痴態 1/2
遅刻などは社会人としてあるまじき行いであり、常は中里も約束時間十五分前を絶対としているが、二ヶ月に一度定例で行われる、走り屋仲間内々での飲み会だけは例外だった。休みが重なろうが重なるまいが、必ず最低十五分は遅れてしまうのだ。
飲酒という行為自体でいえば、中里は大変好きである。各地の名酒を一口ずつ味わうのも乙だし、安売り時に箱買いしたビールを大量に飲むのも良い。客を満足させるために尽力したのち、峠で思う存分愛車を走らせて深夜帰宅して、一風呂浴び、そして一人つまみを用意して、余計な音がない中でぐいぐいと飲んでいく時など、たまらない。体が温まり、思考は先鋭になり、気分は安定し、幸福感が腹の底から満ちてくる。
両親も祖父母も酒には滅法強く、また滅法愛着を持っており、子供の頃からめでたいことがあれば酒酒酒、何もなくても酒酒酒、という環境で育ったため、中里は酒の席というものに理解が深かった。おそらく遺伝のためだろう、中里自身も多量のアルコールを摂取したところで、そう簡単に理性は失わない傾向にある。よって飲み会などでは思う存分酒を楽しみつつ、冷静に周囲の状況を把握することもできた。長年の経験ゆえ、酔っ払いの介抱は特技といっても過言ではない。
だが、酒に強いといえど、飲めば気分も高揚はした。特に、ひどく素が晒せる場所で酒が入りに入った時には、独特の感覚が生まれてくる。
それへの嫌悪と仲間内ということでの気の緩みとが、中里の足を無意識のうちに、己が所属するナイトキッズというチームの飲み会へと簡単には進ませない要因だった。
だが、本日、中里には自覚があった。支度をしている段階で時計の針は開始五分前を差しているが、急ぐ気にはなれない。
できることならば、行きたくはなかった。
罵声と悲鳴と嗚咽と歓声と放送禁止用語と男の裸体が飛び交う、歴史深いそのドンチャン騒ぎに嫌気が差したわけではない。
理由はただ一つ。それまでは嗜好品を敢えて遠ざけることで回避してきた、独特の感覚、そこからわき出る欲望を、秋口に開かれた前回、つい興に乗って晒してしまったためだ。それもよりによって、二人きりの場面で、あの男――最も隙を見せてはいけない相手、庄司慎吾に隙を見せた。
ジーンズにトレーナーを着込んで洗面台の鏡の前に立つと、思いのほかみすぼらしい自分がいた。顔に水をぶっかけ刺激を加え、ついでに頬を叩いて気合を入れる。
いつ揶揄してくるかと警戒していたが、慎吾が今日にいたるまで、言及することはなかった。だが他人の醜態を公開して踏みつけることを楽しむ奴だ、あの件を、最後の最後での宣言を、忘れているとは思えない。どういう風の吹き回しだというのか? 中里の頭に疑問はのぼれど、回答は出なかった。
髪を整え上着を引っ掛け、家を出る頃には既に狂宴の開始時間だった。
街行く人々は暖かそうな格好で、寒そうに身を縮めている。路上にはいくらか雪が残っており、ズボンの裾を汚す。
場所にしても気がかりだった。
「男なら一生で最低十回は花を咲かせてなけりゃ、土俵に上がる権利もない」とはそのメンバーの口癖であり、水商売の世界で成功を収めた若き野心家はぎらぎらとした目が特徴的で、ファッションには金を惜しまぬくせに、オンボロカローラで異音を上げながら峠を滑走する、気風の良い男だった。
次回飲み会の開催地として、その男自身が営む店の貸切を提案してきた時には、周りにいたメンバーの勢いと、男の意気込みに押されつい了承していたが、負担の平等性と利便性の良さはともかくとして、対慎吾を考えるに、地の利を得られないのは不安要素でしかない。
客引きを通り過ぎ、ネオンで飾られたビルに入る。二階のドアには『本日貸切御免』と達筆に書かれた看板がかかっていた。
会費はもう徴収されているのだから、元は取らねば損である。考えたって仕方ねえ。中里は一つ大きく深呼吸してから、そのドアを開けた。
光源が極限まで抑えられているめ、隣の野郎の顔すら確認するに困難がある現状だった。
それは表向きには周りの暴走に同調しすぎて店内を破壊しないように、という店主の配慮であったが、その店主はスポットライトが当てられている小さな舞台の上で、カラオケ装置を使い真っ裸で飛び跳ねながらブルーハーツを熱唱していた。つまるところ、建前に過ぎなかった。
