懸想 2/2
  2


 空気は冷たかったが風はさほどなく、上着のファスナーを閉めておけば、鳥肌が立つこともない。平気で徹夜する仲間たちは、仕事だのカラオケだの麻雀だの飲み会だのデートだのがあるからと、次々山を後にし、場に留まっているのは中里のみだった。一人きり、深緑の山は清涼で心地良く、初冬の、透き通った甘さと、排気ガスの辛さが散った匂いは、馴染み深い。涼介が来るまで、じっと待っている必要もなかったが、32のボディにもたれながら、そんな峠の空気に浸っていると、頭は回り、車内に戻る気も起きなかった。
 二週間経っていた。連絡は取らなかった。あの男を満足させられるだけの、走りを固めるまで、連絡を取るつもりはなかった。あの男からの、連絡もなかった。当然だ。用事があるのはこちらで、向こうではない。だが涼介は今日、電話をかけてきた。そして、ここに来ると言った。何の用かは言わなかった。慌てた様子はなかったが、深刻さはあったから、直接会って話すべきことなのだろう。
 今日、山に集う仲間たちに、不審な様子はなかった。いつものように走り、騒ぎ、周りの人間に流されて、帰っていっただけに見えた。よってこちらのチームのメンバーが、問題を起こしたとは考えにくい。それに、涼介の声は、近しかった。二週間ぶりに聞いても、ほっとしてしまうほど、近しかった。チームの話をするだけなら、そんな声は使われないだろう。だが、近しくない涼介の声など、あっただろうか。交流戦以前は、そうだったように思える。それ以後、親しくなったわけではない。電話を何度か交わして、走りを見てもらって、一緒に昼飯をとったが、親しくなったという感覚はない。つまり、そう親しくもない男だ。親しくもない男に、近しい声を使われて、ほっとするというのは、どういうことだろうか。もしかして、親しく、なっているのだろうか。
「……分かんねえな」
 中里は呟き、仰いだ。夜空は、あちこちに薄い雲が浮いていて、星も月も、出たり隠れたりだ。だが、雨雲はない。雨は降らないだろう。世界は狭まらない。孤独はない。孤独の冷たさは、背中が覚えている。雨など降っていないのに、狭くなった世界で、二人きりだと感じた。それを、硬い声に壊されてから、背中が冷えた。二人きりなのに、一人きりになるのは、怖かった。親しくもない相手に、そんな風に感じるだろうか。親しくなっているのだろうか。親しく、なりたいのだろうか。
「高橋涼介」
 その名で、思い浮かぶのは、秋名の下りではGT−Rはハチロクには勝てないと言ってきた、白いFCを駆る、赤城の走り屋だった。秋名のハチロクと鎬を削り、交流戦からは後ろに控え、エンペラーの須藤京一を葬った、至高の走り屋だ。
「涼介」
 その名で、思い浮かぶのは、穏やかな笑みを浮かべる、綺麗な男だった。いたずらっぽくもなり、踊るようにもなるそれを消すと、妙な熱情を透かした顔で、慈しむように、頬を触ってきた男だ。
 気付くと中里は、左手で、左頬を撫でていた。転んだ際の擦り傷は、跡も残らず完治した。それを電話で心配していた男のことを考える。じかに、確かめるように手を伸ばしてきた男の考える。考えて、考えて、ため息を吐く。分からないものは、分からなかった。自分があの男と親しくなりたいのか、あの男が何の用があってここまで来るのか、あの男が何を考えているのか、定かなことは一つもなかった。
「……まあ、いいか」
 少なくとも用件は、涼介が来れば分かるはずだ。他のことは、分からないままでいたからといって、死ぬというようなものでもない。実際今まで、分からないままだが、生きている。

 白いFCは、32の傍につけられた。周りに、距離を取らせるべき人間も、説明すべき人間もいない。降車した涼介は、真っ直ぐに中里を見た。深緑の山は清涼で、その男の風貌もまた、清涼だった。グレーのカーディガンが、白いシャツと白い肌をより白く見せるため、目に染みる。
「他の奴らはどうした」
 会釈ののち、目だけで周りを見、涼介は言った。中里は増える瞬きを抑えつつ、答えた。
「みんな帰ったぜ。忙しいらしくてよ」
「そうか」
「うちのチームの奴が、何かしたか?」
 他の娯楽に走った仲間の行方を尋ねられたことは、中里に考えにくい事態への、不安をもたらしたが、いや、と涼介はそれを即座に否定した。
「違う。これは個人的な話だ」
「個人的」
「個人的」
 語尾を上げるように言えば、語尾を下げて返される。どこまでが個人的なのか、中里には分からない。涼介は、真っ直ぐに中里を見たまま、唇を小さく動かす。
「箱根でバトルをしたんだろう。そして勝った」
 つい数日前の出来事だというのに、それを涼介に言われるとは、考えてもいなかった。それを知られていると、考えもしなかった。不意を打たれ、ああ、まあ、と言葉がよどむが、出すうちに滑らかになった。
「その、流れでな。勝ったぜ。完璧だ。そこまでいけたのも、お前のおかげとも、言える。勿論まだ、改善しなきゃならねえところはあるんだが」
「やったのはお前さ、俺は何もしちゃいない。振られたんだって?」
「いや、あれは……は?」
 続けようとした言葉が、一瞬にして頭から抜け落ちた。涼介は、静かな顔でこちらを見ている。聞き間違えと思いたかったが、その揺れない目は、正確さを強調しているようで、中里は、熱くなる額を手で覆った。
「……何でその話が、お前のとこまで伝わってんだ……」
「うちには情報通がいてな。お前が勝った話から、シルエイティのナビゲーターに一方的に懸想して振られた話まで、まるでその場にいたかのように、懇切丁寧に語ってくれた」
 淡々と、涼介が答える。その情報の出所は、嫌でも推測できた。ここだろう。仲間は揃って噂好きで、様々な話を入れては出している。情報交換という名の雑談を止める術はない。それにしても、バトルについてはともかく、懸想云々という話まで出されては、面目が立たず、俯くしかないが、他の人間の話だけで、自分に起きたことを、涼介に理解されるのも、何かもやもやした。説明したい。しかし、既に懇切丁寧に語られているのならば、一から十まで話すのも迷惑だろう。かといって、慎吾に分かりづらいと笑われた例えを、使う気にもならない。要点だけ伝えられればそれで良かった。
「振られたってほどじゃねえんだよ。俺が、都合良く考えて、勝手に突っ走って、転んだだけだ。けど、怪我もねえ。お前の言う、本当に好きな相手ってわけじゃ、なかったからな」
