降下地点の安全性 2/2
慄いた男が、後ろ手にしていた肘を折った。テーブルに押しつけている腰を離せば、男はそのまま膝からくずおれた。床に尻をつき、立てた膝に額を乗せた男が、震える声で言う。
「やめてくれよ、やめてくれ。頼む、頼む」
膝に、男の息を感じた。頼むだって? 俺は何を頼まれている。誰が、何を頼まれているんだ? 頭は働かない。思考の関与する場面でもなかった。京一はスーツの下を靴下とともに脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。暑かった。体も熱い。男の膝と男の頭が、直接足に触れる。その感触と、見下ろす男の矮小な姿に、焦燥を感じる。男の髪を右手で掴み、顔を上げさせた。羞恥と失望が幅を利かせ、視線を合わせようともしない。頼むだって?
「俺じゃねえだろ」
左手で、下穿きから硬くなりかけているものを取り出した。男の顔に寄せると、男は固く目をつむった。
「頼むなら、清次に頼め」
何もかもは、あいつのせいだ。俺がこうなっているのも、お前がこうしているのも、清次がいるからだ。俺じゃない。俺じゃねえんだよ。言いながら、京一は笑っていた。馬鹿馬鹿しかった。責任を放棄している自分も、足掻く男も滑稽だった。だが、抵抗は無駄だ。思考の関与する場面ではない。自分の意思でどうにかなる事態でもなかった。どうにかなるのならば、そもそも始まっていないのだ。男が眉間を緩め、目を開くのを、京一は見下ろしていた。曇った眼差しが、自身に向けられるのを、感じた。
「清次」
何かの答えを見つけたような、男の呟きだった。息が近かった。男の手が、おもむろに粘膜に触れ、それがその口に咥えられるのを、京一は引き攣った笑みを唇に残したまま見下ろしていた。丁寧に、何も余さぬように、零さぬように、男は動く。あらゆる部位を愛するように、舌でねっとりと舐め、口腔で全体を満たす。粘膜の接触が、髄に電気を流していく。滑稽さも吹き飛ぶ刺激を味わいながら、京一は男の言葉を思い出す。男は清次を好きではないと言っていた。男はひどく愛おしそうに京一を咥えている。記憶とは違っている。一週間前は、義務感が男の動きをまだるくさせていた。今、男は自発的に、懸命に奉仕している。以前と今と、何が違うのか。男は清次を好きではないと言った。男は京一を見ながら清次と呟いた。男は実に美味そうに京一を咥えている。
何一つ正しくないのならば、すべて正しいということだ。
京一は、熱心に咥えてくる男の髪を、心底からの優しさをもって撫でてやった。従順な男が射精を導かんとしていることに、万感の息を漏らし、勝手に射精へと導かれていることに、歯を噛んだ。もどかしさが、京一に、男の髪を再び掴ませる。男の頭を腰から剥がし、床に投げた。男はうつ伏せに倒れ込み、その背を見ながら京一は、腰に絡んだ下穿きを脱ぎ捨てる。全裸になってもなお暑かった。溜まるばかりで失せない熱を、解放したかった。四つん這いになって起き上がろうとする男の後ろにつき、その腰に手をかける。男は大人しかった。下穿きを剥ぎ取るのは簡単だった。仰向けにして足を開かせるのも、たやすかった。乾いた尻に挿入するのは、労が要った。思い出したように、男が暴れ始めたからだ。
「嫌だ、や……」
