醜態 1/2
ナイトキッズ恒例で二ヶ月に一度行われる飲み会は、路地裏にある地下の小さな居酒屋で行われる。
カウンター十席にテーブルが三卓。二十人あまりが入り込めば立って歩く余裕もなくなるその店を貸し切って、夜から朝方にかけてひたすら全員が飲みまくる。メンバーの二人が店に勤めておりその勤務態度が真面目であることと、年かさの店主が昔妙義山を走っていたことから、メンバーたちの多少の無茶は利いた。従業員の二人は会費で酒やつまみを一括購入し、後はメンバーが各々自由に好きなものを飲んで食らっていく。酔い潰れた者は店に放置され、覚醒した者には店内の掃除が待っていた。だから皆いかにして最後まで生き延びるかを計略するのだが、同時に相手をいかにして潰すかも計略しており、成功確率としては後者が高い。よってチームの半分以上は翌日すずめが鳴くまで店で高いびきをかく。
飲み会で掲げられるテーマは『無礼講』。この時とばかりに皆、普段接する機会のない人間ともこなれた口を利き、ひたすら飲んだくれるわけである。相手が聞いていないにも関わらずひたすらギャグをかましたり、下ネタに走ったり全裸になったり、アカペラで歌を歌い始めたり、真面目に走りに関する話を繰り広げたり、酔いの出現も多種多様だ。
そんな中チームリーダーである中里毅は、最高責任者という立場上あまり酒を入れることはなかった。
本来中里はビール大瓶四本入れたところでどうということもなく、ナイトキッズ一の酒豪と名高いのだが、誰がいつその場で嘔吐したり、急性アルコール中毒になったり、あるいは酔っ払い同士の限度を越えたケンカが始まったりするか分からない。命に関わる事態は迅速な対応が要だ。迅速な対応は正確に活動する思考から生まれる。
だからなるべくならば飲んだ振りで済ませるのだが、時たまそんな中里の事情を知らず飲み比べを挑んでくる新参者がいる。そしてその人間は翌朝多大なる二日酔いの恩恵を受け、中里は一度たりとも正気を失わず悠々と帰路につき、後々伝説的に語られるのだった。
その日、隔月の第二土曜日。
中里は愛車の整備をして仮眠を取ったところ寝過ごして、二十分ほど遅れて店内に入った。
「毅さん、遅刻記録更新おめでとうございまーす!」
遅れて悪い、と謝る前に、その声とクラッカーが浴びせられた。メンバーたちの笑いが店内にこだまする。中里はばつの悪い顔をして、指定席ともいえる入ってすぐ右手にあるテーブルの通路側についた。店内全体を見渡せるこの席は、いくら空いたまま時間が経とうとも誰も座ろうとはしなかった。
「前回十分、今日は二十分、十分更新だぜ。おめでとう」
中里の前の席に座るヒゲ面の男がビールの入ったジョッキを掲げてにやりと笑う。
「お前らな、何でそう揃いも揃ってこういう時はみんな時間キッチリなんだよ」
「五分前行動、って学校で習いませんでした?」
ヒゲの隣に座る坊主頭が首まで真っ赤にした顔で言ってくる。仕方ねえだろ最近忙しいんだよ、と言い訳にならぬ言い訳を呟きながら、中里はポケットから煙草を取り出し、店内に目を走らせた。大方のメンバーは来ているようで、目立つトラブルもないようだ。それとなく探してしまった見慣れた背格好の男の後姿を、一つ挟んだ向こう側のテーブルに見つけ少し安心する。その男は中里が店に入ってきた時振り向きもしていなかった。奴らしいな、と思いながら煙を吐き出す。
「あの」
と、右隣から声をかけられ、中里は慌てて煙草を左手に持ち替えると体を右に向けた。
「ああ、お前……篠原、だよな。白のワンエイティの」
「あ、はい。どうも、よろしくお願いします」
緊張した面持ちで頭を下げたのは、チームに入って間もないがよく名の知られている男、篠原信夫である。
篠原が名を知られている理由は、走りの巧さからではない。悪くもないが取り立てるほどでもない技術しか持たない篠原が、なぜ名が知られているかといえば、ひとえにその顔のせいだった。
