ケーキパーティ 2/2
  2


 眠った慎吾を抱えて提示された部屋まで運び、パーカだけ脱がせて布団に寝かせ、中里は一息吐いた。酔い潰れた慎吾は安らかな顔で眠りについている。いつもこれだけ大人しければ楽なものだが、突然神妙になられても、死にそうなのかと疑ってしまうかもしれない。結局、ひねくれ者にはひねくれていてもらわなければ、安心もできないのだ。
 といっても、高橋涼介のひねくれっぷりは、安心できるものではなかった。どういう例えをされようが、二人きりなら度の過ぎた冗談として流してやれば良い。だが本日高橋涼介の家には、須藤京一と岩城清次も客として招かれていた。栃木の走り屋、エンペラー、ランエボ使い。須藤京一は赤城山で高橋涼介と白熱バトルをして負けており、岩城清次に中里は妙義山のヒルクライムで負けている。そういう走り屋たちの前でいつものようにケーキ以上に甘ったるい比喩やら揶揄やらを使われると、何とも処理の仕様がない。とりあえずあいつの言うことはなるべく聞かなかったことにしよう、そう決めて中里は立ち上がり、おやすみ、と寝ている慎吾に言い残して、リビングに戻った。そしてソファの自分がいた位置に高橋涼介が悠然と座っているのを見て、回れ右をしかけ、気取られぬようにため息を吐いてから、きちんと歩を進めた。
「庄司はどうだ?」
 隣に腰を下ろすと、高橋は覗き込むように尋ねてきた。近くなった距離に居心地の悪さを感じつつも、中里はしっかり言葉を返した。
「すっかり寝てるぜ。ったく、良い気なもんだ」
「それは何よりだ」
 高橋は笑う。機嫌は悪くなさそうだ。これならば下手な対応さえしなければ、妙なことも言い出さないだろう。中里はいつの間にかテーブルの上に置かれていたアーリータイムズのボトルを手に取って、グラスに注いでそれで唇を湿らせてから、目の前にいる須藤京一に、すまなかったな、と言った。
「何がだ」
 一旦ケーキに落とした視線を、須藤は明快な答えを求めるように真っ直ぐ戻してきた。その、と中里はグラスを両手で持ちながら言葉を発した。
「慎吾、あいつが失礼なことばかり言って。あいつも普段はもっと慎重なんだが、クリスマスで仕事漬けで、最初から飲みすぎちまっててよ、ちょっとキレちまったというか、キレるとまた見境なくなる奴で、いやしかし、いつもはあんなでたらめじゃねえんだ。大目に見てくれねえか」
 慎吾の思考回路は物騒であっても、真正面から複数の人間に喧嘩を売るほど隙だらけではない。須藤や岩城にそんな慎吾の性質が理解できるわけもなかろうが、アルコールに理性が食われた仲間の姿を本来のものだと誤解されたままなのもすっきりしない。せめて説明だけはしておきたかった。
「気にするな」、須藤は視線を外さず、手に持ったモンブランを軽くかじった。「最初に失礼なことをしたのは、俺の方だからな」
「最初?」
「通過点とすら見ていなかった」
 モンブランはあっという間に須藤の口へと消えていったが、須藤の視線は消えなかった。中里はそれを受け止めながら、バーボンで喉まで湿らせて、慎吾の説明ではなく、自分の説明を試みた。
「あんたがどう考えてたにせよ、バトルはバトルだ。岩城はどうか知らねえが、俺は本気でやった。それを失礼だってんなら、そっちの方が失礼だぜ」
 喧嘩を売るような口調になりかけて、中里は慌てて酒で口を封鎖した。須藤はモンブランが載っていた紙をワイングラスに持ち替えて、それに表情の読めない目を落とし、首を傾けながら、片頬を上げた。
「なるほど、確かにお前はいい奴だな」
 口の中に生のアーリータイムズを感じたまま、中里は目を岩城に向けた。こちらをまったく見もせずに、フルーツタルトとシュークリームを交互に食べながら、首をひねっている。この平穏さが隣に座る高橋涼介にもあることを祈りつつ、中里は目を更に横に向けた。直後、視線がかち合った。高橋は、意味深長に笑むと、おもむろに須藤の方へと首を回した。
「こいつを口説くのはよせよ、京一。俺が先約だ」
 中里がようよう酒を飲み込んだところで、片頬を下ろした須藤が目を上げて、高橋を見据えながら、言った。
「口説くのに順番はねえだろ」
「あるさ」、そして高橋は、何のこともないように中里の肩に腕を回した。「こいつは既に俺のものだ」
 須藤は挑発的に高橋を見上げ、高橋は悠然と須藤を見下ろす。岩城はフルーツタルトを先に食べ終えて、また一人で頷く。できることなら人の意向を無視した冗談を言いまくる高橋やそれに対抗して悪乗りしている須藤に挟まれるよりは、岩城の傍でケーキを平穏に食したい。しかし岩城の傍でなくともケーキの世界には飛び込める。何より肩に回されている高橋の腕からは、力が抜かれているのにここから動かさないという固い意志が感じられ、それに真っ向勝負を挑まないのも無礼に思えた。結局中里はグラスをテーブルにがちりと置き、思いきり高橋涼介を睨みつけた。
「高橋、お前な」
「何だ」
「俺で遊ぶんじゃねえよ」
「そう言われると悲しいな。とても楽しいのに」
 気落ちしたような表情を浮かべられると、罪悪感を覚えないでもないが、発言内容は看過できない。
「お前が楽しくても、俺は楽しくねえんだ、こんなこと」
「お前も楽しめよ、中里。俺とお前の仲だろう」
「どんな仲だって」
「一緒にケーキを食べる仲だ。誤解されながらな」
 楽しげで、完璧に美しい笑みを高橋は浮かべる。アルコールが回ってきたのか、急に顔の熱さが意識されて、中里は肩に回された腕はそのままに、天を仰ぎ、額から髪を掻き上げた。