じたばたする男の足を抱えながら、京一は慎重に、狙いを定め、その尻に自身をねじ込んだ。肉の抵抗は厳しく、中途まで入るのがやっとだった。厳しい締めつけだった。男の背は床から浮き、関節が半端に曲がり、苦痛がその歯を剥き出させ、大きく上下する胸に比さぬ、小さく断続的な呼吸を吐かせている。男の全身は、収縮していた。硬直していた。抜き差しならないとはこのことだ。京一は、萎みきった男のものに触れた。幾ばくか、滑りがあった。それを利用して、しごいていく。男の両手が、両足が、ぎこちなく宙を掻く。縮んでいる男を擦ったまま、上がった男の左足の、内腿を吸った。張った筋の上、肌に色を刻み、舌で辿る。やがて、男が両手で顔を覆う。息は変わらず小さく断続的だが、短い声がそこに混じる。
時間の経過は不明瞭だった。男のものがいつ膨れたのか、男の尻の締めつけが和らいだのか、定かではなかった。何も考えてはいなかった。とにかく熱を解放したかった。肉体の余裕と欲求の切迫を感じ、京一は男の足を抱え直した。待ち構えていたように、腰が律動を始めた。
「うっ……う、あ……」
押し込む度に、男はしゃがれた声を上げた。男の喉は嗄れかけているようだった。男根は濡れている。尻は乾いている。切れている様子はないが、抽送は、滑らかにはいかない。力任せで、どうにかなるものでもない。じりじりとし、その焦燥感がまた、心拍を速め、勃起を強める。これは、暴行だ。分かっている。非道な行為だと、分かっていた。清次の男だと分かっていた。分かっていても、やめる気が起きない。興奮が、肉体を縛っている。快楽が、思考を遮っていた。
「……ぐッ、う、うう……」
男の目から、涙が零れている。よほどの苦痛があるのだろう。男の尻は乾いている。そこに無理矢理突き立てている。身を裂かれるような痛みを感じているのだろう。だというのに、男は既に勃起している。それにともない、男の尻は緩んでいる。
何一つ、正しくはない。そして、すべて、正しいのだ。
男の腰を両手で掴み、京一は射精に向かう行為に没頭した。背中の毛穴が拡張し、汗が次々にじみ出てくる。こめかみが、強い脈動に悲鳴を上げる。やめる気は起きない。苦しみばかり伝わってくる、男のくぐもった、しゃがれた声が、刺激を増幅し、笑い出したくなるほどの快感を連れてくる。記憶にある通りの快感だ。記憶にある以上の、快感だった。限界が、近まった。男の奥まで突き入れて、京一は達した。
頭皮から滴る汗が、顔の汗と一体となって、顎を滑り落ちていく。全身、汗だくになっていた。京一は乱れた息を整えて、男の中から引き抜いた。男は身をよじったが、それだけだった。その顔は、青いようで赤く、目は濡れて充血しており、厚い唇は血色が悪かった。男の全身は、かたかたと小さく震えている。張り詰めたままの男のものも、震えていた。
無残な有様だと、そう思えた。だが、感情はついてこず、罪悪感も生まれなかった。欲望だけが鮮明だった。解放してもなお、熱は残っている。無残な男の存在が、神経に介入し、情欲を途絶えさせない。
虚脱している男を、腕を取って引き起こした。男の体は重かった。肩を貸しても、足を動かそうともしない。死人のようだった。それを引きずり、京一は歩く。奥の部屋は、カーテンが閉め切られており、暗く、涼しかった。少しは汗が引きそうだった。
開けた戸から入り込む、ダイニングキッチンの明かりを頼りに、京一は男をベッドに寝かせ、ナイトテーブルの上のスタンドライトを点けた。闇に順応しかけた目が、眩しさに襲われる。慣れてから、京一はナイトテーブルの中を探った。電池やペンや雑誌がある中、当然のようにコンドームや潤滑剤やバイブが入っている。ローションだけを手にすると、京一はベッドの上の男にまたがった。裸の男は動かない。死人のようだが、体温は維持されており、呼吸もある。虚ろな男の顔の中、開かれている目、隈取られているような目を覗き込んでも、視線は合わない。生きることを放棄したような態だった。抵抗することの無意味さを悟ったような態だった。それを見て、なおも事を運ぼうとする自分を、京一は瞭然と、正当に、平常に感じた。
