あたう時間 1/2
走り屋同士の飲み会は気楽なものだった。特にチームのメンバーで、それが古参、妙義ナイトキッズの核弾頭と比喩されるほどの、一部に対する抑止力を持つ者たちであれば、尚更中里は遠慮を持たずに済んだ。彼らは合計四人であるが、皆、精鋭であり、また酒豪であったのだ。
その中の、卑怯な行いを真摯に達する、妙義ナイトキッズの人間凶器こと庄司慎吾が、日課のパチンコでもぎとった勝利を酒に変え、自らがすべてを持った飲み会を主催するというのは、まこと罠かと疑わしいものだったが、要するに皆、飲めれば何でも良いという楽観主義者であったので、計画に乗った挙句、今に至っている。狭い部屋に五人の男が詰まって、煙草と酒と汗の匂いを撒き散らし、質より量を取ったアルコールを体内に流し込み、あちらで車の性能に関する真面目な話し合いを開けば、こちらで女の性能に関する真面目な話し合いを開き、話題は四方八方へ飛び散って、収拾がつかない。しかし、皆が常識的な基準を忘れているために、全体としてはかみ合っており、寄り合いは不可思議な混沌さと整然さが入り混じった様相を呈していた。
そんな時、顔が真っ赤な割には呂律のしっかりした慎吾が、顔が真っ赤で呂律も怪しい中里へ、そういやよ、と唐突に切り出したのだった。
「前のアレ、あっただろ」
「何だ、アレってのは」
「アレだよアレ、俺がインフルエンザの集団に苦しんだ時」
うん?、と中里は枝豆をもごもごと口の中で転がしながら考えようとした。しかし、思考は既に泥沼に落ちており、その先に言葉は生まれなかった。一方、元々米粒程度にはあった人の話を聞くという気遣いが、小一時間ほど前から消え失せている慎吾は、考えるということをしようとしている中里をそのままにして、話を続ける。
「俺がせこせこ働いてだぜ、時給も安いってのにもう眠れないなんてお前最悪だってえの、でその時だよ毅クン、その時なわけだ! ザ・タイム・オブ・俺のストレスフルだよ!」
バシン、と慎吾に勢い良く背中を叩かれ、中里は飲み込んだ枝豆を噴き出しかけたが、慎吾は気にせず話を続けた。
「突如俺の目の前に現れたるその男! いや、名前は呼ばれたけど、俺は知らなかったね、あんな奴。ごつい顔しててよ、妙に威圧感がありやがるんだよ、この俺相手に睨みを利かせてくるってえのがてめえぶっ殺されてえのかって感じでよマジミンチにしてすり潰して一反もめんに変えてやろうか、っつーかあれってお前の知り合いなワケ?」
それまで宙に向かって語っていたというのに、最後の最後で突然正面から見据えられ、中里は一瞬冷や水をぶっかけられたような気分になった。しかし、リットル単位で体に入った酒が抜けることは無論なく、すぐに思考はぼやけた。
「……知り合い、っちゃあ、知り合いだなあ」
「アレだろ、アレがお前飲み会にお前のことを飲み会で、俺のインフルエンザがために参加できなかった酒が、命に関わることだったんだろ?」
「命、そう、命だよ。命は大事だ」
丁度一ヶ月前に亡くなった犬を思い出し、中里は涙腺を刺激された。と、テーブルを挟んで前に座っている一人が、「アレ、中里が途中で抜けたアレかね」、と会話に入ってきた。アレだよアレ、と慎吾は頷く。
「むしろ俺の人生が最下層まで転落しかけた瞬間のアレと言った方が正しいかもしれねえが」
「え、慎吾の人生ってオールウェイズ底辺じゃね?」
「ドゥーノットだよ、てめえ死んどけ」
「殺すぞボケ、アレ、死んだって親戚だっけ? 親戚死んだんだべ?」