「すげえ歌うまいっすねえ、キョージさん」
店主とそれに呼応した仲間たちの暴走を、慎吾が冷や水をちびちびと飲みながら眺めるでもなく眺めていると、同じソファに座る隣の男が、感極まったようにそう言った。慎吾は指先をしびれさせる苛立ちを味わいながら、「女を落とすなら歌を極めろ、ってのがあいつの持論だよ」、と絶叫している店主を見たまま、唇をあまりに動かさず言った。
へえ、と元々高めの声を更に高くしたその隣の男を、慎吾は横目で見た。舞台上の裸乱舞に釘付けになっている横顔は、純粋な感心に染まっている。その感嘆の声をこれ以上聞きたくないがために、まあ、と慎吾は言葉を重ねた。
「それも顔が良けりゃあの話だがな。歌のうまい不細工は最悪だ。場を盛り上げるだけ盛り上げたら、後はお払い箱になっちまう」
言いながら、持ったグラスをコースターの上に置き、代わりに煙草を手に取る。
ああそうか、と男は深く頷き、慎吾を向くと、「さすが慎吾さん、よく分かってますね」、と言って、無邪気に笑った。その小奇麗な顔に対する慎吾の皮肉は通じていなかった。そう、篠原信夫とはそういう奴だ。慎吾が最も嫌う部類の素直さ、他人が己の振る舞いをどう受け取るかを考えないそれしか持っていない、慎吾にとっては同じ席にいることすら歓迎しがたいメンバーだった。
それがなぜ、こうして二人で隣同士、一見普通に会話を交わしているかといえば、開始三十分前から一人の男を除いて揃い踏みした仲間たちが、新たな場の雰囲気に浮かれてフライングスタートを決め、ペース配分を考えずに度数の高い酒を開けていったため、開始時点で電波の送受信基地が多く開設されて、元々別の席にいた慎吾と篠原だったが、互いの席の面子が全員先に潰れ、それは特に気にならなかった慎吾と違い、耐えられなかったらしき篠原が、ふらふらとこの席にまで流れ着いたからである。
そこで篠原の来訪を拒むほど、慎吾もこだわりは持っていなかったが、それから十分後の今、こだわりを持つべきだったと既に後悔していた。嫌いなものは嫌いなのだ。その声が、言動が、癇に障って仕方がない。
ここで酒を入れられれば、不快感も多少は和らぐだろう。それを敢えて慎吾がしないのは、あくまで素面ですべてを目撃したいからだった。
フライングスタートから開始時刻を過ぎた今でも唯一姿を見せていない、その男、中里毅。前回のチーム恒例酒宴にて酒豪伝説を更新し、最後の最後で慎吾の期待に応えた男。今度こそはその完全なる痴態を、感情が揺らがぬうちにこの目に焼き付けなければ、気が済まなかった。慎吾は煙草を惰性で吸いながら、思う。そのために、ここまで用意させたんだ。
店主の歌が終わり、生き残った者たちの拍手喝采が場に轟いた。篠原はもうそれには興味を失ったように、頭をめぐらせ、
「そういや毅さん、遅いっすね」
と、不思議そうに言った。この男から中里の名が出ることに、一瞬本能的な恐れが浮いたが、慎吾は態度も声も平静を装った。
「これにかけちゃあ、あいつは遅刻の常習犯だからな」
「時間厳守、っつータイプに見えますけど、気が進まないことでもあるんすかね」
「さあな。そういうことは、本人に聞けよ」
そう言って、灰皿に煙草の灰を落とす。中里が遅刻伝説をも築いている理由など、慎吾には分からない。今日に限定するならば、前回の記憶が残っており、尾を引いているのとも考えられる。しかし、所詮は推測だ。あいつのことを、何で俺が知ってるんだ? 胃のむかつきを感じながら、慎吾は煙を吐き出した。
スーツを着直した店主が、マイクを持って司会を始めた。続きましては我がチームの電信柱がお送りする……。背筋を溶かすような声での紹介が終わると、一昔前のサブカルチャーに受けていたロックバンドの曲のカラオケの前奏が、鼓膜を突き刺すほどの大きさで流れ出した。
おどろおどろしい音が耳を覆う中、慎吾はドアの開く音を聞いた。
ドアを開けた瞬間、前面から物理的な衝撃を加えられたような錯覚を受けた。作り物のヘヴィメタルの音楽が肌を震わせる。薄っぺらく見えるドアだが、防音効果は高いらしかった。
