懸想 1/2
夜半の妙義山で、中里毅は一人、ニヤニヤしていた。
因縁のある走り屋にアウェイで勝利し、アタックした女性に勘違いを訂正されてから、二日が経った。元が勘違いだったので、傷心は早々に癒え、その時中里は、地元の山にて改めて、久方ぶりの自分の勝利を正確に思い返し、それに酔い痴れていた。
完璧な走りだった。初見のコースで、32のポテンシャルを、自分が固めた方法によって、存分に発揮してやれた。完璧な走りと、完璧な勝利。我ながら惚れ惚れする。この調子で鍛錬すれば、同チームのEG−6使い、猛速ダウンヒラー庄司慎吾とも、いずれ雌雄を決せるだろう。結果、妙義山最速の名は自分のものになる。想像し中里は、愛車から降り立った山にて、周りの走り屋連から、「毅さん沙雪ちゃんにフラれて頭イッちゃったんじゃね?」「いや元々イッてるからダイジョブっしょ」「あ、そっか」などと心配と得心をされていることにも気付かずに、一人ニヤニヤしていたのだった。
そうして勝利の記憶に浸り、野心を燃やしていた中里を、想像の世界から現実の世界へと引きずり戻したのは、携帯電話が上げた単調な音色だ。不意を食った中里は、上着のポケットに入れていた携帯電話を慌ててつまみ出し、液晶には目もやらず、通話を開始した。
「もしもし」
「こんばんは、中里」
耳を打った低く通る声は、近しい。相手を瞬時に把握し、驚いて、たか、とまで言ってから、中里は慌てて、だが慎重に言い直した。
「……涼介」
「よくできました」
電話越しの涼介の声に、笑いが混じった。その名を呼ぶだけでつきまとう面映ゆさと、冷やかされたような響きとに、苛立ちを感じるよりまず、ほっとした自分に動じ、舌がもつれる。
「な、何だよ。どう、どうした、こんな時間に」
「何、か。そうだな、お前は今、妙義山にいるのか?」
笑いが消され、出された問いには、物々しい響きがあった。それに重苦しさを運ばれ、動じたまま、意味もなく右手から左手に携帯電話を持ち替えた中里は、ああ、と早口に答えた。
「いるぜ、来たばっかだ、それがどうした」
「なら、今からそっちに行く。待っててくれ」
重い響きはそのままに、そして、唐突に電波は断たれた。
「はあ?」
誰にも届かない、裏返った声を発し、通話の終わった携帯電話を耳から離し、液晶を目の前にして、一方的な遮断への落胆ではなく、会話の内容への疑念を抱いた中里の顔は、しかまるばかりで、そこにニヤニヤは戻らなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その一方的な遮断を初めて意識したのは、一ヶ月ほど前、栃木の走り屋チームエンペラーのエボ4使いに、妙義山にて完膚なきまでに負けて、数日後のことだった。
変わらない日常、仕事を終えて帰宅して、晩飯を用意し、変わった日常、車のない時間を過ごしていた中里の精根は、当時、敗北の痛手によって尽き果てていた。納豆と白飯を食いながら、ぼんやり家庭の医学的なテレビ番組を見ていた際、単調な音色を出した携帯電話をぼんやり操作して、通話を始め、
「高橋涼介だ」
と電話の相手に告げられても、すぐに切ることも、虚勢を張ることも空元気を出すことも、愛想を装うこともできないほど、気力は失われており、中里はただぼんやりと、熱の入らない声で、疑問を返すのみだった。
「何でお前が、俺の番号知ってんだ」
「交流戦の打ち合わせのために、連絡先を交換しただろう」
高橋涼介の低い声は、揺らがず、落ち着いていた。まるで何も変わってはいない、そう感じさせる声だった。
高橋涼介は、変わらず群馬の走り屋のカリスマで、白いRX−7のFCに乗っていて、澄ました美貌で赤城山に立っている。その高橋涼介と、高橋涼介のいる赤城レッドサンズとの交流戦の打ち合わせを行った自分は、32に乗り換えてからホームで負けたことはなく、バトルへの期待と恐怖のために、純粋に高揚している。
高橋涼介はだが、既に表舞台から身を引いており、中里もたった数日前、ホームで二度目の敗北を喫している。それでも、万能の走り屋、高橋涼介は失われておらず、それに敵愾心を燃やしていた自分も失われていないのだと、そう感じさせるほど、落ち着いた高橋涼介の声だったのだ。それは、敗北を味わってから抱え続けていた息苦しさを幾分か消し、生きた人間の体温を声に乗せられるほどの余裕を、中里に生じさせた。
「ああ……そういや、そうだったな」
「中里、怪我はしなかったか」
間を置かず、高橋涼介が問うてきた。落ち着きを保持しているその声には、同情が加えられたようだったが、口調に馴れ馴れしさがなかったためか、中里は反感を抱けないまま、ただ答えた。
「してねえよ、怪我なんて。Rはしばらく乗れねえけど、怪我はねえ」
そうか、とだけ、高橋涼介は言った。そのたった一言を作り出した声は、深く近い、こちらの思いも考えも、言いたいことも言えないこともすべて理解し、承知しているかのような、親密さに満ちたものだった。平時、近しくも親しくもない高橋涼介にそんな声を使われては、中里も不気味に感じただろう。同県の走り屋として思いを馳せることがあっても、気を遣うことはない相手だ。だが、活力が失われた状態では、そういう相手だからこそ、構えずに受け入れることができてしまった。そして、近しく親しい人間には、自尊心のために向けられなかった、自分のうちにのみ渦巻いていた言葉を中里は、携帯電話に対し、それでつながっている高橋涼介に対し、吐き出していた。
「負けるにも、負け方ってのがあったんだ。俺はちゃんと、負けられなかった。Rに、ちゃんとしたバトルもさせてやれなかった。どうしようもねえドライバーだ。車を好きに走らせてもやらないで、しかも傷つけちまうなんて、そんな奴は、ドライバーですらねえ」
ああ、とだけ、高橋涼介は言った。そのたった一言も、深く近い声によって、作り出された。ただの相槌でも、言葉への肯定でもない。思いへの肯定が示された、声だった。聞くと、精神を抱えられてしまう、言葉を止められなくなる、声だった。
