ゆめとうつつと 2
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「……五秒?」
 中里毅は目の前に立つ角刈りメガネをじっと見た。ストップウォッチを片手に持ち黒いバインダーを片手に持った角刈りメガネは、ああ、と特に疑問もなさそうに頷いた。
「五秒増し。いや、五秒減りって言った方が正しいか」
「押し間違えたんじゃねえだろうな」
「誤差がないとは言わんけど、五秒の汚名を被せようってんなら抗議させてもらうぜ」
 角刈りメガネがじろりと見てくる。中里は口をつぐんだ。この男はチーム設立当時からの記録係だ。指示された通りにタイムを測定し、日ごとのデータをまとめて週別月別年別に集計して皆に配布したりもする。信頼性は抜群だった。中里は大人しく頭を下げた。
「疑って悪かった。急なことすぎて、つい動転しちまってよ」
「いいよ、俺も大人げなく反発した。もう一回やってもらっていいか? 今度は押し間違いの可能性なんざ一つも残さない」
「こちらこそ頼むぜ。正しい記録が正しい事実だ。よし」
 中里は胸の前で左手の掌に拳を打ちつけ、気合を入れた。つい自分の実力まで疑ってしまったが、それ相応の手ごたえはあった。あらゆるものを見通せるような、今までとは違う感覚。車が脳に直結しているような一体感。これならば自己新が更新できてもおかしくはない。中里は納得して32に乗り込んだ。一旦上がってから、ダウンヒルのタイムアタックを開始する。

「六秒だな」
 中里は目の前に立つ角刈りメガネをじっと見た。ストップウォッチを片手に持ち黒いバインダーを片手に持った角刈りメガネは、哀しいとも寂しいともつかない目で中里を見返していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……もう一回、やってくっかな」
「……付き合うよ」
 朝方公園のベンチに座って鳩に餌をやっているサラリーマンのような哀愁を漂わせている角刈りメガネに背を向け、中里は首を傾げつつ32に乗り込んだ。一旦上がってから、もう一度ダウンヒルのタイムアタックを開始する。

「六秒七八」
 中里は目の前に立つ角刈りメガネをじっと見た。ストップウォッチを片手に持ち黒いバインダーを片手に持った角刈りメガネは、冷えた目で中里を見返していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……もう一回」
「やっても変わりねえと思うよ。俺の勘だとむしろ速くなるだろうな」
 きびすを返しかけた中里に、角刈りメガネが疲れたように言った。
「だよなあ……」
 中里はつられて疲れたようなため息を吐いた。実際疲れていた。いつもと違って、一秒がとても長く感じられる運転だった。あたかも全方位が見渡せているような視野の広さと、恐ろしいまでの思考と感覚との剥離があった。頭の奥が少し重い。目頭を揉んでいると、角刈りメガネが不思議そうに言ってきた。
「しかしお前らしくもない。タイムが伸びたら素直に喜ぶもんじゃないか」
「喜びてえのは山々だが、夢でも見てるんじゃねえかと思うぜ。上り調子が過ぎる。手ごたえはあるんだけどな」
 これまで必死にコンマ何秒の単位で縮めてきたタイムだ。こうもたやすく新記録達成となると、中里とて戸惑ってしまう。実力を疑うのは嫌だ。自分を自分が信じなければ誰が信じるというのか。しかし、ではなぜ死に物狂いで頑張ってきた今まで一度もこのタイムを刻めなかったのか。六秒も遅い地点で一喜一憂したり絶望しかけたり、これでは詐欺だ。ふと中里は疑問に思った。
「……もしや、俺は自分にも実力を隠していたってことか……?」
「自分に隠してどうするんだよ」、と角刈りメガネの冷静なツッコミが飛んでくる。
「うむ……」
 唸りつつ、中里は考えた。これだけの力があるなら、赤城レッドサンズがここに乗り込んできた時にもさっさと追い払えたはずである。いや、せめてエンペラーがやって来た時でも良かった。あのポニーテールに群馬県勢の強靭さを叩き込んでやれた。だが己の真の実力といって多分差し支えないものが発揮させられたのは、それも通り過ぎ挙句別に期待していなかった島村栄吉へのリベンジも果たしてしまった後、冬も間近な今ときた。正直遅い。こんな遅い時期に覚醒するということは、まったくもってマグレなのだろうか? それとも自分は気付かぬうちに何か深い事情を抱えてしまっていたのだろうか?
