連鎖 2/2
右耳の、五センチ上ほどのところだ。頭蓋骨を貫いて、脳みそに五寸釘を打ち込まれてるような痛みが、がんがんと響いている。京一はベッドに腰かけ、そこを掌で覆った。五分以内には治まる偏頭痛だった。大抵は数ヶ月に一度の割合で、時折一週間で何度も起こることもあるが、何もせずとも痛みは引いていき、後には何も残らない。ただ、一度始まると、痛みのためにどうしても顔はゆがみ、たまさか視界はぼやけた。まともな思考を働かせるには難しい状況だった。骨が割れるような痛みが通り過ぎるのを、ただじっと待たねばならない。
膝を揺らす焦燥感は、腹の底にへばりついている確信から生まれていた。中里は去ろうとするだろう。涼介が来た以上、体面を気にしたがるあの男なら、けじめをつけるに違いない。それはいい。意思を尊重するような関係ならば、もっと早く逃がしている。腹立たしいのは、地域の情勢のためという建前を作り、もっともらしくしゃしゃり出てきた涼介に、わずかでも対抗心を燃やして、ここに招いた自分自身だ。そして、例え中里の決定があれによって促されようとも、すべては肉体で取り戻せると、結局人間は神経の支配下にあるのでしかないと考えている自分が、今、不安を抱えているということだった。そう遠くない日にあの男の自尊心も限界を迎えるだろうと京一は考えていたが、その慢心は打ち砕かれていた。
何もかもが許しがたい。あれを殴り倒し這いつくばらせることができれば、どれだけすっとするだろうか。強姦してやれば、どれだけ気が晴れるだろうか。いや、何も解決はしないだろう。あれに対する感情の根源は、車に他ならないのだ。勝つ機会を永遠に失った今、癒されることも永遠にない。だとすれば、気にするだけ無駄なことだ。
やがて早くに頭痛は軽くなり、京一は立ち上がった。デスクに置いた皿の料理を口に入れる。確かに焦げており、冷めてもいたが、味は悪くなかった。箸を持ったままふと、これを食すことの自然さから引き返すことが可能であるかを考え、京一は必要性がないという結論を出し、肉も野菜も消えた皿と箸を片手に持って、片手で部屋のドアを開けた。
沈鬱な空気が、むっと全身を覆ってきた。中里は座ったまま、涼介は立ったままだった。互いに目は合わせておらず、涼介は京一を見たが、中里はテーブルに肘をつき、手で顔を覆い、俯いていた。
「座りもしないで話をしていたのか」
涼介は何も答えなかった。中里は両手をテーブルにつくと、のっそりと立ち上がり、床に落ちていた上着を手に取り、俺は帰る、と京一に背を向けたまま言った。京一は流し台に皿と箸を入れ、そして目の端には涼介を入れながら、その背中を見た。
「なぜ」
「用事を思い出した」
「用事があったのか」
「明日、朝から、ダチとドライブに行くんだよ」
投げやりな声だった。嘘の下手な男だが、言い訳も不得手であるため、その説明が嘘か真実か、顔を判断材料とできない今、京一は計りかねた。
「明日だろ」
「朝からだぜ。気合でどうにかするつもりだったけど、そこまでする必要もねえだろ」
「そいつが来たからか?」
分かりきったことだったが、必要がなくなった理由の確認のため、京一は問うた。舌打ちした中里はそれには答えず、もうやめねえか、と苛立たしげに言った。何を、と京一が尋ね返すと、全部だよ、と玄関へ歩を進める。
「止まれ」
咄嗟に京一は制していた。その通りに中里は止まり、歯切れの悪そうな顔で、ぎこちなく京一を見た。
「動くなよ」
今度は考えて睨みを利かせ、その通りに中里が動かなくなったのを見届けてから、涼介へ目をやる。得意げに顎を上げた顔がそこにあった。胃の中でくすぶっているものが、火を上げた。
「うまく事を運べたみたいだな」
「おかげさまで」
「俺は何もしちゃいない」
「お膳立てはしてくれただろう」
大仰に涼介は感謝を示す。京一はその非の打ち所のない面を見据え、ふん、と鼻で笑い、視界の隅でもぞりとしたものへ、動くなよ、中里、と繰り返した。
「ああ?」
振り向いてきた男は見ず、ただ目の前の西洋の彫刻じみた男に焦点を合わせ続ける。
「俺のせいにするんじゃねえよ、涼介」
ふん、と涼介は似たように鼻で笑ってきた。
