ゆめとうつつと 1
青黒い空には雲がなく、半月と星が異様に輝いて見えた。それでも街中は暗い。
中里毅は通い慣れた道を歩いていた。仕事場への道だ。睡眠時間を削って働き続けたが、体力の限界を感じ辞表を出し、受理されたのが一ヶ月前のことだった。給料は良かったし、保険もついていた。だから三年前に転職したわけだが、しかしやはり車に携わる仕事に就きたいと思った。それなりの新車をキャッシュでポンと買えるだけの貯金がまだある。親戚の整備工場から誘いもある。高校を卒業してから働き詰めだった。あと一ヶ月、ぶらぶらしているつもりだった。そして今、ぶらぶらしている。仕事場への道を、中里は仕事するために辿っている。仕事は辞めた。だが、仕事をしに行くために歩いていた。そういうことだと納得していた。
狭い路地を抜けるのが近道だった。車一台も通れない道だ。ここを抜けて出る開けた通りの右斜め前方に、一ヶ月前に辞めた職場が入っているビルがある。古びたビルだ。中里は道を歩いていた。アスファルトには所々に掌ほどの穴が開いていた。つま先がそこに引っかかり、中里は地面に倒れ込んだ。咄嗟に目を閉じ、硬い感触と痛みを覚悟した。だが、実際には柔らかい感触があった。ぶにゃぶにゃとしたものが体を覆っている。目を開く。真っ白な空間だった。手足を動かそうとした。ぬめぬめとしたものが腕や足を取り巻いていて、振り払えなかった。水に溶いた片栗粉のように、押せば押した分だけ柔らかくなり、動きを止めると固まる。呼吸はできた。しかし息をするうちに、その液体じみたものが口から鼻から入り込んできた。気付け服は溶けていた。全身の毛穴からも、肛門からもそのゾル状のものが入り込んでくる。ひどい圧迫感だった。喉を通っていったものが、内臓を内側から撫でたような気がした。
「――うぎゃあっ!」
誰かの悲鳴が聞こえ、中里は目を開いた。
それが自分の声だったと気付くのにそう時間はかからなかったが、夢を見ていたということに気付くまでには二分ほどかかった。
「……な、何だ、夢か」
汗が全身を覆っており、寝巻きがぐっしょりと濡れていた。ひどい夢を見た。まだ、喉を通っていく、毛穴から入り込んでいく、肛門から上ってくるおぞましい感触が、生々しく思い出される。
「……うぷっ」
急に吐き気がこみ上げてきて、中里は便所へ行って吐いた。何度もえづく。出てきたのは胃液だけだった。昼間に食べた焼きそばは既に消化されていたようだ。
「クソ、気持ち悪い夢だった……風呂入るかな」
時計は午後八時を回っていた。今なら気の早い奴らは峠に集まりはしゃいでいることだろう。汗を流し、気分をサッパリさせてから行こうと中里は思った。
とりあえずシャワーを浴び、体を洗う。忌まわしいあの液体の感触を拭い去ろうと、ガシガシとタオルで肌をこする。全身が摩擦のために赤くなる頃には、夢の記憶はおぼろになっていた。
風呂場から出ると、諸々準備を済ませ、落ち着いて一服してから家を出た。車に乗って妙義山に向かう頃には、最早何の夢を見たのかも覚えていなかった。しかし夢なんぞはそういうもんだ、と中里は気にしなかった。
峠には寒そうな走り屋がゴロゴロといた。心なしか散らばっている車までもが寒そうである。中里といえば、別段寒いとも暑いとも感じなかったので、そこらで身を縮こまらせている連中を見つつ、どいつもこいつもまだまだだな、と内心誇った。
「よお無職」
と、そんな良い気分も長くは続かなかった。後ろからそう声をかけられたので振り向くと、そこには前髪だけを鬱陶しく伸ばし、まばらに茶色く染めた、セコイ犯罪を起こしそうな風貌の男が立っていた。庄司慎吾だ。
「お前、その呼び方はやめろっつったじゃねえか、慎吾」
「事実じゃねえか。っつーか嫌なら呼ばれて振り向くなよ」