「どうする? この記録、残しておくか?」
 ペンを指に挟んだ角刈りメガネが聞いてくる。中里は考えに半分頭を割きながら答えた。
「ああ……とりあえずな。ただ他の奴には言わないでおいてくれ。もしかしたら何かが狂ってるのかもしれねえ」
「電磁波でも飛んでるってか?」
「かもな」
 角刈りメガネは興ざめしたように肩をすくめ、まあいいさ、とバインダーとストップウォッチを持ったままくるりと背を向けた。と思ったら、振り向いてきた。
「そういやお前、慎吾にお仕置きしたんだって?」
「は?」
 お仕置きとは何だ。中里は話を理解できず、角刈りメガネを睨んだ。角刈りメガネはまた肩をすくめた。
「いや、他の奴らが言ってたからよ。ベタベタ触る慎吾に耐えかねた毅がついにお仕置きに走って、決闘したけど引き分けで、でも慎吾は軍門に下ったとか何とか」
「……何だそりゃ」
 中里は呆れてしまった。自分は天然パーマに決闘をして引き分けたとしか言っていない。それがなぜお仕置きになるのか。軍門とは何だ。この短時間で一体話はどういう変遷を辿っているのか。
 そうか、と角刈りメガネは首を横に倒してぽきりと鳴らした。
「やっぱ単なるウワサか。お前とお仕置きって単語が結びつかなくて、どうも変だと思ったんだ」
「いや、決闘はしたが、お仕置きはしてねえ」
「決闘? 何でまた」
「……まあ、色々あるんだよ、俺らにも」
 正確には決闘ではないから、何とも答えようがない。言いよどんだ中里を、角刈りメガネは不可思議に見たが、ふうん、と言うだけで、それ以上事情を追及してはこず、まあいいや、と呟き、そして去った。
 中里はため息を吐いた。慎吾に心配され、そのまま山中へ連れ去り、肩に担いで戻ってきたことが、予想外にも皆の好奇心を煽っていたのかもしれない。決闘の話が伝わるのは互いの関係からしてありえなくはないからいいとしても、お仕置きという言葉が出てくるとは思わなかった。下手にごまかさず、天然パーマにありのままを話すべきだったのか。慎吾と性交したと?
「……冗談じゃねえ」
 男同士だ。いくら同じチームのメンバー相手でも、軽々しく言えることではない。互いの名誉に関わる。やはり、ごまかすのが得策だった。ただ、決闘というのはおかしかったかもしれない。慎吾の看病とかの方が良かっただろうか。
 それも今更だ。ひとまず中里は32に戻った。慎吾との一件がどんなウワサに発展するかは分からないが、先ほどの角刈りメガネ相手のように、一蹴してやればいいだけのことだ。問題はない。問題は、一日でベストタイムが六秒縮まったことだ。ここで走りこんでもう何年にもなる。秒刻みでタイムは伸ばしてきた。走り屋といっても人間である。その日のコンディションによっては十秒二十秒の差が出てもおかしくはない。ただし、悪い方にだ。ベストタイムは万全の状態で臨み、全力を出し尽くした時にのみ刻まれる。幾度も辛酸を舐めながら、必死に速さを追い求めてきた。六秒。実生活では短いようだが、時速100キロをゆうに超える走行においては致命的な長さだ。中里は己の力を疑いたくはなかった。だが、これまでの苦労を考えると、さすがにできすぎだと思う。今日はこの妙義山が時空のひずみに入っているのかもしれない。機器類が狂っているのかもしれない。今はとりあえずもう帰宅して、明日、もう一度改めて走ってみようと中里は決めた。明日も過去のベストタイムより同じだけ記録が伸びていれば、その時こそ胸を張って認められるはずだ。俺は速くなっているのだと。