「お前のせいだろうが、全部」
「全部」
「俺だけの話じゃない」
「お前の話にした覚えは俺にはないが」
「波及する影響を考えないのか、お前は」
「少なくとも、お前のことなんざ一つも考えなかった」
嘘を言い切り、動くなと言っただろうが、と京一は中里を軽く威嚇した。この場から抜け出しかけていた体を、中里は京一へ向け、憤怒の形相で叫んだ。
「何で俺が、てめえらの話を聞いてなくちゃならねえんだ!」
すぐ終わる、と京一は吐き捨てた。そもそも、これ以上涼介と話をするつもりもない。だが、「俺は帰るんだよ、今すぐに!」、と中里は大声を出し続けた。
「お前ら話したいだけお前らで、話してりゃいいじゃねえか、まともにそれができねえからって、俺を挟むんじゃねえ!」
はっ、と大きく嘲笑したのは、珍しく大きく顔をゆがめた涼介だった。
「おい、俺が何をこいつと話したいって?」
「クソ、冗談じゃねえ」、と中里は涼介を無視した。「人をコケにしやがって」
「話を聞けよ、中里」
苦笑は変わらず浮かんでいたが、涼介の声にはわずかな焦りが乗っていた。中里は涼介を見、急に真顔になって、そしてしかめ面に戻り、舌打ちをした。
「それだけの度胸もねえくせに、よくも俺に精神力云々と講釈垂れやがってくれたな。ふざけんじゃねえよ、お前の話なんて俺が知るか」
「これはお前のことだろう。俺のことじゃない」
「なら人に口出しするんじゃねえよ!」
唾を吐き出しながら叫んだ中里へ、笑みを消した涼介が近寄り、その顎を片手で掴んだ。京一は腕を組み、二人を眺めていた。敵意むき出しの喧嘩とは違う、互いに甘さを潜ませているやり取りに、入る隙はなかった。おい、と涼介が身長差を利用し、中里を見下ろす。
「そんな悲惨な面になっても構わねえくらい、こいつとのセックスはいいか? それに溺れて身を持ち崩しても躊躇しないまでに? 結構なことだな、中里。そんな状態で、俺に偉そうにものを言える立場か、お前は」
中里の手が、顎を掴んでいる涼介の手を叩き落し、その胸倉を引っ掴んだ。傍から見ても分かるほど、その顔は怒りに満ちていた。眉はつり上がり、目は剥かれ、口元は震えている。一方涼介の顔は平然さを保っていたが、強張りも窺えた。中里は何事かを呟くと、涼介の体を退かし、真っ赤な顔を保ったまま、京一を向いた。
「須藤、いいか、俺は帰るぜ。お前が何を言おうと帰るんだ。分かったな」
中里は律儀に宣言すると、上着を小脇に抱え背を向けた。京一は速やかに歩き、その中里の襟首を掴んで、床に引きずり倒した。ばさりと上着が床に落ち、ごつりと中里の背は床板に当たった。抵抗すると首が絞まるので、どうしても動きについていかざるを得ない。これをするのは三度目だ。これで合計三回逃げられかけて、三回妨害したことになる。
「須藤!」
腹に馬乗りになると、まず中里は怒鳴った。瞬間的に京一は気圧されたが、頬は削げ、目は落ちくぼんでいるやつれた中里の顔は、鬼気迫っていたものの、凄みには欠け、京一の動きを延々と止めるまでには至らなかった。確かに悲惨な面であり、だからこそ、万能的な欲望がたぎった。構わず上半身の着衣を剥ぎ取り、左手で喉を押すと、右手でジーンズのボタンとファスナを外す。そして喉から外した手も合わせ、下着ごとジーンズを引きずり下ろした。
「やめろ、クソが!」
ばたつこうとする足を抱え、太ももを開き、間で萎れているものを、ためらわずに口に含むと、中里は硬直した。
「うわッ……」
唾液をなじませ、容赦なく粘膜を擦り、引き下がろうとする腰を引き寄せ、奥まで呑み込む。
「須藤ォッ!」
中里は声を嗄らして吠えた。京一は動きを止めなかった。そのうち頭を掴まれたが、やがて離された。体は刺激に慣れている。だから頭は快感を予期し、意思より先に肉体を支配する。そうなるように回数を重ね、抵抗を受ける苦労を減じてきたのだ。水音を立てながら、舐め上げ、口から出すと、それは十分に勃起していた。顔を両手で覆っているその中里の足を更に上げながら、涼介を探すと、中里に押されて流れた位置に立ったまま、無表情に似た顔でこちらを眺めていた。肌の色は失せており、こちらから目を逸らすことはなく、微動だにすることもなかった。京一は一瞥にとどめ、前に上がった中里の尻の狭間に舌を這わせた。数時間前にも開いたそこは、周囲をねぶるだけでひくひくと動き、舌すらも取り込もうとする。
