降下地点の安全性 1/2
それは時間も場面も関係なく、襟首あたりに浮かんでは、京一に拳を握らせた。例えばシャツのボタンを留めている自分の指に目をやった時、例えば同僚の喉仏が視界に入ってきた時、例えば澄んだ外気を鼻の奥に感じた時、例えば湯船に浸かっている時、それは肉が震える興奮を全身に伝達し、感覚に抗えぬ自分への焦燥感と暴力の衝動をもたらすのだ。
記憶は行動を繋ぎ、行動は記憶を繋ぐ。それは記憶だった。脳裏に焼きつき消し去れない、根強く体を捕縛して、変節を訴える、厄介な記憶だった。忘却は不可能であり、意識から除外することは、意識によった。意識的に京一は、日常を維持することに専念した。
記憶の始まりから、一週間が過ぎていた。朝、目覚めると、頭の異様な軽さを感じた。起床時間はいつもより早かった。起き抜けに煙草を吸い、一つ一つの手順を確認しながらコーヒーをドリップし、カップに並々と注ぐと、渇きのある喉に流し込んだ。口の中にはコーヒーの香りだけが残った。渇きは癒えた。頭は異様に軽いままだった。五感が異様に澄み渡っていた。
身支度は後回しにして、京一は携帯電話から女の番号を呼び出した。ニュース番組のコメンテーターがそれほど寝言を吐いていない時間帯でも、女は電話に出た。連絡を取らなかった非礼を詫びるより先に、そして女は会いたいと言ってきた。久しぶりに、京一さんと話がしたいな。一週間の経過は既に女に答えを示しているはずだった。話さずとも結果は知れているはずだった。甘えるような女の声を、だが敢えて断ち切るほどの、敢えて拒むほどの親切心は、京一のうちに生じなかった。
他人と外食をするのは久しぶりだった。山場を乗り越えるまで残業はつきものだ。現場全体の処理能力を把握していない人間が営業をやっているため、時々信じがたいスケジュールが降りかかってくる。今回もそうだった。残業代がゼロではないのと、直属の上司が有能なのがせめてもの救いだ。おかげで今回も、あの八方美人の運用担当を怒鳴りつけずに済むうちに、スケジュール通りに事は運び、残業も切り上げられた。帰宅をする暇まではないものの、約束を違えずには済みそうだった。約束は守られなければならない。約束が守られてこそ、秩序は平常となる。
しかし、平常ではない約束が守られたとしても、秩序は平常となるのだろうか?
フロントガラスの向こう、電灯に刻まれた街路樹の間、白いコートの女を京一は見つけ、思考を塞いだ。約束は守らなければならない。白いコートの女は約束の相手だった。路肩に車を停めてすぐ、女は遠慮なく助手席に乗り込んできた。挨拶を交わし、当たり障りのない近況を交わした。
国道沿い、ファミリーレストランの駐車場に車を入れる。割勘をするほど平等を掲げはしないが、十代の女にディナーを奢る気も起きなかった。食事はついでに過ぎない。約束は、話をすることだ。
ずっしりとした店の扉を開けながら、京一は、岩城清次のことを思い出した。結われた黒髪、無骨な顔、皺のない額、低い声、自信に満ちた狂気的な笑顔。運転技術は確かな、頭の悪い、先に扉を開ける男だった。その男の話をする約束だった。
席に案内され、ボックス席で向かい合う。コートを脱いだ女の緩いセーターの襟ぐりから、豊かな胸の上部が覗いた。店員に料理を頼むまで、京一はそれを眺めていた。単なる色の集合体ではなく、肉欲をそそる物体に見えはしないかという思いがあった。店員が下がるまで眺め続けても、それは色の集合体に他ならなかった。期待を捨て、京一は女の顔へと目を上げて、事態の核心に触れた。
「清次とはもう会うな。連絡もするな。それが誰のためにもなる」
女はあどけない顔にある化粧に囲われた両目を、したたかに細め、反抗的に言い放った。
