受諾 1/2
五日である。何かといえば、中里毅が今日まで妙義山へ車を向けなかった連続日数だ。
普通自動車免許を取る前から足しげく峠に通ってはトラブルに巻き込まれるなりトラブルを起こすなりするとともに、着々と走り屋としての実力と地位を築いてきた中里であるが、五日続けて峠に行かぬなどと、冬眠期と雨期と愛車入院期を除いてはかつてなかった。これまで睡眠不足を削ってでも毎日走ることを欠かさず、それは趣味というよりも生活習慣となっており、ホームでのバトルに負けようとも失恋しようとも、何一つ変わらなかった。このまま日々夜を峠で過ごす走り屋人生が続いていくことを、五日前まで中里は疑いもしていなかった。
五日前にせよ、チームの汚辱はそそがねばなるまい、と奮起をしており、気合と根性に満ち溢れていたものだった。その瞬間まで中里は、『妙義ナイトキッズの中里毅』として、確かに存していたのだ。
いまだ気持ちに整理はつけられぬまま、しかし中里は今、地元の峠に向けてスカイラインのアクセルを踏み込んでいる。五日間、一人で延々とある事実について思い悩み、そして決意した。ともかく、仲間に会おう。そうすれば、きっと気分も変わる。考えも変わる。何もなかったのだと思えるかもしれない。
そのような期待で紛らわせているが、不安は根強く中里のうちにある。
慣れきったステアリング操作を意識して行わねばならないまでに、現在中里を惑わしている事実としては、五日前のことがあげられる。カマを掘られた、尻に入れられた、好き放題に抜き差しされた――つまり、同性と、セックスしたのだ。その行為の全貌は、まだ急にひねると時折痛む腰がいちいち思い出させてくれるため、中里は恥辱の海の底にいる。
そもそも、男同士でナニができるなどとは考えもしていなかったことだった。発想すらなかった。土壌がなかった。そんな場所に種を撒いたところで育つはずもないだろうに、どうも途中で芽が出てしまったらしく、最終的に信じがたいような感覚を植えつけられていた。快楽だ。確かにそこには、相手に支配された、肉体の快楽があった。だから中里はいまだ、気持ちに整理をつけられていない。第一、その相手とはその日、初めて顔を合わせたのであって、すなわち初めて会った相手と、その時はそうと知らなかったとはいえ、中里はイタシテしまったわけである。また、そうして流されたのは、許したからだと思っている。痛かった。恥ずかしかった。苦しかった。腹立たしかった。それでも、完全に抵抗できなかった。挙句、自ら相手に抱きつき、腰を揺らしていた。よって、自分がその行為を選び取ったのだという意識が中里にはあり、思考上でも相手を非難することはできなかった。相手を責められない、自分も責めたくない、認めたくない、しかし事実は残っている。どうにも仕様がなかった。しかも中里にとってもう理解できない、したくもない相手が、五日前、コトが終わっての別れ際に付き合う云々と提案してきた時、中里ははっきり言葉で断る前に、その頬に一発拳をお見舞いしていた。確かに自分は『無理矢理された側』であるのだが、そう主張するにも自分には自分の落ち度が確かにあるため、中里は五日間、それについて考え抜き、疲れ果て、そして今日、考えることはとりあえず放棄して、アクセルを踏んでいるのだった。
考えることは、もうしなかった。自分の落ち度も、その行為で生まれた感覚も、その相手――須藤京一という走り屋が、今、どうしているかということも。
同じ峠で最速を争っている相手として、庄司慎吾は中里毅という男をたまに気にかけている。
同じチームに所属する者でもあるため、以前は常にその動向が目について仕方がなかったが、一年近くライバルとも仲間とも言いがたい関係を続けているうちに、その男にいくら注意を割いたところでロクな結果にならないことを慎吾も悟ったため、今では気が向いた時に妙なことは起こっていやしないかと思う程度になった。意識的に、そうしたのだ。そして中里のホームアウェイ含めての三連敗、そののちの久々の勝利と勘違いでの失恋という事態も通り過ぎた現在、慎吾は平穏無事かつ刺激的な走り屋ライフを達成していた。
