ケーキパーティ 1/2
散歩の折に高橋涼介と出くわしたのは秋も終わりの頃だった。流れで昼食を共にとり、その数日後には共にケーキを食べた。それ以後用事がなくとも連絡を取り合い、終わってから何だったのかと思うような交流は師走になっても続いている。たまに電話をしても話すことといえば気候やら車の整備についてやら、火急の用件ではないことばかり、メールにいたってはその日食べたものとその味についてのやり取りがほとんどだ。それで何か関係が発展しているのかというと不明だが、中里はあまり気にしていない。そもそもどこか最終目的地があるような関係でもなかった。気が向いた時、手が空いている時に電波越しに触れ合うこと自体が特別だ。中身も時節も関係なかった。
とはいえクリスマスの朝に高橋から電話がくると少々面食らうもので、起きて洗面台で顔支度を整えてから携帯電話を見て着信を知った中里は、朝飯の用意もしないうちにかけ直していた。高橋はすぐに通話に出た。
『中里。今日の夜、暇だろうか』
「は?」
朝の挨拶を形式的に済ませてから高橋が語ったのは以下の通り。本日十二月十五日クリスマス、高橋の母親がささやかと盛大のあいだ程度のホームパーティを開く予定だったが、数時間前福岡在住の親友の訃報が飛び込んできた。母親は福岡に飛び、パーティはキャンセル。ただし注文されているケーキの大群は予定通りに到着する。
『母は計画を立てて綺麗に実行していくタイプの人で、すべて予定外になることは許しがたいらしくてな。言う通りにしないと家から一歩も出てくれそうにないから、俺が責任を持ってケーキを食べ尽くすと約束して送り出したんだが、いかんせん量が量だ。一日で食べようとするととても一人では無理がある。だから、お前に手伝ってもらえないかと』
ホームパーティで振る舞われるケーキの量など、中里には想像もつかなかった。ホームパーティという単語からして縁がないのだ。
「どれだけあるんだ」
『ホール四つ、ピースが三十、その他小物が諸々』
絶句した。確かにそれは一人で食べきれる量ではない。ケーキタワーでも作れるのではなかろうか。ケーキのタワー。甘いもの好きとしてはうっとりする光景だ。タワーにはなってないだろうが、高橋家に到着するのがそれを作れるだけのケーキの大群であることは間違いない。ホールケーキの食べ比べなどという贅沢三昧もできそうだ。クリスマスに高橋涼介の自宅で高橋涼介と一緒にケーキというシチュエーションは微妙なれど、彼女のいない野郎同士でクリスマス撲滅のシュプレヒコールを上げながら酒を浴びるように飲んで翌日二日酔いでノックダウン寸前に陥るよりは、人助けにはなるし、そもそも今年のクリスマス反対運動会は各々の都合により二十三日に終わったので、今年のクリスマスは何も予定がなかった。中里は考えにあまり時間を費やさずに、分かった、と言った。
「そういうことなら手伝うぜ。どうせ暇だからな」
『そうか。良かった。ほっとしたよ』
心底安堵したような高橋の声だった。それを聞くとむずがゆくなり、中里は話題を変えた。
「けど、その量なら、あと何人かいた方がいいんじゃねえか」
『そう思って、一応誰かを誘ってはみようと考えている。急な話だから空いている奴がいるかは分からないがな。お前も連れたい人間がいたら誘ってくれて構わない』
そう言われても、クリスマスに予定がなくて、甘いものが好きで、高橋涼介の家に上げさせても問題のない知り合いは咄嗟に思いつかなかった。ああ、まあ、と適当に頷いてから、高橋涼介の家に上がることについて、考えが及んだ。
「何か、持ってった方がいいか? 飲み物とか」
『いや、手ぶらでいい。来てくれるだけで十分だ。ありがとう、中里』
面と向かってはいないのだが、真剣に感謝をされると、またぞろむずがゆくなった。気にするな、中里は言った。
「タダでケーキが食えるんだ、こっちが感謝したいくらいだぜ。ところで、おふくろさんは大丈夫なのか」
親友が亡くなるのは、精神的に負担だろう。
『問題がないわけじゃないだろうが、母の友人も一緒だ。何かあれば連絡をしてもらえるし、あまり心配すると余計な真似だと怒られる』
高橋は苦笑する。
「そうか。まあ、それならいいんだが」
『こんなアクシデントに遭ってすぐに頼れるなんて、俺は良い友人を持ったよ』
真剣さに冗談が含まれることは、経験的に分かるようになっていた。いつもならお前と俺がいつ友人になったんだ、とでも返してやるが、母親に不幸があった男に冷たくするのはためらわれた。ただ、優しくしても失礼にも思えた。高橋涼介という男が根っから持つプライドの高さも、経験的に分かっていた。
「感謝しろよ」
だから中里は、押し付けがましくそう言った。高橋は、一笑に付した。
仕事が終わり一休みしてからということで、午後七時に行くと約束した。その時間帯に暇な甘いもの好きは何人か思い浮かんだが、どれも高橋涼介の家に連れて行くには性格に難があった。ミーハーでは迷惑がかかるし、権力嫌いは場の雰囲気をぶち壊しかねない。中里は悩んだ。自分の人脈のなさに沈んだり自分に男の友人しかいないことに沈んだりしつつ、しかし最終的に、甘いものが平気で高橋涼介の家に上げても平然と過ごせそうな人間を選び出した。ただ、その男が今日の夜暇かどうかは分からなかった。
『今日の夜、暇か?』
朝に起きているかどうかも分からない相手なので、それだけ携帯電話からメールをしてみて、一息吐いたのち現在時刻を見、中里は慌てて身支度も整えた。
休憩中に携帯電話を見てみると、珍しい奴からメールがきていた。用件をある時にしかメールを使わず、用件がある時にはメールよりも電話を使う男だ。慎吾はとりあえず、思ったことを素直に文字にして返信した。
