連鎖 1/2
直接話したいことがある、と電波を通してその艶やかな声が耳を打った時、
「へえ」
と、京一はらしくもない感嘆を漏らしていた。それに馴染まなかったのか、相手はほんの一秒だけ、らしくもない隙のある間を置き、だが直後には、要請まがいの命令をくだしてきた。過剰に働き出した意識の懐かしさのため陶然となりながら、京一はそれに諾々と従った。
別れの言葉もないまま通話を切り、古い西部劇を流しているテレビの音量を上げる。そうして十秒ほどののち、
「誰だ」
と、隣に座っている男が、不躾なくせに、声に遠慮が乗った問いをかけてきた。それは分からぬことを確かめるためでなく――京一との間における不確定要素を減らすためでなく、単なる一つの会話の糸口を探るために作られた問いだった。
「気になるか」
尋ね返せば、少し考える風に太い眉の間を狭くして、いや、別に、と口ごもる。そこにある戸惑いから、嫉妬は窺えない。問いの不躾さに今更気付いたようなばつの悪さだけが空気に流れ出ており、実際、それ以外にないのだろうと京一には思えた。グラスを手にする仕草はどこかぎこちなく、目の泳ぎようは、他人という存在を認識している人間がなすにはあまりに挙動不審なものだった。
「昔の知り合いだよ。話があるんだと」
テーブルの上に戻した携帯電話を眺めながら、京一が情報を与えてやると、ああ、そうか、と何ともしがたいような相槌が返ってくる。本当に知りたいことでもないから喜べず、かといって知りたくないわけでもないので放れない。どっちつかずの状態に陥っている。最初の頃、男はもっと威勢が良く、無限の自信に溢れ、堂々たる振る舞いを無意識のうちになしていた。今ではそれが嘘のように大人しい。いつまで経っても慣れることなく、びくびくと、未知の範囲を過度に怯えるがごとく目をさまよわせ、長い時間をかけて言葉を探す。そうしていれば、いつか元に戻れると信じているように。
何も変わったことは行われていない。環境も、思想も、理想も、価値観も共有されてはいないし、生活の喜びも、悲しみも、楽しみも、生まれたことはない。一切変化は求められていない。行われるのは、単なる性交なのだ。
「来いよ」
言うと、打って変わって真っ直ぐこちらを見、しかし何かに気付いたように顔を背け、逡巡する。いまだ迷い、決めあぐねている。京一は構わず腕を伸ばし、その体を絡め取り、床に押し倒す。おい、と抵抗しようとする動作は、色気の欠片もなかった。それを押さえ込んで、服を脱がし、皮膚に手と唇を当てていくと、少しずつ強張りがとけ、やがては肌が朱に染まっていく。逐一慣れさせるのに時間はかかり、全身は毛でざらざらとし、抱き心地は良くもなければ、途中まで声は獣のようで、学習能力のない野生動物を相手にしているような錯覚を得ることもある。それでも、まだ手放す気にはならない。あるのは肉体だけなのだ。えぐればえぐるほど、中に入れば入るほどに、何も考えられなくなる、何も考えずに済む、あの瞬間の最高の感覚。それ以外、京一はこの男に何も求めはしない。
「……う、うう」
苦しげな呻きが耳につく。交差した腕に隠れているその顔は、苦痛と快楽に歪んでいるだろう。そのうちそれを暴けば良い。時間はたっぷりある。空白の時間が、ようやく訪れる。
青い暖簾をくぐり店内に入ると、すぐに金髪の頭を見つけられた。元より中は奥に細く、狭い。カウンターが七席、座敷に卓が三つ。カウンターは常連客でほぼ埋まっていたが、座敷には京一しかいなかった。四人が十二分おさまるそこへ、大将に目配せをしながら歩く。靴を脱いで目の前に座るまで、京一は会釈もしなかった。
「覚えていたか」
そのくせ、すぐに声はかけてくる。低く明瞭な声だ。比較的大きい骨格に、無駄のない筋肉、笑顔の似合わない顔、それらをそのまま象徴するかのごとき声。だが、すぐに意味を把握するにはなぜか低すぎるもので、涼介はジャケットを脱ぎながら、その問いを頭の中で反芻し、ゆったりと答えた。
