あたう時間 2/2
  2


 気を取り直す間もなく、ランサーエボリューション3の助手席に乗り込んで、道案内をするハメになり、簡単なあらましを告げたのちには、嗅いだことのない匂いと嗅ぎ慣れた匂いの混在する車中で、中里は腕をしっかりと組み、瞬きばかりをしていた。
 己の心に正直になるならば、今、とてつもなく居心地が悪い。
 第一に、寝過ごしたことへの贖罪をしていないため――相手はそもそも罪と考えていないようだが、こちらの矜持がそれを許さない――、第二に、何か良からぬ寝言を聞かれたのではないかという不安が胸をひしめくため――夢の記憶も残っていないので、確証が出ないところが余計に恐ろしい――、最後に、この車には過去同乗したことがないためである。
 今まで交渉を持つ折には、どちらか一方が一方の元へ行き、その場で頑張っていた。よって、須藤京一という、走り屋として高い位置にいる男の普段の運転を横で見るのは、中里にとって、今回が初めてである。自分の運転を見られる緊張とは違う、甘い胸の高鳴りが生じており、またこれまで幾度も交接している相手の隣にいるという落ち着かなさもあり、そして諸々の罪悪感やら不安やらまで体中を張っていて、中里の精神はそれら多くの感情を処理を仕切れず、崩壊の危機にあった。瞬きの回数は異常になり、膝頭は震え、目は一点に留まらず、忙しなく動いた。何だかもう、とりあえず逃げ出したかった。
「どうした」
 そこで声をかけてくる適確さを持つのが、隣の須藤京一という男である。想念に囚われていた中里は、うわ、とのけ反りかけて、ベルトと座席に阻まれ、混乱し切り、「な、な、何だ」、と身構えた。須藤はあらゆる意味での危険さが漂っている中里を一瞥し、何を緊張してるんだ、と訝しげに言った。
「な、何?」
「俺の運転がそんなに信用ならねえか?」
「そ、おい、んなわけねえだろ、お前だぜ」
「それにしちゃ、随分気が気じゃねえ感じに見えるけどな」
 中里が不当に感じ言い返すと、須藤はただ首をひねった。揶揄のない、ただ事実を交換しようとする須藤の姿勢は、激しやすく醒めにくい中里に、いつも冷静さを分け与える。今回も、心臓は速い拍動を保ち、血液は全身に熱と赤みを運んでいたが、数多の感情は腹の奥にしまわれ、思考が須藤の問いの答えを探し始めた。いや、と中里は手を口に当て咳払いをし、まともな会話を心がけた。
「お前の隣に乗るのは、初めてだから」
 そうだったか、と意外そうに須藤は呟き、ああ、と中里は頷いた。「ドキドキするよ。ガキみてえだけど」
 前の車の速度に合わせてギアチェンジをした須藤が、無味無臭のものを食べたような顔を向けてきた。何だ、と中里が眉をひそめると、いや、と唇の端をわずかに上げ、前方へ顔を戻す。それがあまりに自然で柔らかな仕草だったので、何だよ、と中里は照れ隠しのため、似合わぬ苦笑をつくろった。
「怖いと言われたことはよくあるけどな」
 既に常の硬い顔に戻していた須藤は言い、あ?、と意味を解せず苦笑を取っ払った中里へ、光の少ない目を前方に据えたまま続けた。
「そういう意味でドキドキさせたことは多いらしい」
 この男と『ドキドキ』という言葉の取り合わせの微妙さに微妙な顔になりつつ、中里は数秒考えてから、ああ、と納得し、納得しただろ今、と須藤はため息を吐きたそうに眉を上げた。いや、と中里は弁明に励んだ。
「普通に考えたらお前は怖いぜ、須藤」
「その『普通に考える』って意味の講釈を願えるか」
 信号が黄色に変わり、須藤は無理に進まず車を止め、真っ直ぐと中里を見た。試すような挑むような、どこか楽しげだが、笑みは一つも乗らない顔に、中里はいつも通りに圧された。くっついたままでいようとする唇を何とか開き、漠然と思いついたことを白状する。
「……雰囲気とか、な」
「雰囲気とか、ね」
 前を向き、確かめるように須藤は呟いた。そういうところだよ、と中里がこっそり呟くと、「何か言ったか?」、とはっきり確認してくる。中里も前を向き、信号が青に変わったところで、
「お前、ピシッとしてるだろ。油断も隙もない感じがするんだよ。予断も許さねえって」
 再びまともな会話を心がけ、なるほど、と平坦な調子で須藤は言った。納得してねえだろ、と横目で見ると、そんなことはねえが、と釈然としないような声で答える。
「それくらいで怖がられてもな。俺が隣に乗られて睨むのは、人の車を乱暴に扱う奴だけだ」
