受諾 2/2
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 大人しく連れられていた男が、首筋を固定していたこちらの手を鬱陶しそうに払ってきたのは、阿呆面を晒している男たちの個々の顔を見分けられなくなるだけの位置に来てからだった。数歩の間合いを取り、何なんだ、と男は困惑のためか上擦っている声を上げた。間近でその顔を見ると、頬がこけ、全体的に青白くなっていることがよく分かった。
 須藤京一はその顔から首、胴体、足まで目を走らせ、そして再び顔を見据えてから、見過ごせる人間はそういないだろうと思われることを口にした。
「大丈夫か」
「あ?」
「体調だ。無理をさせたからな」
 明らかに精神衰弱と挙動不審が見て取れる様子への心配もあったが、ひとまずの無事か否を確認するという面が強かったためか、問い方は事務的になっていた。その男、中里毅はそのためか、あるいは単にその問いの意味を悟ったがためか、戸惑ったように目を泳がせ、口を何度も閉じたり開いたりし、最終的に舌打ちしたのち、何ともねえよ、何も、と地面を睨みながらつっかえつっかえ答えた。
 何ともないとするには、顔色が尋常ではなかったが、苛立っている様子からは既に同じ問いを他の人間になされたのだろうという推測ができたため、そうか、と京一は肯定を示した。すると中里は、ばっと顔を上げてきて、目も口も大きく開くと音が立つほど息を吸い、数秒止まったのち、何も言わずに吐き出してから、また舌打ちして、地面を睨んだ。
「そうだ、何ともねえ……それに、俺に話は何も、お前に……あんたに話すことなんて、俺は、俺にはねえんだ。帰ってくれ」
 地面に向けて唾を飛ばしている男の顔は、憤りか混乱か、はたまた羞恥心があるのか、徐々に赤らんできていた。血の気が良くなると、妙に情がそそられる顔だった。一つには背筋をざわつかせるこれを再度見るべくここへ京一は訪れたわけだが、一つには対外的な事柄について決着をつけることもあった。一旦思考を奪っていった記憶が沈み込むだけの、五秒よりは長く十秒よりは短い間を置いたのち、京一はしっかりと閉じていた口を開いた。
「バトルはどうする」
 びく、と男の体が大きく揺れ、そのまま止まった。そう、この男――この妙義山を根城としている走り屋は、元々チームの面子をかけただか本人のプライドをかけただかの再戦の申し込みを携えて、先日こちらのホームであるいろは坂に現れたのだ。だがその時はこの男の目標物は来ておらず、そして男はそれに会えるまで何度も来ると言っていた。最初のその口ぶりでは、翌日にも現れそうなものだった――もしその先の件がなければ、実際に来たのかもしれないが、ともかく男は来ず、代わりというにはまったく違うが、男の目標物は来ていた。
 まず一つ、それを知らせるために、京一は敢えてこの地に足を運んだのだ。その前に帰るという選択肢を京一は持たず、だから今、この男の意思を尋ねたのだった。
 十秒ほど固まり続けた中里は、不意に京一を一瞥し、その後はまたも地面を見ながら、どうするって、と弱々しく掠れた声を出した。
「それは、だから……追々だ、追々」
「あいつはもう山には来てるぜ。今ならいつでも会える。会おうと思えばな」
 京一が囁くように言うと、男はぎょっとした様子で見開いた目を向けてきた。その顔は青ざめ、また赤くなる。今度はこちらから視線を外さず、顎をがくがくさせながら、あんた、とやがて中里は、息のような声で言った。
「じ、自分がしたこと……覚えて、忘れたのかよ、あの……」
 語尾を日本語として成り立たせていない中里をじっと見据えたまま、覚えてるからここまで来たんだよ、と京一は言い切った。一つは、五日前、この男の心意気を感じたことによって走り屋としての自分に生じた、純粋な親切心のためである。だが一つには、個人的な欲望があった。その顔を再度見るためと、その体を再度手にする機会を設けるためだった。覚えている。そう答えた己は、走り屋としての須藤京一ではないが、バトルの話を持ちかけている己は走り屋としての須藤京一だった。おそらくそうした切り替えが理解できていないのであろう男は、動揺を深めた様子で、