抱えた足を下ろし、京一は前をくつろげ、待ち構えていたものをそこへ埋めた。ぐう、と野太い声を中里は上げたが、京一のものは易々と受け入れられた。緩やかに動くと、突如中里は顔を覆っていた手で、床を殴った。
「クソ、クソ、クソォ!」
クソ、と一つ言うたび床を殴る中里を、一際強く突いてやると、五度目の叫びの終わりは切ない悲鳴に変わった。まず確実な部分をえぐるように腰を進め、中里が口を押さえたところで、思うままに動く。涼介を避けるように頬を床につけ、声を少しでも殺そうとしている。だが反射のように押し引きするたびに、高く掠れたそれは漏れ出て、京一の耳を犯した。髪は乱れ、充血した目は顔の先にあるものか、その中空を、ただ睨んでおり、決して京一を見ることはなかった。それでも抗えない。京一はその耳に、用事は断っとけよ、と囁き落とした。途端、粘膜がより一層囲んできた。抗えないのだ。情欲に囚われ、突き進む他、解放される手立てはない。
服を突き破り、肌にぴりぴりと突き刺さる視線を京一は感じずにはいられなかった。そのため感情は高揚し、興奮は持続する。心地良い空白があるのに、どこかでは義務を果たそうとしていた。すなわち、互いの射精で終わる、絶対的な肉体の結びつきの、証明だった。
まるで大量のゴキブリでも口に無理矢理ねじ込まれたような、最悪の気分だった。吐き出すことはできず、さりとて飲み込むこともできず、ただ無数の足が口中を引き裂いていく。思考と無関係に逆流しようとする胃の内容物を、涼介は眉一つすら動かさず、死ぬ気で押しとどめた。こちらを一切見ぬままに、脱がされた服を抱えてずるずると歩き、おそらく風呂場に消えた中里も、それを一瞥しただけで、何食わぬ顔で前を閉め、流しで口をゆすぎ、テーブルの上の煙草を取った京一も、涼介に不愉快さ以外の何ものも与えなかった。
「涼介」
京一は煙草を上着のポケットに入れてから、何事もなかった風に涼介を見た。
「あいつの車の鍵は、俺が持っていると言っておいてくれ」
「出かけるのか」
「山にな」
それだけ言って玄関に向かおうとする京一を、おい、と止める。むかつきは消えず、それは鮮明な怒りを招いていた。京一は振り向き、何だ、と白々しく言った。
「返してやれよ」
「お前が言うなよ」
「誰のためにもならねえだろう」
正論を言うと、京一は不可解そうに細い眉を上げた。
「俺のためにもならねえことを、俺がすると思うか」
「京一」
「返さねえよ」
視線を逸らした京一が、今更、と吐き捨てるように呟いた。涼介は目を細め、透けるほどの満足さと、奥に潜っている若干の不満をその顔から読み取った。おかしいぜ、お前、と涼介は訝っていた。このような状況を作るほど、この男が不条理であるとは考えられなかった。京一もまた目を細め、涼介を下から上まで眺めた。
「黙って見てたお前ほどじゃねえと思うけどよ」
心臓を一突きされたような衝撃があった。罪悪感が、背骨を貫いた。だが、こちらは当事者ではない。完全な責任は与えられないのだ。だからこそ、完全に立ち入ることもできない。涼介は舌打ちし、京一を見据えた。
「あの場で本当にやるほど、お前が馬鹿とは思わなかったんだ」
「実際あいつがあんなによがるとも?」
「強姦だろ、あれは」
「なら止めなかったお前も共犯だな」
京一、と涼介は再度呼んだ。この男らしくない、幼稚な言葉遊びだった。だが、それも狙っていたというように、京一は涼介を嘲笑したのだった。
「あいつの言うことももっともだな」
「何?」
「他人を壊すだけの度胸もねえのに、道理を説くんじゃねえよ、涼介。人を動かすってことは、そいつを少しでも侵害するってことだぜ。お前が忘れたわけでもないだろう」
涼介は返す言葉を失った。京一は悪意に富んだ恐ろしい笑みを引っ込めると、あいつに余計なことは吹き込むなよ、と念押しするように言い、外へと出て行った。涼介は止めなかった。止める必要を見つけられなかったのだ。
