醜態 2/2
遠い世界へ既に旅立っている者、または旅立ちそうになっている者以外、そのテーブルへ体を向けていた。
椅子は一脚ずつ。入り口側に座る、黒のTシャツに真ん中分けの目力の強い男が中里毅。その向かいに座る、紫のパーカーに刈り込まれた頭、無骨な顔立ちの男が西清太郎。二人は一時たりとも目を逸らさず、睨み合っている。テーブルの上には残り僅かのワイルドターキー1000mlと、濡れたダブル用ショットグラス。
西がそれにボトルの液体を並々と注ぎ手に取ると、一重まぶたの下から中里を舐め付ける。中里もまた力のこもった目で西を睨み付ける。西はゆっくりとその手を口元に運び、さらりと中身を飲み干した。周囲から歓声が上がり、西は思い切り顔をしかめて一度喉を上下させると、パッチリと目を開いて、くつくつと肩を震わせ笑った。中里は閉じたままの唇の両端を、かすかに上げる。
「やるじゃねえか」
「このくらい」
両者、一歩も譲らぬ熾烈な争いが繰り広げられており、二人の世界が成立していた。
グラスが西から中里へ差し出される。いわゆる琥珀色の液体をこぼれるまでに入れ、中里はそれを一気に喉に流し込んだ。
カン、と机にグラスを置くと同時に、ざわめきが起こる。再び西と中里は笑い合った。
グラスを西に渡し、中里は笑ったまま、おもむろに着ていたシャツを脱いだ。
あまりの自然さに誰もが瞬時には反応できなかった。脱いだシャツを床にぱさりと落とし、上半身裸になった中里は何事もなかったかのように、西がグラスにワイルドターキーを注ぐのを見ている。メンバーたちはそれぞれ顔を見合わせたが、多分暑かったんだろう、と単純に納得し、その件に関して触れることはなかった。相対している西も、その中里を見たところで別段顔色も変えていなかった。
「……暑かったんすかね?」
そのテーブルの真ん前のカウンター、観戦には絶好の位置に座っていた篠原は、確認するように隣に座っている慎吾に聞いてきた。
「だからってあいつは人前でいきなり裸になるほど、図太いヤツじゃねえよ」
慎吾が顔をしかめて言うと、はあ、と篠原は空気のような返事をした。
これだから酔っ払いと話するのは嫌なんだ、と慎吾は苦く思いながらも口を開く。
「酔ってんだろ。目はしっかりしてるし顔も赤くねえし手つきも普通だけど、それ以外に説明のしようがねえ」
篠原は慎吾と中里と交互に二回見て、ああ、と納得したように手を打った。
「じゃあ毅さんの本性は、露出狂ってことっすか」
「……下まで脱いだらな」
唸る篠原を一瞥して、慎吾は首を回した。
――つまらない。
慎吾の現在の気分はつまり、それであった。
慎吾が知りうる限り、中里が酔った場面を目撃した者は一人もいない。様々なツテを探ってわざわざ調べたのだから、間違いもないだろう。となれば俄然興味がわいてくる。果たして酔えばどうなるのか。笑い上戸になるか泣き上戸になるか、仏頂面を貫くか口が達者になるか。
経験上、普段厳格で理性的な人間ほど酔うとタガが外れやすいことも知っていたので、果たして中里はどんな醜態をさらすことかと慎吾は期待していたのだ。
だが今、中里は平常と変わらぬ態度で酒を飲んでいる。相対している西がひたすら笑い続けているのに比べ、上着を脱いだごときではナチュラルすぎてインパクトに欠けた。せっかく酒量を減らし頭を色々と巡らせ、隣でのほほんとしている気に障る男まで利用し、もうボトルも空になろうというのに予想していた成果が上がる気配はない。
「最後っすね」
篠原が、邪気のない声を出した。慎吾はおざなりにああ、と言った。
ボトル最後の一滴が、グラスからこぼれることなく見事に収まる。西が震える右手でそれを取り、己の口元まで運ぶ。手だけではなく、体全体が震えている。顔は青ざめていた。だが笑みは張り付いている。一度唾を飲み込み、すう、と一度大きく息を吸い込んだ。
そして乱暴にグラスをテーブルに置くと、置いた手で口元を押さえて慌てて立ち上がる。西は散乱している椅子やら何やらに当たりながらトイレへと駆け込んだ。
「おい、誰か様子見てやれ」
慎吾が声をかけると、二人が西の後を追って行った。しばらくして、水を流す音と遠くえずき声が響いた。様子を見に行った一人が戻って来た。
「ありゃもうムリっすね。まあでも、しばらく安静にしときゃダイジョブっすよ」
男が気楽に言ったため一同は緊張を解いた。
椅子が引かれる音がして、中里が立ち上がっていた。
