理由 1/2
帰ろうとしたところに突如現れて、岩城清次はいるか、と重々しい声で言ったその男の顔は、削げた頬に隆起が見て分かる鼻、硬い輪郭に太い眉、そして多少脂気が見える肌は年齢を感じさせたが、大きな一重に厚い唇、わずかに額中央に下ろされた前髪は、何か幼さを生んでおり、双方が入り混じっている全体としては、不思議な印象を与えるものだった。服にせよ、無地の長袖に洗いざらしのジーンズ、安そうなスニーカーというものだったが、紙一重で貧相にはならない自然さをまとっている。しかし、庶民の下品さを感じさせる雰囲気もあった。
「いないが、あいつに何か用か」
煩わしいという気持ちをおくびにも出さず、適当な礼儀だけをつけて京一が尋ね返すと、あいつとバトルがしたい、と男は決意を感じさせる様子で答えた。その様子を見る限り、男は黒いスカイラインGT-Rに乗る人間として相応しい雰囲気を持っているようにも京一には思えた。少なくとも絵にはなるだろう。実力が伴わないことがひどい滑稽さをもたらすほどに。
習性として相手を観察しながら、それはできないな、と京一が事務的に言うと、何? と男は眉を大きく上げ目を見開き口を曲げ、驚きを露わにした。脅迫するに適切な表情しか幅がないように見えるが、案外多様さがあるらしい。京一はなるべく平静に続けた。
「あいつはしばらくバトルを受ける気はないと言っていた」
「なぜだ」
「名乗りもしない奴に、その理由を言う義理はないと思うがな」
事実を述べる時、京一はあくまで客観的であろうとするだけだったが、その姿勢は傲慢さと冷徹さを表層に溶け込ませ、道理を通せば通すほど、他者を圧する形となった。それを誤解し妙な反発をする者もいれば、怯えて身をすくめる者もいたが、最早京一は何のためらいも得てはいない。ただ、その男の戸惑ったような眉を下げた顔と、ああ、すまん、と素直に言った声の柔らかさには、ただ指摘をすることへの不親切さを感じた。それは瞬間的な、原始的な好意だった。
「挨拶もなしにってのは無礼だった。俺は中里毅だ、群馬で走り屋をやっている」
中里毅は律儀に挨拶をした。その群馬という言葉に、走りに関する意見を乞うて残っていた二人のメンバーが、緊張をといたのを京一は感じた。以前、遠征をした折に潰した相手だと踏んだのだろう。京一もそれは考えたが、判断を下すには尚早だったため、男の言葉を待った。
「それで、前に地元であの男には世話になったもんでな。借りを返させてもらおうと思って来たんだが……駄目か」
張り切って男は声を出し、しかし語尾は濁して、ばつが悪そうに右手で首を撫でた。ここまでくればある程度の確信をもって考えられた。群馬にて敗北を与えたチームの一つ、その代表者に違いない。京一自身にこの男を見た記憶はなかったが、群馬のGT-Rについては清次が愚痴を零していたように思う――GT-Rなんぞ振り回してるからどれほどのモンかと思ったら――云々、自慢なのか愚痴なのか分からない話をこちらが止めるまで続けていた。おそらくそれが、この男なのだろう。だが、と京一は思う。それにしてはこの態度と雰囲気は、重厚すぎる。
そのようなことを考えながら、そういうことなら、と京一は中里毅に言葉を返した。
「あいつも乗り気になるかもしれねえな」
「乗り気?」
「元々自粛は苦手な奴で、リベンジ返しは十八番だ。話次第では乗るだろう、直接交渉してくれ。ただしあいつがいつ来るかは、俺にも知れない」
「いいさ、やれるってんなら、奴と会えるまで何度でもここに来る」
どこか嬉しそうに中里毅は言い、それからはたと気付いたように、「迷惑か?」と尋ねてきた。その物言いと表情は、こちらの都合を確認するというよりも、心底から心配しているようで、京一は自分の寛容さを意識しながら、いや、と否定し、「しかし」、と念押しした。
「博打になるぜ。時間帯だって合うとは限らない。そっちがどうしてもと言うなら、こっちで手を回すこともできるが」
「いや、これは俺個人の問題なんだ。あんたらに出られると大げさになっちまう。だから余計なことはしてもらわなくていい」