『キモイ』
テーブルに携帯電話を置いてウインナーの入った調理パンの袋を開けたところで、着信があった。早い。休憩時間が同じだったのだろう。慎吾は一人の事務室でため息を吐いて、コール四回目で通話を開始させた。
「どうも、キモイ人」
『何が言いてえ、慎吾』
電波越しの中里の声は、いつもより軽めに聞こえる。慎吾はわざとため息を吐いて、丁寧に言った。
「よりにもよってクリスマスの夜の都合を俺に聞いてくるお前は、とてもキモイってことだ」
『あのなあ。こっちだって、何も好き好んでクリスマスの夜の都合をお前に聞いてるわけじゃねえんだよ』
うんざりしたような口調だ。何だそりゃ、と慎吾が訝ると、中里は思いついたように言った。
『お前、甘いもの大丈夫だろ』
クリスマスの夜の都合を聞かれた後にされると、大体の思惑が予想できる質問であった。
「あー、ケーキ買いすぎて処理できねえから俺を利用しようって腹か」
『まあ似たようなもんだ。高橋涼介が家でケーキパーティやるから、お前もどうかと思ってな』
が、現実は予想を上回った。
「高橋涼介?」
『ああ』
「ケーキパーティ?」
『……いや、パーティじゃねえな……けどまあ、とにかく、買いすぎたケーキを食べるんだよ。俺たちで』
「お前たち?」
『ああ』
「クリスマスの夜に、お前と高橋涼介が、二人でケーキ食うのかよ」
『それで、けど二人で食いきれる量じゃねえから、他に人呼ぶかってことだ』
何の疑問もなさそうに中里は答える。クリスマスの夜、高橋涼介と、高橋涼介の家で、ケーキを食べる。中里と高橋涼介がそんな仲になっていたとは初耳だ。そういえばいつぞや中里が赤城山まで高橋涼介に会いに行っていたが、その頃から仲良くなっていたのだろうか。仲良くなる。どうも中里と高橋涼介との間には似合わない言葉である。身分が違う。環境も違う。性格も違う。だがクリスマスの夜に買いすぎたケーキを一緒に食べるような仲が、悪いとは言いがたい。仲良くなっている。しかしそれも想像しがたい。ただでさえここ数日働き詰めで疲れている頭では、冷静な状況把握など不可能だった。
『で、どうだ。無理なら構わねえが。量も尋常じゃないから、お前がいても食べきれるかは分からねえし』
黙っていると中里が窺うように言ってきた。断る理由は容易に挙げられた。こっちは数日職場に軟禁状態で、今日の夜にようやく解放されるのだ。ケーキを食うより自宅のベッドでゆっくり休みたい。高橋涼介と一緒にケーキを食ってやるような義理もない。考えられる限りの最適な返答はこれだ。お前に付き合ってる暇はないから、高橋涼介と二人でクリスマスナイトをお楽しみください。
「別にいいけどよ」
分かっていながら、出てきた言葉は違っていた。聞こえた中里の声は裏返っていた。
『いいのか?』
「迎えに来いよ、俺の家。六時半だ」
『ああ、分かった、行くぜ。悪いな』
「お前のためじゃねえし」
自分のためでも面倒過ぎる事態を、他人のためにしてやるほどに愛や友情を重んじる人間になった覚えはない。それをまったく理解していないような能天気さで、ありがとよ、と中里は言った。通話を終わらせてから慎吾は、パイプ椅子の背もたれに上半身を預け、重いまぶたを閉じた。高橋涼介。赤城の走り屋、群馬のカリスマ。卵をぶつけられても崩れそうもないイケメン医学生。その男の家でその男と一緒にケーキを食べるために、中里のGT−Rに乗って行く。わけ分かんねえ、呟いてから慎吾は、調理パンを食べるためにまず目を開けた。
机から離れず弁当を食べている時に、ワイシャツの胸ポケットに入れている携帯電話が鳴った。その液晶画面に表示された名前を見て、京一は米を噛む顎の動きを止めた。着信音は鳴り響く。隣でカップラーメンの汁を真ん中の液晶ディスプレイに飛ばしている同僚が、生気の抜けた視線を向けてくる。噛みかけの米を飲み込んでから、京一は立ち上がり、廊下に出て通話を始めた。
「何だ、高橋涼介」
『今日はクリスマスだ、須藤京一』
わざと距離を置くように姓名を呼ぶと、涼介は大仰に呼び返してきた。そう、今日は十二月二十五日、キリストの誕生日、クリスマスだ。キリストが誰かも知らない多くの人間がメリークリスマスと言い合って、多くの精子が卵子に入り込む日だ。しかし世間ではどうも二十四日のイブこそが本番という風潮があるために、ツリーやサンタクロース等の緑やら赤やら白やらの飾り付けがされたままの街には、祭りが終わったような空々しい雰囲気も流れている。これぞまさにクリスマスだ。何の変哲もない。
「それがどうした。俺はキリスト教徒じゃねえ。お前もそうだろ」
『だとしても、俺はクリスマスの夜にケーキを食べる。大量のな。予定がなければお前も食べに来ると良い。うちの場所は知っているだろう』
「ケエキ?」、京一は聞こえた通りに発音した。ケエキ。ケーキ。
『ケーキだ。よりどりみどり、食べ放題。誰か甘いものが好きな奴がいたら連れて来て構わないぜ。人手はあるに越したことはない』
「ちょっと待て、涼介」
『ケーキだ。考えてみろ。じゃあな』
電話先の涼介は待たずに通話を遮断した。京一は携帯電話から耳を離し、通話時間の表示された液晶を眺めながら、「ケーキだと?」、と一人呟いた。