「分かってるんだ、ちゃんとしなけりゃならない。俺がちゃんとしねえと。車もチームも、俺が」
だが、そこまで言って卒然不安に襲われ、中里は言葉を止めていた。
本当に、自分ができるのか。もう三回も負けている。チームの体面も、GT−Rの名も汚している。ここからまた始められるのか。本当に、できるのか。
滞っていた思いを外へと出してしまうと、敗北の傷を引きずるあまり、考えられなくなっていた先が、眼前に迫ってきた。自分の現状、立場、これからやらなければならないこと、やるべきことが、一挙に頭を駆け巡った。中里は、我に返った。こんなことを、している場合ではない、と思った。こんな弱気なことを、よその走り屋、それもよりにもよってFC使いの高橋涼介に、言っている場合ではない。思うと、尽き果てていなかった精根が、にわかに肉体に満ちた。そう、こんなことをしている場合ではないのだ。思い立ち、高橋涼介に、心配をしてくれたらしい礼と、弱音を勝手に吐いた謝罪を述べて、中里は通話を終わらせようとした。
「あいつらは、俺が始末する。見ていてくれよ」
そうする前に、高橋涼介が、感情を主張した声で言うと、通話を切った。それが、初めて意識した、一方的な遮断だった。中里はそして、誰にも届かない呟きを発していた。
「始末?」
一線から退いたらしいとはいえ、今なお信仰者が湧いて出るほど、超絶な走り屋の高橋涼介が、群馬侵攻中のエンペラーの挑戦を受けるならば、地元も安心というものだ。しかし、『始末』という言葉を使った高橋涼介の、通話中最初で最後、真剣さと深刻さと熱さがこめられ、何らかの感情の変化が示された声は中里に、自分の先行きに対するものとは違う不安を、感じさせた。
ミサイルでも用意してんじゃねえだろうな、あいつら。
そんなまったく現実的ではないことを考えた自分を、しみじみくだらねえと思える、それほどまでに意気が戻った状態で、高橋涼介がバトルに出ることを現実的に考えると、いても立ってもいられなくなった。通話の終わった携帯電話を操作して、わずかに躊躇したのち、使えるようになった気合を入れて、中里は庄司慎吾との通話に挑んだ。
コール三回で出た慎吾に、挨拶もせず、赤城山で行われる、高橋涼介とエンペラーの須藤京一とのバトルに連れて行ってくれ、そう頼む。嫌みの一つや二つ、十や二十は覚悟していた。だが、慎吾は揶揄も嘲笑もせず、いいぜ、と中里の頼みを引き受けた。中里は、呆然とした。徹底的な嫌みを待ち構えていたところへの、希望の受け入れの一言のみとは、意外すぎた。そこに、普段決してこちらへは弱みを見せようとしない慎吾が、大丈夫か、と心細そうな声までかけてきたものだから、動揺せずにはいられなかった。だが、動揺しながらも中里は、こいつに心配されるようじゃあいけねえんだ、と気合を入れ直し、大丈夫だ、と返した。そして、動揺を引きずったまま、当日を迎える。
嘲弄してこない慎吾と接することの動揺は、自分が敗北した相手の出る、群馬防衛最終戦という名目の、走り屋バトルの見物に、雑多なギャラリーに混じって臨むことが、軽々と吹き飛ばした。周囲の人間が行う根拠のない批評、無関係の話、潜む熱狂、一定の木々のざわめき、地面の感触、道路の陰影、走り往く車が撒き散らす鋭い風、化学物質の匂い、甲高くどぎつい音。自分がバトルをする時とは違う、純粋な、他人の車を、ドライビングを見ることへの期待、峠にただいられる、その空気を味わえることの嬉しさ、懐かしい、俗で清い欲望を中里は感じ、ただニヤニヤし、気持ちワリイぜお前、と隣に立つ慎吾に至極気持ち悪そうに言われ、その近しき懐かしさにもまた、ニヤニヤしてしまった結果、いっぺん轢かれろバカ野郎、と頭を叩かれた。
そのニヤニヤも、バトルが始まれば消え去った。空気に漂う高揚感、緊張感、主に黄色く、時に野太い歓声に、流されることなく、過ぎる情報と車を、中里は頭に焼きつけた。高橋涼介の弟、FD使いの高橋啓介が、自分を負かしたエボ4をあっさり負かしたことも、高橋涼介が須藤京一を、すなわちエンペラーを『始末』したことも、興奮する肉体とは別の、判断力が保たれた頭で、確認できた。ギャラリーが撤収し、路面に残る削られたゴムの破片が、数多の車、そして一際目立つイエローのFDに弾かれるのを眺めながら、このバトルを見届けられた自分は、いずれまたここに戻ることもある、人が去り、冷えていく空気の中、冴えていく精神の中で、中里はそう感じた。いや、戻ってやるのだと、確とした、壮快な気分で、そう思えた。
観戦が終わってもしばらく佇み、後は地元に戻って英気を養うだけだと決められるまで、帰宅をせっつかなかった慎吾に、ここまで運んでくれたこと、待っていてくれたことの礼を、中里は述べた。だから気持ちワリイんだよ、と慎吾は至極気持ち悪そうに言いながら、先を行く。出てくるニヤニヤを見られて、また頭を叩かれては仕様がないと、顔に力を込め、坂に足を踏み出したところで、ジーンズの前ポケットに入れていた携帯電話が鳴り、中里は地面を見、道を上りながら、何の意識もやらず、電話に出た。
「高橋涼介だが」
そして思いがけない名を告げられて、驚愕し、踏み出した足を滑らせており、豪快に、ずっこけた。持っていた携帯電話は飛び、地面にもろに突っ込んだ顔は、主に左側が、草と土と砂で擦れた。とりあえず上半身を起こし、手や顔についた汚れを払い、落とした携帯電話を四つ這いのまま探すが、見当たらない。
「はい?」
すると慎吾の、他人に使われる慇懃無礼な声が聞こえ、中里は顔を上げた。こちらを振り返ることもなく、歩いていく慎吾が、「高橋涼介?」、と携帯電話に向かって言っている。次元の空白に落ちた中里は数秒後、我に返り慌てて慎吾を追ったが、赤いEG−6の運転席に乗り込むその背に、手を伸ばすことすらできなかった。
「高橋涼介さんがお前にお目にかかりてえんだとよ、モテる奴はいいねえ、まったく羨ましいぜ」