悠々とした笑みを浮かべて店内のメンバーすべてをゆっくり見渡すと、親指で自分を指し示し、
「つまりは、俺の勝ちだ」
そう宣言した。妙な威圧感をかもし出すその姿に、静かな拍手が上がる。
中里は西の残したグラスを口に運んで、一気に飲み干しテーブルに置くと、両手拳を頭上に高く掲げた。
せきを切ったように、拍手喝采が送られた。
「いやあ、毅さんってマジ酒強いんすね」
篠原の感嘆を、慎吾は聞き流した。
まったく気分が乗らない。憎まれ口を叩く気も起きない。
それが中里の酔態が期待外れだったからだけが理由ではないことに、慎吾は気付いていた。
問題は、この隣の好青年と名高い、篠原信夫だったのである。
正確に言えば、篠原の中里に対する的外れな対応だ。それに慎吾は逐一指摘したくて仕方がなかった。
中里という男は他人からの好意を質も量も問わず全部抱え込んしまう不器用な馬鹿なだけなのだから、憧れなんて重荷を背負わせるべきではない。純粋な理想の投影ほど相手をないがしろにするものはないのだ。
慎吾はそれを篠原に言ってやりたくてたまらなかったが、自分にその権利も義務もないことを知った上でお節介を焼けるほどプライドも低くない。ジレンマだった。やっぱり俺はこういう馬鹿なヤツが嫌いだ、と慎吾は確信した。
「さてと、そろそろ撤収するぞ。ただし掃除するボランティア精神溢れる人間は残ってもいいけどよ」
飲み比べの余韻が冷めたころ、中里がリーダー的な声と態度で、飲み会の終了を宣告した。
トイレの前の廊下に安らかな顔をして眠っている西を確認し、慎吾はその肩を、お前もよくやった、と叩いてやる。明日はきっと地獄を見るだろうが、本人の意思なのだから慎吾には関係のないことだ。
トイレから戻ると、意識のあるメンバーの粗方が既に撤収した後だった。皆、こういう場合の逃げ足だけは速い。残っているのはテーブルやら床やらに落ちている潰れた人間たちと、上半身裸のままカウンターのテーブル部分に座って、猫背加減で煙草を吹かしている中里だけだった。
「お前、いい加減服着ろよ」
慎吾が自分の上着を目で探しざま言うと、中里は一つ息を吐き出して、「西はどうした」と聞いてきた。
「ひでえ面で眠ってるよ、この世の天国かってくらいのな」
そうか、と頷いた中里は、左手で慎吾のすぐ足元を指し示した。そこに落ちている人間の上に、慎吾の上着がかけられている。
「ったく、勝手に人のモン使いやがって」
「あれだ。暑いからよ、服着るの面倒くせえんだよな」
「それは聞かれた時すぐに言え」
わりい、と言って中里は煙草を吸った。慎吾は上着を羽織りながら、それを一瞥だけした。
「お前さ、どうせ半裸で帰るなら全裸にしろよ。その方が話題性がある」
「俺はまだ犯罪者になるつもりはねえ」
「走り屋やってるクセに何言ってんだ」
慎吾は先ほど西と中里が飲み比べをしたテーブルに向かった。中里はその背に、なあ慎吾、と声をかけた。
「お前あれだろ、篠原嫌いだろ」
「何当たり前のこと言ってんだよ」
慎吾はそう吐き捨て、中里が脱ぎ捨てたシャツを無造作に拾い、中里を振り向く。
「あんな他人に自分の理想を求める軟弱者好きなヤツなんて、お前くらいしかいねえだろ」
「可愛いモンじゃねえか。俺もなあ、昔先輩方の走りにゃ憧れたことあるぜ。今ここまで来てみれば、それも大したレベルじゃなかったって分かったが、知らないってのはまったく、いいことだよ。可愛げがある」
中里は短くなった煙草の先端を眺めながら、可愛げがな、と繰り返した。
慎吾は寝ている人間をまたいで中里に近付き、拾ったシャツを放ってやった。中里が伸ばした手にわずかに届かず、シャツは床に落ちた。
「お前、飛距離みじけえよ」
「そのくらい取れよ」
慎吾は一歩足を踏み出し腰をかがめ、無造作に落ちたシャツを拾い、それで、と話を続ける。
「お前も走りの上手な先輩面して、また一人いたいけな青少年を騙すわけか」
「アホか、騙さないように努力するんだよ」
「麗しい師弟愛だな」
慎吾は皮肉を言って、中里の胸にシャツを押し付けた。
その手首を、じっとりとした熱い手で中里が掴み止めた。慎吾はその手を振り払わず、中里を睨み上げた。
「何だ」
「キスしてえ」
中里はごく普通の顔で言った。慎吾は二度キッチリ瞬きをしてから、なるほど、と言った。
「お前は俺に殴られたいわけか」
「いや、キスがしてえんだよ」