 誰が持ってきたのか分からずじまいだったサンタクロースの赤白帽子を被り、酔っ払いに奪われずに済んだユナイテッドアローズの黒いピーコートを着たまま、午後十一時五十分に啓介は帰宅した。兄からのメール通り、駐車場にきっちり揃って並んでいる黒いGT−Rとランエボの横を、雪が降る中駆け足で通り、家のドアを開ける。玄関には見知らぬワークブーツとブランドの違うスニーカーが三足。電気の点いている廊下は暖かく、甘い匂いと湿っぽい音楽が漂っていた。それを三歩で渡り、啓介はリビングの入り口に立ち、両手を上げて、叫んだ。
「メリークリスマス!」
 場は、しんとした。ソファには四人座っているというのに、全員ノーリアクションにもほどがあった。兄はいつでも冷静な人だから良いとしても、須藤京一も須藤の連れである岩城清次もクリスマスだというのにノリが悪い。兄の隣に座っている中里など、顔を上げようともしなかった。啓介は上げた両手をピーコートのポケットに入れ直し、とりあえずリビングに入った。
「お帰り」、兄が立ち上がり、ノらなかったことを詫びるように、優しい声をくれた。「パーティはどうした」
「始めんの早すぎて、みんなもうご臨終。っつーことで俺は途中で抜けて走ってたんだけど、まあ折角だからクリスマス中に家に帰ろうかと」
 答えている途中、兄は顔を近づけてくると、目の前で匂いを嗅ぎ、よし、と頷いた。
「飲んでないな」
「走るのに飲まねえって」
 兄からは酒の匂いがする。運転をしないから飲んでいるのだろう。
「素面でそのノリかよ」、ソファに座っている岩城が目を剥いた。ちょっと気持ち悪い。
「クリスマスだぜ、清次」、その隣の須藤は空のグラスを見詰めながら呟く。「クリスマスだ。クリスマス」
「それもそうか」
「クリスマスだ。クリスマス」
「クリスマスだな」
「クリスマスだ」
 人間、出来上がりすぎるとノリが悪くなるものなのかもしれない。
 啓介は何となく被っていたサンタ帽を脱いで兄の頭に載せ、テーブルの上に残っているケーキの一つをつまもうとポケットから手を出したが、兄はそれをすかさずがっしりと取った。
「手を洗ってからだ」
 サンタ帽の下に、頑固さが表れた兄の顔が目の前にある。
「一つくらいいいだろ」
「駄目だ。着替えて手を洗ってこい」
 兄は顔を緩めない。ここは一旦引き下がるしかないだろう。へいへい、と手をポケットに戻し、返事は一度にしとけ、という兄に、はいよ、と返してやってから、啓介はリビングから出、二階の自室に上がった。さっさと部屋着になって下に降り、手を洗い、リビングに戻る。相変わらず湿っぽい曲が流れている中、空いている一人掛けのソファに腰を落ち着かせ、生ぬるいベイクドチーズケーキに手をつけながら、なあ、と啓介はサンタ帽を脱いでしまっている兄に言った。
「クリスマスなんだから、クリスマスソングかけりゃいいんじゃねえの? ワムとかマライアとかさ」
「クリスマスは終わった」
 言われて壁掛け時計を見てみれば、十二時を回っていた。つまり今日は、十二月二十六日だ。まあそうか、とチーズケーキを二口で食べ終えてから、右を見る。須藤と岩城はいかつい顔をノーリアクションで固めていた。どうも、と遅れて挨拶をすると、二人して軽く頷く。やはりノリが悪いが、無視されたわけでも絡まれたわけでもない。割り切ろう。
 テーブルの上のケーキも残りはあと一つだった。それを遠慮なく手に取って、啓介は兄の奥にいる男を見た。俯いたまま動かない。しばらく眺めていても、動かない。
「中里、寝てんのか?」
 少し声を大きくして聞いてみると、三秒後にぴくりと体が動いて、ゆるゆると顔が上がった。
「……いや、起きてるぜ」
 真っ赤な肌、据わった目、かれきった声。啓介は生クリームが融けかけているショートケーキを持った手で、茹でダコ状態の中里を示しながら、なあ、とコーヒーを優雅に飲んでいる兄に聞いた。
「何でこいつ、こんなに茹で上がってんだ」
「飲み過ぎたんだろう。酒には強いと聞いてたんだが、環境のせいかもしれない」
 兄の上がった左眉の脇あたりにかすかな心配が見えた気がしたが、眉が下がると同時にそれは消えた。
「強いぜ、俺は」、中里がおかしな抑揚で言う。「弱くねえ。酔ってもいねえ」
「いや酔ってるだろ、明らかに」
 ついつい指摘すると、中里は充血している半開きの目を向けてきた。ちょっと怖い。中里はそのまま半開きの口から、喉が砂漠化しているような声を出した。
「高橋啓介、お前は……」
「何だ」
「…………………………………………黄色いな」
 部屋着のシャツは黄色だから、黄色いという中里の感想に間違いはない。だが酒の入っている兄も出来上がりすぎている須藤も岩城も、中里について同じ感想を抱いたようだった。こいつは酔っている。兄がコーヒーカップをソーサーに置いた硬い音が、確定を知らせる鐘に啓介には聞こえた。
「中里も沈没しかけているし、ケーキもなくなった。そろそろお開きにしよう。皆さん、ご協力感謝する」
 立ち上がったうやうやしく兄が言い、須藤も岩城も頷いて、手元にある空いた皿やらグラスやらを重ねて手に持った。ノリが悪くなるほど出来上がりすぎても、ごねずに率先して片づけようとするあたり、兄の客としては優良なのかもしれない。
「俺は沈没しちゃいねえ。泳ぎは得意だ。海で泳いだことはねえが」
 座ったまま、おかしな反論をする中里が優良かどうかは知れなかった。ただ、腰を少し屈め、なら今度一緒に泳ぐか、と中里に語りかける兄はどこか愉快そうなので、まあ良いんだろうと思う。
「俺は、泳ぎは得意なんだ。お前なんざ、置いてくぜ」
「お手柔らかに頼むよ。いずれにしても、暖かくなってからだな」
 笑って兄が言い、食器を下げる。じっとしているのも暇なので、啓介は立ち上がってテーブルの上のゴミを集めた。つられたように中里が立ち上がり、手に持ったままのグラスをあおると、案外しっかりとした足取りでこちらに向かってきた。とはいえソファの足に何度かぶつかる不安定さがあり、啓介はゴミをゴミ箱に捨ててから、中里の腕を取った。
