雨 1/2
雪がうっすらと降っていた。地面に溜まったそれはコンクリート上の砂粒や路肩の泥と混じり、べちゃべちゃと足にまとわりついた。乱暴に歩くうち、スニーカーから靴下まで水が染み入り、慎吾は舌打ちした。
自宅でまだエンディングを見ていないアクションゲームをやっていたが、二時間後には飽きて、小腹も空いたので外食することにした。玄関のドアを開けたところで、雪が降っていることを知った。天気予報も見ていないし、窓のカーテンは閉めっぱなしだった。防寒着を装備するのも面倒だったので、そのまま外へ出た。どうせ歩いて三分でファミレスだ。だが、水気の多い雪はパーカーにもジーンズにもたやすく浸入してきた。帰りてえ、と思ったところで、店の灯りが見えたので、億劫なまま駆け足になった。
お一人様ですか、という化粧を塗りたくった若いウェイトレスの確認に、適当に頷いて、お煙草はお吸いになられますか、というくどい言い回しに、再度適当に頷く。ではこちらへどうぞ、と案内される。午前零時でも店に客は多かった。繁華街からは外れているが、国道沿いにあるために、若者どもがくだを巻く場所として良く利用している。慎吾は下劣な話をする場所として利用していた。
ウェイトレスの後ろについて十歩、ボックス席の一つで見覚えのある姿に出くわした。小太りの坊主に眼鏡、その横にアフロにヒゲの男二人。「あれ」、と普通の声を出すと、「おお」、と向こうも気付いて手を上げた。「何やってんだお前ら」、と慎吾が立ち止まると、ウェイトレスも立ち止まった。
「何やってんだ、って、飯食ってんだよ飯。お前こそ何やってんだよ」
「飯を食いに来たんだよ、俺は」
「じゃあそこ座れよ、残飯処理」
アフロが指で示した席を見て、「いいでしょ毅さん」、とアフロが言う声を聞いて、慎吾は初めてもう一人いることに気が付いた。「俺は別に」、とその男は言った。タートルネックの黒いセーター。黒い髪に、直線的な顔。
中里毅、R32GT-Rに乗っている、自称妙義山最速の男。
頭に簡単なプロフィールを並べながら慎吾は、傍のウェイトレスが笑顔のままで固まっていたのを見て取り、「ここ座るんでいいっす」と簡単に告げた。
「いや、っつーかさ、やっぱしばらく会わねえじゃん? 冬だしさ。だから久々に会わねえかって毅さんに俺が連絡したわけよ、腹減ってたし」
アフロがべらべらと喋る言葉を慎吾は聞き流しながら、湿った煙草に何とか火を点けた。席に腰を据えると、服の重みがずっしりと体にかかって、ため息が自然と漏れた。小太りが「お疲れだな」と息を吐きながら言い、「俺はいつでも時間に追われてるからな」、と慎吾はいつものように調子づいたことを返した。軽口の応酬は、同年代の人間との特権だ。
前の二人は三枚頼んだピザを三切れ残したらしく、食え食えと押し付けてきた。懐の寒さもあったので、慎吾は遠慮なく食べた。店員を呼んで、コーラとサラダも頼んだ。ここ二日、野菜もろくに食べていない気がしたのだ。隣の男は既に食事を終えたらしく、食後にコーヒーを飲んでいた。目を向けると、すぐに気付かれて、何だ、と言われる。いや、と慎吾は顔を前のアフロに戻した。落ち着かなかった。
峠以外の場所で見る中里毅という男は、どこか決定打に欠ける。服装は峠でもよく見たもので、その連綿と続く遺伝子の残酷さを思わせる良いとも悪いとも言いがたい顔も、かすれ気味の低い声も、すべて認識へと素早くつながるが、ただ傍にあの車がないというだけで、芯が一本抜けたようなあやふやさに満ちていた。だから慎吾は落ち着かない。せめて車があれば、この男本人に意識全体が移ることはないだろう。峠が冬ごもりに入った時から今日の今日まで会おうとしなかったのは、それを恐れてのことだった。
つまり、意識したくなかったのだ。
小太りもアフロも慎吾を気にした風もなく、新車の話やパーツの精度、他時事の雑談を繰り広げており、中里もゆったりとそれに乗っていた。慎吾は時折課せられた役割を果たすように揶揄を挟んだが、ほぼ食べるのみだった。腹がふくれていくと同時に、苛立ちもふくれていた。これは確かに予期せぬ事態だったが、いつものようにすぐ割り切るのではなく、いつまでも動揺したがっている自分に腹が立った。
話はだらだらと続いていたが、中里が腕時計を見て、そこで解散がほぼ決まった。
