忠告 2/2
幸福とは、存外他愛もないことから生まれるものである。
ある男を例とすれば、買い置きがないと思っていた煙草を一箱部屋の隅で見つけただとか、朝ジョギングをしていたら10円を拾っただとか、賞味期限が大幅に切れたものを食べても胃の調子が優れていただとか、上司と飲みに行っておごってもらったとか、タイヤを買う時会話の流れで値切ってみたら少しだけ下がったとか、自己板金がうまくいったとか、そういうことだ。チリも積もれば山となる。堆積された幸福は、人生を豊かにする。
また、俗に幸福と不幸の量は人生の総決算において均等であるとも言われる。つまり例にしたその男に堆積されてきた幸福の分、不幸が訪れるというわけだ。
その不幸は幸福と同様、チマチマと降ってくるかもしれないが、ある日突然ドカンと一発やってくるかもしれない。
そして例にしたその男、妙義山で暇があれば愛車スカイラインを走らせている中里毅は、堆積された幸福によってほんわかと平和に過ごしていたある日、突如ドカンと一発強烈な砲撃を食らうこととなった。
場所は妙義山、砲撃者は中里と腐れ縁的関係をいつの間にか築いてしまっていた、頬骨が出たいかにもひねくれものという顔を持つ、自称妙義山のダウンヒルスペシャリスト、庄司慎吾。そしてイレギュラーな人間が一名。被害は以下の通りである。
何気ない会話が展開されていただけだった。その日はなかなか調子が良かった皮ジャンの中里に、チームに入っていないが妙義山でそこそこ走っている二人、松田という唇の厚いえらの張ったリーゼントのジーンズ男と、梅木という眉が薄く目の細い天然パーマのセーター男に、加害者たる紫のハイネックを着たふてぶてしい面構えの庄司慎吾を含めた何の集団かパッと見では判断しかねる四人でもって、発表された各社の新車の批評などを酒飲み話のような無責任さで交わし、主義の相違からひとしきり争論した後、息抜きに女の話をした。勢いそのまま話はそれぞれの女性遍歴へと発展し、一人童貞である梅木に的が絞られ、慰めたりからかったりしたところで、まあいいじゃねえか、と中里の肩を叩いた慎吾が悠々と言った。
「俺はこいつと、キスしたことがあるんだぜ」
「はあ!?」
大仰に振り向いた中里に慎吾は不敵に笑うと、話が飛躍したため反応しあぐねている松田と梅木の二人に、まあ聞け、と腰を下ろすよう誘導し、自分も地面にしゃがみ込んだ。
「あれはな、春のことだ。俺はたまたまこいつに殺されかけてな、これは一つ仕返しをしてやらなけりゃならん、と思ったわけだ」
「待て慎吾、何の話だそれは」
慌てて中里もしゃがみ込み、まったく記憶にない話をさもありなんと語る慎吾に詰め寄ろうとしたところ、手の甲でぴしゃりと顔を叩かれ機を逸した。
「しかし体に教えてやろうと思ったって、その時は不覚にも実力差があったからな。ならどうするかと考えて、俺は思ったよ。体に教えるといったって暴力だけがすべてじゃない。相手の隙を突くってことこそ、相手の命を奪うってのに似た勝利につながるんじゃないかとな」
うまいタイミングで抑揚をつける聞き手の関心を見計らいながらの慎吾の語りに、二人は耳を奪われていた。中里一人、叩かれた顔を押さえ憤懣も押さえながら、これは何の話だ、と訝っていた。
「で、その考えをもとにして、俺はこいつの隙を縫って見事に唇を奪ってやったんだよ。しかしなァ、こういう男くさすぎる男とキスなんてするもんじゃねえぜ。唇は乾いてるしヒゲは当たるしヤニくせえし汗くせえし、良いところなんてひとッつもねえ、最悪も最悪だ。オナニー中に思い出したら萎えちまって悲しくなったくらいだよ。だから、それに比べれば二十過ぎて童貞なんて大したことじゃない。まあ二十五過ぎてったら厳しくなるだろうがな」
飛躍にも程がある慎吾のまとめではあったが、物事に条理を求めない二人は「なるほどなー」と単純に納得していた。中里にしてみれば身に覚えのない話を勝手にされ、更に感触を馬鹿にされ怒りしか湧かないという状態であったが、痛む鼻を押さえていて、ふと、身に覚えを感じた。
春。殺しかける。首締め。サングラス。鼻血。舌。