慎吾はにやにや笑う。中里は舌打ちした。この男、赤いシビックEG−6に乗りこの峠のダウンヒルでは腹立たしいほど速く走るが、人を蔑み嘲ることを趣味としており、ハッキリいって性格が悪い。気に食わない相手には口八丁手八丁で責めたてていくし、都合の悪いことでは自分の非をどうやっても認めず、卑怯な手段もお手の物だ。そのくせ走りは速い。抜群に速い。そんなわけで、真正面から物事にぶつかって打破することに快感を覚えるためそれを正義と見なしている中里にとっては、庄司慎吾という男は同じチームの仲間で実力の優れた良いライバルではあるにせよ、あまりに世渡り上手な天邪鬼なので、大っぴらに受け入れがたい人物で、フレンドリーな応対を心がけるということはまずなかった。
「振り向かなけりゃ振り向かねえでお前、俺が振り向くまで呼び続けるだろうが」
中里は慎吾を睨みながらそう言った。ふん、と慎吾は鼻で笑った。
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる、この世の悪を暴く正義の使者庄司サマだ」
「何を偉そうに嘘八百並べてやがる、権謀術数が専売特許のクセして」
「負け犬よか無職の方がいいだろ?」、と中里の言葉を無視して慎吾は続けた。「それとも童貞の方がいいか?」
「どれも良くねえよ! 誰が負け犬で無職で童貞だ! いや無職だけど」
「ジツに中里サマは優雅でいいねえ、俺なんて仕事辞めたくても辞めらんねえよ、他に食い扶持ねえし」
「お前の場合はバイクまで買うからだろうが」
「仕方ねえだろ欲しかったんだから」
「自分で納得してんならゴチャゴチャ言うな。男らしくねえ」
「けっ、女にフラれて一週間ウジウジしてた野郎に男らしさを語られたくねえな」
「んだとコラ」
「ああ? やるかおお」
顔を寄せ、睨み合う。殺気が互いから立ちのぼる。交わった視線がジリジリと火花を放つ。この男には中里は妥協も手加減もできなかった。全力でぶつかることのできる相手と認めているからこそだ。
そのまま臨戦態勢に向かう、かと思われたが、不意に険しいオーラを消したのは慎吾だった。
「な、何だ」
中里は意表を突かれ、何となくコケそうになった。慎吾は泰然としていた。まるで自然と一体化したかのようだった。だがその顔には不審が満ちていた。
「何かお前、顔色悪くねえか?」
「あ?」
意外にも慎吾はこちらの状態を気遣ってきた。いや、こいつはよく目端が利いて、隙あらば気に食わない奴の地位を貶めようとするから、多分気遣っているのではないだろう。うん。中里はそう合点し、得意げに笑った。
「ふん、お前の目も悪くなったな」
「何か青白いぜ。一日窓のねえ留置場にでも入ってたような感じだ」
「この野郎、俺は年中健康体だ。ヨタ言ってんじゃねえ」
別に年中ヘルシーでハッピーなわけではないが、今は別段不健康にも感じないので、中里はここぞとばかりに凄みを利かせた。しかし慎吾は怪訝そうなままで、動じることはなかった。常に他人をからかうしか考えていない奴にしては珍しい。不審に思い中里が一歩後退すると、それを追うように慎吾は中里へ手を伸ばしてきた。頬に、その冷たい手が触れた。それが額へ滑る。
「熱はねえけどな」
慎吾はまったく怪訝そうだった。それでいて、心配そうだった。
ぞわ、とうなじの毛が逆立ったように感じた。体の奥があぶられているように熱くなった。心臓が血液を全身に素早く輸送していき、一部が流れをせき止める。あろうことか、下腹部がもぞりとした。
「毅?」
額に手を当てられたまま、傍で、確かめるように囁かれる。後に残る低い、反抗的なくせに生来的な甘えを含む声。ぞくぞく、と背骨を官能が走った。思わず中里は、額に乗せられた慎吾の手を思い切り振り払っていた。
「うお……」
慎吾はよろけたが、倒れはしなかった。中里は肩で息をしていた。ヤバイ。そう感じた。何がヤバイのかは分からないが、とにかくヤバイ。このままでは何かがヤバイ。
