雨 2/2
  2


「本気だ本気だ本気だ本気だ本気だ本気だッ、だからどうした! だったらお前はどうするってんだ、どうもしねえだろ、ああ!?」
 突然どたどたと迫ってきた慎吾に怒鳴られて、中里は咄嗟に瞠目するのみだった。慎吾はつかの間中里を強烈に睨み上げ、それから苛立たしそうに舌打ちすると、話になんねえ、と呟き、背を向けた。
 離れかける慎吾の襟首を服ごと、中里は右手を伸ばして咄嗟に掴み、そのまま襟だけ持って力に任せ、自分の顔の前まで引きずり寄せていた。ぐ、と喉の詰まった声を慎吾は漏らしていたが、気にする余裕は中里にはなかった。思考をしている暇すらなかった。ただ、離してはならない、その義務感だけが体を動かしていた。
 鼻先には慎吾の冷たい後ろ髪があった。中里は襟を握った手から、力を抜くことができずにいた。
「……何、何だ?」
 引き寄せられた体勢を変えず、焦りの浮いた声で、慎吾は言った。中里はそれに焦りを煽られ、更に襟を握り締めた。
「お前は、何がしてえんだよ」
 耳に口を近づけ、凄むように囁くと、慎吾は顔を背け、大きくため息をついた。前髪の何房かと左の張った頬骨と、左耳だけが見えていた。中里は待った。とにかく行動の説明がなされなければ、この事態はこの先、失われるようにも思えた。それが、恐ろしかった。慎吾はやがて背けていた顔を、ゆっくりと中里へ向けてきた。先ほどよりも近い距離で見合うこととなった。中里はとてつもない緊張を感じながら、慎吾の目だけを見続けた。その襟を握る手からは、まだ力が抜けなかった。慎吾は何でもないような、頓狂な表情を浮かべており、一旦自然に目を落としてから、再び中里と目を合わせ、自然すぎるあまり、不自然になるタイミングで口を開いた。
「触りてえ」
 わずかにかすれたその声は、背筋を震わせた。中里は緊張を窺わせないように、慎重に言葉を出した。
「触る?」
「……で、どうすんの、お前は?」
「……何?」
「だから……こういうことを」
 慎吾の右手がぬっと出てきて、繊細に左の頬を覆った。汗ばんだ、冷たい手だった。
「許すとか許さねえとか、やるとかやらねえとか、するとかしないとか……決めるだろ、普通」
 親指が、下唇をゆっくり撫でてきて、中里は首をわずかにねじり、その動きを避けた。その間に、襟を掴んでいた手から、勝手に力が抜けていた。それまで半ば首を絞められる形になっていた慎吾は、解放されると同時に襟元を直し、対面になると、両手で頬を挟み込んできた。
「引っ、張ったけどな、俺は……言ったぜ。マジで。本気だ、何べん言ったか、まあ何べんでも……そういうことだよ、だったら……毅、お前が後は、お前だろ、どうするか。どう……違うか」
 真正面から見据えられ、決断を迫られ、中里はいつになく臆した。逃げられる状況ではない。何かは決めなければならないのだ。引き止めなければ良かったのか、無視をすれば良かったのか。喉に引っかかっていた一抹の後悔は、思考に否定された。できたわけがない。ここまで引っ張ったのは、過去から延々続いている、時折ひょっこり頭を出しては、すぐに引っ込む、これを、手放したくない、というその思いからだ。だが、これが正しいことであるとは思えなかった。許すべきでも、行うべきでもない。今すべきは、毅然とそれを拒否することだと分かっていた。分かっていても、開けた口も太ももの横にある手も、それ以上動かなかった。どれほど時間が経ったか判然としないまま、中里は唾を飲んだ。その音が響くと同時に、不意に、慎吾が痙攣のように頬を引きつらせ、体温が交わり初めていた両手に、力をこめてきた。
「……わり、待てねえ」
 語尾は唇から伝わった。口が合い、予兆もなく、舌が入ってくる。中里は口を閉じなかった。腕が動き、慎吾の両の前腕を掴んだが、何の力も加えられなかった。丁寧に口の中をいじられ、耳の裏からうなじにかけてがじりじりとした。思わず目を閉じて、目をつむるべきではないと思い、改めて開くと、その途端に慎吾と目が合った。行為の全体が自覚され、背筋が引きつりそうになり、中里は反射的に顔を引いたが、慎吾は動きについてきて、中里は更に顔だけではなく身までを引き、やはり慎吾はそれについてきたので、どんどん後ろに下がっていき、床に落ちている袋や何やかにやを踏みながら、ついに背中が壁に当たり、追いかけっこは終了した。
 慎吾はそこで口を離し、頬を挟んでいた両手は壁に当て、
「……どうすんだよ」