男は真剣な顔つきで言って、気遣いはありがたいけどな、本当に、と親密げに笑った。重々しいかと思えば、底抜けに単純な男だ。あるいは風貌や態度と隔たりがあるため、その素直さというのは際立って見えるのかもしれない。一瞬一瞬が印象に残る。それは決して不快さからではなかった。
後ろに残っていた二人のメンバーは、ぼそぼそと呟き合っている。男を不遜に思っているのだろう、京一もそれは理解できた。言葉だけを取れば、まったく相手の都合を考えていない、自分勝手に動いている男だ。だが走り屋同士のバトルの申し込みなど、礼儀と親切を費やすものでもないし、誰に媚びるでもない態度と、自力で何とかするという点では、この男はよほどフェアであり、京一にとっては気になるほどでもなかった。
これで中里毅に走りの技術が致命的に欠けているのなら、よほどの演技達者か、ただの道化だ。過去の清次の言によればそうであり、京一もその経験を根拠とする証言をおろそかにするつもりはなかったが、何せここのところは仇敵の高橋涼介に負け、地元で才能の塊のような藤原拓海に負け、小柏カイという若者は大きな顔をして、ナンバーツーであった岩城清次も精彩を欠く。世を拗ねるほど京一は感情に振り回されはしないが、多少の達成感には飢えていた。それにいちいち来られて場を引っかき回されても、煩わしさはある。
そうか、と京一は頷き、改めて男を見た。
「お前、中里だったか」
「ああ」
「そんなにバトルがしてえなら、俺が相手になってもいいぜ」
言うと、中里毅は目を見開いて京一をまじまじと見た。
「あんたが?」
「今すぐやりてえならな。どうせもう帰るつもりだった。そのついでだ」
中里は更に京一を見、あんた、随分自信がありそうだな、と訝しそうに言った。京一自らの提案に驚きおじけたわけではなく、余裕をもった調子を不思議に思ったらしい。これは、単にこちらの素性を知らないだけだろう。そういえば俺は名乗ってねえな、とそのタイミングについて考えつつ、謙虚な方がお好みか、と京一が返すと、中里毅は満足げに笑い、いや、とその表情のまま言った。
「俺は好きだぜ、あんたみたいな方が」
むき出しの言葉のために、京一の頭には一瞬空白が訪れた。だが、「それは良かった」、と言う間に通常の思考が取り戻され、動揺を感じることもなく続けた。
「結果に裏打ちされている限りの自信、俺が持っているのはそのくらいだが、だからといって慎ましやかに生きるのも苦手でね。ナルシズムで精神を浪費したくはない」
「そこまで言ってくれると清々しいな。最近の奴らはどうも、誰が相手でも遠慮することが美徳だと考える節がある」
「円滑な人間関係を求めるなら、それも構わねえとは思うが」
「バトルだの何だのでそういう甘ったるいのは、俺は好かねえ。やったら勝つか負けるだけだ。そして勝った方が上に立つ。負けた方は屈するのみ」
それは勝者の理論だったが、中里毅は敗者であるはずだった。すべてを理解した上でそう考えているのか、鈍感なのか、あるいは半分は理解しているが、残り半分は鈍いがゆえに気付いていないのか、いずれにせよ、その考え方自体を京一は愚かにも思わず、また、この男が持つどっちつかずの半端さも、独自のものとして感じられていた。
「それで、お前も屈するのみか」
聞くと、中里は何とも言いづらそうに眉をひそめ、右手で顎を撫でて、考えながらのように言った。
「そうしたって構わねえと思っている、勝負ってのはそういうものだからな。だが、こっちの問題で悪いが、今のままじゃあそうできねえんだ。だから岩城清次ともう一度バトルがしたい。あの野郎、いやあの男ともう一度、今度こそ全力を出してやれれば、例え負けても――負ける気はねえが、例えそうなっても、すっきりと落ち着けると思うんだ。それにはあんたとやったって意味ねえんだよ、あの男じゃねえと」
要点の分かりづらい話だったが、京一は納得した。感情と理屈とを切り離せないもの、思考だけでは解消できないその執着を、京一は知っている。行動と結果でしか己を下せない、圧倒的な因果というものだ。