「そんなの、由香が決めることだよ。清ちゃんに付き合ってる人がいないなら、由香は諦めないもん」
老獪な視線にそぐわぬ子供じみた口調は、男の欲を煽る術を知っているがゆえのようだった。欲ではなく、苛立ちを煽られる自分にこそ苛立ちを煽られながら、いいか、と京一は慎重に言葉を選んだ。
「あいつに付き合ってる奴はいねえが、惚れてる奴はいる。あれはもう重症だ。お前が入り込む隙なんて、俺が入り込む隙ほどにもない。だから忘れろ。忘れないと、お前は不幸になる。あいつは不幸にはならないだろう。それだけ相手に惚れきっている。それだけで、満足している」
「誰なのその人。清ちゃんは誕生日に、誰と会ったの」
女は幼い声に、敵対心を忍ばせる。嫉妬を気付かせ、同情を誘おうとする。
「会ってねえよ」、京一のうちに、親切心は生じない。「あいつは一人で、惚れてる相手を思ってた。誰にも言わずに、俺にも言わずに。お前のことも思い出さずに」
その嘘は、口にすると真実のようにも感じられた。清次は一人、惚れた相手を思って日々を過ごしているだけだ。何も起こることはない。何も変化は生じない。
そこで料理が運ばれた。会話を中断し、食事を始める。女は一心不乱にハンバーグを頬張った。京一はレタスを噛みながら、その露出した胸の上部を眺めていた。相変わらず色の集合体だった。いくら見ても、何も感じられなかった。シーザーサラダの味すら感じなかった。水は苦く感じた。途中、煙草を吸った。どぶの匂いがして、すぐに潰した。
「京一さんの言うことは、正しいもんね。いつも正しいから、お姉ちゃん、迷惑かけちゃったんだよね」
ハンバーグを一かけら残した女が、鼻声で言い、京一は女の顔に目を戻して初めて、女が泣きかけていることを知った。長い睫毛に囲われた濡れた目が京一を捉え、ふっくらとした赤い唇が大人びた笑みを作る。震える塗られた眉、艶やかな肌、瞬きによって零れる涙が、存在しようのない親切を強迫してくる。拒むのが面倒なほどだった。
「いつも正しいわけじゃないさ」、京一は偽りの優しさで、表情を和らげた。「今回は、正しいだろうがな」
食事を終えてすぐ、勘定を済ませた。女は泣き止んでいた。家の場所は知っていた。その姉を何度も送り届けたことがある。別れ話をしたのは同じ車中だ。バッグから包丁を出されても、さして驚かなかった。そういう女だった。そういう女の妹が、ウィンドウを見ながら深い声で呟いた。
「お礼しなきゃね」
二階建ての公営住宅の前に停車していた。女は車から降りようとしない。
「お前が幸福でいるのが、お礼だよ」
その嘘も、口にすると真実のように感じられた。京一は女を見た。女は京一に身を向けた。京一はコートに包まれたその下の裸身を、色の集合体としてしか想像できない。触れられることを待っているその体に京一は手を伸ばし、シートから解放し、覆いかぶさるようにして、助手席側のドアを開けた。
「じゃあな」
運転席に座り直した京一が、偽りの優しさで笑みを作ると、女は呆けた顔を醜く晒した。別れ話をしているようにも思えたが、女がバッグから包丁を出すことはなかった。
「じゃあね」
女は媚びるような笑みを浮かべ、車から降り、助手席のドアを閉めた。京一は笑みを消し、右手で拳を握るように、ステアリングを握り締めた。
「正しくねえよ」
呟きは、誰にも聞かれない。
国道に戻ると、電話の着信音が鳴った。脇にあった大型書店の駐車場に車を滑り込ませ、スーツの中から携帯電話を取り出して、液晶を確認する。仕事関係だろうと予想していたため、そこに先ほどまで話題にしていた男の名前を見、京一の思考は数秒停止した。それを再開させたのは、口の中にじわりと広がった、苦さだ。唾が苦くなっていた。飲み込むと、喉に引っかかるようだった。襟首あたりに記憶が浮いた。右手で開いた携帯電話を握る代わりに、左手でステアリングを握る。指は、手袋でもはめたように感覚が鈍くなった。
