ステークホルダー 1/2
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 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出す。蓋を開けて口をつけ、冷えた水分を風呂上がりの体に染み込ませながら、リビングの奥まで歩く。自然探究番組を映すテレビの前に据えてあるテーブル、そこに広げた一つの雑誌を、清次と中里は二人で見ている。中里はラグの上に座り、清次はその横のソファに座っている。京一はソファを後ろから回り、清次の隣に腰を下ろした。
「おう」
「ああ」
 清次は顔を向け声をかけてきたが、中里は雑誌に視線を落としたま黙っている。それは京一が風呂に入る前から二人が見ていた自動車雑誌のはずだった。しかし開かれているのは新車の試乗記事などではなく、男性器やら何やらの言葉が派手な色調で並んでいるページだ。いつの時代も衰えない性産業の広告ページ。スクープを世に送り出すにも、金がなければ始まらないらしい。
「お前、こういうの試したことあるか?」
 清次が軽々しく中里に問う。中里は仏頂面でページを見下ろしながら、たっぷり間を置いたのち、答えた。
「……ねえよ」
「俺もねえな。勃ちっぱなしになっても困るしよ」
 清次に比べれば、中里の口調は重さが際立つ。元々性的な話題が得意ではないらしい中里の、動きが今鈍いのはその苦手意識のためよりも、テーブルの上のグラスに入っていた液体を飲んだためだろう。薄めに薄めたウイスキーの水割り一杯。それが中里に、あらゆる反応を鈍らせるほどの酩酊をもたらしている。この男は、酒に弱いのだ。それでも京一が水割りを用意すれば空にする、中里にとって素面でこの家に泊まるのは、いまだに落ち着かないことなのかもしれなかった。

 何かにつけて京一に遠慮をしようとするのが、中里毅という男だ。初めて家に招いた時にも中里は、緊張した面持ちでリビングの床に正座したまま、京一が働きかけるまで延々と微動だにせずにいた。京一とて知己ではない人間に、子供の時分から付き合いのある清次のように自宅で自由に振る舞われたのなら、眉をひそめざるを得なかっただろう。しかし中里の慎みぶりは、それはそれで眉をひそめてしまうほど過剰なものだった。
 京一には生まれつき、気にかかる相手の世話を焼かずにはいられない、一種の傲慢さを喚起するほどの、限定的でその分強大で、手に負えないような支配欲が備わっている。とはいえ成長過程でそれを抑制する理性を身につけたため、四捨五入すれば三十路にもなる今では配慮すべき相手への干渉は節度ある範囲に留めているし、無作為に慈善をばら撒いて満足できる類の、幅広く一方的な自己愛とは縁がなく、仕事とドライビングと車の管理と私的な雑事に追われる日々の中、用事のない他人に干渉しようという衝動も、そんな暇も存在しない。ゆえに過度に遠慮をしてくるような、こちらと関わろうとする希望も厄介さも見当たらない相手ならば、わざわざ取り上げることもなく、勝手にさせておくだけだった。だが京一にとって中里は、そうもいかない相手だった。最初から、そうだったのだ。
 半年ほど前、いろは坂に現れた中里は、そこでのドライバーの頂点たる京一の立場を知ったところで、太い眉に太い目に太い唇、硬質で鋭い輪郭から、額に何房か残し中央から後ろに流された短めの黒髪にまで独特の濃さのある、清潔さは保たれながらも泥臭さの勝った風貌の、柄の悪さの端々に行儀の良さが垣間見える、大方粗雑な走り屋という態度を変えぬまま、群馬から栃木への来訪の目的が、その時不在だった清次にあることを主張し、清次との接触の希望を京一に語った。その際の中里の素朴さときたら、バトルで負かされた清次への熱い執念から車や峠や地元の仲間たちへの深い情愛まで、あまねく感情を、目の動き、皮膚の色、声の震え一つで分かりやすく、生々しく肌身に伝えてくるものだった。それだけに京一は、自分が目の前の男に何の感情をぶつける対象とも見られていないことを、意識しないわけにはいかなかった。自分がその群馬の走り屋の生きる世界にまったく影響を及ぼしていないことを、強く感じないわけにはいかなかった。