「流し行きたいのか、ならこっちだぜ」
「高橋啓介、お前……」
 中里は、相変わらず半分だけ開いた目で見上げてくる。ちょっと怖いが、それでも凶悪な印象はない。元の目が大きいからかもしれない。また黄色いとでも言ってくるのか、まあ黄色いしな、シャツを強調するように胸を張りつつ啓介は中里を見返した。中里は空いている手で、啓介の肩をがしっと掴んだ。
「……自然は、大切にしろよ」
「…………はあ?」
 うんうんと頷いた中里が、安定しているんだかしていないんだかという足つきでするりと流しへ歩いて行く。走り屋がいきなり何を言い出すのか、いや走り屋だからこそ自然環境を愛せよということなのか。酔っ払いの考えは分からない。
「……くっ、くく、ははっ」
 啓介が不可解さでぽかんとしていると、カウンターに両手をついた兄が、突如笑い出した。兄が体を揺らすまで声を出して笑うことなど、滅多にない。かなりツボに入ったらしい。洗い物をしている須藤と岩城は異次元空間の発生を見つけたような顔になっている。俺も似たような顔してんだろうな、思いながら啓介は、何がそんなにおかしいんだ、と兄に尋ねた。いや、と答える間も兄は笑い続ける。
「悪いな、ふふっ、思い出し笑いだ」
 何を思い出したかは知らないが、珍奇な兄は何とも楽しそうで、ケチをつけるのも気が引けた。啓介は鼻から息を吐き、テーブルを置いてあったタオルで拭こうとしかけ、笑い続ける兄の横で、流しから戻った中里が足を止めたのを見て、つい自分も止まっていた。
「涼介」
 水の流れる音、食器の擦れる音が響く中でも、その中里の、かれきっているにも関わらず耳に馴染む声は、よく聞こえた。兄はぴたりと笑いを止めて、不思議そうに中里を見た。愛想笑いを浮かべることもなく、その顔のままの声で、どうした、と兄が言う。中里は、顔色は丸きり酔っ払いだが、表情はまともになっていた。
「ありがとよ。誘ってくれて」
 真剣さが、空気に乗って伝わってきた。中里は兄から視線を外さない。兄はわずかに上げていた眉を元の位置に戻すと、中里と似た真剣さを顔にまとわせた。
「来てくれて、ありがとう」
 笑みのない、窮まった真面目さだけが漂う、一歩間違えれば険悪さや深刻さが広がりそうなやり取りだったが、だからこそ当人同士によってのみ通じ合えるものがあるようだった。中里は無言で兄に向けて一度頷くと、未練もなさそうに前へ直り、再び歩き始めた。安定したその足取りとは裏腹に、徐々に傾いでいくその体を、啓介は咄嗟に出した腕の中に収めた。抱き合うようにして立たせると、ずっしりと、死人のごとき重さが全身にかかる。だが、体に触れる熱も肌に伝わる酒臭い息も、生きている人間のものだった。
「立ったまま寝るとか、器用だな」
 皮肉もどきを言ってみるが、中里は無反応だ。自力で寝床に行ってくれそうにはない。こいつどうする、と兄を見やるも、視線は合わなかった。兄の目は、自分に抱きついて眠りに旅立った中里に据えられていた。
「名前で」
 こちらの声が聞こえていないのかと思い、アニキ、と呼ぶ前に、兄が言った。
「あ?」
「呼ばれたことはなかったな」
 兄の目は中里に固定されている。名前、と啓介は中里の黒いつむじを見た。兄が中里と連絡を取り合っていることは聞いていた。中里と兄では愛車もドライビング技術もその傾向も生活環境もまったく違う。話が合うとも思えなかったが、話が合わない相手と毎日のように連絡を取り合う兄でもないから、何かは合うのかな、程度に啓介は思っていた。だが中里は兄を名前で呼んだことはなく、そして先ほど兄のことを、涼介、と呼んだ。中里は酔っている。歩きながら夢の中にダイビングしたほど酔っている。しかし普段一切頭にないことが酔ったからといって口に出るものでもないだろうし、ついさっき兄に礼を述べた中里は、その瞬間だけは素面のような自然さがあった。兄も酔っている。思い出し笑いで涙を流すほど酔っている。しかし動作に歪みはなく、中里に名前を呼ばれたことがないことを理解できるだけの意識はある。二人ともに、意識はあったはずだ。
「ファーストネーム記念日だな」
 思いついたことを、中里の髪に啓介は呟いた。中里は動かない。よく寝てやがる、ずり落ちそうになるその体を抱え直しつつ、兄に目を戻す。兄は世界を作るすべての仕組みが理解できたと言わんばかりの、すっきりとした顔をになっていた。その兄の横に、洗い物を終えた須藤が立った。兄がすっきりした顔のまま須藤を見、須藤は無表情で兄を見返す。
「クリスマスだぜ、涼介」、須藤が言った。
「クリスマスは終わった」、兄が言った。
「クリスマスは終わった」、須藤は続ける。「仕事は終わらねえ」
「クリスマスは終わった。それしか終わることもない」
 兄の言葉を受けて天井を見上げた須藤は、全身の酸素を吐き出すように深い深いため息を吐くと、終わらねえ、終わらねえ、と頭を振りながら歩を進め、啓介の前を重い足取りで通り過ぎていった。クリスマスでも頭から離れないほど、仕事が溜まっているのかもしれない。ご愁傷様だ。岩城がそんなグロッキー須藤の後ろからあくび混じりに続き、こちらを一瞥もせずに寝床へ一直線、かと思えば急にぐるりと振り向いてきた。「そいつ、持ってくか?」
「そいつ?」
「ついでに」
 岩城がそいつ、と指したのは既に寝ている中里のことで、ついで、と言ったのは寝床に行くついでということだと、啓介は岩城と中里を三度見比べてから気が付いた。そして啓介は兄を見た。この真っ向から抱き合っている態勢で、中里を奥まで運んでいくのはなかなか難しいし、岩城の申し出は動機はさて置きありがたいところだったが、中里は兄の客だから、何をするにも兄の意向通りにするべきだった。兄は視線を合わせてきた。そして明確に一度、頷いた。頷き返し、啓介はよく寝やがっている中里を落とさないように岩城の方に向けた。