男の胸から腹にローションを垂らすと、わずかに身じろぎがあった。広がった滑りを擦り込むように、腹を、胸を、掌で撫ぜる。時に指で両の乳首をこね、押し潰し、また腹を撫で、胸を擦る。その動作を繰り返すうちに、男の静かな呼吸が、次第に乱れていく。尻の下に敷いている男の足が、堪え難いように動くのを感じる。鎖骨の下から、徐々に指で押していき、乳首を強く押し潰すと、男は小さく悲鳴を上げた。相変わらず、男のものは反っている。
京一は、男の足から下りた。そして手を、胸から腹、下腹部へと移す。今にも達しそうなほど張っているそれに軽く触れてから、尻を撫ぜ、穴の周囲をよく濡らし、一本ずつ指を入れた。先に放ったものと滑りのおかげで、引っかかることはなかった。
男の息遣いは、舌を出している犬のように荒い。顔は再び両腕に覆われて、口元だけが見える。唇には、色が戻っているようだった。赤い唇と白い歯が覗いていた。指を馴染ませるごとに、男の尻はよくほぐれた。その腰が跳ねるごとに、京一は、男の根元を手で抑えた。呆気ないほど柔らかくなる尻の中を確かめながら、もどかしそうにくねる男の肉体を見下ろすと、触れずにいる自分のものに、自然と血が集まるのを感じ、心地が良い。欲望の訴えを聞いてやることには、愉悦があった。快楽への期待が募るうちに、接触が希求された。
男の粘膜から離した手で、男の顔を覆っている両腕を剥がし、シーツに押しつける。露わになった男の顔は、青さが消え、赤みと性感とに包まれている。切なげに眉根が寄せられ、何かを欲するように唇が震え、目には光が差していた。京一は、その光と相対した。
「イキてえんだろ」
声を落とすだけで、男は体を大きく揺らし、目を閉じた。だが、何も言わない。
「違うのか」
男の尻の周囲に、侵入を望む自身を擦りつけながら、聞く。男は何も言わないが、男の足は、京一の足に寄せられた。
「俺は、清次じゃないんだぜ」、京一は失笑した。「それでもいいのか?」
首をすくめた男が、恐る恐るというように目を開き、見上げてくる。今にも泣き出しそうなほど、その顔は歪んでいた。今にも泣き出しそうなほど、その声は頼りなかった。
「分かんねえよ、分かんねえ、そんな……」
笑ったまま、京一は首を振った。これは、紛れもない暴行だ。それを拒まない、この男が滑稽だった。そんな男を追い詰めずにはいられない、自分も滑稽だった。それは、満ち足りるものであり、だからこそ、一層求めたくなる。再度の挿入では、力を入れる必要もなく、滑らかに、呑み込まれた。滑稽だった。だからこそ、欲するのだ。
「ッ、あ、あ」
数回突くと、男は甲高い声を上げて仰け反った。揺らす度に、男の精液が飛び散った。足でがっちりと腰を挟まれるので、動きにくかったが、構わず突き入ると、支えは徐々に緩まった。肉はよく絡み、尻はよく動く。
「どっちがいいんだ。俺と清次と」
そして、締めつけられる。男は京一の腕にすがり、しかし何も言わない。汗が引く以上に、汗をかいていた。水分がどんどん失われていくのに、喉の渇きは消えている。動けば動くほどに熱は溜まり、発散せずにはいられない。
「普通は、恋人だろ。好きじゃねえなら、別かもしれないが」
