痴態 2/2
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「じゃあねえ、今日は飲ませてくれてありがと、キョーちゃん。また誘ってねえ」
 股間に響く甘い声で、中里を挟み撃ちにしていた女性二人が店主に言い、またサービスするよ、と店主は心をとろかすような笑みを浮かべ、危ないから、と外まで二人を送って行った。
 慎吾は出入り口のドア付近の壁に背を預けながら、いち早く自分が脱出した区画を見た。テーブルの上には、安物のウィスキーやブランデーの空き瓶が整然と並んでおり、ソファには悄然とうなだれた上半身シャツの中里が座っている。
 半ばで目を覚ました篠原は、鼻の下を伸ばしながら勧められるままに飲みに飲んで、現在一言も発せず開いた両膝の間に頭を落としている中里のため、新鮮な水を取りに行っていた。今、中里を見ているのは慎吾だけである。奇妙な居たたまれなさが、腹をえぐる。観察していたところで、楽しくも何ともない。これはただの、義務感だ。
 女性陣を送り終えた店主が戻ってきて、気分はどうだ、と笑いかけてきたので、上々だよ、と慎吾は嘲るように返してやった。店主は楽しげに肩をすくめた。
「そりゃ読み通りに万事が進んだら、結構なことだろうな。うらやましいよ、慎吾ちゃん」
「お前にうらやましがられたくはねえな。あんな可愛い子二人と知り合いのくせに」
「あの子らはうちのお得意様だもの。ずば抜けてるね。でもまあもう少し落ちてもいいんなら、紹介できるよ。よりどりみどりだ、考えとけ」
 大仰に両手を広げて歩いて行く店主の背中に、考えとくよ、と慎吾は声をかけた。今、機会逃さず頼んでおけば、あの男は明日あさってにでも顔写真とプロフィールを用意してくるだろう。そのまめさが金を生んだのだ。だが、積極的にすがる気にはなれなかった。
 結局、中里は店主が度数と体積で丁度良いと考えたラインナップを早々に飲み干して、後は慎吾と篠原でかき集めた各区画で余った酒を、見事に口で処理していった。チャンポンもいいところだった。飲んでる間にトイレへ四回立ったが、足つきにもろれつにも異常は見られなかった。途中、生き残りが侵入してきた折にも、テンションは普段よりも高かったが、ごくまともに対応していた。
 慎吾は壁から背を離し、眺めていた場へ足を進めた。店内には淡い光が満ち、ジャズが流れ出している。ほとんどの人間は、床やソファやテーブルの上に、死体のごとく転がっている。二時間でこれだけいけば、新記録だ。
 慎吾が席へ着くよりも先に、水を持ってきた篠原が中里へ駆け寄っていた。
「毅さん……大丈夫すか?」
 うなだれている中里の隣に腰を下ろし、肩をそっと揺する。んあ、と寝ぼけたような声を出した中里が、篠原の手をゆっくりと払い、顔を手で覆い、あー、と唸った。篠原は払われた手をもう一度肩に置き、水持って来ましたよ、と耳元で叫ぶように言った。中里は手を顔からのけて、篠原の手にある水と、その顔を交互に見た。
「……お前、篠原か」
「はい、俺は篠原です。毅さん、大丈夫ですか?」
「俺は別に、何ともねえよ。うん。ちょっと、考えが、あれだ、まとまらねえだけだ……どうも、分からん」
 中里の声は酒で程よくかすれていた。分からんって何がですか、と篠原は真剣に尋ねていた。慎吾は立ったまま、そのやり取りを見た。
「分からんってのは、お前……俺の、つまり、正式な考えの表明がな……どこに落とし前をつけるべきか、ってことだ」
「オトシマエ、ですか」
「うん、けじめをな、いずれはつけなきゃならねえわけだよ。何事も。それを思うと……気が重くてな」
 深く溜め息を吐いた中里は、それは大変ですね、と共感を露わにしている篠原を、改めてじっと見た。「水、飲みますか」、と篠原はグラスを再び差し出したが、中里はそれには目もやらず、ひたすら篠原を見続け、ついに、
「お前、篠原」
「はい」
「お前は……可愛いな」
 と言い、は? と硬直した篠原の頬に手をやると、ためらわずに、口付けた。