 青美友康は妙義山をホームとする走り屋チーム、妙義ナイトキッズのメンバーである。国立大学四年生。就職は決まっている。コネが有利に働いた。望んだ通りの事務屋だ。落ち着けば走り屋も再開できるだろう。就職活動に気合を入れすぎたため彼女には捨てられたが、それを除けば順風満帆な人生だった。
 チームも代表者が勝ったり負けたり負けたり負けたり勝ったり色々あったが、今では落ち着いている。派閥争いもなくなった。ナイトキッズはかつてホンダEG−6を操る庄司慎吾派と日産スカイラインR32GT−Rを操る中里毅派に分かれていた。二人が妙義山では最高の実力を持つ走り屋で、庄司は中里を疎んでおり、やがてその流れに乗る者が現れたためだ。どちらか一方がチームのトップに立てば恩恵に預かれると計算した者、単に面白そうだからと片棒を担ぐ者、それぞれの流儀を憎んだ者、様々だった。チームは分裂した。だがそのうち、チーム内で争っている場合ではなくなった。よそからの打撃があった。バトルだ。庄司も中里も撃沈した。メンバー内には二人の無力をなじる者もいた。だが結局、速いのは二人だった。誰よりチームを思っているのも二人だった。誰もが二人に頼らざるを得なかった。チームは結束した。敗北を乗り越えた二人も、殺意のこもった視線を交わすことはなくなった。口喧嘩は起こるが、本気で憎み合っているようには誰の目にも見えなかった。
 つまり、チームは平和となった。青美も平和だ。内定は出ている。卒業のめども立っている。凪いだ海のような平穏がある。一服しつつ自分のビートによりかかっていると、同い年のメンバーが寄ってきた。
「おいアオ、昨日の話、お前聞いたかよ」
 阪延草太だ。無精ひげと金髪が特徴だった。顔に特徴はない。強いていえば薄かった。いや、と青美は首を横に振った。昨日自分はここに来ていないし、今日は挨拶をした誰からも昨日の話は聞いていない。
「何かあったのか」
「慎吾の奴がついに毅さんに反旗を翻して、暴虐の限りを尽くし、けど返り討ちにあったらしいぜ」
 阪延が何を言っているのか分からず、青美は目を瞬き、吸っていた煙草を落とした。そして素直に言った。
「何言ってんだ、お前」
「だから、何か知らねえけど慎吾が毅さんをどうにかしようとして、逆にどうにかされたらしいんだよ」
「何だよその、どうにかしてどうにかされたってのは」
「俺もよく分からん。けど何かあったのは確からしい」
「何だあ、そりゃあ」
 庄司が中里に反旗を翻し、暴虐の限りを尽くし、しかし返り討ちにあった、という最初の明瞭さが既に失せていた。何かはあったが何があったかは正確に知っている者はおらず、伝言されていくうちに話に尾ひれも背びれも胸びれもついてしまったということだろうか。我がナイトキッズには無責任なウワサ好きが大勢いる。十二分に考えられる。小難しい顔をしている阪延は腕を組みつつ、続けて言った。
「でも決闘したってのは確からしいぜ。伊佐の奴が毅さんに直接聞いたっつってるから」
「決闘なあ。ホントかね」
「じゃねえの? 最近慎吾、やけに毅さん気にしてたし」
 確かにここのところ、庄司慎吾が中里毅に絡む機会は多かった。青美は初め、八つ当たりか喧嘩を売っているのだと思った。だがどうも様子が違う。ただ会話をして、中里が険を放ち出すと満足したように離れる。なるほど気にしている、その言葉がしっくりときた。中里が妙なことになっていないか注意しているようだった。それ以前も庄司が中里に食ってかかることはあったが、今では優しさが段違いだった。仲良くなったというのがメンバーの共通認識だ――庄司に言うと絞められるので口にはしないが。だが、そこで決闘というと、やはり庄司が中里をどうにかしようとしたということだろうか。ありえないことではない。庄司慎吾という男は、一見悪者で、実際悪者だ。道徳観念を棚の上に置きっぱなしにしておくだけの冷徹さを持つし、それでいて危機を察知する小心さも持っている。青美は庄司とよく話すが、冗談が入る交流においても隙のなさを備えている。中里に対しての態度が軟化したと見せかけておいて、何を企んでいてもおかしくはない。