へらへらした顔で慎吾に言った男が、へらへらした顔のまま中里を向いた。うん、と枝豆を頬張りながら中里は曖昧に頷いた。完全なる嘘だが、遠くの親戚より近くの飼い犬という事実はあったので、それほど違和感はなかった。へえ、と意外そうに慎吾が閉じかけている目を開き、じゃあ喪中かよ、とその隣の男が言ってくる。親戚だったら別にいいだろ、と返したのは問われた中里ではなく、きちんと目を開いた慎吾だった。
「よっぽど仲良かったってんなら、喪に服すのもアリだろうけどよ」
「なあなあ、男で喪に服すってオナニー禁止ってこと?」
中里の斜め前方にいる男が挙手し、オナニーはいいんじゃねえの、とスルメをかじっている男が言った。
「愛し合うのが禁止ってこったろ」
「えー、一年間エッチ禁止かよ」
「そりゃ四十九日でいいんじゃね?」
「お前ら冠婚葬祭の基本ルールくらい知っとけよ」、とへらへらした顔の男が笑う。中里は枝豆を飲み込み、もう味もへったくれもない日本酒に口をつけた。チャンポンもいいところだが、いつも通りの酔いだった。かろうじて回る一部の思考で、結局俺は喪に服しちゃいねえな、と思い、思った内容に、すぐに一人で戸惑ったが、相変わらず会話を進めるだけ進めている者たちは、中里の動きが鈍くなったところで気付かなかった。
「だから、葬式は喪服で行けってんだろ?」
「結婚式は純白タキシードに蝶ネクタイでな」
「で赤いちゃんちゃんこを着て太鼓を叩いて踊るんだな」
「っていうか女が喪に服してもオナニー禁止なの?」
「エッチだろエッチ、未亡人だったらよ」
「そりゃお前亭主の仏壇の前で別の野郎の肉棒咥えちゃあなあ、火サスだぜ」
「いや、禁止されてるところをやってるところを目撃してそのまま襲いかかるのが、日本ならではの風情じゃねえか」
「まさに日本の文化だな」
「不倫か」
「ハイ、異論ナシでーす」
俺も俺も、いや俺は不倫じゃなく純愛派だ、愛って何だ、愛はスカトロだ、カストロ?、などと四人がくっちゃべっている間、中里は黙って酒をすすっていた。突拍子のない会話に突拍子もなく入り込むには、わずかに酔いが足りなかった。醒めたのだ。折角ごまかせたことを改めて考えて、急に真実が露見することが、恐ろしくなった。親戚が死んだと言った日に、会った男のことについてだった。
ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が単調な電子音を発したのは、その時だった。
「お前マナーモードにしとけよ、マナーの話してんだからよ」
と機嫌良く笑ったのは慎吾で、続けざまに他の者たちが、「っていうか着信音もっと若者的にしなよ」「いやそこはこだわりだろ、昭和的感覚の主張だよ」「俺の着メロベートーベンだぜベートーベン」、と言い出す中、中里はおもむろに携帯電話を取り出して、発信者を見、ぎょっとした。既に三回コールされており、次が四回目である。冷や水をぶっかけられたような気分が今度は続き、悪い、電話だ、と言って中里は席を立った。「んなもん見りゃ分かる」「女か女」「男だろ」「いや子供だ」「ペットか」「仕事かよ」、という野次馬の言葉を適当に受け流し、廊下に出、何となくトイレに入って蓋が下りたままの便器に座る。そして深呼吸一つののち、通話を開始した。
「はい、中里」
『須藤だ。分かるだろ』
ああ、と中里は携帯電話を持つ手とは別の手で、顔に染み出た汗を拭った。体液に浸透してくるようなその低い声を聞いただけで、体温が一度上昇したように感じられ、しばらく見ていない顔が頭蓋骨の内側に浮かんでくると、更に一度上がったようだった。汗で皮脂で、指が滑る。
『今いいか』
「ああ、いや、全然まったく大丈夫だこれっぽっちも、問題ない」
変わらぬもったりとした声で尋ねられ、中里は緊張で渇く口内に鞭を振るい、ああ問題ない、まったく、と繰り返した。そこで生じた数秒の間は、電波のためだろうと解釈し、何だ、と続けて問うと、