仮初めでも一人になると、どっと疲れと吐き気が押し寄せてきて、この場へ来てから初めて腰を落ち着けていた。足に疲労物質が溜まっているのが分かる。今すぐこの煙草の匂いと精の匂いが立ち込めている部屋から立ち去りたかったが、義理がそれを涼介に許さなかった。
「気障なことを」
呟くと、多少は気が晴れた。人を意図した通りに動かすことが、どれほど傲慢であるかは知っている。忘れたこともない。だが、意のままに操りたいと思っても、尊厳を踏みにじりたくないという相手もいるのだ。所詮、自分には意識しがたい人間らしさという曖昧なものを求める、己の心の甘さに過ぎないのだと分かっている。だから身を捨ててまで動くことはできないし、そう指摘されれば、反論はできなかった。それでも何かせずにはいられない。理想すら捨ててしまえば、唾棄すべき現実が広がるのみだ。
長く響いていたシャワーの音は、しばらく前から止んでいた。涼介はただ座っていた。疲れていた。吐き気はまだある。あの光景は、夢に出るだろう。それほど強烈で、卑猥で、醜悪で、残酷だった。
みしりと床板の軋む音が近くでして、涼介は顔を上げた。いつの間にか、中里がそこに立っていた。元の通りに服を着ていたが、髪は濡れ、目は虚ろで、傍の涼介に焦点が合うことはなかった。喉の渇きを覚えながら涼介は立ち上がった。何分か寝ていたのかもしれない。中里は涼介がここに入った時と似たような場所に、あぐらをかいた。背を丸め、ぼんやりとテーブルを見ている。涼介は唾で乾いた喉を滑らかにしてから、
「Rのキーは、あいつが持っているとよ」
と、京一からの伝言を告げた。中里は何の反応もしなかった。涼介はため息を吐き、中里、と声を大きめに呼んだ。数秒の間ののち、あ?、と、中里は白痴のような顔を上げてきた。涼介がその不気味さに眉をしかめると、途端に中里の顔には生気が戻った。そして、伝言を繰り返さぬうちに、慌てたように身につけた服のポケットを探って、床に落ちている上着のポケットも探って、ぴたりと動きを止めた。
「あの野郎!」
低い声で叫び、床を殴った中里の背に、そしてあいつは出かけた、と涼介は事実を告げた。中里は急激に振り向き、充血した目を見開いた。だが、すぐに目を閉じ俯くと、首を横に降り、両手で顔を覆って、深いため息を吐いた。その手はがたがたと震えていた。
「中里」
今度は心がけて優しく呼ぶと、何だ、と、予想よりもしっかりとした声が返ってきたので、涼介は普通の声に戻し、言った。
「俺のFCに乗って行くか」
中里はゆっくりと、訝しげに涼介へと顔を向けた。
「何?」
「帰りてえならな。俺は帰るから。ここに来たのが間違いだった。車を取り戻す時には一緒に来てやる」
「いい、やめろ」
拒絶は迅速だった。声からは嫌悪が染み出しており、顔には悔恨が満ちていた。逃げ出したがっていたくせに、なぜ留まろうとするのか。釈然とせず、中里、と名前を呼ぶと、やめてくれ、と必死の叫びが飛んできた。
「お前の顔を見てると、俺は、自分が嫌になってくる」
余計不審になり、俺は何とも思っちゃいねえよ、と涼介が柔らかく言うと、
「俺が思うんだよ、何で止めてくれなかったんだって!」
中里は涼介を見上げながら、訴えるように叫んだのだった。背中が凍える感覚を涼介は得た。中里は濡れた目をすぐに手で隠し、そうじゃねえ、と掠れた首を横に振る。
「そうじゃねえけど、お前がそんなことを、することなんてねえんだ、分かってる。俺、俺がちゃんとしてりゃあ良かったんだ。俺がちゃんとしているべきだった。分かってる、分かってるんだぜ、そんなことは、分かってる、でも、お前の顔を見ると、少しでもそれを思っちまう、嫌なんだよ、それが。嫌なんだ」
嫌なんだ、と中里は繰り返した。涼介は感覚が薄れる指先を、掌に握り込んだ。氷漬けにでもされたかのように、全身が冷たくなっている。もう二度と、元には戻れないのだ。もう二度と、この男がこちらに威勢良く啖呵を切ることもなければ、親しげに、無遠慮に話しかけてくることも、気安い笑みを浮かべてくることもないだろう。もっと前に心臓に刺さったものが、中をえぐっていた。涼介は唇を噛み、停滞する思考を痛みによって覚醒させ、都合の良さも、不利な面も承知した上で、悪かった、と中里へ言った。