チームの大方は無骨でむさ苦しく崩れかかった顔の男たちで占められる。中にはある程度整った人間もいるが、そういう連中はなぜか身なりに気を遣わないため、宝石の原石として埋まったまま発掘されることはない。
だがこの篠原は、小さな土台にパッチリとした目、通った鼻筋に小さな口、という見るも鮮やかな顔をしており、髪型も服装も今風に整えられた、いわゆるイケメンだった。そして性格も悪くない。となれば女性にモテることは必然であり、篠原について回ると勝手に女性が近付いてくるわけである。人生の中でモテる時期が皆無であるメンバーたちにとっては、一種カリスマ的な存在となっていたのだ。
とは言っても、中里は篠原とまともに会話を交わしたことは一度もなかった。車に関してアドバイスを一回したくらいで、その時はチームに似合わねえ顔だな、程度にしか思っておらず、今回光のあるところでよく見ても同じ感想を抱き、ただ顔通りの真っ直ぐな声、礼儀正しい、けれども慇懃無礼ではない態度に、中里は好感を持った。
主にヒゲ面が喋り、坊主頭と篠原が時折個人的な話をし、中里は適当に相槌を打って車の話に加わりながら、喧騒の時間が過ぎていった。
「毅さん、飲まないんですか」
参加者ほとんどが出来上がってきた中、コップ一杯を空けただけの素面な中里に、こちらもすっかり出来上がってしまった篠原が、真っ赤な顔で聞いてきた。
「飲んでるよ」
「コップ一杯でしょう。俺見てましたよ。高村さんもトシも潰れてんのに、ずるいじゃないっすか」
中里の前に座る男二人は既にテーブルと同化していた。だが篠原は真っ赤な顔をして呂律も怪しくなりながらも、意識は明瞭であるらしい。案外酒には強いのかもしれない。
「あんま飲み過ぎるとな、次の日厳しいんだよ」
「でも毅さん、まだ若いでしょ」
「若いからって無茶はできねえからな。お前も気ィつけとけ、何もしねえと体力落ちるのは早いぜ」
「俺は大丈夫ですよ、体にだけは自信ありますから」
篠原は爽やかな笑顔で宣言した。へえ、と中里が軽く嘆息すると、照れくさそうに頬を掻く。
「サッカーやってたんすよ。県でベスト4。結構有名でね、今も運動はやってますから」
少年のように自慢げに語る篠原に、中里の抱えていた好奇心が疼いた。まあ酒の席だしな、と中里は自分に言い聞かせると、動き出したがっていた口を開く。
「少し、不思議なんだがな」
テーブルに置いた煙草の箱から一本取り出しざま言うと、何が、と篠原はきょとんとした。大したことじゃねえよ、と笑ってやってから、言葉を接ぐ。
「俺が言うのもなんだがな、うちのチームはこんなんだろ。下品で男くさくてむさ苦しくて人気もなくて暴力的で、女性にモテるわけでもない。でよ、そんなところに何でお前みたいな普通の奴が、わざわざ入ってきたのかって思ってな」
言い終えた中里が煙草に火を点け一息吐いたところで、何だそんなこと、と篠原がやはり爽やかに笑った。
「俺はね、毅さんに、憧れてるんです」
中里は眉を上げることで、その言葉の真意を問うた。
「大したことじゃねえんすよ、俺も」
篠原はコップを持ち、そこに視線を置きながら続ける。
「何つーか、毅さんって俺の理想なんすよ。俺が絶対なれねえ人なんですね。モチロン走り好きだから、っつーのが一番だけど、やっぱね、どうしても毅さん近くで見たかったんすよ。だから入ったんです。我ながら単純な理由です」
視線を中里に戻しくしゃっと笑った篠原の肩を、中里は感激のあまり一度叩いていた。
「篠原、お前ってヤツは、素晴らしく見る目があるな。まあ飲め」
ビールを篠原のコップに注ぎ、「あ、ども」と慌てて酌を返そうとする篠原を止めて、中里は笑った。
「お前みたいに素直なヤツがいてくれて俺も嬉しいよ。まったくあの馬鹿にもお前の爪の垢を煎じて飲ませたいもんだ、うん」
いやあ、と嬉しそうに笑ってコップつけたところで、篠原の動きが停止した。
