を引き止めてきた中里は事を治める責任を放棄し、その中里にクソ野郎と言われていた嫌そうな男はそれでも何かを肯定した様子で、自分は腹が減っている。また唸ったへその下あたりを拳で軽く叩いて、マジで分かんねえな、と慎吾は呟いた。

 疑問はないと言えば嘘になるほど、山ほどあった。何であの男が――確か岩清水だか何だかといったような気がする――中里毅宅のキッチンに自然に立っているのか、飯の支度をしているのか、そもそも何でそこにいるのか。どういう関係があるのか。毅、お前はそいつに負けたんじゃねえのか。いつの間に、こんなことになっている。っていうか何で俺はここにいる。
 ただ、それぞれの疑問の答えを一つずつ推測していくことも、言葉にして誰かに尋ねるだけの気力も慎吾にはなかった。何せ腹が減ってたまらない。男が持ってきたというラリーのDVDを鑑賞して時間を潰していても、空腹ばかりが思考を覆った。映像にしても自分たちの所有する車と特別な関係があるとは言いがたく、車は車なので見ていてつまらなくはないのだが、慎吾の嗜好と完璧に重なるわけではなかった。だが中里は煙草を吸いながらテレビに釘付けになっていた。そしてその意識をわざわざ引き寄せ、決まりきってもいなさそうな事態に首を突っ込むような積極性を、慎吾は中里に対して持ち合わせておらず、したがって疑問は解決せず、会話もなく、ただ時間が過ぎていった。
 頭を掻きむしり、叫んで一人この場へ逃げた中里が、その『事故』とやらについて理路整然とした説明をできるだろうか? できるわけがねえ、と慎吾は一秒も考えずに思う。なら聞きたくもない。どこに着くか分からぬ話ほど、脳が疲れるものはない。ましてや通常ならば考えにくい怪しさがつきまとっている。それは慎吾の想像が過ぎるだけかもしれないが、しかしこの二人の間にある、親しいとも言いきれないが険悪とも言いがたい、ただ妙な距離の近さを感じさせる雰囲気は、中里の首筋に見た痕跡をどうにも思い出させるのだった。
 そうして結局、テレビの音声だけが辺りを満たし、台所からは野菜を刻む音がするのみで、しばらくして、テーブルの上に用意されていたカセットコンロに、男が鍋を乗せてもまだ、慎吾と中里との間に目立った会話はなかった。男はそれにはまったく注意を払わずカセットコンロの火を点けると、お、パニッツィ、とテレビを見て呟く。そしてキッチンに戻り、水の入ったコップを持ってくる。そしてまた下がると、まだ入れられるらしき食材を持って、ようやく尻を床に落ち着けた。その間もテレビからは目を離さなかった。中里も同じだった。どちらの動きにも、相手に感じ取ってもらいたいという遠慮や気遣いや無駄はなく、空気のような自然さだけがある。中里はテーブルを挟み慎吾と対面する位置に、男はその間にいた。最もテレビの見やすい位置だが、最も奥が上座と考えると、やはり中里が権力者ということだろうか。分かんねえ、と口の中だけで呟き、慎吾は箸を持った。とにかく腹は減っている。
「食べていいのか」
 一応鍋を用意した男に尋ねると、俺に聞くな、と男は不愉快そうに言った。てめえが作ったんじゃねえのかよコラ、と言い出しそうになる口を閉じ、改めて開いて、おい、と中里に声をかける。
「毅、俺は食うぜ。いいな」
「……あ? ああ……食べられんのか?」
 中里は男に尋ね、ああ、と男は素直に頷いた。慎吾は手に持った割り箸を折りそうになったが、中里が律儀に発した、
「いただきます」
 の声のために、力を削がれ、結局折らずに終わった。
 キムチの匂いが部屋に漂う。味は悪くない。だしでも取っただろうか、奥行きがある。野菜にも肉にも魚にも火は通っている。鍋ごときで失敗する人間も珍しいかもしれない。慎吾は黙々と腹を満たしていた。男は火を調節したり鍋に野菜を追加したり肉を追加したりしながら、テレビを見ていた。中里はぼんやりと食べており、時たま慎吾に目を向けてきては、ばつが悪そうに逸らした。