「助けられなくて」
「いいんだもう」、と中里は泣きそうな声で言った。「帰ってくれ。頼む」
ああ、と頷き、涼介は中里に背を向け、思い出し、鍵はかけとけよ、と言ったが、中里は顔を手で覆ったまま、ぴくりとも動かなかった。余計なことをしたという一抹の後悔を得ながら、玄関で靴を履き、外へ出、駐車場の端に停めたFCに乗り込む。目を閉じ、大きく息を吐いてから、考える。中里は、こちらを嫌って拒否したわけではないだろう。ただ、醜態を見られた相手と一緒にいられるほど、柔軟性が高くもなければ、自尊心が低くもないだけだ。あの男はその程度の人物だった。だからこそ、その頑なな、平凡な実直さを、壊したくはなかったのだ。だが、それは既に壊されていた。あるのは最早、残骸だ。涼介はベルトを締めエンジンをかけ、発進した。できることは、もうないだろう。
――てめえに関係ねえだろ。
信号待ちをしていると、あの時寄せてきたボロボロの顔で、中里が言った台詞が、ふと頭をよぎった。そして、今更のように、気付いた。そうだ、俺には関係ない。涼介は青信号に変わる前に、クラッチをつなぎ、アクセルを踏み込んでいた。
だから、俺に関係のあることをするまでだ。
今、涼介に関係のあることとは、錯覚を巧みに現実へと反映させ、木々と人工物が混在した場所において、一つの集団に君臨している男のみだった。その集団のために空気が腐っている中にFCを突き入れ、降りてすぐ、目の前にした京一へ張り手を食らわすと、低俗な男どもは静まった。一人、京一だけがやたらと冷徹な顔のまま、涼介を一瞥し、周囲に控えている奴らに言った。
「これは個人的なことだ。お前ら、関わってくるんじゃねえぞ。すぐ戻る」
おい、と慌てふためいている一人を押しやり、京一は涼介に顎をしゃくると、先を行った。周りに人間のいない場所まで来ると、アスファルトの地面を睨みながら、気が済んだか、と京一は言った。涼介はじんじんと痛む右の手をズボンのポケットに差し込み、その京一の横顔を見据えながら、義憤と私怨で煮えたぎる腹の底から声を出した。
「俺を軽く見るなよ、お前じゃねえんだ」
「どういう意味だ」
京一は真っ直ぐ顔を向けてきた。薄暗い中でも、眼光は鋭かった。涼介はその無表情に近い顔から目を逸らし、遠く暗い山々を眺めながら、知れきったことを言った。
「お前は自分が思っているほど、理論家でも篤志家でもないってことさ」
「俺は自分をそんな風には思っちゃいねえよ」
「京一、お前、自分がどれほど滑稽な真似をしてるのか分かっているか?」
「お前と同じ程度だってことくらいはな」
得るものが何もない会話だった。涼介は京一へ顔を戻し、まだ痛む右手を突き出した。
「キーを寄越せ」
京一は目をわずかに赤く染まった手に落としてから、何事かを確かめるように、涼介へ上げた。磐石な土台を感じさせる、確固たる目だ。涼介は視線をかち合わせた。京一はほんの少し、頬をゆがめた。
「あいつは逃げないぜ」
「権利は与えられるべきだ。自分で決定できる」
「プライドが高いんだ」
「構わねえよ」
きっぱり言うと、不審げに、京一の眉間が狭まった。目が一瞬あらぬ方へ飛び、戻ってくる。
「何でお前がそこまでするんだ」
「お前のことが大嫌いだからだよ」
「戯言を」
「それでいいだろ」、と涼介は笑った。「理由なんざ」
「それで報復されてもか」
京一は真顔だった。そこまでの決意があるのだろう。手を出した者へと罰を下すほどのこだわりを持っているから、ああも乱暴に扱えるのか。あるいは、そう扱わずにはいられないからこそ、またこだわりを持つのか。いずれにせよ、涼介には関係のないことだった。
「低俗な方が、やりやすいさ」
また、それらも低俗である。涼介が笑みを消し、差し出した手を強調すると、京一はようやく上着のポケットから鍵を取り出し、涼介の手へと置いた。
「忘れちゃいねえんだろうな」
「ああ」
確認するような京一の言葉へ、お前じゃねえんだよ、俺は、と背を向けてから返し、涼介は集団の誰にも焦点を合わさず、FCへ戻った。掌中の鍵だけが、思考へ関与する権利を持っていた。