外はまだ雪が降っており、水気が溢れ返っていた。アフロが車の鍵をちゃらちゃら鳴らしながら、「マジでいいんすか?」と中里を見た。ああ、と中里は胸元で両手を内側に入れて腕を組みながら頷いた。
「帰りは歩いてく。どうせそう遠くもねえしな」
「雪降ってんでしょ。風邪引きますよ」
「大したもんじゃねえよ」
小太りがアフロを促し、二人は未練もないように、「じゃあ」と車に乗り込んで、ガロロロロと壊れそうな音を立てながら発進していった。慎吾は両眉を上げつつ中里を見ていた。中里は慎吾を向き、何だ、と眉根を寄せた。
「お前んチ、近かったか?」
「あいつらの運転は、ちょっとな。胃に悪い」
「そう言ってやれよ、本当のことを隠してるのはタチが悪いぜ」
「下手ってんじゃねえよ、ただ、前二人でべちゃくちゃ喋るから、前方不注意が多いんだ。はらはらもんだぜ。まあ、天候が悪化したらタクシーでも拾うさ」
「送ってくか」
意外な言葉に中里は驚いたようだった。慎吾もまた、自分の言葉に驚いていた。妥当だとも思えたし、完璧に間違っているとも思えた。そこまでするべきではない、と理性が首を振っている。気付けば手が震えていた。だが、「いや、いいよ」と中里は素直に首を振った。あっそ、と慎吾は頷いた。いつの間にか、雪が小雨に変わっていた。布に水分が染みていく。
どこか重い沈黙ののち、
「久しぶりだな」
「今更だな」
改めて言った中里に、そう慎吾が笑ってやると、中里はむったしたように顔をしかめたが、すぐにほどいた。一度目は見逃し、二度目は見咎める。ワンパターンの反応だ。出会った時から変わらない。どれほど前からこの男は、こんな風に顔をしかめ、何でもないように緩めてきたのだろうか。これが日常になるまでに、どれだけの人間がこの男を見てきたのか。考え出すと胸がざわつき、慎吾が気取られぬ程度に眉を動かすと、中里は再び改めて問うてきた。
「元気にしてたか?」
「まあ、普通だよ。お前は」
「何も変わらねえ。二ヶ月近くか、会ってないのは。成長しねえな、お互い」
「成長するような歳かよ。二十歳越えたら後は、衰えるだけだろ」
「人間いくつになっても勉強するこたァ多いぜ。何事も心がけ次第だ」
「じじくせえことを」
言うと、中里は苦笑した。その柔らかさに、未練を感じた。まあ、またな、と中里は無骨に手を上げ、その手を慎吾は自然に掴んでいた。頬は上がっていた。中里は顔をしかめ、何だ、と目を合わせてきた。慎吾は、いや、とだけ言い、そのうち中里は窺うような、挑発するような、ぎこちない笑みらしきものを浮かべた。
「あ?」
「いや、っつーか……」
口の中で言い、慎吾は左右を確認してから、真正面の中里をもう一度見た。何だよ、と悪ふざけをいさめるような笑みがそこにあり、慎吾はそれに一瞬口付けた。一秒にも満たない時間だった。感触を味わう機会すらなかったが、顔を離してすぐ目に飛び込んできた中里の間の抜けた顔は、十分味わえた。
「……あァ?」
素っ頓狂な声が上がり、慎吾はその右手首を離し、はっ、と一つ笑った。中里は顔をまともに戻し、怪訝で覆った。
「何だ、お前」
「何だって、お前、人に向かって『何だ』なんて聞くんじゃねえよ」
「冗談か。お得意の」
「冗談?」
「今のは」
「別に、してえからしただけだ」
はあ? と中里が大声で言うと、風が大きく吹いた。ぱらぱらと雨が鳴る。小雨とは言えないほどの勢いになってきた。
「っつーかさみいだろ、そりゃ、冗談にしても何にしてもよ」
「確かに寒いな、まったく、雨降るなんて予報じゃやってなかったが」
中里は視界を確保するように、腕を目の上にかざしていた。慎吾がパーカーのフードを被りながら、「話、かみ合ってなくね?」と少し声を荒げて言うと、中里は焦れったそうに、「だから何なんだお前は」、と叫び、そこ戻るかよ、と慎吾は舌打ちして、ともかく話のまとめを図った。
「まあさみいし、送ってってやるよ、どうせやることねえし」
身を震えさせながら言って、慎吾が歩き出すと、中里はそれでも後をついてきた。
「分かんねえぞ、お前」
歩調を合わせながら、中里が言った。俺も分かんねえし、と慎吾は返した。だが、本当は分かっていた。未練があった。もう少し、一緒にいたいと思った。思いたくなかったから、走りがないのを理由に、連絡を取らなかったのだ。