「なら頼む」
「おう」
 横に回ってきて、中里の脇の下に両手を差し込んだ岩城は、突如しゃがみ込んだ。そして中里の腰を抱え、右肩に担いですっくりと立ち上がり、バランスも崩さず悠々と歩いて行った。目を疑いかけるほど堂々たる担ぎっぷりであった。飲み会に一人いると便利なタイプだ。死人のようになった酔っ払いも次々タクシーに押し込める。そういう始末に岩城は慣れているのかもしれない。あの担ぎっぷりからして日頃須藤を担ぐくらいはしていそうだった。
 何はともあれクリスマスの馬鹿騒ぎに付き合ったり運転したりで体力が減っていた状態で、抱きつかせていただけでも腰にきていた中里を、岩城に軽々と運んでもらえたのは啓介にとって助かったと言える事象だったが、カウンターに腰かけて前髪を鬱陶しそうに掻き上げた兄は、助かったとは言いそうもない冷たい雰囲気を放っていた。声をかけづらいことこの上ない。このままこっそり部屋に戻ろうかどうしようかと啓介が逡巡していると、兄はそろりと凍てついた目を向けてきて、だが柔らかい口調で言った。
「そんな顔してないで、言いたいことがあるなら言ってみろ」
 これで言いたいことを言わなければ、一生何も言えなくなりそうな、優しい兄のお達しだったので、啓介はお言葉に甘えることにした。
「自分で運びたかったんじゃねえの、中里のこと」
 兄は大げさに顎を上げ、不可思議そうに見下ろしてきて、大げさに肩をすくめた。
「そこまでしてしまったら、自分の部屋で寝られなくなりそうだからな」
 何だか色々と厄介な感じのものを含んでいるようなお言葉だった。さすが酔っ払っている兄である。言いたいことを言わせるだけ言わせておいて、それ以上は踏み込ませない絶妙なスタビリティを無駄に発揮している。なるほど、と啓介がお言葉を受け止めるだけの言葉を返すと、兄はあらゆる事態は冗談だと知らしめるよう、一つ不敵な微笑みを浮かべ、それを穏やかな親愛に満ちた表情につなげた。
「みんなはどうだった」
「まー楽しんでたぜ。史浩は開始五分で落ちたけど」
「どうせお前が飲ませたんだろう」
「失礼だな、アニキ。駆けつけ三杯は公式ルールだ」
 ドライバーや酒が苦手な人間はソフトドリンクでも許される雰囲気のパーティで、酒の弱い人間が一発でダウンしないようにととことんアルコール分を薄めて作られたカクテルは、希望者だけが口にした。つまり、史浩がろくに飯も食わずに割り勘だったら損しかしないスピードで落ちたのは、あくまでも本人の意思によるものだ。決して自分は嫌がる人間に飲め飲めと押しつけたわけではないのであって、サジを投げたような顔でため息を吐かれる筋合いはない。やめてほしい。脂分が溜まった腹が何だかキュッとする。思いが通じたのか、兄は穏やかな表情に戻った。
「お前もそろそろ寝ろよ。走り込んできたんだろう」
「まあ、それなりに」
「何事も体が資本だ。勿論ドライビングも。ゆっくり休息を取れ」
「アニキは?」
「俺はもう少し片付けるよ」
「何か手伝おうか」
 両手を広げつつ聞けば、笑われた。
「お前に手伝ってもらうと、いつまでも片付かなくなっちまう」
 整理能力を疑われるだけの行いを日々重ねている自覚はあるが、そうも断言されては、多少は拗ねずにはいられなかった。
「折角弟が親切働こうってのに、ひでえ言いようだな」
「気持ちだけはありがたく受け取っておくさ」、兄の笑みは変わらず穏やかだ。「寝ろ」
 ここでごねても役に立つはずがないという自覚もあった。ういっす、と啓介は片手を立てて上げた。
「おやすみ」
「おやすみ」
 きっちり挨拶をして、リビングから出る。電気の点いた、暖かい廊下。クリスマスシーズン、家にこれほど人の気配が満ちたことはあっただろうか。いやそもそもこの時期に、自分がこの家にいたことがどれほどあったのだろうか。思い出そうとすると、フライドチキンの上にケーキを詰め込んだ腹がむかついてきたので、まあ寝るか、昼まで、思いながら、啓介は階段を上がった。



 頭が重く、気持ちが悪かった。吐き気はしない。ただ、全身がばらばらになっているような気持ち悪さがある。それは違和感だ。据わるべきところに体が据わっていないから、全身の感覚もばらばらで、気持ちが悪い。では据わるべきところとはどこなのか、そもそも今いる場所とはどこなのか。それを見つけようと、慎吾は目を開けた。
 布団があった。白いシーツ、白い布団。寝返りを打ってみて、自分がそこに寝ているのだと気付いた。仰向けになって見えるのは、高い天井。鼻につくのはカビとは無縁の新築の家にありがちな木の匂い。慎吾は瞬きを五回して、景色が変わらないのを確認してからのろのろと布団から這い出した。凝り固まっている目ヤニを指で除き、畳の上で何となく正座する。広い和室に敷かれている布団は、今の今まで自分が寝ていた一組だ。あとの何組かは奥に畳まれている。枕元には見覚えのある紺地のパーカが畳まれていた。俺のだろ、多分。セーター一枚では肌寒いので、それを被って立ち上がる。真っ直ぐ畳に足をつけているというのに、気持ち悪さは拭えなかった。吐き気はしないのだ。ただ、据わるべきところに体が据わっていない違和感がある。ここがどこか、分からない。それを今度こそ見つけようと、ひとまず慎吾は目の前の引き戸を開けた。
 日の光に満ちた室内は明るく広かった。オープンハウスのような生活感のないリビングに、生活の匂いと音が広がっている。詰まりかけの鼻をすすりながらフローリングからカーペットに足を滑らせていくと、ダイニングテーブルについていた男たちのうち、こちら向きに座っている一人が腰を浮かせた。