「……やっぱ熱でもあんじゃねえの? ひでえツラだぜ。それで32ごとひっくり返って道路塞がれても困るからよ、今日帰れよ。どうせお前がいようがいまいが世界は回る。盛者必衰、諸行無常だ。分かったか、四文字熟語オタクめ。カッカッカ」
いやらしく慎吾は笑ったが、ここまできてしまえば、その他人を蔑む笑顔の奥にある気遣いを見過ごせないほどに、中里も慎吾という男について理解していた。そして心配されていることを感じ取ると、なぜか下半身が反応した。
ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。
その言葉ばかりが頭を駆け巡った。なぜよりにもよってこのヤクザの下っ端的な厳つく下品な面構えを持つ庄司慎吾相手に、息子が目覚めようとするのか。因果関係がまったく分からない。しかしともかくこのままでは股間がとても目立つことになってしまう。よし、と中里は自分の車に戻ることにした。あそこならばいくら息子がご起立なさっていても、誰にも分からない。
「な、何でもねえよ。俺はいつも通りだ、問題ねえ。し、しかしお前と話している暇もないからな、戻るぜ、おう」
中里は及び腰になって後ずさりながら、ぎこちなくそう言った。慎吾は理解しがたいように顔をゆがめ、中里が下がった分だけ寄ってきた。
「おい、大丈夫かよ、お前」
「だ、大丈夫に決まってんじゃねえか、何が大丈夫じゃねえんだ。俺の。俺はいつでもオールライトだ」
「マジで風邪でも引いたか? っつーかヤクでもやったんじゃねえだろうな」
慎吾の進むスピードの方が、中里が後ずさるスピードよりも速かった。腕を掴まれる。慎吾はずいっと顔を寄せてきた。
「……別に目は普通だな」
「……お、お……」
じっと顔を覗き込まれて、中里はパニックに陥った。思考が成り立たない。頭は桃色一色だった。
「けどなーんか変だな……いつもと違う」
慎吾の視線が肌を刺す。神経が刺激を伝えてくる。それはなぜだか劣情として解釈される。実地への欲求が果てしなく募る。理性が白旗を揚げかける。
「そ、そ、そんなことは……」
「変なもんでも食ったか?」
「い、いや……」
何とか足を後ろに引くと、またもや慎吾は手を人の頬に当ててきた。途端、理性は揚げかけていた白旗を思い切り振った。それはもう全力で全身に知らしめる降参だった。ブチッ、と何かが切れた音を中里は聞いた。慎吾が上げた驚きの声は聞こえなかった。
「うわッ、てめ、何……」
中里は慎吾の腕をひったくるように取り、ズカズカと歩き出した。その鬼気迫る様相に、前を塞ぐ者たちは自ら避けていく。それはさながら非常に規模の小さいモーゼの十戒だった。
「待て待て毅、離せコラ、俺なら逃げねえ」
「うるせえ、黙ってついてこい」
ついてくるも何も、中里が尋常ではない力で引っ張っているので、慎吾は抵抗できるものもできないのだが、中里はそれには気付かずひたすらズカズカ歩いていく。山に分け入っても追ってくる者はいなかった。お節介は命を縮めるというのがこの峠での暗黙の了解である。誰がどこで誰を脅そうと殴ろうと蹴ろうと刺そうと、公然となされなければどーでもいい。同じチームの連中はそういった悟りを開いていた。強面の連中がそうするのだから、チームとは無関係な奴らも何となくそれに倣うのだった。
というわけで、虫がブンブンと飛び回り月明かりも届かぬ山肌に、中里は慎吾を引きずり込んだ。この時点で何をどうしようとか正確なことは全然考えていない。とにかく人気のない場所へ、それだけが頭にあった。
「な、何だ。やる気か。そんなに俺が憎いかコノ野郎。分かってたけど。よし、受けて立とうじゃねえか、矢でも鉄砲でも持ってこい。俺相手に勝負を挑んだことを地獄の果てまで後悔させてやる」
腕を掴まれたまま、慎吾は果敢にも迫ってきた。中里はその腕からは手を離し、両肩を両手で掴んで、丁度後ろにあった木に慎吾の背を押し付けた。ぐえ、と慎吾が潰れた声を上げる。そのまま中里は顔を顔にじわじわと寄せた。ただならぬ雰囲気を察したのか、慎吾は自分から木に背を押し付けていった。
