忠告 1/2
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「ちくしょう、もう我慢ならねえ」
 平日深夜の妙義峠である。自然環境に悪影響な爆音をとどろかす男達が、その日もまた峠の駐車場でたむろっていた。車にはそれぞれ『NightKids』というステッカーが貼られている。
「どうしたんだよ、ヤス」
 隣で喉を震わせて声を出した、茶髪を後ろに撫で付けた若者然とした男に、パーカーにジーンズ姿のごく一般的な大学生といった装いの男が、どうでもいいけど一応義理で聞いとこう、というぞんざいな口調で声をかけた。
「中里の野郎だ」
「毅さんか?」
「連敗続きだってのにまだリーダー気取りやがって。あいつの善人面見てると腹立ってくるんだよ」
 ヤスと呼ばれた茶髪の男が、落ちていたアルミの空き缶を踏み潰しながら歯軋りする。
「つったってお前、俺らの中で一番速いのったら、やっぱ毅さんじゃねえかよ。上りは敵ナシ、下りだって慎吾さんと互角だぜ」
「GTR乗ってりゃ当然だろうがよ。車がいいだけだ」
 パーカー男は、また始まった、とばかりにため息を吐いた。
「だったらお前が毅さんに挑戦してみろよ。そんで勝てばリーダーは晴れてお前だぜ、こんなところでグダグダ言ってないでさあ、男だったらバシっと行動起こせっての」
「俺がRに勝てるわけねえだろ」
 ヤスが至極当然だというように言う。そういうところは物分りいいのかよ、とパーカーの男はうな垂れた。
「かくなる上は、実力行使だ。あいつ、もう二度と走れないようにしてやろうか」
「ああ? おいおい待て待て、さすがにそりゃヤベーでしょ」
「大丈夫だ、中里がいなくなろうがこのチームには慎吾さんがいる」
「だからあの人は上りは無理じゃねーか。落ち着けお前、いくら何でもそりゃ気が急きすぎだ」
 パーカー男は何とか仲間の暴走を止めようとするが、ヤスはうるせえ、と自分の言ったことに自分で熱くなっていった。
「二人がかりならさしものあの野郎だって、そう簡単に逃げられるわけがねえ」
「俺も勘定に入ってんのかよ! バッカお前、俺やらねーぞ!」
「一蓮托生だ。あの野郎を引きずりおろして……」
 パーカー男の拒否も虚しく、ヤスは一人拳を震わせ壮大な計画を立てようとしていた。
 と、そこへ、
「やめとけ。お前らじゃ束になっても毅にゃかなわねえよ」
 という呆れた声がかけられた。
「慎吾さん!」
 救いを得たりとばかりにパーカー男が、声の主を見てその顔をほころばす。正反対にヤスと呼ばれた男は仏頂面だ。
 濃い緑のTシャツにジーンズというラフな格好。頬まで伸ばした髪。ナイトキッズのダウンヒル最速を中里毅と競うその男、庄司慎吾が、冷めた目をして二人を見ていた。
「……慎吾さん、何すかそれ」
 不承不承に尋ねてくるヤスに、慎吾はこいつら若えなあ、と自分のことは棚に上げて端然と思った。
「あのな、あいつだって伊達にこのチームのトップ気取ってるわけじゃねえんだよ。それだけの力は持ってんだ」
「それだけの力、って……」
 パーカー男が語尾を濁して聞いてくる。慎吾は煙草を取り出し、火を点け煙を吐き出した。そして二人を意味深長に見ながら、言う。
「聞きてえか?」
 二人は顔を見合わせた。どうする、どうするってお前、気になるよな、うん気になる。アイコンタクトで合意した二人は、慎吾に向かって揃って言った。
「聞かせてください」

 その日はホームでのバトルで、相手チームはダウンヒルだけを望んできており、ナイトキッズからはめきめきと頭角を現していた慎吾がバトルに出ることとなった。ちなみに相手のチーム名は既に慎吾の頭から消え去っている。