男は体を縮こめて、一際強く締めてきた。逃げようとしながら、捕まえてくる。どうなんだ、京一は男に被さり、上から圧し、囁いた。どっちがいい。男の体はがちがちに固まり、尻の中だけが、時折緩まる。清次、と囁き返した男は、京一を見てはいなかった。それでも、その大きい目は、恐怖をくっきりと見せるのだ。男は、怯えている。清次を良しとしながら、男は怯えている。あるいは、清次を良しとすることに、怯えているのだろうか。男の内面など、京一には知れない。知らずとも、男を怯えさせられれば、構わなかった。そこに、興奮があった。
「そりゃ、あいつも喜ぶだろうな」
笑って言い、京一は躊躇なく、男から抜いた。解放に弛緩した男を、うつ伏せにするのは造作なかった。その腰を上げさせ、後ろから、再び挿入した。
「んんッ……」
刺激を堪え切れぬよう、男は前へ逃げようとする。京一は男の腰を引き寄せて、自分の腰を打ち振った。無理の要らない位置だった。滑らかな摩擦が、性感を煽る。
「なら、清次のことでも、考えてやれ」
言って、男の背筋が強張るのを見ると、昂りに、頬が引きつった。男は怯えていた。そして、清次を呼んだ。しきりに呼んだ。男が清次を呼ぶ度に、男の尻が締まった。良い具合だった。
清次、清次、清次。
それを唱えていれば、終わりが迎えられるというように、男は声を出し続ける。それは何だったのかと思う。それは誰だったのかと、京一は思う。頼まれていたような気がした。男のことだ。許されていたような気がした。男のことだった。
清次の男だ。男を犯しながら、京一は思い出す。頼むと清次は言っていた。やってもいいと清次は言っていた。だからやっているのか。だから、こうしているのか。興奮は、最初からあった。欲情は、記憶から始まっていた。記憶は行動を繋ぐ。行動が、記憶を繋ぐ。記憶が、男が現れてしまえば、頼みも許しも与えられずとも、いずれ、やっていたのではないか。
俺は、やれるんだよ。
清次の顔が、まぶたの上あたりにちらついた。その上に、涼介の顔が被さった。片や無骨で、片や流麗な、対照的な顔だった。どちらも、京一に何も強迫しなかった。二人の言葉が、頭を通り過ぎた。
京一は、男の背に胸をつけた。似たような温度だった。汗が混じり、熱も混じる。目の前には、男の肩がある。そこを流れる汗を舌で舐め取り、浮き出ている右の肩甲骨の上部に、噛みついた。骨の震えを歯で感じ、肌の震えを唇で感じた。記憶を、そこに注いだ。
「毅」
男の腰が、大きくうねった。それが収まってから、もう一度、男の名を呼んだ。男は清次の名を呼ぶのを止め、尻を擦りつけてきた。意図は知れない、構いもしない。男の胸から背を離すと、空気を冷たく感じた。そこには、興奮があるだけだ。京一は、腰を男の尻に据え直し、責め立てた。
「あっ……ひあ、あッ」
男が声を上げる。皮膚から肉に、神経に食い込む声だった。男根から伝わる快感が、脳を支配していた。男が悶える光景は、征服欲をかき立てた。肉体は、射精への欲求に従順だった。男の尻は柔軟だった。技巧をこらすまでもなく、官能は分け与えられた。臓腑で予兆を感じながら、京一は男の尻に腰を打ちつけた。男はシーツを波立てた。男の喘ぎ声が続く中、京一は呻き、放出に酔った。
蓄積された疲労が、しばらく筋肉を使わせなかった。男の声は小さく、途切れ途切れだが、続いてはいる。男の肩は時々、痙攣するように竦む。その右の肩甲骨の上部に、歯型が見える。皮膚は破れず、ただ浅く窪み、赤らんでいる。その半端な噛み跡を眺めているうちに、疲労が消えたので、抱えたままだった男の尻から京一は体を離し、男を仰向けにした。顔を見るためだった。怯えさせるためだった。
京一は、男を見下ろした。男は、京一を見上げた。上気した顔だった。口が開いており、上下の歯が見える。その間に、舌が覗いた。赤い舌だった。男の目は、鋭かった。視線の距離を、京一は縮めた。無に近づくにつれ、背中に鳥肌が立ち、消え、汗が噴き出た。口づけに、苦さはなかった。逃げようとする男の舌を追いかけると、甘く噛まれた。痛みは軽かったが、反射的に顔を引いていた。