 俯いたまま、中里は言い、熱の引いた額から手を外して、顔を上げた。涼介は、まだ静かな顔で、こちらを見ている。外部の影響など、何も受けていないようだった。的外れな発言をしたように感じられ、中里は目を逸らし咳払いをして、話を変えようとした。
「考えていたことがある」
 その前に、涼介が声を出した。その顔に目を戻すと同時に、声が続いた。
「お前のことだ」
 その声も、顔も、静かだからこそ、にじむ真剣さも、深刻さも、熱情も、浮き立って見える。卒然、自分が目の前の男に、強く意識されていると感じ、中里は息を止めていた。唾が涸れ、喉が渇き、体が火照り、頭がぼやける。
「さっき、答えを出せた。出せたらお前のことしか考えられなくなったから、ここに来た。中里、俺はお前のことが好きだ。本当に」
 ぼやけた頭が言葉を消化するより先に、変わらず真っ直ぐな、揺れない、熱のこもった目を食らうだけで、意味を解していた。嘘だろ、と言いそうになったが、言葉ごと、中里は出ない唾を飲み込んだ。嘘を言っている、涼介の顔でもなかった。だからこそ、嘘だろ、と言いたかった。言えば、呼吸を取り戻せる気がした。だが、言えない。真剣な思いを否定される悲しみは、よく知っている。ぼやけた頭を、記憶が行き交う。作られた近しさ、見せられた表情、与えられた感触、かけられた言葉。何が何でも一緒にいたい、触れていたい、未来を共有したい。それが、本当に好きということだ。涼介にとって、自分が、そういう相手だということだ。そう、信じられた。信じてしまったら、火がついたように、顔が熱くなって、中里は涼介に対し、半身になった。動き、32を目に入れると、息ができ、咳込んだ。咳が咳を呼んで、止められなくなる。
「おい、大丈夫か?」
 心配そうな声が、耳の近くで聞こえ、背中に手が触れた。触れられた部分が、熱くなった。ぞくりとして、息が止まり、咳も止まった。熱さは消えず、慌てて体をよじり、その手を払う。体勢が崩れ、踏ん張り切れず、車のルーフにべったり手をついてしまったが、それを気にしていられる余裕もなかった。どちらかが、伸ばした手で相手に触れられるだけの、間しかない。腰を引いた状態では、長身の涼介を見上げる形となり、見下ろされる形となる。驚いたように少し眉を上げ、目を開いている涼介に、見下ろされると、足まで引きたくなるほどの、ばつの悪さが全身を縛った。運動もしていないのに、荒れる息の中、中里は言った。
「いや、待て、大丈夫だ。大丈夫、だから、ちょっと、待ってくれ」
「分かった」
 すぐに、涼介が頷く。その声は硬く、熱さの残る背中が冷えていき、だが頭はぼやけたままで、自分の体の変化に、中里はついていけない。何かを言うべきだと思う。今しがた、涼介は、自分のことを、好きだと言った。本当に、好きだと言った。つまり、これは、告白だ。涼介に、告白された。告白された人間は、告白してきた相手に、何かを言うべきだ。嘘だろ、ありえねえ、男同士で、ひでえ冗談だ、と、この息苦しさから逃げるために、次々浮かんでくる否定の言葉は、出してはならないと分かる。では、言うべきことは何なのか、それは分からない。なぜ自分がこんなに動揺しているのかも、分からない。思考は停滞しきりで、神経は混乱しているようだ。何を言えば良いのかはおろか、どうすれば良いのかすら、分からなくなってきた。お手上げだ。自分のことは自分で決めたいが、解決法が一つも思い浮かばない以上、相手に縋るくらいしか、できない。
「そ、それで……お、俺は、どうすりゃ、いいんだ」
「お前がどうするかは、お前の自由だぜ」
 正論を言われたことを、突き放されたと感じる自分に動じて、目が辺りをさまよった。涼介は、中里の錯乱を察したように、柔らかく言葉を継いだ。
「おそらく俺は一生お前に懸想しているだろうが、それによってお前が俺を嫌ったとしても、お前の自由ってことだよ。俺の気持ちはどうやっても変えられないものだし、お前に隠したくもないし、お前の気持ちを隠されたくもない。だから、お前は何をはばかる必要もない。好きにするといい」
 その落ち着いた低い声を聞いているうちに、まだ鈍いながらも頭が回り出し、目も、涼介に定められた。静かな顔は、何かが張り詰めているからこそ、落ち着いているようにも見えた。喉は乾いたままだが、呼吸はできる。嫌ったとしても、と涼介は言った。涼介が、自分を好きだということで、だ。嫌悪感を、己のうちに、中里は探った。この男に、好きだと、何が何でも一緒にいたいと、触れていたいと、未来を共有したいと、思われていることで、生まれる感情を探った。嘘だろ、と思ったのは、驚きでしかなかった。生理的な、触れられるのも厭うほどの感情は、生まれてこない。それは、伝えるべきだと感じた。気持ちを隠されたくも、隠したくもないのは、同じのようだった。
「俺は、お前のこと、嫌いにはならねえよ」
 涼介を見上げ、中里は言った。涼介は、少し顎を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。
「そうか?」
「ああ」
「俺は、お前のことが、本当に好きなんだ」
「……それは、分かったぜ」
「そして俺は、お前とキスをしたいとまで思ってる。セックスも。それでも嫌いにならないのか?」
 嫌いになるか判ずるための、肝心の部分を失念していたのは、その行為について考えることを、避けようとした理性のせいかもしれない。だが、直接聞かれた以上、頭に浮かぶのは避けられなかった。目の前の男と唇を重ねて、体を重ねることを、前者では具体的に、後者では抽象的に、中里は想像していた。するつもりはなかったが、できてしまった。そして、想像ではない、現実の、まさに目の前にある涼介の、艶のある唇から、目を離せなくなった。そこに、自分の唇で触れるという考えを、頭から離せなくなった。口が開いていき、舌が他人の湿度を求め出す。
 いや、やべえだろ、それは。
 生まれた衝動を、意識の浅いところで危険に思うが、深いところにまで、それは届かない。そんな自分の浅ましさを、嫌う余裕もないほどに、拍動も、呼吸も、苦しかった。逃げ出したかった。燃えるような体を脱ぎ捨てて、冷や水にでも飛び込みたかった。だが、体は動かせない。目も動かせない。涼介から、離せない。離れられない。その男に、触れたがる自分を、抑えるだけで、限界だった。頬を、手で覆われても、止めることもできなかった。止めたくない自分を、抑えるだけで、ぎりぎりだった。冷ややかな手は、だが普通の温度でしかなく、自分の頬が、異常に熱くなっているだけなのかもしれない。