別段、中里毅という男が嫌いというわけではない。日常的に溢れる単純さや根拠のない自信に満ちた言動は気には障るが、その男に対する仲間意識というものは否定できないほど根付いているし、この峠で自分と、速さから何からすべての上で張り合える相手が、R32を駆る中里以外いないということも、慎吾は分かっていた。だが余計な手出しをしなくなって以後、敵対心が時折表に出る程度の距離を保てるようになり、相手の存在によって神経がささくれることもなくなった。快適だった。つまり、好き嫌いなどは間に入れず、とにかく中里毅との意味のない関わりをできるだけ避ける、それが慎吾にとっては妙義山で最善だと思われる身の処し方となったのだ。
しかし、その人生をスカイラインGT−Rと峠に賭けているような中里が、連日訪れていた峠に五日続けて現れず、来たかと思えば目は血走り頬は削げ切り皮膚は荒れ、というやつれきった顔となっていた上で、何もなかったように接せられるほど慎吾が割り切れられていたかといえば、幸か不幸か別である。
さて元々割り切るなどということは考えてもいなさそうな仲間たちは、そうして夜も盛りの峠に現れた疲労感満載の中里へと、どうしたどうしたと口々に尋ねていた。大丈夫だ、大丈夫、と答える中里の目は、中空の一点へ向けられていた。様子はとても平常ではない。だがどうしたという問いかけに大丈夫と返されるやり取りが繰り返されるうちに、敢えてその中里の異様さを追究しようとする酔狂な者もいなくなった。
慎吾としても深く関わるつもりはなく、ただ何事か一度は聞かねばわだかまりが残って仕様がなさそうだったので、温もりを得るためにホットの缶コーヒーを買ったのち、中里がスカイラインの傍で一人ぼうとしているところへ、目立たぬようにそっと近づくと、
「おい毅」
「――わッ!」
騒ぎにもならぬように耳元に静かにそう呼びかけたのだが、ところが中里は大げさに飛び退った。
まったく計算違いの結果に、何そんな驚いてんだよ、と慎吾が不愉快になりながら訝ると、胸に右手を当てた中里は、い、いや、何でもねえと思い切り首を横に振った。慌てすぎていて、怪しすぎる。だが、そこをわざわざ突っ込むのも面倒だったので、ああそう、と適当に慎吾は頷き、自分の感情を整理するために、話を進めた。
「お前、そのツラどうしたよ」
「別に、何、どうもしねえよ。何だよ」
「どうもしねえってもんじゃねえだろ、他の奴らにも聞かれただろうが。ズタボロだ」
「どうもしねえんだよ、クソ、俺が何だっていうんだ、俺は俺だ、何が変わるわけもねえ」
「まあ、そうやって一人の世界にすぐ入るところは変わっちゃいねえけどな」
そう嘲っても、中里は目を泳がせて、胸に当てていた右手で喉を撫で、いや、だの何だの聞き取れぬ声でぶつぶつと呟くのみだった。そう、この男が自己には埋没するのはいつものことだ。だが、本日はどうも、度が過ぎている。そうは分かっても、他の奴らの手に負えないことを引き受ける気もしなかったので、慎吾が何もなかったことにして車に戻ろうかと思っていると、まだ何やら呟いていた中里が、不意に険しい目を向けてきたのだった。
「慎吾」
そのこけた顔に、精気に満ちた表情が乗っている様は、霊的存在に基づくような威圧感がある。ぞっとして顎を引きつつ、何だ、と慎吾は問うた。
「俺たち……仲間だよな」
慎重にそう言った中里から、何だいきなり気味わりい、と慎吾が益々ぞっとして身を引くと、いやいいんだ、と中里は頭を振った。中身の見えない話を聞くのもうんざりするので、まあ頑張れよ、よく分かんねえけど、と慎吾は自分で飲もうとしていた缶コーヒーを中里に差し出した。その表面上の親切を揶揄する余裕もないようで、ああ、と中里はそのまま礼も言わずに缶を受け取り、プルタブを引き、コーヒーをごくごくと飲み出す。慎吾はその姿を見ながら、缶を握っていたため濡れた指でうなじを掻き、別にいいだろ、と思った。借金で首が回っていないというわけでもなさそうだし、女に狂っているわけでもなさそうだ。チームに波風は立ちそうもない。そこまで分かれば、わだかまりもごくごく小さなものになる。これ以上首を突っ込んで余計なことに巻き込まれでもしたら、損以外に生まれはしない。
残るわずかな気がかり無視するため、そうして慎吾が黙ってその場から抜けようとした時、ガロンゴロンと音がした。同時に、この辺りではあまり聞かないエンジン音が轟いていた。それは無論車のものであり、ガランゴロンという音は中里が手にしていたスチール缶がアスファルトと接触した音だった。液体が、どくどくと地面に広がっていく。もったいねえな人の物を、といささかむっとしながら慎吾が中身に濡れた缶を指でつまんでいる間に、強烈な光が眼前を過ぎていった。車が近くまで来て、停まったようだった。とりあえず慎吾は、始末しろよ、と缶を中里にもう一度差し出したが、それには目もくれず、中里は驚愕の表情のまま硬直していた。まるで時間が止まっているようだったが、勿論動いていた。