「やめ、ろ……もう……やだ……」
男の顔は赤く、羞恥と怒気が混じり合っていた。目は、鋭く強烈な光を帯びながら、端々に恐怖がこびりついていた。声は、上擦っていた。迫力のない男の様相だった。本当にやめさせたいのか、疑えるほどだった。男を見下ろしたまま、京一は右手を下方に伸ばした。男のものは半ば勃ち上がっていた。握ると、男の体は面白いほどに動いた。やめさせたい人間の動きではない。
「清次の方が、良いんだったな」
その名を出すと、男の顔に恐怖が染みていくのが、たまらなかった。男の左に身を横たえながら、京一は囁いた。
「俺が無理にやっても感じるくらい、仕込んでもらったんだろ」
瞬間、男は身をよじり、腕を振り上げ、肩などを叩いてきたが、握ったものの先端を押すと、抵抗は止んだ。その隙に、男の右腕を左わき腹の下に敷き、男の右足の付け根を両足で挟む。それから、膨れかけているものを放り、胸へとそれぞれの手を上げ、立っている乳首をはじく。開いたままの男の口からは、声が漏れた。痛みを与えるようにしても、快感になるようだった。
「どんな風にしてくれるんだ、清次は」
耳に声を吹き込みながら、指の腹で、胸の頂点に軽く触れるだけにする。男は背を浮かし、自分から押されたがる。男の足は、すり寄せられる。男の顔は逸らされている。目の前に晒された、その耳を食むと、男の左手が、腕にかかった。耳殻の内側を舌先でくすぐり、こうか、と問えば、だらしのない声を出した男が、腕に爪を立ててくる。それを答えと受け取って、京一は男の耳から顎、首へと、唇を移した。喉で、男の息のざらつきを感じ、胸で、男の暴れる心臓を感じながら、左の乳首を吸い、唇で挟み、舌でこね、全体で舐めて、先で擦った。男の鼻にかかった声が聞こえ、潰している男の右手が、幾度も体を持ち上げようとした。
京一は身を浮かし、男の右手を解放した。そしてその手を掴み、自分のものを掴ませた。代わりに、男のものを掴んでやった。男が擦り始めた。乱暴だった。京一は、ゆっくりと男のものを刺激した。既にはち切れんばかりだった。その脈動を感じると、昂った。終わりが、見えなかった。男がいる限り、永遠に続きそうだった。
「清次ッ、清次ィ……」
助けを求めるような声を、男が上げ始める。終わりを望んでいる声だ。それに、勃起を促されるが、男の雑な手の動きでは、満たされない。胸を吸いながら、男がしてくるように、強くしごいていく。そう間も置かれぬうちに、男の精液が、手にかかった。指を伝うそれを感じてすぐ、京一は体を起こし、男の足を胸まで押し上げ、一気に入った。男はまだ射精しており、言葉を作れていない。
「俺が、誰か、分かってんのか」
男の顔を上から覗き込み、足ごと揺すりながら聞いたのは、弄するために過ぎず、答えを求めたわけではなかった。男が向けてきた目を、そのため京一は、構えもせずに受けていた。恐怖がどこにも存在しない、純粋で、強烈な目。
「須藤……」
京一を見ながら、男はうっとりと囁いた。男は怯えていない。男は分かっておらず、分かっている。男は官能に浸っている。かつてないほど滑稽な、男の姿態だった。そのくせ、かつてないほどの陶酔感を呼ぶ、扇情的な、男の存在だった。
「そうだ」、京一は、笑いながら、頷きながら、動いた。「俺は、須藤、京一だ」
他の誰でもない。何でもない。ただそれだけだ。
「俺が、お前を、やってるんだ。中里、毅」
