揺れる
母方の祖父が脳卒中のために亡くなったのは、中里が高校三年生の時だ。祖父は不摂生を健康の元としていた人で、高血圧だった。その祖父が大晦日の晩に病院に運ばれそのまま息を引き取って以来、母親は家族の血圧に注意を払うようになった。塩分と脂肪分とアルコールと煙草は控えるように、野菜を多く摂るように、規則的に運動するように、ストレスは減らすように。豪胆な父親も一度喉を切って血を吐いてからは、母の支配下に甘んじているらしい。ただその生活を一年も送らぬうちに実家から出た中里は、知らず知らず次第に祖父の流儀を引き継ぐようになっていた。それよりも程度はまだよほど低いこと、博打ではなく車に没頭していることとが、違いといえば違いなものだ。
それでも近頃軽い頭痛が起こるようになり、就職祝いに贈られてから押入れの奥深くに埋もれていた血圧計を使ってみたら、最大も最小も、平均値より上だった。会社の健診では異常はなかったはずだから、変化は最近のことだろうと思われた。思い当たる節はあった。素人判断は危険だと分かっていたが、それで症状が改善されるならば安いものだという方向へ思考は進んだ。
すなわち、ストレスを減らす。
だが根本壊滅を目指そうとしても、最終的に進んで受け入れたという形になっている現状を招いた自分に対する様々な感情が、心臓や胃に何日間も負担をかけるし、一度でもこれを良しとしてしまった以上、今更何もなかった頃に戻る法など中里には考えられもしなかった。したがって、その存在は認めつつ、それに対する自分の意識を抑えることを意識していった。意図を疑うことを避け、ともにいる時に覚える違和感の正体を探ることも避ける。やがて、違和感を思い出すことすらわずかとなった。
平日の夜、こうして妙義山からの『帰り』に岩城清次の部屋にいて、翌朝早くにまた『帰る』ということにも、中里は何ら疑問を抱きはせず、用意されたすき焼きの具を火の通った端から食べていくことにも、何の違和感も覚えはせず、岩城に対して気兼ねすらしなかった。
すなわち、ストレスを減らすということだ。
起こしてしまったことを悔やんでも仕様がない。現実を受け止める。この地点からより良い状態を目指していく。美味いものは美味い、楽なものは楽だ。その幸福を享受して何が悪いのか。肉は柔らかく汁気がたっぷりで野菜は良い歯ごたえ、卵は新鮮で飯の硬さは丁度良い。ほどほどの塩辛さとだしの旨みがあいまって味付けは抜群だった。美味い。好みの味で、歯ざわりなのだ。これをいちいち、何で自分がこんなことになっているのかなどと考えては、折角の深い味わいが台無しである。三人分のランチョンマットを敷けるだろうテーブルを挟んで向かい合って椅子に座り、カセットコンロが直にあぶる鍋を突っつき飯をかき込みコップに注がれたビールを飲む。目の前にいるのが岩城清次であることも、その男と世間話をすることも、漫然と流れるテレビ番組について品評し合うことも、そもそもその男と自分が付き合っているということも、最早中里にとって問題ではなかった。
この生活は健康であり、平穏で、ストレスの発生源にはなり得ない。
意思の力――思い込みともいう――とは強いもので、そう腹を据えてからは頭痛も音沙汰なしだった。元々精神が肉体を揺らすことはあれど、荒らすことはない性質だった。よって現在、中里は安定した暮らしを送っている。少なくとも中里自身はそう決めており、どういう報復が相手にとって最も苦痛であるかを思い描いていた頃からは考えられないことに――その頃のことももう考えないが――、岩城清次とともにあるこの平穏無事な生活に、幸福まで覚え始めているのだった。