あ、と中里は声を上げ、目を剥き出しになるほど強く見開き、慎吾を向いた。慎吾はニヤニヤと得意げに笑っていた。
「お前、それ、違うだろ。ありゃただ舐めただけじゃねえか」
「唇と唇の接触をキスっつーなら、キスだろ。接吻、チュー」
「げえ、言い方変えて強調すんな」
「というのが俺の汚点なわけだ。君たちもだね、あれだよ。怒りにかられて変なマネをしちゃいけないよ」
はーい、と慎吾と似たような笑みを浮かべ中里を見ながら、松田と梅木は活きの良い返事をした。矛先が中里を向いていた。俺の方が最悪だ、と頭を下げた時、己を呼ぶ声が聞こえたような気がし、中里は気のせいかと思いながらもそっと顔を上げた。
「中里さん」
慎吾と二人の向こうに、見知らぬ男が立っていた。三人がうお、と今更その男に気付いてしりもちをつきそうになりながら身を引いた。
足音も気配もなく男は現れた。光沢のある灰のダブルスーツをピシッと決め、てらついた漆黒の髪を綺麗に後ろに撫で付けている。一重の目から覗くのは迫力のある瞳。薄く通った鼻に荒れた唇。鋭い顔を覆う皮膚は老いを感じさせるものの、まとう雰囲気の落ち着きと寸分のたがいもなく合致していた。
見知らぬ男だった。
「……どちらさん、でしたっけ?」
そのどこか高級感を漂わせる男に多少気圧されて中里は座り込んだまま尋ねてしまい、慌てて立ち上がると、いやすいません、と謝り、もう一度尋ね直した。
男は柔らかく笑い、その節はお世話になりました、と腰を直角に曲げた。中里は戸惑って慎吾と二人を見たが、それぞれ首を振るのみだった。
見知らぬ男だった。
見知らぬ男?
中里は不意に男の容貌に、何かを感じた。それは先ほど感じた身の覚えと似た懐かしさだった。中里は思わず慎吾を見た。慎吾は驚愕の顔をした中里を不審げに見ていたが、あ、と言って、腰をおもむろに上げた男を見た。
男は慎吾を見て、細部の筋肉が歪んでいる不調和な顔でもって、にっこりと笑った。
「そちらも、その節はお世話になりまして」
ヨシダヨシオ、と慎吾が呟いた。
「お礼をしたかったんです」
軽い挨拶を交わしたのち、木の生い茂るフロントガラスの向こうを眺めたまま、吉田は言った。
二人で話がしたいと言われ、三人を置いて移動した先に吉田のこの傷一つない車があった。立ち話は何だからということだったが、この車を見せたい意もあったのかもしれない。中里の曖昧な記憶では吉田は以前プレリュードに乗っていたが、今ではフルスモークのセルシオだった。言われるがままに乗り込んでみれば、内装も最高級ものだった。あの一件から一年弱しか経っていない。本革のシートの感触に気後れしながら、こいつに何があったんだ、と助手席から中里は吉田を窺う。
運転席に深く腰掛け、それ以上何も口にせず微動だにもしない吉田の顔は、ゴムでできたような生々しさがあった。
「礼ってのは、何なんだ」
沈黙に耐えかねた中里がそっと問うと、吉田は中里を向いて、ゴムのような皮膚を伸ばし、ゆったりと笑った。
「俺、あなたに投げられてからね、死んだ気でもう一辺頑張ってみようと思ったんです。世の中広い。あなたみたいな人もいる。逃げなきゃならないほど悪いもんじゃない。それを教えてもらいましたよ」
そりゃ良かったな、と言ったものの、中里は釈然としなかった。誉められているらしいことは素直に嬉しい。だが中里が吉田を投げたのはそれが一番手っ取り早く片付けられる方法だったからで、死んだ気を味わわせるためではなかった。
「しかし、それで色々変わったってのは結局、あんたの実力だろ。俺が礼言われるってことでもねえんじゃねえか」
吉田を騙しているような居心地の悪さを感じた中里がそう続けると、吉田は悠然と首を振った。
「あなたにとっちゃ俺は多分、通過点でしょう。けどね、あなたに会わなけりゃ俺はまだ、年甲斐もなく粋がってました。そして、日雇いの仕事で何とか一人で食いつないでるくらいの、最底辺の人間のままだった。あなたに会わなけりゃ俺は変わらなかった。現実を見れなかった。それがそれまでの俺の実力です。ここまで来れるくらいになったのはだから、あんたのおかげだ」