男が京一を見たまま、腰を揺らす。他の誰でも、何でもない。ただそれだけだ。それだけが、唯一だった。頬が勝手に作る笑みを消さぬまま、京一は、男の口を吸った。差し入れた舌に、男の舌が絡み、唾液が混じる。男の腕が、首に回される。離れがたいように、男は動く。男に被さったまま、京一は動く。つながっている肉体から、精神に侵入してくる恍惚が、脳を食い荒し、狂おしいほどの快感を置き去りにする。高まる男の声につられるように喘ぎながら、京一はひたすら腰を打ち振った。呼吸など、意識もできなかった。親しい重さと馴染んだ震えが近づいて、熱の解放を期待させた。
「ひうっ、う、あ、あァッ」
背にかかった男の指が、肩甲骨を削ろうする。艶めかしい男の声が、限界を削ろうとする。男のすべてが京一を終わりに導く。焦燥は感じない。終わりを望んでいる自分を感じる。終わりを望んでいる男を感じる。望むように、望まれるように、そして絶頂は訪れた。直後、男は死んだように気を失った。
動悸が鎮まるまで、頭痛が続いた。噴き出た汗が蒸発し、拡張した血管が元に戻り、呼吸が整うと、頭痛は消え、体の熱さも消えた。肌に、冷えた空気と、張りつく体液を感じた。シャワーを浴びたくなった。京一はベッドの上に寝る男の、脈のあることだけを確認し、その体には脇にあった毛布をかけて、ナイトテーブルの上のスタンドライトを消し、部屋から出、戸を閉めた。電気が点いたままのダイニングキッチンは、生ぬるいが、暑くもない。テーブルに近い床、落ちている自分の下着を拾い、浴室に向かった。
数分シャワーを浴びただけでのぼせたため、全身を簡略に洗い、すぐに外に出た。頭痛の前兆はあったが、現れなかった。下着を身につけ、部屋に戻る。喉が渇いていた。台所で、グラスに水を入れた。二杯飲んだ。一杯注いで、京一は椅子に座った。腰を落ち着けようとしただけだった。途端、倦怠感が全身にはびこり、目を開けていられなくなった。
不意に開けた視界の中央、真っ白な、傷一つないガードレールが走っている。他のものを見ようとしても、目も顔も動かせない。全身の感覚は確かだった。靴の下にはアスファルト、服の上には冬の空気。ただ、動くことができない。場にはエンジン音が響いている。傍に車があるのが知れる。清次の車だ。それくらいは、見ずとも分かる。分かるが、見ようとする。しかし顔は動かせない。振り向かねばならない。振り向いて、何かを言わねばならないのだ。そう思うが、動けなかった。
京一は、痺れる腕から顔を上げた。眩しさに目が痛み、数度まぶたをこすった。瞬きを繰り返し、保った視界には、流し台があった。ガードレールではない。それは、夢の中の光景で、流し台は現実の光景だった。自分はただ、椅子に座ったままテーブルに突っ伏して、寝ていただけだ。夢を見ていた。夢の中で聞こえたエンジン音が、外から響いていた。清次の車だ。それくらい、見ずとも分かる。確認する気も起きない。ここは清次の家だ。清次が帰宅するのは当然だった。
京一は頭重を感じながら、鼻をすすった。空気は生ぬるい。下着姿でも寒くはない。だが、乾燥しており、鼻の奥と喉が痛んだ。テーブルに置いてあるグラスへと、痺れの残る手を伸ばし、生ぬるい水を飲む。それから、テーブルの上、倒れていた箸入れを立て直し、零れていた二本の吸殻を灰皿に戻した。外したままにしていた腕時計を見ると、五時半だった。