 だが、どうも話が曖昧だった。何かが二人の間であったのは確からしい。いわく決闘。というか、それくらいしか確からしいことなどないようだった。
「分かんねえ話だなあ」
「伊佐の話によるとよ、慎吾が毅さんにべたべたして、それで毅さんがいきなり慎吾をかっさらって、どっか行って帰ってきた時には、毅さんの肩に慎吾が担がれてたらしいけどな」
 青美はこけかけた。十分確かな話がここにあった。
「お前、それを早く言えよ。そっちの方が正しそうなことじゃねえか」
「けどよ、それにしたって分からんだろ、全体像は」
 それもそうだ。状況は示されても、それがどういうことなのかは、当人同士しか知らないし、その当人たる中里は、決闘だと言っている。
「決闘か」
「まあ、険悪な感じじゃなかったらしいから、何もねえとは思うけど」
「あの人らが険悪になると、困るからな」
「前、碓氷の嬢ちゃんらが来た頃なんて、ピリピリしすぎて嫌ンなったもんな」
 まったくだ、と二人揃って納得した。一時期、庄司がいくらせっついても頑として中里が庄司とのバトルを認めなかった。庄司の苛立ちようは凄かった。峠で飛ばしまくり、まださほど速くない走り屋は多く途方に暮れた。無条件に飛んだ毒舌に襲われ胃潰瘍になった者もいる。そのうち碓氷の女走り屋二人組がやって来て、何だかんだで中里が箱根に行って因縁の相手であったという島村栄吉を倒してからは、結局バトルはしてないなれど、庄司の機嫌は直っていた。今は平和だ。この平和が持続してくれることこそ、青美の願いだった。ナイトキッズは無頼漢集団と見られがちだが、皆走り屋だ。走ることが大好きだから集まっている。走ることが目的なのだ。安心して走れること。誰もが内心ではそれを希望している。中里と庄司の関係が悪くなると、峠全体に不穏な空気が満ちる。誰もが居たたまれなくなる。だから二人には、仲良くまでとは言わないが、普通にしていてもらいたい。決闘、という言葉はそれに影を生むが、険悪さがないのであれば、大丈夫だろう。
「お、ウワサをすれば」
 轟音。機械が進む、車が疾る音。人工物が意思を持つかのようにその鉄の体を動かす音。道路が削られ、燃焼物が吐き出される音。それらが空気を裂いてやってきた。独特のサウンドからは車とドライバーを特定できる。青美と阪延は、表皮を震わすほど近づいた音が、道路を一つの影が過ぎ去ると同時に、遠ざかっていくのを感じた。

 二人はタイムの測定をしている戸片の元に寄った。黒髪を角刈りにして黒ぶちメガネをかけており、走り屋というか技術者の色が濃い。戸片は青美がチームに入る何年も前から記録係をやっている。今通っていったはずである、GT−Rの中里のダウンヒルの記録も取っているはずだった。
「どうすか、毅さんの調子」
 阪延が尋ねた。戸片は細い眉を寄せて、小さく肩をすくめた。悪いのだと青美は思った。普通のことや良いことを言う場合、戸片は頬を緩める。
「最高だな」
 だが戸片はそう言った。は?、と青美と阪延は二人揃ってマヌケな声を上げていた。どうやら阪延も同じ推測をしていたようだった。クエスチョンマークが頭の上を飛んでいる。戸片はそれ以上何も言わない。やがて、中里が戻ってきた。青美と阪延に、よお、と笑いかけてから、戸片を向く。深刻な面持ちだ。