うどんで締めた鍋も空になり、食卓は片付けられた。中里はビール瓶の残りを注いだコップにちびちび口をつけながら、椅子の背を壁につけて、テーブルから斜め後ろに位置するテレビを眺めていた。音楽番組なのかバラエティー番組なのか、とりあえず若い女性アイドルが出ている。名前は分からない。分からないが、華やかな衣装を着ているから多分アイドルだろうと中里は思った。唐突に画面が切り替わり、曲が始まる。若いアイドルの甲高い歌声が響く。その後ろに水の流れる音が、食器のぶつかる音が、調子の外れた鼻歌がある。テレビから発される若い女性の甘い歌声よりも、テーブルを挟んだ向こう側で流し台を利用している岩城の発する音の方が、当然広がりが大きい。不規則であるくせに耳に残り、だが不快にならないうちに消えていく。
画面下部に表示される記号交じりの歌詞ではなく、若いアイドルが晒している肉付きの良い太ももに目を奪われているうちに、気付けばコップは空になった。ブラウン管が映し出す踊る肉を見ながら、中里はコップを手に取り椅子から腰を上げた。水が豪快に流れる音がする中、テーブルを回り込み、市販の曲なのか自作の曲なのか知れない鼻歌を上げ続けている岩城の右斜め後ろに立つ。気配を消しているつもりはないが、岩城は気付かない。その右手が透明な水を浴びながら動いているのが見える。その横の調理台に右手で持ったコップを置こうとして、中里は何の気なしにこちらに背を向けた格好の岩城の体に目をやっていた。肘まで袖を捲り上げている青いシャツ、その襟から伸びる細くはない首、むき出しの耳、髪が引っ詰められているため形の良く分かる頭。そして束ねられている髪。それは揺れていた。岩城が腕を動かすたび、肩を動かすたび、足にかけた体重を移すたび、揺れていた。コップを右手に持ったまま、そして中里は立ち尽くした。
それは、目の前で揺れていた。
のっそりと揺れている。
馬の尻尾のように。
ぱさりと揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れている。
掴んでいた。
「あ?」
岩城が右から振り向いてきても、中里はそれを左手で掴んだままでいた。岩城の後頭部から伸びている細い線の塊のような髪の束は、力を加減するだけで、手の中で軟体動物のようにくねる。水の滴っている手を胸の前まで上げ、どうした、と訝ってくる岩城の、ただ不審がっているその常と何も変わらないごつごつとした顔を見ていると、やがて自分の行為の唐突な不躾さが徐々に実感されていき、いや、と中里は髪の束から慌てて手を抜いた。根元まで掴んでいた指が、その時その髪をまとめていたゴムを引っ掛けた。ゴム自体が緩まっていたのか、元々緩く結ばれていたのか、あ、と言うまもなく、中里の指とともにそれはするりと抜けていった。
光沢のある髪が、岩城の耳から頬、肩へと、音もなく広がった。ばさり、とも、さらり、とも形容しがたいほど、全体としての形があるようで、ないような、とても不可思議な広がり方だった。
「悪い」
数秒その光景に見入っていた中里は、岩城が自由となった髪を頭を動かし後ろへやったところで、自分の行為がもたらした結果に気付き、これまた慌てて謝った。いや、と岩城は何でもないように首を傾げ、中里が持っていたコップを水に濡れた手で取ると、
「悪いんだけどよ、結んでくれるか。このままだと鬱陶しくてな。適当でいいからよ」
と、目を合わせて笑って言うなり、後ろを向いた。ああ、と言う間はあれど、断る間はなかった。中里は床に落ちたゴムを拾うと手に通し、改めて岩城のすぐ後ろに立った。頭の横から両手を入れ、流れている髪をすくい取る。指先が焼けるような、わずかの緊張があった。人の髪を結ぶことなど、峠で幾度か庄司慎吾にからかわれた時くらいだった。人生経験だ、やってみろ。それは前髪だった。一回目は固く締めすぎて不評を食った。二回目は緩すぎた。三回目に、ようやく結び自体はうまくいった。ただくくった髪のバランスの悪さを酷評された。なら自分でやれよ、と言うと、下手な奴にさせるから面白いんじゃねえか、と飄々と言われたものだ。最近は、していない。