 迷いのある声で、囁いてきた。中里は眉根を寄せ、目を閉じ、舌打ちした。
「分かんねえ」
「卑怯だろ、その言い方」
「正しく……ねえだろ、これは、でも、お前がそうしたいなら、構わねえような……しかし、おかしい、そういうことが何でもある、だから俺には……分からねえ、どうするか、俺は……」
 中里はそれ以上言葉を見つけられず、目を開け、下から慎吾を覗いた。笑っているかと思ったが、慎吾はどこか果ての見えない顔つきで、ああ、と納得したように呟いた。
「そうか、お前はそういう奴だよな、お前らしい……」
 俯いた慎吾のつむじが目に前にきて、中里がそれを見下ろしていると、やがて頭を振った慎吾は、「いや」、と長い前髪の間から、窺うように見上げてきた。
「そうじゃねえ、っつーか……いいの?」
 口の端が勝手に動きかけ、中里はそれを抑えようとして、「ああ」、と頷いていた。

 それから息継ぎに苦しむほど口付けは深くなり、上着の裾から入ってきた熱い手が背中を撫でて、中里は脳味噌が溶けていくような感覚に襲われた。歯茎や舌、粘膜が何度となく刺激され、徐々に腰の奥までしびれていく。視界はかすみ、まるで現実が何かに屈服されているようで、自分もまた何かに屈しているように中里には思えた。慎吾の両手は服の下の肌を這い、わずかな隙間から背中を上って下りて、腹から絞り上げるように胸へ移ると、双方の突起を指で緩くこねた。むずがゆくなり、中里は慎吾の二の腕を押さえるように掴んだが、胸をいじる指の動きは止まらず、次第に刺激は直接的に下腹部につながっていった。それに耐えるため、呼吸を止める機会が多くなり、舌をようやく抜いてきた慎吾は、今度は耳へ入れ、唾液のこすれる音を立てながら、「やっぱ」、と息だけで言った。
「男でも、ここ……感じんの? 俺、やられたことねえし、知らないけど」
 言葉と指の動きが呼応しており、中里は歯をかみ締めるのみだった。信じられないほど体は熱くなり、汗が浮き始めていた。耳を舐められ、声を入れられても、乳首を触られても、確かにそこには共通した快感があったが、手放しに認めるには、それらは中里の中では異質すぎた。だが、慎吾がおもむろに片方の手を胸から腹へと下ろしていき、そしてズボン越しに股間に触れた時、それは形を明確にし、現実にした。鼓膜に、慎吾の笑った気配が届いた。
「何か……勃ってる、よな」
「言うんじゃねえ、そんな……」
「いや、いいんだけど……いいだろ、素直なのは」
「触る、触るとか、どこまでお前、こんな」
 息で笑った慎吾は、厚い布越しにゆっくりとそれに触れてきた。緩やかな動きに、腰が跳ねそうになる。中里は背をしっかりと壁につけ、余計な反応を防ごうとした。左胸の突起もまだ刺激されており、耳も解放されてはおらず、口からは細切れに息が漏れた。
「どこまでってのは、あんま……関係ねえっつーか……」
 慎吾は呟きながら、ついに布越しではなく、直接勃起したものに触れ、慣れた手つきでしごき始めた。中里は膝を崩しかけて、何とか中腰で踏ん張った。胸を集中的にいじっていた慎吾の手は、その腰から尻にかけてを支えるように撫で始めた。
「関係、ねえって」
「やるなら、やるんだしやらねえなら、やらねえって……やるんだからよ、やるなら……やるだろ、最後まで」
 慎吾の言う最後が何を示すのかは中里には見当がつかなかったが、少なくとも、先走りにまみれたものをしごくことは最後ではないようだった。慣れた快感と慣れない快感が合わさって、中里は恐ろしくなり、慎吾の腕をがっちりと掴んでいた。
「……待て、お前……」
「俺は結構待ったぜ、結構……今まで」
 自分でするのとも、過去に誰かにされたのとも、調子が違った。わけが分からなくなりそうだった。しかし射精はいつも通りだった。慎吾は待たず、中里は耐えられなかった。すべて絞り出され、快楽の波がすっと引き、中里が冷静になった頃、慎吾は中里の肩に当てていた顎を引き、ようやく顔を適切な距離で合わせてきた。中里は乾いた口で、何とか言葉を吐いた。
「……服が」
「後ろ向けよ……服? 服、服は、まあ……洗えばいいだろ、今更一枚も二枚も……」
「後ろ?」
「ああ、ほら」
 有無を言わさず慎吾は素早く中里の体をひっくり返し、中里は壁に向かって立つことになり、自然両手を壁についた。数拍置いてから事態が頭に浸透し、中里はそこで慌てて振り向こうとしたが、既に慎吾が背中に胸を合わせてきており、首しか動かず、その間にズボンが足の途中まで下げられた。