「なら分かるだろ、あんた……お、俺は、俺も色々考え、考えたんだよ、色々……でも、あんなことはみ、認めらんねえ」
 何度もどもりながら言った。その鈍重さが気に障ったのは唐突だった。今の話の要点は、この男があの一件をどう捉えるかではない。中里毅という走り屋が、こちらのメンバーと今すぐにバトルをするかどうかということだ。そうと進まぬ事態ののろさに対しての苛立ちが突然わきあがり、京一は中里を見据えたまま、自分の解釈のみで言葉を吐いた。
「自分が認められないからか」
 数拍置いてから、何?、と男が大きく顔をしかめる。不愉快そうであり、また不可解そうだった。それを見ていると、この男の反応の端々にある不断さに対する苛立ちこそが深まっていき、常では抑制している皮肉屋の自分が表出することを、敢えて止める必要性も京一は感じなくなった。よって、口調は慎重さを失わないが、出てくる言葉はまったく自分本位のものとなった。
「俺とあれだけやった自分を認めたくないんだろう。初めてだったか? それで気を失うまでいったんだからな、無理もないとは思うぜ。なまじ自業自得な面もある。俺を蹴り飛ばしてでも逃げる機会はあったはずだ。でもお前はそうしなかった。だからそれを、俺を思い出すようなことはしたくねえ。つまりあいつとのバトルも後回しにする。そういうことでいいんだな」
 京一が言い終えると、顔を真っ赤にした中里が、「俺はッ」、と小さく叫んだ。
「あんなことになるなんて知ってたら……あ、あんなことは、しなかったんだ」
 それは不当な押し付けに対するものというよりは、図星を突かれたことによる己への釈明のようだった。そして勿論バトルについての京一の確認に対しての答えではなかった。そうした己の計算通りに事が運ばぬ苛立ちは過ぎ、京一はうろたえてばかりのこの男を、掌に乗せることの面白みを抱き始め、次には声をおさえて言っていた。
「それでもお前はしたじゃねえか。気持ち良かったんだろ?」
 数秒後、中里が予備動作もなく繰り出してきた右の拳を、顔色一つ変えずに京一は左の手のひらで受け止めた。パシリ、と皮膚を打つ音がし、ほんの少し、周囲の空気が変わったようでもあったが、京一は左手でその拳を握りこんだまま、中里のみを見据え続けた。中里は半端に右手を上げた状態で厳しく睨み上げてくると、須藤、と低めた声を響かせた。
「次は当てるぞ、てめえ」
「言葉に詰まったら手を出すか。単純だな」
「てめえがッ、俺にしたことを考えろッ、バカが!」
 京一が掴んでいた拳は強引に引き抜かれ、そして中里は体裁を気にするゆとりもない様子で、大声を上げた。周囲の空気はまた変わり、中里がそれに気付くまでそう時間もかからず、やがて目をきょろきょろと落ち着かなく動かし出したその男へ、京一は自分の耳が正常であることを確かめるため、
「馬鹿?」
 と尋ね、中里ははっと我に返ったように、再び京一を、今度は幾分冷静な色の乗った目で、睨んできた。
「そ……そうだ、お、同じ男相手に臆面もなくそんな言動する奴がバカじゃねえなら、何がバカだ。俺には、そんなバカを相手にしてる暇はねえんだチクショウこの野郎」
 京一はようやく人間としての熱を取り戻したかのような中里を眺めながら、その意見の真髄と、自分が取りうる対応を、少しの驚きに覆われている頭でまとめた。方針はもとより決まっている。五日前に貪ったその体をもう一度、長く味わうことだ。そうなると、計画は容易に立つ。よって中里が周囲を再び気にしだす前に、なるほど、と京一は己の決断を示した。
「お前は俺が、馬鹿だと思っているわけだ」