助手席に入った中里に、座席に身を固定する暇も与えず発進し、携帯電話を投げつけて、道を下りだした慎吾は、まったく羨ましくもなさそうに言った。既に待機状態の携帯電話をとりあえず握り締めた中里は、その意味を正しく理解できず、何だそりゃ、と言う他なかった。俺が知るか、慎吾は苦々しげに言い捨てると、一人で峠道を攻めるがごとくEG−6を走らせて、姿勢を維持するだけで手一杯になり、制止の声も上げられなくなった中里を、白いFCと黄色いFDが目立つ場に、蹴り出した。正確には、事態の流れについてけず、茫然自失の中里を、助手席側から襟首と胸倉を掴んで外へと引きずり出して、高橋涼介の前に蹴り飛ばしたのだった。
何とも間が抜けた登場になった。あまりに間が抜けていたために、周りの人間も、疑念や敵意や警戒心を抱く機会を失ったらしく、流れる空気は、場違いなほど静穏なものになっていた。
高橋涼介もまた、その端整な容姿が映えるほどの、静穏な空気を漂わせていた。そんな男の前に放り出された中里は、思考の通用しない目まぐるしい展開のため、非常に狼狽し、口をぱくぱくと開け閉めするだけとなった。
「その顔は、どうしたんだ」
開いた口から、高橋涼介は正確に言葉を発した。うろたえたまま、うろたえすぎて忘れていた、転んだ際に擦りむいた左頬の痛みと、それから予想される傷の外見を思い出した中里は、今更それを手で隠しつつ、いや、と言った。
「ちょっと、転んだだけだ。何ともねえ」
「転んだ?」
「いや、だから、その……」
先ほど考えなしに出た電話で、高橋涼介の名を告げられて、ビックリしてコケた、という事実は、ただ転んだ以上に、体裁が悪い。何でもねえよ、とひりつく頬から手を外し中里は、話題を変えた。
「それで、お前は、……何なんだ?」
「何なんだとは、また哲学的な問いだな」
穏やかな雰囲気を残したまま、高橋涼介は口元を緩めた。中里は、動揺を深めた。こんな、静かに、優しく笑う高橋涼介など、見たこともない。元の造作が良いだけに、ただ目を細くし、口角を小さく上げるだけで、美しさが際立つ笑みとなる。それを見ると、観戦を待っている時に感じた高揚とも、慎吾の無謀と紙一重の計算高いドリフトを隣で体感した恐怖に似た興奮とも、勝手に進む事態に対処できないことへの焦燥とも違うものが、心臓を速く拍動させ、熱い血液を全身に、顔に、頭の隅々まで、運んでいくのだ。混乱せずにはいられなかった。
「そう、そうじゃねえよ、そうじゃあ」
どもりかける中里を見、高橋涼介は声を出さずに笑みを深め、それを緩やかに消し、白皙の美形になると、静穏な空気を殺すほどの熱情を、その顔に、その声に、透かせた。
「始末はしたぜ」
それは、走り屋たる高橋涼介だった。相手の立場も己の立場も思い出し、中里は若干落ち着きを取り戻した。歪みのない彫刻のごとき容貌は、見続けていると認識が齟齬しそうで、顔の筋肉を強張らせるが、そこから目を逸らすことは、義理を感じる自分が許さなかった。ああ、と中里は、戻った意気を込め、頷いた。
「ありがとよ」
高橋涼介は、ああ、と、力強く頷いた。多くを語らずとも、思いが通じていると感じられる、安定した態度だった。黙して頷き返した中里に、そして高橋涼介はおもむろに、右手を差し出してきた。
「これは、俺からお前たちに返そう」
言葉に促され、その手を見ると、二枚のステッカーが細長い指先に挟まれていた。それが本来一枚のものであることを、中里は刹那に理解し、閉じかけた喉から、声にならない息を漏らしていた。一枚であったものが、真っ二つに切られ、二枚になっているだけなのだ。高橋啓介が負かしたエボ4に、負けた自分が、それを切らせたようなものだった。認識すると、喉は完全に閉じ、口を開いても、息を出せなくなった。それでも何とか右手を伸ばし、高橋涼介の指から、ステッカーを受け取った。冷たく滑らかなその感触が、負けた恥辱、感じた悲哀、残る悔恨を、生々しく蘇らせ、目の周囲に重い強張りを生んだ。頬が熱くなり、脳まで熱くなるような感覚に襲われる。笑え、と思った。顔を上げて、何もなかったように笑ってやって、もう一度、礼を言え。それで帰れば、用件は、きっと終わりだ。だが、目の周囲に満ちる重さが、頭を上げさせず、喉は閉じたままで、声は出せない。息ができない。水の中にいるようだった。震える手で二つに裂かれたチームのステッカーを手にしたまま、山の中、溺れかけた中里の、擦りむけた左頬をその時、ひんやりしたものが覆った。高橋涼介の、手だった。動かせなかった頭が、それによって、上げられる。
「後の始末は、お前がつけろ」
視界の中央、柔らかい笑みを乗せた、一人の男、高橋涼介が、そこにいた。それを目にした途端、中里は水面から上がったように、大きく息を吸い、吐いていた。喉が開き、再開できた呼吸、二度目の折、そしてようやく中里は、ああ、と声を出せた。高橋涼介は、柔らかく笑んだまま、じりじりとする中里の左頬に置いた手を、愛でるように額へと滑らせて、髪をいき、後頭部へと下り、離した。その掌に、熱が奪われたはずなのに、頬の熱さは消えず、鼓動は爆発しそうなほどで、取り戻せた落ち着きは、失われた。そのため、浮かべた笑みを、何かを語るがごとく深めた高橋涼介が、ひらりと背を向けた際、中里は、落ち着きを失った頭で、何かを言わなければならない、そう考え、口を開いた。
「始末をつけたら、俺の走りを見てくれねえか」
言うべきなのは何かではなく礼だったと、それを言ってから気付き、考えにもなかった言葉を発した自分に、何言ってんだ俺は、と中里は驚き、顔をしかめた。高橋涼介も驚いたようで、すぐさま振り向いてきたが、その顔はあくまで凛々しかった。
「つける前でも構わねえよ」
しかめ面の中里を見、愉快そうに笑った高橋涼介が、そう言った。
結局、礼は言えなかった。見慣れない高橋涼介の笑みが、思考を停滞させ、高橋涼介がその弟と仲間たちの元へと去り、慎吾が後ろから頭を叩いてくるまで、中里は一言も発せず、一歩も動けずにいたからだ。