「……そうか?」
「そうです」
満足げに微笑む吉田を見て中里は、まあこいつが満足ならいいかと思い、人は変われば変わるもんだ、と感慨にふけった。これがアロハシャツに鼻にピアスをつけて手抜きの金髪をして、慎吾の一言一言に青筋立てて人を殺しそうなほどの狂いを見せていた人間には、なかなか見えない。
だが時間をともにしていると、残っている面影が目についた。神経質そうな目元。落ち着きすぎた声音。溢れそうな衝動を無理矢理押さえているような、危うさがあった。この平穏は非常にデリケートな均衡で保たれている。道端で見かけてもまだ関わる気になれない人種ではあった。
それでね、と吉田は背中をシートから外し、中里を覗き込んできた。
「一つ、お願いがあるんです」
「何だ」
「キス、させてもらえませんか」
魚が真っ先に思い浮かび、何? と中里は聞き直した。
「先ほどのあの方たちとの会話、聞いてたんですが、あのクソガキ、もとい、えー、あのガキに、キスされたんでしょう」
力が入れられた吉田の声を聞いて、まだ根に持ってんだなこいつ、と至極当然に納得しながら、いやあれはキスっつーか、と中里は口ごもった。
「俺ねえ。あのガキだけはどうにも、生理的に駄目なんですよ。これでも嫌いな人間は作らないって努力はしたんです。実際、今まで食わず嫌いだった方々とも親しく付き合わせていただいてる。でも、あのガキだけはどうにもね。もう駄目だ。久しぶりに見ただけで癇に障って仕方ねえ。できることなら殴り倒したいくらいだよ」
まあそんな馬鹿はしませんがね、と吉田は陰惨に笑い、だから、と笑みを引っ込めた。
「あのガキのしたことを俺は、上回りたいんです」
中里はとてつもない不条理さを感じた。
「だからって俺と、キスかあ?」
「駄目ですか」
「やるなら走りでやれよ」
「走りはもうやめたんです」
「やめた?」
中里は目を見張った。以前吉田が乗っていた車は一目見て分かるほど念入りに磨かれていたように思う。走りの腕も極端に悪くはなかった。車に対する愛着も、慎吾に負けたからといって捨てられる程度の軽さではなかったはずだ。
中里の疑問を察したように、正確に言えば違うんですが、と吉田は曖昧に笑った。
「走ること自体はたまにやってますよ。ただ、それで誰かと競うってのに、価値見出せなくなっちまってね。俺はもう走ることだけで満足なんだ。年食っちまったのかもしれない。だからそれは俺の負けだって認めるにやぶさかじゃないが、他のことに関してはな。譲れねえ」
そのどこか放り投げるような口調に、中里は以前の吉田を見た。やはりこの男は変わっていないのだ。そしてこれこそがこの男の本性であり、本音なのだろう。
本音には本音で応えたい。だがそこにかかる条件が問題だった。
「気持ちは分からねえでもねえが、悪いが、勘弁してくれねえか。俺には男とキスする趣味なんてねえんだよ」
「俺もないね」
ならやらなくていいだろ、と非難半分懇願半分で中里が言うと、吉田は初めて困ったように、純朴に笑った。
「いやね、やっぱり生きてく上で、意地は捨てちゃ駄目でしょう。引いちゃいけない時が、ある」
「それが今かよ」
「くだらないと思うだろうけど、俺にとってはそうなっちまうんですよ」
清々しい吉田の笑顔だった。ここまで強い信念を見せられて単なる生理的嫌悪で拒否するのは、逃げるも同然だ。仕方ねえ。腹をくくって、よし、と両膝を叩く。
「やってやる。顔よこせ」
吉田は口元を吊り上げて、顔を近づけてきた。香水らしい甘ったるい匂いが鼻についた。中里は生気の欠ける吉田の首の後ろに手を置いて、唇を合わせた。五秒ほどして離そうとしたら、生温い感触が下唇の裏と歯の間を這ってきた。舌だ。中里は咄嗟に吉田を押し返し、ドアまでしりぞいた。吉田は冷え切った顔をしていた。中里は総毛立った。だが吉田は不意に、満面で笑った。
「どうも、念願叶いました。あとこれ」
後部座席へ身を乗り出した吉田は紙袋を取って、中里に渡してきた。
「実家で作っている、せんべいです。美味しいですよ。皆さんでどうぞ」