「……慎吾」
「……お、おう、やるんじゃねえのか」
「これは、非常事態だ。制御不能の臨界点だ。他意はねえんだ」
「……話が見えねえんだけど」
「だから頼む。今だけだ。今だけ協力してくれ。一生のお願いだ。じゃなけりゃ俺はそれこそひっくり返って崖にダイブしちまうかもしれねえ」
「いや別に俺はお前が紐なしバンジーしようがどうでもいいんだけど、それで何の話をしてんだ、お前は」
中里の目は血走っていた。口元はわなないていた。手は震えていた。慎吾は怯えていた。怯えているその顔を見ると、余計にたかぶった。ためらいなくキスをした。唇と唇が触れる。舌をその間に差し入れる。歯列を舐めて歯茎を撫でる。慎吾の呻きのような悲鳴が上がった。その歯は硬く噛み締められている。中里は唇を離した。途端に慎吾が憤怒の形相で叫んだ。
「何考えてんだクソ野郎! 俺にそういう趣味はねえ! オトトイきやがれ変態が!」
ぎゃあぎゃあ喚く慎吾の喉に中里は吸いついた。慎吾の体がビクリと震えた。肩から胸へ、胸から腹へ体の線をなぞるように手を下ろしていく。膝立ちになり、目の前にきた股間を包んでいるカーゴパンツをトランクスごと下ろしてやる。
「はあ!?」
裏返った慎吾の声があたりに大きく響いたが、すぐに闇に溶け込んでいった。
自分が何をしたいのか、何をしているのかについて中里は考えないようにした。考えようとしても、頭にはピンクの靄がかかっていて五里霧中である。理性が掲げた白旗を、欲望が踏みつけて燃やしていた。ボロボロだった。まろび出た慎吾の性器をためらいなく口に含んでいた。味わうように舌で舐め、口腔でしゃぶる。
「うお、ちょッ、何だてめえはあ!」
慎吾が髪を掴んで引き剥がそうとしてきたが、掴んでいる腰の肉を指でつまんでやると大人しくなった。口中に溢れるものから染み出してくる液体が何ともいえない多幸感を運んできた。ヤバかった。色々とヤバかった。だが今更止められない。それは劣情によく似ていたが、どうも違うようでもあった。
「待ッ……お、お前、オイ毅お前は自分の行いを振り返って、いや、冷静な判断、判断として実行のおかしさというか――ひッ」
中里は機械的に頭を動かすだけだったが、慎吾のモノはグングン容量を増していた。うなじのあたりがしびれていた。中里の全身には満足感が染み渡っていた。そういえば半勃ち状態だった息子が甘勃ち程度になっている。フェラチオをして勃起が収まるのはいいとしても、なにゆえ幸せを感じるのか。それもやはり中里は考えないようにした。
「待て、待て、落ち着け、マジで……ヤバイ、これはヤバイって、オイコラ人の話を聞けコノ……」
粘膜が擦れる。顎を支える筋肉に疲労物質がたまっていく。息苦しい。それでも吸わずにはいられない。吸い取らずにはいられない。脳がおかしくなっているようだった。欲求が抑えられなかった。どれだけの時間この反復運動を行っているのかも定かではなくなっていた。口の中のモノの硬度が一定になっており、慎吾の呼吸が荒くなっていることだけは分かった。
「クソ、こんな……ありえねえ、マジ……あ、おい、離せ、離れろ、ヤメロヤメロヤメロ、もう……ッ」
慎吾の声は最後には息になっていた。口に含んだものが収縮したようだった。粘液質のものが口腔内に射出された。中里はそれを飲み込み、角度を失っていくモノを意地汚く最後まで吸い尽くし、解放した。慎吾は途端に膝からくずおれた。入れ替わるように中里は立ち上がった。
何とも清々しい、まるで美しい日の出を目にしたかのような気分だった。ごちそうさまでした、と言いたくなった。フランス料理のフルコースを一度に全部マナーも関係なしに食らってしまったような豪華絢爛な贅沢感と幸福感。今ならば神も仏も閻魔様も信じられる。UFOが落ちてきても戦える。とにかく世界を素晴らしく感じた。
「お、俺は何を……」