「……どうした」
聞くも、篠原の顔は笑みが消えたまま動かない。よく見ればその視線は中里の上を通り越している。
店内のざわめきに隠れているが、背後に人の気配があることに今更気付き、中里も硬直した。
こういう場面で出てくる人間といえば一人しか頭に思い浮かばない。吸えなくなりそうな煙草を慎重に灰皿に置くと、ず、と両肩に熱い手が下りてきた。
「誰が、馬鹿だって?」
右耳近くでした濃く低く響く声は寸分違わず予想通りで、中里は振り向くのも癪に障り、篠原を見たまま声の主に呟いた。
「なるほどな、自覚はあったのか、慎吾」
「俺が馬鹿ならてめえは人間として終わってるぜ」
中里が店に入ってきた時見向きもしなかった男、庄司慎吾がそこにいる。肩に当たる手からじわりと広がる熱が汗を呼び、堪らなくなった中里は肩を回して慎吾の手を払うと、何の用だ、と振り仰いだ。
「ケンゼンなセイショーネンの育成のための、忠告だよ。お前の真実の姿を語ってやろうと思ってな」
慎吾は頬を赤く染めながらも、しっかりとした目つきで中里を見下ろしてくる。
この男は一般的日本人並みの酒の強さであったが、飲むピッチが遅いのと、わざわざ酒を薦めてくる命知らずもいないため、飲み会中盤あたりまではある程度正常な意識を持っているのだった。今も顔は赤くなりながらも足取りはしっかりとしているし、中里を見る目も焦点が定まっている。
だが酔っていることに変わりはない。一体何が目的なのか、疑問を含み睨みつけながら、中里は慎吾に言う。
「何言ってんだ、不健全なてめえの方が忠告されろ。大体、俺の真実の姿ってな、お前に何が分かるんだ」
「何がって」
慎吾は肩をすくめて、フン、と鼻で笑った。
「お前はよ、イイ体してる女には弱くて時々常識すっ飛ばすクセにそれを認めようとしない、歳の割にすぐカッとなってケンカ吹っかけられたらすぐ乗っちまう、32に金つぎ込んで老後の蓄えもありゃしねえ、甲斐性ナシの鈍感野郎だろ?」
中里は椅子から立ち上がりそうになる足を床に縛り付け、走り出そうとする拳を抑え、唯一頬だけを盛大に引きつらせた。
「てめえな、俺だって人生計画は立ててんだ。老後の蓄えだって一応ある、人聞きの悪いことを言うんじゃねえよ」
「ほれ見ろ篠原、こいつは自分を弁護するよりもまず先に、金のことを考えるヤツだぞ。こんなヤツに憧れるなんざ腹の足しにもならねえ、それどころかお前の人生負け犬街道まっしぐらだぜ。やめとけやめとけ」
ため息とともに言って大げさに頭を振る慎吾に、篠原は真面目な顔つきになると、俺は、と即座に言い返した。
「そういうのも含めて、毅さんはすげえって思えますから、いいっすよ、別に」
力を込めて篠原は言い切った。その顔は自信が満ちていたが、物を噛み切れていない表情をしたまま口をつぐんでいる中里と、慎吾のなりを潜めた威勢の良さに、段々と失われていき、その首が徐々に傾いていく。
慎吾はからかいよりも呆れの色の濃い調子で言った。
「お前よ、それ、俺がこいつに関して言ったこと、全部認めてるってことになるぜ」
「え?」
更に首を傾げた篠原に、慎吾が耳の裏を右手の人差し指で掻き、だから、と言う。
「そういうのも含めて、ってことは、俺が言ったことも含めて、ってことだろ。だからお前は、こいつが女に弱くて32至上主義で甲斐性ナシの鈍感野郎だって認めたんだよ」
あ、と篠原は口を大きく開き、決まりが悪そうに中里を窺ってくる。
「いいじゃねえか、『素直』なヤツでよ」
笑い混じりに慎吾が中里へ向けたその言葉には、多分に皮肉が含まれていた。
中里は舌打ちして椅子に座り直すと、灰皿に置いていた煙草を取った。半分灰になっているが火はまだついている。そして何か言おうと口を開いては閉じ、開いては閉じている篠原に向かって笑いかけ、さほど気にしていないことを教えてから、
「いい加減にしろ慎吾、さっさと自分の席に戻れよ。用は済んだろ」
