後の先
誰が何月何日に生まれていようが清次にはどうでもよいことだった。家族を含めた他人の誕生日など興味の対象になりえず、自分の誕生日ですら人に指摘される時や書類に記入すべき時や運転免許を更新する時以外は忘れており、自分の年齢は西暦のみで把握していた。師走くらいには増えるものだった。
それほど蔑ろにしていた自分の誕生日を、清次はその三週間前にある相手との会話の中で思い出し、その翌日出勤してすぐ店長に、誕生日に早退したいと告げ、許可を得た。二年以上部下の誕生日を覚えていなかったことに店長は罪悪感でも覚えたのか、時間はあるからどうせなら休んでも構わないとまで言ってきたが、定休日以外で休むつもりもない上に、誰が何月何日に生まれていようがどうでもよかった清次は、早退だけを取りつけた。
予定通り、自分の誕生日に清次は早退し、そのまま真っ直ぐ帰宅して、アパートの駐車場に黒い車を見つけ、仕事中も意識の半分を占めていた事態が正確に進んでいることを知り、そしてほくそ笑んだものである。手を幾度か切りかけたことも食材の分量を間違えかけたことも、重大な失敗には結びつかなかったため、問題はない。それより問題は、今日、事前の約束が果たされるか否かだった。すなわち自分の誕生日に、ある相手――恋人が家に来るかどうかである。
恋人だから、付き合っている。だが、好きにはならないと宣言されており、笑いかけられたことはまったくなく、恨みがましく見られたことは数え切れない。それでも相手が交わした約束を違えたことは、一度もない。一度もだ。妙なところでモラルに執着する相手だった。ゆえに清次は相手が来ることを疑ったこともない。それでも実際に鍵を開けて入った明るいダイニング、物憂げに椅子に座っている相手を見つけると安心するもので、清次は生まれて初めて自分の誕生日というだけで、強烈な幸福感を味わったが、その先にこそ甘美な出来事が待ち受けているとは、まったく思いもしていなかった。それまで自分の誕生日など、蔑ろにしたところで、後悔ももたらさないものだったのだ。
こちらを好きにはならないと、宣言している相手だった。群馬の走り屋だ。はじめ清次はその相手の車――黒い日産スカイライン、R32GT−R――と、容貌――短い黒髪、太い眉、大ぶりの目、削げた頬、厚い唇、自尊心が剥き出しの表情――は覚えていたが、名前を覚えていなかった。
中里毅、妙義ナイトキッズというチームに属している、男。
栃木に住む清次が属しているチームの群馬遠征の際、一番に清次が負かした相手であった。負かした相手の名前を記憶に残しておく趣味など清次にはない。だから中里の名前もすっかり忘れていた。ただ、顔は覚えていた。そして二度目の遠征帰りに偶然中里の顔を見かけた時、清次は暇潰しに声をかけ、思いつきで家に寄り、思いつきの暇潰しに強姦した。一度屈辱を刻んでやった相手を、暴力によって更に踏みにじることには万能感を煽られて、凌辱されているにも関わらず、敏感な反応を見せた中里には欲情を煽られて、終わりには性欲も征服欲も、完全に満たされた。付き合うようになった今では、ああも中里の身体に負担をかける行為はできもしないが、あれはあれで実に愉快な時間だったと清次は思う。群馬遠征にリーダーたる須藤京一の敗北という形で一区切りがつき、些細な憂鬱が残り、再度の偶然で中里の名前を思い出した時、その家に押し入ることを考えさせたほど、それは愉快な時間だったのだ。
考えを、清次は実行に移した。その日は暇潰しが目的ではなく、強姦が目的だった。事に及ぼうとすると中里には殺意をほのめかされたが、それすら刺激的で、諦める気は起こらず、強引に拓いたその尻に、挿入を果たした。そして、惚れた。挿入しながら中里の顔を見ていただけだったが、惚れていた。男に惚れるのも一目ではなく惚れるのも強姦中に惚れるのも、清次にとっては想定外で未経験の事態であったが、惚れた経験はあった。その経験が、過去惚れた相手とは比較にならないほど、自分が中里に惹かれているのだと思い知らせた。そこまで惚れてしまった時点で、清次の目的は強姦から性交へと変化して、暴力への衝動は消え、終えてから殴られ蹴られても、やり返す気も起きず、付き合えればそれで良いという考えに頭は支配されたのだった。
