理由 2/2
バックミラーの一定の位置にR32GT-Rは映り続けた。余計に気を配る必要はなかったかもしれないが、念を入れるに越したことはないだろう。実際、あの男の実力というものは知れていない。おそらくは清次と同程度だろうが、それが過剰評価ではないとも言い切れない。評価に贔屓は無用であり、京一は今、贔屓の源を抱えている。それを否定するほど、感情を嫌いはしない。ただ、何時でも、全体を見通せる冷静さは保つことが、京一の主義だった。
賃貸のアパートは市街地からは離れており、深夜に大きな物音がしたところで、近所迷惑という単語とは縁遠いような地域にあった。駐車場に入り、中里毅が空きスペースに車を停め、降り立つところを迎え出て、部屋へ向かう。鍵を開け、靴をそろえて脱ぎ、電気を点け、後につく中里に言った。
「鍵は一応閉めといてくれ。開けておくと、たまに酔っ払いが入ってくる」
「酔っ払い?」
「隣の奴や二階の奴、土方からキャバ嬢まで、どっかの親父はここを自宅だと勘違いして、廊下で盛大に吐いてくれた」
「うわ、ひでえな、それは」
「それなら知り合いに、夜中寝床を求めてチャイムを鳴らされる方がマシだからな」
脱いだ上着をハンガーに掛け、ポケットに入れていた煙草の箱とライターを取り出して、一本咥えて火を点けながら、立ったままの中里に、その辺に適当に座ってくれ、と言うと、ああ、とフラットにしたままのソファベッドの端に、おずおずと腰かけた。その前の、テレビを挟んで置いたテーブルに煙草とライターを置き、灰皿に灰を落としがてら、「好きな酒はあるか」、と聞く。中里は目を上げ、酒なら何でも好きだよ、つまみがなくてもいくらでも飲める、と当然のように言った。頷き、冷蔵庫に向かい、知り合いに貰ったまま手をつけていない量産品の日本酒をとりあえず取り出すと、後ろから声をかけられた。
「あんたと高橋涼介のバトルは見てたぜ。すごいものだった」
冷蔵庫のドアを閉め、振り向く。中里は真面目な顔つきだった。そうか、と煙草を咥えながら言い、まあ結局、と流し台から洗い済みのグラスを二つ取り出して言う。
「俺は奴には勝てなかったがな。一度も」
「しかし、あいつと赤城であれだけやれるのは、あんたくらいだろう」
「そうとは限らねえよ」
歩きながら言い返し、テーブルにグラスと瓶を置き、中里と一人分の距離をあけてソファベッドに座って、煙草を吸って口から指に移し、続ける。
「あいつの弟もなかなかやるし、今は藤原拓海も控えている。そっちじゃ秋名のハチロクとかいったか」
「ああ、そうか、そうだな」
「お前、あの二人の走りは見たことがあるか」
「見たも何も、俺はあいつら二人ともに負けている」
バトルでか、と尋ねると、ああ、と中里は苛立たしげに頭を掻いた。
「今年の夏だったか、舐めちゃあいなかった、チームの面子を賭けてもいたからな。全力でやって、はっきり負けた。おかげでしばらくは立ち直れなかったぜ。それは元々俺が弱かったんだが」
それから顔を明るくし、煙草いいか、と聞いてくるので、どうぞ、と言ってやってから、だから、と京一は独り言のように呟いた。
「清次にも負けたということか」
中里はポケットに向けかけた手を止め、その手で再び頭を掻き、眉をひそめて京一を見た。
「精神的に参ってたのはまあ、事実だ。けど、それを理由にはしたくねえ」
「実力であいつにまったく及ばなかったのなら、バトルをさせる意味はねえよ」
京一が言うと、中里は顔をこわばらせた。煙草を灰皿に処理し、京一は改めて中里を見据えた。