「何度も来た場所を忘れるほど、俺ももうろくしちゃいないさ」
「まだ若いか」
「頭を使わないってことがないもんでね」
アルバイトの若い女性が運ばんできた茶をすすり、冷奴だけを頼む。女性がカウンターに入るのを眺めてから、飲まないのか、と京一は聞いてきた。テーブルの上には揚げ物と漬物がある。かつて、この卓に涼介の持分以外の酒が乗ることはなかった。それを思い出し、涼介は苦々しさを口中に感じながら、簡素に答えた。
「俺は車だ」
「泊まればいい」
同じく簡素に京一は言った。涼介は茶を飲み、表情を変えずに言った。
「本気か?」
「ここに来るたび潰れたお前を世話したのは、誰だと思ってる」
「あれはわざとだよ」
わざと、と確かめるように京一が繰り返す。過去を持ち出すつもりはなかったが、この場所に由来する郷愁が口を滑らせた。涼介は一抹の後悔を抱えながら、意識的に、ごく自然に続けた。
「弱った俺をお前がどう始末するのか、知りたくてな」
「何もしなかっただろ」
「ああ、何も。甲斐甲斐しく世話を焼いた。それだけだ。だから俺は余計にお前が嫌いになったよ」
「なぜ」
女性店員が冷奴を運んできた。醤油をかけずに口に放り込む。それを飲み下してから涼介は、理由を答えた。
「非難のしようがなかったからさ」
京一は何事かを確認するように、数秒涼介を見ただけだった。そして頷きもせず、漬物を口に入れ、ばりばりと音を立てながら食べていく。問答は終わっていた。取るに足らないことだったろう。あの頃は、人間としては勿論、運転技術を含むすべてに完璧でなければならないと信じていた。今では、与えられる役割をまっとうできるだけの力さえあればどうとでも生きていけるのだと気付いたので、逼迫することはなくなったが、あの時代は、相手より勝る点を無限に確保していたかったのだ。だから無駄なことばかり積み重ねた。この場所は、その残滓で満ちていて、居たたまれなくもあり、奇妙な安らぎもあり、口が滑りやすくなる。
漬物を飲んだ京一は、煙草を唇に咥えかけてから、思い出したように涼介を見た。
「それで、話ってのは?」
節くれだったその手に、細い煙草がある。本題を聞くまで吸うつもりはないようだった。こちらがいくら不愉快さを露わにしても、禁煙されることだけはなかった。その程度の関係だったのだ。
徐々に過去が近く感じられてきたため、涼介はそれを振り払うために、
「単刀直入に聞くがな」
と、現在の問題を切り出した。
「お前、妙義ナイトキッズの中里毅という男を知っているだろう」
なるべく声音にも調子にも、重さは含ませなかった。京一は常の感情を読み取らせない目でこちらを一瞥し、煙草に火を点け、それが質問とは思えねえな、と煙を吐き出しながら言った。質問自体は否定されていない。涼介は構わず言葉を続けた。
「一度、中里がそっちに行っているはずだ。おそらく岩城清次とのバトルを目的として」
「ああ。だが、その時清次はいなかった」
「お前が応対した」
「だったらどうした?」
「それ以来、あそこのチームの雰囲気がおかしくなっている」
「結論から言えよ、涼介」
会ってから初めて京一は笑った。すべてを承知している者の、優越感漂う笑みだった。涼介は己が貶められているように感じ、そう感じた己を下劣に思いながら、下劣な推測を述べた。
「お前、中里に手を出しているだろう」
煙草を持つ京一の手が、ぴたりと止まった。笑みが消え、無感情の目がただ向けられる。
「お前の論法は相変わらず強引だな」
「お前がそういう奴だということは昔に聞いた」
「誰彼構わず『手を出している』ってわけじゃねえことも言ったはずだが」
「まだ岩城君とは続いているのか」