だが、控えていた二人のメンバーは、それを知らなかったのか、それとも中里毅の尊大に見える態度に苛立ちを禁じえなかったのか、言葉の切れ目を狙い、黒い長髪にパーマをかけている一人が、「おい」、と中里へ素早く詰め寄った。
「てめえ、さっきから何なんだ、京一さんに向かって偉そうに」
あ? と中里は不愉快そうに、一気に顔をゆがめた。京一は腕を組み、他人事のようにそれを見ていた。手が出なければ感情を消化してもらった方が、この先の彼らのためにはなる。それに、この状況を男がどう対処するのか、興味もあった。もう一人は乗じるべきか止めるべきかを迷った末、見るだけにしている。長髪は一人、根性を見せるように、鼻息荒く中里毅に食ってかかった。
「お前のことは知ってるぜ、群馬の奴。GT-R乗って、清次にあっさり負けてたじゃねえか」
「あっさりって、お前に何が分かるってんだ」
「俺はあの時あそこにいたんだ、だからてめえが偉そうな口利けるような奴じゃねえことは、俺がよーく分かってんだよ」
「いたのかよ。いや、あれはだなお前、何というかこう、だから、俺はちゃんともう一回バトルがしてえだけだ」
「ちゃんとも何も、あれがてめえの実力だろうが。それを今更何言ってんだ。大体そんなもんで京一さんとやれるってところを拒否するのが、俺は気に食わねえんだよ」
中里毅は顔をしかめたまま、お前の話かよ、と億劫そうに右手で頭を掻くと、「こいつがどれほどのもんか知らねえが」、とその手で京一を指差した。
「俺がこいつとやる必要がどこにあるってんだ。何度言わせる、俺がやりてえ相手は岩城清次なんだ、そんな気持ちでこいつとやったって、こいつに失礼じゃねえのか」
こいつ呼ばわりの上に軽んじられていることには引っかからないでもなかったが、ここで流れをさえぎる必要性も感じなかったので、京一は黙っていた。代わりというように、「てめえ」、と長髪が吠えた。
「京一さんをこいつ呼ばわりしてんじゃねえよ、どうせてめえなんざ何回やったって、清次に簡単にひねられて終わるんだよ!」
「ああ? そんなことがどうしててめえに分かる、俺の実力も知らねえくせに」
「だから俺はあのバトルを見てるっつっただろうが、話聞いてねえのかよ!」
「だからあれは俺の実力じゃねえんだよ、てめえの方こそ話聞いてねえじゃねえか! クソ、ごちゃごちゃ文句垂れやがって、そこまで言うならお前、お前がその身で判断しろよ。俺があの野郎とバトルをして当然の相手かどうか」
怒気をみなぎらせた中里が言い、おお、上等だ、と長髪は頷いて、怒りを露わにした真っ赤なごつい顔を京一に向けると、「いいでしょう、こいつとバトルさせてください、京一さん」、と言ってきた。京一は多分に引っかかりを感じた。人がバトルをしようと申し出た時には理由を立てて断り、そのくせ煽られたらたやすく提案するというのは、一貫性に欠ける所作だ。もとより京一は他人に道理を期待してもいないが、それとどこまで無法さを許せるかとは、別の話である。大体、こちらを知らないためというには、先ほどからどうも、ぞんざいに扱われすぎているような気がしてならない。常に大局観を持つことを心がけている京一だったが、さすがに何もないようにその事態に当たろうと思えるほどに、悟りきってもいなかった。
そうだな、とひとまず頷いて、おい、中里だったな、と京一は中里を見た。ああ、と認めるその顔は険しく、声も重く、刺々しかった。しかし京一にはこけおどしにしか感じられなかった。既に他の面を見てしまっているのだ。だからというわけではないが、常の平静さを崩さないまま、京一は言った。
「俺とジャンケンしようか」
は? と三方から同時に声が上がり、「ジャンケンだって?」と中里が素っ頓狂な声をあげ、長髪が「京一さん、何すかそりゃ」、と唖然としたように聞いてきた。京一は少し間を置き、それから中里を改めて見た。