膝までカーゴパンツを下げて萎えたイチモツを出したまま、地面に両手をついた慎吾は打ちひしがれていた。中里はもう一度しゃがみ込み、俯く慎吾の肩を手でポンポン叩いた。
「慎吾、本当に悪かったな、無理矢理こんなことしちまって。けどおかげで助かったぜ。ありがとう。この借りはいつか必ず返すからよ」
中里は清々しい表情で言った。笑顔が光っていた。慎吾はそんな中里をじっとりと湿った目で見上げてきた。
「いつか?」
「ああ」
「いつかじゃねえ。今返せ」
「今? いや、そりゃムリだ。返しようがねえ」
この男に作った借りを返すというなら、それは車関係以外に考えられない。そのくらい分からない慎吾ではないと思った。が、こちらを見上げてくる慎吾の目には、怪しい光があった。中里が身構えた瞬間、慎吾は飛びかかってきた。相手に怪我をさせるわけにもいかないので、避けずに背中から地面に落ちる。呼吸が少しだけ苦しくなり、すぐに元通りになる。慎吾は中里の上にまたがってきた。中里はちょっと焦った。
「え、おい、な、何」
「してえんだろ? だったらしてやるよ、クソったれ」
「は?」
「俺だけ良いようにされて黙って引っ込めるか。覚悟しろ。呪うなら俺に手を出したてめえを呪え」
慎吾は器用に人のジーンズのベルトを外しボタンを外しファスナーを下ろした。おお、ウマイな、と中里はつかの間感心し、そんなことを感心している場合ではない、と腹筋を使って上半身を起こした。
「待てッ、お前は何をやろうとしてる」
「言っとくけど俺にはそういう趣味はねえ。安心しろ」
と言いつつも慎吾は人のパンツごとジーンズを太股の途中までずり下げると、中途半端にしか開かない足を抱え、体をその間に入れて、体重を預けてきた。中里は地面に背をついて、そのまま後転しかけたが、足を抱えられているので回れはしなかった。
「な、な、な、何だ」
「あー、クソ、我慢できねえ。俺も若いからな。うん。入れるぞ」
不意に、肛門に人肌の温度を持ったぬめったものが当てられた。ゾワゾワゾワッ、と全身の産毛が一気に逆立った。入れるということは、つまりナニをソコにアレすることだろう、と頭が理解するよりも先に、体が理解していた。だが手足はまるで金縛りにあったように動かなかった。仕方がないので中里はとにかく叫んだ。
「いやお前、そりゃムリだ! ムチャだ! ムボウだ!」
「いいじゃねえか、お前Mだろ」
「何だその決め付けは!」
「ムリ、ムチャ、ムボウの3Mだ。それをやりたがる。完璧な理論だろうが」
「どこがカンペキだ! お、お前ッ、そういう趣味はねえんだろ!」
「フェラチオする趣味はねえよ、野郎のモンなんて。でも入れるのはまた別だ。お前だし」
慎吾の顔は至極冷静だった。それがまた中里に恐怖を運んできた。だが、全身が動かないのは恐怖からではなかった。中里は自分が信じられなかった。期待している。そのことへの驚きだった。中里が硬直している間に、宣言もなしに慎吾は押し進めてきた。入るわけがない。中里はそう思った。そこは出す場所であって入れる場所ではない。当然だ。しかし中里の思いとは裏腹に、中途半端にしか足も開いていない状態なれど、そこは悠々と余裕たっぷりに慎吾のモノを受け入れ、不規則に収縮した。
「あッ、わッ……」
「あれ、入った」
中里は身震いした。慎吾は不思議そうに、
「おかしいな、普通こんなアッサリいくもんでも……」
首を傾げたが、ま、いっか、とアッサリ腰を進めてきた。ぐり、と硬いモノが粘膜を擦る。この短時間でこれだけ復活できるとは、確かに若い。だがそんなことに感心している場合でもなかった。無理矢理突き入れられた、というには下半身は寛容で奔放となっていた。内臓を押し上げられているような圧迫感はあるし、皮膚が引きつれている痛みはあったが、激痛はなかった。むしろ刺激があった。内壁を強く擦られる、それは目がくらむような快感を運んできた。