分かっている。いつかはこうするということを、分かっていた。分かっていたから、会わなかった。しかし今、会ってしまった。どうすんだ、と思いながら慎吾は、流れじゃねえか、とも思っていた。冷えた空気は理性を煽り、効率的な行いを考えさせていた。
途中で、雨が本降りになった。地面へと突き刺すように雨粒が落ちていく中を、慎吾と中里は二人で駆けた。跳ね上げた雪と泥水がジーンズの裾を濡らしていったが、構っている暇はなかった。そもそもそのジーンズ全体が濡れていた。
家に入るや否や、慎吾はポケットから財布と煙草を抜き取ったジーンズとパーカーと靴下を脱ぎ、洗濯籠に放り込んだ。後ろからついてくる中里の気配の変化は気にせず、パンツ一丁で暖房の前に座り込んで、クソが、と毒づいた。
「何で雪が雨になるよ。普通は雨が夜更け過ぎに雪に変わるんだろ、何だこの天気は」
普通かそれ、と後ろから声がしたので、慎吾は振り向いて、煙草と財布の中身を探りつつ言った。
「おめえは相変わらず微妙なツッコミしやがるな」
「何だ微妙って」
「うわ、煙草まで濡れてやんの。どうするよ」
「乾かしゃいいだろ」
「一回湿気ったの吸いたかねえって。おい、シャワー浴びろよ」
札を床に並べながら促すと、「何?」と意味が理解できぬように中里は言ったが、慎吾は立ち上がって話を進めた。
「服は、まあ、俺のでいいだろ。体そんな変わんねえし」
収納ケースから下着を抜き出す間に、「そこまでされる義理」まで中里が言ったところで、「義理とか筋合いとか親切とか優しさとか愛情とか」、と慎吾は語尾に被せた。
「まあその他諸々お前のお好きな理由じゃねえの、残念だけど。お前がそのままだと俺の部屋が濡れるわけよ、それともお前、俺のEG6のナビシートにその濡れたケツを押し付けてえのか? それなら俺は雨の中にお前の濡れケツ蹴り出させてもらうぜ、マジで」
下着とトレーナーの上下を差し出しつつ言うと、中里はあんぐりと口を開けていたが、五秒で「……分かった」と頷き、服を手に取った。
一回目は見逃して、二回目は見咎める。その差だ、と慎吾は今にもちぎれそうなほどに濡れている千円札が六枚並んだテーブルを睨みながら思った。限度の感覚を考える。それと同時に、人間として、ということも考えた。矮小な個人として、取るべき行動だ。それから身震いして、その辺に落ちていた、いつ使ったのか分からないタオルで体を拭き、パンツも脱いで新しい服に着替えた。肉の底まで冷えている体は、なかなか歯の音を合わせないが、現状では取るに足らないことに思えた。
ベッドの端に座り、札を見据える。どうするかだ。どうするか。いや、どうにかするのか? したいのか? するべきなのか、するべきではないのか? そもそも、何をするんだ? 慎吾は濡れた札を前にして、結論を出さないことをぐるぐると考え続けた。そしてシャワーを浴び終えた中里が、冬眠を終えた熊のようにのっそりと現れて、「お前も」、と言った。
「……あ? 俺?」
「冷えるだろ、そのままじゃ」
「冷える、冷やした方がいいような気がすんだよ、今は」
「何言ってんだ。風邪引くぞ」
「それなら正当な理由で休めるじゃねえか、クソ、ピン札なのに濡れちまって」
髪を下ろしている中里は、それでも強い目を向けてきて、大丈夫か、と訝った。慎吾はその言葉を聞いてはいたが、理解しようとはしなかった。おい、ともう一度声をかけられ、そこでようやく意識が向き、慎吾は立ったままの中里を振り仰いだ。
「何だお前、さっきから」
「そりゃこっちのセリフだよ。変だぞ」
「ああ、行くか?」
慎吾が立ち上がると、中里はその肩をがっちりと掴んできた。
「座っとけ、タクシー呼ばせてもらう」
「お前の札も濡れてんだろ」
「使えねえわけじゃねえ」
「別に……」
何を言おうとしたのか忘れたため、慎吾はそこで言葉を切った。中里の顔は不思議を丸々写していた。互いの動作が奇妙に鈍くなり、視線が交わされかけ、離れ、再び交わった。
「別に?」
「や、ちょっと」
「あ?」
何かしなければならない、と思った。飽和した空間を破壊せねばならない。何かを確実にしなければならない。少なくともこの状態は不安定だった。慎吾は中里を見たまま、左肩に置かれた手をそっと外した。その手を持ったまま、視線は動かさず、感覚だけでそれを口元まで運び、手の甲に唇をつけた。ぬるい。中里もまた慎吾から目を外さず、口元に分かりやすく力を入れていた。時折頬に痙攣すら見えた。
「冷やした方がいいんだよ」