『仕事が早く終わってな。明日、予定通りに休みが入る』
須藤は淡々と言い、そうか、と中里は粘つく唇を何とか開くと、唾を飲んだ。どぐどぐと心臓が唸り出す。呼吸が我知らず浅くなり、息苦しさを覚えた。そう、明日が休みというのはこちらも同じだ。だから、突然の飲み会にも参加した。ただ、須藤の予定は知らなかった。胃が何者かに鷲掴みにされているような、吐き気に近い不快さがせり上がってくる。それを堪えるためにもう一度唾を飲み、それは良かったな、と怪しい発音で言うと、理論的なくせに変則的な男は、
『飲んでるのか』
と、前置きなく、見事に事実を言い当ててきた。無視していた後悔が津波のように眼前から襲いかかり、中里はそれに溺れかけながら、分かるか、と閉じようとする喉から声を絞り出した。
『喋り方がおかしいからな』
「いや……すまん」
『別にいいさ。今からそっちに行く、用意しとけよ』
は?、と中里は、誰に見られているわけでもないのに、完璧な驚きの顔を作っていた。
『優先してもらう』
須藤の声は変わらず淡々としており、じっとりと体中に、頭に回っていった。中里はどんどんにじみ出てくる顔の汗を拭いながら、いや、と考える時間を置くために言った。
「それは勿論、そうだ、そうするぜ、俺は、しかし今回は俺もしこたま飲んで」
『ああ。じゃあな』
まさか話の途中で去られるとは思わなかったので、あっさりと通話が切られた携帯電話に対し、「ああ!?」、と中里は叫んでいたが、そこから須藤の声が聞こえてくることはもうなかった。考える時間が与えられると同時に、須藤に対して考えたことを述べる時間は奪われていた。
たっぷり十秒経ってから、携帯電話を手にしたまま、うわあ、と頭を抱える。
「……ありえねえ」
呟くも、ありえる話だと理解していた自分が、腹をくくれとせっついてきた。いついかなる時でも、要求されれば一度は時間を作ると、自ら約束したのだ。それは心底からの望みだった。だから最初の一週間は今か今かと身構えたが、そこは短気集中型の中里である。次の一週間では既にたまにぼんやり物思いにふけては一人羞恥に身悶える程度で、本日にまでなれば、まあそんな都合良くはいかねえだろう、とすっかり油断しきっていた。
――いつもはいかねえくせによ。
タイミングの悪さに、舌打ちする。それに、あの男相手に、都合の良し悪しを考えた自分の過失も腹立たしかった。計画は理詰めに慎重に立て、行動は素早く大胆に、周囲の状況には流されず、それを見極める力を持った男だ。だから須藤にとっては己が好機と見切った瞬間が、たがうことなき実行の時である。タイミングが良いとか悪いとか、運のレベルでの話が通ずる相手ではない。そう知っていたはずだった。それを忘れて調子に乗った、自分の失敗だ。
後悔ばかりが胸に渦巻き、クソ、と中里は便座の蓋から腰を上げた。何はともあれ、あの男を優先することは、元々自分の願いであって、それは今も変わっていない。だとすれば、やるべきことをやるのみだ。酔いと緊張と後悔と期待は、中里に、眼前の出来事への過剰な集中力を与えていた。その代わり、その先に関する注意は削ぎ落としていた。
廊下を靴下でこするように歩いていくと、皆は哄笑していた。腹を抱えて、大口を開けて、絨毯の上にうずくまってと、それぞれの笑い様であったが、その中でも皮肉屋という立ち位置を崩していなかった慎吾が、片頬を大きく上げた顔で、おう誰だったよ、と不躾に、とりあえずという具合で尋ねてきた。