 やがて途中再生のDVDが終わりを迎え、中里が操作をして地上波のニュース番組に切り替えた。殺人事件がどうのこうのとやっている。物騒だな、と男が呟いた。口の中の白菜を飲み込んだ慎吾は、段々と家庭的な雰囲気から繰り出される沈黙に耐えられなくなってきて、ついに男に、おい、と声をかけていた。
「お前の名前、岩清水だっけ?」
 男は眉根を厳しく寄せ、うろんげに慎吾を見、そして煩わしそうに言った。
「イワキだよ。イワキセージ」
「イワキ」
「岩に城。ドカベンの方じゃねえぞ」
 岩城セージ、と慎吾は頭に思い浮かべたが、その文字列からも響きからも何も感じられなかったので、あっそ、とだけ言って鍋に箸を突っ込んだ。その軽い相槌が気に食わなかったのか、お前はあれだろ、と岩城は対抗するように言った。
「えー、し、し、し……………………シンジ」
「庄司だよ」、と五秒をかけて間違いを堂々と言い放った男を一瞥する。「庄司慎吾。どんだけ混ざってんだよ。そいつから聞いてんじゃねえのか?」
 ザッピングした末にテレビ番組の若者の常識チェック特集をじっと見ている中里を目で示し、また岩城を一瞥すると、うるせえな、と岩城は戸惑ったような声を出してきた。
「人の名前を覚えるのが苦手なんだ、俺は。特に印象にも残らねえような奴は」
「まあお前の印象に残りたいとも思わねえからいいけどよ」
 へたりきっている水菜を頬張りながら慎吾は言った。んだと、と不満げな声に岩城は変えた。慎吾は水を飲んでから器に箸を置き、今度は真っ直ぐ岩城を見た。顔全体がうっすら赤くなり、汗が滴っている。あまり長時間見たくはないものだったが、どうせ長時間見る気はないので、鍋を指差しながら慎吾は言った。
「野菜多くねえか、これ」
「健康的だろ」
「バランス考えねえと無意味じゃねえの」
 一つの野菜がやたらと多いように感じるのだ。岩城はむっとしたように顔をしかめ、
「てめえ、俺にケンカ売ってんのか?」
「何で俺がそんな無意味なことしなきゃなんねえんだよ。くだらねえ」
 そう的外れなことを尋ねてきたので、慎吾はきっちりと否定した。だが岩城は疑心を晴らせぬようで、鍋の火を弱めてから、いちいち人に突っかかってきやがって、と呟き、舌打ちした。そうまで悪く言われる覚えはない。慎吾は器の中に残っているニンジンの切れ端を箸で取って口に入れてから、誰が突っかかってるってんだ、と言い返した。
「お前がいちいちわざわざ悪い意味に取ってるだけだろうが。俺に責任押し付けんじゃねえよ、俺は平和主義者なんだぜ」
「その顔でか」
「顔は関係ねえだろ」、と慎吾は声を大きくしていた。人のことを言える男ではないはずだ。いや、と岩城は神妙に言い返してくる。
「関係あるぜ。俺の子供の頃の夢が花屋だと言ったら、誰も彼もが大笑いしやがる。その顔でって」
 悔しげに歯噛みした岩城を眺めながら、まあ、人には適不適ってものがあって……と慎吾が世の無情さを優しく教えてやろうとしたところ、「だから」、と岩城は無礼にも持ったままの箸の先を向けてきた。
「お前の顔で平和主義者ってのは無理があるんだよ、EG−6」
「確かにそりゃ嘘だけどな、お前のその顔で言われたくもねえ、っつーか人を型式で呼ぶんじゃねえよコラ」
「嘘ォ?」、と岩城はうるさい声を上げた。「何でそんな嘘吐きやがる」
「気の利いた会話のためには嘘も方便だろうが、洒落だ洒落」
 慎吾は不愉快を知らせるために顔をしかめてそう言った。平和のためなら人死にも厭わないわけではないが、つまらぬ悶着が嫌いなのは事実であるし、面白い紛争をけしかける事が大好きなのも事実である。だが、機知も持ち合わせていそうにない男には、深遠な心理など理解できるわけもないのかもしれない――慎吾はその時点で勝手に判断した岩城の愚かさに同情していたのだが、