 中里は当時から『妙義の黒い稲妻』として一部には有名だった。相手チームとしてはその中里とバトルをしたかったらしく、当日慎吾がバトルの相手だと知った相手チームのリーダーは、その時から既に頭に血を上らせていた。ちなみに相手チームのリーダーの名前だけ、慎吾はネタになりそうなので覚えていた。ヨシダヨシオ。ヨシダが名乗った瞬間、あちらこちらで笑いを堪える人間が見えたものだ。あまりにあまりな名前だった。
「どういうことだ。俺はあんたを指名したんだぜ」
 ヨシダは慎吾を出そうとする中里に噛み付いた。
「俺は考えておく、とは言ったが受けちゃいねえ。誰を出すかはこっちの自由だ」
「ふざけるんじゃねえ、フリー走行までやりやがって。騙したんじゃねえか」
「人聞きが悪いな。話を最後まで詰めなかったのはあんたらだろう」
 その時慎吾は自分を棚に上げといて、こいつは何て性格が悪いんだ、と思ったものだ。容赦のない計画性。だがしばらく接してみれば、それが虚勢にも似た体面作りだと分かった。
「それによ、こっちだって負けると分かってる奴出すほど馬鹿じゃねえよ。勝てる自信があるから出すんだ。あんたにもな」
「そんなガキごときが、俺に勝てるってのか? 冗談もほどほどにしろ。あんたよ、頭イカれてんじゃねえのか」
 当時から、けなされて黙っているほど慎吾は大人しい人間ではなかった。中里の一歩前に出て、顎を引き相手を下から睨みつける。口元に嫌らしい笑みが浮かんでいた。
「あんたよお、そこまで言うってんなら、俺に100パー勝てる自信があんだろうなあ?」
「あたりめえだ。俺は下りじゃ誰にも負けたことがねえんだよ」
「だったらよ、あんたが負けたら『私は妙義の庄司慎吾にダウンヒルで初めて完膚なきまでに負けました』て言って、土下座してもいいんだよな。絶対勝てるんだろ?」
 ニヤニヤと悪巧み満載の顔をして言う慎吾を、中里がおい、といさめる。だがヨシダは呆気なくその挑発に乗った。
「上等だ、てめえの方こそ負けたら土下座して俺の靴を舐めやがれ」
「いいじゃねえか、やろうぜ」
 何て低レベルな条件だ、と中里は頭を抱えた。
 そしてバトルは始まった。

 中盤まではヨシダ先行、そこから慎吾があっさり抜いて、大きく差をつけた。要するに、慎吾の圧勝だった。
 車から降り、待っていた中里たちの元に颯爽と歩いてきた慎吾は、相手が弱すぎてつまらなかった、などと言いながらも、その顔に勝利による恍惚を乗っけていた。
 それに比べ、ヨシダは歯をギシギシとかみ鳴らし、今にも狂いかねないようなひどい顔をしていた。己の勝利を確信していたのだろう。そういえばバトルを始める前、『俺は今まで下りじゃ負けたことがねえんだぜ』と自信満々の笑みで言っていたっけなあ、と中里は思い出していた。
 しかし、経験上こういう手合いは危ないことを中里は理解していた。柄が悪いと評判のナイトキッズには、往々にして似たようなチームとのバトルがセッティングされる。群馬県内で最も柄の悪いチームを決めようとしているのか、と疑問に感じるほどだ。今回もそれは変わらず、相手の代表格であるヨシダは、水色の下地に鮮やかなひまわりが映えているアロハシャツを第二ボタンまで開けており、その下に原色真っ赤な半ズボンとくたびれたスニーカー、脱色してから時間が経っているのか根元と毛先の色の差ががハッキリクッキリしてしまっている金髪で、その下に一重の三白眼と薄い鼻にピアスを入れて、首から金の鎖を垂らしてブルーのサングラスをかけていた。要するに、チンピラだ。皮膚はたるんでおり、それほど若くないことも窺い知れる。道端で見かけたらあまり関わりたくない人種であった。
 後腐れなく別れることは流石にもう無理だろうが、さっさと別れてこれ以上事態を悪化させないようにしとこう、と中里がヨシダに歩み寄ろうとしたところ、先にずかずかと慎吾が向かってしまった。止めないと、と思った時にはもう、