考えにもなかった言葉をかけていたことと、礼を言いそびれたことが引っかかり、その翌日の宵のうち、中里は高橋涼介に、落ち着いた状態で、電話をかけた。
「昨日はその、ステッカーのあれはありがとう、それと悪かったな変なこと言っちまって、あれは忘れてくれ」
落ち着いた状態も、挨拶を交わした段階で落ち着かなくなっており、怪しい言葉遣いで一息に言うと、じゃあ、と中里は通話を終わらせようとした。
「32が戻ったら教えてくれ。こっちの都合の良い日はそれから知らせる」
淡々と言った高橋涼介が、それを引き止めた。
「何?」
「走りを見てほしいんだろう? それとも、忘れた方がいいか?」
高橋涼介が、笑った。ほんの少し、そこに含まれた嘲弄が、中里の緩んだ意識に棘を刺し、思考を回した。冷静になれ、冷静に。中里は自分に言い聞かせた。相手は高橋涼介だ。群馬のカリスマ、赤城の生ける伝説。秋名のハチロクに敗北したのちは裏へと下がったが、昨日は例外的に表に出、エンペラーの総大将を打ち負かし、抜きん出た速さを見せつけた。ロータリー使いというのは引っかからないでもないが、走りを見てもらう相手としては、至上だろう。
だが、そんなことを頼むつもりはなかった。高橋涼介に走りを見てもらいたいなどと、考えたこともない。しかし咄嗟に言ってしまった以上、それは無から生じたものでなく、潜在的な願望だった可能性もある。そうだとして、敗北の憂き目に遭ったからと、容易く他人の力に縋るのは、無様ではないか。
無様? 無様だったら何だ。速さを求めることに、他人の目など関係ない。無様だからと、みっともないからと逃げていては、車に、自分に向き合うことなどできはしない。技能向上への一つの道が、目の前に示されている。そこに足を踏み入れるかどうか決めるのに、関係があるのは、無様だ何だという意識ではなく、そうしたいかどうかという意思、それだけだ。考えには時間をかけ、決断には時間をかけず、いや、と中里は言った。
「望むところだ。頼むぜ、高橋涼介」
「ああ、分かった」
高橋涼介の了承は、簡潔で、万能だった。それ以上の言葉は、無用と感じられた。じゃあ、と中里は再び通話を終わらせようとした。
「ところで、顔の傷は大丈夫か」
再び、それを高橋涼介が引き止めた。打って変わって不安げに落とされた声に、中里は戸惑ったが、消毒したまま放ってある、顔に散らばる擦り傷を指で触り、感じた痛みで、冷静さは多少戻った。
「ああ、まあ、転んだだけで、えぐれたわけでもねえしな。大丈夫だ」
「どうしてまた、転んだりしたんだ?」
「どうしてって、そりゃお前が電話を」
「俺が電話を」
そのまま返され、中里は口をすぼめた状態のまま、固まった。体裁が悪く、隠そうとした事柄だった。残っていた戸惑いのせいで、隠すことを忘れていた。
「そうか、俺が電話をかけたから、転んだか。悪いことをしたな」
悪びれる風もなく言い、高橋涼介は笑い声を上げた。失態を演じたことに上気した中里は、笑うんじゃねえよ、とつい声を荒らげていた。
「俺だって、そんな、コケたくてコケたんじゃねえんだ」
「すまない、でもお前が元気そうで、安心したよ」
笑いの余韻のある、優しい言葉は、大きな羞恥を呼んで、反発は小さくなった。
「……俺がどうしようが、関係ねえだろ、お前には」
「関係あるかどうかは、俺のことだ。じゃあまたな」
そして電波は一方的に断たれ、余韻は消えた。またかよ、と中里は思った。またがいつになるかという疑問と、また勝手に切りやがってという落胆からだった。
それから四日後、晩飯を食べ終えたところで、音量を絞ったテレビ番組に目を置きながら、高橋涼介に電話をかけた。用件を伝え、都合を調整すると、いつかは定まり、中里の疑問は解消した。他に話すこともなかったが、重ねられたやり取りの記憶は、中里に待つことを選択させた。待つまでもなく、高橋涼介は、近しい声を発した。
「傷は治ったか」
「傷なんてもんじゃねえよ、ありゃ」
「そう言うなよ。跡が残るともったいない」
「何が」
「お前の顔がだ。綺麗だからさ」
近しい声で、そういう言葉を作られると、対応に困り、黙るしかない。それを高橋涼介は愉快そうに笑うため、顔にも頭にも血が上った中里の声は、大きくなる。
「だから、笑うんじゃねえよ」
「このくらいで会話に困られると、俺も困るな」
「困るんならもっとお前、困ってるような感じにしろって」
「困ってるだろ?」
「……ふざけてるだろ」
「悪い悪い、じゃあ、次の火曜に」
一方的な遮断への落胆は、そして薄れている。
仲間に隠し立てはしたくなかったが、見せつけたくもなかった。だから、人の少なくなる時間帯に、高橋涼介を呼んだ。それでも白いFCが妙義山に現れると、どよめきは生まれた。個人的な行いに、覚えた罪悪感を、中里は精神に刻みつけた。それをも抱えて、チームの名声を取り戻してやる意気込みだった。
降車したのちの高橋涼介は、そつがなかった。遠巻きにする人間には距離感を保つ微笑みをやり、周囲にいる人間には礼節をもって事態の説明をした。意気込んだ中里が拍子抜けするほど容易に、高橋涼介がその場にいる安全性は、高橋涼介が作った正当性によって担保された。部外者は一律に敵視する信念を持つ慎吾ですら、警戒はしても、足蹴にはしなかった。そつがない、まさにそうした男に、中里は一度、助手席から、上りと下り、合わせての走りを見てもらった。
停めた車の中、尋ねなければ、高橋涼介は意見を語らなかった。語る際には、客観なり主観なり、広義なり狭義なり、視点の位置を明らかにし、具体性と抽象性を組み合わせ、押しつけるでも放り投げるでもない言い方をした。中里の問いが過ぎれば牽制をし、理解が劣れば擁護をした。嗜好の領域にまで話が及ぶと、ただ切り捨てるのではなく、遊び心を加えてきた。それは他者が、それも高橋涼介がいて、初めて得られる充実した議論であり、会話だった。敗北から長く意識にこびりついていた、漠とした迷いの正体を、掴む思索が呼ばれる機会だった。感謝をしなければ気が済まないほど、貴重な時間となった。