 視線を外さず言うと、中里は反感を露わにしていながらも、どこかばつが悪そうに、悪いか、と呟いた。いや、悪くはねえよ、と京一は返して、右手を伸ばしてそのシャツの襟首を掴んだ。
「来い」
「――うおッ!?」
 そのまま力を加減することなく、先ほど阿呆面を晒していた集団のあった場所まで中里を連れて歩く。そこには唯一煙草を咥えている男が残っていた。その柄が悪そうな――こちらのチームを考えるとそうと言えた義理でもない程度だが――男に、おい、と京一は連れている中里を見せつけながら、声をかけた。
「悪いが予定が狂った。こいつを借りてくぞ。明日には返す」
 あ?、と煙草を指に移して顔をしかめた長髪の男が、ああ、と頷き、だがすぐに、いや、と不審そうに見てくる。
「ちょっと待て、どういうことだそりゃ」
「そういうことだ。危害は加えねえよ」
「な、な、な、何、おい、おい須藤ッ、離せコラ、バカ野郎が!」
 長髪の男に説明する間に暴れ出した中里の下半身を、京一は堂々と探り、ジーンズのポケットから車の鍵を取り出すと、おい、とぽかんとしている男へ放った。
「適当なところにこいつの車を停めといてやれ。誰か自宅くらい知ってるだろ」
「やめろッ、俺のRを他人に運転させられるかああああ!」
 悲痛な中里の絶叫が響いたが、あー、と長髪の男は気だるげに言うのみだった。
「毅、まあ……あれだ、えーと。あ、ナカジマに任せておくからよ。あいつ工場勤めだし」
「普通のことを言うんじゃねえよてめえは、シンゴ!」
 長髪の男に食ってかかっていく中里を、シャツから手を離しその首根っこを掴み直して抑制する。そして、
「どういうことか、話してやろうか」
 赤く染まっている耳へと直接囁くと、中里は瞬時に動きを止めた。それを改めて引き寄せ、長髪の男に背を向け、思い直し、京一は振り向いた。
「お前、何か言うことはあるか?」
「あー……」、と相変わらず気だるげな声を出した男が、あ、と思い出したように京一を見た。「あーと、とりあえず、五体満足で、こっちに戻してやってくれ。うん。一応それ、『それなり』だから。ここの」
 思考が停滞しているような男へ、京一は中里の首筋を掴んだまま、そりゃ当然だ、と頷いてから、再び背を向けた。自分の車に歩き出すと、その場の者が向けてきているのであろう視線を感じないことはなかったが、京一は構わなかった。連れてきた男を助手席に押し込み、自分は運転席に着いて発進する頃にはもう、外の状態など関係はなかったのだ。



 なぜよりにもよって今日なのか、中里は混乱しきった頭で事の流れを考えた。昨日ならば自分は峠には来なかったし、明日ならばもっとまともな状態で相対することができたはずだった。いや、今日にしても、もし、隣でこのランサーエボリューションスリーのステアリングを握っている、相変わらず何を考えているか分からぬ面相の男が、もっと早くか遅くかに来ていれば、出くわすこともなかったはずだ。なぜなら今日はチームのメンバーと会って気持ちを切り替えようとしていたわけで、またチームの状況も確認したかったまでで、峠を攻める気などほとんどなかった。腰も本調子ではない。仮に走りたくてむらむらきたとしても、ここしばらく悩みすぎて寝不足であり、体力が追いつかなかっただろう。結局、タイミングが悪すぎたのだ。だからこうして、チームのメンバーの目の前で、この男の車に乗せられて、山も後にしてしまっている。
 運転席に座る須藤京一は、真っ直ぐ前方を見ているのみだ。中里がいくらちらちら見ても、一瞥すらしてこない。まるで運転手であるその男以外にこの車には誰も乗っていないかのような態度だが、衝撃の少ない柔らかい運転は、確かな気遣いを感じさせ、中里は混乱するばかりだった。