それから実際に付き合えるようになるまで、交接の機会がないまま一ヶ月かかったが、中里を強姦したことは間違いではなかったと清次は考える。非人道的な扱いをしたことに多少の罪悪感を抱いても、その当時の自分の感覚を、欲望を、行動を否定するつもりもないし、あの強姦があったからこそ中里は、自分のことを忘れられなくなったとも思えるのだ。あそこまで凌辱してやったからこそ中里は、自分のことを殺したいほど気にかけて、頭を悩ませ、最終的にこの関係も受け入れてくれたに違いないと、そう思える。
そう思えば、好きにならない宣言など、瑣末も瑣末である。中里と一緒に過ごせてセックスもできる幸福は、その好意の有無などで揺らぎはせず、その憎悪によってこの関係が続くなら、もっと恨んでほしいとすら思える。
そう思えるのはまた、時折中里がその言動で、とびきりの甘さを感じさせてくれるからかもしれない。今日の約束を交わした時などもそうだった。三週間前、何かの流れで互いの誕生日の話になった際、来月だから祝ってくれよと清次が言ったのは冗談でしかなく、その時でも清次は、中里の誕生日も自分の誕生日もどうでもよく、ただ中里と会える日を作れれば良いと考えただけであり、それを、何とも嫌そうに顔をしかめながらも、いいぜ、と中里が承知するなど、予想もしていなかった。願ってもない展開に、思わず何でもしてくれるのかと聞いたところ、恨みがましく見てきた中里は、何でもできるわけねえだろと言ったものの、清次の誕生日には、翌日に休みを取って清次の家に来ることまでを約束した。その妙なところでモラルに執着する様は、存在しないはずの好意を感じさせ、清次の胸は砂糖でも詰め込まれたように甘くなり、この関係を続けられるなら、どれだけ恨まれようが構わないと思わせられるのだ。
中里が同性であることも、清次には最早関係がない。周囲の目など、感じる幸せに一つの影響も与えない。他人のことなどどうでもいい。約束を違わぬ中里が、実際に自分の誕生日に家まで来てくれたなら、世界のことすらどうでもよくなる。
そう、他人のことも、世界のこともどうでもよかった。普段こちらが頼むまで積極的な行動を起こそうとしない中里が、ともに遅い晩飯を食べ、酒も入れず片付けもする前に、ベッドに誘ってくるなどは、天変地異が起きてしかるべき椿事であったが、世界のこともどうでもよかったので、清次は嬉々としてその誘いを受けた。
中里は不服そうな顔で、清次をベッドに押し倒し、殴りたそうな声で、囁いた。誕生日だから、今までの借りを、返してやる。これでにんまりせずにいられる人間がいれば、会ってみたいものだと清次は思った。なぜなら中里だ。仕掛けてとことん溺れさせれば応えてくれるが、普段は自発的に寄ってくることのない中里であった。それが何を借りだと思っているのか知れないが、人をベッドに押し倒し、またがってくれたのだ。誕生日はとりあえず祝うものだという風潮に、清次は生まれて初めて感謝した。
着ている服を、丁寧に、ためらいがちに脱がされた。中里の顔には羞恥が痙攣を走らせて、手には不安が震えを走らせていた。眺めが良かった。硬い動きで唇を落とされ、肌を探られ、下腹部をいじられた。しごかれ、キスをされ、舐められ、吸われ、咥えられた。刺激を強められ、唐突に緩められた。中里は、顔を上げようとしなかった。ひたすらに清次のものに集中していた。その中里を見ているだけで、清次は自分の体が宙に浮くような快感と幸福感を堪能した。そのままじっくりと絶頂にまで運ばれて、すべて飲み干されては、笑いも止められなかった。
口の周りに先走りをつけながら、理性を消し切れていない中里が、またがったまま、ためらいを消さず、そのためあたかもこちらを焦らすように、服を脱ぐ様を見せられては、果てた息子もにわかに出番を待ち構えるものである。裸になった中里に、興奮が高められ、清次は手を出そうとした。その手を中里は取り、口に含んだ。指を一本ずつ、丹念に舐め、噛み、吸った。まぶたを伏せた苦しげなその中里の顔は、清次の脳味噌に多大な熱をもって焼き付けられた。その指は、中里によって導かれた。尻に入れるのは手伝ってやったが、内部を擦るのは中里に任せた。