「そりゃ、俺だってそうだよ」
「でもお前は怖がられたことはないだろ」
「山にいる時はあるぜ」
「普段でだよ」
「覚えがねえ」
「じゃあ、ないってことだ」
「だったらどうなんだ」
「人当たりが良いんじゃねえか。悪いことじゃない。いや、良いことだ」
 速やかに進んでいく車の振動を快く感じながら、それを褒め言葉と受け取るべきか否かと中里は少しだけ考えて、相手が無駄な嫌味を言う軟弱さを持ち合わせていないことを思い出し、そうか、嬉しいな、と頷いた。しばらく車は広い道路をするすると進む。中里は次の信号を左という指示を出し、須藤は綺麗にその交差点を左折してから、変な会話だったな、と呟いた。
「変?」
「変じゃなかったか」
 問い返され、考えてみれば方向性がまったく決まっていない会話だったと思い至り、まあそうか、と顎を指で掻いてから、ふうん、と中里は唸った。
「どうした」
「こうして話すのも、そんなねえなと思って」、と浮かんだ感想をそのまま述べると、須藤が不可解そうに顔をゆがめたので、中里は慌てて言葉を付け足した。
「大体、時間ねえだろ、変な話もするような」
「お前、俺と話がしたかったのか?」
 不可解そうな顔のまま、須藤は尋ねてきた。中里は数秒思考停止に陥って、その間に見ていた景色の変遷に不意に気付き、あ、そこは右、と腕を伸ばして指示を出し、須藤は遅れず右折した。あとはしばらくそのまま真っ直ぐだ、とシートに腰を据え直すと、それで?、と問いを忘れていなかった須藤が、何でもないように言った。ごまかすつもりはなかったが、ごまかしたい気持ちがないわけでもなかった中里は、口ごもった。
「したかねえってわけじゃあ……」
「否定するのか肯定するのか、どっちかにしろよ」
 厳しい顔のくせに、脅すのではなく、道理を説くことが得意な男だ。いまだその差異に慣れず、動じるたびに、心情が流れ出ていく。
「時間、ねえだろ」
「時間が欲しかったか」
「……言われてみりゃあな」
「そうか」
「言われるまで、思いもしなかった」
 会えれば良い、以外に目的意識はなかった。この剛直な顔を、堅実な体を、地面から這い上がってくるような声を、大きい割に指の細い手を、整然と動く唇を、綺麗に染め上げられている髪を、目に、耳に収められればそれで良かった。その先は、昨日から一向に思考は取り上げていない。けれども、いざ会えば、それだけでは満足しない。中里は、この車に揺られ出した時に感じた居心地の悪さとは違う、焦燥じみた感覚を得ていた。この空間をこのまま保持していたい欲求と、それが叶わぬと知っている理性の嘲笑とに、耐える魂の軋みがあった。いつの間にか、欲を引きずり出してくる場所に、須藤は入り込んでいる。時間が欲しいのだ――ただ、二人でいる時間が。そう思う自分に、ばつの悪さを感じ、中里が意味もなく咳払いをすると、
「俺もだよ」
 と、しばらく黙っていた須藤が、エンジンの轟きと同化しそうな声で言った。「お前が?」、と内実を考慮せずに中里が問うと、こういう場合もいいもんだ、と落ち着き払った言葉が返される。こういう場合、と中里は口の中で呟き、首筋を掻いた。ひとまずは、同じ思いということだろうか。改まって好きだと言われた記憶も、言った記憶もない。感情の始まりの瞬間もおぼろげだ。甘ったるいやり取りもなく、今まで進んできた。それが間違いというわけではないだろう。ただ、要らないものかといえば、別だったのかもしれない。なぜなら、ガキくせえ、と思う頭とは裏腹に、顔に血をのぼらせるほど、『こういう場合』に心は騒いでいる。その時初めて、こいつは実はタラシなんじゃねえか、中里は疑ったが、不平も言わず運転手を務める姿を眺めると、いやそれは似合わねえ、と思われ、というかそれは似合う似合わないの問題なのか、と首を傾げる他なかった。
 その後は景色ばかり見ていたので、須藤の様子を逐一気にすることはなく、そのため須藤も中里を過度に気にかけることはなく、都市部から離れる頃に、大雑把な方向指示としての会話が始まった。緩やかな上り坂を越え、対向車がほとんどない平坦な道を進むと、多少開けた先の左手側に、実家があった。郊外のため、敷地だけは広い。センターラインもない道路に停めてもらい、すぐ済むから待っててくれ、とベルトを外してから、中里はふと須藤を見返した。