 清次を中里の地元に送り込んだのは京一だが、中里が完膚なきまでの負けを喫した相手は清次なのだから、中里が清次にのみこだわるのは、至極当然の心理だと言える。だが京一は、そこに何か引っかかるものを覚えた。清次は巧者でも、実力は京一よりも下にあるドライバーだった。その清次に中里は、自分以上の価値を見ている。その現実が、いやに引っかかった。自分の正確な価値を、その男に知られずにいることが、我慢ならなくなったのだ。子供じみた衝動だとは分かっていた。道理にもとる欲求だという自覚はあった。いつもなら、理性が無視してしまうものだった。だがその時京一は、結局それらをどうにも抑えかね、清次と会えずに意気消沈という態の中里を、他のメンバーにあてがうでも帰らせるでもなく、自らが相手にすることに決めていた。
 清次に負けているとはいえ、一つの峠で名を馳せる程度の速さは持つ走り屋だけあって、共に車を走らせる中で、中里が京一の実力を解し、ドライバーとしての尊敬を表すまで長くはかからなかった。それと同時に中里は、今に続く甚大な遠慮を見せ始めたのだが、残念ながらその時でも素朴さに変わりはなく、あまねく感情は京一に筒抜けだった。中でも大きかったのは、にわかに生まれたらしい、行き過ぎた好意だ。同じ男に向けるには厄介な性質のその感情は、本来制されるべきものだった。ゆえに遠慮によって京一を避けようとした中里の選択は正しかった。その正しさが、しかし京一を不快にさせた。正しい行動を取る人間を相手にしたいのならば、最初から中里に時間を割いてなどいない。正しくなくとも構わない。質が何であれ結構だ。折角抱かせた感情を、ぶつけられずに隠されるのは、ひたすら不快なだけだった。そういう相手だった。その目を向けさせたいと思う、向けさせた目を逸らされたくはないと思う、理性で抑えきれない感情を刺激され、自分から関わっていかずにはいられない、気にかけずにはいられない、京一にとって中里は、はじめから、出会った時からそういう相手だったのだ。
 だから遠慮を見せ始め、距離を取ろうとした中里のことを、手早く言いくるめて帰路を共にし自宅に上げさせ、床の上で硬直しきったらアーリータームズをロックで出し、それを一息で飲み干して潰れた後はベッドに移して同じ朝を迎え、シャワーを浴びさせ飯を供したし、その後中里が改めて清次を目的としていろは坂へ来るようになってからは、折々逐一遠慮されながらも家へ招き、先に風呂を使わせ次に酒を飲ませて緊張を解き、休憩のために泊まらせていた。京一にとって中里はまた、そうせずにはいられない、そうしてやらずにはいられないという、原始的な支配欲を、掻き立てられる相手でもあった。
 そのようにして半年を過ぎているが、京一の家に入った中里は、いまだ酒を口に入れるまで決して姿勢を崩そうとしない。その過剰な反応が、好意を抑制しようとする理性に起因していることも明白に分かるだけに、京一には非難の仕様もなく、ただなるべく早く中里の緊張を解き、なるべく遅く眠気を誘う程度のアルコールを、風呂上がりの中里に突き出すだけだった。

 今日は清次が立ち寄ってきたせいだろう、いつもよりも早く、中里の緊張は解けていた。清次と中里は、走り屋としての主義や趣味や立場や経歴が違っても、自尊心の性質が似ているためか、それなりに馬が合うらしい。互いに胸倉を掴み合っての歯に衣着せぬやり取りもするが、いつまでもいがみ合っているということもなく、煙草の火を貸し合っての砕けたやり取りもする。