何でもやってくれてんじゃねえか、清次は笑いを止められないまま言っていた。中里は逃げたそうに顔を歪めたが、何も言い返さず、腰を揺すった。清次を口腔で愛撫していた時とは違い、自身は無造作に擦っていた。逃げたそうだが、逃げようとはしない。それも誕生日のおかげらしかった。清次は調子に乗った。いつもは肘鉄を返されそうなのであまり口にしない卑猥な言葉――といっても大したものではない、尻で感じるなんて淫乱だなとか一人でやる方が良さそうだなとか、その程度だ、愛もある――を、遠慮せずに次々かけた。その度に指が深く中に呑み込まれ、締め付けられるのがたまらなかった。逃げたそうに頭を振っても、中里は結局逃げず、自慰を果たした。中里の精液がその腹に、その手に垂れる光景は撮影していたいほど悩殺的だった。喘ぐ中里を、そして清次は体に引き寄せ、キスしてくれよと頼んだ。俺が満足するまで。中里は言うことを聞いた。
誕生日って、いいもんだな。
その頃には清次もそう思っており、中里の誕生日も覚えておこうと決意して、キスをしながら日付を確認していた。夏の盛りだった。次は俺が祝ってやるよ。囁くと、中里は顔を離し、恐怖か何かでおののいたようだったが、何も言わずにキスを再開させた。口腔の粘膜が同じ刺激を鈍く感じるまで、清次はキスを続けさせた。それから起き上がり、間髪いれず中里の口の中に、待機状態にあった息子を強引に突き入れた。中里はやはり逃げなかった。やりたいように清次が動いても、噛まずに吐かずに堪えていた。身体に負担をかけさせる行為はそうできないのだが、逃げたそうにしながらも従順でいる中里を前にすると、衝動は抑えられなかった。強姦した時と違い、今は愛がある。強引に事を進めても、完全な無理をさせるつもりはなかった。清次は中里の口を一度も解放させずにそこに精液を放ったが、中里は咳込んでも吐きはしなかった。完全な無理をさせないとは、そういうことである。体液まみれになった顔を、舌で拭ってやりながら、そして清次は中里を押し倒した。
敏感な肉体だった。皮膚に舌を這わせるだけで肉はぴくぴくと動き、内側の熱い血液は透けて見えるようだった。感じやすい男なのだ。そのくせ妙なところでモラルに執着するから、どつぼにはまることを理解していない。そこが良い。この男を快楽で支配できれば、それでよかった。他人のことも世界のこともどうでもよかった。
ただ、二度射精をさせてもらうと、なかなかすっきりするものだ。十分ほぐれている中里の尻に、その体をなぶっているだけで十分猛った自身を挿入し、本日初めてのまぐわいを、いかに進めていくかと抽送しながら考えられるほど、清次の頭はクリアになっており、携帯電話の着信音もクリアに聞こえてしまうほどだった。聞こえてしまうと邪魔に感じるから、無視もできない。電源切っときゃよかったな、舌打ちしたい気持ちのまま、清次は中里から抜かないよう、ベッド横のテーブルに手を伸ばし、携帯電話を取り、液晶を見、実際舌打ちしていた。須藤京一という、同チームの実力者たる走り屋の男は、交接中にかかってくる相手としては非常に厄介だった。他人などどうでもよくとも、清次はその男だけは習慣的に無視できないのだ。無視できない以上は仕方がなかった。とりあえず中里の尻に腰を据え直してから、さっさと切るつもりで清次は電話に出た。京一はなぜか人の誕生日を覚えており、相変わらず変な記憶力だなと清次はクリアな頭で驚き、続けて来訪の意を告げられて、クリアな頭で驚きうろたえている間に、京一からさっさと切られた。断るという選択肢を相手に持たせる隙も与えずに物事を進められるのが、京一という男だった。おかげで清次は残り五分で折角の中里との初接合を済ませねばならなくなり、実際まだクリアな頭が驚くほどの速さで三度目の射精を終えてしまったが、それでも中里は文句ひとつ言わなかった。つまりは誕生日であった。