誰かなど言えるわけもないし、知り合いと答えたところで話が進まない。中里は頭が真っ白になった。適切な説明が考えられるほど思考が無事ならば、そもそも須藤にもうまいセリフを返している。数秒、沈黙が流れ、中里はその間に無意識に、電話が入る前に行われた会話を漁っており、何となく引っかかったものを調査もせず、使用した。
「実家の犬が、死んだ」
へえ、と特に興味もなさそうながらも眉を上げた慎吾に、だから俺は帰る、と中里は言い切った。「は?」、とそれまで笑っていた者も、中里の唐突な説明に、耳を傾け出した。
「喪に服す。俺は。今から」
いやいやいや、と一人がツッコミどころを探すように苦笑し、一人はあのーと手を上げた。
「すんげえガイジンっぽいんすけど、中里サン」
「そういうわけだ。悪いな」
「っていうか帰れんの? タクシー呼ぶ?」
一人が立ち上がろうとするのを、いや、と中里は遠くから手で抑えた。
「酔い覚ましに歩く。つまり、汗をかいて水を飲めば、アルコールも出ていくだろ」
「アルコールって肝臓で分解されんじゃねえの」、としたり顔で指摘したのは慎吾であったが、いまだに頭を回らせていない中里は、だからまあ、気合だ、と科学を無視した。滑って転ぶなよお、という心配の声にも、根性だ、と精神論を唱え、中里はそのまま場に背を向けた。
タクシーを呼ぶ人間も、送ろうとする人間もいなかった。走り屋同士の飲み会は気楽なものだった。特にチームのメンバーで、それが古参、妙義ナイトキッズの核弾頭と比喩されるほどの、一部に対する抑止力を持つ者たちであれば、尚更中里は遠慮を持たずに済んだ。それはつまり、こういうことだ。
夜露に濡れて黒々と光っている歩道を、だるい太ももを上げ、スニーカーで踏みつけていく。一歩一歩、機械的に足を運ぶ。犬は死んだが、喪に服することはない。奇妙な心持ちだった。前回と違い、完全なる嘘ではないが、かといって事実は言わず、場から抜け出すことに成功した。いつの間に、自分はこうまで器用になったのだろう。慎吾に須藤について尋ねられた際もそうだ、焦りはさほど生まれず、不自然にならぬ程度に受け流せた。酒のせいだろうか、と思う。確かに神経は鈍磨しているようだった。でなければ、こうもうまくはいなかっただろう。あるいは、こうまで酔う状況でなければ、そもそも嘘を吐かずに済んだかもしれない。靄がかかった頭で思うが、具体的な想像はなされなかった。馬鹿騒ぎのさなかから続く高揚感と、かつての愛犬の死を私欲に利用したことによる罪悪感、唐突に訪れた約束を達する機会への期待、単純に、久しぶりに会えるということへの喜びと、一抹の不安とで、感情は混沌とし、歩くことに意識が向かぬほど、まったく奇妙な心持ちだった。
曲がるべき角を曲がりながら、そう、久しぶりだ、と思う。以前よりは短いが、それでも久しぶりだ。今までどうしていただろうか。調子はどうだったか、何か目新しいことはあったか。話すべきことはあっただろうか、伝えるべきことは? 考えたって仕方がない、すべては会ってからだ、会ってから、早く会いたい、顔を見たい、しかし何かなかっただろうか、見落としていること、やらなければならないこと、やってしかるべきこと……。
その復習と、どろりとした感情に完全に飽きた頃、自宅に着いた。一時間はかかっていないが、三十分は越えたような疲弊感が、靴を脱いだところで全身を支配し、かろうじて電気を点け暖房を入れると、中里は着の身着のままベッドに沈み込んだ。歩くことには慣れていたが、柔らかな布団の上に寝転がると、安息していた。ああ、と酒臭い息を肺から一気に吐き出す。準備をしなければならない。何のだ? 優先するんだ。何を? 約束しただろう。誰と。誰が、何を、約束したんだ。つむった目の裏で、ぐるぐると世界が回り出す。『怪しまれずに帰宅する』という目先に集中しすぎたために、中里は既に本来の目的を見失っていた。やらなきゃならない、そう思いながらも、力の抜け切った体と頭は、睡魔にあっさりと持っていかれた。
