コンフリクト
――決まった。
中里毅は満足感に浸っていた。ロータリー使いごときにGT−Rがハチロクに負けることを絶対とされておいて、何も言わずにいるのは男がすたるというものだ。言うべきことは簡潔に、十二分に言った。この上なく満足だった。
真実は明らかにされ、周知なければならない。指を突きつけても叫んでも平然としていやがる、この憎たらしいまでに秀麗な風貌の男に、結果の裏打ちのある理屈こそが通用するのであって、ただ頭の中でこねくり回している空想など、便所紙ほどの価値もないことを、バトルによって、『妙義ナイトキッズの中里毅』の勝利によって、教えてやろうではないか。
そうした決意を固めた中里は、啖呵を切りながら突きつけていた指を下ろし、あくまでも颯爽と帰ろうとした。こういった見栄は引き際が肝心だ。ぐだぐだになってしまっては折角与えた威圧感も存在感も水の泡である。
が、そう計算通りにいかぬのが世の常人の常、力を抜き、中里が下ろそうとした右手全体を、目の前のどう見ても美しい顔をした男の右手が捉えていた。
つまり、握手の格好である。だが距離は遠く、胸元あたりと位置は高い。ぎょっとして中里は男を見た。変わらず平然としている男は、握手の状態のままに、中里の手の甲を親指で撫でながら、だが平然と言うには鋭利すぎる目で見据えてきた。
「人を指差すのは失礼じゃないか、中里」
責めるような色などどこにもない、ただ事実しか提示しないような、無駄のない低い声だった。男の形の良い唇が開き、その声が耳へと防ぎようもなく染み入ってきた時、中里はそれでも、圧されずにはいられなかった。引きそうになる首を、固定する。こちらの手を掴んだまま、人の存在を丸々根こそぎ包含しようとする、いやらしい声の持ち主を睨み、凄む。
「お前が俺に言ったことを考えれば、失礼も互角だってことが分かるんじゃねえのか」
「なら俺はお前に優しい嘘を吐くべきだったのかな?」
白々しい顔で、白々しいことを言う野郎だ。いっそこの手を握り潰してやろうか、と中里は半ば本気で思いながら、ふざけるなよ、と唾を飛ばした。
「事実だろうが嘘だろうが、人つかまえて勝てねえだの負けるだの何だのとほざきやがったんだ、そんなこと言われて黙ってられる奴もいねえだろうがよ」
「いるかいないかはともかく、『お前は』その指を咥えて黙っていられはしない奴というわけだ」
体中の穴という穴の膜を撫で上げてくるような嫌な響きを持つ、男の声が煩わしい。そうだよ、と中里は会話を打ち切ろうと、掴まれている右手を離しにかかったが、その前に、ぐっ、と男の手に握り込まれていた。骨がみしりと鳴った気がして、思わず顔がしかまる。体は薄っぺらく見えるが、案外力がある男のようだ。不愉快でたまらず、中里はそれを利用して更に顔をしかめた。
「離せ」
「お前はあのハチロクに秋名の下りじゃ勝てねえよ、中里」
「あァ?」
「絶対にな。賭けてもいい。お前はあのハチロクには――」
皆まで言わせなかったのは、中里もまた相手の右手を握り締めたからだ。男の顔にしわが走る。その苦痛に歪んだ面でさえ端整さを損なわず、中里はこの男がこちらを侮辱することが腹立たしいのか、この男の存在自体が腹立たしいのか分からなくなってきた。
「おい、高橋涼介。調子に乗るのもほどほどにしとけよ、俺は生憎、馬鹿にされて黙ってもいられなけりゃあ、ハイそうですかって頷けるほど、温厚な人間でもねえんだ」
手を握り締めたまま言ってやると、男もまた不意打ちを食らって緩めていた力をここぞとばかりに込めてきて、そして突然その掴んだままの手を、引いてきた。手と相手の顔にばかり意識を集中させていた中里が、今度は不意打ちを食らった形で相手の陣地に引きずり込まれ、接触しかけたが、結局はその体と一歩も間がない距離で相対することとなった。どどっ、と心臓が唸る。見上げた先にある男は、しわを取った顔をしていた。
「おい、俺がお前を馬鹿にするなら、お前の勝利は疑いがないと褒め称えてやってるところだぜ」
中里は言葉を出すよりも先に眉間に力をこめ、目を険しくしていたため、男はその感情を即座に読み取ったらしく、声を続けた。
「お前が負けると言ったことをお前が馬鹿にされたと感じるなら、それはお前の勝手だけどな、俺にそのつもりはない。俺は俺が知る限りのお前の実力で、お前があのハチロクに秋名の下りで勝てるかどうかを判断しているだけさ。そこに感情は関与しない。俺はお前のことは、俺なりの誠意をもって捉えているつもりだ」
憤りのために顔も体も熱くなっていくことを、とても止められなかった。この男は何も分かっていない。そうして上から物を言うことこそ、人を下に見ているということであり、馬鹿にしているということなのだ。よほど自分が偉いと思っているに違いにない。怒鳴りつけてやりたいことは多々あったが、この話の流れではまたややこしい屁理屈をいやらしい声で唱えられるだけだと知れていたので、中里は相手の無知をなじるだけにした。
「てめえは何も分かっちゃいねえ、高橋涼介」
「へえ」
「俺が負けるなんてことが、ありえねえんだ。いや、GT−Rがハチロクに負けるなんざ、少し考えたら誰にでも分かる。可能性は、ゼロだ」
「よほど自信があるんだな」