「起きたか」
 低いのにどこか親しみ深い声、短い黒髪、鋭角的なくせに重苦しいくどい顔、髪と同じ黒さ、襟ぐりの広いセーター。見飽きるくらいに見たことのあるその姿を見つけ、慎吾は今日起きてから初めて脳に酸素が届けられた気がした。ああ、と声を出すと、耳障りに掠れていて、咳で調子を整えつつ、ダイニングテーブルについている男たちを見る。中里の隣には、自宅でカッターシャツを平然と身につけられる、整いすぎて嫌味にすらならない顔を持つ男。群馬の走り屋のカリスマたる高橋涼介だ。それは分かる。その対面にいて、中里の反応によってこちらを振り向いてきた男が二人。一人はカーキの薄っぺらそうなシャツで厚い体を閉じ込めている、中里以上に重苦しい、骨太な顔をした男だ。伸ばした髪を後ろで全部括っている分、顔のくどさが鬱陶しくアピールされている。これも分かる。岩城清次だ。栃木の走り屋で、中里を妙義山で負かしている。分かるが、何でお前がここにいると言いたくなる。その隣の男は分からない。刈って染められた金髪、岩城と傾向の違うごつい顔、グレーのスウェットシャツ。見覚えがない。記憶を探っても誰だか分からない。誰だてめえと言いたくなる。
「どうした?」
 椅子から立ち上がったまま、中里が不可解そうに聞いてきた。中里を含めた四人の男の不可解さ漂う視線をひしひしと感じながら、慎吾はテーブルの横まで歩いた。
「気持ち悪ィ」
「何、おい、大丈夫か。ここで吐くなよ」
「吐かねえよ、そういうんじゃねえし」
 気持ち悪さは違和感に根差している。ここがどこか、まだ判然としない。
「二日酔いか?」
 中里の隣の椅子に座っている高橋涼介が、過剰でも過少でもない気遣いを含ませた調子で、問うてきた。高橋涼介。赤城レッドサンズのナンバーワン、引退した走り屋。そこまで情報を頭に並べ、慎吾は突如思い出した。
 昨日、仕事の休憩中、中里からメールがきた。今日の夜、暇か。キモイ、と打ち返すと、電話がかかってきた。高橋涼介の家で、ケーキパーティ。いや、パーティじゃねえな、と言った中里の声がまざまざと蘇った。おそらくここは、高橋涼介の家だ。そして昨日はケーキパーティ(仮)が開かれていたはずなのだ。だが記憶は飛んでいた。パーティじゃねえな、と言った中里の声以外、何も蘇らなかった。
 二日酔いかと高橋涼介に問われたということは、自分は昨日、酒を飲んだに違いない。だが、覚えがない。吐き気もない。高橋涼介の顔は非の打ち所のない愛想で覆われているが、その目は患者を観察するような医者然としたものだ。岩城清次と金髪男は警戒心を目元ににじませながら、コーヒーを口にする。見て見ぬ振りをするのがコミュニケーションにおける優しさとでも言いたげな白々しい態度である。これは、何か、おかしい。
 とりあえず、いや、大丈夫だ、と高橋涼介に答えつつ、慎吾は立ったままの中里の首に腕を回してテーブルから三歩引き離すと、小声で尋ねた。
「毅。俺は何をやった」
「………………何だって?」、たっぷり間を空けた中里は、小さくした声をひっくり返した。
「どいつもこいつも俺を、事故で頭がイカれちまったアワれな人間見るような目で見てやがる。そんな風に見られたことは一度もないってのに。根っからの悪人見るような目ではよく見られるけど」
 不審者を見るような目で見られるのは構わない。自分の価値観や思想をよく知りもしない他人に理解されたいとも思わない。だが同情されるのは腹立たしい。憐れみを受けるほど落ちぶれてはいないし、よく知りもしない他人の良心を満足させるだけの材料になるのは御免だ。
「覚えてねえのか」
 目をあちこちにさまよわせてから、中里は声を低めた上で小さくした。ああ、慎吾は囁いた。
「お前から気持ち悪い電話貰ったのは覚えてる。そっから先が思い出せねえ」
「だからお前、気持ち悪いとは何だ」
 よほどそのフレーズが不愉快だったのか、中里は声をひそめることを放棄した。他の人間に聞かれたくない内容は言い終えたので、慎吾は中里の背を叩いてから体を離し、こちらも声をひそめることは放棄した。
「反射的に反論する前に、お前にクリスマスの夜の予定を聞かれた俺が気持ち良くなった場合のどうしようもなさを考えてみろ」
 口はよく回るから、二日酔いではない。二日酔いになったら長セリフを吐く気も起きなくなる。これで記憶が保たれていれば、気持ち悪さも感じずに済んだだろう。ここが高橋涼介の家だと分かってそれも軽減はされたが、据わりの悪さはついて回る。
「……まあ、それはそれで、アリなんじゃねえか」
「ねえよ」
 考えるだけ考えて、その答えというのが何とも残念な男であった。むっとしたように眉間にしわを作った中里は、だがそれをすぐさま解いた。「朝飯食べるか?」
 朝飯。胃は内容物を喉まで押し上げようとはしていないが、喉から新たな食物を入れることを望んでもいなかった。いや、と慎吾は言い、声のかすれの原因となっている喉の渇きを感じ、水飲みてえ、と続けていた。
「分かった。高橋、貰うぜ」
「どうぞ」
 中里と高橋涼介は表面上は言葉を使いながらも、二人の間にのみ築かれた通信回線で会話をするように、束の間目を合わせた。そして中里は台所へ行き、高橋涼介はコーヒーに口をつける。見ているだけで腹がいっぱいになる通じ合いだった。胃は水分以外何も求めてはいなかった。
 屋内で朝の日差しを感じるうちに立っているのが億劫になり、慎吾は中里が座っていた椅子に腰かけた。目の前には岩城清次と見知らぬ金髪。さすがに真ん前に来ると見て見ぬ振りもできないのか、両者と目が合った。二人は警戒心と好奇心と同情と嫌気をごった煮にして、それを常識人の外面の下に無理矢理押し込めたような顔になっていた。無理が過ぎて中身が若干漏れ出している。須藤は同情、岩城は嫌気が顕著だった。