「どうだった」
「一秒だ」
「そうか……」
 そして黙る。沈黙がおりる。戸片も中里も何も言わない。空気が停滞する。
「記録更新したんすか?」
 雰囲気の重さに耐え切れず、青美は思い切って二人に尋ねていた。ああ、まあ、と中里は何か言いづらそうに頬を掻いた。言い訳や隠し事のできない人だった。だから言いづらいことは、言いづらいままにする。ため息を吐いた戸片が、そんな中里の代弁をするように、億劫そうに答えた。
「一昨日までの自己ベストを八秒も更新してやがる。さっきまで七秒だった。コースレコードも塗り替えだ」
 青美も阪延も、しばらく口を効けなかった。ありえない数字を聞いた気がした。その数字はとりあえず横に置いておかねば、頭も回らなかった。
「……その、一昨日までってのは?」
 ようやく阪延が言った。中里は相変わらず渋面で黙っていた。面倒くさげに答えるのは戸片だった。
「昨日も七秒弱、更新してた」
「は?」
「だから昨日と比べれば二秒弱。一昨日と比べりゃ八秒だ。考えられねえ伸び率だよ。なあ毅」
 戸片が中里を見る。中里は腰に手を当て目を閉じ、何やら考えているかのようだ。青美と阪延は顔を見合わせた。自己ベストを更新すれば、誰であろうと喜ぶ。だが中里は喜んでいない。むしろ苦しそうだ。一昨日から八秒。昨日からでは二秒弱。すごいことだ。
「……嬉しくないんすか?」
 黙っている中里へ、青美は訊いた。中里は意外そうに目を見開いた。そして、困ったように眉頭を上げ、首を手で撫でた。
「いや、嬉しいのは嬉しいんだけどよ……実感がわかねえっつーか」
「でも、すごいじゃねーすか。八秒って、そうそうできることじゃないし」
 阪延が言う。だよなあ、と青美が頷けば、まあそうだな、と戸片も頷く。すると中里は眉頭を元の位置に戻し、そうか?、と大ぶりの目で青美らを見上げてきた。実感がわいてきたらしい。頬が緩みかけている。
「そうっすよ。もっと胸張って喜んでくださいよ、毅さん。俺らナイトキッズのトップは毅さんなんすから」
 青美は阪延の後をついで言った。庄司もダウンヒルに関しては中里に引けを取らない、むしろ上回るほどのものを持っているが、ダウンヒルとヒルクライム双方でトップタイムを持ち、かつチームをまとめられるのは中里しかいない。中里は嬉しそうに口角を上げた。
「そ、そうか。そうだよな。俺が俺の実力でやったことだ。いい加減マグレでも何でもねえ。俺は速いということだ」
 よし、と中里は力強く笑み、拳を握った。戸片も笑っていた。阪延も笑っていた。青美も笑っていた。確かに八秒はすごい。すごすぎて、ありえないようにも思う。だが戸片が測定した記録だし、中里ならば何をやってもおかしくはないような気もする。一度集中すると恐ろしいほどの強さを発揮する人だ。
 これなら、今まで中里が敗北を味わわされた相手にも、勝てるのではないか。青美は思った。秋名のハチロク、赤城レッドサンズの高橋啓介、栃木エンペラーのエボ4。秋名のハチロクはあちらの地元でだったし、高橋啓介とは紙一重の差だった。エンペラーのエボ4とのバトルの時は、精神面が最悪だった。今は違う。自信に満ち溢れている。八秒も自己ベストを伸ばしている。実力も申し分ない。これなら、ナイトキッズの時代がそろそろ到来するのではないか……。
 青美がぼんやり考えていた時だった。突如、目の前にあった中里の顔が消えた。いや、消えたのではない。中里は地に膝をついていた。倒れかけたのだ。その体を戸片が左から支えていた。