「礼をさせてくれ。豪勢なことは、なかなかできねえが」
会話の終わり、財布の中身を思い浮かべながら中里が言うと、高橋涼介は、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ディナーを一緒に、は豪勢になるのか?」
「……努力はするぜ、何とか」
「その気持ちだけで十分だが、手頃なイタリアンレストランがあるんだ。平日土日通してランチをやっていて、値段は千円から。一緒にどうだ」
礼を尽くしたい相手に、高橋涼介にそう言われては、断る理由もない。中里が承諾すると、高橋涼介は、穏やかに笑った。それで心臓がうるさくなり、ぼやけかける頭を振るわせて、都合を調整するには多少苦労があり、笑いを消し、妙な熱情を顔に透かせた高橋涼介の、不意に近づいた手を、避けられないほどの疲労もあった。
「もったいないな」
かさぶたの残る左頬を、温度の低い指が撫でる。その肌に熱が奪われ、しかし熱さは消えない。喉が、唸る頸動脈に締められるようだった。
「……どこがだよ」
「お前の顔は、綺麗だぜ、中里」
「目、おかしいんじゃねえか」
「視力は悪くない」
「なら、頭がおかしいぜ、お前」
綺麗だと、表されるべきはこの男だ。自分ではない。綺麗など、誰に言われたこともない。格好良いという言葉とも、縁遠い。男らしいとは言ってもらえる。地味だの濃いだの、むさ苦しいだの暑苦しいだのと言われることもある。生まれつき、そういう顔なのだ。それを、綺麗だと言うような人間の頭は、おかしいと、中里は信じた。
「そうかもな」
乱暴な指摘にも、高橋涼介はゆったりと笑うだけだった。その指が、予兆もなく離れ、その存在も離れる。一方的な遮断への落胆は、生身では、尾を引くほどに強かった。
昼日中に見ると、白の似合う男だということが、よく分かった。色白の美貌で、長身で、細身だからだろう。膨張せず、滑稽にもならない。涼やかな目元をグレーのサングラスで覆いながら、白いジャケットに淡いピンクのハイネック、褪せたブラックジーンズを身につけて、良い意味で人目を引く風采になってしまう男の隣に、伸びた黒いVネックのセーター、膝が抜けかけたブルージーンズという格好の、若干みすぼらしい自分が並ぶのは、何か間違っているように感じた。だが、高橋涼介はあくまで高橋涼介で、その男と手頃なイタリアンレストランへランチをしに行くことに、間違いも何もなかった。
「晴れて何よりだ。動きやすい」
32の助手席に座った高橋涼介は、サングラスの奥の目を緩めている。馴染んだ運転席で、いつにない居心地の悪さを感じ、中里は脇見運転をしないよう意識した。
「そうだな。雨降りだと、何かしら面倒だぜ」
「雨も悪くはないんだけどな。世界が狭くなって」
「狭くなる?」
「音も景色も狭くなって、自分の周りに必要なものしか残らない。そういう風に感じられる。だから雨は嫌いじゃない」
運転に、感情の変化は影響しない。空気には、影響した。それが、単なる会話の空白に、意味を持たせる。
「お前の前で、する話じゃなかったな」
ぽつりと言われ、対応に困ったが、声は出せた。
「変な気、遣うなよ。俺も雨は、嫌いってわけじゃねえ」
「思い出すだろう」
服に染みるような、高橋涼介の声だった。空は青く、太陽は雲に隠されない。晴れている。音は刻々と変化し、景色はどこまでも続いていく。だが、世界の狭さを、中里は鼻の奥に感じた。幻覚だ。記憶とも言えたかもしれない。赤城レッドサンズとの、交流戦の記憶。その終盤、雨が降り出した。車から降りる時には、体が濡れた。音も景色も狭くなって、自分の周りに必要なものしか残らない。雨が降った時の、その感じは、理解できる。嫌いでもない。ただ、孤独に由来する、暗い感情が、記憶が蘇るだけだ。それは、今のものではない。だから、気を遣われることでもない。
「そんなの、お前が気にすることじゃねえんだよ、高橋涼介」
「気にするさ。気になるからな。お前が何を感じていて、何を考えているのか」
それは独り言のようだった。中里は、ちらっと隣を見た。高橋涼介は、中里を見ていた。サングラスの奥の目が、歪みなく、中里を捉えていた。意識を配っていると、知らしめるような強い視線が、全身に刺さった。独り言ではなかったようだ。やはり居心地が悪くなり、慌てて前方に目を戻す。
「何言ってんだ、お前」
「それより、俺のことは名前で呼んでくれないか」
「はあ?」
すぐに、前方を見られなくなった。そしてまたすぐに、前方に目を戻す。ステアリングを握る手に、汗がにじんだ。
「名前だァ?」
「いちいち高橋涼介と言われるのは、どうもな。涼介でいい。その方が慣れている」
「……お前が慣れてても、俺は慣れてねえ」
「これから慣れればいい」
簡単に話題を変え、簡単に言うものだった。まだ名を呼んでもいないのに、気恥ずかしさが溜まってきて、中里は避けることを考えた。
「なら、苗字で呼ぶぜ。それでいいだろ」
「良くない」
「駄々っ子か、てめえは」
「それはお前だろう」
「何だと」
「まあ、お前が俺を名前で呼ばないなら、俺がお前を名前で呼ぶという手もある」
赤信号の前で、丁寧にブレーキを踏み、車を停止させてから、叫ぶ。
「ねえよ!」
「どっちがいい? 俺はどちらでも構わないぜ。中里よりは毅の方が言いやすいしな。三文字だから」
その声に表されるだけで、溜まった気恥ずかしさが頂点に達した。暑くもないのに首に浮いた汗を、滑る手で拭いながら、呼ぶな、と中里は言い切った。
「お前にそう呼ばれたくはねえ、絶対」
「ナイトキッズの奴らには、そう呼ばれてるだろ」
「あいつらはあいつらで、お前はお前だ。お断りだ」
「そうか、残念だな」
「残念じゃねえよ、俺は」
「仕方ない。俺のことを名前で呼んでもらえるだけで、十分としておこう。ではどうぞ」
避けることはもう、考えられなかった。信号が青に変わり、進み、ギアを上げていく。高橋涼介は、黙っている。待っている。中里は、観念した。まだ、名前で呼ばれない方が、マシだと思えた。口を開き、無理矢理声を、しぼり出す。