 沈黙が同乗した車が走る。須藤は一言も発しない。中里は声をかけるまでの度胸が持てない。首を掴んできた須藤の手の熱さ、耳に触れた息の感触が、簡単に己の理性を瞬間潰したことへの恐れがあった。同時に、その耳を擦っていくような低い声を聞き続けて、正常に思考を組み立てられるかどうかという自信が最早持てなかった。だから、声を聞きたくない。声をかけられない。そして須藤は、自らは何も言ってこない。
 この調子でいけば、群馬を抜けてしまうかもしれない。中里は焦り出した。せめて家には帰りたい。いや、この男とこれ以上、一緒にいたくはない。自分が自分ではなくなりそうだ。唾を飲み込んでから、中里は須藤へ顔を向けた。須藤はこちらを向かない。運転している最中に向かれても困るのだが、意識をされている様子も見受けられないと、声をかけるには度胸が要った。もう一度唾を飲み込み、口を開き、息を吸う。
「話って、何だ」
 はっきりと、中里は言った。言うことができた。須藤はちらりと横目で見てくるのみだったが、
「お前は清次とバトルをする気があるのか」
 と、車が走り出してから初めて声を発したのだった。安定した運転が続けられる中、中里は言葉に詰まり、目を泳がせた。唐突に、触れられたくない部分に触れられてしまったため、適切な説明が思い浮かばず、だがこれ以上沈黙とともにこの男の車に同乗していたくもなかったので、中里は己の現状をただ言った。
「する気はあるが、できる気がしねえ。今は」
 バトルはしたい、雪辱を遂げたい。だが隣の男が関わるということは、今の中里にとってアウェイでバトルをする以上に不利な条件であった。須藤京一の存在があるだけで、精神を統一できないのだ。それでは自信も集中力も欠いていた前回のバトルと同じ状況となる。勝てる見込みはない。
「なら、今はしないんだな」
 確認するように須藤は問うてきて、ああ、と中里は奥歯を噛み締めながら答えた。チームの面子がかかるバトルを、勝つ確信が持てぬ中、一存で行うわけにはいかなかった。
「それさえ分かりゃあいいんだ。こっちにも事情がある」
 そう言う須藤の運転は変わらず一定である。そして数分待ってもその後に須藤が何を言うこともなく、中里は不審に思ってつい尋ねていた。
「それだけか?」
「何がだ」
「いや、その、話が」
「そんなに俺は気の優しい人間じゃねえよ」
 うそぶくように答え、須藤は突然横道に入った。うおっと中里は驚いたが、それは土ばかりで舗装がないとはいえ、ぬかるみも大きな高低差もない道であり、さして車に振動もないため、それから先は騒ぎようがなかった。Uターンが可能なだけの土地が確保されている場で、須藤が車を停止させる。しんとした場所だった。ライトが消された状況では、窓の外も闇のために窺い知れない。空は遠い。梢のそよぐ音が聞こえ、消え、また聞こえる。
 中里は汗がにじむ手を握りながら須藤を見た。須藤はベルトを外すと、楽にしろよ、と言ってきた。ここでまだある話をするつもりなのだと解釈し、中里もまたベルトを外した。そうして自分の手へ顔と意識を向けている間に、須藤の体が目の前に来ていた。声を出せないほど、驚いた。驚きが過ぎた後も、唇を唇でふさがれたので、言葉は瞬時に出せなかった。須藤の膝が股間を押し、その手がシャツの上から胸を撫でる。押し付けられる唇から逃れようとしても、顎から首にかけてを片手で押さえられているため、顔を動かしようがなかった。舌が、唇の裏、歯列、歯茎を舐めていく。うなじを蝿が歩いていくようなぞわりとした感覚が記憶を呼び起こし、中里は須藤の胸を拳で叩いていた。呻いた須藤が、口は離し、だがそうも距離は取らなかった。眉が、ひそめられているのが、よく分かるほどの距離だ。何、と中里は唾を飛ばす勢いで叫んだ。
「何しやがる、この……」
「お前が俺を馬鹿だと思ってるなら」、と須藤は膝で一層中里の股間を押しながら、平然と言った。「そういうことにしちまおうと思ってな。それだけだ」
「そういうことって、お前、わけ分かんねえことを言うんじゃねえ!」