 京一は、そこまで中里と接近することはない。中里が接近してこない。軽く肩がぶつかっただけでも大きな動揺を示し、長い会話を持とうともしない。だが酒が入った後、眠気に襲われる前までの中里はとても弁舌滑らかに、京一を褒める。ジムカーナ仕込みの運転技術を職人芸だと表することから、人格に気骨があるだの風貌に威厳があるだの出で立ちが堅実だの社会性が健全だの、果ては家事の手際が良いだの話が分かりやすいだの声が渋いだの何だのと、必ず一度は何かを大げさに褒めて、お前みたいな奴がいてくれりゃあ俺も助かるんだが、と切実な口調で言ってくる。
 中里がまとめ役となっている妙義山のチームには、手に余るほど自由気ままな走り屋が多いらしい。京一がリーダーを務めるエンペラーにも、清次のように指示を聞かずに突っ走ったり見境なしに他人に喧嘩を売ったりする始末の悪い輩はいるが、さすがに突如峠の美化に走ったり仲間内でブレイクダンスバトルを始めたりするような輩は存在しない。そういう突飛な連中を一応でもまとめるのに、『須藤京一』のように『走りに対しても他人に対しても真面目』で、『常識的』で、『威厳のある人間』がいれば助かるのだと、中里は毎回、濡れ髪が額を覆い幼く見せる紅潮したその顔と、酒に掠れ艶がかったその声に、行き過ぎた好意を晒して言ってくるのだ。それは過大評価に他ならない。そんな聖人君子はどこにもいないと京一は思う。いるのは打算で動き法も犯す、自律と合理性を重んじているだけの人間だ。だがそうして中里に褒められる度に京一は、頬を緩めようとする自分を勘違いするなと戒めながら、言い返しそうになる。なら、助けてやろうか。言いはしない。言ってしまえば引き下がれない。そして実際峠で助けてやろうとすれば、中里は尚更遠慮してくるに違いない。今以上に距離を置こうとするに違いない。それを避けるため、中里に褒められる毎回、京一は話を変えている。
 酔いが理性を駆逐している状態の中里は、京一にそうやって理性を駆使することを強要するほど素直になるが、その間の出来事を、酩酊の末に忘れるということもない。交わした会話や共有した時間は積み重ねられ、区切られている領域は少しずつ、近づけられてはいるのだろう。嫌われているわけではない。それは明らかだ。むしろこの上なく好かれている。だからこそ、中里がこちらに素面でずけずけ物を言うことはなく、ざっくばらんに笑うこともない。遠慮をしなければならないほど好いてきているからこそ中里は、清次と、あるいは群馬の突飛な連中との間にあるような、気兼ねのない関係を、京一とは築こうとしない。
 いつまでこの、引きようはなく、かといって押しようもない状態が続くのやら、酔えば素直になり、素面では清次やそれに類する仲間とならば近しく接する中里を見るにつけ、京一は常に漠然とした停滞感を覚えずにはいられない。だが、いつまでその状態を、自分が続けさせたいのかも見定められないために、現状維持をするしか法もなかった。
「あ、そうだ」
 と、清次がカーゴパンツのポケットを探る。そこからテーブルの上に放り投げたのは、直径五センチほどの長方形のプラスチック容器だ。色は薄いピンク。
「何だそれは」
 正体不明の物体がテーブルの上に置かれていても気分が悪いため、それを出したことで満足したように黙った清次に、京一は尋ねた。
「今日の朝、出勤途中に絡まれてるイタイケな少年がいてな。助けてやったら、貰ったんだよ」
 迷惑そうに顔をしかめながら、清次は答えた。黒い長髪を後ろで括ることで、野性的な容貌を無闇に強調しているこの男は、外見通りに力が強く、そこらの不良程度ならあくびをしながらでもあしらえる。京一がいくら制したところで、そういう物騒な事態も派手に面白がるのが岩城清次という男なのだが、今回はどうやら毛色が違うらしい。容器に目を凝らしてみれば、錠剤らしきものが透けて見えた。
「薬か?」
「じゃねえかな、クオリティパねえとか言ってたから」
 その言葉遣いに案の定の怪しさを感じ、ミネラルウォーターを飲んでから、京一は続けて聞いた。
「幼気な少年が、そんなもんを持ってたって?」
「まあ首にスミ入れてたし、持ってそうではあったぜ」