二十三、二十四日と出勤すると二十五日は休みになる。毎年だ。店はクリスマス本番も十分に忙しいのだが、世の中にはイベントを楽しむよりも金を稼ぎたがる人間もいる。人手が足りないということはないのだ。そのため清次は二十五日の休みは毎年実家に帰り、クリスマス料理作りに勤しむこととなる。別にどうしても作りたいというわけではない。ただ他に丸々休みを取れる家族が母親以外にいないだけだ。しかしそれなりの面積のある一軒家にはクリスマスの夜に親戚やら親の友人やら兄弟の友人やらも来るため、母親一人では料理をまかなえない。ケータリングを利用してもいいのだが、食の好みがばらばらの参加者を満足させるなら、商売人に事細かに注文をつけるよりも自分で用意した方が楽だし安全だという家族の意向があり、毎年清次は準備に駆り出される。
今日も今日とてわざわざ七面鳥を仕込みながら、何でアメリカ人はクリスマスにこんなもん食おうと思ったんだ、とどうでもいいことを考えていると、居間の方から鳥羽一郎の兄弟船が流れてきて、清次は包丁をまな板に置き、みじん切りにしたセロリのついた手を払って台所を出た。
「おう、何だ?」
居間のテーブルに置いていた携帯電話を取り、とりあえず一人の台所に戻って兄弟船が切られる前に通話に出たが、返事がなく、電話つながってんのか、と清次は訝った。
「もしもし? 京一?」
『ああ』、電話はつながっており、気の抜けたような声で、京一は言った。『お前、今日の夜、暇か』
今日の夜、と清次は呟いた。今日の夜。クリスマスの夜。
「夜っつーか、今日は休みだからな。家でパーティやるけど、別に俺がいなけりゃならねえもんでもねえし」
『そうか。用事があるなら構わん』
すぐに通話を切られそうな気配があって、待て待て、と清次は慌てて声を発した。
「いや、だから別に俺がいなけりゃならねえもんでもねえって。料理さえ作っちまえばお払い箱だ」
『それでも、家族で一緒に過ごすんだろう。いいことじゃねえか』
「っつったって、年末年始も休みの日に呼び出し食らってんだぜ、家の手伝いしろってな。まあ、クリスマスに他に予定作れねえ俺も俺なんだけどよ」
パーティやら何やらがあるから来ないかと声をかけられないわけではないのだが、時間があったら行くと返答しておいて、実家で料理を作りながら酒を飲み始めてしまうと、夕方頃には他の誘いを忘れてしまうのだ。もっと意識に残る予定が入ればそれを優先するだろうが、今のところそんなものと出会ったことはない。
『他に予定、か』
京一が何かを含むように言った。予定。今のところ強く意識に残るほどの他の予定と出会ったことはない。しかし、これから出会わないとも限らない。思い至って、清次は聞いた。
「今日の夜、何かあるのか?」
『あると決めればある。ないと決めればない。だが、どうするか俺はまだ決めていない』
暗い声で京一は言う。京一が迷うのは珍しいことだ。大抵の物事は白か黒か、時間を置かずに考えきって決めつける。よほどの難問にぶち当たったのかもしれない。何だそれ、と清次は流しの前に立ったまま言った。これまた珍しい五秒もの沈黙を作ってから、京一は言った。
『ケーキだ』
アパートのドアはノブに手をかける前に開いた。自動ではない。慎吾が開けたのだ。
「クソ寒ィ」
チャコールグレーの分厚いタートルネックセーターの上から紺地のパーカを着ている慎吾が、閉めたドアのカギをかけてから挨拶もなしに人の車に歩いて行く。腕を組み首をすくめ背を曲げてほとんど足を上げずに歩く後姿は、もっと遅ければ老人のようだ。外を歩くわけでもないので中里はセーター一枚だが、慎吾ほど体を縮こめたくもならなかった。まったく寒さに弱い奴である。雪が降っているとはいえ、ドライバーを差し置いてアイドリング中の車に逃げ込むのは相当だ。
運転席に戻ると助手席の慎吾は首をすくめた状態でシートに座り、目を閉じていた。
「じゃあ、行くか」
「俺は寝る。話しかけるんじゃねえぞ」
目をつむったまま慎吾が言う。暗いために定かではないが、その顔は青白く見えた。中里はGT−Rをそっと発進させ、県道に出てから尋ねた。
「寝不足か? 顔色悪いぜ」
「二度言わすな。話しかけるんじゃねえ」
慎吾には目を開けようという気はないようだった。分かった、と言うだけにして、中里は運転に集中した。クリスマスだからといって渋滞はしていないが、運転慣れしていない車も目についた。ただ、それが普段よりも多いのかどうか、数えたこともないから判断がつかない。信号待ちで慎吾を見ると、だらしない顔で寝ていた。よだれでも垂らしそうなほどで、何があったか知らないが随分疲れているようだ。誘ってしまって悪かったかもしれない。だが庄司慎吾という男は、本当にやりたくないことはやらないと言えるだけの度胸を持っている。同情したらその決断にケチをつけることになるだろう。せめてしばらく寝かせとくか、中里は高橋涼介の教示を思い出しながら、日頃よりもスピードを抑えた運転を心がけた。
イルミネーションが施された日本家屋の引き戸を開けて、カーキシャツを着た清次が笑顔で出てきたと思えば、その後ろから清次よりも貫録のある年かさの女性が出てきて、更にその後ろから似たような貫録のある年かさの男性と、普通の体型をした青年が三人も出てきて口々に挨拶をしてきたために、京一は仰け反りそうになる体を意識して真っ直ぐに保ちつつ、なるべく愛想良く挨拶をし返した。話は終わらずそのまま家に上げられそうになったが、そこで手を打った清次が腕を引っ掴んできて、んじゃ行ってきます、と外へと駆け出したので、それ以上口は動かさずに済んだ。
「悪ィな、みんな出来上がっててよ、お前が迎えに来るっつったら変にテンション高まりやがって」
すぐさまランエボを発進させ、私道を離れると、助手席のシートに深く身を沈ませた清次は、深いため息を吐いた。いいさ、京一はあまり感情を込めずに言った。