「何だよ、まだ何か用があるのかよ。負けたんだからさっさと帰りやがれ。俺らはまだ走り込みするんだよ。てめえらみてーなヨソモンが居たら、やりにくいったらしょうがねえ」
 と慎吾が煽っており、ヨシダは元より引き連れられてきた少数精鋭らしいメンバー達もまた、何だと、だのと憤る。なぜか皆身長が180くらいあるんじゃないかというほど背がでかい。割に肉がないのは今時の若者の特徴なのか。俺より体重二桁低いんじゃねえか、とどうでもいい心配をしてから、いやそうじゃなくて慎吾だ慎吾、と中里は慌てて慎吾に駆け寄った。その間にヨシダが慎吾に対抗していた。
「ふざけんじゃねえ、てめえ、ホームだからってイカサマ使ったんじゃねえだろうな」
「イカサマだあ? あのよお、俺のケツくっついてきてたのはてめえだろうが。イカサマ使ってたかどうかその目でよおーく確認したんじゃねえの? 大体走りでイカサマなんぞどうやって使うんだっつーの。車のケツからオイルでも撒き散らすかァ? ゲームじゃねーんだからできるわきゃねーだろ、ボケ」
「な……」
 ヨシダの対抗は虚しく終わった。二の句も継げない状態だ。
 やっと慎吾の元に来た中里が制止の声をかける。
「おい慎吾、やめろ」
「うっせえ黙れ」
 中里が慎吾の肩に置こうとした手は払われ、胸を押されて後ろにのかされた。慎吾の口調は言葉の苛烈さとは裏腹に落ち着いていた。苛立ちで頭の回転に磨きがかかっているようだ。吐き出す言葉にも毒の花が満開となる。
「気付いていないみたいだから教えといてやるが、てめえが負けた理由はてめえの技術が未熟だからだよ。負けた責任ってえのは他人じゃなくて自分に全部あるもんなんだ。例え相手がイカサマしたってそりゃ気付かなかった手前に責任がある。そういう情報を引き入れられなかった手前に、な。それも分からねえ奴が、一丁前に走り屋気取ってんじゃねえ。もういい、土下座なんてしなくてもいいよ。そこまでするのがカワイソウなくらい、てめえは遅すぎる。ヤメロヤメロ、てめえに芽ェなんて出ねえ、どうせまともな職にも就いてねえんだろ? その面見りゃ分かるぜ、あんたもう車なんぞやめて、ちゃんとした社会人なれるように努力しな。それが世のため人のためだ」
 反論を言う暇も与えず、慎吾は一気にまくし立てた。
 黙って聞いていたヨシダは、不意に限界まで締め付けていた歯や眉間や拳に入れていた力を緩め、顔の表情を一瞬にして殺した。そして据わった目をして慎吾を睨みつけている。やばい、と思った中里がもう一度慎吾の肩に手をかけようとした時にはもう、ヨシダが慎吾に飛び掛り、その拳が慎吾の頬にめりこみ、慎吾の体が中里に向かって倒れこんできた。ギャラリーの悲鳴、相手のメンバーの快哉、ナイトキッズのメンバーの驚愕の声が一挙に上がる。
 あちらで「ヨシさん、最高!」、こちらでは「慎吾さんに何しやがる!」、そちらでは「うわー、やっぱ柄悪いなあ」、またまたあちらでは「そいつが先にヨシさんをブジョクしたんじゃねえか!」、などという汚い言葉が飛び交い始めた。そんな中、
「慎吾、大丈夫か」
 自分と大して変わらぬ慎吾の体を何とか後ろから支えた中里が声をかけるも、慎吾は顔を真っ赤にして、左の鼻と口端から血を流しながら叫んだ。
「……っくしょ、あのクソ野郎がァッ!!」
「待て、落ち着け慎吾!」
 ヨシダへお返しとばかり殴りかかろうとする慎吾を何とか羽交い絞めにして、止める。その間にもナイトキッズのメンバーが相手メンバーとでかい声で言い合いを始めた。一触即発、いつ乱闘になってもおかしくない。
「おいてめえら、落ち着け、やめろ! 高村、水野! そいつら抑えとけ!」