 何か俺、やらかしてんな。慎吾はまだ若干重い頭を高速で回転させた。ここにいるということは、二人ともケーキパーティの参加者のはずだ。昨夜共にケーキを食らったに違いあるまい。酒も飲んだことだろう。酒の席で、自分はこの二人に対して、あるいは高橋涼介に対して、あるいは中里に対して、あるいは全員に対して、何か、警戒されつつも同情されるに相応しい言動をしたのだ。高橋涼介はレッドサンズのメンバーで、高橋啓介の兄で、高橋啓介は中里をぶちのめしている。岩城清次も中里をぶちのめしている。その件で喧嘩を売ったのかもしれない。だがその隣の金髪にはぶつけるような恨みもない。何せ見たこともない相手なのだ。
 いや、岩城清次と一緒にいるならば、この男は岩城清次と関わりがあるはずだ。そしてこの男は高橋涼介と関わりがある。なぜなら岩城清次が高橋涼介と仲が良いとは聞いたことがない。中里がケーキパーティ(仮)に呼ばれたのは、まがりなりにも高橋涼介と連絡を取り合う仲になっているからだ。自分が誘われたのはその中里が誘ってきたからこそである。おそらく岩城清次も同じだろう。金髪の男が岩城を誘ったから、岩城はここにいる。金髪の男は高橋涼介と仲が良い。とまでは言わずとも、連絡を取り合う仲ではある。それは仮定だった。だが高橋涼介と岩城と金髪男に記憶を失っていることを馬鹿正直に晒して一層の憐れみを受けるよりは、仮定の正しさに賭けるべきだと慎吾は決意した。
「須藤さん」
 金髪男を見ながら、当たり障りない声を出すと、金髪男は鼻白み、しかし応えてきた。
「二日酔いか」
 間違いなく、金髪男は須藤京一だった。高橋涼介のストーカー、もとい高橋涼介に敗北を与えるべく鍛錬に励んだ末に赤城山で敗北を与え返された、栃木のランエボ使い。岩城の属する走り屋チームエンペラーの代表者かつ責任者。岩城に中里をぶちのめすよう命令した男だった。アルコールに浸かった自分ならばそいつに喧嘩を売っていてもおかしくはない。いや、売ったのだろう。だから須藤も岩城も、正気かどうかを判別しかねている様子でこちらを見てくるのだ。
「そういうんじゃない。それより昨日はどうもすみませんでしたね、散々悪態つきまして」
 謝る気はさらさらないが、こんな場所で悶着を起こす気もさらさらなかった。自分のやったことも覚えていられないキチガイだと思われる気もさらさらなかった。
「悪態をつかれるだけのことはやっている。謝られる義理もねえよ」
 須藤京一は無駄な愛想を使わない人種のようだった。
「お前、俺には謝らねえのか」
 隣の岩城は、愛想の使い方を知らない人種なのかもしれない。少しは隠せとご忠言差し上げたくなるほど、不機嫌さが露骨だ。慎吾はあらゆる悪態を脳内に溢れさせ、それを言ったことにして消去すると、真面目に岩城に尋ねた。
「謝ってほしいのか?」
 元とさして変わらぬしかめ面を、自分の希望を今更探るように岩城が益々しかめている間に、横からテーブルの上に水の入ったグラスが置かれた。手を見ただけで、それを持ってきたのが中里だと分かった。
「ほらよ」
「サンキュ」
 声に一応の礼を返し、水を飲むと、煙草を吸いたくなってきた。だがおそらくこの家は禁煙だ。灰皿がないし、ヤニの存在が感じられない。煙草を吸うなら外を出るしかないだろう。休みの日にわざわざ禁煙所で過ごすよりは、自宅でひとっ風呂浴びて煙草を吸ってリラックスして、思う存分布団で眠りたい。
「今日、仕事だろ」
 グラスを干して、横に立っている中里を見上げた。ああ、と中里は椅子の背もたれに手をつきながら、ひげがお目見えしている顎を撫でた。
「もう少ししたら帰るぜ。お前は休みか」
「まあな。ったく、朝っぱらからお前の顔を見るような残念な予定じゃなかったんだけどよ」
「俺の顔が残念みたいに言うんじゃねえよ」
「みたいじゃなくてその通りだろ」
 事実を言うと、この野郎、と睨まれた。いつもの中里だ。
「俺は朝から中里の顔を見られるのは嬉しいけどな」
 いつもではない人間の声が、その時間近から入ってきた。何となくそろうり中里と逆の方を見ると、コーヒーカップを優雅に指で持っている高橋涼介が、得体の知れない微笑を浮かべていた。正統派芸術作品のような美しさには、なぜか見ている人間の精神力を削る不気味な効力が付加されている。長々向き合うものではない。
「いい加減にしろよ、高橋」
 後ろから、脅しつけるような声が飛んでくるが、高橋涼介は笑みを消さない。
「本音を言うのは悪だと?」
「……クソ……」
 中里はすぐに白旗を上げた。諦めのため息も吐かず怒鳴りもしないとは、粘っこい男にしては半端な観念の仕方だった。首をねじって見てみれば、苦々しげな顔の血行がよろしくなっている。
「お前、いつから高橋涼介をたらし込んでんだ」
 反応の過敏さに興をそそられ、疲労困憊の酔っ払いと化した自分ならスルーしていそうな際どい関係性について聞いてやると、頭部への血流がより盛んになったようで、中里は顔全体を赤くした。
「殴られたいのか、お前は」
「心が狭いねえ」、歯軋りしそうな中里に、立ち上がりながら言う。「そんなんだから女ができねえんだよ」
「それは、お前、関係ないだろう」
「質問に暴力で返すような男がモテると思うか?」
「極論持ち出すんじゃねえ」
「極論ってのはだな、論ずるに値しないんだぜ」
 そこで慎吾は高橋涼介を向き、直角に頭を下げた。
「どうも、お世話になりました」
「とんでもない」、頭を上げて見た高橋涼介は、口調の柔らかさと相反するがごとき、美形らしい冷たい顔を取り戻していた。「来てくれて助かったよ。ケーキも無事に消化できた」
「ケーキね。おいしかったですよ」