煙草を吸いたかった。テーブルの上にはスーツの中から抜いた煙草の箱とライターがある。一本取り、咥え、火を点けた。枯葉の味がした。煙草の箱をテーブルに戻し、その横にある携帯電話を取り、開く。時刻は五時半のまま、着信もメールもない。閉じて、煙草の箱の横に戻す。エンジン音は途絶えている。京一は椅子から動かず、玄関を眺めた。見える位置だった。テーブルを挟んだ椅子の背もたれに、スーツが掛けられている。吊るしておくべきだったと思っているうちに、錠が外される音が聞こえ、玄関のドアが開いた。白いダウンジャケットを着た清次が、そこから現れ、化学繊維を擦れさせながら京一を見、長い黒髪を後ろでまとめているため露わになっている無骨な顔で、妙に愛想良く笑った。現実感に欠ける顔だった。
「寝てねえのか?」
その声も、低く、重厚なくせに、現実感に欠けていた。その問いを額面通りに受け取って、いや、と京一は言った。少しは寝た。へえ、と笑ったまま頷いた清次は、ダウンジャケットを脱ぎながら、突然眉をひそめ、うんざりしたようにため息を吐いた。
「ったく、参ったぜ。途中で雨が降ってきやがって、濡れちまった」、そして脱衣所に入り、声を大きくしながら、話を続ける。「出てくる奴らは揃いも揃って棒だの何だの持ってやがるしよ。そこまで狙われてんなら警備会社にでも頼めってんだ、和成の奴も。なあ?」
脱衣所から出てきた清次は、同意を求めるように京一を見た。それも額面通りに受け取って、そうだな、と京一は答えた。だろ、と頷いた清次が、目の前を歩き、デニムシャツの袖をたくし上げると、冷蔵庫を開け、だがすぐに閉めて、振り向いた。
「京一、飯どうする」
「飯?」、京一はそれだけ繰り返した。飯?
「俺、寝る前に食っちまおうと思ってよ。お前も食うなら一緒に作るぜ。まあ早いけどな。っつーか飯炊けてねえから冷凍だし。でもよ、腹減りまくってるわけじゃねえのに、何かこうどうしても、米が食いてえんだよな。あるじゃねえか、そういう時って」
冷蔵庫のドアに手をかけながら、深刻に言った清次が、で、と軽々しく問うてくる。
「どうする? 大したもんも作らねえが」
飯? 問われて初めて、空腹を意識した。久しくものを食べていないような気さえした。食うよ、京一は答えた。そうか、清次は頷き、冷蔵庫を開けた。
煙草を吸いながら、台所で動く現実感の薄い清次を眺め、それに言うべきことを考える。何か、肝心なことが抜け落ちている。清次との間にある、何かが欠けている。清次にこうも生々しさを感じないのは、そのせいだろう。記憶を、京一は辿る。昨日、ようやく納期直前でプロジェクトがスケジュール通りに進行し始めた。残業を切り上げて、女に会った。約束の女だ。約束は守らねばならない。秩序は平常でなければならない。約束を守り、女に会い、話をつけた。清次の話だ。二度と会うなと念を押した。女は始まりだった。欲望はそれに、見向きもしなくなった。欲望の行き先は、記憶が明らかにする。
蘇ったあらゆる記憶が全身の表皮にわずかな電気を走らせて、京一は煙草のフィルターを噛み、テーブルの上で拳を握った。それは、渇望による肉体の反射だった。感情は介在しなかった。自己への嫌悪も焦燥も、何もかもは抜けていた。残っているのはただ、褪せることのない興奮だ。短く濃いそれをやり過ごし、折れかけた煙草を灰皿に潰し、京一は立ち上がる。清次に女の話をせねばならない。後顧の憂いのないことを、知らせねばならない。約束は、守られねばならないのだ。そうしてこそ、すべては平常になる。テーブルを回り、台所で動く清次の後ろに立つ。電子レンジに何かを入れ、ガス台の上に水の入った小鍋を置いた清次が、気配に気付いて京一を一瞥する。
「味噌汁に入れたい時に限って、豆腐がねえんだよ」
「清次、俺はあいつとやったぜ」
感情が関わらぬ声で、京一は言った。ああ、と清次が、ガスの火を点ける。それから、言うべきことを言っていないと気が付いた。言うべきことは別だった。約束だ。女の話だ。男の話ではない。訂正しようと、京一は口を開いた。