店内は暗く、ネオンの明かりに慣れた目では、奥に設置されている小さな舞台の上で、素っ裸で踊り唄う貧相な男の体しか見えない。その光景に目をやったまま、相変わらずの異様な雰囲気を味わいつつ足を進めると、思わぬところに段差があり、中里は踏み外した。うわッ、と叫び、転倒せぬように反対の足を出し、そこに体重がかかりバランスを崩したため、踏み外した方の足を出し、と繰り返しているうちに、結局はつるつるとした床に負け、転んでいた。
頭と肩に痛みを感じながら、中里が傍にある柔らかいものに手をついて上半身を引き上げると、
「派手な登場だな」
カラオケの大音量にも屈しない、肌に鳥肌をもたらす、嫌味な声が傍でした。
一度強く目をつむり、開いて、中里は自分の手を支えているものが革張りのソファであると判別できるまで視覚を取り戻してから、目を上げた。
薄闇に、こちらを見下ろす悪人めいた顔があった。
慎吾、と中里が呟くと、男は飽きたように中里から顔を背け、咥えていた煙草に火を点けた。その先端から煙が立ち昇るさまを眺めながら、中里はしっかりと立ち上がり、L字型となっているソファの端に腰を下ろした。
「毅さん、大丈夫っすか」
若々しさみなぎる声が目の前でがなったため、中里は目の焦点を奥へ移した。闇の中にぼんやりと、不安そうに歪む、作りの良い顔が見え、ああ、と中里は苦笑を浮かべた。
「篠原、大丈夫だ。何ともない」
「そうですか。あ、遅かったっすね。何かありました?」
身を乗り出すようにして尋ねてくる篠原信夫に、ああ、寝坊してな、と淀みなく嘘を吐くと、手前の慎吾が口端を上げたような気配がして、中里はうなじを撫でられるような焦りを得ながら、上着から煙草を取り出した。
入場と同時の『遅い』コールも覚悟していたが、皆、中里の到着に気付いた風もなかった。この暗さとやかましさでは、舞台の上か、それぞれの区画の中の人間にしか集中できないだろう。
中里はひとまず煙を肺に収め、血が末端から引いていく感覚をかみ締めた。
物の輪郭を見極められるようになった目で改めて周りを見回すと、それほど遅れて来たわけでもないはずだが、半分ほどの野郎どもが、酒に陥落しているようだった。もしやフライングでもしたというのか。
「お前だけだぜ、三十分前になっても集まらなかったの」
思考を読まれたように感じ、中里がぎくりとして慎吾を向くと、慎吾は煙草を灰皿に置き、グラスを口につけていた。透明な中身は、焼酎あたりだろうか。こいつは炭酸派のはずだが、と中里思っていると、慎吾は鬱陶しげに目だけで中里を見、声を出すことに価値すらないというように、「リーダー様は随分と余裕がおありになる」、投げやりに言った。中里は苛立ちに顔を強張らせたが、慎吾はそれを見ることなく、今度は煙草に口をつけた。
「まあまあいいじゃないですか。それより毅さん、飲まないんですか?」
生じた中里と慎吾との間の緊迫感を、にこやかに割り入ってきた篠原が見事に破った。慎吾がした小さな舌打ちを中里はしかと聞き取ったが、篠原は気付いていないように笑ったまま、テーブルの上に備えてあるウィスキーのボトルを手にして、水割りを作り始めていた。
ああ、いや、と中里は曖昧に頷いて、上着を脱ぎながら、慎吾を見た。煙草を吸いながら、テーブルの上に置いていた携帯電話を操っている。こちらには目もくれなかった。
たまたま転がり着いた先がこの男のいる席というのは、何とも救いがたい現実である。なぜこの場へ来ることを億劫がってしまっていたかといえば、ひとえに慎吾と体面したくなかったからだ。
今更他の区画へ移動する気力も起きない。そもそも移動先にどれだけまともな奴がいるかも怪しいものだ。今回は会費のほぼ全額を酒に回していると聞いたし、おどろおどろしいカラオケが終わった後は、トランス系の曲が流されている。これで節制するメンバーも、中里の頭には浮かばなかった。
ただ、「どうぞ、乾杯しましょ」、と言って作った水割りを差し出してくる、篠原信夫の存在だけが中里の心のよりどころだった。こいつはおかしなマネはしない。中里は信頼しているが、おかしなマネを散々し尽くすチームのメンバーの中で平然と存していられる人物だということは、忘れていた。