「忘れずにいてもらえるのはありがたい。それより、俺の方こそ急に誘って悪かったな」
「それこそいいって、クリスマスに出かけるのなんて久しぶりだから、俺はもう楽しいぜ。お前と一緒なら、他の奴と違って面倒ねえし」
清次の人相の悪い顔が作り出している笑みは、言葉の通り愉快さを表していた。それを見ていると、決心してもなお躊躇している自分がちっぽけに思え、京一は内心で苦笑しながらも、顔には出さず、ただ声には出した。
「出かける場所が、場所だけどな」
「高橋涼介の家だって?」
「そうだ」
「何か想像つかねえな。でかいのか」
「お前の家ほどじゃねえとは思うが」
「ふうん。まあいいけどよ、クリスマスだし」
それで清次が何を良しとしたのか京一には知れなかったが、ああ、と頷くだけにした。今日がクリスマスであることに、間違いはないのだ。
頭が体から取れそうになって、慎吾は思いきり顔を上げ、その拍子にシートに後頭部をぶつけて、テッ、と小さく声を上げた。
「起きたか」
かすむ目で隣を見ると、運転席には中里だ。脇見はしていない。ここは中里毅のGT−Rの中で、頭が体から取れそうになったのは、夢だろう。慎吾はあくびを一つしてから、頬にかかる髪を指で払った。
「クソ、体痛ェ」
「もうすぐ着くぜ」
「了解様」
丁度良い時に目を覚ました。シートで寝ていたために体は固まったが、睡眠不足からくる目のだるさは薄れた。口の粘つきと喉の渇きはケーキを食べれば気にならなくなるだろう。それにしてもよく眠れた。薄暗い車内、緩い振動、浅く広がる匂いはヤニとゴムと癖のないフレグランス。素面では枕が変わると寝つけないのに、枕もない状況で熟睡していた。その理由を考えるのは面倒で、慎吾は無言で到着を待った。
アメリカのホームドラマに出てきそうな一軒家だった。庭があり、ガレージがあり、アプローチがあり、ライトがある。隣の家とは適当な間が取られていて、植木が伸びたところでトラブルにはなりそうもない。狭い土地に建物が詰め込まれている実家のある住宅街を思い出し、金はかけるもんだよな、と慎吾は思った。でなければ家の外観など綺麗なままで維持はできない。
「お前、来たことあるのか」
勝手知ったるがごとく高橋邸の駐車場にGT−Rを停めた中里に、降りてから慎吾は尋ねた。いや、と中里は首を緩く振る。
「場所は聞いたことあるけどな。来るのは初めてだ」
それにしては、足取りはしっかりしている。初めての場所で不安や緊張を覚えている風ではない。精神的に欠陥がある男にしては、自然体だ。高橋涼介に関わることが、既に中里にとっては自然なことなのかもしれない。その横に並ぶのは、慎吾にとって自然ではなく、多少足取りは重くなった。
湿っぽい雪が髪を冷やす中、ドアホンを押して、ドアの前で待つ中里の、斜め後ろで待つ。機械から応答はなく、直接ドアが開かれた。
「よお、よく来たな」
高橋涼介は、笑顔だった。愛想抜群、イケメン度抜群である。白いカラーシャツにグレーのセーター、黒いスラックスという姿は好青年度も抜群にしていた。後光を背負ってるわけでもないのに若干眩しい。ナイトキッズにはまずいない人種だ。
「ああ、邪魔するぜ」
斜め後ろにいるために正確には分からないが、中里も笑顔らしかった。口調が柔らかい。そのままドアを開けている高橋涼介の横を通り、中里は高橋邸に入る。慎吾も後に続き、だが高橋涼介の前で、一旦立ち止まった。
「どうも、高橋さん。お邪魔します」
「庄司君か。どうぞ」
適当に頭を下げると、高橋涼介は愛想を消さずに手で室内を示した。慎吾は中に入ってから、ドアを閉めた高橋涼介を振り返った。
「俺の名前、知ってんのか」
「中里から聞いてるよ」
「あー、クンとか要らねえよ。気持ち悪いし」
「なら俺もさんとかは要らない。気持ち悪いからな」
笑みを終わらせた高橋涼介は、ぞんざいに言った。優等生の好青年のようだが、話が分からないわけでもなさそうだ。先に入った中里は廊下の途中で立ち止まっていた。その横につくと、なぜ中里が硬直したようにその場から前に進もうとしないのかは知れた。トムウェイツが流れてくる歪みなく背の高い家具が配置されたリビングの入り口からでも、その中央にある広いローテーブルの上に置かれたケーキの山は見てとれた。正確に言えば山ではない。大草原だ。数々のピースケーキの大草原に、それなりの家が四つある。ホールケーキである。クリームやらチョコレートやらフルーツやら、デコレーションが激しい。甘いものは嫌いではないが、これだけの量を目の前にすると、胃酸がいやに沁みてくる。
「……すげえな」
中里は呆然と呟いた。慎吾は離れた位置からも甘ったるい香りを漂わせているケーキ群を指差しながら、高橋涼介を見た。
「これ、今日で全部食うのか?」
「勿論。洋生菓子は作ったその日に食べるに限る」
ごもっともである。鮮度が良いほど美味いのは肉も野菜も魚介類も生菓子も変わらない。だが、三人で食べ切れるかは非常に怪しい。さあどうぞ、と高橋涼介に促されるままに、ああ、と硬直を解いて進み出した中里の後ろにつき、慎吾は他に人の気配が感じられない家を見回し、言った。
「弟はいねえのか」
「仲間と別口のパーティでな。普段頑張っているご褒美だ。楽しんでいることだろう」
高橋涼介は緩く優しい笑みを浮かべる。それが何か欠けて見えるのは、この妙に広い家に今いる住人が、高橋涼介だけだからかもしれない。だがこのイケメンの家庭環境など、中里はどうかは知らないが慎吾には無関係だった。案内されたソファに座る前に、パーカの内側に入れていたボトルを取り出し、高橋涼介に渡した。
「どうぞ、差し入れだ」