さてこれはどうしたものか、と京一は一切焦らず怒らず慌てず考えた。夜中に電気が点いていて鍵がかかっていなければ、家主は起きているという解釈が妥当であって間違いなかろうが、実際のところ、この部屋の主はベッドの上で着の身着のまま、掛け布団の上でうつ伏せに、睡眠中である。現実とは折々推測通りに進まないものだ。電話をしてからすぐ飲み会を抜け出して来たのかもしれないが、それで準備もせずに寝てしまえば水泡だろうに、余程疲れていたのだろうか。
さてこれはどうしたものか。明快な選択としては、叩き起こして一発励む、寝かせたままにする、という二つである。しかし前者はあまりに下劣な行いだ――いつもしていると言えばそうだが、品性と情緒を重視すべき時もある――、となればこのまま休ませるが最善だろう。京一はひとまずジャケットを脱いでハンガーに掛け、次にベッドに転がる男の睡眠の程度を確かめてみようと、頭の左右に両手をついて、壁側を向いているその顔を覗き込んだ。呼吸は乱れず、意識が揺れる気配はない。熟睡だろう。欲が頭をもたげぬでもなかったが、急ぎもしていない。久方ぶりに過ごせる時間はまだまだある。お互い万全な体調であればこそ、加減をせずに済むというものだ。身を休ませるために、電気を消してやろうかと京一は中里から身を離そうとした。覆い被るようになっていた上半身を起こし、頭の横についた手を外す。
注意が既に天井の蛍光灯へと移っていたその時、突如腕を引っ張られ、京一はバランスを崩した。気付けば先ほどと同じ体勢、中里の頭の横に両手をつき、その体に触れないように覆い被さっている形となっていた。腕立て伏せを途中で止めたような負荷がある。京一はついた右腕を戻そうとしたが、中里に掴まれていたのはその右の手首で、容易に動かせはしなかった。
「おい」
声をかけるも、身じろぎもしない。しかし夢でも見ているのか、腕を握ってくる力は軽くはない。左側からベッドに上がり様子を見たため、右腕を外しさえすれば覆う形にはならないのだが、掴まれているものを無理矢理引き剥がすほどのことでもないと思えたので、京一はベッドの上のわずかなスペースに体を上げ、横になり、中里の背中から右肩にかけて、右腕を乗せた。さすがに男一人が大の字になっているシングルベッドに、もう一人もごろりと寝転がるのは無理がある。端から落ちないために、京一は多少中里の背に被さるようにした。掴まれた右手首は、いまだ動かせない。自然、ため息が漏れた。なぜこうも寝ている人間が必死に捕らえてくるのか、京一には分からなかった。ともにこうして一つのベッドで休んだことはあっても、寝言は聞かなかったし、寝て見る夢について話したこともなかった。まだまだ知らないことが多いのだ。
と、急に右の手首が動かされ、手の甲に、渇いた肌の感触がもたらされた。枕の隣に左手で頬杖をついたまま、京一は動きを止めていた。熱い息が、手の甲に、触れる。皮膚を通り、血液に侵入し、全身に熱を分け与えてくるようだった。右手が殊に、熱くなる。ぞくりと、背筋が粟立った。
「……京一……」
掠れた声が肌から、耳から伝わってきて、途端、ぎくりとする。そうした自分に、また京一は短く動揺し、耳に意識を集中させていた。だが、次に聞こえたのは、
「……たこが……くる」
という、寝言としか考えられない呟きで、そしてその後に日本語が聞こえることはなく、右の手首も離されていた。
――タコ?