手の甲に囁くと、中里の全身がびくりと震えた。口を開き、舌先で皮膚をなぞると、ついに振り払われた。慎吾は笑っていた。中里は信じられぬように顔をゆがめていた。
「何の真似だ?」
「……何?」
「だから……お前、何でこんなことをする。何がしてえんだ。変じゃねえか」
「前からだよ、元々だ、全部」
「……俺が、何かしたか?」
怪訝そうに見てくる中里へ、宙に浮かせたままの右手の人差し指で顎を掻いてから、慎吾は考えずにものを言った。
「お前がどうこうって問題じゃねえよ、毅、俺が……いや、お前か? つまり……だから、状態の……そういう、必然的……な? ことに……」
顎を掻いた手で目を覆い、ただ呟いた。言葉の意味も考えなかった。焦って仕方がなかった。何か、していなければならない。していれば、この場は続く。
「おい」
自分の手がさえぎっていた視界が、突如開けた。中里は慎吾の手を引っ掴み、身を開かせ、剣呑な顔を寄せてきた。
「何だお前は」
苛立ちが明らかに見て取れた。慎吾はやはり笑っていた。どんな状況でも、この男が真面目だと、おかしくなる。
「慎吾」
余計に凄んでくる中里に、互いの顔面以外に風景が入らないほど近付いた状態で、慎吾は笑みを浮かべながら、囁くように言った。
「そんな質問ねえだろ、答えようが」
「何がしてえんだ、お前」
「それを答えて……それを答えたら、俺に何か得があるのか?」
「得とかいうことじゃねえ、何かするなら……何でも、ちゃんとするべきじゃねえか」
慎吾は鼻で笑って首を横にひねった。この期に及んで道理もなく、ただ一つしかすることは思いつかなかった。おい、と皮膚をびりびりとさせる声がする。流れ、だよな、と慎吾は思いながら、首のひねりを戻すとともに、前へ出て、二度目のキスをした。今度はすぐには離れなかった。中里はまだ抵抗しなかった。閉じた唇を閉じた唇にただ合わせたまま、慎吾は何かを待っていた。だが何も訪れるわけもなかった。三十秒ほど体勢を変えずにいて、慎吾はそこで焦れて、唇を開け、手の甲をなぞったように舌で中里の唇を撫でた。そしてすぐさま体を押しのけられた。大した力もかけられなかったが、慎吾は足をもつれさせ、ベッドに尻餅をついた。中里は手の甲で口を拭い、見下ろしてきた。
「お前」
ベッドの端に座り直し、見上げたところにあるその顔には、心なしか、血の気がわいているようだった。ぞく、と背筋に何かが走った。のっぴきならないものが、股の間で組んだ手の腱を引き絞った。だが慎吾は動かなかった。中里は慎吾の言葉を待っていたようだったが、見切りをつけたのか、自分から声を出してきた。
「……慎吾」
「何」
「何じゃねえ、お前」
「俺が何だよ」
「何考えてる」
尋ねられ、そこで初めて自分が何を考えているのかを考えたが、考えは語らず、慎吾は本当か嘘かも決めないまま、「いや、してえな、って」と返した。中里は瞬時に叫ぶように言った。
「ふざけるな」
「ふざけてたらもっとうまいこと運ぶよ、こんなこと」
中里は息を詰め、慎吾は合点した。遊び心が足りなかったのだ。真面目になりすぎた――本気になりすぎた。思いついた途端、今まで露ほどもなかった羞恥心が募ってきた。全身に血がいき渡る。慎吾は冷えようとしない手で、冷えようとしない顔を覆った。やばい、と思う。ごまかしようがなくなった。自分の呼吸音が耳についたが、もう一人誰かの呼吸音も気に触るほど良く聞こえた。中里の気配が強く感じられた。
「本気か」
掠れた声が降ってくる。何が本気か、何に対する本気なのか、どうすることへの本気なのか。多く選択肢はあるが、個別にすることの無意味さは理解していた。時間稼ぎも未練も、今となっては恥しか生まなかった。慎吾はため息を吐き、俯いたまま言った。
「本気だよ」
自分の声には聞こえなかった。それ以降、室内には遠い雨の音だけが響いていた。心臓がうなっていた。唾は出なかった。秒が刻まれるごとに、体の内側から圧力がかかり出した。中里は何も言わない。動きは見えない。額に当てていた手に、自然に力が入っており、両のこめかみが締め付けられた。ここまでだぜ、と慎吾は思った。何かはあるだろ。思うとともに、体の内部に溜まっていた力が外に飛び出そうとして、卒然慎吾は立ち上がり、中里に向かって歩いた。
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