「ニッカウイスキーか」
「一応良い値段するらしいぜ、よく知らねえけど」、受け取ったボトルのラベルを興味深そうに眺めている高橋涼介に、補足する。
「お前、いつの間にそんなもの」
ソファに座りかけていた中里が、腰を浮かせた状態で聞いてきた。その驚き顔と半端な体勢が笑いのツボに入りかけ、慎吾は大きく咳をして顔を引き締めてから、中里に答えた。
「店長が俺の貢献に感謝してくだすったんだよ。まあ正直こっちはそれ見るだけでクリスマスにかこつけて騒ぎやがる馬鹿どもの顔が頭に浮かぶから、空にしてくれた方がありがたい」
「じゃあ、用意させてもらうよ」、両手で丁寧にボトルを掴み、高橋涼介は楽しそうに笑った。「その間に好きなものを好きなだけ食べてくれ。食べてくれるのがこっちとしてはありがたいからな」
りょーかいです、と慎吾が片手を挙げてソファに座ると、腰を浮かせた状態のまま、「あ、俺は酒、要らねえから」、と慌てた風に中里が言った。高橋涼介は笑みを消して、眉を上げた。
「飲まないのか」
「車だしよ」、中里がこちらを見ながら、苦い顔になる。「こいつ、送ってかねえとな」
「泊まればいいさ。場所はあるし布団もある。両親も帰って来ない。外泊にはうってつけのシチュエーションだな」
「……そこまで迷惑かける義理はないぜ」
「迷惑になるなら最初から誘わねえよ、俺は」
何とも甘ったるい雰囲気が生まれていた。とりあえず慎吾は用意されていたおしぼりで手を拭いてからフォークを取り、ホールのチョコレートケーキを豪快に端から崩して食べた。
「……まあ、とりあえず、今はやめとくぜ」
「分かった。けどその気になれば飲んでくれ。無用な遠慮は場の空気を壊すからな」
ああ、という中里の相槌を受け、高橋涼介は台所へ行った。この家ならば台所ではなくキッチンと呼ぶべきだろう。埃のない床、光沢のある家具、染みも黄ばみも存在しない天井。見ていると頭痛が起きそうなほど生活感が薄い。クリスマスの夜、高橋涼介の家、中里と一緒、ケーキ攻略戦。そんな不可解な状況を忘れるべく、慎吾はチョコレートケーキをひたすら食べた。中里はショートケーキを攻略していた。
1ピースを食べ終えたところで、高橋涼介によってグラス六つにかち割り氷の入ったアイスペールが運ばれた。それから炭酸水と、コーヒーカップに入ったコーヒー。中里はコーヒーをすすり、慎吾はグラスに氷を適当に入れてグラスの縁近くまでウイスキーを注ぎ、かき混ぜることなくそのまま煽った。喉を液体が通過して、腹にかけて熱くなった。
「大丈夫か、お前」
人の気も知らない呑気な声が隣からして、慎吾はチョコレートケーキを頬張り、もう一度縁の際まで入れたウイスキーを煽ってから、言った。
「イブイブにイブにクリスマス、三日連続朝から次の朝まで働いて、それが終わったクリスマスの夜、高橋涼介の家で、高橋涼介とお前とケーキを食うってんだ、飲まなきゃやってらんねえよ」
「……………………そうか」
ウィスキーを飲み、チョコレートケーキを食らう。うまい。甘ったるい生クリームや甘ったるいフルーツはさほど好きではないが、甘ったるいチョコレートは好きだ。ビターなチョコレートもいい。アルコールが飽和させた脳に、カカオが幸福を呼ぶ。
「それは大変だったな、庄司」
一人掛けのソファに座った高橋涼介が、しみじみと言う。ああ、と慎吾は自嘲した。
「広告会社は需要作るだけ作りやがって、末端の供給者の待遇なんざ考えもしねえんだ。マスコミも金のことしか頭にねえ」
「どこもスポンサーが絶対だ。仕方ねえさ」
「それで公平性を謳いやがってるってのが、白々しくて吐き気がするぜ」
「現状、それを覆す組織は日本には存在しないからな、残念なことに。個々人で見極める目を持つしかない」
さすが群馬のカリスマと言われるだけあって、高橋涼介は話の分かる男らしかった。それに比べて隣の男は会話に入れず黙々とケーキを食べている。いや、ケーキがうまいから会話に入る必要を感じていないのかもしれない。実際、ケーキはうまい。ふざけた状況だ。しかしケーキはうまい。チョコレートはウイスキーに合う。糖分とアルコールで脳が浸ると段々何もかもどうでもよく思えてくる。そうして黙々とケーキと酒を空けていると、高橋涼介と中里はぽつぽつ話をし始めた。
「もっとクリスマスパーティらしくしようかとも考えたんだが、一人では限界があるし、あまり浮かれたことをする気分にもなれなくてな」
「おふくろさんは福岡に着いたのか」
「さっき電話がきたよ。時間ができ次第ケーキを楽しく食べてる様子をメールで送ってきなさいと。というわけで、あとで写真を撮らせてもらう」
「……楽しく食べてる様子か」
中里の目がこちらに向けられた気配があったが、慎吾は仏頂面でチョコレートケーキを食べ続けた。中里の目が離れた気配がして、酒を飲む。
「まあ、分かった。それにしても、ツリーくらいは飾ってんのかと思ってたぜ」
「昔はそうだったな。啓介が破壊するまでは」
「破壊?」
「蹴って倒して踏みつけて、挙句の果てに自転車を叩きつけた。幹は裂け枝は折れ葉は散乱、あれだけ悲惨な状態のクリスマスツリーには今でもお目にかかったことがない。それ以来我が家では無縁の存在だ。まあ家政婦も毎年飾り付けには労を割いていたから、なければないで手間がかからずに済むもんだよ」
話しながらも中里と高橋涼介はケーキを消化していた。ホール一つ分があっさりと片づけられ、ケーキの大草原からテーブルの地肌が続々と現れた頃、唐突にドアチャイムが鳴った。
「失礼、客だ」