 中里はもう一度その胸を叩こうとしたが、その前に手首を掴まれ、肘関節が極まるまでねじ上げられた。痛みを軽減しようと体の向きを動かすと、須藤の顔に左耳を向ける格好になり、「馬鹿な奴ってのは」、という須藤の声が、そこに直接流れ込んできた。
「後先も自分の現状も考えない。お前が俺をそうだと決めてえなら、それでいいぜ。その代わり、そういう奴がしないことを敢えてすることもねえが」
 言うだけ言った須藤が、耳朶を唇で挟んできた。鳥肌が立ち、背中が反る。その間に須藤は膝を押しつけてきていた中里の股座に、空いている手を入れてきた。中里の空いている手は、耳への刺激と肘への痛みで、自由に動かすことはできず、ジーンズのファスナーを下ろしていくその手を止めることはできなかった。ボタンも外され、下着の中に遠慮容赦なく侵入してきたぬるい手は、やはり慎みもなく目覚めかけているものを握った。
「うわ、やめろ、おい、須藤」
「このくらいでガタガタ言うな、みっともねえ」
「みッ……、あ……」
 限られた範囲を無造作に往復するだけの動きだというのに、触れられるだけとは違う感覚が明確に生じ、体はそれに即した反応を示すのだった。心臓は激しく鼓動し、全身が熱くなっていく。吐き出す息も熱くなる。下腹部は殊更だった。首を舌先で舐められながら、肘関節を痛めつけられながら、本来静まっているべきものに刺激が与えられていく。喉から勝手に出ていく声が、掠れた。背中がざわめき、太股が震え出す。中里は歯をかみ締め、力を振り絞り、自由に動く左手で須藤の肩を掴んだ。自分の体をそうして固定しながら、やめろ、と腹から声を出す。
「こんなところで、お前、こんな……」
 途端、半ば硬度を持ち始めているものをしごいていく動きが止まり、握ったままとなった。ねじられていた手も離される。不審に思い、中里が首を動かすと、すぐ目前にいる須藤は、味気のないものを口に含んだままのような顔をしていた。
「場所が問題か?」
 本気で問うてきているのか判断できぬ調子だったため、いや、と反射的に言ってから中里は、
「こんなところでこんな、うん、こんなところでこんなことをするのはどうかっていうこともあるが、いや場所というかこんなこと自体がどうかということも、いやいやしかし車の中ってのはどうも……」と慌てて呟き、はっと思い出し、相変わらず何とも言いようのない表情の須藤を見て、そもそも、と言った。
「そもそもだ須藤、俺は、お前のことがバカだなんて思ってねえ」
 須藤は眉をぴくりとも動かさず、じっとこちらを見据えてきた。その揺らぎのない視線に、数秒で中里は耐えきれなくなり、いや思ってねえってわけでもねえけど、とつい白状して、違う違う、とまた首を振った。
「いやな、それはその、いやあれもあれで、言葉のあやだ。言葉の。だから、と、とりあえず、やめてくれ。お、俺は、こんなこと、おかしいじゃねえか。分かんねえんだ」
 顔は少し離したが、中里の局部は握ったまま、須藤は興味もなさそうに言った。「何がおかしいって?」
「いやだから、お、男同士で……こんな……」
 中里が語尾を濁すと、嗜好は人それぞれだろ、と須藤は言い、握っているものを握り直した。それにわずかに身を強張らせてから、思考、と中里は考え、なるほど確かに考え方はそれぞれだ、と納得しながらも、いやしかし、と口では否定した。
「お前はどうかは知らねえが、俺はお前のこと、そんな好きとかでもねえ、むしろもうかなり顔も見たくもなかったというか、それだってのにこんな……」
「俺も別にお前のことは、特別好きでもねえよ」
 考えながら喋っていた中里は、その須藤の唐突な断定に、は?、と頓狂な声を上げていた。
「気に入ってはいるけどな。前に言わなかったか? 俺にはそこまで必要ないと。あっても困るもんじゃねえが」