「そんな無駄な嘘吐けんなら、もっと人に対して気を遣え。何だその態度の悪さは」
 と、人を箸の先で示してきている男が、人への喧嘩腰の態度をまったく改めない男が言うにはまったく相応しくない言葉を発され、いい加減一つの益も生まれぬ会話に忍耐力も通じなくなった。ぺしん、と箸を器に置き、だから、と慎吾は慎重さを取っ払った口調で言った。
「人の顔あげつらってきた野郎に言われたくねえんだよ、そんなセリフは。大体何でお前がこいつの家で普通に飯作ってんだ?」
 その時テレビの音とカセットコンロの火が立つ音のみが部屋を支配した。慎吾は自分が余計な発言をしたことに気付いて一瞬思考を停止させており、岩城は困惑したように中里を見、中里は岩城を般若のような顔で睨んでいた。思考を取り戻した慎吾が、今更どうでもいいけどとか言うのもわざとらしいな、と考えていると、中里に無言で凄まれていた岩城が、重大な決断をするような深刻さをもって、
「趣味だ」
 と言った。流れで聞いてしまったものの深入りする気は露ほどもないので、ああそう、と慎吾は軽々しく言って、鍋から豚肉を取った。信じてねえな、お前、と岩城が目をいからせる。会話を終わらせたと思いかけていた慎吾は不意をつかれ、信じてるよ、と豚肉を口に含みながらやはり軽い調子で言っていた。
「趣味なんだろ、あつ、んぐ。それ、それでいいじゃねえか」
「俺は好きなんだよ、好きな奴に料理作るのが」
「お前よ、そもそも誰が疑ってるっつった?」
 岩城を真っ向から見て言ったのち、慎吾は自分の余計な発言のために相手からも余計な発言を引き出したことに気付き、唾を飲んでいた。相手がそれに気付くのは慎吾が気付いてから五秒後のことだったが、再び広がりかけたテレビと鍋以外が作り出す沈黙を破ったのは、
「おい」
 という、地鳴りのような中里の、岩城に向けて発された声だった。
「酒買ってこい。切らしてるから」
 それは要請ではなく命令だった。それほど強制的な響きのある中里の声を、慎吾は今まで聞いたことがなかった。思わず出ていない唾を飲み込んでしまうほどだった。岩城は数拍置いてから、ああ、と小さく頷くと、箸をテーブルに置き立ち上がり、じゃ、と背を丸めながら部屋からすごすごと出て行った。玄関のドアの開閉音が聞こえる頃、中里は両手で顔を覆った。それを滑らせ顎の下で手を組むと、はあ、と大きくため息を吐き、テーブルと鍋越しに慎吾を見てきた。
「慎吾」
 名を呼んだその口が一度閉じ、再び開く前に、
「事故?」
 と慎吾は先に声を出していた。顔をしかめた中里が、細かく瞬きをする。
「……あ?」
「つってたろ。避けられなかった事故」
 言って慎吾はテーブルの上にあったマイルドセブンを勝手に取って一本咥え、同じく勝手に取ったライターで火を点けた。気に食わない味だったが、気分は落ち着いてきた。慎吾が煙を三回吐き出すまで中里は黙っていた。駄目だなこりゃ、と思って四回吸った煙草を灰皿に潰そうとした時、頭をガリガリと掻いた中里が、「実を言うと」、とようやく喋った。
「……俺も何で……こんなことになっちまってんのか……よく、分からねえというか、考えたくもねえというか、もう考えなくていいんじゃねえかって思わないでもないというか……」
 そして再び頭を掻き、クソ、と舌打ちする。慎吾は急激に喉まで上がってきた苛立ちを殺すためにもう一度だけ煙草を吸い、半分以上残っているそれを灰皿に押し潰すと、目の前の男に優柔不断な態度を取らせぬ方法を選択することにした。
「毅」
「……いや、俺も色々今まで考えてきてるんだ、考えてきたんだが……」
「付き合ってんのか」
「何が一体俺にとって正しいのかということが考えれば考えるほど……――は?」