高橋涼介が客人を出迎えに行く。中里と二人になる。中里はブッシュドノエルをうまそうに頬張る。慎吾はチョコレートケーキを食らい続ける。そしてウイスキーを煽る。聞こえるのはトムウェイツのしゃがれ声だけで、中里との間に会話はない。会話をする必要性を感じない。ホワイトクリスマス、高橋涼介の家、ケーキを食べながら、中里と二人きり。煙草もない。それなのに、心はなぜか暖かい。アルコールのせいだと慎吾は思った。だから、もっとアルコールを入れることにした。
いわゆる瀟洒な一軒家のドアを開いた男が、愛想笑いを浮かべた。
「ようこそ。歓迎するぜ」
京一も一応愛想笑いのようなものを浮かべてやったが、高橋涼介はそれを見ると愛想笑いを消した。何となくお互いに頷き、中に上がる。清次までが玄関に入ったところで涼介はドアを閉め、鍵をかけた。
「差し入れだ」
京一は廊下を歩きながら、手に持った袋を涼介に差し出した。
「気が利くな。酒か?」
「赤ワイン。地元のワイナリーのだ。以前に知人から貰ってな。一本飲んだが、うまかったよ」
「それはありがたい。飲んでけよ、時間はあるだろ」
「まあな」
建前の会話をしつつ、リビングに至る。二度、来たことがある。ドライビングの映像を見るためだ。大きな変化はない。広さも家具も同一だ。ただ、リビングの中央に変化がある。ホールケーキとピースケーキが敷き詰められたローテーブルを囲むようにソファが設置されている。手前の短辺に一人掛け、左右の長辺に三人掛け。そのうちのキッチン側の方に、男が二人座っている。手前に短い黒髪の男、奥に染めた長髪の男。手前の男と目が合って、会釈をし合う。男の顔立ちは精悍で、厳つい眉と鼻と輪郭は年かさに感じられたが、額に数本落ちた黒い髪や大ぶりな目と唇は幼さを強調し、何とも年齢不詳な印象を与えた。その男は、京一の横に目を滑らせた途端、長髪の男へと体をねじった。
「適当に座って、好きなものを食べてくれ。別の差し入れでウイスキーもあるから飲んでくれて構わない。ワインを用意する。ホットがいいか?」
「いや、そのままでいい」
室内は暖房が抑えられているが、寒くもない。涼介は頷きキッチンに向かう。京一はつまらなそうに室内を眺めている清次に顎をしゃくり、空いている三人掛けのソファまで歩き、腰を下ろした。目の前には二人の男。京一の前には黒髪の男が座っているが、キッチン側にまで体をねじっている。涼介を見ているのかもしれない。長髪の男は俯き加減で手に持ったグラスを見据えている。そのうちそこからウイスキーが溢れてくる瞬間を見逃さんとしているようだ。妙な二人である。挨拶など受け付けない雰囲気だった。
「いただきます」
律儀に清次が言い、ケーキを食べ始める。甘いものに目がない男だ。生クリームのたっぷりかかったスポンジにフォークを入れ、大口で食らい、一人頷く。京一はオン・ザ・ロックを二つ作ってから、手近にあったアップルパイに手をつけた。甘ったるい。口の中が侵されて、酒が進む。今日はクリスマスだ。その夜に涼介の家でケーキを食うなど、飲まないとやっていられない。
前に座る男はまだ体をねじっている。涼介を見ているのかもしれないが、分からない。その右の長髪の男は、思い出したようにグラスをテーブルに置き、そこに乱暴にウイスキーを注ぎながら、不意に顔を上げた。男は清次を見た。男の真正面にいるのが清次だった。男は他人を射殺すような鋭さを秘めた目に、尖った鼻に頬、厳しい口元を持っていた。その顔は酔いの影響を感じさせた。男が手にしたウイスキーがどんどんグラスに溜まっていく。清次もそれに気付き、訝しげに男を見る。男はただ清次を見ている。その目には明確な意思が窺える。明確な、憎悪だ。
「おい」
と、体をねじるのを半ばやめた短髪の男が、長髪の男の手を取った。グラスからウイスキーが溢れる前に、短髪の男の手によってボトルがテーブルに置かれた。長髪の男は清次を見たままだった。そして、清次を見たまま、グラスを手に取り、煽った。
「あ」
短髪の男が驚きの声を上げた。京一は声を出すのも忘れていた。長髪の男の行動は不可解だった。なぜその男が清次に憎悪の目を向け、グラスに並々注がれたウイスキーを煽ったのか、理解ができなかった。清次も理解しがたいようで、京一が目を向けると、思い切り首を横に振った。自分は関係がない、と言葉に出さずに告げていた。長髪の男に目を戻すと同時に、その男の向こうから涼介が歩いてくるのが見えた。片手にワイングラス、片手にワインを持って、悠々とした動きだ。涼介だけ、この場とは別の空気を吸って生きているように見えた。
「いいか」
硬い音を立ててグラスにテーブルを置いた長髪の男が、清次を指差し、至極おかしそうに、笑った。
「俺は、てめえを殺したくてたまんねえんだ」
笑ったまま、男が言った。何とも不穏当だった。涼介が栓を抜いたワインボトルをテーブルに置き、グラスを京一と清次の前に置く。その涼介をソファに座り直した短髪の男が見、涼介はその男をちらりと見て、一人掛けのソファに座った。
「何?」
清次がようやく声を出した。驚くも何も理解ができていないらしく、その顔は能面のようだった。
「だから、俺は、てめえを殺したいんだよ。殺意を持ってる。純粋で完璧な、殺意だ。覚えとけ。それは一生消えねえからな」
長髪の男が笑ったまま、言う。その笑みは嘲りを含まない、純粋で完璧な、人の背筋を冷たくさせる笑みだった。
「おい慎吾、絡むなよ」
短髪の男がそう言って、長髪の男が清次に突き付けていた指を下ろさせる。長髪の男は笑みを消し、短髪の男を見る。じっと見る。涼介はその間にケーキを食べ始めている。清次も他にやることがないらしくケーキを食べ始める。京一は何もしていないのもむずがゆくなり、とりあえずグラスにワインを入れた。