「お前の個人的な自尊心だとか虚栄心だとかは、俺にはどうでもいいことだ。物事の判断に必要な基準は感情じゃない。事実だよ。事実から感情が生まれるんだ、それを取り違えてしまうから、言い訳が見苦しいって風潮が広まる。だが何かを終えてそれを反省をすること、事態を冷静に分析し、欠点を客観的に把握しておくことは、何も悪いことじゃねえ。それをこっちの非を誤解してくる人間に説明してやってもな。もしその行為がみっともないとでも思うんなら、それは人に弱い面を見せたくない、自分が直視したくないってことだろう。逃避に過ぎねえよ。現実を蔑ろにする精神論ほど、信用の置けないもんはないぜ。だから俺が欲しいのは、明確な、単純な事実だけだ」
京一が話をする間、中里は京一から目を逸らさなかった。瞬きをしてからようやく、自分の膝に目を落とし、しばらくじっと口を閉じていたが、顔の筋肉を細かく動かしながら、途切れ途切れに言った。
「あの時は、迷っていた面もある。負けがかさんで、走りに対して、自分の今までやってきたことが正しいのか……いや、自分が今までどうやって走ってきていたのかが、分からなくなっていた。今になりゃ分かるがな、あれじゃあ誰とやっても負けて当然の状態だった」
だが、と息を強めると、中里は京一を睨むように見た。
「今は違う。今なら奴にも勝つ自信がある。だからやらせてくれ、岩城清次と」
京一はその視線を受け止めたまま、小さく肩をすくめた。
「やるかどうかはあいつが決めることだ。まあ、捕まえられるように頑張ってくれ。生身じゃ猿よりのろい奴だ」
京一が言い、テーブルに目を戻して瓶を取って栓を開けようとしたところ、悩ましそうな表情のまま、なるほど、と頷いた中里が、唐突に噴き出した。京一は顔をしかめて中里を見た。それに気付いた中里は、いや、と口に手を当て、咳払いをし、軽く片方の唇の脇を上げながら言った。
「面白い人だな、あんたは」
「面白い」
「一つの欠点もねえことをさらっと言うくせに、冗談も言ってのけるなんざ、普通じゃねえよ」
「それは、褒め言葉として受け取るべきか」
「そうしてくれ」
笑ったままの中里から顔を瓶に戻し、そういう風に言われることは滅多にねえがな、と栓を開けながら京一は言った。そうか? と思いがけないように声を上げた中里に、続けて言う。
「説教臭いだとか、愛想がないだとかはよく言われる」
「それはあるかもな。あんたが笑うところは想像ができねえ」
「お前、俺に失礼を働くのがよほど好きらしいな」
「あ、いや、すまん」
その分かりやすい態度の変じように、つい苦笑が漏れた。すると、へえ、と中里が感心したように呟いたので、瓶を持ったまま京一は再び中里を向いた。中里は楽しそうに目を細め、唇を横に広げた。
「悪かったよ、前言撤回だ。笑った顔も想像がつく、今見たしな。いい顔だ」
飲んでもいないのに、全身に酔いが回ったような錯覚を京一は感じた。手が熱くなり、瓶をテーブルの上に置く。筋道について少しは考えたが、京一は言葉にすることなく距離を詰め、笑ったままの中里にキスをした。
- - - - -
温い感触が唇から離れ、その顔面が目の前に広がって、中里はこいつの名前は何だったと思い、かろうじて声を出した。
「……須藤」
「ああ、悪い。先に言うべきだったな」
すぐ目の前でその唇が動き、悪びれた風もない声がした。中里はとりあえず口に手を当てた。だがその先の行動については思い浮かびもしなかった。何だ、今のは? 答えの出ない疑問をぐるぐると頭で回しているうちに、間近に寄った須藤が言った。
「今日中は、俺の言うことを聞いてくれるんだったか。何でも」
「え、あ、まあ、いや、お前、今、何を」
「カタコトだな。キスさせてくれ」
確かにカタコトだ俺は外国人かしかしキスは今しなかったか、と思い、いやしたのかよえしたのかマジでウソだろ、と重ねて思いながら、ちょっと待て、と中里は両手を胸の前に出し、ソファベッドに足を上げて須藤と体面しつつ、距離を取った。
「お前、酔ってるのか」
「酒はまだ注いでもねえよ」