中里との関係を京一に知られたところで清次は構わなかった。しかし男と寝ていることが原因でチームから除外される可能性もゼロとは言い切れなかったので、早々に京一を帰せるよう対応することにした。にも関わらず、中里の存在はすぐにバレた。それもそのはず、京一は知り合いの女に頼まれて、清次の身辺を探るために来たという。その女のことはほとんど忘れていたので、清次は驚いて、何となく謝ったが、京一は清次の性嗜好になどさして関心もないようだった。走り屋として接されているのは明らかだった。だから清次は思いつき、中里とのセックスに京一を誘った。走り屋として来た京一ならば、倫理だの道徳だのも取り上げないだろうし、どうせ中里とやるなら徹底的に腰を使える人間がいた方がいいだろうという閃きのためだった。誕生日だからと、ここまで奉仕をしてくれた中里にこそ、清次は奉仕をしたくなったのだ。エンペラー内でまことしやかに性技が優れていると囁かれている京一は、突然現れたにしては、中里をとことん責めてやるには最適の人材に思われた。
京一は何とも煮え切らなかった。だがしぶとく誘うと乗ってきた。入れてくれりゃあそれでいい、くらいにしか清次は考えていなかったので、実際に始めた京一が、予想を上回るほど積極的に、強引に中里を犯してくれたのは、実に幸運だった。噂通りの京一であった。強引に責めながら快感を与えるなど、慣れた人間にしかできぬ行為だ。京一はそれに慣れており、中里を強引に犯し、見事快楽に狂わせた。愉快な時間だった。中里が、圧倒的な性感に流される姿態とは、脳を焼くほど美麗で淫猥なのだと、初めて知った。一人ではなかなかそこまで責め切れるものではない。手は二本しかないし、道具を使うにも限界がある。電話を受けた段階では、お前は何てタイミングだ、と思いもしたが、終わってしまえば清次は京一に感謝するばかりであった。
おかげで実に愉快で幸福で甘美な時間、最高の誕生日を堪能できた。来年も是非よろしくお願いしたいと思えるほどだった。それには中里と変わらず付き合うことが前提だが、始まりが暴力強姦だ、今更セックスに他の人間が加わったくらいで関係が終わるなら、そもそも始まってすらいないだろう。集団強姦までいくとさすがに愛想を尽かされるだろうが、そこまで清次もやる気はない。ただ、京一ならばいくら介入されても構わなかった。個人的な付き合いはほとんどないが、性質は理解できて信用もできる男が、あそこまで中里の肉体を悦ばせてくれるならば、文句もない。理性もモラルも忘れ去って、気持ち良さそうに欲望に浸る中里の存在は、清次に幸福を感じさせる。それがあれば、他人も世界もどうでもいいのだ。
夢は見なかった。目覚めは唐突で、体を起こしてしまうと、眠気の尻尾すら見えなくなった。とりあえず上半身を起こし、テーブルの上の煙草を取りながら、清次は置き時計を見た。現在時刻は午前四時四十六分。誕生日は昨日となり、今日は既に仕事のある日常だった。起きるには早すぎる。だが二度寝のできる体質ではない。ベッドにうつ伏せなりながら、清次は煙草を吸い、隣で寝ている中里を見た。顔がこちらを向いている。額は前髪に隠れていて、そこにも眉の周りにも、閉じられている目にも、強張りはなかった。今にも微笑みが浮かびそうなほど、安らかな寝顔だった。口付けたくなる顔であった。煙草を吸っている途中、清次は中里に唇を寄せた。厚いそれは乾いていた。軽く湿らせてやっても、中里は起きなかった。安らかな寝顔だが、全体的に疲労がこびりついていた。
煙草を吸い終わり、清次はベッドから降りた。中里に布団をしっかり被せ、部屋の窓をわずかに開ける。途端に冷たい空気が室内に侵入し、淀みが薄れていった。換気をしたまま清次は新しい下着を手に寝室から出て、浴室に向かった。べたついている体をすすぐためだ。