 顔に歪みを残しながらも清次は平然と言い、京一はソファに深く背を預け、ため息を吐いた。首に刺青のある少年のどこが幼気なのか、清次の単純かつ奇怪な表現方法は相変わらず理解に苦しむが、最早お決まりだ。それよりも、注意すべき点が他にある。
「お前はそんな素性の知れねえもんを受け取って、違法薬物だったらどうする。今の説明が、職質で通用すると思うのか」
「あー……いや、分かった分かった、捨てりゃいいだろ?」
 京一が厳しく睨んでみせると、清次は慌ただしく容器から掌に出した錠剤をゴミ箱に放り、何もなくなったことを示すように開いた両手を広げてみせた。
「どうせ捨てるつもりだったんだぜ、断って難癖つけられても面倒臭えから、貰うだけ貰っといてな。んで仕事に行ったら、そのまま忘れちまったってだけでよ、俺だってこんなよく分かりもしねえもん、ずっと持ってるつもりねえって」
 うろたえ気味に続けた清次が、気を取り直したように笑いかけてくる。そんなよく分かりもしないものなら自分の家で捨てろと言いたいが、この調子では帰っている間に処分を忘れてもおかしくはないし、仕方ない。後でトイレに捨て直そう。下水に流してしまった方が安心だ。京一は再びため息を吐き、ペットボトルを煽った。一息吐いて、ふと中里を見る。何かを指に持って、眺めていた。
 少し、嫌な予感がした。確か清次は、錠剤の入っていた容器を、開けていない。だというのに、清次はそれを開けずに錠剤を取り出し、ゴミ箱に叩き込んだ。つまりその時点で容器は開いていた。だが清次がカーゴパンツのポケットから出した段階では、容器は閉まっていた。京一が見た時にも閉まっていた。それから清次が中身を捨てるまでの間に、誰かが開けた。おそらく、中の錠剤を取り出すためにだ。自分でも清次でもないその誰かは、この場に一人しかいない。そこまで考えているうちに、中里は指に持ったものを口に入れ、噛んで飲み込んでいた。
「何やってんだッ」
 急いで隣の清次を越え中里の前に飛び出して、口に指を入れて無理矢理開かせたが、もう遅い。中には何の欠片すら残っていなかった。
「あっ、あ?」
 中里は混乱でか、喉に声を引っ掛けた。何もない以上、開かせていても意味がないので、京一は中里の口を解放した。
「お前ッ、まさかそれ飲んだのか?」
 清次の頓狂な声が後ろから飛んでくる。中里は不可解そうに口をさすりながら、ぼんやりと言った。
「ああ……どんな味がするのかと……」
 清次は唖然としたようだった。京一も唖然としかけた。中里が、酔っているのは分かっていた。そのために理性を失っているのも分かっていた。だがその状態の中里は、この家での日常となり過ぎていた。そこに何を仕出かすか分からない馬鹿馬鹿しくも恐ろしい危険性が常時あることを、すなわち味が気になったからと麻薬らしきものを食べるという幼児同然の真似をする可能性もあることを、京一はすっかり忘れていたのだ。脱力感がひどく、床にへたりこみそうにもなるが、黙っていられる事態でもなかった。京一は素早く冷静を確保し、中里に命じた。
「吐け」
「……あ?」
 反応は思わしくない。舌打ちする代わりに鼻から息を吐き、廊下を指差す。
「トイレに行って、吐いてこい。喉に指突っ込んででも、吐け。胃の中空っぽになるまで、とことん吐き出せ。いいな」
 言い聞かせるようにしてようやく、目をぱちくりさせた中里が曖昧に頷き、ゆっくりと立ち上がった。足取りは重いが、行き先は確かだ。まだ意識は残っているらしい。ついていってやろうかとも思うが、吐く場面にまで立ち入ったとして、翌日には今の距離を中里がより遠くするのではないかという懸念が、京一をためらわせた。とはいえ放っておける問題でもない。ひとまず五分待って、それで戻らなければ、確認しに行くべきだろう。
「大丈夫か、あれ」
 トイレへ消えた中里の姿を見送ってしばらくのち、訝しげに清次が言った。京一は気疲れに満ちたため息を、深々と吐いていた。
「だといいがな。成分も分からねえし、何とも言えねえよ」