 多分、と付け加えそうになって慌てて口を閉じるも、高橋涼介は、得心したように小さく口角を上げた。中里がたらし込めるほど愚かではないはずのこの男には、何もかもバレているのかもしれない。だがバレていたとしても、中里のように自らボロボロ弱みを零すこともない。
「慎吾、さっきのは、冗談ってことか?」
 その弱点見え見えのくせして弱気とは無縁な男は、相変わらず理解が遅かった。慎吾はその肩を、優しく叩いた。
「やっぱお前は残念だな、毅」
「ああ?」
「それで、まだ高橋涼介とイチャついときてえなら大体無視してやるけど、どうすんだ」
「誰がイチャつくか」、中里は固く噛んだ歯の間から声を発した。「帰るぜ。もう、することもねえしな」
 その言葉が終わりを示したように、あらゆる音が途絶えた。空気すらも途絶えたような静寂。それを壊したのは、須藤京一が椅子を引いた音だった。
「俺も失礼する。長居をしたな」
 立ち上がった須藤は、高橋涼介に会釈する。高橋涼介も立ち上がると、いや、としっとりと言った。
「仕事、頑張れよ」
 須藤は顎を小さく引いて、瞬間的に眉間を狭め、口を歯が窺える程度に開いた。それは身に覚えのない状況を把握するべく、一心に考えを巡らせている人間の表情だった。先ほどまで慎吾が浮かべていた表情に違いなかった。須藤京一も、おそらく完璧な記憶は有していないのだ。
「……ああ」
 結局須藤は三秒ほどその表情のまま固まって、それだけを言った。高橋涼介は満足げに頷いた。
「ご馳走さん」、須藤の横で岩城も立ち、高橋に会釈する。
「どういたしまして」、高橋は再び頷いた。
 数秒、空気の圧力が強まったような間が、置かれた。それを壊したのは、先と同じく須藤京一だった。
「じゃあな、涼介。行くぞ、清次」
「おう」
 何事もなかったかのごとく栃木組がリビングを出、高橋涼介は立ったままそれを見送った。中里は視線を落ち着かなく栃木組と高橋涼介とこちらに向けてきていた。どう見てもいつこの場から去ろうか迷っている人間の振る舞いだった。慎吾はため息を吐いて、躊躇なく足を外につながる道へと向け、誰もいない廊下に対し声を出した。
「先行ってるぜ、毅」
「あ? あ、おい」
 後ろから聞こえた焦った声は放置して、廊下に出、そそくさと玄関に行くと、栃木組が靴を履いているところだった。後ろで待つまでもなく、座っていた須藤が立ち上がり、どうぞ、と場所を空ける。黒いマウンテンブーツ。岩城はブラウンのケースイス。ともに手入れが行き届いている綺麗なものだった。それに比べて自分のスニーカーはつま先部分が今にも剥がれそうな有様だ。何を考えて履いてきたのか思い出せないが、使えないわけでもないボロい靴に、どうも、と慎吾は足を突っ込んで、指で踵を適当に上げた。パーカのファスナーも上げて、外に出る準備は完了だった。
 岩城が玄関のドアを開け、そこから須藤が出、そして岩城はそのまま止まり、こちらを見た。冷たい空気が玄関に侵入する。岩城の顔は今にも殴りかかってきそうなほど不機嫌さに溢れているが、先に通れということなのだろう。喋るのも面倒なので目礼だけしてその横を通ると、岩城が続き、ドアは閉まった。
 外の空気は凍てついており、すぐに顔はぴりぴりとして、吐く息は白んだ。足元には飛び飛びで水たまり。昨日、雪か雨が降ったのだろう。相変わらず思い出せないが、外に出て、無神経に冷たい空気を浴びた時点で、据わりの悪さは吹き飛んだ。雪か雨の残骸を避けながら、玄関から少し離れてパーカのポケットから煙草の箱を取り出すと、横を通って行きかけた岩城が、そうだ、と鈍重そうな体をくるりと翻した。
「お前、俺とバトルするつもりなのか?」
 確認のような問いだった。そういう話を岩城にしたという推測は容易かった。つまり、自分が岩城とバトルをするつもりという話だ。酔い切った自分なら、そういう話もするだろうという推測も容易かった。そしてそれは、今の自分ではない。慎吾は煙草を一本指に挟み、指紋一つ見当たらないドアを顎で示し、言った。
「お前とバトルするのは、あいつだよ」
 もう、横からあの男の立場をかっさらいたいとも思わないのだ。岩城は面倒そうに眉を寄せ、だがすぐに馬鹿馬鹿しいとでも言わんばかりに嘲笑した。
「まあ誰でもいいけどよ。俺の敵じゃねえ」
「自信過剰は元々らしいな」
 ふん、と鼻を鳴らして先を行く岩城に、煙草を咥えたまま、精々お元気で、と言ってやると、わざわざ性質の悪い不遜な笑顔を向けてきて、そっちもな、と言った。その姿が中里のGT−Rの横に停められている黒いランエボに近づいていくのを眺めながら、慎吾は煙草に火を点け、煙を思いきり吸いこんで、思いきりむせて、うずくまった。



 曲げた右肘から前腕を下ろし、その手をストレートジーンズのポケットに入れ、開いた口から細く長い息を吐いた中里は、にわかにこちらを向いた。皮脂に覆われている顔は、生々しい。
「それじゃ、俺も行く」、改まった調子で、中里は言い、すぐさま付け足した。「見送りはいいぜ。寒いし、帰りづらくなるからな」
 帰りづらく、と涼介は返した。中里は太い眉を上げ、いや、と多少高めた声を発し、冷や水でも浴びたように身震いすると、とにかく、と不自然に渋い声を作った。
「世話になった。朝飯までいただいちまって」
「誘ったのは俺だ。もてなすのは当然のことさ」
 思うままを口にしながら、そつがない返答になったことに、涼介は眉をひそめかけ、わざとらしい笑みで心情を隠した。中里は辟易したように上半身をわずかに引き、しかしそれ以上は下がりもせず、ポケットに入れた手を素早く抜いて乱暴に襟ぐりから肩を掻くと、正直、と不安で声を揺らした。
「俺も昨日、最後の方はあまり覚えてなくてよ。何か変なことしなかったか?」