丁度良い、女のことを知らせてやろう。迷う必要など何もない。そう思い込まねば、通話ボタンを押せなかった。触覚の遠い指が、押し間違えることを、期待していたかもしれない。
「京一?」
だが、電話はつながった。京一は、平静な声を出そうと心がけた。
「どうした、清次」
「よお。今、時間大丈夫か?」
清次は、粘っこい声で言った。
「構わん。何か用か」
その清次の声と比べると、自分の声に滑らかさが足りないように思え、京一は唾を飲み込んだ。やはり苦く、喉に引っかかるようだった。
「あー、ちょっと、頼みてえことがあるんだよ。無理ならいいんだが」
清次の声には遠慮はなく、面倒さだけが染みていた。内容次第だな、言葉を返し、京一は先ほど会った女を思い出す。あの女が始まりだった。あの女との約束だった。その色の集合体を、京一は思い出す。肌色と影、過去数え切れぬほどに触れた物体に、欲望は見向きもしない。一ヶ月、清次はあの女に、見向きもしなかった。記憶が表に這い出して、苦い唾すら出なくなり、喉が渇き始める。女ごと、記憶を裏にしまうことにした。
「そうか、そりゃそうだ」
認めた清次が、いや、とすぐに言葉を続ける。
「和成の奴が俺に、今夜ボディガードしてくれとか言ってきやがってよ。こっちは先約あるってのにあの野郎、店にまで来て命の危険がどうのこうのと言うんだぜ。断るわけにもいかねえだろ」
和成、と京一は、平常の記憶を辿った。智田和成、チームのメンバー。ドライビングの腕は並、清次と共にいることが多い。線が細く端麗な容貌をしている。不穏な手合いに絡まれやすいため、屈強じみた風貌の清次に壁役を頼むこともあるとは、数ヶ月前、清次から聞いた。ボディガードという言葉も、その時に耳にした。二人の私的な事情など知らないが、驚く話でもない。ただ、その話を聞かされる理由を、京一は推測しえない。
「それで?」
続きを促せば、清次はため息を電波に伝え、やり切れなさそうに言った。
「それで、引き受けちまった以上俺はもう動けねえし、考えたんだが、あいつのことをお前に頼めりゃいいかなって」
「あいつ?」
「ああ、この前やったろ、俺の誕生日に、三人で。あいつだよ」
軽々しく、清次はその理由を述べた。指の感覚は鈍いままで、耳に当てていた携帯電話を落としそうになった。襟首あたりから映像が、音声が一瞬にして脳にまで駆け上り、肉体へ刺激を加えようとする。
「何だって?」
またぞろ這い出してきた記憶を断ち切るために、京一は明瞭な声を出そうとしたが、唾の足りない喉からは、薄れた音しか出なかった。
「今日うちに呼んでんだよ。もう家にいる。さっき電話したら、別に一人でいいとか言われたんだけどな。やっぱ気になるからよ。京一に今夜頼めりゃあ、俺は安心なんだ」
清次の声こそが明瞭で、強靭で、凄惨だった。頼む、と呟く京一の声は、自分の耳で捉えるのも難しいほど弱々しい。しかし、聞き取った清次は、ああ、と平然たる声を返してくる。
「こっちが呼んどいて、一人にして放っておくってのも、悪いじゃねえか。それに、あいつもお前のことは気にしてるみてえだから」
断ち切ったはずの記憶は散乱し、思考を分断し、清次の言葉を理解させようとしない。座っているのにめまいを感じ、こめかみを左の指で押しながら、京一は耳に残った最後の部分についてのみ、問い返した。
「俺のこと?」
「そうだ、お前を、っつーかお前がエンペラーの須藤京一だってことか。多分。俺は気にするなっつったんだけどな。京一は京一だけど、やったやられたなんて、良いか悪いかしかねえんだしよ。良いならそれでいいってもんだろ。何もない。まあでも、お前が話してくれりゃあ、あいつも楽になるだろ。何ならやってくれてもいいしよ、どうせ俺は、時間なくてしてやれねえだろうし。で、どうだ? 今日は無理か?」