 目を閉じてぶつぶつと呟いていた中里は、はたと気付いた風に慎吾を見た。キスマーク、と慎吾は間を置かずに言った。
「この前ついてたからよ。首のところ」
「……な、何?」
 鍋を食したことによってか健康的な色味を帯びていた顔が、一気に加熱されたようになっていた。目は泳ぎ、口はわななき、声は震えている。断定していない問いでこれだけ慌てふためくということは、やましさを感じる行いをしているとしか考えられないが、敢えてそこは思考の隅に置いといて、ありゃ背中か、と慎吾は言葉を続けた。
「女いんのかと思ったけど、そういう感じもしなかったし」
「……い、いや、慎吾……そ、それはだな、その……」
「あいつとリマッチする気はあんだろ?」
 立ち上がりながら言い、慎吾は中里を見下ろした。顔を背けておろおろしていた中里は、途端にぴたりと止まり、ゆっくりと、正確な動きでもって慎吾を見上げてきた。数秒見合ったのちに、当たり前だろ、と中里が発した声は、一切のぶれのない芯の通ったものだった。
「負けたまんまじゃ終われねえ」
 もう数秒見合って、その顔に動揺が走らないのを確認してから、なら、と慎吾は肩をすくめた。
「俺が言うこた何もねえよ。ごっそさん」
「帰るのか」
 そこで立ち上がった中里が、同じ目線から不安そうに問うてくる。誤解されたくはない、というのは本音なのかもしれない。身の程知らずな奴だな、相変わらず、と思いながら、飯食って帰るってんじゃねえだろあの野郎は、と慎吾は再び肩をすくめた。わけが分からぬというように太い眉を目に近づけた中里が、その眉間を開いたのは慎吾がテーブルの上のコップを取って、水をすべて飲み干してからだった。
「……なあ、慎吾」
「さっきも言ったけどな」、と中里のかけてきた声を慎吾はコップをテーブルに置くことで叩き切り、ジーンズのポケットに指を引っ掛けて、わざとらしく大げさにため息を吐き、中里を見た。
「俺にはお前のそういうことは関係ねえから。まあ考えてみりゃあお前にチームの汚名晴らす気なくても、俺がやりゃあいいだけのこったし。何の問題もねえよ、俺には」
 この嘘は、気の利いた会話のためではなく、後腐れのない会話のためだった。今すぐあんな野郎と別れてリベンジかまして戻って来い、と中里に言うほどの積極性を慎吾はやはり持ちはしなかった。持っているのは、どうでもいいことばかりが多かった人生で身につけてきた、自分の利益につながらないことを避ける技術だけだ。それを存分に使ってから、じゃ、と背を向けかけた慎吾へ、おい、と叩き切ったはずの声を中里はつなげてきた。
「お前がどんな風に思ってくれてもいい、慎吾、ただ……信じてくれ、俺は、チームは、車は、裏切らねえ」
 見た中里の顔は、キムチの匂いが漂いバラエティ番組の騒々しい音が流れる場には似合わぬ重々しさに覆われていた。慎吾はジーンズのポケットに入っていた小銭を何となく指でいじりながら、その中里の顔からは目を逸らした。
「田代にメールさせる。あいつもまだ見舞いにゃ行ってねえはずだから」
 ああ、と切なげな相槌が打たれた。慎吾は今度はきちん玄関に向かい、歩みを進める前に、念のため、
「っつーか、んなこた知ってるよ」
 とだけ、教えてやった。

 自分の煙草は車の中に置きっぱなしだ。早く煙草が吸いたい。吸いたい吸いたい吸いたい。中里の家から出て駐車場に向かう間、そのことばかりを慎吾は考えており、外灯の少ない道の向こうから歩いてくる統一性のない格好をした男を見逃しかけた。むしろ見逃したくはあったのだが、男の方が気付き、慎吾の前をふさぐように寄ってきて、帰んのか、と声をかけてきたので、無視はできなかった。
「お邪魔だろ」
「ああ」