「何……」
「じっとしてろ」
 膝上から尻までが外気に触れ、冷やりとし、しかしすぐ両足の間に片方の膝が入ってきて、開かされ、その上尻の間には粘ついた手が入ってきて、中里は息を詰めた。嫌な予感がした。
「おい」
「待てよ、まだ」
 熱く囁かれると同時に、狭間の窄まりに指が一本挿入された。激しい異物感に中里はうめいた。曖昧な知識による現状の把握と先の予測が、体を強張らせる。息が乱れる。視界には白い壁しかない。中里は強く目をつむり、意識を紛らわせようとしたが、中を無遠慮にかき回され、かえってそこに注意が向いた。
「や、おい……ちょっと」
「待てよ、待て、待て……ほら、待てるだろ、待つのは……いや、お前、得意じゃねえか、長引くのは、走りでも……」
 切れ切れに続く言葉とは対照的に、中をえぐる指の動きは迅速で、無駄がなかった。時間とともに、量が増えた。吐き気がして、唾を飲み込み抑え込んだ。呼吸を忘れかけた。
「短く……太く、って、何か、嫌がられそうなタイプだな、お前……」
 そして無駄なく指が引き抜かれ、息つく暇もなく、一貫した質のものが侵入してきて、中里は声を漏らした。
「あ……クソ、いッ……」
「……何してるか、分かってるか?」
「いてえ、何……何?」
「ヤッてるよな、これ……ほら」
 言葉と動きを慎吾は巧妙に合わせた。奥の奥まで入り込んだものに突き上げられ、中里は現実感と非現実感、両方に襲われた。事態が理解できないほどに中里も無知ではなかったが、それが自分の身に、慎吾によってなされていることは、これまでの生活の地続きには到底思えず、しかし痛みとともに喚起される感覚は良く親しんだものであり、ひどい混乱が思考を埋め尽くした。徐々に早まる内部を擦っていく慎吾の動きにも、うめく以外になす術がなかった。段々と腰に力が入らなくなり、やがて膝が落ち、床についた。壁に手さえついていられず、全体が床に沈む。
 そうして慎吾は根元まで入れた状態で抽送を止め、中里が目を開き、その隙に呼吸を整えていると、片手で中里の腰を固定したまま、片手で膝下で絡まっていたズボンを器用に脱がせ、しばらくじっとしていた。中里の額には脂汗がにじみ、頭皮から染みていた汗がこめかみを伝って床に落ちた。汗が目に入りかけたので、手で拭った。それから一秒も経たないうちに、片足の膝裏を持ち上げられて、関節が軋むほど素早く無理矢理に、仰向けに体勢を変えられ、つながったままの部分が特に痛んだ。
「……な、完璧に……入ってる」
 唐突に溢れた光に目は馴染まなかったが、上から覗き込んでくる慎吾の顔はおぼろげに見えた。
「……慎吾、お前……」
「何、俺が、だから俺が何だよ、毅」
「ここまで、これが……何だ、何だよ、俺は……」
「考えんなよ、余計なことは、いや、普通のことは普通の時に考えりゃいいんだ、後で――」
 言いながら中里の腰を掴むと、息継ぎに合わせて慎吾は動き出した。迅速で適確で、丁寧だった。違和感に耐え、中里が顎を上げると、ようやく明るさに慣れた目が、揺れる自分の下半身のさまを明瞭に捉える。腰を貫く痛みと違和感がそこから生じていることが、一挙に自覚され、何かが背骨を駆け上がった。慎吾は止まり、手を中里の頭の横について、再び動き出す。
「……くッ……あ、あ……」
 目をつむっても、先ほどまでとは違い、抜き差しされるごとに、脳髄がしびれるような、体全体が熱くなる感覚が強く満ちた。潰れた声が、空気とともに口から漏れていった。
「――時間あるだろ、十分」
 上から降ってきたその掠れた声に、全身の毛穴が収縮した。そののち、汗がどっと噴き出した。下腹部に熱が溜まっているのが分かり、恐る恐る目を開くも、現実は感覚に裏打ちされており、中里は余計に昂った。顎を上げると、逆光を受けて暗くなる慎吾の顔が見える。しっかりとこちらを見下ろしているそれは、徹底した愉悦を表していた。それにすら、体が反応した。ぞくぞくと全身が震え、中里は肩の横にある慎吾の腕を強く掴んだ。
「やッ……待て、慎、吾」
「無理」
 言下に拒否した通り、慎吾が何を待つこともなかった。瞬間的な快感は、やがて間断なく溢れていき、中里の全身を支配した。高まる感覚はやがて、射精感にも似たところへ到達し、太ももが痙攣した。その数秒後、慎吾は小さくうめき、奥に何かがぶちまけられたような感覚が残った。