「あ、そうか。え、いや俺にはどうもその、何でそうなるのかが分からねえ。お前、お、俺は男、だろ?」
「それで女だったら、俺は驚くな」
「俺も驚く。いやお前、あー、えー、あ、あれ、あれか、そっちの、つまりそういう趣味なのか、よく分かんねえが」
焦るばかりで思いつくまま尋ねると、どっちだろうな、と恐ろしいことを須藤は言った。
「基本的には女が好きだぜ、付き合うのもな。だがその気になれば男も抱ける」
はい? と中里は引きつり笑いを浮かべていた。その気になれば、何だって? 頭は言葉を認識しようとせず、状況を理解しようともしなかった。すべてが停止していた。言葉を失った中里をしばらく須藤は見続けて、それから右手を中里の顔の横に上げ、分かった、と頷いた。
「筋を通そう。今、俺がお前にキスをして、お前が吐くほどに気持ちが悪くなったり嫌になったりしたら、俺も無理強いはしない。そっちの趣味はねえよ。だが、そうじゃなければ続けさせてもらう。いいな」
「え、あ、ああ……あ?」
判断をしないままに言葉を出してしまうと、間も置かず須藤は中里の顎に右手を添え、唇を重ねてきた。中里は慌てて須藤の肩を両手で押し離そうとしたが、上から圧される形で体重をかけられ、押し倒されていた。動きを封じる力は強いが、キスは反応を窺うように柔らかく、優しかった。須藤の舌がゆっくりと、唇の裏を歯茎を撫でる。ぞくりとして、中里は顎の力を抜いていた。かみ締めていた歯が緩まり、その隙間をこじ開けられる。顎を固定されたまま口が密着し、ざらりとしたものが、頬の裏や舌を取り巻いた。それはあくまでゆっくりと、何かを吸収するように、何かを与えるように動く。何を、と中里は思った。何をやってるんだ、俺は? 何をしている、何をされている? 思考は混乱していた。二の腕の後ろがざわざわとし、繊細に口内を陵辱していく須藤の唇と舌の動きに、顔も、指先も、下腹部も熱を帯びていった。
「んっ……」
背筋をのぼった感覚に耐えられず、中里は鼻から声を出していた。舌を吸い上げ、須藤が離れる。中里はわずかに見上げた。濡れた唇が目に痛い。どうだ、と真面目に聞いてくる須藤のその肩を、中里はもう一度押し上げようとした。
「や、やめろ、やめてくれ、俺にはそういう趣味はねえ」
く、と須藤はあざけるように笑い、その手を中里の股間に持っていった。わずかに固くなったそれを握りこまれ、中里は息を呑んだ。須藤は既に笑みを消した顔で、真っ直ぐ中里を見ながら言った。
「勃ってるだろ」
そ、それは、と中里が頭を真っ白にしている間に、須藤は中里のジーンズに通されていたベルトとボタン外して、ファスナーを下ろした。い、いや、と中里は慌てて腕と腹筋を使い、上半身を起こそうとしたが、その前に腰を上げられバランスを崩し、そして下着ごとジーンズを足から脱がされた。あっという間に下半身が露出し、その股の間に須藤が体を入れ、今度は中里のシャツの裾を掴むと、摩擦で熱くなるほど素早く首と腕から引き抜いていった。靴下以外に身を隠すものを奪われて、中里は慌てるしかなかった。
「ま、待て、須藤、お前……」
「悪いようにはしない」
「いやそういうことじゃねえ、お前、これは、何をしようと」
須藤は答えず、代わりというように再び顎を掴んで、深くキスをしてきた。諦めず、両手をその肩に当て押そうとするが、舌を絡め取られ、力が入れられなかった。そのうち、須藤の手が、外気にさらされ萎えかけたものに触れた。指が静かに動き、それを手の内におさめ、唇を唇で塞いだまましごいていく。呼吸が苦しく、中里はすがるように須藤の肩を掴んでいた。不意に唇が離れ、顎を固定していた手も離れ、思う存分息を吸うと、自分の喘ぎが耳障りになった。
「いいか?」
須藤が耳を濡らしながら、低い声を落としてきた。全身に悪寒にも似た震えが走り、中里は反射的に首を振った。
「強情だな」