「お前も来るか?」
「俺は待ってるさ。人の家よりは、この中の方が過ごしやすい」
 ゆっくりしてけよ、と須藤は眠たそうに片目をつむった。ウィンクに見えなくもなかったので、ああ、と中里は頬を緩めつつ、車から降り、すぐ戻る、と念押しして、億劫げに片手を上げる須藤の姿を車に封じた。
 すぐに未舗装の道になり、木々に囲まれた鉄製の門が見える。触れると赤錆が指に残った。平日の昼間だ。家にいるとすれば、隠居している祖父か、パートがない母親だろう。そう思ったところで、玄関から右手に続く庭に人影を見つけ、中里はぎょっとした。濡れた土の上で子犬と戯れているのは、明らかに自分よりも年下の男だった。
「おい、何やってんだ、お前」
 近寄り声をかけると、スウェットの上下を着込んでしゃがみ込んでいる弟は、子犬の頭を撫でながら中里を振り仰ぎ、うわっ、とびくついた。
「何、お兄様。何やってんだよ、いきなり」
「お前こそ、学校はどうした」
「インフルエンザで閉鎖だよ。最近流行ってるみてえだわ、ウイルス。俺は健康体だけどさ」
 そう肩をすくめて説明する弟の股の間に、三角の耳をぴんと立てている子犬が、尻尾を振って顔を埋めている。中里はジャンパーのポケットに両手を入れながら、それうちの犬か、と尋ねた。
「そうだよ、二代目タロウ。ジロウだけどな。隣のさ、山崎さんチで子犬産まれたから、一番器量良さそうなのを母ちゃんが貰ってきたんだよ。んで、兄ちゃん何しに来たの」
 子犬に股の間をくぐらせて、胸に抱えると、弟は立ち上がって不思議そうに見てきた。「タロウの四十九日?」
「そんなにまだ経ってねえだろ、死んでから」、と返しながら、中里は庭を眺め、葉の落ちた大木のすぐ横に、変わらず土の盛り上がっている場所を見つけた。
「何も持ってきてねえけどな」
「まあ、いいんじゃないの、気持ちがあればさ。タロウもあの世で兄ちゃんの姿を見て、土産ねえのかって思ってると思うぜ」
 お前な、と年上に対する礼儀を知らない弟を一つ睨んでから、一枚の板切れが印として刺さっているその前へとしゃがみ、手を合わせる。一瞬のうちに、胸に様々な思いが去来して、何もなくなった。立ち上がって、じゃあな、と行こうとすると、あれ、と弟は素っ頓狂な声を上げた。
「家寄ってかねえの? ってもまあ、俺しかいねえんだけど」
「お前しかいねえならいいよ。それについでだったからな。俺にも用事があるんだ」
「相変わらず薄情な兄貴だなあ」
「どこがだ、毎年盆と正月には帰ってんじゃねえか」
「まあいいけどよ。車?」
「知り合いのな」
「知り合い? 上げなくていいのかよ、張り切ってもてなすよ、俺は」
「いいんだよ。単位落とすなよ」
 げえ、と顔をしかめた弟に、再度じゃあなと言い、抱えた子犬とともに手を振ってくる姿に背を向けた。家を後にすると、気が楽になった。問題がすべて解決したような爽快感、実際には何が解決したわけでもないと分かっていたが、それは腹の奥に押し込んでいた感情のために澱むばかりだった思考を、からりとさせた。機械性を追求するあまりか、どこか玩具めいた風情を残す車の、助手席のドアを開け、よお、と入ると、須藤はそれと同時にエンジンをかけた。
「待たせたな」
「いや」、と須藤は中里が体を座席に固定するのを確認してから、発進し、「ありゃ家族か」、と車を転回させながら言った。中里が家のある方向を見ると、子犬を胸に抱えた男が道の真ん中に立ち、大きく手を振っているのだった。中里は見えるうちに窓越しに手を上げ、来た道を車が戻り出してから、弟だよ、とため息を吐いた。
「元気がいいな」
「元気だけはなあ」
「あれが暴力事件を起こした方か」
 ああ、と肯定して、中里は気まずくなり、いや、と唇の皮を爪で引っかいた。
「事件ってほどじゃあなかったんだが……悪かったな、あの時は」
 須藤はあくびをするように目を細め、頬を小さく上げた。
「無闇に謝るなよ。付け入られるぞ」
 見くびられているように感じ、俺だってその辺は考えてる、と中里が言い返すと、須藤は指示もされぬうちに国道に戻る道へと出て、
「人の罪悪感ほど、扱いやすいもんはねえからな」
 と、意味ありげに一瞥してくると、飯でも食いに行くか、とスピードを緩めずに提案してきた。釈然としないながらも、空腹に気付いてしまうと、うまく考えもまとまらなくなり、瞬間思いついたことを中里は言った。それは、