「中里」
 涼介の手に促されるように、顎を上げながら、口角が、緩やかに上がったその唇、通った鼻筋、澄んだ目へと、中里は視線を移した。涼介は、穏やかな笑みを浮かべている。そして、明確な情欲を、浮かべている。
「やり方、教えてくれるか」
 背筋を、何か、重いものが駆け抜けた。意識の浅いところで、だからやべえだろ、何考えてんだ、しっかりしろ、と思ったが、深いところにまでは、それは届かず、中里は、ああ、と言っていた。

 背伸びするように、顎を上げて、重ねた唇は、生ぬるかった。皮膚と皮膚がわずかに触れただけで、おののき、少しの間、中里は動けなくなった。だが、抑圧から解放された自分が、すぐに力を取り戻す。両手で、涼介の頬を覆い、顔を寄せやすくする。数度、感触を確かめるように、唇で唇を軽く吸い、舌で、歯の表面を撫でる。その間から、舌が現れるのは早かった。舌先だけを触れ合わせ、舐め合う。時折、舌を引っ込め、ただ唇だけを味わい、また舌を、今度は少しずつ深く、絡ませていく。涼介の動きは従順で、滑らかだ。ぎこちなさは一つもないが、激しさもない。だが、遠い、昔のキスの記憶が、掻き消えるほど、刺激は強烈だった。それが、あまりに久しぶり過ぎて感覚が先鋭になっているためなのか、自分から行為を仕掛けているためなのか、相手が涼介というためなのか、中里には分からない。ただ、涼介の唇を、舌を、口腔を、感じているだけで、嫌になるほど下腹部が脈打つのは、分かる。
 左頬にかけられていた手が、不意に、顎に移った。その指先が、顎の下を強く押してきて、痛みのために、中里は唇を離した。荒くなった息はそのままにして、鼻先に、涼介の顔を見る。それは、楽しそうに、笑んでいた。
「ありがとう、大体分かった。俺にもさせてくれ」
 わずかに声を掠れさせながら、涼介は言い、中里の顎から手を離さず、角度をつけて、唇を重ねてきた。その舌に、滑らかに、だが強引に、口内から舌を引き出された時、脳に強い刺激が突き刺さった。
「んっ……」
 鼻から出た自分の、寒気がするほど高い声に驚き、中里は思わず両手を涼介の肩に当てていた。それを押しても、距離は開かない。顎はしっかりと掴まれて、腰に腕が回されていた。涼介の舌が、熱心に、丹念に中を探っていく。行為自体は、先ほどまでと変わらないのに、一方的にされるだけで、粘膜の接触の刺激に堪えかね、変な声を上げる自分が、信じられない。音を立てて、舌を吸われ、離れ、唇を吸われる。
「ッ、あっ……」
「良い声だ」
 唇から、涼介の声が響いて、中里は、背を反った。だが、涼介との距離は開かず、何かを試すような、探るようなキスは続く。試される度に、探られる度に、中里は震え、声を上げる。下腹部が、より直接的な快感を求め、腰を動かそうとする。堪え難くなり、中里は涼介の肩を、思いきり掴んだ。そして、ゆっくりと、キスは終わった。
「うまいじゃないか、中里」
 キスが終わっても、距離は開かなかった。興奮を隠さずに、しかしあくまで穏やかに、涼介は笑っている。それに、揶揄をされたように感じると、にわかに羞恥と苛立ちが身に満ちて、中里は涼介の肩から離した右手の甲で、乱暴に口を拭った。
「お、お前こそ……何だよ」
「ん?」
「したこと、ねえくせに、こんな……」
 言ううちに、乱れていることが自覚され、中里は口を開いたまま、止まった。
「お前の教え方が良かったんだ。分かりやすかったぜ」
 笑みを深められて言われると、開いた口からは、息しか出せなくなった。教え方の問題ではない、ように思える。ドラテクのうまい奴はキスもうまい、とか何とか、仲間の誰かが言っていた気がするが、そうなのかもしれない。そうだ、この男はドラテクがうまい。なぜなら高橋涼介だ。その男と、キスをした。今更思い至り、中里は、この上なく、泡を食った。
「ちょ、ちょっと待て」
 その男に、顎は解放されたが、頬には手を当てられたまま、腰には腕を回されたままで、つまり、抱かれていて、しかも自分は、勃ちかけている。由々しい事態だった。
「何を待つんだ?」
 涼介は、不思議そうに見下ろしてくる。何を、と中里は考えた。キスとセックス、という単語しか浮かばず、思考は停止した。だが、沈黙は恐ろしく、考えずに、言葉を吐いた。
「……な、何か待て。何か」
「何か」
「だから、その……」
 キスとセックス、という単語を避けようとすると、他の単語が逃げていき、まともな言葉が出せなくなり、結局、中里は黙った。それでも、涼介は見続けた。目を逸らすと、何かを失いそうな気がした。涼介は、わずかに上げていた眉を、元の位置に戻すと、中里を、じっと見据えた。
「お前は俺のことを、嫌ってはいないんだな」
 偽りや迷いを、逃さず捉えようとする目だった。それを、真っ向から中里は受けた。嫌いではない、と、それは簡単に言えた。嫌いならば、頼まれても、キスなどはしない。嫌いなら、頼まれてもいないのに、したくなるはずがない。単純な話だった。だが、こんな由々しい事態の中、少しも不快ではなく、抜け出すことも考えられないことは、嫌いではないと、それだけで済ませて良いものだろうか。
「涼介」
 名を呼ぶと、何かが張り詰めた、静かな顔が、歪みなく向けられる。見ても、何が何でも、とまでは思えないし、未来はあまりに不確かだ。しかし現在は、確かだった。喉の渇きは、和らいでいた。声は、不足なく出る。唾を飲み込んでから、中里は口を開いた。
「俺は、お前のことが、好きだぜ。お前と同じくらいかは、分かんねえが」
 深い思索があるとは言えない。一時の迷いかもしれない。それでも、今、由々しい事態を、この男に触れたがった、自分が招いたのは確かで、この男と一緒にいることに、動揺しながら、それを望んでいるのも、確かだった。その思いを、伝えられたかは分からない。だが、涼介の顔に張り詰めていた何かは、突如弾け、そこにはすべてを包み込むような、純粋で、美しい笑みが浮いた。
「ありがとう。嬉しいよ」
 時間を忘れそうになるほど、綺麗な表情が、そこにあった。なぜか、勃ちかけているものが反応しかけ、中里は、慌てて目を逸らした。ここまで通じていれば、もう、見ている必要はないだろう。