熱い息が耳に触れ、そのまま顎、首へと、濡れた感触が落ちていき、鎖骨を覆う皮膚を甘く噛まれ、完全に勃起した中里のそれを規則的にこすっている手とは別の手が、肌をまさぐった。
「あ……す……須藤、やめ……やめてくれ、ホントに……」
須藤は何も言いはしなかった。太ももから腹、胸までを湿った手が這い、緊張に張り詰めている突起まで、温いものに包まれる。周囲を舐められ、尖ったものを歯で挟まれ、中里は息を荒くした。直接的な刺激が確かな快感につながり、肌を撫でる舌や指ですら、それを煽るように熱をもたらした。息に混じって声が漏れる。その合間に須藤の呼吸も聞こえ、その静かさが羞恥心を深くしたが、それは須藤の手に操られているものを萎えさせるどころか、余計硬くした。そのうちどうしようもなく親しんだ欲求が募り、須藤、と中里は手を置いたままの肩を、シャツ越しに握った。
「やめろ、う、もう、やめてくれ」
「いきそうか」
存分に舐め尽した胸から離した顔を、耳に寄せて須藤がささやいた。すぐ傍で見られているという感覚に、たまらず中里は歯をかみ締めた。
「いけよ。ここまできたら、満足させてやる」
低く重く、もったりとした声が脳に直接響き、ぞくりとしたものが全身に広がって、やべえ、と思うと同時に、中里は射精した。須藤はしっかりと精液をしぼり出し、頭に巻いていたタオルで腹に散ったそれと手を慣れたように拭うと、ちょっと待ってろ、と言って立ち上がった。中里をまたぎ、奥の部屋へと姿を移した。心臓は鼓動を速めていたが、中里は放心していた。すぐに体を動かせず、目をつむってもまぶたの裏に乗る光を追いかけ、ああ、何だこれは、と思う。あれは須藤京一で、俺は、あいつにしごかれて、イッたのか? 中里は目を開き、がばりと腰から上を起こした。自分のそのままの下半身が目に入る。信じがたい現実だった。汗のにじむ熱く冷たい顔を両手で覆うと、わなわなとし出した。これは、俺は、何だ? 再び目を閉じて、待て、落ち着け、と念じるが、一向にまとまった疑問も浮かばない。自分の乱れた呼吸や唾を飲む音がやけに大きく感じられ、何か咄嗟に、逃げよう、と思ったが、途端に後ろで気配がして、ソファベッドがぎしりと鳴り、中里は勢い良く振り向いた。そして、うわ、と思わず悲鳴に似た声を上げたのは、そこに膝立ちしている真っ裸の須藤の姿に驚いたからだ。絞り抜かれた筋肉に覆われた体、一部の隙もない肉体と、股の間で存在を主張している性器、そして金髪が露わになったごく普通の須藤の顔――あまりの光景に、中里が後退ることもできず口をぱくぱくとさせていると、肩を押され、硬直した体はすぐに背から倒れ、そして開かされた足の間に、須藤が体を入れてきた。中里は恐る恐る須藤を見上げ、す、す、す、須藤、とどもりながら言った。
「何だそれは、その格好は何、お前は何をして、何なんだ、何でお前は裸になってんだ!」
「服は汚したくねえからな。洗い物はカバーだけで十分だ」
「わ、分かんねえよ意味が!」
「難しい言葉は一つも使っちゃいねえだろ。大体お前も裸じゃねえか」
「俺はこれは、本望じゃねえ!」
「結果は変わらん」
意思の疎通が図れていない会話に気を取られていると、ぬるりとした指が陰嚢の下を這い、未知の感触に中里は声を上げて咄嗟に腰を引き、だが膝を腹まで折った左足を抱え込まれていたため、何かの粘液に包まれたそれが、ずるりと尻の狭間を貫くのも止められず、うわァッ、となおさら中里は声を上げた。
「須藤、てめえ、お前、お前!」
全身に力を入れて叫ぶと、須藤はすぐに舌打ちした。
「力を抜いてくれねえか。指が折れる」
「折る、むしろ折る、いやそうじゃねえ、お前それはてめえ、てめえは何をやってんだ、須藤!」
「暴れるなよ、中が傷つくぞ」