「おい毅、どうした」
「い、いや、何でもねえ」
 戸片の声に、中里は首を振る。青美もしゃがみ込み、大丈夫ですか、と声をかけようとした。息を呑んだ。顔面蒼白だ。
「ちょっと、すげえ顔色悪いっすよ、何でもなくねえでしょう」
 青美も中里の体を支えた。右からだ。中里は青美が触れるとびくりと体を跳ねさせたが、何でもねえ、と呟くように言うだけだった。声も震えている。戸片と青美は左右から中里の肩を支え、その体を持ち上げた。
「俺の車に運びましょ。休ませた方がいい」
 阪延が言った。十年もののハイエースで峠を走っている。
「い、いい。大丈夫だ、構うな。少し、じっとしてりゃ……」
「病人は黙ってろ」
 震える中里の声を、戸片が冷たく遮った。尋常ではない様子だ。顔は青白く、そのくせ粘った汗が浮いている。息が荒く、肌は冷たい。一旦落ち着かせるべきだった。阪延のハイエースの後部座席まで、青美は戸片とともに中里を運んだ。トランクはタイヤに占拠されているが、他の走り屋仕様の車より座席は広い。休むには良いだろう。
「お前ら、どっちか付き添っててやれ。様子がひどくなったら知らせろ。病院に連れてく」
 シートに中里を座らせると、戸片は車から降りてそう言った。付き添うなら、車の持ち主である阪延が良いだろう。青美はそう思ったが、
「すんません、俺これからシンヤの隣乗るって約束してんすよ。アオ、悪いけど後頼むわ」
 阪延は言って、アッサリ車から降りた。成り行き上、青美は分かったと頷く他なかった。中里の顔色は悪すぎた。放っておくわけにもいかなかった。後部座席のドアは閉められ、暗い車内で二人きりになる。少し肌寒いが、外よりはマシだ。
「大丈夫っすか? 寝てた方がいいっすよ」
 座っている中里の肩へ手を置き、声をかける。中里はやはり、びくりと体を震わせた。薄暗いが、互いの顔くらいは見える。中里が向けてきた顔は、先ほどより熱が入っているようだった。
「……青美」
 だが、声は不鮮明に尖っている。切迫感がこもっていた。青美は中里の肩に手を置いたまま、何すか、と言った。うなじがただならぬ気配を察してざわついている。何か重大なことを、中里は言おうとしているのだと思った。
 思ったら、中里は青美の手をそっと外し、後部座席に足を乗せ、正座し、そのまま青美に向かって土下座の体勢を取った。
「一生のお願いだ。この先俺を死ぬまで軽蔑してくれても構わねえ。だから、頼む」
 唐突すぎて、青美はポカンとした。何を頼まれているのか分からなかった。それはそうだ、中里は頼み事の内容を明言していない。しかし、自分はそもそも中里に頼まれ事をされるような立派な立場ではない。青美は我に返り、自分も座席の上に正座し、いや、ともう一度中里の肩に手を置いた。
「やめてくださいよ毅さん。どうしたんすか。俺で良けりゃ何でもしますから、頭上げてください、マジで」
 恐る恐るといった具合に、中里は顔を上げた。青美はぞくりとした。いつもと変わらぬ、濃い眉と大きな目、太い鼻、厚い唇、鋭い頬、精悍な顔。そこに乗る、請うような表情。それが、におうような色気を発していた。頭がくらくらした。おかしい。これまで中里相手にこんな気持ちになったことはない。男臭すぎるほど男臭いのが、中里毅という走り屋だった。それが、この顔の、この体の、強い色は何だろう。
「……す」
 中里が言った。その声にまで、色気が満ちているようだった。俺完璧にイカれちまったのかも、と思いながら、青美は尋ねた。
「酢?」
「……吸わせてくれ」
 吸わせて、と青美は繰り返した。何を? いや、どこを?