話を追いきれなかった。思考は分断されたままで、ほとんど理解が及ばなかった。耳に残った部分しか、考えられない。今日は無理か? 時間は大丈夫だ。仕事は終えた。呼び出しはされていない。後は家に帰るだけだ。誰と会う予定もない。無理なのか? 迷う必要など、何もない。無理ではないのだ。
「いや」、京一は声にしていた。「無理じゃねえよ」
「そうか」、清次は明るく言った。「じゃあ頼むぜ。俺は朝帰るから、それまであいつのこと、よろしくな」
ああ、と京一が頷くと、清次はすぐに通話を遮断した。あいつのこと。襟首あたりに浮かぶ記憶は抑えずに、京一は閉じた携帯電話を握り締めた。
男だった。名前は知らない。タケシ、と清次は呼んでいた。偽名というわけでもないだろう。京一がその男の名前を呼ぶことは、なかった。初対面だった。自己紹介もしていない。だが、男は京一の存在を知っていた。群馬の走り屋で、清次と付き合っている男だった。清次の男だった。
一週間前、清次の誕生日に、清次とともに、京一はその男を犯した。無理強いしたのは清次だった。加担したのは京一だ。厄介な記憶だった。消し去ることなどできはしない。自分は確かにあの時、清次の男をなぶり、興奮したのだ。それまで、同性に欲情した試しなどなかった。一度だけ、告白されたことはある。高校の時だ。相手は男の割には綺麗な顔をしていた。好きだと言われて、嫌悪感しか生まれなかった。二度と顔を見せるなと言い捨てた。相手は泣いた。同情もしなかった。今、嫌悪感はある。しかし、清次の男にわくのではない。その男との情事を思い出すたびに、興奮せずにいられない、自分を嫌悪するのだ。その記憶以外で、興奮しなくなくなった自分を、嫌悪する。その記憶に捉えられ、行動を制限されている自分を、嫌悪するのだった。
京一は、車のシートに体を預けたまま、ため息を吐いた。書店の駐車場には出入りをする車が多い。光も多い。店の照明、過ぎる車のヘッドライト。目を閉じた。喉が渇く。煙草を吸いたかったが、腕を動かすのが億劫だった。指の感覚はまだ鈍かった。
頼むだって? 清次の話は、頭に残っていた。言葉の切れ端が、疑問を呼ぶ。頼むとは何なんだ。そいつのことを、俺に頼んでどうするんだ。俺が何をどう話せば、そいつが楽になるというんだ。俺はそいつの名前も知らない。そんな俺が、そいつに何をやってもいいというんだ。清次、どうしてお前がそれを許せるんだ。お前はそれを許せるんだ。お前は俺に、何をしろってんだ?
答えは出ない。清次の思考を把握できない。一週間前までは、その行動はすべて予想可能なものだった。推測が違ったことも一度もなかった。それはしかし、偶然が続いていただけなのかもしれない。レース観戦に連れ立ったことや、飲みに行ったこと、手料理を食べたこと、女を紹介したこともあるが、清次とは、人間としての目的を一にしているわけではなかった。走り屋としての目的を一にする、それだけの関係だ。それで、相手の人間性を完全に把握できていると考えていたならば、思索を放棄していたとしか言えない。だから今、理解に苦しんでいるのだろう。愚昧さを前提とするあまり、見逃してきた清次という人間の本質に、今の方が、近づいているのかもしれない。意図はしていない。進んでいる方向が、良いか悪いかも分からない。人生を共にするつもりも、お互いにないはずなのだ。