「そばだ」
 だった。



 U字型のカウンターと、左側と奥に座敷がある店だった。蕎麦屋であり、中里の実家の傍でもあった。かけ蕎麦でも、香りは高く立ちのぼってきた。飲み込んだのち、うまいな、と京一が頷くと、だろう、と中里は口を滑らかにした。俺が高校の時から通ってるんだ。家族で来たこともある。よくまけてもらったりしてな。安い上にうまいんだ。ここ以外の蕎麦屋じゃ俺はもう満足できねえよ。天ぷらをさくさくと音を立てて食べ、ずるずると蕎麦を喉へ落とし込んでいく、その嬉しげな姿を見ていると、自然と京一も箸が進んだ。頼んだ品がくるまでも、中里は冗舌で、子供の頃の話をよくした。近くの用水路に家の鍵を落として半日探し回っただとか、どうしてもサッカーボールがうまく蹴れなかったから野球をやったとか、その程度のことだったが、京一は煙草を吸うことも忘れて耳を傾けたのだった。思い出を敢えて分かち合う必要はないと考えていた。過去の積み重ねによって作られる今が共有されているということは、すべてを含んでいるということであり、わざわざ懐古によって前進を遮ることもなかろうと――ただ、互いの記憶や価値観を言葉にしていなかったのは、結局その時間を取らなかったために過ぎず、必要のあるなしなど、後付の理由なのかもしれない。現に、照れくさそうに、それでも楽しそうに語る中里の顔、声、動き、そして話の内容は、実に飽きないものだった。十分も経たぬうちに食べ終えて、一息吐いたのちも、中里はこの店に通った時代をぽつりぽつりと話した。京一もつい、己の高校時代を漏らしており、中里は目を輝かせて聞きたがったので、
「寄り道は良くしたけどな、悪さは何もしてねえよ」
 と釘を刺しておいた。中里は疑念を捨て切れない様子だったが、俺はどちらかと言えば優等生だったんだ、とわざとらしく強調すると、それには合点していた。
「お前は何ていうか、リーダーっぽいもんな」
 会計を済ませ、店から出ると、中里は納得顔で言った。京一はしかめ面になっていた。
「何だ、その曖昧な表現は」
「運動会とかで一致団結して、一位を目指してそうな感じっつーかよ」
 なぜか眉をひそめながら中里は言い、ロックを解除した車へ乗り込む。京一は発進準備を終えてから、そこまで熱くもなかったけどな、と返した。
「そうかお前、修学旅行でもさっさと寝ちまうタイプだろ」
「周りの奴らがうるせえから、本を読んでたよ」、と記憶を掘り起こして言い、「そう言うお前は、騙されて一人だけ好きな女子を告白しちまうタイプだろ」
 そう指摘し、一気に顔を赤くした中里が、ぽかんと開けた口から声を発する前に、他に行きたいところはあるか、と京一は聞いた。クソ、やっぱそうかよ、と俯いて舌打ちした中里が、別にねえ、と言ってから、あ、と顔を上げた。
「何だ」
「電球買うの忘れてた」
 電球、と繰り返すと、トイレのが切れてんだよ、と一人遠くを見据えながら言い、あとシャンプーも詰め替えねえと、と京一を見ながら続けた。数秒色気もなく見詰め合ったのち、
「……近くに店はあるのか」
「ああ、すぐそこだ、頼む」
 色気もない行き先が決まった。
 青空を見ることが多い日だ、と思う。住宅の向こう、山の稜線の上を鳥が視界の右から左へと飛んで行き、細く白い糸をもつれさせたような雲は、逆方向に流れていく。呆けるくらいなら車の整備をしなければ、走りの研究をしなければならないと、己に義務を課していた時は、朝も昼も夜も関係なく、頭上を見ることなどなく、ただ目の前だけを追い続けていた。それが今、この体たらくだ。折角の休日に、ホームセンターの駐車場で、連れの男が電球と詰め替え用のシャンプーとクリップを買うのを待っている。苛烈な時代はとうに過ぎてしまったのだ。それを懐かしく思うのは、今が平穏だからだろう。筋肉を酷使した後には復活の時間を与えなければならないように、息抜きの時間がなければ、緊張によって精神が破綻する。焦ることはない。
 風は速いようで、次から次へとちぎれた雲が消え、現れる。この不安定さは慣れない場所で人を待つためであると京一は定めた。目を閉じると、フロントガラスの向こう側も見えなくなり、自分の内面だけが際立った。一部が腐り始めているようだった。それもまた心地良く、処置をする気にはならない。いずれは全身が腐り切るだろう。そうした時、何が見えるのかを待てるだけの、条件が整ったわけだ。たった一つのきっかけがために。