乱れたベッドと失神した中里の始末をしたところまでは覚えている。その後に自分の始末をした覚えはない。眠気に襲われたのだろう。寝ていたのはおそらく五時間ほどだが、熟睡できたので頭に重さは感じなかった。ただ、体は重く、関節や筋肉は凝っており、腰はだるい。性器もだるい。寝て起きて、これだけ疲労が残るほど性交に耽ったのは生まれて初めてかもしれない。少なくともそれだけ性交に耽った誕生日は、生まれて初めてだった。熱い湯を浴びながら、ぼうとその出来事を思い出すうちに、だるい腰がむずむずとし出したので、迅速に体を洗い、最後に冷水を浴びた。自慰をするにもだるかった。
水を切って風呂場から出、体を拭きパンツだけ履いて、ついでに歯を磨いてヒゲを剃ってしまい、居間の暖房をつけ、これからどうしようかと考えた末に、清次は中里の様子を見るべく一旦寝室に戻った。冷たい空気が流入している部屋で、中里は、ベッドの上で毛布にくるまり座っていた。清次は驚いた。まだ午前五時前だ、起きているとは思いもしなかった。慌てて窓を閉め、傍に寄る。
「悪いな、起きると思わなくてよ、寒かったろ」
中里は、何の反応も示さなかった。目は開いているが、虚ろだった。意識が正常かどうか怪しく思え、ベッドの前に中腰になってその視界に入り込んで、清次は尋ねた。
「どうした?」
すると中里はびくりと体を震わせ、「あ?」、と気の抜けた声を上げた。意識はあるようだった。安堵に息を吐いてから、清次は言った。
「いや、ぼーっとして。具合でも悪いのか」
言葉の意味を理解しかねるように、清次を見たままゆっくりと瞬きを二回した中里は途端、締まりがなくなっていた顔に力を戻し、舌打ちして、俯いた。
「何でも、ねえよ」
中里の声は掠れ切っていた。それが気に食わなかったのか、中里は何度か咳をし、悄然とする。これも、日常であった。セックスした次の日の中里は、いつでも憂鬱そうで、しかし次に会う約束を違えることはない。昨夜得た幸福感とはまた違う充足感が胸にわき、まあ、と清次は言っていた。
「あんだけやりゃ、どっか具合も悪くなるだろうしな。無理すんなよ」
入れた側の自分ですら全身に疲労を感じているのだ。入れられた側の中里の負担は相当のものだったろう。どうせ今日は休みを取っているはずだし、存分に休んでくれればそれで良い。さて、朝飯にはまだ時間が早いが、二度寝のできる体質ではない。これからどうするか、風呂上りの一服のため、ベッド横のテーブルに置いた煙草の箱を取り、腰を伸ばして清次が再び考え始めた時、
「その、やったって……」
喉の粘膜が切れていそうな、中里の声がして、清次は煙草を咥えながら、中里を見下ろした。
「あ? 何?」
「昨日、俺は……」
そして中里は、黙った。昨日。清次は不審を抱き、顔をしかめた。
「何だ、覚えてねえのか?」
「覚えては、いる、須藤が」
言葉は途切れる。中里は俯いている。顔色は窺えない。清次は咥えた煙草も手にした箱もテーブルに戻し、その場にしゃがんで、俯く中里を見上げるようにした。
「京一は帰ってるぜ。昨日の時点でな」
電気でも走ったように、中里が体を小さく跳ねさせ、清次から顔を背け、舌打ちした。
「何で、あんなことになっちまったんだ」
泣きそうな声だった。泣いてるのかと思い、足を動かし、中里の顔を追って覗くが、泣いてはいなかった。ただ、寄せられた太い眉の根も噛み締められた厚い唇も、顔中に後悔を染み出させている。妙なところでモラルに執着する男だった。この様子からして中里は、京一をセックスに加えたことを、気にしているのかもしれない。
「気にしてんのか」
判然とはしないから、清次は聞いた。中里は恨みがましく見てくると、お前、と呟くように言った。
「気にしねえでいられると、思うのかよ、あんなこと」
つまり、気にしているらしかった。何とも釈然とせず、清次は呟いていた。
「気にしたって仕様がねえって思うけどな、俺は」
「仕様がねえ?」
不審からか、力のこもり出した顔を中里は寄越してきた。清次はそれを見据えながら、考えを述べる。
「やったやられたってのはよ、良けりゃ良い、悪けりゃ悪い、それだけだろ。そんなもん、気にしたって仕様がねえ。良いならそれでいいじゃねえか。何もねえよ。俺はそう思うぜ」
あの時の中里は、至極良さそうだった。今までに見たことがないほど、良さそうだった。どんなセックスであれ、良いならば、それは良いことだ。気に病むことではない。