 顔を背けかけ、慎吾は耐えた。口を口でふさがれた篠原はうめいていたが、徐々にソファに押し倒されていき、グラスを持った左手と何も持たない右手を、高く上げるだけだった。
 中里の体に隠れ肝心な部分の動きは見えないし、かかるジャズに音は奪われている。慎吾は周りを見た。誰もこの事態など知らぬようだった。目を戻すと、上がっていた篠原の手が、力なく中里の体にまとわっていた。その光景が滑稽すぎ、慎吾はいよいよ見かね、素早く歩いて中里の後ろに回り込むと、「いい加減に」、とシャツの襟首を後ろから右手で掴み、「しろ!」、と叫びながら、その体を篠原から引きはがした。
 そのまま中里の体をソファに落とし、勢い、自分もその隣に腰を下ろす。たった少ししか動いていないというのに、疲労感は強かった。一つため息を吐いてから、篠原を見る。どこか恍惚とした表情で、天を見上げていた。
 吐き気がこみ上げ、慎吾が思わず口に手を当てると、途端、篠原を解放した中里の「ぎゃっはっは!」という下品な哄笑が響いた。中里は一人、大口を開けて笑っていた。ひいひいと呼吸も苦しそうだった。慎吾は呆然とそれを見ていた。
 笑い尽くしたらしい中里は、非常に愉快そうな顔のまま、そんな慎吾を向いた。
 純粋な、心の底からの笑顔に見えた。常は大きく尖っている目が細められ、眉は優しさを持ち、頬は硬く張り詰めており、横に広げられた厚い唇は赤く、生々しく濡れていた。慎吾は目を逸らせなかった。何かを期待した。その顔がいつもの通り、いかめしく、不快そうに歪められることを、その口から罵る言葉が出ることを、あるいはこの瞬間の崩壊を――見逃したくはなかった。
「お前は、慎吾」
 慎吾を見据えたまま中里は、ささやくようにかすれた声で言い、そして、
「……悪い顔だなあ」
 と、感慨深げに続け、がはは、と笑った。
 慎吾は何かへの後悔と、何かへの安堵、何かへの嬉しさを感じ、「お前に言われたかねえよ」、と苦笑と嘲笑を混ぜた。だがそれも、「でも」、と再びこちらを向いて続けられた中里の言葉のため、止まった。
「俺は好きだぜ」
 熱い汗が全身ににじみ出てくるのを、慎吾は感じた。血が沸騰し、頭がしびれた。慎吾はそれ以上笑うことも笑わないこともできず、止まったまま一応の笑顔で、中里を睨むように見、ぽつりと浮かんだ言葉をようやく吐いた。
「俺は、嫌いだ」
 その何が中里のツボを突いたのかは分からなかった。だがそれを聞くと同時に、中里がまた高笑いをしたことは確かな事実であり、こいつ、笑い上戸か、と慎吾が訝ると、中里は笑いながら勢い良く立ち上がり、「トイレ行ってくら」、とまともな足取りで歩いて行った。
 訪れた静寂は、間が抜けていた。
 慎吾はテーブルから中里の煙草を取り出しかけ、戻し、テーブル上の空き瓶の底に残っているわずかな液体を、小さな氷の残るグラスに集め、一気に飲んだ。喉も腹も、顔も手足も温まり、それが平常の体温であると感じられた。じっくりと己の体が落ち着いていくのを確かめながら、考える。あれが、俺の見たかったものか?
 いや――俺はあれを、『見』たかったのか?
 頭を振り、一つ息を吐いて、慎吾は何とはなしに目を上げた。丁度真っ直ぐ前にいる篠原が、こちらを見ており、目が合った。篠原は膝を合わせ、前かがみに座っていた。顔が、どことなくうつろだ。何となく少しばかり見合っていると、「慎吾さん」、と深刻に篠原が言った。
「俺、毅さんの新たな一面というものを、発見しました」
 慎吾にとっては新しくはなかったため、そりゃ良かったな、と感情を込めずに言ったが、ええ、と篠原は力強く頷いた。
「すげえっすよ、あれは。毅さん、あんなナリで、マジでキスうまいっす。俺、チンコきましたもん」
 篠原の合わせられた膝と、その真剣な顔を見て、そりゃ良かったな、と慎吾は心にもないことを言ったが、やはり篠原は、ええ、と力強く頷いた。
「慎吾さんも一回やってみたら分かりますよ、あれ。やってみてくださいよ」