 目を開いたところで、目の前を男が通った。店名が赤く記された白い袋を持ったまま、いや待たせた、とその男が助手席に乗り込んでくる。
「これで全部完了だ、よし、家に戻ってくれ」
 揚々と中里が言い、京一は何も言わずにエンジンを再び起こして、ギアをローに入れた。発車してしばらくののち、車中に広まっていた沈黙に耐え切れなくなったらしい中里が、どうした、と不思議そうに、けれどもこわごわとした様子で尋ねてきた。声を出さなかったことに、用が終わった満足以外の意味はない。だが京一は、いや、と敢えて言葉を選んだ。
「ここまで召使役をするのは、そうそうねえからな」
 あ、いや、悪い、と即座に中里は謝り、京一は目を細めて前方を走る車の挙動を観察しながら、考えてねえだろ、と呟いた。すまん、と中里は再度謝る。おそらく肩はすぼんでいるだろう。前の車が左折するところを右の車線に入り安全にかわしてから、元の車線に戻って、そうじゃねえよ、と京一は半ば嫌気を起こし、半ば満悦しながら言った。
「お前が言ったんだろ。その辺は考えてるって」
 首をひねった中里が、その辺、と強面になった。真剣に考えれば考え込むほど、この男の顔つきは、脅すことを意図して作る以上に他者に威圧感を与えるのだが、本人に自覚がないため、その刀は鞘にしまわれたままである。教えてねえことばかりだな、と京一はその顔を横目で窺いながら思い、十数秒経っても発されぬ次の言葉を待つことはやめた。
「罪悪感は武器になる。それを感じる相手にとってのな」
「……ああ」
「ここで俺が何か命令したら、お前はそれで受けるだろ。負い目があるから」
 得心した中里が、しかし不満げに、眉根をきつく寄せる様を一瞥し、京一は続けた。
「そんなことをやってたら、誰にでも屈することになる。もう少し傲慢になれ。お前にはその方がお似合いだ」
「お前相手じゃなけりゃあ俺だって」、と苦々しげに凄んできた中里に、「俺が相手だと、そんなに卑屈になるってわけか?」、と悠然と問うと、卑屈ってな、と声の調子を緩めた。
「俺はただ……」
「冗談だ。素直でいいと思うぜ、お前のそういうところは」
 続きを遮り切り落としてやると、たまらぬように、須藤、と呼んでくる。京一は赤信号のためにギアを落としながら、けど、と呟いた。
「付け入りたくもなるな」
 中里の声は完全に死んだようだった。誰もいないような静寂が流れるが、車の動きは一人分の体重が加わっていることを反映していた。端から深い意図なく始めた会話の終わりも気にせず、京一は近づく町並みを見、コンビニに寄っていいか、と尋ねた。トイレか、とそのままの中里の質問を了承と見なし、ああ、と頷いて、すぐ近くのコンビニに出船駐車をすると、ちょっと待て、と慎重に中里が向いてきた。
「ここは」
「庄司慎吾がいる店だろう」
 たった今思い出した風に――実際は駐車場に入った時点で思い出したのだが――言うと、どういうつもりだ、と中里がやはり慎重に唇を動かしたので、震えかける体の欲求そのままに、トイレだよ、と返した。
「いや、ええと、もうちょっとすりゃあ、家なんだが」
「我慢できねえんだ。ご存知の通り、俺は気が短くてな」
 微妙なことを言うな、と顔に書いた中里を残し、京一は車を降りた。
 店内には雑誌の立ち読みをする客が一人いるのみだった。京一はまず空のトイレに行き、小便を済ました。手を洗い、鏡で顔に変化がないか確認してからトイレを出、缶コーヒーを二本取って、レジカウンターに置く。背中を向けて作業をしていた男の店員が、こちらに気付き、お待たせいたしました、とレジを打った。これは偶然だ、と思いながら、
「先日はどうも」
 声をかけると、ああ、と後ろで茶髪をくくっている、ごつごつとした、けれども神経質そうな顔の店員は、缶を袋に入れ、二百六十円です、と言って、興味なさげにちらりと京一を見た。京一が財布から丁度の代金を出し、レシートはお使いになりますか、の店員の問いに、いや結構、と手を上げると、
「あんた、中里の知り合い?」
 と、店員は缶を入れた袋を手渡してきながら、尋ねてきた。ああ、と京一が袋を受け取ると、へえ、と唇をすぼめ、カウンターにだらしなく手をつく。
「さっきの車って、あんたのかい」
「さっきの車ってのは」
「ランエボだろ。黒塗り」