 多少何か皮肉が返ってくるかと思って言うも、岩城セージは当然というように頷くのみだった。それは相手に自分の感情を押し付けるための本音ではなく、ただ何も考えずに思ったことを口にしたという感じで、慎吾は男の無遠慮さへの憎々しさよりも底抜けの愚かさに対する不審さを覚えた。そうしてついまじまじとその顔を眺めてしまうと、岩城は片方の眉を意外にも器用に上げた。
「何だ」
「いや、別に」
 口だけで言い、慎吾は速やかに横を通り過ぎようとして、
「あ、おい、このこと、他の奴に言うんじゃねえぞ」
 声をかけられ、通り過ぎてからつい立ち止まり、岩城を振り返った。コンビニ袋を持っていない方の手を中途半端に上げたまま、岩城は脅すように歪めた顔を慎吾に向けていた。喉まで上がってきた苛立ちを、今度は抑える煙草はなく、
「考えてから物言えよ、てめえ」
「……ああ?」
 自然口調は殺意までほのめかすようになっており、にじみ出た陰惨な空気に気付いたらしき岩城は、警戒するように眉間を強張らせた。だが慎吾は情動を越え、冷静さを取り戻した。
「それを他の奴に言って、俺にどういう得があるのかってこととかよ」
 丁寧に説明してやるも、難しい顔をした男は、嫌がらせとか、と考えるのを放棄したような答えを出してくる。この男にそもそも何を説明する義務もないのだが、このままでは単細胞だと決め付けられているような気がしてならず、それは不愉快だし苛立ちも取り戻されたので、慎吾は聞き逃されないよう、腹から声を出した。
「事実上他にいねえ同じレベルの仲間の面目潰してまでそれやって、どれだけのもんが俺に残るってんだ」
 慎吾がジーンズのポケットの中の小銭を指で探って百二十円かと推定した頃、岩城は不機嫌そうな顔の筋肉を緩め、合点したように言った。
「めんどくせえ言い回しをする奴だな、お前」
「めんどくせえ奴と長くいるからな」
 小銭をポケットから出して見てみると、百円玉が三枚だった。飯代でもくれてやろうかと思い、思っただけで不条理さを感じたので出した小銭をポケットにしまって、また顔に力を入れている岩城へ、多分、と慎吾は最後に言った。
「お前が不用意なマネしなけりゃあ、何も起こらねえよ」
 それ以上、待機時間の多い会話をする気はなかった。男にもその気はなかったようで、慎吾は愛車への道へと無事に戻った。車がすれ違えるかどうかという幅の道に、そもそも車はほとんど通らないので、悠々と真ん中を歩く。外灯の間隔は遠く、人家の明かりが頼りだった。風の強い中、そこを一人歩いていると、煙草について以外にも考えが及ぶ。
 付き合うだのバトルだの車だの趣味だの誤解だの何だのと――もしあそこで中里の家に寄ろうと思わなければ、知らずに済んだことだっただろう。いや寄っても外で話したままだったなら、口頭で入院先を伝えておけば、あの男が来ても無視してさっさと帰っていれば、ここまで深入りはしなかった。見なかったことにも聞かなかったことにも、言わなかったことにもできそうもない。失敗だ。
 いや、しかし――あんなことを予想できる奴が、この世にいるのだろうか?
「いねえだろ」
 慎吾は呟いていた。いるわけがない。例え女の存在を考えられる奴がいたとしても、まさか中里の相手があのエボ4だとは思うまい。俺は悪くねえ。俺のせいじゃねえ。あんなのはまず、ありえねえ。
「冗談」
 次に慎吾はそう呟いたが、けれどもこれはどうにも現実だった。後悔は止まらない。それでもどうせ、もう何も変わるまい。あそこには、変化の兆候が一切感じられぬ、泥沼のような空気しかなかった。
 立ち止まって一つ、ため息を吐く。とりあえず、早く煙草を吸って帰ってビデオをダビングしよう、と思い、重い足を動かしてから、事故を起こした奴の入院先を知らせる問題を思い出したが、慎吾はそれは忘れることにしたのだった。
(終)

(2007/05/08)
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