岩城の髪が持つさらさらと指の間を落ちていくような柔らかさは、慎吾の髪とは違う。あれはもっとじっとりとして、よく手に絡みついた。まるであの男そのもののように、まばらに染まっていて、湿っていて、また乾いていて、まとまっていて、そのくせ反抗的だった。髪も人を表すのかもしれない、とその時中里は思ったが、今はそうではないと思えてならなかった。これほどしなやかでまとまりにくく、一本一本が揃って滑らかな髪の持ち主がこの岩城清次であるというのは、人格が形態に依存しないことを証明しているようだった。
そうしてその手触りに妙な感慨を覚えつつ、それなりの太さはあるくせに人の指から離れていく髪をすべてまとめようと中里が苦心していると、結びにかかる前に岩城は水を止めていた。ゴムが取れた段階で、ほとんど洗い物は終えていたのだ。岩城がタオルで手を拭う際に髪は手の端から離れていき、先ほどのように束ねられているわけではないから、振り向かれてはそれ以上掴んでられもしなかった。
「ありがとよ、わざわざ」
張り出た頬を更に張り出させて、岩城が笑う。それが挑発的に見えるのは、元々人の神経を逆撫でする要素を備えた顔貌だからだろう。俺は別に、何もしてねえよ、と咳を間に挟みながら中里は言って、手近の椅子を引いて腰を落とした。他人の温みが残っている。テレビに映っているのは生命保険のコマーシャルだ。
「ハンドメイドだったろ。嬉しかったぜ」
「普通に縛った方が効率いいじゃねえか。ほら」
テレビを見たまま中里は手にはめていたゴムを岩城のいる方向へと差し出した。ゴムが取られる際に触れた指は冷たかった。コマーシャルに続いて地域のニュースが流れる。中里はそこで岩城を見上げた。調理台に腰を落としている岩城は俯いてゴムを両手の指でもてあそんでいた。真ん中で分かれている髪は、肩までそのまま流れている。量で見れば重そうでもあり、質で見れば軽くもありそうだった。そこで、ゴムの端に両の中指に掛けて左右へ引っ張りながら顔を上げた岩城と目が合ったので、中里は気を惹かれ、それよ、と、言っていた。
「あ? これ?」
岩城は顔を歪め、両側へ引っ張っているゴムを更に引っ張りながら、伸びてんだよなこれ、と不満そうに呟いた。ちげえよ、と中里は岩城の顔を指差した。
「髪」
「はあ?」
「伸ばしてる理由あるのか、その髪の毛は」
会う時も何する時でも岩城は髪を結っている。風呂に入った後ですら動く場合は乾かぬうちからまとめている。鬱陶しいなら切れば良いだけなのだから、それを維持することには何らかのこだわりがあるのだろう。ただ、常時のことで今まで考えもしなかった。考える気がなかったし、今もふとなぜかと思ったまでで、別段深く気になるわけでもなかった。だからなおざりとなった問いに、岩城は数秒置いてから、ああ、と答えた。
「俺、高校ン時野球部入っててよ」
この男の話は、大概結論が後になる。終わりがくるまで適当に相槌を打つようになったのは、その話の組み立てられ方に慣れてしまったせいだ。
「レフトで五番だ、普通に結構打ってたぜ。安打は稼がなかったけどな、長打は期待されてた。サインあんま覚えなかったけど。で、三年上がるまで坊主だったんだよな。だから長い髪に憧れててよ」
また結論も明確に示すわけでなく、話の最後がそうであることが多かった。それを確認することにも慣れてしまい、苛立ちも覚えなくなった。
「で、今でも伸ばしてんのか」
「伸ばしてるわけじゃねえけど、このくらいが丁度いいんだよ。まとめるのに」