「うわ、お、おい、待て、慎吾ッ」
「すげ……何、お前、マジでそっち系?」
「い、いや、俺はソッチもアッチもナニも……ひ、あ、お……うお」
幾度も揺さぶられるうちに、紛れもない快楽が中里の全身を支配していった。それは今までに経験したことのないほど強く果てしない快楽だった。性的快感ではあるが、射精を望むものではなかった。何か複雑に絡まり合った官能の渦に巻き込まれているようだった。
「こんなにイイならもっと早く……あ、あ、待て……」
「いやだから俺はッ、あ……く、う……」
開かぬ足で慎吾の腰を挟み込み、強く力を込めていた。慎吾は苦しげに呻き、そして力尽きたように中里の体の上に落ちてきた。慎吾の荒い吐息を間近に感じながら、全身を覆っていた疲労感がすべて消失したような、とてつもない爽快感を中里は得ていた。
「……分からねえ」
「どうした」
地面にしゃがみ込み、頭を抱えている慎吾に中里がそう尋ねると、怒りを交えた目を向けてこられた。
「何でお前の方がそんな平気なんだよ。おかしい、絶対ありえねえ。無理矢理シたのは俺じゃねえか。何で俺がシャキッと立てねえんだ。不可解だ。不条理だ。理解できねえ」
なるほど、確かに自分の方が苦痛にあえぎ打ちひしがれているのが普通だろう。何せ無理矢理肛門に性器を挿入されたわけである。だが実際中里の体は軽かった。ケツも腰もさほど痛くない。スる前より後の方がむしろ全身に力がみなぎっており、気分もスカッと爽やかだった。だというのに、何を苦しむ必要があろうか。
「理解できねえったって、平気なもんは平気なんだよ。理解しろ」
「クソッ、絶対間違ってる。何か間違ってるぞ。こんなことがあるはずねえのに」
慎吾は俯きぼやき続けた。中里はため息を吐いた。この男もやると決めてやったのならば、後悔しないでほしい。まるでこちらが加害者のように思われてしまう。
何にせよ、このまま現実を認めようとしない慎吾を見続けていても罪悪感が募るばかりなので、中里はその傍に立ち、声をかけた。
「立てるか?」
「当たり前だ、変に気ィ遣うんじゃねえよチクショウ。逃避家のてめえにだけは現実を諭されたくねえんだ。ああおかしい、おかしすぎるぜまったく」
いっかな慎吾は立ち上がろうとしなかった。日頃人にリアリストが世界を支配するだの何だの胡散臭いことを言っておきながら、この期に及んで諦めの悪い男である。これではいつまで経っても違う違うありえないありえないと繰り返していそうだ。走りたいからこの男ばかりにそうも付き合ってはいられない。中里はもう一度ため息を吐いてから、しゃがみ込んでいる慎吾の前にこちらもしゃがみ、両手を伸ばした。
「ごちゃごちゃうるせえな、ったく」
「は? うおおおッ!」
前から慎吾の脇の下に腕を入れると、中里はそのまま右肩に腹を担ぎ上げた。思ったよりも軽かった。
「な、な、な、何してんだ、てめえは!」
「そのままお前を放っといたら、俺が犯罪者みてえじゃねえか」
「みてえじゃねえから下ろせ! 自分で歩けるッ!」
「今更下ろす方が面倒だろ。ったく、歩けるなら初めからさっさと歩けってんだ。ウジウジしてんのはどっちだよ」
「俺はてめえと違って繊細なんだよ! 放っといてくれ!」
慎吾は思いきり手足をばたつかせる。背中を拳で叩かれ足で腹を蹴られつつ、中里は山肌から駐車場へと歩を進めた。足にも腰にも腕にも首にも、ほとんど負荷を感じなかった。タイヤ一本を持つよりも遥かに軽い。中里は悠々と慎吾を担いだ。その結果、何事もないような顔をしながら歩いてくる中里と、その中里の肩に担がれ喚いている慎吾を、駐車場にいるナイトキッズのメンバー他諸々の人間が見たが、風景の一つとして認識したため、誰も声をかけなかった。中里は赤いスポーツシビックまで歩き、肩に担いだ慎吾を下ろした。
「ほら、そんなに具合が悪いんだったらお前こそ帰れ。事故ったらシャレになんねえだろ」