京一はひとまず自由になった右手を何度か握って具合を確かめ、中里の右肩に置いた。タコ――もしか、巨大な蛸に襲われる夢でも見ているのかもしれない。夢など突拍子もないものだ。起きたら聞いてみるか、と考えていると、んん、と中里が動いた。顔を枕に真っ直ぐ埋めてから、京一の手を払うように、左からばたんと仰向けになる。そうして顎を掻き、再び寝息をかきだした。
中里が今までいた場所に体を運びつつ、京一は感心した。不思議なことに、この男はいくら寝ている最中体勢を変えても、こちらを蹴ってくるということがなかった。今もそう、背中に乗せていた手が払われたくらいで、他に体には触れられていない。才能の浪費だな、と思いながら、自分の下で潰れていた掛け布団の端を引っ張り、真ん中を潰している中里の体を巻くように乗せてやる。その気遣いは、暖房が効いており部屋が暖かいためか、中里の夢の世界のためか、押し返された。京一の体に掛け布団が乗り、そうして中里自身も乗ってきた。すなわち、掛け布団を跳ね返した勢いのまま、京一に被さってきたのである。左の首に中里の顔が埋まり、他は厚い綿と布に阻まれ、重みが加わるのみだったが、全体としては力も加わっているようだった。吐息が今度は、直接喉に伝わってくる。
「中里」
またも自然に漏れるため息とともに言うも、どうやら単なる布団と思われているのか、胸越しに肩へ乗せられた左手も、股の間に入れられた左足も、甘くこちらを締めつける一方で、離れそうもなかった。すん、と鼻をすする音が聞こえる。起きる気配はない。できれば目が覚めている時に、布団を挟まずやってもらいたいものだった。そうすれば出番を判断しかねているものも、思う存分出してやれるのだ。
鼻から息を吸うと、酒と汗の匂いが飛び込んできた。少し首の付け根を動かし、中里の顔を視野におさめてみる。閉じられた目の下を、密度の濃いまつげが影を作っている。額や鼻の頭、こめかみ、顎、顔のいたるところに汗が浮いており、じっとりとした髪が、その肌に一本一本張りついている。目元から頬から唇からは、赤く染まっていた。その寝顔を見ていると、胸の奥を、懐かしさがざらりと撫でた。一つ一つの行為がまだ新鮮で、それ自体が重要性を持っていた頃の感覚が、蘇ってくる。将来自分が独りでに変革するなどと誤信もしなかった頃の、親に養われ、勉強と部活に明け暮れていた頃の、それ以外、ほぼ知らなかった、知りたくもなかった、車に多大な興味を覚えることもなかった頃の、単純な感覚だ。打算なく、必死に、真剣に、それしかできなかった。人を抱えることすらも、何か偉大なことのように思えていた。そう、とても神聖で、厳格なものなのだと。
京一は目を閉じた。布団越しに胸を抱えてくる手に触れる。青臭いが、安らかな気分だった。あの頃に失望したものが、希望を裏切らずに今、ここにある。自信も誇りも猛らず、ただ、力が抜けていった。
気分であらば、目覚めの時もまた安らかで、他人が隣に寝ていることで関節の滞りを感じることの、青臭さもあった。しびれが鬱陶しく、けれども半ば心地良い。何も考えずに眠ることも、起きることも、久しぶりだった。変わらずこちらに半身の体重をかけている中里をそっと持ち上げ、そこから抜け出すと、京一はベッドから降りた。ベッドのスプリングが弾み、中里は壁側へと寝返りを打ったが、目覚めはしなかった。
点けっぱなしだった電気を消し、窓を覆う青色のカーテンを開けると、カーテンよりも薄い色の空と、明るい町並みが見えた。人工的な光の消失ののち、太陽光が部屋の輪郭をはっきりとさせる。腕時計を見ると、午前九時をたっぷり過ぎていた。約六時間前に寝た割には、遅い目覚めではなかっただろう。