「お前は平気か、毅」
「平気ってわけじゃねえけど、しょうがねえだろ。ここは高橋涼介の家だぜ」
言いながら、短髪の男が涼介を見る。涼介はその顔に、余裕を浮かべる。その余裕の奥に、この状況を楽しむ不穏当な欲求が透けて見えた気がして、京一はワインを飲んだ。爽やかな香りが鼻を抜け、酸味が喉を通り、渋みが舌に残った。長髪の男は、再び笑った。今度は嘲笑だった。
「そういうことじゃねえよ」
「あ?」
「つまり、お前は俺じゃねえってことだ。俺の価値観も思想も何も、どっから出てるかお前には分かんねえだろ。俺がどんだけこいつを殺してえのかってことも。お前は理解できねえよ。だってお前は俺じゃねえし、俺もお前じゃねえからな。だから俺はこいつを殺してえんだ」
長髪の男は言い終え清次を見、「まあ、やらねえけどな、めんどくせえし」、と笑った。ケーキを食べ終えた清次が、長髪の男を不愉快そうに睨んだ。
「俺には、お前にそこまで恨まれる覚えが、ねえんだけどよ」
「覚えがねえことは理由になるぜ」
「ったく、何だってんだお前ら。っつーか、誰なんだ?」
もっともな疑問だった。涼介が呼んだのだから知り合いだろうとは思われる。どちらかが駐車場に停められていた黒いGT−Rの所有者で、おそらくは走り屋だろう。だが京一は二人の男を見たことがない。二人は清次を知っていて、長髪は清次に殺意を抱いている。推測は簡単だった。結論は厄介だった。京一はもう一度ワインを飲んでから、黙っている二人に向かって言った。
「お前ら、清次に負けたのか」
二人の男が揃って京一を見、短髪の男はまたばつが悪そうに目を逸らし、長髪の男はまたあくどく笑った。
「俺は負けてねえよ。こいつが負けた」
長髪の男が短髪の男を親指で示し、短髪の男は何を言い出すのかと言わんばかりに長髪の男を睨む。涼介は黙ってケーキを食べている。その顔にはやはり余裕がある。
「GT−R!」
そして清次が叫んだ。突然だ。清次は短髪の男を指差して、馬鹿にするように笑った。
「そうか、妙義の32だな。思い出したぜ、遅い上に途中でクラッシュしてやがった」
「清次」
はしゃぐような清次の空気が場をもっと不穏当にするようで、京一はその名を呼んで咎めた。清次は笑みを引っ込め肩をすくめ、何度か頷きつつ、ケーキにフォークを突き刺した。
「けど、それで何でそっちの奴が、俺を殺してえんだよ。俺に負けたのはそいつだろ。お門違いにもほどがあるぜ」
短髪の男が顔を強張らせ、長髪の男を見る。長髪の男はウイスキーを再びグラスに注ぎ、それを煽り、深く息を吐き、清次を見る。その顔は深刻な真剣みを帯びていた。
「お前がお門違いだと思おうが、俺には関係ねえ。俺の中では筋が通ってる話だからな。俺はお前だけじゃなくて、高橋啓介もぶっ殺してえし」
「高橋啓介?」
予想もしていなかった名前が出てきて、京一もつい声を上げていた。高橋啓介は涼介の弟だ。そいつをこの長髪の男が殺したいということは、短髪の男は高橋啓介にも負けているということだろうか。中身の知れない話だった。
「それは聞き逃せない話だな」
涼介が口を開いた。緊迫した声ではなかった。他人事で、余裕がある。長髪の男がまた笑う。
「だから、やりゃあしねえよ。安心しな、お兄様」
「俺は中里を、挫折したまま立ち止まるような人間だとは思わない。庄司、近くにいるお前ならもっとそう思うんじゃないか?」
庄司と呼ばれた長髪の男は、口元は笑んだまま、目は冷ややかだった。この男が庄司なら、おそらく短髪の男が中里だ。京一はケーキを食べた。食べるしかない。口を挟むような話は行われていない。
「高橋涼介、その過程を一つも見届けてねえお前が、そんな風に言うことは、俺は認めねえ」
庄司が涼介を見据えたまま、じっくりと言った。涼介はその庄司の内奥を見透かすように、目を細め、静かに言った。
「その過程で、お前は傷ついたんだな。だから、啓介も岩城清次も殺したい。そしてお前自身をも」
京一はそれを言った涼介を見た。涼介は慎重な顔つきだった。間違いを犯さないようにしているようだった。京一は庄司を見た。庄司は特に感慨もなさそうな顔になって、首を傾げた。
「まあ、そんだけこいつがひでえ有様だったってはあるかもな」
「お前、そこまで俺はひどくなかっただろ」
中里が不当そうに言う。京一はワインを飲む。清次はケーキを食べている。蚊帳の外だが、ケーキはうまいしワインもうまい。庄司はやはり特に感慨もなさそうに言う。
「いや、ひどかったぜ。胸からだらだら血ィ流れてるのが見えるみてえで、俺はお前をまともに見てられなかった。それしかできることなんざなかったってのに。だから、最初からぶっ殺してやりゃあ良かったんだよな、高橋啓介もそこのエボ4も。そうすりゃ何も起こらなかった。秋名のハチロクなんて後回しにしときゃあ良かったのによ。ああ、でも毅が負けちまったんだ。そこで俺が出ねえと、いつ出るんだって話じゃねえか。前提が悪かったんだ」
最後は呟きになっていた。秋名のハチロク、と京一は思った。藤原か? 藤原と、こいつらはバトルをしたのか? 庄司は何事もなかったようガトーショコラを食らい出した。京一は中里を見た。中里は綺麗なグラスに氷も入れずウイスキーを注ぎ、飲んだ。そしてテーブルにグラスを置いて、そのグラスを見据えながら言った。
「そうだ、俺は秋名のハチロクに負けて高橋啓介に負けて、岩城清次にも負けた。三連敗だ。そのうち二回はホームだし、二回は工場に世話になったし、一回はむちうちになった。ひでえ有様だったと言われても、まあ、堂々と否定できる立場じゃねえ」