それでも、頼みは引き受けてしまっていた。清次の男のことだ。断るべきだったと、明確に、京一は思う。その男のことが、少しでも頭に滲出すると、平静が脅かされるのだ。引き受ける義理もなかった。断らなかったのは、あるいは、断れなかったのかもしれない。記憶を抹消できない以上、行動が引きずられるのは、当然の結果なのかもしれない。答えは出ない。清次はおろか、自分のことまで分からなくなっている。
ともかく、清次の男のことだった。顔も声も知っている。名前は知らない。群馬の走り屋。やたら遅いGT−Rのドライバー。その肉体。締まった背中、緩やかな尻。
目を開き、京一は頭を振った。脳裏に焼きついている映像を一旦追っ払い、こわい指で、持ったままの携帯電話を操作する。今となっては、車のことでしか連絡を取らない相手の番号を呼び出した。そういう相手と会話のできる自分を、取り戻したかった。コール五つで、つながった。
「何だ。俺も忙しいんだけどな、京一」
その低い、冷静な声を耳にして、京一は吐息を漏らした。まだ自分は平常だと、そう思えた。
「悪いな涼介、忙しい時に」
「悪いと思うなら、簡潔に用件を言ってくれるか」
心遣いと無縁の語調にも、苛立ちは招かれなかった。把握のできるものがあることに、安堵を感じた。指の感覚は戻り、湿り気のない口内で、舌も滑らかに動いた。
「群馬で、スカイライン、32のGT−Rに乗ってるドライバーの名前を教えてくれ」
数秒、静寂があった。そろりと、涼介が言った。
「32の、GT−R?」
「うちの清次に負けてるはずだ。いるだろう。名前を教えてくれりゃあ、それでいい」
これ以上、清次の男の記憶で興奮する自分と対峙するのは、難儀だった。清次の男を群馬の走り屋として、その最高峰たる高橋涼介を挟んだ上で意識すれば、記憶に引きずられずに済むかもしれない。京一の思惑に触れもせず、涼介は、淡々と語る。
「俺も群馬すべての走り屋を把握してるわけじゃないが、お前のところの岩城清次に負けた32のGT−Rに乗っているドライバーというなら、妙義ナイトキッズの中里毅が一番に挙げられるな」
中里毅、京一は繰り返した。毅。そう、清次は呼んでいた。中里毅。清次の男は、そういう名前なのだろう。スカイライン、32のGT−Rに乗っているドライバー。その走り屋のことを、頼まれた。群馬の走り屋だ。涼介も知っている。それだけだ。
「分かった、ありがとう」
「京一」、素直に礼を述べて通話を終えようとした京一を、涼介の懐疑的な声が引き止めた。「お前は何でそいつの名前を知りたがる?」
「それを何でお前が知りたがる?」
疑問をそのまま京一は口にした。他人の考えを聞くなど、時間のない人間のすることではなかった。涼介は少し考えるような間を置いてから、答えた。
「あいつは群馬の仲間だからな。お前があいつに何かしようってんなら、俺も黙っちゃいられない」
本気と冗談が半々の声だった。何かを、だって? たまらず、京一は笑っていた。
「俺がそいつに、何をするんだよ」
「普通に考えれば、お前の関心を呼ぶような要素のないドライバーだぜ。だが、群馬では俺たちには次ぐ実力の持ち主なんだ。下手にちょっかいは出してもらいたくない。精神の振れ幅が大きい奴でもあるからな」
ただ事実を語るようで、自慢するようなその男の声を聞きながら、京一は笑っていた。笑ったまま、俺はもうやってるんだぜ、と思う。俺はもうやっちまったんだ。俺はもう、そいつを犯している。なぜならそいつは清次と付き合ってる。清次とやっている。セックスをだ。男同士で。好き合ってやっている。俺もやった。誘われたからだ。清次にやってくれと頼まれたからだ。そいつには頼まれていない。だが、清次に頼まれた。だからそいつに入れたんだ。清次と一緒に。俺はもう、やっちまってるんだよ。そしておそらく、これからも、やれるんだ。そんな俺にお前は、何を言ってるんだ、涼介。
「京一?」