抜け出そうともがこうとしたところで言われ、中里はぴたりと動きを止めていた。その隙を逃さず、内部に侵入した指が締めつけに負けず動き、その無遠慮さと、いたって冷静な須藤な声に、得たいの知れない恐怖を中里は覚えた。体から力が奪われる。目をつむり、両手でソファベッドを覆う布地を握り締めながら、何だこれは、と考える。何なんだ、俺は何で、こんなことをされている。考えるほどに、内側をうごめく感覚が先鋭に意識され、そうしないために、何なんだ何なんだ何なんだ、とひたすら心の中でそれを唱えたが、一定に呼吸を繰り返していると、緊張も持続できなくなっていき、後ろはたやすく、数の増えた須藤の指をも取り込んでいった。容赦なく内壁をかき回すその感触に、痛みや不快感ではないものが背骨を這い上がり、ひ、と震えた声が出る。すると、須藤が若干顔を寄せてきた。
「痛いか」
「い、いや、いや、頼む、マジでもうやめてくれ、須藤ッ」
「お前、俺の言うことは聞くんだろ、今日中は。あと一時間だ」
「てめ……ん、クソ、てめえこんなことは、こんな、聞いてねえよ、聞いてねえ」
「しっかり命令されてえのか? マゾかよ」
「何言って――ひっ」
馴染んだ感のある多くの指が前置きなく引き抜かれ、嫌な声を中里は上げた。途端、広げられた穴が物足りないように勝手に収縮し、自分の意思とは無関係であるはずの体の反応に、ぞっとする。焦燥感とも失望感とも区別できないものが手足を捕らえ、両膝に手を当てられて割り開かれても、瞬時に反応できず、中里はとりあえず頭をもたげた。須藤の下腹部が目に入った。合成ゴムが被せられた、勃ち上がっているそれが、手を添えられて、自分の股の間へと進んでくるところを中里は見た。驚きに息を吸い、制止の言葉を叫ぼうとしたが、それより先に、押し入れられた。
「――あ、あ……」
言葉にならない、単なる音が喉から漏れる。皮膚を裂くような痛みと、先ほどまでとは比べものにならない圧迫感が、全身に冷や汗を生んだ。中里の呼吸に合わせて、須藤が少しずつ挿入を深める。中里はうめいた。
「ッ、う……いてえ、痛い、須藤、やめ……」
「呼吸をゆっくりととって、力を抜いて。できるだろ、ガキじゃねえんだ」
「……く……嫌だ、いてえ……」
「痛いのが嫌なら、自分から受け入れろ。そうすりゃ楽になる」
ふざけるな、という短い言葉は、完全に入れ終えた須藤が、膝の裏を胸に抱えるようにして覆い被さってきたことで、簡単にさえぎられた。少しの動きで呼吸が止まり、頭が白くなる。中里が歯をかみ締めてうなると、泣くなよ、と鼻が触れるまで顔を寄せた須藤が言った。貫かれた拍子に涙は流れていたが、それはあくまで異物を押し込まれる、不快感からだった。中里は浅い呼吸のまま、泣いてねえよ、と返した。
「誰が泣くか、こんなことで……誰が……ちくしょう」
「ひでえ顔だぜ」
「てめえ、てめえ須藤、何でこんな……お前、何がしたいんだよ、須藤」
「この状態で、何をするも何もねえだろ」
「分かんねえ、須藤、やめてくれ、俺は、俺は嫌だ、こんなことは、分かんねえ」
「慌てるなよ。これからだ」
喘ぐように喋る中里に須藤はささやき、前兆もなくキスをした。開いた口から一気に舌が入り込み、それと同時に、奥まで入り込んだものが動き、中里は口の中で声を上げた。押され、引かれるごとに、体中がぎしぎしと鳴るようだった。中里はただ振動に耐えようと、すぐに終わる、すぐに終わる、と念じながら、須藤の背を両手で掴んだ。体温が同じのようで、切れ目が分からなくなりそうで、つい爪を立てていたが、それでも行為がすぐ終わることはなく、ゆっくりと抽送を繰り返されているうちに、痛みにも慣れ、直接神経に触れるような刺激がわき、解放された口から、裏返った声が漏れた。
「ひっ……あ、あ……す、どう、やめ……」
「まだ、嫌か」
「ん、あ、や……やッ……」
「どうだ」