 店員が――元々そういう類の顔のためか――嫌らしさに満ちた笑みを浮かべる。
「そうだ。それが何か?」
「イジってるっぽい音したからよ。そっち系なのかなって」
「お前と同類だな」、と京一は真っ向から店員を見、系統ちげえと思うけどな、と店員は挑発的に、虚無的に笑った。だろうな、と京一が外へ出ようすると、ありがとうございました、というやる気のない声が、開いたドアの間から漏れずに終わった。
「あいつ、いたか」
「いたな」
 車に乗り込むと同時に問われ、問われたことだけを答え、発進した。車でも二桁の分が刻まれる『もうちょっと』の家への道程が半分ほど終わったのち、コーヒーの空き缶を握っていた中里が、しかめっ面で、何かよ、と前方を睨みながら言った。
「何だ」
「……ややこしくなってるような気がしてな」
「いざとなったら遠い親戚とでも謳えば良いだけだと俺は思うがね」
 んん、と納得とも不平ともつかない唸りを発した中里が、首を傾げる。
「嘘、吐きすぎてるからよ」
「証拠はねえだろ」、と京一はステアリングを右の親指でこすった。「嘘じゃねえ、本当だってな、自己暗示をかけときゃいいんだ。自分は本当のことしか言っていない。それが自信となって、人の疑う心を殺す。信じるのは得意だろ。それくらいやってみろよ」
 煽るように言えば、乗ってくることは分かっていた。傾けた首を元に戻して、真剣な表情になり、ああ、と頷くことを分かっていて、それを言ったのだ。危険性を高めることで、逃げ場を潰していく。体の一部が腐っていた。歪んだ感情を抱えていた場所が、腐臭を放っていた。それすらも触れられて、吸い上げられ、何もなかったかのように鎮められる。見たがっているのは、このまま朽ちていく先ではない。京一はアクセルを踏む。隣に中里を乗せ、意思の通じぬ場所、何かが肯定される場所にたどり着くために。



 自宅は変わらず自宅であり、中里は到着に安堵しつつ、電球変えるか、という須藤の申し出をありがたく受け、古雑誌の詰まった段ボール箱を踏み台として差し出した。その間、自分は詰め替え用のシャンプーを容器に漏らさぬように入れ、ゴミを捨てて手を洗った。トイレでは、須藤が電気が点くことを確認しており、中里がそれを眺めて感嘆を漏らすと、古い電球を渡してきた。ありがとよ、と礼を言い、回収日はいつだったかな、と思いながら、電球をテーブルに置く。そして、大きく息を吐いた。
「ああ、これで暮らしも安全だ」
 大げさだな、と珍しくからかうような声がすぐ耳元ですると同時に、背中から、肩から、人の体温が伝わってきた。おい、と中里は腹へと回ってくる手を掴んだ。
「このまま何もなし、ってのもねえだろ」
 耳の中に直接声が吹き込まれ、耳朶が濡れた。震えそうになる体を何とか思う通りに動かし、中里は後ろから抱えてこようとする須藤と向き合った。
「……まだ、昼だぜ」
「そうだな」
 言うなり須藤は口付けてきた。数時間前とは違い、唇が深く重なって、口腔に肉が混ざるものだった。舌が粘膜を擦り、首筋をざわめかせる。須藤の片手が頬を支え、片手が股間を撫でた。中里は舌を絡ませ合いながら、須藤の背に腕を回していた。くちゅ、くちゅ、と軽く鳴る音が、耳から脳へ伝わって、背骨から下腹部に電気を通す。布越しに触れられるだけで、どうかしてしまいそうで、中里は舌を須藤の口から抜き、間を取った。
「ちょ、……っと、待て」
「お前のちょっとはちょっとじゃねえよな」
 そう薄く笑い、須藤はぐっと下腹部を押してきた。腰を引くと、膝が崩れかけ、中里は須藤の背にすがり、胸に頭をつけて、服を、脱ぐだけだ、ともう掠れ出した声で言った。そうか、と須藤はあっさり体を離し、さっさとジャケットを脱いだ。中里は流れから外れかけたが、すぐに戻って、ジャンパーを脱ぎ、ジーンズのベルトを外し、ボタンも外した。そこでふと目を上げると、須藤は上半身を裸にしたところだった。あ、そうか、先に上か? 混乱して順序を忘れ、中里は躊躇した。その間に、ズボンと下着をいっぺんに脱いだ須藤が、よく締まった筋肉に覆われている腕で、中里の胸倉を取ると、有無を言わさず引っ張って、ベッドへと押し倒すとともに、シャツを剥いだ。乱暴なようで、加減はされている。だが、強引であることに変わりはなく、そのため中里は、いつも後手後手に回ってしまう。
「うわ、おい、須藤」
「ちょっとだろ」