「……須藤は、お前の仲間だろ」
渋面になった中里が、ぼそっと言った。仲間という言葉の響きの軽さに清次は違和感を覚えたが、京一とは目的を同じくする同士であり、表現として間違いではないので、そうだな、と肯定した。
「まあ、仲間だ」
「走り屋だ。俺も、話は、聞いてるぜ。すげえ奴だと。そういう奴と、それで、お前は……お前は、平気なのか」
「俺? 俺は別に、どうとも」
京一は走り屋仲間であって、私的な友人ではない。京一と私的な友人関係を結んでいたら、そもそも中里とのセックスになど誘ってはいない。あの男は個人的な関係では規律や倫理を重んじる。走り屋関係では欲望を第一義とする。そして清次は京一とは走り屋仲間だ。京一が欲望を優先することなど、承知も承知、平気も平気である。それを平気かと、問われる理由も分からなかった。大体、気に病んでるのは中里であって、自分ではない。
「……どうとも?」
「何とも思わねえけどよ。お前は何がそんなに気になるんだ」
中里は驚いたように見開いた目でこちらを見、しかしすぐにまた俯いて舌打ちし、やましげに、呟いた。
「お前と俺は、付き合ってんじゃねえか」
数秒、清次はその言葉を認めなかった。それまで向けられたことのない言葉だったため、意識に通ずるまで時間がかかったのだ。だがそれも数秒のことだった。その言葉に気付いた瞬間、清次の頬は緩んでいた。勢いよく顔を上げた中里は、笑んだ空気を周囲に漂わせる清次を見て、憤怒の形相になった。
「笑うんじゃねえ!」
「や、ワリイ、お前の口からそんな言葉が出てくるとは」
口角を上げたまま、清次は言った。こちらを好きにならないと宣言しているこの男に、甘い感情を否定したがるこの男に、付き合っていることを確認されては、何やらくすぐったくて、笑うしかなかった。
「だからッ、それで何で、俺があんなことやって、そんな普通でいられんだよ!」
怒りを発したまま、中里は叫んだ。泣いているかのような充血した目で睨まれると、後頭部がぞわぞわと快感に騒いで、思考は素早くは回らない。だが、付き合っていることを確認された理由が、痛烈な叫びでもって示されたことは、怒りと苛立ちと恥辱とが赤くしている中里の顔を見れば、考えるまでもなく分かった。その答えはまた、背中全体を愉悦でくすぐったくするのだ。
「ああ、恋人以外の男にやられてよがってたのに、ってか?」
やはり笑いながら清次が言うと、中里は奥歯を折りかねないほど顎を震わせ、クソッ、と噛み締めた歯の間から、怨嗟の音を吐き出した。
「お前のこと、殺さなかったのが、間違いだった」
強い後悔が感じられる口調だった。殺意は感じられなかった。肌上数センチにまで殺気を醸し出されていた頃は、近づくのも命がけだったが、今はただ抱きつく程度なら、殴られる心配もしなくていい。それでも殺気は、中里の肉の中に潜んでいる。だからこそ清次は傍に寄りたくなる。殺したいほど気にかけられていることを、肌から感じたくなるのだ。
「……おい」
ベッドにのぼって毛布ごと背中を抱えると、中里は不満げに呻いた。振り払われなければ離れる必要もない。腹の前で手を組んで、右肩に顎を置いて、確かにその体があることを感じる。こちらを殺したがっている男の体だ。京一に翻弄されていた男の体だ。恋人以外の男にやられてよがっていた男の体だ。それに、屈辱と罪悪感を覚えている男の体だ。
「俺はお前が良けりゃ何でもいいんだよ。良くなってくれりゃ、何でもな。しっかし京一もあれだけやるとは、すげえ奴だよな。また誘おうぜ」
自分がまったく気にしていないことを知らせるよう、清次は平然と囁いた。だが中里は、気に病んでいるような声を絞り出す。
「おかしいぜ、そんなことは」
「何が」
「何がって、お前」
「お前、俺のこと好きじゃねえんだろ」
軽く聞いてやっても、数秒、間が生じた。
「……そうだ」
ただ頷けばいいというのに、そこでためらうことが、どれほどこちらの心を甘くするのか、一層体を抱えていたくするのか、中里は知らないのだ。知らないから、離れさせてくれないのだ。