「いややらねえよ」
「とんでもねーっす。見くびってました、俺。毅さん、あの人はさすがですよ、ホント」
 篠原は両手を顔につけ、はあ、と悩ましげな吐息を漏らした。その様子に対しても、先ほどの事態に対しても、既に吐き気を忘れている自分に気付き、今度こそ煙草を取りだしながら、分かりたくもねえ、と慎吾は呟いた。

 床の真ん中や洋式トイレにメンバーが転がっている中、茶色がかった小便を気分良く排出し、鏡の前に立って自分の少しは赤い顔を見ていると、突如、どっと現実が押し寄せてきた。
 自分の行為が次から次へと頭を駆け巡る。中里はその場に座り込みかけ、洗面台に手をついて、体を支えた。ここで座ってしまうと、二度と立ち上がれないように思えた。
 あの女性たちには働かせられた理性が、篠原の顔を見る頃には限界を迎えていた。その後のことはよく覚えていない。いや、覚えているが、思い出したくはない。篠原との熱い接吻も、慎吾への発言も、記憶から消去したい。できないことは承知の上の願望だった。
 蛇口をひねり、水流に当てて冷たくなった手で、顔を撫でる。多少、頭も冷えた。あれが本来の自分なのだろうか。あれが自分の本心なのだろうか。思い返すほどに憂鬱になる。あの女性たちとの夢のような幸福なひと時も、己の暴走で汚してしまった。もう取り返しはつかない。
 考えることにも飽き、中里が沈んだ気分のままトイレから出ようとすると、丁度入ってくる男がいた。中里に気付くと、お、と男は気を許すような笑みを浮かべた。
「タケちゃん、いたの」
「ああ。恭治、俺はそろそろ帰るよ」
「そうか、そろそろ潮時だものな」
「世話をかけたな」
 全然全然、と続けて中里の横を通りかけ、「あ」、と男は何かを思い出したように止まり、にやっと笑った。
「な、タケちゃん。プレゼント、どうだった」
 中里はつい顔を撫で、ああ、うん、と言葉を探し、間を置いてから、「……すごかった」、と拙い感想を述べた。ははは、と男は綺麗に笑った。
「だろ、あの子らは俺もいいと思ってたんだ。タケちゃんなら特別に紹介してやってもいいよ。あいつらも気に入ってたみたいだし。考えとけよ」
 男は中里の返答を聞かずに肩を叩き、転がる男を踏みつつ小便へ向かった。その非現実さのあまりか、喜びを感じられない自分に戸惑いながら、ああ、じゃあな、と声をかけ、中里はトイレから出た。
 途中、生き残りの状況を確認しつつ、席に戻る。慎吾の顔は直視できなかったが、お帰りなさい、と笑う篠原の顔は大丈夫だった。さっきは悪かったな、とその前を通り、トレーナーを取りながら謝ると、いえ、勉強になりました、と真面目に篠原は返してきた。何の勉強になったのかは考えずに、そうか、と頷いて、トレーナーを被り、上着に腕を通す。
「俺は帰る。これ以上いても、やることもねえしな。篠原、お前はどうする」
「俺はアキオとか待ってますよ。どうせ暇だし」
 ごく普通の篠原から、目を慎吾に移す。既に立ち上がり、ダウンジャケットを着て、チャックを閉めていた。それだけ確認し、煙草を引っつかんで、篠原に別れを告げると、中里は出口へ向かおうとした。
 景色が斜めに傾いていた。
 不審に思いながらも足を進め、店が傾いているのではなく、自分が傾いていることに気付いた時には、倒れかかるところを、何者かに抱き止められていた。脇の下に両腕が入っており、胸の前で組んだそれが、体を引き上げた。足の裏が地面に接地し、砕けた腰に力が戻る。
 振り向くと、すぐ間近に慎吾の顔があり、驚きに中里が声を出せずにいるうちに、慎吾は中里から離れた。
「あれだけ飲んでこれくらいで平気って、象並みだな、お前」
 嘲るように言い、慎吾は先を歩いた。何も言い返せないまま、後を追うように、だが自分の体の無事を確認するようにゆっくりと、中里はドアを出た。
 全体に満ちる光が目に痛く、ひとまず閉じ、まぶたの裏で馴染ませてから、薄く開いた。目の前に、慎吾が立っている。何でだ、と中里は思った。何でこいつは俺を待っている?