「まあ、そうか」
 沈黙が落ちる。静かなものだった。清次が身じろぐ音が大きくして、次には気まずそうな声がした。
「なあ京一、俺だってあいつが飲んじまうって分かってりゃあ、あんなもん出してなかったんだぜ」
「分かってる。どうせ今思い出さなかったらお前はずっと忘れてただろうから、それはいい」
 そのまま間違って逮捕されるよりは、よほど心労が増えずに済む。大体まさか中里が薬物まがいの代物に手を出すとも思いはしない。そういう方面の不道徳に興味を抱くような男ではない。酔いが常識を奪っていることに関しては、自分ですら油断していたのだ。清次を責められる立場でもない。中里が錠剤を飲んでしまったのはもう終わったこととして、今はその結果から始まる事態に備えなければならない。だが、それにしても情報量が少なすぎる。京一は体をねじってソファに座ったままの清次を見上げた。
「その幼気な少年は、他に何か言ってなかったのか」
「他?」
「効果だとか持続時間だとか」
「それがなあ。何かは言ってたんだが、俺も店の時間に遅れそうだったからよ。それ気にしてて、よく聞いてなかったんだよな」
 清次は頭頂部を指で小さく掻きながら、いささか神妙に言った。失望はなかった。清次の一点集中型の性格を考えれば案の定というところだ。ともかく情報がない以上、粗悪品ではないことを祈るしかない。偽薬であればもっと良い。ただでさえ中里にはアルコールが入っている。最悪の組み合わせが中里をどうするかなど、想像したくもなかった。
 と、中里が戻ってきた。足取りは変わらず重い。四分経っていた。その間、えずく音は聞こえなかった。嫌な予感が繰り返される。中里はゆっくりと京一の前に正座すると、俯きながら首を傾げた。何かを、あるいはすべてを不思議がっている顔だった。できれば不思議がらせたまま、放っておきたかった。答えを知りたくはなかった。だがやはり、放っておける問題ではないのだ。京一は中里の顔を下から覗き込むように見ながら、聞く他なかった。
「吐いたか?」
「……何?」
 再度首を傾げた中里から、嘔吐物の匂いはしない。この案の定は清次より質が悪い、京一は確信しつつ、念を押した。
「吐いてないんだな」
「……ああ」
 思い出したように、中里は浅く頷く。清次が京一の内心を代弁するように、ため息を吐いて言った。
「お前なァ、何しにトイレ行ってんだ」
「いや、トイレだから、小便に……」
 清次が再びため息を吐く。清次にここまで人生の苦慮を感じさせるため息を吐かせる相手はそういない。京一も同じ種類のため息を吐いてしまう。中里はため息を吐かれていることをも不思議がっているような顔でいる。そろそろ頭の鈍い人間と接しているような気分になってくる。やはりトイレについていくべきだったのだろう。いや、まだ遅くはない。もう距離がどうのと言っている場合ではない。これは健康を損ないかねない問題なのだ。
「中里、立て」
 返事を聞く前に中里の上腕を取り、引っ張り上げるように立たせる。こうなったら最後まで面倒を見なければ、気が済まなかった。
「……あ?」
「吐かせてやる、来い」
 言いざまトイレへ向かおうとしたが、添えるだけにした手の中から中里の腕が抜けたため、京一はすぐに立ち止まっていた。何かと思い振り向けば、中里は座り込んでいる。腰から落ちた形だ。
「どうした」
 京一は同じ高さに腰を落とし、聞いた。だが中里は俯いて、答えない。
「おい、大丈夫か」
 横から焦った様子の清次が入ってくる。一応責任は感じているのだろう、素早い動きで中里の肩を掴んで背を真っ直ぐにさせた。
「んんっ……」
 途端、中里が際どい声を上げ、ぶるりと体を震わせた。肩をすくめた状態で止まるが、体の震えは続いている。まつげまで震えている。頬は赤らみ、口から荒い息が漏れている。これは、どうも、普通ではない。京一は顔をしかめて、清次を見た。清次も顔をしかめて京一を見た。お互いの視線が、嫌な予感とともに交わる。清次は顔をしかめたまま、中里に向き直った。そして肩を掴んでいた手で、そろりと二の腕を撫で下ろした。