「……涼介」
「よくできました」
その言われようは、からかわれているとしか思えなかった。安全を確認してから、睨みつけるため、横に顔を向けると、涼介は穏やかに、楽しそうに笑っているだけだった。顔にまで汗がにじみ出し、強まる脈動には呼吸を遮られ、舌打ちした中里は、店に着くまで二度と涼介を見ないことに決め、貫いた。
「お前、付き合っている相手はいないのか?」
郊外の、無機質な外観でありながら、暖色系で統一された内装の、女性客の多いイタリアンレストランにて、パスタセットを頼んだ流れで食の好みの話をして、家族の話をして、生活の話をしていた中で、彼女の有無を尋ねられる会話の流れに、中里は、不自然さは感じなかった。だが、浮かべた笑みは引きつった。
「いるように見えるか」
「いや」
聞き返すと、涼介は平然と、簡潔に答えた。中里の頬は引きつるのをやめない。
「なら聞くな」
「聞かないと、正確なことは分からないからな。いつからいないのか、とか」
「知ってどうするそんなこと」
「どうもしない。知りたいだけだ」
サングラスが外された涼介のとび色の目は、好奇心と似ていながら、何かが違う色を、そこに乗せている。頬の引きつりすら抑えられるような、逃げるのもためらわれるような、真剣さもある。もとより、隠すような、立派な個人情報でもない。
「……高校二年以来だな。クソ、もう七年も彼女いねえのか……すげえな俺……」
言葉にするに従い、自分が可哀想になってきて、中里はサラダを口に含み、噛み砕いた。日照りにもほどがあった。その時、パスタが運ばれた。会話を中断し、食事を進める。量はまずまず、ナスは柔らかくジューシーで、トマトソースの塩気と酸味と甘味のバランスは、絶妙だった。うまいと言い合い、一通りパスタを味わった。
「その子とは、きちんと付き合ったんだろう?」
中里が麺を飲み込んだところで、涼介は話を再開させた。
「その子?」
「高校二年の子」
声にも顔にも、揶揄の色はなかった。あるのは、好奇心と似ていながら、何かが違う色と、妙な真剣さだ。それを向けられてまで、隠すような、立派な個人情報ではなかった。
「まあ、そうだな。きちんと付き合った。やることもやったし」
答えてから、生々しい行為を軽々しく表現した自分のために、中里は顔をしかめた。
「それなら、立派なものじゃないか。誰かときちんと付き合うことは存外難しい。俺はいまだにできていない」
低められた声に意識が向いて、見てみれば、涼介まで顔をしかめていた。料理のせいではないはずだ。うまいと言い合ったばかりだった。その顔をしかめさせたのはゆえに、会話だ。
「できていない?」
「きちんとは。やることもやっていないし」
眉間のしわを解いた涼介が、おどけるように小さく肩をすくめ、シーフードパスタを口に入れる。できていない、と中里は考えた。誰かときちんと付き合うことが、できていない。やることもやっていない。誰かと付き合って、やること、といえば、一つしかない。顔をしかめたまま、中里は涼介を見据えた。食べる仕草すら優雅に見えるこの男は、嫌になるほど二枚目だ。ハンサムだ。背が高く、走りは速い。頭も良いらしい。女性ファンも多い。モテることに疑いようはない。それで、やることはやっていない、とは何事だ。中里の不躾な視線に、皿から上げた目を涼介は、真っ直ぐぶつけてきた。
「そんなに意外か?」
「……嘘だろ」
「こんなことで嘘を吐いても仕方がないだろ。俺は童貞だよ」
昼間、女性客の多いレストランで出されると、非常に困る言葉だった。疑ったことを、中里は反省した。だが、疑わずにはいられなかった。
「いや、でも、お前……そりゃ、ないぜ」
「あるさ。したいと思ったことがなかったからな」
「何を」
「キスもセックスも」
疑ったことを、再度中里は反省した。これはもう、信じるしかない。涼介は平然と、パスタの残りを食べきった。中里は動揺し、トマトソースを皿の外に飛ばしながら、食べた。空いた皿が下げられ、食後のコーヒーが運ばれるまで、互いに無言だった。店内は禁煙で、煙草も吸えず、じりじりとした。涼介がしれっとしているだけに、動揺を消せずにいる自分に、苛立ちを覚えた。
「何が何でも一緒にいたい、触れていたい、未来を共有したい」
前触れもなく、声は響いた。低く、朗々としていた。
「そう思えるような、本当に好きな相手と付き合ったことのない俺は、お前よりも恋愛のことは、分かっていないと思うぜ」
真っ白なコーヒーカップに据えた目を、涼介は何かを探すように細めていた。中里はテーブルの上に乗せていた両手を組み、伸びている親指の爪を見ながら、言った。
「俺だって、そこまで深く思って、その子と付き合ってたわけじゃねえよ。近所の車に熱中してて、振られちまったしな」
「でも、好きだったんだろ」
問いに、顔を上げる。涼介の目が、向けられている。真剣さ、深刻さ、熱さが宿る、食らうと、ごまかすことも、逃げることもできなくなる、視線だった。そうしたいとも、思えなかった。古い記憶と感情が、肌の上に蘇った。傍にいられる安らぎ、触れ合える昂り、会える喜び、会えない悲しみ。
「好きだったぜ、そりゃ。好きだってこと、信じてもらえなかったのが、ショックだったくらいには」
振られたという結果よりも、好きだという思いを否定されたことが、やるせなかった。車すら否定されたことに、傷ついた。それでも好きだった。あの経験を忘れることはないだろう。忘れられないから、七年も女性と関係を持てていないのかもしれない。日照りの現状に頭を抱えたくなった中里が、俯いた視界の中、突然涼介の右手が現れた。驚き、椅子の背もたれに背をつけるが、手はそのまま顔に寄る。ついにその親指が、下唇に触れた。右から左へ、輪郭をなぞるように強く押された。背中が、あわ立った。それは何事もなかったかのように、中里の唇を離れ、涼介の唇の前、舌で舐められた。頷いた涼介が、うまいな、と言い、親指をおしぼりで拭き、何かに気付いたように、中里を見た。不審そうで怪訝そうで、それでいて得心がいったような顔をしていた。それを目にした途端、背中の毛穴が開いて、汗が噴き出した。顔はにわかに熱くなり、口が渇き、出ていく声は妙に掠れた。