「俺に勝てば、お前の好きにしてくれて構わない。だが俺が勝てば俺の言うことを聞いてもらおう。単純なけじめだよ。形だけでもつけとかなけりゃ、後々面倒になるからな」
何の不利益もない話だと思うが、と続けると、中里毅は瞬きをしっかり三回したのち、そうだな、と頷いた。
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ああいうカタブツタイプは最初はグーの後にグーを出しはしないだろうと踏んだのが間違いだった、出してきた、読みなど働かせずに反射と勘に勝負を賭けるべきだった。中里はしゃがみ込んで強く後悔し、いやしかし思い返せば今まで大事な場面のジャンケンに勝てたこともほとんどない、やはり他の勝負を持ちかけるべきだったか、いやいやあのパーマとバトルをするというのも本末転倒はなはだしかったし結果オーライ、いやいやけれども負けたというのは何とも屈辱的な……と思考の渦にはまり込んでいたが、場に残っていた二人を帰らせたらしき男が近づいてくるのが見え、慌てて立ち上がった。
鉤鼻に鋭い目を有する厳つい顔、頭に巻かれたタオルからわずかに見える金髪、そしてカーキ色のアーミーパンツに濃緑のフライトジャケットに黒いスリッポン、という出で立ちの男は、改めて見ると、どこぞの作業員のようであり、現場の人間という感じもするが、一体何の作業員で一体何の現場なのかという見当はまったくつかなかった。建築現場と言われても頷けるし、システムエンジニアと言われても頷けるし、牛を飼っていると言われても頷けるし、機関銃を打つのが仕事だと言われても頷けるし、つまり何をやっていても納得できるだけの、万能的な雰囲気というものが備わっていた。
そうして近づいてくる男に、中里は先んじた。
「あんた、勝つ自信があったのか」
男はタオルに隠れかけている細い眉をわずかに上げ、だがその下にある目はわずかも動かさず、ない、と端的に言った。あ? と中里が驚き口を大きく開くと、必要ねえだろ、と男は続けた。
「所詮はけじめだ。あそこでなし崩しにバトルを認めればうちの奴らにしめしがつかないし、奴らに好き勝手騒いだ挙句に惨敗でもして醜態を晒してもらっちゃ困る。仮にジャンケン一つであっても、俺が負けることでお前には対外的に認められた自由が与えられるだろう。それを使えば多少の横暴も利く。お前が負ければそれまでだ、何の騒ぎも不利益もない」
整然とした説明だった。色々考えてるんだな、と中里は素直に感心すると、このくらい、と男は顔を横に向け、どこか遠くを見ながら言った。
「何も考えずに行動して、後悔するってのは好きじゃねえしな。無駄が多い」
先の自分の思考を見抜かれたような気がし、中里はぎくりとしたが、男はそれに気付いた風もなく、中里を再び向いた。その感情を窺わせない決まった顔を見るにつけ、中里は何かをしなければならないという漠然とした焦りに駆られ、「ああそうだ」、と今思い出した風な、わざとらしい声を出した。
「言うことを聞く約束だったな。何だ、宣言したからにはやるぜ、負けは負けだ。何でも言ってくれ」
話すうちに胸に不安が去来したが、それでも中里は胸を張り、笑みを交えた。そういえばそうか、と男は考えるように目を伏せ、だがすぐに中里をとらえた。
「なら、うちに来て酒でも飲まないか。狭い部屋だが泊まる場所はある。これも何かの縁だろう」
あまりに友好的な、命令というよりも提案に、もっと強制的なものを予想していた中里は戸惑い、そんなことでいいのか、と尋ねると、他に思いつきもしねえ、と男はあっさり言い放った。
「普段、個人的に誰かに何をしろと言うこともないからな。まあ大して意義もない契約だ、断りたけりゃ断ってくれ。バトルするつもりだったんなら、ここで走り込むのもいいだろう。俺は何とも思わん。秩序を維持する上で、道徳ほど頼りにならないもんもねえ」
いかめしい様相からはあまり想像できない、強い柔軟性が男にはあるようだった。別段明日用事があるわけでもなし、こちらに都合の悪いことは一つもない申し出を、こうまで寛容さを出された上で断るのも、中里にはできない所業だった。無表情に見える顔でじっと見てくる男に、中里は片頬をあげながら言った。