「……そ、そうか」
「ああ、とても」
 声が、より近くで聞こえた。目を上げる間もなく、口づけられる。短く、浅く、音を立てて唇が触れて、長く、深く、重なろうとする。慌てたままの中里は、陶然となり切る前に、無理矢理首をひねり、横を向いた。
「待て、ちょっと、やっぱやべえ、ここは」
 切れ切れに言うと、頬から耳、うなじへと手を滑らせ、頬に顔を寄せてきた涼介は、ぴたりと止まり、しなやかに空間を作った。
「確かにここは落ち着かないな。お前の声以外を聞く余地も、残しておかなきゃならない」
 真面目に涼介は言った。先ほどまでの、余地を残していなかった自分が思い出され、中里は顔の汗を指で拭った。
「この後、予定は?」
 問われ、一呼吸置き、考えてから、答える。
「予定なんて、帰って寝るだけだぜ。どうせ明日休みだから、まだ走ってもいいんだけどよ」
「そうか。なら、今からお前の家に行ってもいいか」
 ぬめる鼻の頭を指でつまんだ体勢で、中里は固まった。一呼吸置いても、考えられなかった。ふっと、浅く笑った息が聞こえた。
「嫌なら断ってくれて構わない。無理はさせたくないからな」
 そう言う割に、首筋に当てられた手も、腰に回される腕も、離れない。じっとしていられず、鼻から外した手で、顎の下の汗を拭い、横を向いたまま、呟く。
「そういう言い方、ねえだろ」
「何?」
「嫌なわけ、ねえじゃねえか、クソ」
 つい、舌打ちしていた。嫌なら初めから、こんなことはしていない。思うと、肌はまた汗をにじませ、冷やされようにも、力をこめて抱き締められては、風が通る隙間もなかった。
「可愛いな、中里」
 唇が、耳朶に触れるほど近くで、囁かれ、上がりそうになった声を、奥歯を噛んで殺してから、むずむずする背中や腰の訴えを、半分聞いて半分無視して、声を低める。
「……言っとくが、それは嫌だぜ」
「そうか?」
「そうだ」
「それは残念だ」
「俺は、残念じゃねえ」
 涼介の肩口で言うと、楽しそうに笑われて、舌打ちは止められなかった。

 煙草を吸いながら、ベッドの前に置いてあるローテーブルの上、起動させたノートパソコンで、動画を見る。夏、昼間、妙義山で法令遵守走行をした車載動画だ。何時でも地元の山を感じさせてくれるそれは、中里の気分を落ち着かせてくれるものだった。今は、落ち着かないので、少しでも落ち着こうと、それを見ている。だが、落ち着かなかった。意識がそこに、向けられないのだ。壁の向こうにある風呂場から、水が床を打つ音が、聞こえる。涼介がそこで、シャワーを浴びている。それを、自分は、ベッドに腰掛けながら、下着姿で待っている。
 こまめに片付けはしていたが、明日の休みに全体的な掃除をしようとしていたため、若干ゴミが溜まっている室内に、涼介を招くのは、何か居た堪れないものがあった。二人きりになるのも居た堪れず、暖房を利かせてから、自由にしてくれと言い残し、もてなしもせず、とりあえず一人になれるようにと、風呂場に逃げ込んだのは良いものの、体を洗いながら先のことを考えると、壁に頭を打ちつけたくなったので、中里は何も考えないようにした。頭を冷やせるように、最後に水を浴びて、パンツとシャツだけ着て、部屋に戻った。掛け布団が端に寄せられたベッドの上に、涼介が寝ていた。どうしたと聞けば、お前の匂いがすると言われた。答えになっていなかった。居た堪れなさが極まって、お前も風呂に入れと追い立てた。そして今度は自室で一人になってから、先のことに思い至り、また壁に頭を打ちつけたくなったので、車載動画を見ることにしたのだ。
 だが、落ち着かない。先のことは、考えたくないが、考えずにはいられない。この流れで先にあるのは、どう考えても、セックスだ。性行為だ。もうかれこれ、七年ぶりだ。いや、それは異性とのセックスであって、男同士では、初めてになる。男同士。それで、何がどう、セックスになるのか。尻を狙うとか、そういう話か。峠で仲間がたまに、俺は毅さんになら尻を捧げられます、などと言ってくることがあるが、そういう話か。だが、あれは、冗談だった。嬉しくもない冗談だ。これは、冗談ではない。嬉しいかどうかは、分からない。緊張のあまり、感情が不明瞭になっている。涼介の尻を狙うべきなのかも、分からない。キスはした。したくなった。セックスも、肌をまさぐり合うあたりまでは、想像できる。昔もやった。その先は、しかし、分からない。男同士では、想像の仕様がない。ただ、触れられれば、触れてもらえれば、それで良い気がする。別に、尻をどうにかしなくても、何とかなるのではないか。しかし、涼介がどう考えているのか、それも分からない。涼介は、本人いわく、童貞だ。未経験者だ。キスもしたことがないと言っていた。やり方を教えてくれと言われて、教えたら、短時間で、技術を上回られた。物悲しい。セックスのやり方も、教えた方がいいのだろうか。しかし、男同士のセックスは、今までしたことがない。教えようがない。涼介は、どうしたいのだろうか。キスを、セックスをしたいと言っていた。それは、どういう意味だろうか。いや、そういう意味だろう。だが、具体的に、どうしたいのかが、分からない。分からなくとも、死ぬというものではないが、生きた心地もしなかった。
 音が、消えていた。中里は車載動画の上に目を置きながら、ほとんど見ていなかった。しかし、涼介が部屋に戻るまで、どこにも頭を打ちつけずに済んだのは、少しは見ていたおかげかもしれなかった。
「悪いな、待たせて」
「いや」
 声がしても、そちらを向けないほど、中里は落ち着けていない。ただ、灰の溜まった煙草を咥えながら、車載動画を、一心に見ている。一心に見ながらも、ほとんど見てはいない。とりあえず涼介以外のものを見られるならば、それでいいような気さえした。今、涼介を見ると、何かとんだへまをしそうだった。
「へえ、お前が撮ったのか?」
 気配が近くなったのは、分かった。だが、後ろからぴったりと体をくっつけられ、左肩に顎を乗せられて、耳元で声を出されるとは、考えもしなかった。中里は、声を上げそうになり、喉を閉めた。体が跳ねるのまでは抑えられなかったが、涼介の体を払うまでには至らなかった。涼介はベッドに上り、中里の肩越しに、ノートパソコンの液晶に表示された動画を、見始める。上や斜めから見るよりも、真正面から見る方が、見やすいに決まっている。それだけだ。そう思いながらも中里は、シャツ越しに感じる、涼介の、まだ水分が残っている胸や肩、首や頬に、血を熱くさせられる。上半身は、裸らしい。落ち着くも何も、あった話ではない。