目的のためなら手段を選ばないことは、限られた時間を思うがままに使うために決めた。京一の顔に一瞬嫌悪の色がわき、それが納得の色に覆われるのを、涼介はじっと見た。何か修飾されるかと思ったが、京一が出したのは、「それで?」、という促しのみだった。涼介は少し拍子抜けしながらも、本題を言った。
「俺と啓介の抜けたレッドサンズでは、群馬をまとめることなど不可能だからな。それをかろうじてでも達せられるのは、あのチームだけなんだ」
「『雰囲気がおかしくなる』と、お前が困るわけだ」
煙草を灰皿に置き、京一は別に頼んだサラダを食った。それ以降、言葉は出さない。涼介は久々に、計画のずれる苛立ちを感じた。舌打ちをしかけ、その舌でひとまず上あごを舐めると、相手を見据えながら、居丈高に言う。
「どうしても認めないか」
「何を認めるべきなのかが分からねえな」
似合わぬとぼけ方だった。涼介は苛立ちを募らせ、ついに舌打ちを漏らしていた。京一は興味深そうに、涼介を上目で見る。涼介は感情のささくれが寝不足からきていると頭で考え、鼻から息を吐き、問題の解決を進めた。
「なら、本人に進言させてもらう」
「好きにすればいい」
一転興ざめしたように京一は言い、ふうん、と涼介は子供のように鼻を鳴らしていた。煙を口から吹いた京一が、俺には関係ねえよ、そいつの考えは、と補足をし、何かを試すように涼介を見た。
「それとも、お前が相手をしてほしいのか」
頭に血がのぼったわけではなかった。ただ、腹の底にへばりついていた憎しみが、わずかながら神経に染み出したのだ。湯呑みを手に引っ掴み、ぬるくなった茶を京一の顔にぶっかけても、そのため何の痛痒もなかった。店内の雰囲気が少々冷め、すぐに戻る。酔っ払いが自分の世界に留まろうとすることを、涼介は信じていた。おしぼりで茶のかかった顔と首、襟元を拭い、京一はため息を吐いた。
「涼介」
「侮辱には侮辱で返す。当然だろう」
言う必要もないのに補足したのは、相手のペースに巻かれていたためかもしれない。京一は再度ため息を吐き、ゆったりと立ち上がった。先に立った者が支払いをすることは、一つの契約だった。まだ履行されているらしい。涼介は濡れたテーブルを自分のおしぼりで拭いた。京一が会計を終えたところで、靴を履き、大将に謝罪する。久々に顔を見て、初めて強く懐かしさを感じたが、感じている暇はなかった。
駐車場に停まっているFCは、他の車よりも近寄りがたさを持っていた。いずれは大衆車に変えなければならないだろうと思いながら、その前に立っている京一に、送ってやろうか、と声をかける。振り向いた京一の顔を、店の明かりと街灯のみが照らし出した。アンバランスな彫りの深さが、生物であることのみを強調している顔だった。
「俺の家がここから近いことは忘れたか?」
「俺は客なんだろう」
酒は入れていないが、涼介はそう言っていた。京一が目を細め、虚空を睨み、それから涼介を見、口を開いた。
「それがお望みならな」
「ああ」
「物分りがいい奴は好きだぜ。それがお前でも」
真っ直ぐ、見合っていた。冷たい風が頬を撫で、互いの間をすり抜けた。ポケットの中に入れた指でFCの鍵の感触を確かめながら、涼介は乾いている唇をそっと開いた。
「京一、俺はお前が嫌いだ」
「知ってるよ。俺もだ」
「不愉快だな」
「まったくだ」
そう同調しても京一は、無表情という言葉が似合う顔だった。涼介は不愉快さを腹の奥にしまい、まずFCのドアロックを解除した。
どこもかしこも痛くて、痛いという思い以外浮かばなかった。ただ痛い。ずくずくと、全身に膿が溜まっているようにうずく。フライパンを振っていても、余計な考えが頭を支配し、できた回鍋肉はピーマンが焦げた。それを食べながら、生ぬるい水を飲む。床に触れる尻が、殊に痛い。普段取らない体勢を長く続けたため、関節も疲弊している。筋肉はだるく、アル中のように手が震えた。