 いかめしい面で、ごく当然に言う須藤を、まじまじと見る。理解が追いつかなかった。この男の常識と自分の常識は、大きくかけ離れているようだ。萎えていく局所を捕らえられたまま、おい、と中里は口を大きく開いた。
「じゃあ、何でこんなことになってんだ、俺は」
「まあ世間一般の尺度を使えば別だろうからな。他に何か説明してほしいことは?」
 いやそれをもっと説明してくれ、と思わないでもなかったが、説明されたところで理解できる気もしなかったので、中里は浅い記憶を掘り起こした。
「……つ、つ、つ……付き合う、とか、前に言ってたのは、何だありゃ、おい」
「お前、俺が言ったことを覚えてねえのか」
 半ば呆れたように言われ、かっとなり、また拳を作ろうとしたが、握られているものの天頂を指で強く押され、腰が跳ねるだけに終わった。
「お……覚えて、は、いる、が、しかし、その……」
「いちいち否定するのが好きな奴だな」、と片頬をわずかに上げた須藤が、再び耳元に息を寄せてきた。「たまに会って、『こんなこと』になる関係だ。そしてお前がそれ以上を求めるなら、俺もやぶさかではない。そりゃ最低限のラインだからな。分かったか?」
「……わ、分かった、分かったからとりあえず離れろ、離れてくれ」
 顔は先ほどと同じ距離を取ったが、須藤の手は変わらず堂々と人のものを掴んでいた。
「他に聞きたいことはあるか」
 問われても、事態の流れが速すぎて頭が回らない。中里が口をぱくぱくだけさせていると、なら、と須藤は言った。
「残りの話だ。俺としたくなけりゃ、今すぐ俺を殴って外に出ろ。追いかけるまではしねえよ。また来るかもしれないけどな。してもいいなら俺の要求は呑め。ただし場所は選ばせてやる」
 その偉そうな物言いには怒りを呼び起こされたが、中里はそれを表現するタイミングを逸した。それは須藤の話が整然としているためでもあり、また須藤が自然な威厳を有しているためだった。反射的な行動を取られないほど、須藤京一という存在に、中里は呑まれていた。逃げ出したいのに、体が動かない。この男を跳ねのけて、外へ出さえすれば、後は歩くなり走るなり誰かに迎えを求めるなりで、帰宅できる。だが、体が硬直してしまっていた。自由であるのは口くらいなもので、したがって何とか動かせるものだけでも動かさねば現状は打開できないと焦った中里は、
「こ、ここは、どうも……」
 と、考えることもなく本音を吐いていた。それを受けた須藤は片眉を上げると納得したように頷き、握っていた人のものから手を離し、頭を覆っていたタオルでそれを拭うと、断りもなく助手席のドアを開けた。左から冷たい外気が流れてくる。須藤はそのまま窮屈そうに中里の上から外へと出て、ついでというように中里の襟ぐりを掴んで車から引きずりだした。そうして背後で助手席側のドアが閉められる音を聞いてようやく、中里は自分が明確な断りではなく、場当たりの言葉を口にしていたことに気がついたが、弁解をする間はなかった。須藤がすぐさま噛み付くようなキスをしてきたからだ。



 唇を擦り合わせ、舌を絡め取る。その後頭部を左手で押さえ、右手で開きっぱなしのジーンズを太股まで下着ごとずり下げた。舌で口腔を撫でるように舐めるたび、相手は言葉にならない声を漏らす。京一は貪るようにキスをした。いくらしても満足はできそうになかった。怯えた表情が快感に覆われていくさまは見飽きないし、舌の動きもまだ誘導の方があった。だが何分生理的な問題が限界を迎えていた。唇を離し、熱い顔で荒い息を吐いている中里を見据えながら、京一は囁いた。
「車の中ってのは、いけねえな。同感だ」
 眉根を寄せた中里はその顔に正気を閃かせ、しかし京一が幾度もなぶった下腹部に再び手を伸ばすと、耐えがたいように目を閉じて、摩擦から逃れるように腰を下へと落としていった。やがて両膝を地面につき、次に両手もそこへつき、顔を伏せる。その息は乱れたまま、四つん這いの体は細かく震えていた。