不審そうな、涼介の声だった。京一は笑いを止めた。疑われてはならない。思いを探られてはならない。この男に、現状を知られたくはない。清次の男に欲情することなど、この男には関係ない。
「ちょっかいは出さねえよ。何もしない。安心しろ」
偽りの優しさを声に乗せ、京一は言った。わずかな間があった。
「何かあったのか」
ここにきて、初めて気遣いが窺えた。京一は再度目を閉じ、今度は、心底からの優しさを声に乗せた。
「忙しいんだろう、高橋涼介さんは」
「そうだ。しかし」
「何もねえよ。何もないんだ。もういいぜ。付き合ってくれて、感謝する」
言って、京一は通話を断った。携帯電話の電源までは断たなかった。涼介からかけ直されることはなかった。冷静な、自分の信念を叩き折った偉大な走り屋との会話は、既に違っている自分を確認するだけで終わった。
清次の家に車を向ける。帰宅して着替えることも考えたが、二度と動く気が起きなくなりそうなので、やめた。約束は守らねばならない。法律も規則も契約も、破られては無秩序となる。しかし、すべてを同一と見なすことは、無秩序とはならないのか。何を守り、何を保つべきなのか。まとまらない思考は雑念と感情を抱え込み、運転するうちに、頭から抜けていった。市街地から離れ、街灯の少ない道に入る。一時停止を越えて、二階建て、外壁のひび割れが目立つアパートの前に車を停めた。外に出ると、土の匂いがした。空気は冷たく湿っている。コートを着ていても肌寒く、息は白く変じ、鼻はすぐに冷たくなった。夜が更けるにつれて、気温が低くなっているようだ。いずれ雨が降るのかもしれない。
穴の多いアスファルトの上を歩き、京一はアパートの前に立った。独立型の玄関の、ドアチャイムのボタンを押す。空気は湿っている。喉は渇いていた。口の苦さは消えていた。唾液がほとんど出ていなかった。何も考えていなかった。思考も雑念も感情も、肉体から抜けていた。呼び鈴が鳴ってから、頭の中で数字を数えた。二十五が過ぎたところで、玄関のドアが開かれた。
男が現れた。太い眉の雄々しい顔は、額にかかる黒い髪と濃いまつげに縁取られた大振りの目によって、妙なあどけなさをまとい、下着姿では正確な年齢が窺えない。京一はコートのポケットに手を突っ込みながら、何も言わず、男を眺めた。自分の存在がもたらした驚きと怯えが、男の顔面筋を震わせ、皮膚の下にこびりつく様を眺めた。その行方に、ポケットの中の指先が焼ける感覚があり、それを懐かしく思うと同時に、卒然、頭が回り出した。俺は、何をやってるんだ?
「あいつなら、今日は、帰らないぜ」
ひび割れた地面のような男の声だった。あいつとは、清次のはずだった。この男は清次の男だ。知ってるよ、京一は唇を動かさずに言った。男が見開いた目を、横に、上に、斜めに、下に、うろうろと動かす。どこかに、現状を打開する答えが書かれていないか、探すように。
「入っていいか」
答えにならぬ答えを京一は提示した。男は動かしていた目を京一に落ち着かせると、逃げたそうに頬を強張らせ、しかし、ああ、と頷いた。
室内には暖かい空気が舞っていた。内装に変わりはない。手前にダイニングキッチン、奥には洋室、戸が半分ほど開いており床と窓が見える。先を進んだ男は、部屋の中央で立ち止まった。京一はダイニングテーブルの端に尻を置いて、腕を組み、斜めに男の背を見る。男は動かない。男の斜め向こう、ブラウン管テレビは往年のレースを流していた。荒い画質だった。いつか、清次がビデオテープの質感が好きなのだと言っていたことがある。いつそんな話をしたのかは、思い出せない。
絞られた車の作動音と実況解説の声が、部屋に響いている。男は動かない。その背を見ながら京一は、先ほど聞いた、涼介の声を思い出す。鼓膜を心地よく震わせる、透明な、低い声。群馬の走り屋、清次に負けた、32のGT−Rに乗っているドライバー。