「シャレ?」、と大地にふらっと立った慎吾は長い前髪の間から鋭い目を向けてきた。「シャレになるなら俺はむしろ事故るぜ、もう今日は散々だ。俺の人生で最悪最大の汚点だ。今すぐ記憶からデリートしてえ」
「な、何もそこまで言うこともねえじゃねえか」
「うっせえ馬鹿、いっぺん死ね」
顔を寄せてきてしかめっ面でそれだけ短く吐き捨てると、慎吾はシビックに乗り込み人が傍に立っているにも関わらず急速発進して場から去った。
「……何も死ねってこたァねえだろう」
呟きは風に乗って流される。何か無情に感じられた。あそこまで毛嫌いされることを自分はやったのか? 判断しようとしたが、頭の奥がぼやけていて思考が定まらなかった。強く印象に残っているのは爽快感と充足感、そして得体の知れぬ罪悪感だけだ。
「何やってたんすか?」
と、後ろから急に声をかけられ、「あ?」、と中里は無防備に振り向いた。
「え、や、ホラ結構な叫び声してたんで。あの、慎吾サン連れてってね」
挙動不審になりつつもそう言ったのは同じチームのメンバーで、天然パーマの若手だった。技術は粗いが好奇心が旺盛で向上心も高い。悪くはない奴だ。中里はその男がそこにいることを納得してから、問われたことについて考えた。何をしていたのか――少なくとも、他人に公言できることではないとは確信できた。実態はバレない感じで、このメンバーを納得させられそうで、かつソレっぽいセリフを記憶から選び取ってみる。
「……決闘だな」
「ケットウ?」
天然パーマは分かりやすく首をかしげた。おう、と中里は頷いた。かなり違うが、人間としての尊厳をかけてヤり合ったという点では正しい。
「……どうだったんすか?」
「何が」
「結果っす」
「結果か。まあ、ありゃ引き分けだな」
「じゃあの、そのケットウの決着はつけるんですか」
「追々、別な形でよ。あんなことしょっちゅうやりたかねえや」
腕組みしつつ中里が一人頷くと、首をかしげたままの天然パーマは、はあ、と気がない返事をし、それじゃ、と未練もなく去っていった。
ナイトキッズという走り屋チームは徒党を組んで傍若無人に峠を支配しようとしていると見なされることが多いが――常識的に考えてそんなチームがあったらまず警察に目をつけられるだろうに――、実際そんな企てを真面目にするほど気の長い奴も暇な奴もいはしない。面白そうなことはとりあえずはやし立ててみるが、興が失せたら見向きもせず、そして熱中時間は非常に短い連中ばかりである。先ほどの天然パーマもそうだ。どうでもいいと思ったらすぐに離れる。だから慎吾とのあの行為がバレることはないと思われた。痕跡もないはずだ。その点で中里に憂いはなかった。
しかし問題はある。なぜあんなことをしてしまったのかということだ。とにかくしたくなったとしか説明しようがないのだが、そうしたくなった原因が何なのか分からない。突然のことだった。今あの状況でのあの行為を思い返しても、体のどこも反応はしない。何であの時だけ、庄司慎吾などという男相手にああも燃え、理性を放擲してしまったのだろうか。
「……夢のせいか……?」
変な夢――内容はもう覚えていないが――を見たから、その影響で体がおかしくなったのだろうか。そうかもしれない。いや、そうに違いない。でなければあんな場所にあんなモノを入れて無事であるはずがない。中里はまた一人で頷いた。納得だ。解決だ。
「まあ、問題もねえだろ」
呟いて、愛車GT−Rをとめた場所へと足を向ける。もたらされたはずの極限の官能は最早ひどく遠く、肉体においては現実感が希薄で、真剣に取り扱おうにもすべての記憶は不明瞭になりすぎていた。よって中里にとっての最大の関心事は、どれだけダウンヒルの最高タイムを上回れるかという当初のものに戻り、走り屋としての日常が再開されるはずであった。
2007/08/12
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