「でも、お前は俺と付き合ってる。俺とお前は恋人同士だ。恋人は、特別じゃねえか。それでいいんだよ、俺は」
他の男は所詮、他の男である。中里と付き合っているのは自分一人だ。誕生日だからと中里が天変地異が起こりそうなほどのサービスをしてくれるのは、自分一人に違いなかった。その特別さだけで、清次は十分だった。
「自惚れるなよ」
苦々しげに、中里は呟いた。その耳に清次は直接、分かってるさ、と告げる。ありきたりの事実も、そんなことにしか釘を刺せないこの男の強情さも、すべて分かっている。分かっているから、つい手が伸びる。毛布の切れ目から、ひたすら愛おしく感じるその素肌に、触れている。
「分かってねえだろ、てめえ」
怒りを復活させた中里には、幸福な笑いをくれてやり、その腹に直接両掌を当てたまま、皮膚と汗と体温を感じながら、清次は言った。
「ありがとよ、昨日は」
感謝の言葉は幾度か告げたが、すべてが終わった今言うことは、包括的な意味を持つ。中里は、息を吸い、止めて、何も言わずに吐き出した。
「最高だった。あんなに最高の誕生日は、生まれて初めてだ。お前のおかげだぜ」
心底から、清次はそう思う。この男がいてくれなければ、今すぐ死んでもいいと思えるほどの幸福など、味わえなかっただろう。まだまだ生きていたいと思えるほどの充足など、味わえなかっただろう。顔の筋肉が笑みを作るのを、清次は止められない。中里の肌を手で、舌で確かめるのを止められなかった。
「やめろ、お前……」
震える声は、喉元に吸いつくと、息となって消えた。頬に触れる頸動脈も、腹から胸へと伝い上げた掌に響く心音も、強く、速い。自分の心臓まで、同じ調子で動いているように感じられる。血液が全身を駆け巡り、下腹部に集まっていく。使う気はなかったが、使える態勢になってしまえば、使う他には意識が及ばなかった。動きも止められなかった。中里の腹を抱え直し、清次はそのまま斜め後ろに倒し込んだ。広いベッドは二人の体を悠々と受け止める。すぐに体を起こし、中里の上になり、毛布を剥ぐ。笑みを止められない顔を清次が寄せると、朱に染まった頬に動揺を走らせながら、中里が見上げてくる。
今日はもう、昨日ではない。何の貸しかは知れないが、借りになるまで返してもらっている。今日、中里が奉仕をする理由はない。だが、中里は拒まなかった。嫌悪と恐怖と逡巡とで顔を強張らせながらも、逃げようとはしなかった。殺意を肉の奥に潜ませて、好きにはならないと宣言し、好きではないことを時間をかけて認めながらも、こんな風に受け入れてくるものだから、清次の心は蕩かされて、笑いは止められないし、関係も止められないし、性交も止められない。
「好きだぜ」
唇を合わせながら、言う。肩を掴んでくる手に力が込められ、正面に置いた顔はわずかにずれる。それを追って、舌で唇を舐め、その裏を舐め、歯を舐め、その裏を舐め、舌を誘い出す。深く絡ませると、肩にかかる中里の指が、何かを耐えるように細かく動くのが分かる。その顔の脇に置いていた手を、清次は下半身まで一気に伸ばした。右足の膝の後ろに手を入れて、胸まで上げさせ、内腿から、尻まで手を這わせる。その奥は、寝る前に始末をしたにも関わらず、汗で濡れているだけの指でも、受け入れられる程度には、まだ柔らかかった。
唇の下で、中里が呻く。喉に絡まった低い声は、いつになく鼓膜を震わせて、心地良い。尻の奥が広がることだけを確認して、清次は指を抜いた。また、中里が、呻く。呻いて、何かを我慢するように、肩を掴んでくる。その痛みに促されるように、下りかけた足をもう一度上げさせて、清次は中里の奥へと自身を挿入した。中里が、喘ぐ。
「あっ……、あ……」
その体を追い詰めないように、少しずつ、じっくりと、清次は肉を馴染ませていく。肉体には疲労が残っている。急ぐつもりはない。快感は逃げない。留まるだけだ。じわじわと、肉を、骨を締めつけてくる、緩く長く深い快感は、無駄な動きを強要せずにいてくれる。
「なあ、毅」
声を出すことに労は要らない。名を呼べば、内部を瞬間緊張させた中里が、ずっと逸らしていた目を、頼りを求めるように向けてくる。清次はまだ、笑いを止められない。