「寝覚め、悪いじゃねえか」
「あ?」
「俺の後にこの辺血まみれにされても。階段までは送ってやるよ、リーダー様」
 顎を上げながら、中里が聞く前に慎吾は答えた。実際にも精神的にも、見下ろしている。腹立たしさを覚え、要らねえよ、と中里は素通りし、先に階段を下りた。
 一段も踏み外すことなく狭い踊り場まで着くと、視界が端から白くなり、目を閉じ、壁に手をついた。めまいだった。耳鳴りがし、だがすぐに治まる。
 深呼吸をして気を落ち着けようとした時だった。
 ドタドタドタン、と後ろで盛大な音がした。
 体が勝手に動くほどに驚き、中里は振り向いた。片足を伸ばし、片足を曲げ、上着のポケットに両手を突っ込んだままの慎吾が、踊り場からすぐの段差に、斜めにもたれていた。明らかに、落ちていた。
 間の抜けた顔をしている慎吾の、その、自分の状態が信じられないような、そもそも何か起こったことも信じられないでいるような様子に、笑う気も起こらず、中里は何となく右手を差し出していた。上着のポケットから右手を出した慎吾が、呆然とした顔のまま、その手を握る。汗で濡れており、熱かった。滑らないようぎちりと握り締め、強く引き上げる。狭い踊り場に二人の体が立った。
 手を離し壁に背をつけ、そこでようやく、はっ、と中里は笑った。慎吾は掴まれた手で頭を掻き、これは事故だ、と釈明するように言った。中里はおかしくなった。
「別に、言い訳することでもねえだろ。段差踏み外すなんて、誰にでもある」
「お前は酔ってるからいいが、俺はほとんど飲んじゃいねえんだ。まともでこれは、単なるボケだぜ。それも誰にも見られてない。コケ損だ」
「どこもひねってねえか」
「腰、打っただけだ。しゃらくせえ」
 やり場のない怒りを抱えたように、慎吾は舌打ちする。それ以上は何も、笑えることはなかった。壁に体を預けていると、動く気が奪われていく。せめて口だけは動かしていたくなって、なあ、と中里は壁を殴りたそうな慎吾に声をかけた。
「さっきは、変なこと言って悪かったな」
 慎吾は意外そうに眉を上げ、出したままの右手を顔の前で振りながら、「酔っ払いの戯言なんていちいち気にしてられるかよ」、と面倒くさげに言い、ああ、と思い出したように、
「それより、篠原が言ってたぜ。お前のキスでチンコにきたって」
 そう続け、はあ? と顔面崩壊の危機に陥った中里に、慎吾は右の頬を上げ、また続けた。
「キスもエッチも下手そうだけどな。やるじゃねえか」
「いや、今までうまいと言われたことはねえが、あれは……篠原のは、多分、勢いがあったからだろう」
「勢いね。女にそれだけやれりゃ、お前も十分花咲かせられんのにな」
「女性にあんな横暴なマネ、できねえよ」
「男ならいいってか」
「遠慮は要らねえだろ」
 俯いた慎吾が鼻の下をこすり、そういう問題かよ、と笑いながら言った。中里は返す言葉もなかった。そういう問題ではないだろう。ではどういう問題かと考えても、分からなかった。そもそも、いくら酔ってやりたくなったからといって、欲望任せにすることではない。ただあの時は、女性相手に我慢を貫いたところで、気遣いの要らない同性が現れたため、理性がつかの間消え去っただけだった。つまり、どう思われても良い男とならば、大丈夫ということかもしれない。
 ぼんやり考えていると、咳払いをした慎吾が、顔を上げた。目の前だったため、必然的に目が合った。いつも通りの顔だった。
 その瞳が、わずかに下に動いた。
 口元がざわついた。
 慎吾は一歩、足を前に出してきた。距離が詰まる。先ほど掴んでいた手が、左耳を通り過ぎ、壁につく。
 中里は、慎吾の目を見ていた。それは中里の目を見てはおらず、その顔は、少しずつ近づいてくる。緊張に、頬が痙攣した。時間はたっぷりとあるようで、わずかしかなかった。何が行われるか、どうすべきか、一つの考えも、浮かびはしなかった。
 鼻先が触れかけた瞬間、そして中里は、慎吾の胸を突き飛ばしていた。吹っ飛んだ慎吾は、どすんと階段の三段目に尻餅をついた。中里は壁に背をはりつけた。呼吸が短く、浅くなる。
 慎吾は何事もなかったように、すっと自力で立ち上がり、右の手の平をジャケットで払った。やはり一つの考えも浮かばないまま、すまん、と中里は呟くように言っていた。中里をちらりと見て、いや、と慎吾は、咳き込むように笑った。
「良かったよ。いつものお前で」
 その言葉で、何か重大な決定が下されたように思え、中里は息を呑んだ。慎吾は背中をさすりながら中里の前を通り、忘れろよ、と会話の続きのように言うと、背を向け、振り返りもせず、残りの階段を下りていった。
 追おうにも、体は動かなかった。
 遠ざかる足音を聞き終えると、途端に脱力し、とうとう中里はその場に尻をついた。正しいことを成し遂げたような達成感が胸を満たすとともに、喪失感が腹に穴を開けた。今、理性が何かを確保し、何かを捨て去った。
 それはもう、二度と手には入らないだろう。
 その風通りの良い感覚に浸りながら、中里はしばらく踊り場に座り込んでいた。
(終)

(2006/02/11)
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