「……ああ」
 乾いていく喉と口を開いて、相槌を打つ。ふうん、と涼介が耳元で鼻を鳴らす。その響きが、左上半身から全身にかけて、汗が一斉に降りたような感覚を広げる。
「良い走りだな。路面も車も労わってる」
 感心しか含まない声に、落ち着いたはずの下腹部が、反応した。狼狽し、中里は動画を閉じ、ノートパソコンも閉じた。このままでは、生き地獄だ。意を決し、ほとんど吸えなかった煙草は、灰皿で始末した。そして、涼介の顎が乗せられている、左肩からゆっくり体を開いて、ベッドに上り、何となく正座をした。淡く茶の入った髪は濡れたままで、上半身は裸で、下半身はバスタオルが巻いただけで、こちらも正座をしている涼介は、向き合うと、にわかに眉をひそめた。
「気に障ったか?」
「そう、じゃねえよ。そういうことじゃねえ、それはねえ」
 窺うような声に、狼狽を深められ、口をうまく動かせないまま、否定する。風呂上りのためか、自然にそうなのか、涼介の肌は、白いがゆえの、ほんのりと差す赤が生み出す、艶やかさがあった。その肌に覆われている顔は、聡明さに溢れる、落ち着いたものだ。落ち着いている涼介の顔を見ると、落ち着いていない自分がつくづく異様で、何か仕出かしそうに思え、怖くなり、中里は横を向いた。自分の部屋で、これほどの緊張と、不安とに襲われたことはない。膝の上に置いた手が、細かく動く。この手を、目の前の男に伸ばしてしまいたい、そういう衝動があるから、顎に、柔らかく、だが明確な意思が伝わる指をかけられただけで、横に向けていた顔を、前へと簡単に、戻してしまう。涼介は、もう眉をひそめてはいなかった。興味深そうに、視線を注いでくる。顎に触れたその指が、頬を、額をくすぐると、湿ったままの中里の前髪を、掻き上げ、梳いた。
「この方が、可愛いな」
 感慨深げに、涼介が言った。額に、梳かれる髪の重みを感じ、意味を理解し、興奮だけで吐き気を覚え、それを吹き飛ばすよう、中里は凄んだ。
「だからッ、そんな、それを、言うんじゃねえよ、てめえは」
「思っていることを言わないのは、難しいぜ」
「なら、思うな」
「その方が難しい。しかし、前髪が下りるだけで変わるもんだな。啓介だと少し真面目に見えるくらいだが」
 言われ、ふと、この男の、弟を思い出した。血の気の多い、どこか不遜な雰囲気の青年が、この状況を知ることにまで考えが及ぶと、自分が殺されてもおかしくない気がして、頭が冷えた。
「お前の場合は、ひどく可愛くなる」
 その兄は、人の気も知らないで、冷えた頭を熱くするようなことを、静かな声で、言ってのける。まだ残る理性は、過度の反発は許さないが、最低限は許した。
「……それ以上言うと、殴るぜ」
「なら言い換えよう。綺麗になる」
「いい加減にしろよ、コラ」
「まあ、峠にいるお前も変わらず綺麗なんだが」
「この野郎、ふざけんじゃねえ、そんなのお前にしか当てはまらねえんだよ、綺麗なんてのは」
 そこまで言ってしまってから、中里は、はっとした。涼介は、きょとんとしていた。前髪の一部が、その指に挟まれたまま、宙に浮く。それを払い落として、逃げたくなるほど、羞恥で吐き気が強まったが、少しでも動いたら何かが漏れ出しそうなので、とりあえず目だけを逸らして、じっとしているしかなかった。
「なるほど」
 前髪を挟んでいた指が、額と頬をくすぐって、顎に戻る。声には、愉快さが剥き出しで、そんな声を出す男が、どんな顔をしているのか、気になった。気になると、吐き気はそのままなのに、目が、そちらを向いた。
「好きな相手にそう言われるのは、気恥ずかしいな」
 気恥ずかしさなど、端っこにも存在しない、実に楽しそうで、ひどく綺麗な、笑顔だった。見た瞬間、吐き気も何も、呆気なく吹き飛ばされた。そのすべてが、見えなくなるまで近づいても、中里はそこから目を離せず、唇が重なるより先に、舌を伸ばしていた。涼介はそれに軽く口づけただけで、唇の内側を、ゆっくりと舐めていく。その感触を意識で追ううちに、背が反りかけ、膝の上に置いていた手で、涼介の上腕を掴んだ。ぬるい肌だった。肌着の中に入ってきた手も、ぬるいのに、それが背を撫でていくと、熱が残る。皮膚に、その存在を感じるだけで、体が震える。快感は鮮明で、肉体の輪郭はあやふやだった。自分の範囲を確かめたくて、ぬるい涼介の腕を、しっかりと握る。それが合図となったように、ゆっくりと、外と内の境を行き来していた涼介の舌が、性急に、口腔を侵してきた。内部が満ちて、息が、声が漏れる。接触が深まるにつれ、体が押され、背中からベッドに沈んだ。そしてきつく舌を吸われて、離された。
「はっ、あ」
 電灯を背にし、にこやかに見下ろしてくる男を、追いかけそうになって、息苦しくなり、シーツに留まった。涼介は、呼吸の度に小さく肩を上下させながら、ただ、微笑んでいる。その静かさに、今以上に乱されそうになる息を整えようと、中里は一旦顔を背け、目を閉じた。足りない酸素を得るために、ゆっくり、深く、胸に息を溜めて、吐き出す。吐き出した最後に、音を立てて耳を吸われ、息を吸う際に、妙な声が出た。
「中里」
 鼓膜に直に、空気と音波が届いて、背中が突っ張った。筋肉の中が熱く、肌も熱い。腰が、より明確な快感を求めて、動くことを要求するが、そこまで進むには、恥ずかしさが強かった。それを紛らわせるために、声を出す。
「何だよ」
 だが、その自分の掠れた声に、余計に恥ずかしくなり、呼吸も整えられない。
「問題があったら、言ってくれ」
 耳に吹き込まれる声は、背中を突っ張らせる。浮かび上がった胸から腹を、シャツの中に入り込んだ、涼介の手が、にじんだ汗を塗り込むように、撫でていく。問題、と考えようとしても、その手に胸を擦られ、別の手で張ったものを下着越しに触れられて、思考が拡散する。問題があるのは、この抜き差しならない状況かもしれない。音を立てて耳を舐められ、繊細に乳首をつままれ、当てられているだけの手に、腰を勝手に押しつけてしまうこの状況は、やはり、由々しいのだ。しかしそれは、合意の上で、問題とは言えない。問題はない。ないが、恥ずかしさは抑え切れず、中里は、涼介の体をまさぐった。左手で背中を撫でて、右手でバスタオルを剥がし、中心に触れる。その硬さを感じ、何か、ほっとした。