「な、何してんだ、てめえ」
「悪いな。昔からの習慣で、今でも啓介にはやっちまうんだよ」
答え、涼介はコーヒーに口をつけた。組んだ両手を解き、各々握り締めながら、俺はお前の弟じゃねえ、と中里が言えば、ソーサーにカップを置いた涼介が、分かってる、とわずかに眉をひそめ、首を傾げた。
「お前は中里だ。だからかもしれない」
「はあ?」
「まあ、今後は気を付けるよ。周りの目も考えないとな」
眉を上げて表情を緩めた涼介は、首の傾きを消し、再びコーヒーを飲む。中里はそこで、慌てて周囲を確認した。若い女性や妙齢の女性、男女連れが、和気あいあいと食事を楽しんでいるだけで、こちらが見られている気配はない。人心地ついて、コーヒーを煽るように飲んだ。そして思いきりむせて、笑われた。
会計を済ませて外に出ると、寒風が消えない熱を飛ばしてくれた。
「ごちそうさまでした」
駐車場へ歩き出す前に、涼介が仰々しく頭を下げてきた。頭も冷え、笑われてから不機嫌なままでいた自分が大人気なく思え、中里はため息を吐き、走りを見てもらった礼なのだから、礼を言われる義理もなかったが、そこにこだわるのも大人気ないとも思え、どういたしまして、と片頬だけで笑ってやり、32に戻った。運転準備を済ませ、発車させ、涼介を出迎えたところまで、送り届ける。車中、煙草を吸っていいかと尋ね、変な気を遣うなと返されて、往路での会話を思い出し、何とも返しようがなくなり、ただ遠慮はやめて喫煙しつつ運転していると、自然と次の予定が話題にのぼったが、走りを見てもらうのは当分見合わせた。
「お前と話したおかげで、あいつに、高橋啓介に負けてから迷ってたことが、はっきり分かったぜ」
中里が言うと、そうか、とだけ、涼介は言う。その近しい声に、違和感はもう抱けない。
「肝心なのは、目的意識なんだ。何を試すにしても、それをやってどうしたいのか、しっかり意識できなけりゃあ、何も残らねえ。正しいと信じられるもんなんざ、何も。俺はそれを見失っていた。手段だとか環境だとかそういう、外側のことをどうにかする以前の問題だ。そんな単純なこと、もっと早く気付いておくべきだったってのに」
ああ、とだけ、涼介は言う。思いを肯定されると、言葉は止められない。
「けど、それで終わる気はねえんだ。失敗した、負けもした、だが俺は、諦めねえ。また一からやり直す。自分が何をしたいのか、どうしたいのか、お前と話して、考えることができた。決めることができた。後は回数重ねて、自分なりの方法、固めていくだけだ。お前にまた走りを見てもらうのは、だから、その始末をつけられてからにするぜ。車と、自分と向き合えなくて、他のもんと向き合えるわけもねえからな。山にも他の奴らにも、お前にもよ」
言い終えて、少しの間、音が絶えた。空は晴れ、景色は続き、機械は働いている。それでも不意に、中里は世界の狭まりを感じた。雨の匂いはしなかった。何の記憶も浮かばなかった。ただ、自分と、隣の男しか残っていない、そんな、孤独とはまったく違う感覚が、生まれた。
「分かったよ」
涼介の硬い石のような声が、狭い世界を砕き、卒然孤独の冷たさが背中に広がった。中里は、隣を見た。涼介は、前方を見ている。その目は既に、サングラスに覆われていて、表情は窺えない。前へと目を戻し、縮まっていた車間距離を取り直す。煙草を吸うと、喉の半ばにしこりがあるように感じられ、煙を吐き、唾を飲み込んでから、熱をこめ、中里は言った。
「ありがとう」
出した自分の声が妙な音に聞こえ、咳をしたが、しこりは消えず、呼吸も邪魔される。また咳をした時、隣の男が、息で笑った。
「次はもう少し、見応えのあるものにしてもらいたいな」
いたずらっぽい涼介の口調は、空気を温め、中里の背中をも温め、そこに張りついた孤独を落とした。息が楽になり、中里は大胆に笑い返した。
「言っとけ。度肝を抜かしてやるぜ」
「それは楽しみだ。久しぶりに行きたいレストランがあるんだよ。ハンバーグがうまい」
「……高くねえよな」
「高くはないが、ああ、そうだ。満足できるものを見せてくれたら、俺が奢ってやる」
前の左折車を丁寧にかわし、隣を見る。挑発するように、男が笑んでいる。金銭を建前にした、意地の張り合いだった。同じように、笑い返す。
「忘れるなよ、その言葉」
「勿論」
やり取りには、冗談の色が濃かった。会話はやがて途切れ、ふっと内容を変えて浮かび上がり、空気を温めて消え、また表れる。歩行者の服装、先行車の運転、立ち木、鳥、雲の形、店の名前、政治経済世相、脈絡なく話は続き、退屈もなく時間は過ぎた。
路肩に停車させ、中里はこっそりと奥歯を噛んだ。新たな煙草を使わずに、生身での一方的な遮断への、強い落胆を予想して騒いだ神経を、落ち着かせるためだった。涼介が降りるのを、中里は待った。そうしながら、伸ばされた手を、避ける考えは浮かばなかった。避けたいと思わなかった。左頬に触れた指が、生まれ変わった皮膚の強度を確かめるように、覆う。路上のため、いつまでも停まっているわけにはいかない。だが、その手は振り払えなかった。温度が混じり、境界が失われ、口が渇く。
「もう治ってるぜ」
時間が止まったような恐ろしさを感じ、中里は無理に笑って、言った。涼介は笑わない。グレーのレンズは影を作り、その奥の目はよく見えず、頬を覆う手は離れない。突っ張る顔では笑えなくなり、別の、何かの感情が表に出そうになることにも恐ろしさを感じ、中里は、飲んでもいないのに唾がどこかへいってしまった口内から、声を外へと通した。
「弟にも、こういうこと、するのか」
瞬間、涼介は仰け反るように、少し顎を上げた。そして左頬を、その掌が下り、続いて指が下りて、顎から離れる。外気に触れた肌がすうっと冷え、身震いした中里を、少し顎を上げたままの、涼介が見下ろした。