 涼介は、笑みを消さざるを得なかった。俺も、と中里が言ったのは、無意識に、他の誰かを思い浮かべていたからに違いない。昨日何をしたか、覚えていない人間のことをだ。涼介は昨夜の出来事をすべて覚えている。岩城清次は覚えていようが覚えていまいが関係がないといった風情で、須藤京一は中里と同じく最後の方をあまり覚えていないようだった。中里はそれを察し、京一を思い浮かべたのかもしれない。
 だが涼介には確信があった。中里が思い浮かべたのは京一ではなく、庄司慎吾だ。敵地を斥候するかのような歩調でリビングに入ってきた庄司が、中里に声をかけられた際に浮かべた安堵の表情は、正体不明の領域において唯一信頼できるものを見つけた人間のそれだった。その後の庄司の中里との密談を見ても、その注意深く慎重な言動を見ても、庄司が昨夜の記憶を失っていることは容易に察せられた。密談の内容を涼介は聞いていない。だが、中里は聞いたはずだ。庄司の記憶がないことを、そして今、おそらく一切の秘密への注意を払わずに、ただ自分の行為が他人への迷惑に基づく不名誉を招いてはいないかを案じながら、中里は、俺も、と言ったのだ。そのあまりの無頓着、無警戒な様を目の当たりにして、涼介は表情を作ることを忘れた。一度失われた演技は、取り戻そうとしても惨めさをもたらすのみだ。涼介は意識を自分の全身の筋肉から中里へ向け、その目に映るものを見ないようにした。
「安心しろ。庄司のようなことはしていない」
 敢えて取り上げたその名を耳にしたところで、中里は自分の発言の迂闊さには思い至らなかったらしく、あいつ、と憂い顔になった。
「かなり疲れてたみたいでな。勘弁してやってくれ」
「いいさ、あんな奴は俺の知り合いにはいないからな。面白かったぜ」
 泥臭さとスマートさを相殺させずに共存させた毒を吐いてくる人間は、同年代の知り合いにはいない。上品ぶる人間や下品さに気付かない人間をあしらうよりも、よほど愉快な時間を過ごせた。本音は本音としての響きを保ったようで、それならいいんだが、と中里は顔に暗さを残しながらも、筋肉をいくらか緩め、しかし目元は強張らせたままだった。落ち着かないように視線は揺れ、涼介を素通りし、それは空のコーヒーカップとグラスが置かれたままのテーブルで止まった。
「片付けるぜ」
「いやいい」、にべなく涼介は言っており、咄嗟に愛想を繕った。「気にするな、早く庄司を送って行ってやれ」
 どう言葉を選んでも、追い立てる色を消すことは不可能だった。ケーキは消化され、クリスマスは終わった。中里がここにいるべき理由は、中里をここに留めておくべき理由はないのだ。
「そうだな、ああ、それじゃあ、高橋」
 正当性に急かされるように、中里は素早く斜めに頷き、義務感に強いられたような笑みを浮かべた。それは正当性という概念に正当性を与えられなくなるほどに、不自然さに満ちた光景だった。涼介は同じ顔を見せてやろうとして、不意に思考によって行動を定めることが面倒になり、やめた。
「涼介でいい」
「あ?」
 中里の笑みは、簡単に引きつった。それを見ると、自然と笑えた。
「啓介もいるんだ。紛らわしいだろう」
 言ってから、理由になってないな、と思ったが、欠陥のない理由を提示する気も起きなかった。考えずに言葉を発するのは、爽快なものだった。人はこういう気分を味わうために、アルコールに頼るのかもしれない。
「いや」
 唇をひくつかせながら、中里は小声で言った。意図を尋ねるように、涼介は目を細めた。左右の眉の高さを変えた中里は、顔の引きつりを抑え、いや、ともう一度、今度ははっきりと言い、手を口に当て、咳払いをした。視線が真っ直ぐに、一ミリの狂いもなくぶつかったのは、その直後だ。
「またな、涼介」
 硬く、掠れていたが、綺麗な声だった。
「ああ、また」
 別れの挨拶は、それで終わった。自分から去ることは造作もない。だから、去られることを待つのがこうもじれったいものだとは考えもしなかった。フローリングを踏みしめる音、玄関のドアが開く音、閉まる音、砂利が擦れる音、耳はすべてを拾っていた。外から中が見えないよう、ベランダから道路は見えない。涼介はダイニングテーブルの端に腰を下ろし、ガラス越しに庭を見た。雪は積もっていない。睡眠を妨害する類の低い音が、ガラスを震わせている。そこに新たな音が加わり、それも長くは続かない。やがては遠ざかり、早朝の住宅街に静寂が戻る。
 自分の呼吸音だけが耳につくようになり、涼介はダイニングテーブルから腰を上げ、片付けてしまうことにした。そして、テーブルの上のコーヒーカップを手に持つはずが、自分の携帯電話を持っていた。時刻をただ見やり、指を動かして、データを呼び出す。液晶には、ソファに座り、テーブルに並べられたケーキを、フォークや手でつまんでいる男たちが現れる。取ってつけたような妙な笑顔がこちらを向き、浮ついた雰囲気を作り出していた。それと正反対の、沈鬱な場面も残っていた。ケーキを食べながら、肉の話をしていた時だ。鶏の胸肉がコストパフォーマンス最強の栄冠を勝ち取ったところまでは、会話は成立していた。クリスマスに七面鳥を食べる人間はブルジョアだという意見が出たあたりから、正確な議論は放逐された。
「クリスマスは終わった」
 涼介は呟き、時刻を表示させて、携帯電話をテーブルに戻した。今日は十二月二十六日だ。ファーストネーム記念日、と口にしてみると、語呂が悪く感じられた。何回か言えば、馴染むかもしれない。言う機会は、あるだろう。またの機会だ。
 来年はツリーを飾ってみるか、涼介は空のコーヒーカップを手にしながら思い、思い出し笑いを招いて、惨事を招きかけた。
(終)


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