「……ッ」
 息を呑む音が、近くでした。手にしたものを、自分でやる時のように擦ると、息が吐かれ、その最後に、笑いが生まれた。
「最高だな」
 言葉の意味を受け取る前に、腰を動かしていたものに、直接手を滑らされ、理解する。
「ひっ……」
 形をなぞられただけで、視界が曇った。既に濡れている先端をこねられ、耳から顎、顎から首に、唇を落とされて、腰が浮く。電灯の白さが、頭の中にまで広がるようだった。右手で、涼介の勃ち上がっているものを擦っていると、自分のそれを擦っているような、錯覚に襲われるが、生じる快感は、自慰とは違い、より鋭く、より強く、より激しい。ただ、ペニスをしごかれているだけだ。しごいているだけだ。それだけで、意識が、認識が、混濁していく。快感は鮮明で、肉体の輪郭はあやふやで、涼介のものを、乱暴に扱ってしまっても、それが萎えることはない。同じように扱われても、自分のものも、萎えはしない。刺激を受け入れ、解放を待ちわびている。目を閉じても、世界は白い。
「ん、んん……」
 まぶたに、眉に、こめかみに力を入れると、顎にも力が入り、息は鼻から、声となって抜けていき、世界は白さを増す。首にあった温もりが消え、世界に影が差して、中里は、眉根を寄せたまま、目を開いた。そこに、小さく笑んでいる、涼介がいた。穏やかに、喜悦を浮かべているその顔は、神経に介入して、緩い快感を全身に広げていく。それが、粘膜を擦られる、鋭い快感と合わさって、きざしを呼ぶ。多くなる瞬きの度に、涼介の顔が近づく。影が差し、目を閉じる。舌先が触れ合うだけで、達しそうになった。
「くっ……、あ」
 それより先に、唇を離した涼介が、極まった声を上げた。そしてすぐ、再びキスをされ、右手を伝う粘ついた液体が、涼介の精液だと気付いて間もなく、その手に中里も精液を放った。

 手を互いの体から放し、一息つく。目の前には、苦笑とも微笑ともつかない、曖昧な笑みを浮かべた涼介の顔があった。
「我慢するのも難しいもんだ」
 自嘲気味の言葉だった。五秒後、中里は意味を飲み込んだ。
「……まあ、そうだな」
「たまらねえな。肉欲に溺れる奴がいるのも分かる。俺もお前に溺れそうだ」
 ペニスをしごき合った後に、清々しく笑いながら、そんなことを言われると、行為に没入することで去っていた、恥ずかしさも帰ってきた。つい、顔をしかめ、背けてしまう。
「何言ってんだ、お前は……」
「お前は気持ち良くなかったか?」
 ぼかさず聞かれると、余計に恥ずかしくなり、そこは察してくれ、と思うが、答えを待たれている気配があった。
「……良くなけりゃ、いけねえよ」
 心臓の働きがうるさく、胸が苦しい中、それだけ言うのに、随分苦労した。
「幸せ者だな、俺は」
 気配は、和やかだ。思いもよらない言葉の数々に、頭がおかしくなりそうだった。もう、おかしくなっているのかもしれない。綺麗だの、可愛いだのと、的外れな表現を使ってくる涼介も、相当頭がおかしいとは思うが、それに触れたいと、触れられたいと思う自分も、相当頭がおかしいに違いなかった。射精したのに、頭はどうにも不明瞭で、もう、何が何だか分からなくなってくる。始まりは、何だったろうか。今、何をしているのだろうか。
「さて」
 実直な声がして、気配が離れた。急に、漠然とした不安を感じ、中里は頭をもたげた。涼介は身を起こしていた。そして、そして、中里の両膝の裏に、それぞれ両の手を当てた。ぼんやりしている間に、そのまま胸まで足を上げさせられ、下着を脱がされる。開いた、剥き出しの股の間に、涼介の真剣な顔がある光景は、自分の頭がまだ、おかしくなりきっていないことを知らせるほど、ぞっとするものだった。
「ちょっ、おい」
 体を起こそうと、腕と腹に入れた力が、すぐに抜けた。尻に生じた、むず痒さとこそばゆさが、全身を弛緩させた。刺激に堪えかね、収縮する筋肉を動かし、腰を引こうとするが、足を抱えられ、阻まれる。何が起こったのかは、すぐに分かった。舌が、そこを、舐めているのだ。自分の尻の穴を、涼介が、舐めている。日頃誰にも、触れられない場所だ。舐めるような場所でもない。そこを、舐められている。尻を、つまり、狙われているのか。つまりこれは、セックスなのか。これからが、そうなのか。分からない。与えられる感覚は初めてで、奇妙で、思考を奪う。
「やッ……あ、あ」
 周囲がくすぐられ、覆われ、音を立てて吸われ、また、くすぐられる。その度に、声が勝手に出ていくので、中里は自分の口を、右手で塞ぎ、更に左腕をその上に、押しつけた。未知の世界では、我慢の仕方も分からない。排泄を促されているような、泣きたくなるような感覚に襲われ、拒みたいのに、中に入ろうとするそれを、止めるほどの力を入れられない。止めさせたかった。だが、あまりの刺激に、神経が砕け散って、体が半ば麻痺したようで、大きな動きを取れなかった。目すら、閉じられず、電灯の白さが、脳に突き刺さる。
 こんなの、ねえよ。
 思ったところで、止められない行為は続く。ようやく、舐められることに慣れると、今度はそこに、湿った指を入れられて、また未知の世界に引きずりこまれる。肉を、無理矢理割られているような痛みと、気色の悪い圧迫感が、胃が重く収縮させる。そこに、既知ではあるが、記憶が遠すぎて、未知になりつつある、ペニスを咥えられる快感までが、直接きて、神経はいよいよ散り散りになった。口を塞いでいても、鼻から声が漏れ出ていく。とんでもない状況だった。自分のものが、涼介に、唇で、舌で、手で、愛撫されて、尻の中は、その指に掻かれているのだ。問題だらけだった。だが、言えない。口を解放しても、出せる声で、言葉を作れるかは、怪しかった。ただでさえ、時間が経るにつれ、刺激に馴染むにつれて、増えた指まで入り込ませている尻の痛みは薄れ、そこから神経を強引につなげられたような、抵抗のしがたい快感が生まれていて、含まれたものも勃起している。もう、涼介の行為も、自分の声も、勃起も、何一つ、止めようはなかった。止められるのは、涼介だけだった。
「少し、我慢してくれ」