「俺はあいつとやったんだ」、だが、思考を通らず言葉は出ていく。「三回やった。最初はここで、後は向こうで。ほとんどあいつはお前の名前を呼んでいた。随分良かったな」
そこで、清次は京一を向いた。不気味なほどに、平常な顔をしていた。それがしかまるのすら、平常で、生々しかった。
「お前、玉子焼きに砂糖入れんの嫌いだっけ?」
問いに、少し間を置いてから、嫌いじゃねえよ、と答える。そうか、と清次が冷蔵庫を開き、卵を取り出す。葉物と何かの冷凍品も手にした清次は、それを流しに置いてから、再び京一を向いた。
「入れながら名前呼んでやんのも、良いんだぜ」、得意げに、笑んでいた。「してやったか?」
問いは軽々しく、京一の思考を滑る。
「ああ」、言葉はそして、記憶が繋ぐ。「してやった。良かったよ」
清次はひどく満足そうにくつくつ笑うと、流し台の下からボールと玉子焼き器を取り出して、卵焼き器には油を敷いてガス台に置き、ボールには卵を割り入れ、けど、と声に疑念を上らせた。「俺の名前か。ってことは、俺はあいつに京一の名前を呼ばせりゃ良いのか?」
だろうな、何が良いのかも考えず、京一は言う。清次はボールに調味料を入れ、卵を割りほぐし、動きを止めぬまま、なるほどな、と喋り続ける。
「あいつにお前を呼ばせてやって、それで俺が入れてやると。お、いいじゃねえか。どうせなら、お前もいた方が楽しそうだ。クソ、もっと早く帰れてたらな。和成の野郎、二度と言うこと聞いてやるか。大体喧嘩とか好きじゃねえんだよ、俺は」
清次の話を、京一は理解する。理解ができる。和成の話ではない。男の話だ。清次の男の話だった。清次がその男に入れるのだ。自分の目の前で、自分の名前を呼ばせながら。その光景を、想像できる。それを見る自分を、想像できる。そこにはたまらない滑稽さがあるだろう。だから自分は笑うだろう。愉しむだろう。愉しめるだろう。今すぐにでもそれは、可能だろう。想像は記憶に由来する。行動は記憶を繋ぎ、記憶は行動を繋ぐ。
「清次」
呼ぶと、玉子焼き器に卵液を流し入れた清次が振り向いてくる。卵の焼ける匂いと、雨の匂いを漂わせる、生々しい、平常な顔だ。
「やってみるか」
自分も平常な顔をしているだろう。これは最早、平常なのだろう。眉間にしわを刻んだ清次は、天井を睨むようにしばらく見上げ、閃いたように顔を向けてくると、純粋に、陰惨に、頬を緩めた。
「飯、後でもいいか?」
ああ、と京一は頷く。空腹は、思考とともに遠のいている。
「先やっといてくれよ」、玉子焼き器に菜箸を差し込みながら、清次は愉しげに言う。「作れるもん作ったら、俺も行く。任せたぜ」
焼けた卵が菜箸でくるくると玉子焼き器の端まで巻かれ、空いた部分に卵液が流される。ああ、と京一は頷き、玉子焼きの完成を見届けぬまま、台所から離れる。何を任されたか、分かっている。奥につながる戸は閉めてある。その中に、男が寝ている。清次の男。清次に頼まれた男。清次に任された男。助けを求めるように、清次の名を呼んでいた男だった。自分が、そうさせた男だ。その男が、今度は自分の名を呼ぶのだろう。清次がそれを呼ばせるのだろう。それを自分は愉しむのだろう。既に愉しんでいるのだろう。
すべては平常で、すべては正しいのだ。
京一は、部屋の前、点けられたままのテレビとビデオの電源を消してから、上がる口角を抑えずに、戸を開いた。
(終)
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