「あ、こりゃわざわざお気遣いどうも」
紙袋を受け取ると早口で礼を言い、中里は慌ててドアを開けた。ではまた、という吉田の声が後ろから聞こえ、振り向くと、得体の知れない人物がそこにいるように見え、中里は嫌な恐怖を覚えた。
千鳥足加減で紙袋片手に戻ってきた中里の目が血走っており、慎吾は一応代表として、どうした、と声をかけた。
「いや、やべえなあの野郎」
「何だよ」
「お前に対抗心持ってんだよ。相当嫌いらしい。いきなりキスしてくれ、なんて言ってきやがったんだぜ」
鱚? とクエスチョンマークを浮かべる三人を尻目に、中里は一人興奮した様子で話を続ける。
「一応な、礼節としてっつーかあの度胸に敬意を表してまあ、やったけどよ、それで舌入れてくるかね。いやー参った。一瞬これ俺ヤられんじゃねえかと思ったわ。あ、これせんべいな、貰ったんだよ」
美味いらしいがどうだろうな、と半信半疑の中里が差し出した紙袋を、梅木が率先して受け取った。
「……キス?」
多少のショックで反応の遅れた慎吾がやっと問い返した。
「そうだよ、よく分からねえ考えしてるぜ。しかしお前、今でも根に持たれてるぞ。散々言ったもんなあ。気ィつけとけ」
中里の親切心からの忠告も聞き流し、慎吾は話の前後を総合した。
「なに、あいつは俺を恨んでて、それでお前にキスしたわけ?」
「お前が気に食わないから上回りたいんだと。走りやめたっつーけどな、俺を使うなってな」
「あ、中里、これうめーよ」
いつの間にやら紙袋から長方形の缶を取り出し開けていた梅木が、せんべいをバリバリと食いながら言った。へえ、と松田と中里も手を伸ばす。慎吾だけは食べる気がしなかった。あの男が触れたと思うと強烈な嫌悪感が沸いた。
せっかくスムーズに展開していた中里へのからかいも乱入されて水の泡となり、更に結果的には上回られたことになる。ヨシダに対するやり場のない憤りが慎吾の腹には溜まっていた。
「あ、グラサン忘れてた」
そしてノンキにそう呟いた中里に途方もない苛立ちを覚えると同時に、慎吾は中里へのからかいとヨシダに対する鬱憤の解消を同時にこなし、自分の感情が万事丸く治まる解決法を思いついた。
「おい、マツとウメ」
呼ぶと松田と梅木はせんべいを口の中に入れたままきょとんとした顔で見返してきたので、「そいつ捕まえとけ」と顎をしゃくって中里を示した。慎吾の行動にすべて意味があることも、それが大抵愉快な結果を生み出すことも知っている二人は、理由も聞かず言われた通りさっさと中里の腕を各々後ろから抱えた。
あっという間に身動きを封じられ、せんべいを飲み込んでから、あ? と首を傾げた中里の両肩に両手を軽く置くと、まあ毅、と慎吾は嘘っぱちの優しさを詰め込んで語りかけた。
「俺としてもな、どうもあの野郎は好かないな。名前聞くだけでイライラしてくるっつーか、存在自体が鬱陶しい。あんな風に体裁取り繕ったってな、根っこの性質ってのはどうやったって染み出てくるだろ。隠したような気ィしていい気になってるヤツってのは、俺は元々嫌いなんだ。絶対合わねえんだよ」
「そうか。で、何で俺がこいつらに捕まえられなきゃいけねえんだ」
混乱を通り越して冷静になっている中里の、肩から頬へ両手を滑らせ押し挟み、慎吾はおごそかに宣言した。
「というわけで、俺も上回ろうかと」
「ああ?」
中里が意味のある言葉を吐く前に、慎吾は素早く唇を押し付けた。ぐぇ、とカエルの潰れたような声があがったが、気にせず頬を押さえてるため開かれている中に舌を入れて、思いつく限りを舐め尽くし、30秒近く経ってから、二人に腕を取られたまま背骨を極限まで弓なりに反らしている中里を開放した。
「よーし、離していいぞ」
自分と中里のとが混じり合っている唾を吐いて、口を拭ったのち慎吾が言うと、松田と梅木は中里の腕をあっさり離し、中里はそのままその場に崩れ落ちた。膝と両手をアスファルトにつけ土下座のような態勢で、おええええ、とえずく。
「よくやるよなあ、お前」
「やる時はトコトンやらねえと、始末がつかねえからなあ」