言うと同時に突かれ、中里は自分のものとは思えない嬌声にも似た高い声を上げ、瞬間我に返ったが、須藤が腰の動きを速めたため、何も止められずに終わった。規則的に、そして時折変則的に、須藤は粘膜を蹂躙していく。頭の後ろがしびれていくのを中里は感じた。そのしびれが全体に広がり、体の感覚を消し去っていく。自分がどういう状況にいるのかが分からなくなりかけて、中里は切れ切れの呼吸の合間に、やべえ、と呟いていた。
「やべえ、ホント、これは……」
「中里」
「あ……あ、あ……んっ」
「いいだろ」
頭上から降る須藤の声が、そのものを受け入れている後ろも張り詰めている前も、全身までの輪郭を意識させ、今までに体験したことのない、圧倒的な快感を中里にもたらした。膝の裏から腕を抜き、胸を合わせるように位置を変え、須藤は肩を抱いてきた。中里は自分の体をこれ以上手放さないように、須藤の首に両腕を回し、その腰に足を絡めていた。ほんのわずかに荒れた息を、耳に吹きかけるようにしながら、須藤がささやいた。
「言えよ、悪くねえだろ」
「ん、ん――あっ」
「それともやめて欲しいか、今すぐ」
「いや、や、やめ……須藤、須藤ッ……」
勃起したものが須藤の腹に押され、須藤が動くたびにこすられて、ぬめりを帯びていくのが分かったが、中里はそれどころではなかった。自分がどういう状況にいるのか、もはや分からずにいた。須藤が笑う気配がし、腹に体重をかけ、摩擦を強めてきた。快楽に弄される中里が一層声を高めると、須藤は満足したように、分かったよ、とささやき落とし、そのまま動き続けた。中里が全身を震わせて二度目に果てたのちも、体勢を変えずに抜き差しを続け、中里は快感に征服され、ついに放出した須藤が処理を済ませて再び肌を重ねてきても、拒むことも考えられず、二回目の交わりの最後で、射精せずに達すると同時に意識を失った。
覚醒し、目やにでふさがった目を指を使ってこじ開け、中里はとりあえず寝ている体を起こして、いてててててて、と腰の奥に響く痛みのために背を丸めた。何だこれは、と脂汗のにじむ髪の生え際を指で拭い思って、毛布の下にある自分の身が衣服をまとっていることに気付き、ああ夢か、と安堵して、それからすぐ、夢? と首をかしげ、夢と認識しようとしていた昨夜のことを思い出し、うわあ! と一人自分の寝ていたソファベッドから飛びのいて、どすりと壁との隙間に落下した。
あいたたたたた、と今度は全身を打ちつけた痛みに苦しみ、何とか立ち上がると、真正面の流し台の前に立っている、黒い長袖にジャージの下を着た金髪の男と目が合い、中里は壁に背をつけた。咥えた煙草を手に移した男が何か言おうとする前に、す、須藤、と慌てて声を出す。
「お、お、お……おはよう」
「おはよう。勝手に始末させてもらったぜ、俺も今日は仕事があるからな」
そ、そうか、と頷き、始末という言葉について考え、絶句した中里を素知らぬ顔で須藤は見ていた。中里は壁に沿って少し足を動かし、隙間から抜け出した。須藤は煙草を吸い、流し台に置いた灰皿に灰を落として、何気なく言った。
「お前、初めてだったのか」
「ああ? な、何が」
「男にやられるのは」
中里は五秒ほど固まった。そして理解をできぬまま、な、何? と声を裏返した。須藤は納得したように、軽く頷いた。
「それにしちゃあ、随分気持ち良さそうだったけどな」
「男と……何だって?」
「素養があったのか俺と相性が合ったのか、まあどっちにしろ、下手な奴とやるよりは良かったんじゃねえか」