慎吾さんも、と促された慎吾は目を携帯電話から離さないまま、気だるげにグラスを持った手を掲げた。篠原が音頭を取り、グラスを合わせ、中身を飲み干していった。中里は舐めるだけにした。出した金の分は味わいたいが、慎吾の何にも無関心な態度が意識を邪魔し、酒どころではなかった。
それからは篠原が多弁になり、中里の合いの手も慎吾の沈黙も気にせず家庭環境や車や学生生活やバイトについて語り倒すと、打って変わって貝のように口を閉じ、店内のスピーカーから流れる外国のハードコアロックだけが場を埋めた。
水割りを何杯は空けたが、水のように体に染み入るだけだった。慎吾はほとんど声を出さず、グラスに口をつけ、煙草を吹かし、たまに携帯電話をいじり、煙草を吸い、を繰り返している。中里は苛立ちを煽られた。どんな愉悦でも得るための手間暇はいとわないのが、中里の知る庄司慎吾という男だった。それが何の働きかけもしてこないということは、二ヶ月前の約束を忘れたか、さもなければ熱が冷めてしまったか――だとしたら、酒量の限界への挑戦を強要されることを警戒し、この場に遅刻した自分は、何だというのか。それは己のふしだらさへの苛立ちであった。だが中里はそこに加わっている、様々なものに対する失望への期待と恐怖ゆえの苛立ちは、見逃していた。
「よお、やってる?」
中里は内心を複雑な怒りに染めて黙っており、慎吾は一人の空間を堅守するように黙っており、篠原は眠るように黙っており、そんな三人が作り上げていた微妙な空気は、突如降りかかってきた陽気な一声で崩された。中里も慎吾も、咄嗟に後ろからかかった声へと振り向いていた。
峠に来る時でもスーツを着用している男が、愛想の良い笑顔を浮かべてそこに立っていた。慎吾がなぜか立ち上がり、それにつられるように、恭治、と中里は居住まいを正した。
「今日はすまんな。場所を貸してもらって」
「いや、それは俺が言い出したことだしな。それよりタケちゃん、来ないかと思ったよ」
「悪い、久々にな、休んでいるうちに寝過ごしてな。悪かった」
それも別にいいよ、と男は人好きのする顔を愛らしい笑みで染め、それよりさ、とソファの背に組んだ両腕を置き、中里と視線を同じ高さに合わせながら、内緒話でもするように、柔らかい声でささやいてきた。
「今日、折角だから俺、いつも頑張ってるタケちゃんに、プレゼント持ってきてるんだよ」
何だ、藪から棒に、と中里が怪訝な顔にすると、男は意を得たように目を細めて、顎をしゃくった。中里は男の目を追うように、首を前に戻した。
そして、我が目を疑った。
「どーもお、こんばんはあ」
ピンヒールを履いた、すらりとしているが肉も程よくついている素足が四本、膝上十センチほどまで続いており、その上はワンピースのスカート部分で、ぴちりとした生地は細い腰と豊かな胸を強調していた。それは商売性の強い、二人の女性であった。中里がぽかんと口を開けていると、脳をしびれさせる可愛らしい声で挨拶をした女の子たちは、すうっと中里を挟み込むように座り、一人は手際良くグラスにウィスキーを注ぎ、一人は「初めまして、キョウカです」、と作り物めいた綺麗な顔で、にこっと笑った。ガツン、と中里は脳の奥に打撃を食らった。世界が止まった。
「この二人がね、タケちゃんの話をしてやったら、一度一緒に飲んでみたいって言うもんだからさ。相手してやってくれる?」
男の言葉の意味を解せないまま、ああ、と中里がぼんやりと頷くと、男は耳元で、「この子たち、顔も体も一級品だよ」、と背筋をうずかせるようにささやいてから、ごゆっくりね! と素早く離れて行った。
酒を用意した左隣の女の子が、「あたし、アユミって言います。ね、中里サンってお酒強いんでしょ? アユミ、どのくらいまで中里サンが飲めるのか、見てみたいなあ」、と上目遣いで言いながら、細く柔らかい指を操り中里の手にグラスを握らせた。「あ、あたしもそれ見てみたい!」と右隣のキョウカちゃんが、輝く笑顔で言った。その首から鎖骨、柔らかそうな肌と胸が、中里の視界と思考を支配したのだった。
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