 わずかに上擦った、それでも低い声は、遠いとも、近いとも言いがたいところから聞こえた。触れているのは、右足を開かせてくる、手のみだ。ペニスも尻も、解放されて、ようやく中里は、口で呼吸ができた。体は息の仕方を忘れかけていて、浅いところでしか空気は行き来しないが、解放感は大きかった。今なら、何かは止められそうだった。だが、止められなかった。言葉の意味は、体が理解する。緩んでいた尻に、一塊のものを、ねじ込まれては、その痛みも、圧迫感も、我慢するしかなかった。体が理解してしまうのだ。それが涼介の、再び昂ったもので、自分が涼介に、深いところまで入り込まれているのだと、体が理解してしまうと、痛みも不快感も消えないのに、抜いてほしいとも、思い切れなくなってしまう。抜かれたくはないと、尻が勝手に力を加減する。だが、少しの我慢で済むものではなかった。胃に加わる重みが喉まで上がり、全身が冷え、脂汗がにじみ、息の仕方は思い出せず、勃起は収まり、涙が流れた。
「中里」
 呼ばれて開いた視界はぼやけており、白さが強く、影は濃かった。それでも白く映る、涼介の肌を染めるほのかな赤は、鮮やかで、体が少し、熱を取り戻した気がした。
「苦しませて、すまない」
 気遣いが、その顔に、声に乗り、指に乗って、中里の額を滑った。前髪が掻き上げられて、梳かれ、撫でられる。それで、喉にまで上がった重みが、胃に落ち着き、息の仕方も思い出せた。中里は、深呼吸をした。内に入り込んでいるものが、少しも動かないだけに、その存在が強く感じられ、言葉を作らないと、変な声が出ていきそうだった。
「……そこまで、別に、気にするな」
 気持ち悪さからいえば、気にされないのも困るが、まだ我慢はできるので、謝られるのも困る。一応、他意がないことを示すように、見上げながら中里が言うと、曇らせていた顔を、涼介は、ゆっくりと晴れやかにし、笑った。楽しそうで、嬉しそうで、満足そうな、笑顔だった。入れられている、動かないものを、余計に強く感じさせる、涼介の顔だった。気を紛らわせようと、中里が適当な言葉を出す前に、そして涼介は、明瞭な声を出した。
「なあ中里、俺はお前が勝ったという話を聞いて安心したが、振られたという話を聞いた時にも、安心したんだぜ。そして思った、どういうことだとな。失恋はおおよそ不幸な出来事だ。ならば俺はお前が不幸になって安心したのか、そこまで俺はお前に悪感情を抱いていたのか? 俺は俺を疑い、疑問は俺を内省へと導いた。この二日、初めてお前に秋名山で会った時から現在に至るまで、お前に関わる自分の心理を、洗いざらい吟味したよ。おかげで、それまで漠然と抱いていた感情の、答えを出せた。出せてしまったが最後、俺はまさしくお前のことしか考えられなくなった。俺はお前が不幸になって安心したんじゃない。お前が誰のものにもならなかったから、安心したんだ、中里。俺はお前に、恋をしている」
 口調も、言葉も、明瞭だった。口を挟む余地もなかった。おかげで、その明瞭な話を聞いている間、ひたすら涼介のペニスを尻の中で明瞭に感じることになり、中里は、気が触れそうになった。
 ここまできたら、何か、もう、察してくれ。
 思ったところで、割り込めない話は続く。
「だから、お前に好きだと伝えられて、お前がそれに応えてくれて、今、こうやって俺を受け入れてくれていることは、恐ろしいほど幸福だ。体感してもいささか、非現実的に思えるほどに。何もかもが、本当で、最高だからだろうな。どこかで夢じゃないかと疑っちまう。俺もここまで自分が臆病だとは、思ってもみなかったんだが」
「涼介」
 余地がなくとも、口を挟まずにはいられなかった。限界だった。涼介は、声を止めた。中里は目を閉じて、上げた右手に触れたその腕を、掴んだ。
「動け」
「どうした」
「いいから、動け、早く」
 じっとされていると、自分が動いてしまいそうだった。涼介を確かめるように、腰を揺すってしまいそうだった。だが、涼介は、止まったままだ。つい、その腕を掴む手に、力を入れていた。
「頼む」
 声を、低める余裕もなかった。現状を、とにかくどのようにでもいいから、変えてほしかった。世界の影が消え、白さが戻る。
「分かった」
 了承は、簡潔で、万能だった。すぐに、足を抱えられ、動かれる。その方が、より深く、強く、存在を感じさせられるのだと、気付いた時には遅かった。中里は、声を上げていた。
「ぐ、う……う、あッ」
 一定の間隔で、体内を圧迫され、毛穴が収縮し、拡張して、嫌な汗が肌に浮き出る。その不快さも、涼介のものに、涼介に与えられていると感じれば、我慢するしかなかった。涼介は、丁寧に、単調に、入り込む。その息遣いすら単調で、しっかりと動かれているのに、静けさが伝わる行為だった。それが変わらない分、変わっていく自分が際立った。つながっている部分から、熱が生まれ、体内にこもり、汗は、体を冷やすことなく、肌の上をただ流れていく。筋肉を緊張させる不快さを、熱が融かして、曖昧なしびれに変えていく。正確に、同一に押される度に、しびれが快感に変化して、内臓が緩んだ中で、変わらない涼介を感じ、我慢はできなくなる。もっと、変化がほしくなる。もっと、快感がほしくなる。中里は、目を開いた。電灯の白さが眩しく、頭を上げ、自分の足の間に構える、涼介を見る。途端、目が合い、上気しながらも、白さの残る顔で、穏やかに、艶めかしく微笑まれて、体が震えた。
「最高だよ」
 その声が、波となって、粘膜を刺激した。自分の勃起がそれで意識され、息が止まりそうになって、掴んだままの涼介の腕を、中里は引いた。涼介は抵抗せずに、上半身を寄せてきた。それで動きが変化して、感覚も変化する。ぞくぞくしながら、左手で、涼介の頭を、引き寄せた。涼介はやはり、抵抗しなかった。その唇が、舌が、先ほどまで自分の局部に触れていたと、分かっていても、触れずにはいられなかった。唇を吸い、舌を伸ばせば、強く引き出され、爪先が反る。両手を、その頭に回して、貪るようにキスをした。そうしながら、今度はじっくり突かれ、腹から胸を撫でる掌で、乳首をかすられ、二の腕があわ立ち、力が抜け、舌がもつれ、涼介の顔が離れていくのは、止められなかった。
「はあッ、あ……」
「可愛いぜ、中里」