他人事のように須藤は言った。中里は呆然と立ち尽くした。男とやる? やる、というとだから――待て、そういえばこいつ、俺の聞き間違えじゃなければ、男も抱けるとか――つまり昨日のあれはそういうことで、俺はこいつと――そこまでめまぐるしく考え、中里は気が遠くなった。後ろに壁に背中を預け、何とか立ち続けるが、それ以上は動けなかった。須藤が煙草を灰皿に置き、歩いてくる。眼前まで来られ、頬に硬い右手を当てられても、中里はひたすら壁に背をつけて、須藤を見ることしかできなかった。いくら力を加えられても同じ形を保ってそうな、力強い顔。その中の、あのような深い動きをなしたとは思えない、幾分小さめの口が開いた。
「中里、俺と付き合うか」
「……は?」
「たまに会ってやるだけだ。それ以上は、欲しけりゃやるよ。俺は別に要らねえけどな」
何でもないように親指で目の下を撫でられ、顔全体が熱くなる。そのため頭にも血が巡り、言葉を理解しかっとなり、だからッ、と中里は吠えた。
「須藤てめえッ、俺は男だっつってるだろうがァ!」
「だから見りゃ分かる、その面でその声で、その体で女なら、病院に行くべきだ」
「分かるならそういうことを、そういうことを俺に言うな、するな、やるな!」
「されたくねえなら、そういう態度を取れよ。昨日のあれじゃあ、馬鹿な奴なら勘違いしても仕方ないぜ」
「てめえはそうじゃねえのかよ!」
「俺は馬鹿じゃねえし、まだ馬鹿にもなっちゃいない。なってやってもいいけどな」
品定めするように、とかげのような須藤の両の目が中里を捉えた。感情の動きも見えないその目に見据えられていると、何をしても無意味に思え、中里は、キレた。右の手が握り拳を作ると、狭いスペースにも関わらず十分な速度に乗せて、フックを放っていた。固めた拳が須藤の左の頬に当たり、鈍い音がした。須藤は殴られるまま顔を横に向けていた。その唇の端が赤くなっていくのを中里はじっと見て、ふと、胸の前に上げたままの振り抜いた、じんじんと熱くなっている自分の右手を見下ろし、それから須藤を見上げた。須藤は指で殴られた側の唇を触り、いてえな、と中里を見た。脅そうとするでも怯えるでもない、先ほどと変わりのない目をしていた。中里は須藤の頬骨に当てた右拳を左手で覆い、対処を考えようとしたが、頭はもうまったく回らなかった。
「……失礼した!」
とにかく全力で叫び、須藤を押しのけ、すぐ傍の廊下を数歩跳んで玄関の土間まで着くと、つま先だけを靴に突っ込み、鍵を開けて転がるようにドアから飛び出、走り、腰の鈍痛に悶絶しかけながらもスカイラインと対面した。運転席に乗り込みシートで体を固定して、バックミラー越しに自分が出てきたドアを見る。何の動きもなかった。そのことに焦りに駆られながらも、靴をきちんと履いてから素早く発進し、ともかくも早朝の街中を、愛車で走り抜ける。ああもう何なんだこれは何なんだ、俺はどうすりゃいいってんだ! 尻と体中に染み付いた痛みから運転にも快さを覚えられず、自分の身に起きた出来事を振り返ることもできず、中里は地獄に向かっているような気分のまま、長い帰路をたどった。
- - - - -
打撃を食らった拍子に自分の歯で切った唇を舐め、頬に広がるしびれる痛みに眉根を寄せて、京一はふと気付き、洗面台に行き、鏡に己の顔を映した。どう見ても、殴られた後だ。目に悪い。軟膏を塗ってガーゼを貼った方がいいだろう。対外的には酔っ払いに、ということで済む。実際には、酔いから醒めたためだろうが。考え、京一は痛む頬を撫でながら、誤算だったと思った。大して抵抗されなかったから油断していたが、あの勢いで顎にでも当てられていたら、脳震盪を起こしていたかもしれない。結構な馬鹿力だ。次は用心しなければならない。次――会わないことはないだろう、あの男にはいろは坂に来るべき理由がある。中里毅。京一は目を閉じ、開き、あざの浮き始めた自分の唇の端を、軽く上げてみた。鏡の中の自分は、ひどく満悦したように笑っていた。
(終)
(2006/04/05)
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