「中里毅」
呼ぶと、中里毅は大きく肩を揺らし、京一を振り向いた。距離があっても、黒で囲われた目の存在感は強かった。驚き、焦り、怯えの揺らぎがよく見えた。驚かれるほど、焦られるほど、怯えられるほど、背骨が冷え、代わりに内臓が熱くなった。中里から、京一は目を逸らした。自動車販売店のカレンダーがかけられた壁を見る。何をやっているんだ、と考えた。俺は何をやっている。清次に頼まれた。清次の男のことだ。群馬の走り屋。涼介に電話をかけたことを、無駄にはしたくなかった。視界がぼやけるよう、わざと細くした目を、中里に戻した。
「清次にお前のことを頼まれた」
一息に、京一は告げた。中里は、瞬間顔からあらゆる力を抜き、すぐに不可解そうな表情を作った。
「頼まれた?」
「ボディガード中、一人で放っておくのも悪いから、俺に頼むと」
清次の言葉の切れ端を耳に蘇らせながら、京一は言った。中里は眉根を強く寄せ、京一を見下ろすように顎を引いた。
「何だ、そりゃ」
「あいつなりの、思いやりなんだろう」
自分の言葉を空々しく感じ、京一は中里の奥、テレビに目を移した。レースは佳境に入っている。グループAの時代、GT−Rの時代。群馬の走り屋、清次の男。部屋は乾燥していた。暖房のせいかもしれない。喉が渇く一方だ。唾液は涸れているようだった。
「……あんたがそんなこと、する必要はねえよ、須藤さん」
男の声は頼りない。煙草を吸いたかった。それよりも、何かを飲みたい。喉がからからだ。わかない唾を飲み、はっきりとした視界に、中里を入れた。中里は、俯き、床を見ている。視線を外されたことに、理屈の立たない苛立ちを覚えた。
「俺と話せばお前が楽になるだろうとも、言ってたぜ」
「あ?」
白も黒も際立つ目が、こちらを捉える。
「お前は、俺のことを気にしてるらしいからな」、それを見返しながら、他人事のように京一は言った。「俺が、エンペラーの須藤京一だってことを」
その言葉すら、空々しく感じられた。エンペラーの須藤京一。この場にそんな人間は、存在しないように思える。では、どんな人間ならば、存在するというのか。
「須藤さん」
湿り気のない、男の声だ。中里毅。群馬の走り屋。やたら遅い、涼介たちに次ぐ腕のある、スカイライン、32、GT−R。言葉が空々しく、脳内を舞う。
「この前の、あれは……なかったことに、してくれ。頼む」
頭を下げるように俯きながら、中里が言った。京一はめまいを感じた。頼む? 一体俺は、誰に、何を頼まれているんだ?
「なかったこと?」
「あんなこと、俺は、したくてしたんじゃねえ」
男は声を震わせた。したくてしたのではない。その通りだろう。清次が無理強いし、京一が加担したことだった。厄介な記憶だった。苛立ちが、背を焼いた。したくてしたのではない。それは同じだった。想像したこともない、ありえない事態だった。あの時間によって、自分のすべてが、覆されたのだ。
「なら、しなけりゃ良かったんだ」、京一は拳を握った。「そもそもお前が清次と付き合わなけりゃ、こんなことにはならなかった。清次はお前が好きだから、あんなことをやりやがった。お前が清次を好きだから、こんなことになっちまってんじゃねえか」
「違う」
言下に男が言った。
「何が違う」
衝動を堪え切れず、京一は、握った拳でテーブルを叩いた。箸立てが転がり、箸が散らばる音がして、ガラス製の灰皿がテーブルの上で揺れ、男は大きく身を震わせ、顔を上げた。京一は男を睨みつけた。男は動揺に頬をひくひくさせながらも、睨み返してきた。
「俺は、あいつのことは、好きじゃねえ」
男の声は震え切っており、束の間、京一は何を言われたのか理解しなかった。好きじゃない?