掴んでいるのか掴まれているのか分からない右手が、いい加減熱と汗で気持ちの悪い感触を生み出していたので、あるさ、と中里はもう一度話を打ち切りにかかった。
「これで負けたら腹踊りでも何でもしてやらあ。分かったら、手ェ離せよ」
五秒経っても、期待していた筋肉と骨の解放は訪れなかった。その間じっと男を睨み上げていたが、男には一向に何をする気配もなかった。更に十秒経ってから、おい、と中里は多く苛立ちと幾ばくかの不安に駆られて、叫ぶように言っていた。
「お前、離せっつってんじゃねえか、高橋」
「腹踊り」
「あ?」
「つまりお前、自分が負けたら腹踊りでも何でもしてくれるんだな?」
弾力が見て取れる唇が綺麗に横に広がっていき、頬は適度な硬さを生み、切れ長の目は柔らかく細められる。ぞっとするほど陰惨で、妖艶な笑みが男の顔に乗せられていた。中里は、唾を飲んだ。墓穴を掘っていたことへの自覚からくる焦りよりも、得たいの知れない恐ろしさに、全身が麻痺しかける。その存在から受ける圧力に抵抗することだけで手一杯で、中里はそれまでの思い切りの良さを失った。
「……お、お前がしろっつーなら、そりゃ……負けるわけねえし」
「何でも?」
「負けねえよ、俺は」
「俺の言うことを何でも聞いてくれるわけだ」
「負けねえって、俺は負けねえっつってんだろ、ハチロクには」
「なら、今のうちに俺の機嫌を取っておいた方が得策だと思うぜ」
「だから負けねえんだよ、俺は!」、と中里は叫んでいた。正直あのハチロクはハチロクといえども手強そうでもあったが、ここまで迫られて負ける可能性を少しでも認めてしまったら、バトルの際の気合に関わってくるし、何よりみっともない。この男が何と言おうが、敗北などは一分の可能性もないのだ。ありえない。全く一切ありえない。
歯軋りしながら睨み上げても、男は完璧な笑みを保ったまま、なるほど、とどこか愉悦を含めて頷くのみだった。何だこいつ、何なんだ。怒りやら苛立ちやら不快感やら気持ち悪さやら緊張やら焦りやらがこんがらがって、中里は相手をぶん殴りたくなってきた。大体がこの目の前にある無意味に整った顔がもういけない。見ていると何か臓腑がたぎってきて、次々生まれる感情を加熱させるのだ。腹立たしいことこの上ない。中里は握った男の右手に最大限の力を入れた。男は笑みを消したが、その顔にしわが走ることはなかった。
「なら、その自信通りにバトルが運ぶように――」
男は言うと同時に、顔を寄せてくると、すぐに離れ、そして驚愕のために力を抜いた中里の右手からも離れ、
「頑張ってみせてくれよ」
と、最後に今までにないほど軽やかで楽しげな、そして人から抵抗力を失わせる艶やかな笑みを浮かべると、さらりと身をひるがえし、白く輝くようなFCに乗り込んで、無駄な動きもなく峠を下りていった。
――高橋涼介。
赤城の白い彗星。赤城レッドサンズのメンバー。とてつもない走り屋。高橋兄弟の兄。ロータリー。FC。人気が高い。その男に関連する言葉が勝手に浮かんでくるが、弾力を感じたような気がする己の唇に指を当ててみても、双方現実感に欠けていた。何かは起こった。だが、それが何を意味しているのか、中里には考えるだけの余裕がなかった。なぜなら先刻の男とのやり取りだけであの秋名のハチロクとのバトルに、様々なものがかかってきてしまったからだ。勝たねばならない。勝たないと、やばい。でもバトルだ。とりあえずバトルなのだ。バトルがしたい。バトルがしたいからするまでで、勝つのは当然であって、勝てばこそあの男をぎゃふんと言わせられるものだから、しかし勝たなければやっぱりやばい。これはやばい流れだ。いや勝つに決まっている。負けるはずがない。そうだ、Rが負けるわけがねえ、と中里は思い、実際それを呟いてみた。なかなか頼り甲斐のある言葉だった。
「誰が負けるかよ」
独り言というのは、自分に効果的だ。あの男に害された気分が上向いてくる。もう少し走り込んで、バトルに備えよう。くだらねえ、負けるわけがねえだろ、と一人笑いながら中里は愛車に乗り込んだ。
「大概しつけえよな、あの野郎も」
発進しかけて、一人の笑いがその自分の発言で止まってしまったのは、あの男のもたらしたらしき感触がよみがえったためだった。何かむずがゆくなってきて、唇を右手の甲で拭う。その手にずっと触れていた熱と汗と痛みも思い出されて、全身までがむずがゆくなってきた。気分を切り替えるためにギアを入れ直し、ステアリングを両手で握り締め、ため息を一つ吐く。
「金持ちってえのは、まったくよく分かんねえ」
貧富の差という人格の判断基準はあまり持ち合わせていないが、中里はそれを敢えて持ち出すことによって、その男に対する己の思考を打ち切った。そうして走り出してしまえば、一切は無である。途絶えた限定的な思考が再開されるのは、秋名のハチロクとのバトルが終わった直後からとなるが、それまで中里は自分に不利な条件が設定されていることも、勝利の権力と限界の刺激を求める強欲さにも気付かず、ただ純粋な期待と情熱だけを精神から肉体へと大きく取り出して、気を張るのみであった。
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