 背筋に汗が浮いていくのを京一は感じた。それは見下ろしているとつい足を動かしてしまいそうになる光景だった。土ばかりの地面に両手をつき、俯き、息を乱し、怯えているかのごとく、体を細かく震わせている男、その男の腹を蹴り上げて、苦悶に満ちた表情を表に出すことを、先ほどからまとう布地を押し上げている股間は期待しているようだった。
 だが行動を決定したのは、現状と後先を考える己であり、京一は地面に這いつくばっている中里の背に回ると、相手の先走りでまだ濡れている手を、むき出しになっているその尻へ這わせた。びくつくそれをしばらく撫で回してから、断続的に収縮している間の窄まりへと、躊躇なく中指を埋め込む。
「う、うう……」
 指全体で粘膜を擦り、肉をえぐるたびに聞こえてくる呻き声は、苦痛を表現しているようだった。丁寧に、かつ大胆に内部をかき回し、頃合いを見て入れる指を増やしていく。肘まで地面につけて、尻を上げた中里は、三本を後ろで咥え込む時には中心を硬くさせ、切れ切れに高い声を漏らし出していた。耳が拾った音は刺激となって、京一の体中に伝導していく。柄にもなく、ズボンの前をくつろげる指が震えた。仕方なく、男の中を拓いていた指を抜いて、両手を使って自分のたぎっているものを取り出す。
「……ふ……っ、うう……」
 すすり泣くような声を上げた中里の体は、弛緩していた。その腰を掴み、入れるぞ、と言ってから、挿入する。また呻いた中里が、背をたわませた。構わず京一は奥まで突き入れて、外れそうになるまで引き抜き、またゆっくりと突いた。指を地面に立てた中里は、そのたび低い声を発する。まるで人間一人を完全に服従させているように京一は感じ、抽送自体の肉体的な快楽とともに強い恍惚を得、動きを速めていた。
「ぐ、う、う……うあ、あ」
 音が鳴る。土の音、風の音、粘液の音。耳から伝わるあらゆる音を、脳は目がくらみそうなほどの充足感として変換し、京一の全身へ運ぶ。絶えず快感が思考を曇らせた。曇りきった頭が手を動かす。肉を埋め込んだまま、京一は中里の足を持ち、その体を無理矢理に仰向けとした。喉が潰れたような声がした。開いた足の間に体を滑り込ませて、尻を抱えて貫き直すと、またしゃがれた声を出す。京一は自らも地面に手をつき、男の顔を覗き込んだ。湿った土を頬につけている――いや、頬につけた土を、男が湿らせているのだった。中里はその顔に、汗と涙を滴らせていた。
「泣くのが好きな奴だな」
 言い、京一は腰を進めた。中里が上げたのは、今度は低くも高くもない、だが骨を溶かすような酸味を含んだ声だった。肉が締めつけられ、緩まる、それはまさに京一自身が喰らわれているようで、何か倒錯的な感覚に京一は襲われたが、快感と屈辱にまみれさせた顔を中里が向けてくると、一気に現実的な快感が戻ってきた。
「泣いて、ねえよ」
「鏡を用意してやりゃ、良かったな」
「んな……ッ、あ」
 上から覗き込みながら打ち込み続けていると、中里は泣きそうに――実際まだ泣いているのかもしれないが――顔をしかめ、顎をがくがくとさせながら、か細い声を漏らした。土まみれの両手が、すがるようにこちらの腕を掴んでくる。それを片方ずつ払うと、京一はそれぞれと手を組み合わせた。熱く重く、湿った手が、指が、砂が、絡まる。それだけで、すべてを手中におさめたかのような万能感を生み出した己が滑稽で、京一は笑っていた。
「何、笑って、やがる」
 中里が、潤んだ目で見上げてくる。揺さぶっても、声を上げさせても、視線は外されない。誘われているようだ。そう感じた自分がまたおかしくて、京一は苦笑を引くことができなかった。
「お前、体は正直じゃねえか」
「そ、んな、こと……ん、んん……」
「忘れるなよ……前と同じだ」
「――ッ、い、あ、ああ……」