感心してくる松田に、計画が予想通り完璧に運んだゆえの爽快感を全面に押し出しながら慎吾は言った。梅木は再びせんべいを食い始めた。中里は最後に咳払いをし、唇を手の甲で丁寧に拭って立ち上がると、恨みつらみのこもった濡れた目で慎吾を睨みつけてきた。
「てめえ、慎吾、俺を、殺す気かァ」
「何だお前、俺が何年もかけてつちかったゼツギをくれてやったってのに、不満なのか」
「満足するヤツがいるかよ、お前、俺はもう成仏するかと」
「仏にゃなれねえだろお前は。良くて何だ、ゾンビ?」
日本だったら幽霊じゃないか、と松田が合いの手を入れる。平然としている二人と己の身に起きた事態の過激さのギャップに、中里は一瞬視界を失った。あ、これ落ちる、と思った次には背中に柔らかい手が当たり、暗い空と慎吾の顔が見えた。
「おい、大丈夫か」
優しい声だった。優しい顔だった。口の中の感触がよみがえり、中里は居た堪れなくなった。おう、とどもりそうになりながら答え、背中に当てられている暖かい手をぞんざいに離し、自分の足で地に立って、深く呼吸をした。生きている。
「……世界が眩しい」
呆然と呟いた中里を見て、頭やっちまったか、いや倒れてねえしな、元々ヤバかったってことか、本当かもしれねえけどそりゃひどくねえか、などと松田と梅木は勝手に言い合った。慎吾はとりあえず中里の目の前で手を振ってみたが、うろんげな視線をよこされ、「何やってんだ」と冷たく言われた。
「いや、ついにお前も脳医者行く時が来たのかと思ってな」
「いい加減にしろや。クソ、どいつもこいつも何だってんだよ、今日は最悪だ、俺の人生って何なんだ。何で一日で二回も男にキスされて、しかもどっちも舌まで入れられなきゃいけねえんだよ。ああ、もう一生彼女ができなくてもいいから、これでもかってくらい濃厚なキスを、女と、女としたい!」
吠える中里を、三人は他人のフリをして見守った。中里はそのままふらふらと歩き出した。梅木が「このせんべいどうするー」と声をかけたが、勝手に食ってろ、と怒鳴られた。中里はそのまま愛車GT−Rの元へと去っていった。
「良かった、うちのじいちゃんせんべい好きなんだよ」
嬉しそうな梅木を置いて、松田がへらへらと嫌らしく笑いながら「気持ち悪くなかったのか」と慎吾に聞いてきた。
「何が」
「中里とちゅーしてよ」
返答を考える必要がある問いだった。慎吾は唇を親指で拭って、そうだなあ、と遠い目をした。
「構造で言えば女も男も変わらねえし、まあ、代用品としてはギリギリ合格レベルだな」
「……お前、言ってること違わねえ?」
「どこが」
「最悪だっつってたじゃねえかよ、前やった時」
「あれはあれ、これはこれだ」
どこが違うんだと松田は不思議に思ったが、慎吾の断言には妙な説得力があったため、まあいいか、と思い直し、そうか、と頷いた。
「まー、ギリギリ合格ラインなら俺、イッペンやってみようかな」
「やめとけ。殺されるぞ」
「殺されてねえじゃん慎吾」
「そりゃ俺だからな」
松田はうえ、と顔をしかめた。
「それどういう意味だよ」
「俺も最初は命からがら逃げ出したが、ここまできたらもう安全圏ってことだ」
「分ッかんねえなー。なに、中里ってそこまでお前許せんの?」
だろうな、と慎吾はさらっと言った。松田は顔のしわを増やした。
「それってよ、ノロケ?」
間髪入れず松田の頭に慎吾の手が飛んだ。頭を抱える松田とせんべいの缶を愛しそうに抱えている梅木に、一息吐いてから俺も戻るわと言い置いて、慎吾はその場を後にした。
ノロケ、という言葉を思い浮かべ、そこまでいってねえしな、と即座に思った自分に、いくわけねえだろと、頭の中で張り手を食らわし、しかしどいつもこいつも騙されやすいな大丈夫かよ、と同情しながらシビックに乗り込んで、慎吾は次にヨシダヨシオが来た時のために対策を考えることにした。
というわけで、中里の不幸は一旦完結し、再び蓄えられる幸福によって、表出する機会を待つのだった。
(終)
2004/11/01・2008/06/08
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