 命令しつつ慎吾の馬鹿力を抑える中里の額には汗が浮いている。ちくしょう、もっと早く止めるべきだった、俺としたことが。自責の念が募る。こいつの性格に難があることをすっかり忘れていた。他人を煽るだけ煽ってキレさせて、自分のペースに持ってく奴だったんだ。ああ奴の走りがすげえからって次のリーダーはこいつだな、なんてちょっと自慢げに考えていた俺の馬鹿め。
 ヨシダが完全にブチキレた目をして一歩、また一歩と近付いてくる。ぞお、と中里の背筋に悪寒が走る。こういう目をした人間は、人を殺せる。
「待て、あんた、いや悪かった。こいつも悪気があって言ったわけじゃねえんだ、な。待ってくれ。謝る、謝るからその足をとりあえず止めてくれないか」
 中里は慎吾の口を塞いで腕を押さえながら頼み込んだ。心底からの願いは通じ、目は相変わらずイッてしまってるが、ヨシダの足はぴたりと止まった。
 その様子を見て、ギャラリーは他人事だとばかりに「やっちまえー」「いけいけ」などと無責任に煽り立てる。黙りやがれ、てめえらこいつの恐ろしさ分かってねえんだろうが、チクショウめ。中里の額に青筋が浮かぶ。
 そんな中里の苦労も頭に入らず顔を真っ赤にした慎吾が、口元を押さえていた中里の手を引っかいて離させると、唾をまきちらしながら叫んだ。
「この馬鹿、じょうっだんじゃねえ、この俺を殴りやがって、誰が謝るかボケ! 悪気も何も、俺は本当のことしか言ってねえぞコラ、てめえなんぞクズだクズ、生きてたって仕方ねえ、いっそ俺が殺してやる!」
 これで中里の必死の気遣いも水の泡となり、ヨシダの足が再び進み出した。
「ばッ、馬鹿はてめえだ慎吾! 謝れ、謝っちまえ! 揉め事起こすなんざそれこそ馬鹿のやることだ、慎吾!」
「うるせえ黙れクソ毅、てめえなんぞに指図受ける筋合いねえ! てめえも殺すぞ!」
 そうして僅かに自由になって咄嗟に振り上げた慎吾の右肘は、中里の鼻っ面にヒットした。

「あ」
 神のいたずらか、その現場をそこにいた全ての人間が目撃していた。
 慎吾を抑えていた腕を離し、中里は顔の中心を抑えて少し後ずさった。近付いていたヨシダの足がまた止まった。ギャラリーのはやし立てる声も、ナイトキッズと相手チームの言い争いも、風の音も虫の声でさえも、その時は全てが止まったようにその場にいた全員が感じた。静寂が奇妙に場を支配する。
 中里は鼻から流れ出ている血を確認して、手首あたりでそれを拭い、鼻の下から口にかけてを血でてらてらと濡らしながら、顔を上げた。
 ……目ェ、据わってやがる。
 慎吾は中里のその顔を見て、反射的に後ろに下がりそうになった足をその場に縫い付けた。そういやこいつが本気でキレたところって俺見たことねえかも、と背中を冷や汗で濡らしながら慎吾は考えていた。
「何だよ、今のは偶然だぜ。大体てめえが止めるのが……」
 いけねえんだ、と言う前に、中里は慎吾の目の前まで自然に歩いてきていた。その表情には何の含みもなかったが、目だけが奇妙に温度を感じさせない。
 なあ慎吾、と言った中里の声は、とてつもなく冷ややかだった。
「俺は、ナイトキッズを柄が悪いだけのチームにゃしたくねえんだよ。そりゃあな、そういう奴らが集まってるのは確かだがよ、集まってる目的ってのは、つまるところ、走りだろ。だから、それに関しては真摯であるチームでいたい、っていつも考えてるんだ」
「……だから何だ」
「だから、そうそうお前に暴れられると、こっちとしても困るんだ」
 保護者のような言葉を他人のように冷徹に言った中里に、慎吾は瞬間頭が焼ききれるような怒りを覚えた。
「ふざけんなァ!」
 叫び、繰り出した慎吾渾身の右ストレートを、中里は軽々と左に避けた。勢い余って前のめりになった慎吾の後ろに素早く回り、首に腕を回してスリーパーホールドの形を取る。耳の後ろで囁いた。