 あるいはそれは苦笑ではなく、絶対性を確信した己が生理的に浮かべた笑みだったのかもしれない。ともかく京一は笑っていた。笑いながら中里を貫き続け、絶頂への道を辿っていた。土の混じったキスをして、腰を固定して、足を抱えて、数え切れないほど粘膜を擦り合わせた。ぴりぴりとしたものが耳の後ろを飛んでいった時、こちらの服を最後の綱だというように握り締めていた中里が、腰を大きく動かした。浅い呼吸と短い声は貪欲に聞こえ、濡れた顔には情欲が見えた。
「や……あ……あッ、あ、ああ、あ……いッ……」
 切れ切れに声を上げ、びくびくと体を跳ねさせながら、中里はそうして射精した。それから一分も経たぬうちに、唸りながら京一は、中里の中へ精を放っていた。



 全身についた土を払い、尻と下腹こびりつく液体を取り去り、汗と涙と唾液で見るに耐えないものになっている顔を拭って、少なくとも情事の後ではないような様相へと中里を処理したのは、すべて須藤だった。中里がされるがままだったのは、抵抗するだけの余力がなかったためといえる。体は快感の余韻に支配されており、下半身はそこだけ二倍の重力でもかかっているかのごとく重かった。立ったままジーンズのファスナーを上げ、ボタンを留め、そして中里はようやく、あらゆる体液を含んだタオルをしかめ面で畳んでいる須藤と相対することができたのだった。
「……お、おい」
 そして須藤へとかけた声は、事を思い起こさせるまでに掠れていたので、中里は咳払いをしてからまた改めて声をかけようとしたが、その前に、
「今度は覚えているだろうな」
 と、畳んだタオルを手で潰すように握った須藤が、妙な抑揚をつけて言ってきたため、その返答をするしかなかった。
「忘れてねえよ、俺は……何も」
 須藤から何とか目を逸らさぬまま、中里は言い切った。忘れてはいなかった。どうしようもなく悩んだことも、つい本音を吐いてしまったことも、二度もこうして醜態を晒してしまったことも、忘れてはいない。無論、この男に言われたこともだった。
「何も」
「ああ」
「なら、お前は俺の言う通りにするんだな」
 若干意味合いが違うような気がしたが、ああ、と中里は頷いた。結局逃げ出すことはできなかった。だが機会はあった。それを手にできなかったのは、すなわち己の力不足、自己責任である。それは中里にとって尊厳を保つためにも、受容せねばならないことだった。唾を飲み、頷いた先、言葉を続ける。
「あんた、須藤、お前の言うことは、呑むぜ、俺は。そういうこと、だったからな」
「俺と付き合えよ。これからだ」
 須藤はためらいもなく言い、中里は眉間にしわを寄せたまま目を見開いた。首肯するにも、心に準備がなかった。須藤は何かを透かして見ようとするように目を細め、左手で作った拳で、中里の胸を軽く叩き、仕様がなさそうに言った。
「馬鹿正直だな、お前は」
「あ?」
「生憎俺は馬鹿じゃねえんだ。好きなようにやる。だからお前も好きなようにやれ。俺が言うことはそれだけだ。何か質問は?」
 わけが分からなかった。須藤の常識はやはり、こちらの常識とは交わらないようだった。いっそ何も分からないと言いたくもあったが、これ以上無力な自分を感じたくはなく、しかしすべて分かったような顔をするにも釈然としなかったため、中里はあふれている唾を喉に送り、口を開いた。
「お前、何が好きなんだ」
 須藤は瞬間、小難しそうな顔をした。だが数拍ののち、
「はっ」
 と、心底から馬鹿馬鹿しそうに、またつまらなそうに、そして愉快そうに笑い、笑ったまま中里に背を向けて、運転席へと歩いて行った。瞬間見えた、その残虐で、獰猛で、単純で、複雑にひしゃげた須藤の笑みの意味を中里は理解し得なかったが、その笑みを見たがために、己の今後の行動の基準がとらわれたことは理解して、一度運転席に入った須藤が目の前に戻ってきてもなお、その場に立ったまま途方に暮れていたのだった。
(終)

(2007/06/09)
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