「断って欲しいなら悪いが、俺は約束は破らねえ主義なんだ。今日中はあんたの言うことを聞く」
「自分で期限を作るとは、結構な心意気だな」
「何だ、バカにしてんのか、あんた」
「褒めてんだよ。俺は一回だけのつもりだった」
男は意外そうに言い、背を向けた。あれ、俺もしかして墓穴掘ってねえか、と中里が妙な気分に陥ってると、ああ、と男がふと思い出したように振り向き、俺は須藤京一だ、と名乗った。スドウキョウイチ、と中里はおうむ返しに言い、須藤京一? と語尾を上げて繰り返し、男を見た。少し離れた須藤京一と名乗った男の隣には、黒い車がある。いかにも荒地を苦もなく走りそうな堅牢なボディ、FDなどとは違う意味で市街地では浮く、走行性を重視した作り。中里はそれを見て、男を見て、もう一度その車を見て、男を見て、ようやく言った。
「あんた……須藤京一か?」
「ああ」
「エンペラーの、リーダーの?」
「ああ」
「ランサーエボリューションスリーに乗ってる?」
「ああ」
「群馬に遠征に来た?」
「ああ」
「赤城で高橋涼介に負けた?」
そこだけ少し間を置きながらも、ああ、と須藤京一はすべて肯定した。まさか、待て、中里は顔に右手を当てた。こいつが須藤京一だと? 岩城清次以外まったく眼中になかったため、その可能性について考えてもいなかった。大体顔も見たことがない。こいつが? 俺は今まで、あの須藤京一と喋っていたというのか? 額ごと目を覆った手の、指の間から前を見る。タオルを頭に巻いた男はやはりそこにいる。中里は何か叫びたくなった。ということは、俺は、須藤京一とバトルする機会をフイにしちまったわけで、なるほどならあのパーマもムキになるわけだ、そりゃそうだ、『京一さん』だもんな、ははははは。心の中で笑ってみるが、顔面には少しも伝わらなかった。
「そんなに驚いたか」
その声に少しも揶揄の色はなかった。中里は目を覆っていた手を顎に滑らせ、須藤京一を真っ直ぐ見据えて、いや、と腹の底からの声を出した。
「まさか、そんな奴が、俺みてえないきなり来たどこの走り屋風情だか分からねえ奴をまともに相手にするとは、まったく、考えも、しなかった」
「じゃあお前は、いきなり来たどこの走り屋風情だか分からねえ奴はまともに相手にしないのか?」
そんなわけねえ、と言いかけ、あ、そうか、と中里は納得した。それもそうだ。いやしかしだからといって、あの須藤京一が――高橋涼介をあそこまで追い詰めた、あのエンペラーのリーダーが、既に敗北を烙印しているチームの走り屋相手に、自らバトルの代理をしようとするのか? 中里にはその丁寧さが理解できなかった。だが、そうして振り返っていると、今まで自分のしたことの重大さに血の気が引いていき、理解できるできないはさて置いて、中里は慌てて言葉を継いだ。
「す、すまん、まさかあんたが須藤京一だとは知らず、失礼をした」
「そうと知ってりゃ失礼しなかったか」
「え、あ……」
想像もできない事態だった。中里が答えに窮している間に、まあいいさ、と須藤は運転席のドアを開け、それから注意するように言った。
「俺の後ろをついてきてくれ。スピードは出さない、煽り合うつもりもない。そっちがそういう気なら、一人でやってくれ。いいな」
現状に混乱しつつも、わ、分かった、と中里は頷き、考えることはやめ、ひとまず今日は可愛がれないスカイラインへ戻ろうとした。
「理由が欲しいか」
声がし、中里は何かどぎまぎしつつ振り向いた。須藤京一はドアに手を置いたまま、まだ立っていた。
「お前が気に入ったからだよ」
ただそれだけを、それだけとして言い、須藤の体は車の中に入っていった。中里は動くことを忘れかけたが、須藤の乗った車のエンジン音に、我を取り戻した。
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