体が思うように動かない、こういう時、中里は最も自分自身を軽蔑する。屈辱感ばかりで道理を考える暇もない時を終えると、しばらくしてから、すべてが圧しかかってくる。空白の部分に、後悔と羞恥心と嫌悪感と怒りが入り込み、混ざり合い、何に対して何を感じているのかはっきりせぬまま、ただ重さと、痛みだけが持続する。
本当ならば、すぐにでも帰りたい。だが約束だった。もう一度やらなければならないのだ。なぜそれを義務としているのか、道理を考える暇ができても、中里に考える余力は残っていなかった。飲み込んだ豚肉も、喉元でつっかえているようで、皿のものを半分も食べぬうちに箸を置く。胃は空いているはずなのに、胸は詰まっていた。食事は諦め、煙草を吸うことにする。ここでは常に気が急くし、焦るため、本数が増える。中里は煙草の箱に残っていた、最後の一本を味わった。あまり金をかけすぎてもいけない。だが、この痛みと苦しみしかない場所を、それ以外を用いてどうやり過ごすことができるのか、中里は知らない。
『逃げる』という言葉を思い浮かべるたび、それがかえって戒めてくるため、抜け出すことも叶わなかった。そうするしかここから脱せられない自分の弱さを、この窮状を招いた自分の愚かさを、認めたくないのだ。せめて留まることにより、一向に定義のされないこの関係にも耐えられるだけの強さを持っていると、誰かに、あるいは自分自身に証明したいのだった。
一本の煙草はすぐになくなった。テーブルの上に無造作に置かれているのは、別の種類だ。それは相手の存在を知らしめるため、中里の視界からはすぐ消えた。煙草を買いに行かなければならない。中里は思い、立ち上がった。でなければ、ここにいられない。あるいは、ここから抜け出せない。思考は最早麻痺していた。いずれ戻らずにはいられないにしても、ただここから出られれば良かった。出る理由が欲しかったのだ。無意識のうちに、考える余裕を作ろうとした。
上着に袖を通したところで、外に車の音がした。軽いエンジン音、人が地を歩く音。中里は袖から腕を抜き、上着を元々あった位置に放った。生地やファスナーやポケットに入れた財布が、床から重たい音を響かせる。腰をいたわりながら座り直し、中里は机を指でこつこつと叩いた。すぐに玄関のドアが開く音がした。中里は机を叩くのをやめた。人の声がする。人が入って来たのだから当然だが、それは一人ではなかった。二人分の、男の声だ。冷や汗がどっとわいてくるのを感じながら、中里は玄関を見た。歩いてくる男は、この部屋の主ではなかった。部屋の主が登場したのは、すらりとした体形と遠目にも美しいと分かる風貌を持つ男の後ろからだった。中里は開いた口をしばらく閉じなかった。目の前まで来た美形の男は、最初は意外そうに眉を上げたが、今では中里の存在を理解しようとするかのように、真剣な顔で見下ろしてきていた。中里は唾を飲み込んでから、高橋、と言った。
その瞬間、わずかに目を細めた高橋涼介は、億劫そうにため息を吐くと細めた目を結局閉じてから、薄い唇を開いた。
「理由を聞こうか、京一」
中里にではなく、後ろで詰まっている須藤に対する言葉だった。出ていった時と変わらぬ格好の須藤は、「シンゲンするんだろ?」、と高橋の隣を通りながら言い、何気なく中里の横にしゃがみ込んだ。
「俺には関係ねえと言っただろう、考えならな。好きにやれよ」
それでも、須藤もまた中里ではなく、高橋に対して言葉を出すのだった。中里は開いたままの口から、おい、とただ須藤を呼んだ。須藤は中里を横目で見ると、一瞬だけまぶたを痙攣させたが、お前に話があるようだぜ、と素知らぬ風に言って、テーブルにある回鍋肉の乗った皿を手にした。