「……胸っすか?」
「いや、その…………アレを」
「アレ?」
「あそこだ、つまり、だから」
 また俯きながら中里は言った。ふと、青美も顔を落とした。正座している自分の股間が見える。なぜか、すんなりと納得できた。
「……チンコですか?」
 青美が問うと、中里はたまらぬように額をガバリとシートにつけた。
「お前の気持ちは分かる青美、同じ男にそんなことなんてされたくねえだろ、俺だって本当ならごめんだ。でもこれだけは分かってくれ、俺はふしだらな意味で、こんなことを頼んでるんじゃねえ。もうダメなんだ。ムリなんだ。何もしねえでいると、頭がおかしくなりそうなんだ」
 切ない声だった。泣きそうな声でもあった。言い訳や隠し事のできない人だ。言っていることに間違いはないだろう。つまり中里は、青美のペニスを咥えたがっている。頭が益々くらくらした。我らがリーダー中里毅が、自分のチンコを咥えたいと頼み込んできている。常識外だ。気持ち悪いだとか、体調悪いのになぜとか、そんなことを感じる余裕もない。先刻見た中里の恐ろしいほど色気に富んだ相貌も記憶に残っている。断る理由が思いつかなかった。
「……いや、いいっすよ」
 青美は呟いていた。中里は顔を上げなかった。
「……そうだよな、分かってるんだ。こんなことを頼んじまって悪かった。俺だってお前にそんな不愉快な思いをさせたくなんざなかった。ここで一つ我慢をできなかった俺が何もかもわりいんだ。本当にすまん」
 絶望的な声音だ。中里は勘違いをしている。というか、おそらく青美の言葉を聞いてもいない。
「いやいいんですって。どうぞ吸ってください」
「俺のせいだ、俺だけのせいだ、だから頼む、チームに愛想は尽かさねえで……」
「毅さん、俺の話聞いてくださいよ」
 置いたままの手でその肩を揺らす。ゆっくりと顔を上げた中里が、は?、と目を瞬いた。青美の言葉を聞いていないのではなく、聞いていても、理解していないようだった。どの角度から見ても男であるその顔にはやはり、青美の背骨に官能を走らせる色が満ちていた。青美は膝立ちになり、履いているジーンズのボタンを外し、ファスナーを下ろし、下着ごと太股まで下ろした。己のイチモツは驚いたように萎縮している。まだ土下座の体勢を取っている中里は、信じがたいように見開いていた。
「……あ、青美」
「やってください。毅さんがどうしてもしてえっつーなら、俺は別にいいですよ。どうぞ」
 自分が何を言っているのか青美は既に把握していなかった。中里の発する異様なほど真剣で妖艶な雰囲気に呑まれていた。中里は怯えたように目を泳がせたが、すぐにその目は青美の股間に釘付けとなった。濡れた人肌のものが青美の先端に触れた。舌だ。それがまだ柔らかいペニスの輪郭をなぞっていく。それだけで簡単に勃起していた。肉体と精神が遊離したようだった。粘膜を粘膜に包まれると、今まで感じたことのない強い恍惚感が後頭部を焼いた。目の前が白くなった。青美は小さく喘いでいた。そして三分もかからず射精した。

「助かったぜ、青美。お前は俺の命の恩人だ。感謝する」
 清々しい笑みを浮かべた中里が、シートに横になった青美を覗き込んできた。全身にうまく力が入らないまま、青美は何とか唇を動かした。
「……いや、別に俺は何も……」
「困った時は何でも俺に言え。せめてもの礼だ、何でもするぜ」
 その笑みを見ると、先ほどまで青ざめていた中里がこうして活き活きしていることに対する不可思議さも、体を包む倦怠感も、もうどうでも良くなってきた。中里の顔にも肉体にも、先ほどまで強く立ち込めていた色気はない。だが、青美は強い安心感を得ていた。これが自分の知る中里毅という走り屋だ。その中里は、不意に顔を曇らせた。
「悪いが、このことは、誰にも言わないでくれねえか。もう二度とはしねえから、頼む。この通りだ」
 苦々しげに謝ってくる。正直、もう一度、いや二度三度くらいはされてもいいと青美は思ったが、疲労感が強すぎて長いセリフを口にできそうになかった。分かりました、とだけ言って目を閉じる。急激に睡魔が襲ってきた。
「本当に悪かった」
 その中里の声は聞こえた。後部座席のドアが開く音と、閉じる音も聞こえた。青美は漠とする頭で考えていた。べたべたしていたという庄司、連れ去られたという庄司、肩に担がれたという庄司。あいつは俺と同じことをされたんだろうか。
「……夢だよな」
 青美は眠りに落る直前、それだけを呟いた。


2007/09/19
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