「誰が、ふざけてるって?」
 まだ力はあまり入っていないが、それでも気道が潰され頚動脈も完全に押さえられている。慎吾は死を間近に感じた。
「わ、分かった、暴れねえ。暴れねえから、この腕離せ」
「その言葉、忘れるんじゃねえぞ」
 中里は慎吾の首を解放し、背を押して後ろに下がらせると、足を止めたままのヨシダに振り向いて一歩近付いた。
「すまんが、こいつにはこっちからきつくお灸を据えておく。それで勘弁してくれないか」
 時折流れ出る鼻血を拭いながら平静に言う中里を見て、ヨシダは怒りをどこにぶつけるべきか迷った。沸騰した脳味噌が、徐々に冷えていくのが分かる。
 しかし、メンツってもんがあるんだ、と思う。このまま『じゃあさようなら』と和やかに引き下がれば、後ろに控えている後輩たちは馬鹿にしてくるに違いない。力で上下を定める関係は、その点ひどく残酷だ。
 ヨシダは気を入れるため拳を強く握り締め、日常の表情を出す中里に向かい、あのよお、と切り出す。
「本来の筋としちゃあ、俺がそいつを叩きのめさねえといけねえんだよ。分かるか、分かるだろ。あんたらがそいつシメちまっても意味ねえんだ。コケにされたのは俺だぜ。俺がそいつやらなきゃ、俺の気だって済まなねえし、うちの奴らの誰も納得しねえよ」
 ヨシダの後ろに控える長身軍団は、今にも飛び出さんばかりにいきり立っていた。中里はそれを一瞥しただけで、ヨシダにすぐ視線を戻した。
「しかし、やられると分かっていた上でこいつを差し出すわけにはいかねえ」
「だから、あんたと俺で白黒つけようじゃねえか。いいぜもう。それで俺が負けたら、男らしく何もなかったことにしてやる。ただしあんたが負けたら、その男はこっちに貰うぜ」
 結局あのクソ生意気なガキをこっちに貰い受けるには、庇うこいつを倒さなきゃならねえんだ。大丈夫、俺だって伊達に十何年もケンカしてきたわけじゃねえ、とヨシダは己を奮い立たせる。だがそれでもどこか、割が合わないような違和感がついた。
 中里は面倒くさげに眉を絞ったが、一拍置いて表情を緩めると、分かった、と頷いた。
 場を覆う奇妙な静けさは続いていた。
「いいぜ、かかってきな」
 昼飯にしよう、というような調子で中里が言い、ヨシダはそれに静まった怒りを呼び起こされた。本気のケンカだ。下手したら死ぬかもしれないというのに、この野郎、馬鹿にしてんのか。噛み締めた唇が切れた。
 ――さっきあそこで尻を立てて倒れている男は、いきなりパンチをやったからいけないのだ。ケンカに勝つならまず金的だ。それをかわされたら、下に意識いってるうちに、頭掴んで口にでも頭突きしてやりゃあ、歯も折れる。それで大概は戦意喪失する。しなかったら繰り返せばいい。顔を殴られれば、誰だって嫌になる。ヨシダは真っ赤な顔をして、こめかみから汗を垂らした。
 中里は構えもせず突っ立っている。ヨシダもまた構えず、ゆっくりと散歩するような足取りで近付き、間合いに入ったと同時に、股間に向けて足を出した。
 中里は後ろに一歩跳んで、それをギリギリかわした。ヨシダはよしイケる、と足を戻して中里の頭を掴もうとしたが、その時にはもう、中里が男の懐にまで入ってきていて、ヨシダのアロハシャツの襟を掴んでいた。この時のヨシダの不幸は、カッコつけるためにシャツを第二ボタンまで開けていたことだ。
「なあ!?」
 そのまま中里は、相手の下に滑り込んで、右ひじを胸に当てて一気に後ろを向いた。ヨシダの体が宙に浮いた。奇妙な浮遊感に襲われたままヨシダの脳裏に様々な思考が瞬いた。俺は浮いてる、地面そして次に空、背中がぶつかるんだ、こりゃあれじゃねえか、柔道とかの背負い投げ、ぶつかる、背中か頭、俺、死ぬ?