「食っていいか」
「ああ、いや、焦げてるぞ」
「味は大丈夫だろ」
「ああ、まあ」
大丈夫だったような気がする、と思いながら曖昧に中里が頷くと、皿と箸を持った須藤は立ち上がり、用事があるから奥にいる、とだけ言って、あっさり背を向けた。中里を見ることもなければ、高橋を見ることもなかった。その背がドアの向こうに消えるのを見てから、何とはなしに中里はテーブルの上に置かれたままの古いビールの空き缶を見た。それでも視界に入らぬ人間を意識するがあまり、胃がきりきりとしだす。唾が舌の裏に溢れ、飲み込んだ。どこもかしこも変わらず痛い上、息苦しさまでやってきた。片付けられていないビールの空き缶を睨んでも、そこから液体がわき、何かを解決するということはなさそうだったが、中里は他に見るべきものがあることをまだ受け入れられず、そこから目を剥がせなかった。
「迎えに来てもらったのか?」
だが、頭上から降ってきた、低い、艶のある声は、あっさりと耳から脳みそへ割り込んだ。
「あ?」
須藤とは違い、単語の一つ一つに明確な意味を持たせるような、わき道を作らぬ完璧な声だったが、思考が停滞している今では、問われた意味を瞬時に理解できず、中里は顔をしかめて高橋を見上げていた。電光の下にいる高橋は、冷ややかな表情だった。
「あいつに群馬まで、迎えに来てもらったのか」
そしてまた、冷ややかな声だった。中里はようやく分かった問いの答えを考えるために、高橋から顔を背け、ねばる唾を飲み込んでから、いや、俺が自分で、と回らぬ舌で言った。
「Rはどうした」
「別の駐車場に……」
「いつもそうしてるのか」
続けざまにかけられる問いの意図は分からなかったが、ああ、と中里はただ頷いた。喉まで胃液が上がってくるような感覚があり、それを無視するだけで精一杯だった。高橋は、聞こえるほどのため息を吐いた。
「こういうことを考えなかったわけじゃねえんだけどな。お前がそこまで腰の軽い奴だとは思っていなかった」
中里は強い衝動を覚え、改めて高橋を見上げた。高橋の声は、顔は、中里に対する失望を表していた。この男に、この場にいることを理由として、侮辱をされる筋合いはない。磨り減った精神が持った怒りを、中里はそのまま声にした。
「俺に、話があるのか」
「別に」
素っ気なく言った高橋を、中里は睨み上げ続けた。高橋は冷ややかな表情を取り戻すと、かすかに唇を舐めてから、
「あいつと手を切れよ」
言葉を落としてきた。中里は耳を疑うよりも早く、「何?」、と言っていた。
「近頃お前の様子がおかしいとは聞いていた。記録は安定しない、気力にも欠けている。直接会って俺も感じた。その顔は見られたもんじゃねえよ、中里。やめておけ。お前にはあいつを相手にできるだけの精神力が備わっちゃいない」
高橋は明確に、断言した。白い顔の中の目は優しげに動き、口元は麗しかった。ずぐ、と心臓がうなった。ずぐりずぐりと、冷たい血液が皮膚の下を通る感覚を、中里は得た。目の前が真っ白になるかのようだったが、高橋の、冷ややかと思われた顔が、奇妙な慈愛を持つものに見えるだけ、視界ははっきりしていた。
「知ってるのか」
尋ねる声はどうしようもなく掠れた。高橋は目を閉じ、見放すように首を振った。憤慨よりもまず惨めさが喉までこみ上げてきて、中里は俯いた。指先がしびれ、手が震えていくが、煙草はない。耳の裏には強い脈動があり、口内は乾いた。ここまで引きずった挙句、あの高橋涼介に現実を諭されるとは、ひどく滑稽だったが、中里は笑うこともできず、ただ掠れた声のまま、
「お前の言うことは、間違っちゃいねえんだろうな」
と、呟いた。それは、そうでなければいられないという、願望だった。
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