「毅?」
声をかけるも、中里は口をぱくぱくとさせるだけだ。何だこいつ、と思ってから、慎吾は来たらしい車に目を向けた。そしてようやく、中里の驚きの原因が分かったが、しかしなぜそこまで驚くのか、という新たな疑問が生まれた。仮にそこに現れた黒いランサーエボリューションが、以前中里に、すなわち我々ナイトキッズに敗北を与えた野郎と同じチームに所属する車であったとしても、多少何で来やがったなり何しに来やがったなりと驚くことはあれど、硬直するまではいかないだろう。何なんだ、と思ったまま、中里は勿論その場のほとんどの人間が注目しているその車を慎吾も見ていると、運転席から男が降りてきた。頭に白い布を巻いて、ポケットの多いジャケットとパンツを身につけた男だった。遠目からでは慎吾は記憶は呼び起こされなかったが、少しざわめいていた周囲で、いつの間にか後ろに来ていた一人が、何でもないようにぽつりと言った。
「あ、須藤京一だ」
ざわ、と人の声が鳴った。マジで、と慎吾は振り向いた。後ろにいた男は、うんうん、と頷いた。
「俺見たことあっし、タカハシリョースケとあのトビみてーのが赤城でやった時」
え、と後ろにいた他の野郎どもも、話題に食いついた。
「スドウキョーイチってあれか、エンペラーだっけ? 栃木?」
「そうそう、皇帝皇帝、皇帝ペンギン?」
「ペンギンはおめえもっとこう、なあ。あれどう見ても恐竜だぜ」
「皇帝ティラノザウルス?」
「プテラノドンとか。バルタン星人でもよくね?」
「いやあの顔はダダだろダダ」
おそらく『須藤京一』である男が近付いてくると、慎吾の後ろで勝手な品評を行っていた野郎どもは、なんのかの続けながらも怖気づいたように声を潜めた。そのような、そもそも怪獣でくくっちまっていいのかいいんじゃねえの怪獣っぽいしいやいやミケランジェロ的っていう線も、などと話し合われている中には加わらず、慎吾は近づいてくる須藤京一と見なして良いだろう男を流れでもって眺めていた。
赤城山で群馬エリア最終防衛線赤城レッドサンズと侵略者栃木エンペラーとの頂上決戦が行われた際、高橋啓介に関して吹っ切れていなかった中里をまだ無視し切れずに引き連れて慎吾もギャラリーとなったが、須藤京一当人の姿までは目にしていなかった。よって今、後ろの男の記憶が確かならば、その全貌を初めて見たことになるのだろうが、なるほど、確かにとび職でもしてそうだ。頭にタオル、作業服のような利便性と動きやすさを併せ持った服装。しかし顔はまだ知性を感じさせるし、あの高橋涼介とつばぜり合いをした男である、仮に職人気質であっても頭は回るだろう。
が、須藤京一が馬鹿であろうが賢者であろうが農家であろうが国宝級伝統業師であろうが凄腕デイトレーダーであろうが、慎吾にとっては所詮他人事だった。直接中里を下しチームのステッカーを切り裂いたエンペラーの男こそが、殴りたいほど毛嫌いする相手であって、いくらその男の上に立ち、行動の指示を出したであろうとしても、この地に足を踏み入れもしていない須藤京一に、とりあえずすげえ走り屋という以上の興味を慎吾は持ちはしなかった。
さて、では横の立つ中里はどうなのか――普通に考えるならば、とりあえずすげえ走り屋、くらいの認識しか持ちそうにはないが、しかし近づいてくる須藤京一を見据えているその体は、かっちりと固まっていた。微動だにもしない。明らかに、須藤京一の存在が中里の思考に介入していた。つまり、中里毅は須藤京一をあらかじめ知っているものと考えられ、実際須藤京一はあと五歩ほどのところから中里へ、「よお」、と慣れた様子で声をかけており、また中里はその途端にわなわなと震え出したので、二人が知り合いであることは容易く察せられた。また須藤京一、というこの峠では異例の存在が、この峠では恒例の存在である中里に対して、なぜかような不自然になるほどの自然さを持っているのか、疑問を持った者が多数いたのか、周囲からはざわめきが消えた。
風のそよぐ音と車のエンジン音が混じる浅い静寂の中、更に近づいてくる須藤京一に対し、ただ震えるだけだった中里が、な、な、な、とようやくか細い声を出した。