 しかし、ヨシダが背中からコンクリートの地面にぶつかる前に、中里が襟を掴んだままヨシダを上方に引いていた。ヨシダの足だけが地面についた。代わりに必然的に襟で首を締められ、ヨシダは苦痛に唸りと叫びを上げた。
「は、離してくれ!」
 中里がヨシダの襟を離すと、30cmほどの高さからヨシダの体が尻から地面に落ちた。喉を抑え咳き込むヨシダを、手をパンパンと払った中里が上から見下ろしていた。
「俺の勝ち、でいいな」
 ヨシダは涙目のまま、恐怖のあまりあっという間に中里の前に正座になって、「はい」と殊勝な声を出した。中里はその姿を満足そうに見て、男の前にしゃがみ、その肩に手を置いた。
「あんまり、無茶するんじゃねえぞ。怪我したら、痛いだろ」
「……はい」
「あいつの言ったことは気にするな。もう、こんなことはやめろよ。死ぬぞ」
「はい、すみません」
 ヨシダは恐怖と安堵と恥辱の涙で顔を濡らしていた。ぽん、と肩を叩いて立ち上がった中里に向け、周囲から自然拍手が送られていた。その拍手の音に、中里がヨシダの首から落ちたサングラスを割った音は、かき消されたのだった。

「あの後あいつ、割ったサングラスを弁償するべきか本気で悩んでてな、俺は思わず頭引っぱたいちまったよ。まあもうキレ終わった後だから説教だけで終わったけどな、内容も覚えてねえ」
 慎吾は短くなった煙草を地面に落とし、すり潰した。
「しかし、俺だって散々ケンカ慣れしてたけどよ、あれだけ素早く終わったのは初めてだったぜ。殴られもしねえでよ。あん時ばかりは『こいつにゃかなわねえ』って思ったな」
 今じゃそんな気さらさらねえがな、と続けて、慎吾が人の悪い笑みを浮かべた。
「だからお前ら、あいつにゃあ手ェ出すなよ。素手じゃ不意打ちでも二人がかりでも、どうにもならねえよ。力が違う。ま、夜道で後ろから鉄パイプでぶん殴る分にゃあどうとでもなるだろうけどな」
 なるほど、とヤスが真面目な顔をして頷いて、やるんじゃねえぞ、とパーカー男がつっこんだ。その様子を目を細めて見た慎吾は、まあ、と二人に背を向けた
「俺じゃねえ誰かがあいつぶっ潰しやがったら、俺はそいつを地獄に叩き落としてやるだろうけどなあ」
 そう言った慎吾の声はやけに優しげで、二人の足をたちまち凍らせた。慎吾はそのまま自分のEG6に向かって、軽やかに歩き出した。
 何となく、二人して黙った。パーカー男が煙草でも吸おうとすると、なあヨウヘイ、とヤスがひどく弱々しい声を出した。
「何だ?」
「やっぱさ、俺、地道に速くなるようにするよ」
「そうしとこうぜ。俺も命は惜しいよ」
 不意に風が吹いた。二人は全身を襲う寒気を、風のせいだと思い込むことにした。

 慎吾はEG6に乗り込んでから、話しすぎたことを後悔をした。奴の格が上がっても俺の格が下がっちゃ意味がねえ、と思いながら、エンジンをかける。
 だが、ヤスとヨウヘイの話を耳にして、ふと思い出したあの夜のことは、とても自分の胸だけにしまっておけそうもなかった。さほど昔なわけでもないが、ひどく懐かしい。慎吾はシートに背を預け、頭に浮かぶ映像を追いかけた。

 バトルもケンカも終結し、人気のなくなった駐車場に、慎吾と中里の二人だけが残っていた。
「お前、何かやってたのかよ」
 EG6に寄りかかった慎吾は、右の鼻の穴にティッシュを詰め込んで同じように32に寄りかかっている中里を、恨めしそうに見た。慎吾の血は既に止まっている。
「高校の頃、柔道をちょっとな。その頃から暇な時は近所の知り合いに峠まで連れて来られててよ、揉め事があると駆り出されてなあ。お前がここ入ってきてからは俺が出張るほどのこともなかったんだけどな」