自棄になるだけの気力すらなかった。体の中身の半分ほどが、どろどろとこぼれ落ちているような感じだった。それはもう、取り戻せないのだ。何もかもが破壊されていき、生まれることはなく、ただ削れていく。自分の意思すら掴めない。なぜここまで車を走らせてきたのか、なぜ今まで従ってきたのか、一切が不明になる。過去は消え、今はなく、未来も見えない。あまりに絶望的で、何も考えられず、中里は寝ていた。
浅い眠りが打ち破られたのは、髪を撫でる、優しく柔らかな感触のためだった。昔に経験したその感覚は、大人になってからというもの、遠く離れていた。甘い余韻を感じながら、それでも中里は、まさかと思い、テーブルの上に乗せていた腕から顔を上げた。溢れる光の中、隣に見えた顔は、須藤のものではなかった。それに対して失望を、しかしそこにある精緻な顔には安堵を、離れていく手には未練を覚えた。
「鍵はかけておけと言っただろう」
低く、鼓膜を丁寧に撫でる声が、頭へ染み入ってくる。そこでようやく、驚きがやってきた。
「何で、お前が」
ひりつく喉から掠れた声を無理矢理出すと、高橋は真正面から見てきた。すぐ、中里は顔を背け、目を閉じていた。その顔を目にすると、いくら抑えようとしても、頼ろうとしてしまう。会ったことなど片手で数えられるほどなのに、同じ走り屋としてこの男を、根拠もなく信用していた。だから、裏切られたと思う筋合いなどないのだ。思いたくもない。それでも、心の奥に根付いてしまっている。助けてほしかったと、情けのないことを隅っこで呟き続けている。それを殺したいから、顔は見たくない。
と、がちゃり、とすぐ傍で音がした。目を開けると、見慣れた鍵がテーブルの上に転がっていた。またもや驚きがやってきて、中里は高橋を向かずにはいられなかった。
「高橋」
「ここにいるもここから出るも、お前の自由だ。好きにしろ」
ごく近い距離で見詰め合ったのは一瞬で、高橋はそれを言うと、すぐに立ち上がった。中里も思わず立ち上がり、全身を襲う倦怠感と、各部の痛みに耐えながら、どうして、と対等に問うた。
「あいつが嫌いだからだよ」
横を向いた高橋が、軽薄に言った。その答えに、一つも重要なことなど含んでいないという調子だった。とても意趣返しには思えなかったが、そうか、と中里は頷いた。疑い続ける余力もなく、これ以上、二人の間に入りたくもなかった。
「中里」
呼ばれると、顔を上げねばならない気がした。中里が高橋を見ると、
「元気でな」
高橋は、ごく普通の顔で、ごく普通に言ったのだった。あまりに普通だったため、お前もな、と中里は考えぬうちに言い返していた。何も言わず頷いた高橋が、背を向け、再び出て行く。中里はその後ろ姿を、初めて見送った。
腰が抜けたように床に座ったのは、その直後だった。全身は変わらず痛かった。どこもかしこも膿んでいて、どろどろとこぼれ落ちていっている。テーブルの上には愛車の鍵がある。それを手で掴み、中里はじっと見た。自由がこの手の中にある。あの男の範囲から、抜け出せる機会がある。朝からドライブへ行けるのだ。何も気にせず、常の通りに振る舞えるのだ。そう考えたところで、現実味はなかった。いずれ後悔するだろう。あの顔を二度と見なくなったとしても、永遠に何かを悔やみ続けずにはいられない。同様に、あの顔を一度見たところで、再びそれが行われたところで、後悔するに違いない。何を選んだところで、完全に放たれることはない。もう元には戻らない。肉体は囚われた。精神もまた、徐々に、しかし着実に、奪われている。
鍵をテーブルの上に落とすと、がちゃり、と重く、軽い音がした。何もなくなった手を握り、中里は目を閉じた。眠気が戻ってくる。まぶたは上がらず、頭も上げていられない。もう、髪を撫でられて起きることはないだろう。ただ、せめて一つ、手に入れているはずのものが、そこにはあるかもしれない。それを味わうことを信じ、中里は己の腕へと頭を埋めた。
(終)
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