「分かった、原型留めないほど殴り倒してやる」
一応宣言してから慎吾が左手の握り拳を肩まで上げると、
「やっぱ、無理か」
と中里はあっさり慎吾の右手首を解放し、カウンターから腰を下ろしてシワになったシャツを広げた。
こうもあっさり引き下がられるとツッコむにツッコめず、慎吾は渋々拳を下げた。やっぱ半裸のまま放っておくべきだったろうか、と慎吾は特に考えもせず気を利かせたことを後悔した。
「さっきの話だが」
手早くシャツを着て、乱れた髪を後ろにかいている中里が言った。
「さっきって」
「あいつが、篠原が騙されたと思っても別に俺はいいんだけどよ」
いいのかよ、と慎吾が呆れると、中里はまあな、とカウンターに置いてあった上着を引っ掛けた。慎吾が先に出入り口に向かうと、後ろから独り言のような呟きが聞こえた。
「ただ、お前には思われたくねえからな」
慎吾は聞いていない振りをした。
地上の空気は冷たく、慎吾は身震いした。空はまだ暗いが道を歩く人も店の光もほとんどない。
後ろで鉄製のドアが閉まる音がして、寒いな、と中里が言った。
「お前、まだ飲めるだろ」
慎吾が問うのではなく断定すると、中里は首を回し、どうだろうな、とうそぶいた。
「冗談じゃねえ、西まで駆り出して酔った姿を見てやろうと思ったのに、上脱いだだけかよ。西も報われねえぜ」
「そういうことかよ」
慎吾は外に出た爽快感から、店内にいた時には吐き出せなかった不満を中里にぶつけていた。中里は呆れたように息を吐いた。
「別に俺が酔ったからって何もねえぞ。上は脱ぐけど下は脱がないしな」
「脱げよ」
「脱がねえよ」
険を露にして中里が言い、慎吾は肩をすくめた。居酒屋の収容されているビルの小汚い壁を眺めながら、慎吾はふと閃いた。中里を見ると、慎吾に背を向けて肩を回している。
「毅」
慎吾は久しぶりに中里の名を呼んだ気がした。
「何だ」
「お前さ、酔うとキスしたくなるんじゃねえの」
中里は振り向いたままの姿勢で何ともいえない顔をし、見事に止まった。図星だ。
ははあ、と慎吾はジーンズのポケットに手を突っ込んで、中里を下から覗き込んだ。
「だよな、じゃねえとお前が俺相手にキスしてえなんて、頭イカれたこと言うわけねえよな」
「……だから飲みたくねえんだよ。俺にだって彼女がいりゃ飲んでるさ。家に帰ってキスできる相手がいればよ」
中里は自分の発言に自分で虚しくなったようだった。暗い顔になった中里の肩を、まあ、と慎吾は叩いた。
「西が倒れちまった以上、もうお前を飲ませられる相手もいねえが、そうと聞いたら惨めな思いをさせてやりたいのが人のサガだよな」
「慰めるんじゃねえのかよ」
じろりと慎吾を見てきた中里に、甘いな、と首を振ってやる。
「俺はそういうお前の姿を見るために、わざわざ今日はシラフに近いままでいたんだよ。せっかく出た成果をみすみす見逃すわけがねえじゃねえか。二ヵ月後を楽しみにしててくれ」
中里は肩に置かれた慎吾の手を払うと、冗談じゃねえ、と顔をしかめた。
「俺がこの程度で消し飛ぶような理性しか持ってないと思うなよ。動物と人間様の違いを思い知らせてやるさ」
「お前が人間を名乗ることはどうかと思うぜ」
「口が減らねえヤツだな」
「そりゃどうも」
「誉めてねえよ」
舌打ちした中里は、上着のポケットに手を突っ込み、再び首を回した。慎吾は冷えてきた手を擦り合わせた。
不意に中里が、風のように言った。
「でも俺は、お前にしか言えねえよ」
「何を」
慎吾が聞くと、中里は驚いたように慎吾を見た。慎吾も中里を見ていた。何となく二人、そのまま目を合わせていた。中里は慌てたように手を上げ、何でもねえ、と背を向けて歩き出した。中里の帰宅方向と慎吾のそれは真逆である。少しの間、頭を掻いたり振ったりしている中里の後姿を眺めてから、慎吾はその背に背を向けた。
――俺にしか言えないこと、ねえ。
丸きり見当のつかない慎吾は、道に落ちている空き缶を蹴り飛ばしながら、中里の哀愁漂う背中を思い出し、キスしてやるくらい良かったかなと珍しく同情し、いややっぱ他に生け贄出さねえとな、と考え直した。
それが中里が自分にしか言えないことであると慎吾が気付く予兆は、現段階ではチリほどもなかった。
二ヵ月後の飲み会で中里がどうなるかは、また別の話である。
(終)
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