「お前は、あいつと付き合ってるんじゃねえのか」
確かめるように問うと、男は一瞬、泣きそうな顔になった。だが、泣きはせず、次には無表情となり、俯いた。
「そうだ」、声は、変わらず震えていた。「でも俺は、あいつのことは、好きにはならねえんだよ」
戒めるような口調だった。そして男は黙った。ビデオは終わっていた。部屋には静寂が満ちて、鼓膜を圧する。好きにはならない? おい清次、京一は思う。これの何を、俺にどうしろってんだ? 答えは出ない。思考がじわじわ鈍っていく。暑かった。暖房が利きすぎているのかもしれない。京一はコートを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。男は動かない。立ち尽くしている。携帯電話と煙草を抜いたスーツの上も脱ぎ、ネクタイを外し、まとめて椅子の背もたれに掛ける。ワイシャツの襟は汗を吸って濡れている。暑い。室内は、ひどく乾燥している。喉が渇いている。思考が滞っていた。これは、何なんだ。煙草を吸いたかった。それより、何か冷たいものを飲みたかった。冷蔵庫に向かおうとした。頭がぼやけていた。
目の前に、男が立っていた。顔を上げた男と、目が合った。悔恨と屈辱に耐えている目だった。口腔も渇いていた。京一は男の顎を掴んだ。顔を寄せ、口づけた。舌を中に入れ、唾液を奪う。すぐ、胸を拳で殴られた。胸骨に鋭い痛みが走り、京一は男から口も手も離し、唾を飲み込んだ。男の顔が憤激に覆われ、その目に殺意がこもるのを、間近で見る。
「ふざけるな!」
男が叫んだ。耳がきんと鳴るような叫びだった。京一は殴られた胸の中央を手で押さえた。心臓の上の胸骨が、しくしくする。痛みは指先に熱を与え、神経を通り、ゆっくりと脳に溜まっていく。
「ふざけてねえよ」
他人のような声だった。自分が発しているという実感がなかった。男の顔が、無理解に襲われ、再び憤怒がたぎる。
「何なんだ、あんた」
「なら、お前は何なんだ」
男の顎を、再び手で掴んだ。男は避けなかった。誰が何であるのか、分かるのならば教えてほしい。暑くて頭が回らないのだ。
「離せ、須藤」
男が顔の皮膚の下に、怯えを走らせる。それに、脳が炙られる。体温が上がっている。汗がにじみ、喉がますます乾いていく。男に唇を寄せると、再び胸を殴られた。胸骨は痛んだが、今度は男を離さなかった。その腰を左手で引き寄せ、胸を合わせる。男は京一の両肩を掴み、短い爪でシャツの上から肌を突き刺してくる。狭い痛みが背中全体に広がり、血液から熱くする。舌を、強引にねじ込んだ。噛まれはしなかった。存分に貪った。口にも喉にも、水分が行き渡った。多少満足した。唇を解放すると、男は喘ぎながら、頭を振った。
「違う、違う……こんなの、間違ってるぜ、須藤。分かるだろ、違うんだ。俺とあんたは違う、間違ってる、こんなの。正しくねえんだよ、こんな」
男の声は震えたままで、更に掠れが加わり、聞き取りにくかったが、聞き取れないということもなかった。正しくない。そうだ、正しくはない、そう思える。何一つ、正しいことなどここにはない。正しいことなどないのに、では、なぜ、ここにいる?
「離して、帰ってくれ。何もねえ、俺は、あんたのことなんか何も、何も、気にしてねえんだ。何もねえんだよ、俺には、あんたとなんて……」
男は目を逸らし、徐々に口調を早め、京一の肩を強く掴んだ。その感触が神経を伝い、脳に溜まるのだ。汗がにじむ。口がまた、渇いてくる。何もない。何もないなら、何でこんなことになっている。なぜ俺は、ここにいる。何もないわけがない。何かはあるのだ。なければならない。ここにいる理由が、ここから去らない理由が、去れない理由が、何か用意されているべきなのだ。京一は、顎を掴んでいる親指で、男の下唇を押さえた。
「俺とお前には、清次があるんだぜ」
男の顔面筋が、波打った。据わりの良い理由だった。清次がある限り、何一つ、なかったことにもできはしない。その理由が正当かどうかまでは、分からなかった。何が正当で、何が平常なのかも、分からなくなっていた。京一は、男に再び口づける。清次の男だ。そう思うだけで、欲情した。唇を吸うだけで、興奮した。舌を絡ませると、下腹部が熱くなった。男の顎を掴んでいた手を、腹まで下ろした。舌を吸いながら、シャツの裾から手を入れて、肌を直接撫で上げた。仰け反るように体を引いた男を追い、テーブルの端に押しつける。男は忙しく呼吸をしている。京一は男を見下ろしながら、自分のワイシャツのボタンを外した。男はテーブルに後ろ手をつき、濡れた目で、請うように、見上げてくる。
「やめろ、違う、須藤、やめてくれ」
その顔も声も、怯えに食われていた。京一を男を見下ろしたまま、ワイシャツを脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。肌着は床に脱ぎ捨てた。外気に直接肌が触れても、汗は気化しない。男の言葉をうわごとのように聞こえたのは、自分こそが熱に侵されているからかもしれなかった。
「正しいことなんて、一つもねえよ」、京一は腕時計を外してテーブルに置き、呟いた。「だから、全部正しいんだ」
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