「今、お前に入れてんのは、誰だ」
理性の揺らぎが、無理解が、その目元を強張らせる。
「……何言って……」
「ほら、誰だ」
ほんの少し、腰を引きながら言うと、中里はぎゅっと目をつむって、息を吐いた。顎の震えで、汗が、頬を落ちていく。肩を掴んでいる手も、小刻みに震えている。その全身が、震えていた。
「言ってみろ」
隠れた額を、髪を静かに掻いて晒させる。そこに、眉を曲げる源を見、清次は思わず口づけた。
「清次」
枯葉が潰れたような声だった。だが、確かにそれは声だった。中里の顔全体が視界に入る程度だけ、離れる。その理性が欲望に食われた顔を、目を向けられながら、名を呼ばれると、唇を上げるしかない。
「もっと言えよ」
請うまでもなく、息を吐くついでのように、中里は声を出す。その度に、清次を包んでくる肉が、静止を嫌うように、動く。
「清次、清次……」
それが人名であるという意識を捨てたように、中里はいちずに言う。それが自分の名であるという意識が清次にはある。それを中里に言わせていることの、骨も肉も融けそうなほどの快感は、ただつながっているだけで、得られてしまう。
「あ、あ……」
じっとしていると、唐突に中里が、体をずり上げた。離れられないよう、慌てて肩を掴み、押しとどめる。中里は、遠くに目をやり、忙しく呼吸をし始める。瞬きが増え、こめかみにまで欲望の爪痕が刻まれる。筋肉の無常の動きが、清次の肉体に伝えられる。中里が、頼りを求めるように、名を呼んでくる。助けを求めるように、名を呼んでくる。時折嫌だと言ってはまた名を呼んできて、肩に爪を立ててくる。清次はただ中里を感じている。その肉の動きの変化にうっとりとする。中里は次第に言葉を作れなくなっていく。清次がその名を呼んでやれば、泣きそうな声を上げ、清次を締め付ける。喘ぎは嗚咽のようになる。清次の肩を折らんとするように強く掴んだ中里はそして、切れ切れの声を上げながら、全身を痙攣させ、果てた。
その呼吸が落ち着くまで、清次は中里を抱いて動かなかった。やがて中里は、泣きそうな声のまま、名を呼んできた。それを合図と取り、触れるだけのキスを捧げ、清次は動くことにした。疲労に邪魔されながらも、短く強い快感を求め、腰を振るい、体勢を変え、速く鈍く、鋭く遅く、清次は動いた。頬まで疲れさせる愉快さは、持続するあまりに静まったが、それでも唇の端から力は抜けなかった。
中里が誰とやってよがろうが清次は気にしない。気にもならない。中里が良ければ何でも良い、良くなってくれれば何でも良い。しかし二人きりは、やはり特別だ。特別にしているのが、中里なのだ。だからこそ、鈍麻している中、吠えたくなるほどの絶頂も迎えられる。その最後、虚脱を覆い隠すほどの精神の充足が運ばれる。
すぐには離れがたかったが、快感の波が去ると、残っていた疲労の波が押し寄せてきた。仕方なく終わったものを抜いて、中里の隣に寝転がり、一息吐く。背にシーツを感じると、煙草を吸いたくなった。清次はベッドの横のテーブルに手を伸ばし、箱から出したままだった一本とライターを取った。
「……ああ……クソ……俺は……」
やるせなさそうな声が、横から聞こえる。いつものことだ。それにすら、清次は満足する。寝たまま煙草を咥え、火を点ける。吸うと、疲労の上に重みが加わり、吐き出すと、重みが薄れ、疲労も薄れるような感覚が生じた。疲労が薄れると、胃の軽さが濃く感じられる。
朝飯にはまだ早いが、二度寝のできる体質ではない。今やるべきことも特にない。もう何か食べてしまおうか。食べるなら手でつまめるものが良い。コーヒーに合えば言うことがない。冷蔵庫の中にあるものを思い出しながら、清次は呟いた。
「ハムサンド、食うか」
食おう。そう決めてから、中里を見る。中里は、顔を手で覆っている。何も言わない。だが、どうする、そう問えば、ああ、と言った。それを聞いて清次は体を起こし、溜まった煙草の灰を灰皿に落としてから、玉子サンドもありだな、と思った。
(終)
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