「お前は啓介じゃねえよ、中里」
何らかの懸念が潜んだ声が、車内に響いてすぐ、助手席のドアは開かれ、外気が流入した。滑らかに車外へと体を出した涼介は、途中で動きを止め、振り返り、車内を、中里を覗き込むと、踊るように笑った。
「またな」
そしてドアは、しとやかに閉められた。外部を遮断した32の内部、その運転席に一人座している、本来あるべき状態に戻り、中里は、極端な世界の狭さを感じた。その孤独は親しいはずだったが、居心地を悪くした。日頃傍にある、慣れている寂寞とは違うものが、車内に満ちていた。強い落胆が、景色を、音を狭くする。隣にいた男がいなくなった、ただそれだけで、背中は冷たくなる。そりゃそうだ、中里は、誰にも届かない呟きを発した。その自分の、自分ではないような頼りない声が、ようやく世界を割り、路上停車で交通を阻害していることを、中里に思い出させた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その後、運転を焦るあまり街中で暴走しかけた記憶は、慙愧に堪えないため、この二週間あまり、忘れはしないまでも、封じていた。しかし先ほど唐突に電話をかけてきた、これからここに来ると言った涼介のことを考えると、封も勝手に開いていく。それ以前の記憶は、封をしていないので、いつでも出てくる。
「お前、本当に好きな相手と付き合ったことってあるか?」
チームのメンバーの馬鹿さをあげて愉快そうにしていた慎吾は、中里がそう尋ねて間もなく、嫌らしい笑みの似合うごつごつとしたその顔を、不審で、剣呑なものにした。質問したことを中里は後悔して、俯き、いや、と煙草を持った手を振った。
「何でもねえ。忘れろ」
「沙雪のことまだ気にしてんのか、お前」
訝しげな声に顔を上げると、人の心を探るように見てくる慎吾がいた。その視線を浴びた肌が、こそばゆくなって、つい顔を逸らし、耳の上を掻く。
「いや、そういうわけじゃねえよ。だから、忘れろ」
いつでも出てくる記憶の中、涼介の、何かを探るようにコーヒーカップを見ていた顔が、朗々と響いた声が、言葉が、頭の深くに住み着いていた。笑う慎吾を見ていると、なぜだかそれが意識され、走りの合間、二人での恒例の進歩のない会話のついでに、聞いたまでだ。他意はなく、追究したいわけでもなかった。
「気にしてねえのか?」
意外そうな声が聞こえた。目を戻すと、慎吾は顔まで意外そうだった。
「あ?」
「全然、一つも?」
意外そうに、問いを続けられる。中里は考えた。全然、一つも気にしていないのか。そうとは言えない。強く、優しく、胸が豊かで可愛らしくて、車を愛する素敵な女性を、気にしないということはできない。ただ、こだわりは、ない。
「まあ、元は俺の勘違いだしな。雨乞いもしてないのに、雨雲が見えたから、自分の土地放って、追いかけちまったようなもんだ。そんな自分は情けねえけど、雨雲に罪はないだろ」
日照りのあまり、錯乱してしまった自分が嘆かわしく、ため息が出た。恋愛のことを分かっているなら、勘違いに溺れはしなかっただろう。『本当に好きな相手』ではないことに、気付けていただろう。つまり、分かっていないのだ。ため息を吐くしかない。
「分かりづらい例えだな」
そう小馬鹿にしてきた慎吾は、嫌らしい笑みを浮かべている。うるせえよ、と言い返すのは容易で、気楽だった。この気楽さの中では、恋愛の話など、どうでもよいものに感じられる。
「で、本当に好きってのは、どういう意味だ」
どうでもよいものを、笑い終えた慎吾は持ち出したが、最初にそれを持ち出したのは、中里だった。むきになって避けるのも、特別になりそうで、嫌だった。
「何が何でも一緒にいたい、触れていたい、未来を共有したい、そう思えるような……」
涼介が言った時には、真実ならではの重厚さがあったというのに、自分が同じセリフを吐くと、軽薄で、気障どころか間抜けに思え、慎吾に笑われるか、気持ち悪がられるのを、中里は予想した。だが、慎吾は笑わず、気持ち悪がりもしなかった。
「そんな相手、いたことねえな」
ただ淡々と、問いに答えたまでだった。余計なものを挟まないその態度に、余計なものを感じ、中里は睨むように慎吾を見ていた。億劫げに、染められた長い前髪を掻き上げた慎吾が、中里の視線に気付き、眉をひそめる。
「何だ」
「お前まで変な気遣うなよ、慎吾」
言うと、ぎょっとしたように、慎吾は大きく口を開け、眉間にくっきりしわを刻んだ。
「あァ? お前に遣うような気、俺にはねえよ。何言いやがる」
「ならいいけどよ。とにかく、沙雪さんに関しては俺はもう、何も気にしちゃいないぜ。島村にも勝ったしな」
因縁のある走り屋だった。32に乗り換えるきっかけとなる、敗北をもたらした相手だ。そういう相手に、自分なりの、完璧な走りで、雪辱を遂げられた。勘違いでの傷心はとうに癒えていて、残っているのは勝利の甘美な記憶だけだ。その機を与えてくれた女性に、感謝の気持ちはあっても、わだかまりはない。そう親しくもない男にならまだしも、飾らず、喧嘩腰でも話せる慎吾にまで、そこで変な気を遣われては、立つ瀬もなかった。
「勘違いしまくってんじゃねえっての」
眉間のしわを消さないまま、慎吾は不愉快そうに言うと、細いため息を吐いてから、じゃあな、と背を向けた。ああ、と中里は声を返し、その体が、赤いEG−6の中に入るのを、煙草を吸いながら見ていた。勘違いならそれで良かった。変な気を遣い合うよりは、競い合っていたい相手だ。だが、バトルをするのはまだ早い、そう感じる。島村には完璧に勝ったが、まだ、考えも方法も、盤石とは言いがたい。やるとしても、来年だろう。そこまで調子を維持できてからだろう。始末を、つけられてからだ。考えるうち、EG−6は下っていき、そのまま慎吾は戻らなかった。
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