と慎吾に凄み、煙草を口にした。
慎吾は語調を演技めかせ、いいや、と言った。
「真実の姿なんつってもな、結局のところ理性がある限りそいつの本性なんて出ねえんだ。そんな状態でどうこう言ったところで、何も始まりゃしねえんだよ」
その持って回った慎吾の言い方と、挑発的に歪められる口元に、中里は吸った息を煙とともに吐き出したところで、唐突にその意図を見つけた。
慎吾は相手の急所を容赦なくえぐる口と、結果怒りに短絡的となる相手を己の計略通りに誘導できるだけの頭を持つ。
それらが発露する場合、慎吾の口角は不思議な力の入り具合で吊り上げられ、細められる目には相手を嘲笑う色が乗る。
例えば今回のように、だ。
「……お前が何企んでるのかは知らねえけどよ」
中里は持ち直してから一度しか吸っていない煙草を灰皿にねじ込んで、再び立ち上がった。
挑発を無視することが賢明であることはよく理解していた。そうでなくとも慎吾の術中に陥って悲惨な目に遭った人間は何十人と見てきている。しかし中里は、理由はさて置き自分が慎吾の存在をスッパリ無視するなど不可能だとも理解していた。
となれば結局誘導されてしまうのだから、最初からそのもくろみに乗ってしまった方が精神的負担を被らずに済む。それが中里の出した、慎吾の計略への対応の結論だ。
「そこまで言われちゃ俺も黙ってられねえな。何がしてえんだ、言ってみろ。乗ってやろうじゃねえか」
中里はことさら余裕たっぷりに言い放った。慎吾は一瞬気の抜けたような顔になるも、すぐさま我が意を得たりと笑った。
「お前もよ、いつもそういう風に『素直』だと、ウジからハエくらいに評価レベル上げてやってもいいんだがな」
「てめえにレベル付けられる筋合いはねえ」
中里のクレームも聞き流し、慎吾は手を二回大きく叩くと、
「さあ酔っ払いども、耳の穴かっぽじってよーく聞けよ! 今からこのリーダー面をして久しい黒のR32の中里毅と、ブルーのロースタ乗ってる西清太郎が飲み比べするぞ!」
と、腹の底から叫んだ。意味が伝わる独特の間が空いてから、おお、というどよめきが店内を占めた。
中里は自分の顔が驚きと後悔に歪んでいくのを、ギリギリで差し止めた。
西清太郎。青のロードスターを駆る、チームでも古参の入る男だ。
また大酒飲みと名高く、毎回メンバー三人は酔いつぶれるだけの量を腹に入れても、しっかりした足取りで帰っていく男でもあった。
その西と絶賛伝説更新中の中里の飲み比べとなれば、ただでさえ出来上がってテンションの高いメンバーが盛り上がらない道理がない。どよめきが増した店内で、慎吾が中里に勝ち誇った笑みを見せ付けてきた。
責任者として酔いつぶれるわけにはいかない、と言おうとして、中里は慎吾が平常通りの目つきと呂律をしていることに気付いた。自分が潰れようともこの男がいれば、ある程度の緊急事態にも対応は可能だ。それに西相手に酔いつぶれる程度なのか、と慎吾が挑発してくるのは目に見えている。
慎吾はそこまで計画を詰めており、西も一口噛んでいるに違いない。元々西も祭り好きの男である。今まで中里に話を持ちかけてくることはなかったが、それは古い付き合いであるから今更だ、という思いがあったからだろう。
――だが、それはこの際どうでもいい。俺は乗った。それが事実だ。
飲み比べならば上等だ。ここ一年、限界近くまで飲んだ経験は一度もない。
中里は腹をくくり、既に別の世界にいっている者以外が寄せる視線を、真っ向から一身で受けた。
「そうだ。この俺こそがナイトキッズ一の酒豪だと教えてやる!」
中里は右手の親指で自分を指し示し、店内全体に響く声で一喝した。歓声が上がった。
慎吾は不意に笑みを消し、小難しい表情をしながらそれを見て、一つ息を吐いた。
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