そこで言葉を切った中里は、次に何かを言おうとしていたのだろうが、京一はつい生じた疑問をぶつけていた。
「お前ら、藤原とバトルをしたことがあるのか?」
息を吸った状態で止まった中里が、京一を見る。不思議そうな、無防備な顔だった。
「藤原って、秋名のハチロクか?」
「そうだ」
群馬では、藤原拓海は通り名の方が有名らしい。中里はああ、と小さく頷いて、遠い目をした。
「あれは…………気持ちの良い、バトルだったな…………」
「負けたけどな」
グラスに氷を足しながら嘲った庄司を、中里が不快そうに横目で見る。
「お前も負けてんじゃねえか、慎吾」
「俺のありゃ、公式のバトルじゃねえし」
「あんなもん公式にやられたら、ナイトキッズの面子に関わるぜ」
「だから今までやったこたァねえだろ。俺だって一応考えてんだよ、面子とか体裁とか、自分の名誉とかな」
庄司はウイスキーをグラスに注ぎ、中里はそんな庄司を見て溜め息を吐き、ケーキに手を出した。京一はアップルパイをもう一つ食べようとして、その前に、改めてこの場を見回した。隣の清次は腑に落ちない雰囲気を醸し出しながらも、ケーキを食べる手は止めない。前の男二人は酒とケーキを交互に口に入れている。左手で悠然とケーキを食べている涼介は、場に流れる空気をまったく厭う気配もない。心から楽しんでいそうだ。京一は、ワイングラスを手に持って、少し考え、頭に回るアルコールの勢いで、考えたことを思わず口にした。
「ここにいるのは全員、藤原に負けた奴ってことか」
「そうだな」、すぐに涼介が言葉を継いだ。「縁がある。深い縁だ」
神妙な空気になった。藤原拓海。あの高校生ドライバーは、今季何人の走り屋を負かしたのだろうか。もしかしなくても自分は、随分な相手とバトルをしたのかもしれない。
「あんた、須藤京一か?」
思考をよそにやっていた京一は、自分の姓名を聞いても、ただちには頷けなかった。それを言った庄司を見て、問われた内容を頭の中で再生してから、ああ、と言う。庄司は頷き、そして頬を捻じ曲げるように笑った。
「はっ、そうか、おい、あんたが須藤京一か。そうかそうか。高橋涼介に食ってかかっといて、こんなところでしれっとケーキ食ってるなんざ、噂に違わずご執心なことで、いや、良い光景だね」
その揶揄は、適切に人を侮辱するものだった。庄司が自分を見過ごしていたのは、身分を知らなかったためのようだ。群馬エリアの制圧の指揮を執ったのは京一で、庄司がその先鋒を切った清次を憎んでいるのならば、責任者である京一に憎悪を飛ばすのも道理だったが、その表現方法は京一の癪に障った。つい睨むも、庄司は笑うばかりだ。
「だからお前は、絡むなっつってんだ」
中里が、庄司を肘でつつく。庄司は相変わらずひねくれた笑い方をしながら、楽しそうに言った。
「あのな、ここにいる奴らは全員走り屋で、しかも揃って秋名のハチロクに負けてるときたもんだぜ。運命的だろ。折角こうして一緒に酒とケーキを囲んでんだ、お前よ毅、須藤京一に妙義でバトルしてもらえよ」
「はあ?」
軽々しく庄司は言った。京一は眉をひそめた。何を言い出すんだ、こいつは。
「ついでに俺は岩城清次を崖から落とすから」
「ついでかよ!」
清次が不当そうに叫ぶ。うるさい。庄司はケタケタと笑う。
「てめえなんざ所詮脇役だ、岩城。俺もそうだ。主役は秋名のハチロクで、その周り以外で起こることなんて、廃タイヤほどの価値もねえ。それにしても、俺は今日何回秋名のハチロクって言った?」
「それで三回目だな」
涼介が指摘した。余裕のある態度は変わらない。そうか、庄司が得心したように頷く。
「つまりだぜ、毅と須藤京一がバトルをして、毅が負けやがっても、俺が岩城清次をぶっ殺せりゃ、それで丸く収まるんだよ。チームの面子も回復する。最高じゃねえか」
「お前、さっきやらねえっつったじゃねえか、めんどくせえとか」
驚きの声を上げた清次を、庄司は無視した。
「何なら俺が須藤京一とやってもいいんだよ。人のチームを単なる通過点にしくさって、どれだけぶち壊したのか知ろうともしやがらねえ、そういう奴らはまとめて死んじまえばいい。俺が殺してやる。それで、全部解決だ」
グラスにウイスキーを注ぎながら言った庄司の手を、中里が掴み、その手からボトルを奪い取った。
「飲み過ぎだ。もうやめろ」
庄司は不可解そうに中里を見、無抵抗を示すように両手を挙げた。それからソファに背を預け、深く息を吐き出した。中里は庄司のグラスに入ったウイスキーを飲み干してから、深く息を吐いた。京一はアップルパイにフォークを突き刺したまま、そんな二人を見ていた。変な奴らだ。礼儀も知らないらしい。だが、自分が真っ直ぐ涼介に向かっていく間に踏み潰したものが目の前にあるのだと思うと、馬鹿にする気持ちも失せた。アップルパイを食べる。シナモンの香りが鼻についた。しばらく沈黙があった。涼介を見る。平然とケーキを食べている。それを見ると、馬鹿らしくなってくる。
「俺はでも、バトルをしたことに、後悔はねえよ。一つもな」
半分食べられたケーキを眺めながら、独り言のように、中里が呟いた。庄司は目をつむっていた。話は何かの続きのようだった。京一が遮った話の続きのようだった。
「お前はいい奴だな、中里」
涼介が、言葉を挟む。その声の柔らかさのために、京一は涼介を見た。涼介は薄く、美しく、笑んでいた。それは、中里に向けられていた。中里はそんな涼介を見て、さっと顔色を変えた。
「待て。それ以上、何も言うんじゃねえぞ、高橋」
「俺が女なら、お前に惚れてるぜ」
笑ったまま、涼介が言った。
トップへ 1 2