日光を窓越しに浴びたところで、台所へ向かう。水を入れたやかんを火にかけ、その間に洗面所で顔を整え、用を足し、台所に戻って道具と材料とカップを探し出し、水が沸騰してから、インスタントコーヒーを二杯入れ、ベッドへ運んだ。狭い部屋だが、床は多く見えていた。物は邪魔にならない程度に棚に収まっており、整頓され、埃も目にはつかない。神経質にまで入らない几帳面さ持っている男だった。そのくせ、私生活での性格は几帳面さには欠けるのだ。もう少し感情を抑えるなり、不都合をさばく技術を持てば、敵も作らず厄介も背負わずに済むだろうに、意地とともにある真正直さを持つものだから、面倒を増やしていく。
この件もそうだろう。もっと狡猾であれば良かったのだ。テーブルにカップを一つ置き、一つに自分の口をつけながら、自覚をすりゃあいいものを、と京一は思った。武器を持っていても使えなければ、丸腰と同じだ。それは本人が気付かねばならないことだから、京一は何も言わずにいる。その結果のこの落ち着きとは、皮肉なものだった。
一杯を飲み干したら行動に移そうとしていたが、その前に、衣擦れの音が大きくした。頭をめぐらすと、壁に向かって寝ていたはずの中里が、ベッドの上にうずくまっていた。
「起きたか」
尋ねると、ん、と鼻から声を出し、むくんだ顔を向けてきた。眠そうに顔を歪め、よそを向いてあくびをし、あぐらをかくと、不可解そうにこちらを見てきた。
「……須藤?」
「何だ」
「いや……何でお前が……」
呟きながら耳の後ろがりがりと掻き、窓の外を見た中里は、京一が正解を告げる前に、驚愕の顔になって再び向いてくると、目にもとまらぬ速さでベッドの上で土下座をした。
「す、すまん、須藤!」
「コーヒー飲むか」
「ね、寝るつもりじゃなかったんだが、いや、こんな言い訳は……あ?」
顔を上げた中里は、まだ何も信じられぬように、差し出したカップと京一の顔とを交互に見た。そしておずおずとシーツについた両手を上げ、カップを握る。そこから手を離すと、京一は漂ってくる空気に、顔をしかめた。
「酒の匂いが残ってるぞ。シャワーを浴びろ、それから出る」
自分のコーヒーを飲み干すと、京一は立ち上がって流しにカップを入れた。部屋に戻っても、中里はカップを両手で握ったまま、ベッドの上で正座をしていた。ため息を吐き、ハンガーに掛けたジャケットを取りつつ、お前は一人合点が好きだな、と言ってやると、忸怩をまざまざと浮かばせていた顔を歪め、中里は京一を見上げた。
「何?」
「ここに来たらお前が寝ていたから、俺も寝たんだ。眠かったしな」
ジャケットを着て、ポケットから煙草の箱を取り出す。一本煙草を指に取る間も、いや、しかし、と中里は赤いような青いような顔で呟いていた。京一が深いため息を吐くと、びくりと肩を揺らし、窺うように、けれども卑屈に染まらぬ目を上げてくる。京一は指に煙草を挟んだまま、肩をすくめた。
「まだ時間はたっぷりある。何も急く必要はねえよ。それで、お前は俺の言ったことをいつ聞いてくれるんだろうな」