それは伸ばしてんじゃねえのか、と思うも、そう言っても根拠のない同じ断定が返ってくるだけだ。それも分かっていた。すべて分かっている。分かっているから、問題は生まれない。ただ、岩城はそうして問題なく終わった話を、思いつきで再開させることも多かった。今回もそうで、あ、とゴムを手首にはめた手で指を鳴らすと、思い出した、とその指を今度は中里に突きつけるようにした。
「一回俺短く戻そうとしたことあったんだよ、それでも。そしたら切るなって言いやがって、手触りがいいとか何とか言ってよ……ミキちゃんだったかありゃ……いやカナか? タカシか? ……まあいいや、とにかくそれから面倒でいじってねえんだ。長さ調節すんのはダチに頼むし」
そうか、と中里が目を見て言えば、ああ、と岩城は目を見て頷く。それで終わりだった。だから何なのか、ということには触れられない。言いたいことだけ言う。単純だ。それを拾い上げる必要もなかった。この男は、そこまで考えて喋りもしない。分かっていた。すべて分かっている。それでも中里は、ホテルのコマーシャルに続いてバラエティ番組が始まったテレビを眺めながら、口を開いていた。
「じゃあ俺が切れっつったらそれは切るのか」
独り言にも似ていたが、それははっきりとした問いかけであり、また相手に聞こえるほどの呟きであった。現に岩城が息を止めた音が聞こえた。中里は何か遠くに不快感を覚え、岩城に目を戻し、その眉根の寄った顔を一瞥するだけにとどめて、いや、と言った。
「何でもねえ。忘れてくれ」
「まあ……別に何のポリシーあるわけでもねえし。お前がそっちの方がいいってんなら」
そうじゃねえよ、と自分の手を眺めながら中里は言い切った。腹の底を針で引っかかれているような感じがあった。この男の行動の傾向は分かるが、なぜこの男がそうするのか、なぜ自分がそれを受けて戸惑っているかは分からなかった。それは永遠に分かりそうもなかった。そして口を閉じた中里が右の親指と人差し指の爪を擦り合わせていると、岩城は言葉を付け足してきた。
「遠慮すんなよ。俺も何で今でもこうしてんのかってのは、正直自分でも何とも言えねえんだよな」
「いいんだよ。今のまんまでいい、綺麗だしな」
言って三秒経ってから、中里は力の入れすぎによって合わせていた右の親指と人差し指の爪を、双方わずかに削っていた。つい舌打ちをして、違う、と思う。些細なことで苛立ってはいけない。深みにはまっていけない。普段に戻さねばならない。
すなわち、ストレスを減らすということだ。
「綺麗か」
岩城の愉しげな声が耳に入ってくるだけで、しかし胃の辺りが熱くなるのだった。
「お前に言われりゃ嬉しいもんだな」
声が聞こえると同時に、首から顔へと血が上っていた。そうか、とだけ言って、中里はそれでもざらついた爪を見続けていた。呼吸を落ち着かせ、余計なことを頭の中から追い払う。会話は終わった。もう何もない。やがて不意に視界が薄暗くなった。自分の頭だけでなく、他のものが蛍光灯の光を遮ったのだ。顔を上げると、案の定岩城が目の前にいた。椅子に座っているこちらと、テーブルに片手をつきながら腰を屈めることで視線を合わせてきている。距離はほぼない。肩までの髪によって耳が隠れた岩城の顔は、それ自体はいつもと変わらないというのに、近くで見ると何か具合が違うようで、安定していた脈拍が乱れ出した。これもストレスか、まずこれをやめなければならないのではないか。思いながら中里が口に溜まった唾を飲むと、岩城は挑発的に笑ってきた。
頬に触れる冷たい手よりも、唇に感じる重みよりも、顔をかすかに撫でていくその髪の感触が、目を閉じさせた。残るのは、それだけだった。
(終)
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