 苦笑しながら中里がなかなか饒舌に語る。ケンカをした興奮がまだ体を覆っているようだった。
「何だよ、そういうことは早く言えよ……ビビったじゃねえか。いきなり締めてくるんだから」
「まさかお前を投げ飛ばすわけにもいかねえだろ、そっちの方が危険は高えんだ」
 地面アスファルトだしよ、と足でこすりながら中里が言う。慎吾は落ち着いている中里の様子に苛立った。
「チクショウ、てめえに負けるなんてな。腹立つぜ」
「バッカヤロウお前、ああいうのは勝ち負けじゃねえんだよ。ケンカなんてするもんじゃねえ、怪我したら痛いし」
「血も出るし、かあ?」
「その通り」
 満足げに中里が頷く。その口元と鼻の下に、拭いきれていない血が微かにこびりついている。勝利の余韻も奪い取られ、更に走りではないにしても敗北を与えられて、慎吾はやり場のない苛立ちを抱えていた。といっても物に当たるレベルでもないし、他人に愚痴るほどでもない。ならやっぱ元凶のこいつで解消するしかねえ、と元凶が自分であることはすっかり忘れた慎吾は、妙な理論を組み立てた。
「おう、毅。ちょっと来い」
 と人差し指で、チョイチョイ、と呼ぶ。
「てめえが来いよ」
「あー、まだどっかの誰かさんが俺の首締めたせいで、頭がクラクラするなー」
「本気で締めてねえだろうが、ったく、分かった分かった」
 顔を不愉快で歪ませて、中里が慎吾に近付く。一歩距離を取って、どうした、と言う中里の肩に手を置いて、まあもう少し、と呼び込む。
「目にゴミでも入ったか?」
 見当外れを言ってくる中里の肩に手を置いたまま、一気に顔を近づけた。
「しん」
 ご、という言葉を吐けず、中里は硬直した。慎吾の舌が中里の鼻の下から唇、顎にかけてなぞっていた。ざらついたヒゲの感触と、鉄の味が慎吾の舌の上に乗っかった。ある程度血を舐めとって顔を離すと、半開きの口に半開きの目をした、女どころか誰が見たって引くに違いない中里の顔がそこにあり、慎吾は堪えきれずに笑ってしまった。
「ぎゃ、ははは、てめ、何て顔してやがんだ! ひっでえなあオイ!」
 指をさし腹を抑えて爆笑する慎吾と、濡れたせいで風がよく当たる口元の肌寒さのために、中里は我に返り、顔を真っ赤にして叫んだ。
「てめえ慎吾、ぶっ殺す!」
「冗談じゃねえ誰が殺されてたまるか、油断したてめえが悪いんじゃねえか! 自業自得だ!」
「ふざけんじゃねえ気色悪ィことするんじゃねえよクソッタレ、だあッ、ティッシュ貸せティッシュ!」
「てめえの車に積んであんじゃねーの、っつーかティッシュ貸すってお前、返せんのかよ?」
「うっせえこの野郎、覚えてやがれ絶対その内締め上げてやる!」
「やれるもんならやってみろ」
 言って慎吾は速やかにEG6に乗り込むと、ユデダコのような顔をした中里を放って、さっさと峠を下りた。

 その後慎吾は殺されもせず、それに類する事態もあったが、何とか無事今日まで生きてきた。
「しかし思い出しちまったもんは、仕方ねえよなあ」
 ヒゲの感触も血の味も、とても気分が良いとは言えないものだった。だが、確かにその時、体の芯は反応していた。それすら思い出して、慎吾は顔を歪めたが、慌てふためく中里を想像して、力を抜く。
「明日いっちょ、からかってやるか」
 その慎吾の意図を中里が知るのは、翌日計画が実行されてからのことであった。


2004/04/15・2008/06/08
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