 間近で言われ、ぼやけた頭で言葉を飲み込む前に、鎖骨に溜まっていたシャツを、一気に脱がされる。ようやく言われた中身を理解して、かっとなり、怒鳴るために開いた口からは、首に吸いつかれて、高い声しか出なかった。首から鎖骨、胸へとかけて、吸われ、舐められ、歯を立てられて、また吸われる。怒る機会を逸し、舌はもつれたままで、舌打ちもできない。涼介は、動くのをやめたまま、動く。長い体を器用に折り曲げて、手で片方の乳首をこすり、舌で片方の乳首をねぶる。その頭を、胸から離してやりたいのに、二の腕がむずついて仕方がなく、ろくに手を使えない。尻は勝手にひくついて、少しでも強い刺激を得ようとする。熱が、快感が溜まるばかりで、出口がない。勃起したまま放られている、自分のものをしごいてやりたいのに、被さる涼介の体が邪魔だった。
「りょう、すけ……」
 震える手を、その肩に置いて、中里は、縋るように名を呼んだ。いい加減、察してほしかった。だが、動かれず、動かれる。分かったと言ったのは、何だったのか。途中でキスに走った自分が悪いのか。もう、何が何だか分からなくなってくる。これは何だろうか。セックスだろうか。セックスなら、いい加減、この、気が触れそうなほど積もっている快楽の、出口を作ってほしい。いつの間にか溢れそうになっていた、唾液を飲み込んで、中里は、泣きそうな声で言っていた。
「ちゃんと、してくれ、涼介」
 胸を這っていた舌と指が離れ、涼介の顔はすぐ、目の前に現れた。不思議そうに、覗き込んでくる。
「ちゃんと?」
「もっと……」
「もっと、何だ」
 出口がほしい。終わらせてほしい。この男に、終わらせてほしかった。
「もっと、滅茶苦茶やって、いかせて、くれよ」
 見上げたまま、嗄れた声で言うと、涼介は目を細くして、何かを探すように天井を見上げてから、不思議そうなままの顔を、戻した。
「そんなにやっていいのか?」
 言葉にするのも厄介で、中里は何度も頷いた。そうか、と一つ頷いた涼介が、さっと破顔する。
「それは何よりだ」
 ただ笑いかけられただけで、わなないたのは、終わりが期待されたせいかもしれないし、それを恐れたせいかもしれなかった。痙攣した頬に口づけられて、こめかみに唇が留まる。そのまま肩を背側から抱えられ、動かれた。一定でも、単調でも、丁寧でもなくなったそれは、力強く、滅茶苦茶だった。皮膚が破れ、肉が裂け、骨が砕けそうなほど、激しく突かれ、しっかり抱えられ、逃げることもできず、中里は涼介の背に縋りついた。その荒くなる息遣いを、耳の近く、肌で感じると、勢い、快感が深まる。時に、休むように緩められて、自分から動いてしまうのを、止められなくなった。動きも声も、何もかも止められなくなって、ようやく、出口が見えそうだった。終わりに届きそうだった。
「あッ、あ……はあっ、あっ」
「中里……」
「ひうっ……」
 深く近しい声は、安らぎよりも、興奮を、全身に広げる。耳から、首筋から、熱い波が、全身を駆け巡る。目を閉じても開いても、映る世界は真っ白で、もう、何が何だか分からずに、何度も何度も名前を呼んだ。
「好きだよ」
 囁かれ、体が震え、熱が弾けて、中里は射精した。そのまま、涼介が達するまで、束の間、狂った。

 水道水が、うまかった。仰向けのまま、むせずにコップの水を飲み干した。干からびかけていた細胞が、潤った気がした。一つ息を吐いて、空になったコップを、ベッドに腰かけながら、こちらの様子を窺っている涼介に差し出す。
「随分喉が渇いてたんだな」
 コップをしげしげと見ながら、涼介が言う。中里は、色々な言葉と思いを、唾と一緒に飲み込んでから、まあな、と言った。コップから目を戻してきた涼介が、近しい声で尋ねてくる。
「もう一杯飲むか?」
「いや、いい。大丈夫だ」
 喉の渇きはひとまず引いた。後は起きてからだと考える。寝たままではやはり飲みづらいし、飲ませてもらうという選択肢は、提示された段階で、ないものとした。もう、何もかもは分かる状態だった。始まりも、終わりも、その間も、何もかも覚えていて、分かっている。やったのだ。セックスをした。涼介とだ。好きだと言われて、好きだと思って、好きだと言い返して、キスをして、セックスをした。高橋涼介と、やってしまった。いや、この状況は、やられてしまった、と言うべきだろうか。これは、尻を捧げたことになるのだろうか。だとしたら、尻を捧げるなど、冗談で言うものではない。終わってから数十分は経っているはずなのに、まだ体をうまく動かせない。尻は痛く、腰は重く、手足はだるい。尻などは、本当に好きな相手に以外、捧げるようなものではないのだ。そんなようなことを考えて中里は、自分の考えの究極さのため、呆けた。
「俺としたことが、今日は計画性を失っていた。お前には相当無理をさせてしまったな。次は、安全を確保してから挑まなけりゃならない」
 後悔の染みた涼介の声が、現実を呼んだ。我に返り、次、と思う。こんなことに次があっては、たまらないように思え、呟いていた。
「次って、いつだ……」
「再来週の、頭あたりなら俺は都合が良い。お前の都合は、悪いかもしれないが」
 呟きに、正確な返答があるのも、たまらない。涼介は、穏やかだ。落ち着いている。終えたからといって、なおざりにせず、気にかけ、しかし構いすぎることはない。余裕がある。自分の初体験を思い出すと、雲泥の差がある対応力だった。たまらなくなって、また、中里は呟いていた。
「……本当に、童貞だったのかよ……」
「そうじゃないなら、もっとお前に優しくしてやれたさ。やはり、イメージトレーニングは必要だ。溺れたままでも息継ぎができてこそ、円滑なセックスも可能だということが、つくづく分かったぜ」
 んなこと分かって、どうすんだ。
 それにまで正確に返答されると、どうにもたまらくなりそうなので、話を戻すことにした。
「悪くないぜ。その、都合は」
 予定を思い出しつつ言うと、若干渋い顔になっていた涼介は、険を消し、真剣さを浮かせた。
「嬉しいよ。次があるのは」
 手を伸ばされ、頭を撫でられる。そのぬるさを、柔らかさを、優しさをぼんやり感じ、眠気を呼ばれる中、次、と思う。次があってはたまらないが、なければもっと、たまらないだろう。なくとも、死ぬというものでもないが、生きた心地はしないだろう。次が、ずっと続けばいいのだ。それを、何が何でも続けていけば、未来もずっと続くだろう。ずっと、一緒にいられるだろう。
「俺もだ」
 視界はよく利いている。歪みのない涼介の顔が、鮮やかな笑みを作るのが、よく見える。見たら、力が抜けて、重いまぶたを、中里は閉じた。
(終)


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