「……わりい、出したわ」
 入れていたものをそそくさと抜いた慎吾は、悪びれた風もなく、どこか楽しげに言った。それを見咎められないほど、中里は圧されていた。頭の芯が、ぐちゃぐちゃになっているようだった。
「まあ、代わりに……な」
 慎吾は頬を上げたまま囁き、座る位置を変えると、無意識のうちに閉じようとしていた中里の足を開き、まだ広がっている穴に舐めた片手の指を入れ、もう一方の手で勃起したままの中里のものを覆った。これには中里も慌てて叫んだ。
「やめ、もう、いいッ」
「抜いといた方がいいだろ、勃っちまったもんは」
「やめろ、ホンッ……、ホントに……」
「最初に言ってくれりゃ、な……全部、やめたけど……もう、無理あるぜ」
 喋りながらも慎吾は、中に入れた指を器用に動かし、ただでさえ反り返っているものをしごき上げた。不意を突かれる形となり、中里は耐え忍ぶ機会を失った。
「あ、あッ……」
「イけるか……これで」
「い、や……ッ、ん」
 空いた両腕で顔を覆うと、何にも紛らわされない意識が一部に集中してしまい、失敗したと思った時には既に、吐精していた。
「――溜まってた?」
 出るだけ絞り取られ、中里が呼吸を荒げたままでいると、顔を覆った腕を取り上げた慎吾が、顔を寄せて聞いてきた。そこでようやく中里は、その勝手を見咎めることができた。
「……お前、クソ……こんなことして」
「何になる、か? いや、違ったか」
「違わねえ、違う、だから……」
 中里の言葉を、慎吾は途中で口に収めた。舌がわずかに絡まり、だがすぐに離れ、「まあ」、と微笑が張り付いた顔で慎吾は言った。
「とりあえず……シャワーだろ」

 腰に力の入らない中里の体を慎吾は支え、全身を泡でこすり、湯で流した。着替えは一人で行えたが、立っていることは辛かった。
「送ってくっても、それじゃキツイよな、乗るの」
 床に座るだけでうめいた中里を見た慎吾が、煙草を吸いながら言ったので、中里はこれまでの曖昧さによる苛立ちを、睨むことで慎吾へぶつけた。
「誰がここまでしたと思ってる」
「俺だろ」
 あっさり認められ、「お前だ、そりゃ」、と中里はそのまま返したが、慎吾は気にした風もなく、話題を変えた。
「でもお前、明日何かあるんじゃねえの」
「仕事だよ。朝から」
「なら自分の家で起きた方がいいんだろ」
「そうだな」
「じゃあ行くか」
 慎吾は言って煙草を一つ吸い、惜しみなく灰皿に潰し、テーブルの上にある鍵の束と財布を持って立ち上がった。瞬時に流れに乗れなかった中里を、そうして慎吾は見下ろしてきた。
「それともお前、ここに泊まってきてえの?」
 中里は、答える代わりに立ち上がった。ゴミが散乱し、ベッドも平坦になっており、なおかつこの部屋には慎吾の存在が染み付いていた。とても安心して眠れるようには思えなかった。立った中里に目をやって頷くと、慎吾は部屋の電気を消し、先を歩いた。
 玄関まで来たところで、靴を履く前に立ち止まった慎吾が、中里を振り向いた。その顔は何か言いたげだったが、十秒経っても慎吾は何も言ってこず、身構えた中里は、「何だ」、と沈黙を破った。慎吾は怪訝そうに目をすがめ、いや、と唇をあまり動かさずに言った。
「何か……忘れてるような気が」
「車の鍵か」
「持ってるよ」
「家の鍵」
「持ってる」
「免許証」
「持ってる、持ってる持ってる持ってる忘れてねえ、だからそういうことじゃねえんだよ、お前に……」
 中里は借りた服のポケットを探った。財布は入れてあった。安堵していると、頭を掻いていた慎吾が、「だから」、と面倒くさげに顔を上げた。
「言うの、っつーか今更言うも言わねえもねえけど、お前に」
「だから何だよ、俺に」
「好きだから、そういうことで」
 言ってすぐに慎吾は前を向き直り、靴を履いてドアを開け、外へ出ていった。中里は数秒の静寂ののち、言葉の意味を理解して、熱い顔を熱い手で覆っていた。自分の心臓の音だけが、耳の奥に響いている。腰の重みから、早く帰りたいと思ったが、ここまでのことを良く思い出すだに、再び慎吾と顔を合わすことが躊躇され出した。どうする? どうしたらいい、どうすべきだ? まとまらぬ考えが頭にちらつく。しかし、考えながらも中里は自分の靴を履き、玄関の明かりを消して、ドアノブに手をかけていた。根底は、既にすべて決まっていた。そして開いたドアの向こうに、雨はなかった。
(終)

(2006/07/21)
トップへ    2