ばっ、と背筋を伸ばした中里が、あ、ああ、分かった、とどもりながら、転げるようにベッドから抜け出し、その辺りの棚から下着だけを引っ掴んで、短い距離を浴室へと駆けていった。京一はようやく煙草を咥え、立ったまま火を点けた。煙を吐き出すと、ふわりと宙に広がったそれは、注ぎ込まれる日の光を受け、幾何学的な模様を作った。薄れていく煙を眺めていると、時がひどく緩く流れているように感じられた。約束を無にされかけたことに対しての怒りはなかった。それよりは失望があり、むしろ安堵があった。こちらも疲れていたのだ。万全な体調でこそ、加減をせずに済むし、また加減ができるのである。偶然とはいえ休む機会がもたらされたのは、好都合だった。そうでなくともあの男の前ではつい気を張っていたくなる。自然体だの御託を並べて横着したくはない。くだらない自尊心だが、見逃せるほど愚かなものでも、卑小なものでもなかった。
「悪い、待たせた」
濡れた髪をタオルで掻き回しながら、中里が出てきた。下半身は靴下にジーンズ、上半身は綿のシャツに、皮のジャンパーを既に身につけている。漂ってくる匂いは石鹸の類のみだった。いや、と京一が短くなった煙草を灰皿にねじ込むと、どこへ行く、と髪から顔を拭った中里が聞いてくる。湯上がりで、心なしか肌が透いていた。
「中里」
「何だ」
「行きたい場所はあるか」
改めて聞くと、「い、行きたい場所?」、とどもった中里が、眉間にしわを寄せ、行きたい場所、行きたい場所、と念仏のごとく唱えながら、難しい顔をした。京一はあまりの真剣さに、思わず笑っていた。
「そんな深く考え込むなよ。なけりゃないでも構わねえ」
いや、と無駄な部分での真面目さを発揮した中里が、相変わらずぶつぶつと言い、やがてタオルで髪を押さえると、強いて言えば実家だが、別に今行く必要もねえし、と呟き、再び念仏に戻った。ふん、と京一は頷いた。
「実家か。犬が死んだんだったか?」
「あ? ああ、丁度一月前かな」
「なら墓参りでもしてやれよ。それともご大層にペット専用の墓石でも作ったか」
「まさか。庭に埋まってるはずだ、上に何も置いてなけりゃあ」
冗談にも聞こえるが、中里の顔は深刻なのだった。京一は苦笑し、そうだといいがな、と言って、部屋を出ようとした。え、と中里が今更驚いて、肩を掴んでくる。
「待てよ、それでいいのか」
「それでってのは?」
「だから、お前は行きたい場所とか、やりたいこととかねえのかよ」
「別にねえよ。決めてもなかった」
中里は不審げに見てくるが、事実しか言っていないので、京一は掴まれた肩をすくめるだけだった。
「観光地に行くでも買い物に行くでも散歩に行くでも飯を食いに行くでも、俺はとりあえず外に出れりゃあ何でも良いんだ。中にいるばっかじゃあ、変わり映えもねえからな。それに時間はある。今日一日は、俺はお前に従うぜ」
益々不審そうに顔を歪める中里に、これ以上、自分の思いの変遷を説明することは無意味だと悟り、京一は苦笑したまま、ところでお前、と話を変えた。
「夢は見たか?」
「夢?」
先の無駄な部分での真面目さを取り戻した中里は、そういえば、何か見たような、と呟き、しわを寄せた眉間に指を当てるも、
「ああくそ、思い出せねえ」
と、首を振った。やはりタコに襲われていたのだろうか、と考え、空想を真面目に考える自分が馬鹿らしくなり、そうか、と繰り返して、京一は中里の手を己の肩から外し、先を歩こうとした。すると中里が、おい、と焦ったように問うてきた。
「俺は、寝てる間に何か言ってたか?」
「俺の名前を呼んでたぜ」
振り向いて事実を述べてやると、中里はぎょっとした。その顔に素早く顔を寄せ、唇同士をただ触れさせてから、京一は離れた。
「じゃあ、行くか」
続く足音はドアを開けて閉めるまで聞こえてこず、中里が部屋から出てきたのは、京一が車に乗り込んでからだった。
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