「んっ……」
 一層肩をすくめた中里が、また際どい声を上げ、身をよじる。立てている膝が擦り合わせられる。つま先が曲がっている。吐き出す息には熱がこもっていそうだ。京一は顔をしかめ続けていた。嫌な予感が生み出す嫌な結論しか、頭に浮かんでこなかった。
「清次」
「……何だ」
 慎重に名を呼ぶと、慎重に返される。中里のこの状態が何を表しているのか、清次も薄々勘づいてはいるのだろう。だが、根拠には欠ける。
「その幼気な少年の言ってたこと、何も思い出せねえのか」
 清次は考えるような間を置いた。
「クオリティ……」
「それ以外だ」
 強く言うと、それ以外、と難しそうな声で言う。それが明るい声になったのは、たっぷり二十秒後だった。
「ああそうだあのガキ、自分で飲んでも女に飲ませてもイケるとかって……」
 清次は笑みを浮かべかけた豪快な顔を京一に向けた。京一はそれに冷たい目を送らざるを得なかった。すっと笑みを消した清次が、一転渋い顔をする。
「それかよ」
「それだ」
 お互いなぜか潜め気味にした声で、呟き合った。自分で飲んでも女に飲ませてもイケるとは、男女が一緒にいるという前提に立っての言い回しだ。そこでやることといったら、一つしかない。いつの時代も衰えない産業の源となる行為。つまりは性行為だ。清次が幼気な少年に貰った錠剤は、性的快感を高める効果のある薬なのだろう。しかも信じがたいほどの即効性だ。現にそれを飲んだ中里が、こうして発情してしまっている。
 京一は頭痛を感じ、目を覆うようにこめかみを揉んだ。これなら躁状態になってくれた方がまだ扱いやすかった。力には力で対抗できる。快感には、力では無理がある。
「ひっ」
 掠れた中里の、発情の端を感じさせる声が、突然上がったのはその時だ。顔から手を離し目の前を見れば、清次が中里の二の腕に置いていた右手を、その股間に差し入れまさぐっているところだった。
「こいつ、勃ってやがる」
 ぎょっとしたように清次が顔を向けてきて、京一はますます頭痛を感じた。こめかみを中指で押さえ、眉間に縦皺を刻みながら、清次を睨む。
「てめえ、何やってんだ」
「いやこれ放っとくのはちょっと、どうかって感じじゃ……」
 言いながら、清次が中里の寝間着の下を手前に引くと、そこから中里のペニスが冗談のようにもぞりと現れた。血の凝縮が分かるほど、それは見事に赤く膨れている。
「ねえか、なあ」
 清次は複雑そうに顔を歪める。放っておけない気分になっているのだろう。この状態で放っておかれる苦しみは、同じ男としてよく分かる。殊に中里は、まったくの他人でもない。同情を抱く程度には、その中身を知ってしまっている。
 だとしても、自分でやらせれば良いだけの話だ。平穏な場所で、一人で好きなように欲望を吐き出させれば良い。それが最も適切な行動だと、京一は分かっている。だがこの先、成分の知れない薬物が、中里をどのようにするのかという不安は見張っていない限りは付きまとうし、清次の気分も分かるのだ。放ってはおけない。そうだ。最初から、そうだった。目的を失って困窮している中里には手を貸さずにはいられなかった。緊張を操作できない中里には酒をやらずにはいられなかった。だというのに今、座っていることも辛そうな中里を、放っておけるわけがない。
 京一は目を閉じた。一つ息を吐き、残像が消えた視界を現実に戻す。清次は億劫げだが真剣でもある面持ちで、同調を求めるように京一を見ている。中里は変わらず苦しげに震えている。そのペニスは勃起したまま自然には衰えそうもない。この状況の、正しい対処法は自明の理だ。そして京一はもう一つの息と共にそれを吐き捨て、こめかみに当てていた手で、寝室を示した。
「やるにしても、ベッドでやれ」



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