「な、何で、お前がこ、こ、こ、ここに……」
「話がある。時間をくれ」
「何、何だ、いや、俺にはねえぞ、話なんて、俺には」
「『俺には』あるんだ、悪いな」
足を後方に引いた中里に手を伸ばすと、須藤京一はその首筋を触っていた。ひっ、と中里が妙な悲鳴を上げたが、構わずその首根っこを掴んだ須藤京一は、無駄な動きもないまま、すぐ傍で事態を見るしかできずにいた慎吾たちへ顔を向けてきた。無駄な感情も思考も乗せていない顔だった。
「借りるぜ。すぐ返す」
了承も得ないまま須藤京一はこちらに背を向けたが、あまりに隙なく行動がなされていたため、断るという選択肢が発生する雰囲気にもならなかった。向こうへ連れて行かれる中里と連れて行く須藤京一を、慎吾も他の仲間も特に何もせずに眺めた。二人が向き合って話し始め、周囲にも人の声が戻った頃、慎吾の後ろにいつの間にか集まっていたうちの一人が、っつーか、と不思議そうに言った。
「あれってマジで須藤京一?」
いやマジだろ、と最初にあの男を須藤京一と見なした男が答えた。
「だってあんな姿他にいねーぜ、俺見た限り」
「あの顔一回見たら忘れねーってなあ、こえーもん」
こえーこえー、と続ける他の奴らに被せつつ、っていうかさあ、と一人がどうでも良さそうに言った。
「あのプテラノドンがスドウキョーイチさんなのはいいとしても、なーんでそれが毅さんをラチってんの」
うーん、と皆、腕を組むなり天を仰ぐなり、悩むポーズを取った。そのうち、話が再開される。
「あれ、知り合いっぽかったよな」
「えー? 何の絡みで中里と須藤が知り合いだよ」
「昔からとか?」
「だったらお前、あれの手下がここ来た時にもっとリアクション違わね?」
「中里ほど分かりやすい人間はいないからな」
「高橋涼介絡みって線は」
「あー、浅からぬ因縁ってヤツ?」
「そりゃスドーキョーイチとタカハシリョースケであって、そこに毅サンが入るっつーのはなあ、信じられないっしょ」
「まあありえねーな」
「でもありえっかもしんなくね?」
「ありえないとは言い切れないが、ありえるとも言いがたいな」
「あれ、えーとあのエボ4はどうよ」
「あ? 誰?」
「ポニーだろ?」
「あれに会いに行ったついでにっちゅー線?」
「行ってたのか?」
「そんな話は聞いてねえけど」
「分からんな」
頑張って可能性を上げていた連中は、そのうち一人が焦れたように発した、
「で、結局何であいつら知り合いなワケ?」
という問いには、しかし答えられずに終わっていた。そして沈黙が再び広がり、十秒も経たぬうちに、皆揃って慎吾を見てきた。興味もないのでこっそり抜け出そうとしかけていた慎吾は、俺は何も知んねえぞ、見るなよ、と肩をすくめた。
「へえ、お前も知んねえんだ。意外、通じ合ってそうだけど」
「じゃあ庄司クンの予想はどーよ」
ふざけたことを抜かした奴には、あんな野郎と誰が通じ合うか、とガンを飛ばし、人を試すようににやにやしている奴には、
「知り合ったんだろ。どっかで」
と、単純な答えをやった。えー、と案の定不平がくる。
「それ予想ですらねーじゃん、知り合いっつーのは決まってんだし」
ブーイングが起こっていたが、っつーか、と慎吾は容赦なく話題をぶった切った。
「須藤? 京一? あの野郎、俺らに目もくれなかったんだから、俺らにゃ関係ねえことだろうよ、どうせ。毅だって何も言ってこねえんだし、ならあいつらの個人的なことじゃねえか。俺はそんなくっだらねえこと考えるほど、時間の余ってる人間じゃないんでね」
ふーんそうか、と数名が頷き、なるほどまあ関係ない、と数名が納得し、まあどうでもいいしな、と数名が割り切り、じゃあ解散、と空気の読めない一人が勝手に宣言すると、皆興ざめしたように散り散りとなった。熱しやすく冷めやすい。このチームのメンバーの特徴であるが、『須藤京一』というほとんど未知に近い要素が、野次馬根性をも静めるほどの触れがたさを持っていたことが、それに拍車をかけているようだった。
無責任な予想ならば、どのようにも立てられる。だが、立てたいとも思わなかった。だから慎吾は中里のいる方向へと目をやり、何やってんだよてめえは、と口の中で呟いて、後は愛車に乗る前に、煙草を吸うのみだ。
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