「何、そこにこだわって――」
 その先の言葉は、口に飲み込まれた。舌を吸われ、腹を、背中を手で撫でられる。かさついているような、しっとりとしているような、熱い掌が肌を這っている。我知らず硬くしていた体が、徐々にほぐれていくのを感じる。それとともに、熱が内側に溜まっており、中里は後悔と気恥ずかしさと、手持ち無沙汰のため、背中に回していた右手で、須藤の股間をまさぐった。触れたものを掴み、逆手にしごくと、キスが止み、おい、と間近で須藤は笑った。
「俺のことより、自分のことを済ませろよ」
 普段、決してこの男が見せない、人を小馬鹿にするような顔に、強烈な羞恥を引き出された。しかしそれも、再び触れる唇に、口内をうごめく舌にさらわれる。中里は須藤の先走りに濡れた手で、自らのジーンズのファスナーを下ろした。腹をまたいでいる須藤の尻に膝を食らわせながらも、何とか下着ごとジーンズを脱ぎ、それをつま先でベッドから落とす。須藤はキスを止めず、背に回していた手を胸に持ってきた。尖りを繊細に擦られ、鼻から声が出た。
「……ん……ッ、あ」
 口が解放され、深く息が漏れる。離れた須藤の唇が顎を辿って喉に下り、音が立つと同時に、開かれた足の間にある濡れ反ったものを掌で包まれた。余計に呼吸が深くなって、ごつごつとしているはずの指がゾルのように粘膜を刺激して、胸を口に食まれる頃には、息を止めることの方が多くなった。だから須藤の手首を掴み、腹についているそこから引き剥がし、それより下に招いた時も、言葉は切れ切れになった。
「俺のことは、俺で済ますから、お前も」
 顎を上げていたため、見飽きた天井しか視界には入らなかった。須藤は何も言わなかったが、胸の突起をかじりながら、導いた後ろへ指を差し込んできた。中里は放られた自身に手を伸ばした。済まさなければならない。一旦済まさなければ、どうにかなりそうだった。目を閉じると、須藤の指が中を動くのがまざまざと分かった。下半身が快感で溶けていくようだった。形がなくなり、やがて理性も飛ぶ。そうして達しかけた時、指を抜かれ、張りつめたものの根元を締められ、中里は機を逸した。目を開け、何事かを探る。昼の明るさの中、湿った顔の須藤が見え、掴まれている己の急所も見えた。
「須藤ッ……」
「俺はまだ、済ませてねえからな」
 そう言うと、除けようとする中里の力も苦ともせず、須藤は片手で射精を封じたまま、片手で足を押し開き、ほぐされた場所へ入ってきた。懐かしい質量による痛みが走り、中里は呻いたが、すると戒められていたものを一気に擦られ、声は裏返った。
「あ、く……」
 自分の指とも須藤の指とも違い、圧倒的だった。胃が押し上げられるような感覚と、全身を捕縛されているような感覚とで、容易く動けない。だが須藤は動き出し、抽送と同じタイミングで、次の時を待っているそれをしごいてきた。快感のため、抵抗もできず、ただ声は出せた。
「や、やめ……」
「やめるか?」
「いや、待ッ」
「待つ?」
「……ッ」
 京一、と呼んだ中里が射精してもなお、須藤はやめもしなければ、待ちもしなかった。自分の声をうるさく感じるほどの余裕が中里が生まれた頃、須藤は中で終えて、そっと抜くと、唇を寄せてきた。数度舌を絡ませ、離れる。
「どうだ」
「どうって、どうもこうも……」
 掠れきった声で中里が呟くと、息を出さずに曖昧に笑った須藤は、耳に直接囁いてきた。
「先にいくなよ、次は」
「んなこと……、ッ」
「俺は昨日、我慢したからな。短い気を無理矢理伸ばして」
 そして、耳朶を食んでくる。中里は閉じかける目を開き、意地と怒りと悔しさと欲をこめて、両手で須藤の肩を押し上げた。
「クソ、俺がやる」
「何?」
「傲慢になれってんだろ、お前は」
 力を振り絞り、上に被さっている体をひっくり返す。その上にまたがって、一息吐いてから、言うこと聞けよ、と見下ろした。須藤は妙な具合に顔をゆがめていたが、一瞬のうちに常の落ち着き払った表情になると、どうぞ、と寝たまま両手を広げ、不敵に笑った。



 不器用な、けれども柔らかで優しい口付けは心地良く、その動きを引きつぐ唇が肌を通っていくと、何とも言えぬ充足感が全身に広まった。両手は頭の後ろに組み、京一は硬度を取り戻しかけているものを咥えていく中里を眺めていた。目は決してこちらを向かず、ただ一心に励んでいる。うっとりとする。過去、好色な女が勿体つけて撫で回してきた時よりも、刺激自体は少ないが、精神は満足していた。これは欲望を吐くための手段ではなく、目的だった。ぬるぬるとした口に含まれて、腰が跳ねかけるのを押さえる。傲慢になどなれないくせに、その意味も完全に解していないくせに、色に狂ったような振る舞いをするこの男を、今すぐ下にしてやりたくもあり、疲労が取れるように、このままゆったりとした流れに任せたくもあった。
 それは十分に角度を取り戻していた。中里は口を外し、腹の上にまたがってきた。京一が顔を見続けてやると、視線に気付き、たまらぬように目を背け、何かを言おうとしてか、口を数度開け閉めした。そして、見下ろしてきているにも関わらず見上げるように、入れるぞ、とそろりと呟く。俺がやられるみてえだな、と思いながら、どうぞ、と京一は言った。実際、今の主体は中里である。しかし、主導権は握っていないようだった。だからこうして、欲を増す結果にしかつながらない、要らぬ確認をしてくるのだ。
 手が添えられながら、先ほど開いた窄まりに、京一のものは呑み込まれていった。まとわりつく感触はいつもと同じのようで、何かが違った。震えながら、苦しげに、中里は完全に尻を落とし、深く息を吐いた。京一もまた、快楽を味わう息を吐き出していた。
 かき出さなかった精液と唾液と先走りのため、それはよく馴染み、ぜんまい仕掛けのおもちゃのような単調さで、その体は動いた。中里は死期が近いような必死さで、京一を刺激する。顔にも声にも動きにも、先刻取っ払われたと思われた理性が戻っていた。遠慮がちで、慎ましく、つまらない。だが、刺激は刺激であり、また眺めは上々だった。中里は勃起していた。上下に動くたび、骨をもたないそれが揺れる。京一は静かに迫りくる昂りを感じた。一定の摩擦は一定の快感を生み、一定の射精を促した。中里は京一が呻いて達すると、びくりと身を震わせて、しばらく耐えてから、胸へ頭を落としてきた。京一は呼吸を整えてから、頭の後ろで組んでいた手でその頬を取り、真っ赤に染まった顔を引き寄せ、唇を重ねようとしたが、その前に真面目たらしく中里が言った。
「どうだ」
「……どうもこうも、ねえな」
 笑いを込めて返してやると、クソ、わけ分かんねえ、と本音を漏らす。その口をようやく塞いで、自分の苦味が残っている唾液を味わう。じわじわと、柔らかさのみでは満たされなかった欲望が頭をもたげてくる。上あごを舐めてやると、つながったままの場所がうごめくのだ。同じように頬に当ててきている手の熱さ、粘っこさ、鼻を通している掠れた声、奪われる舌が、度々締めつけられるものを呼び起こす。出番は存外早くきて、頬に当てた手を腰へ滑らせていくと、中里は焦ったように京一の顔を引き剥がし、呟いた。
「ちょ、待ッ……まだ」
「まだ?」
「……お前」
「時間があるってのはいいことだな、毅」
「おい」
「そう思わねえか」
「おいって」
「何だ?」
 問いながら一つ突き上げると、小さく声を上げ、再び胸に頭をつけた。身を立て直すまで待ってやり、どうした、と尋ねる。上半身を起こした中里は、戸惑ったように眉根を寄せ、腹立たしそうに舌打ちした。
「だから、どうもこうも……」
「まだ日は出てるだろ」
「真昼間から、お前」
「自分だけ腰振ってたな」
 中里が大口を開けて息を吸い込んだところで、こちらも上半身を起こし、迅速に上下を変えた。そのはずみで珍しい形での抜き差しがあって、中里は歯をかみ締めていた。京一はゆっくりと体勢を整え、疲れがある程度取れた腰を動かしながら、肩を抱いた中里の耳元へ、おい、と息を吹き込んだ。声ばかりが出るために、呼吸が落ち着かない中里が、何、と辛うじて言ってくる。押し込んだまま一旦止まり、もっとわけ分かんねえようにしてやるよ、と囁いて、再開する。しばらくして、互いの腹の間で擦れた中里のものが、白濁とした液を嬉々として吐き出す。終わりはまだだ。いつになれば終えられるのか。夕日が差し込む時か、日が落ちる時か、日が変わる時か。泥のような快楽は続く。そこから抜け出すために、また次に入り込むために、肉体は動く。そして残る頭で京一は、夜はどうするかを考えるのだった。
(終)

(2007/01/06)
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