コンフリクト
派手にスピンしたスカイラインをかわした後、涼介はFCのスピードを緩めた。一方先を行くハチロクは停まる気配もなく、あっという間に闇の向こうへ消えた。負かした相手を一顧だにしないとは、先の運転からも察せられたが、ドライバーは相当太い神経を有しているようだ。観察をそこで終了させ、後ろから車が来る予兆のないことを確認した涼介は、迷うことなく上りへとFCを回頭させた。すげえな、と感嘆ばかりをしていた助手席の弟が、うおッ、と驚愕した。
「え、何、どうしたんだ」
「FDを放っておくつもりか、お前」
「あ」
綺麗に立てられている髪は回避しつつ頭に両手を当て、忘れてた、と深刻な声を上げた弟を乗せたまま、涼介は頂上へ車を向けた。
「だってアニキがいきなり出るからよ、あんなバトル間近で見せられちゃあ参るぜ俺も、マジで」
言い訳の色を含ませながらも、弟は明瞭に言う。確かにハチロクとR32のバトルは見ごたえ十分だった。結果だけ見れば、涼介の予想通りに32がアンダー傾向を制しきれず自爆した形だが、敢えて――32のドライバーのバトルへの情熱を考えれば、あれはミスではないだろう――ストレートでマージンを稼がなかった32が演出した、多彩なコーナーにおけるハチロクとの攻防は、ハチロクの神懸り的な技術を呼び起こし、肌を震わせる興奮を呼んだ。
ありきたりな結果に至るまでの、尋常ではない過程、容易ではない追走をなした涼介の心は、分析への期待に浮き立っている。弟には大きく察せられぬよう高揚を抑えつつ、良い機会だと思ったからな、と涼介はその動機を端的にまとめた。「ハチロクを観察する」
「前から考えてたのかよ」
「さあな」、と涼介はとぼけた。決して思いつきではないが、好奇心のままに車を出した面もある。思考と欲望の連結を計算と言うのは、ためらわれた。
「さあな、ってなあ」
問いをかわされたと感じたのか、不満そうに啓介は言い、しかしその先に意味を持つ言葉を続けなかった。
「あ」
上がったのは、驚きの声だ。視界の先にようやく見つけたのだろう、路肩に退避している黒い32と、その右後方にしゃがみ込んでいる、黒髪の男。
涼介は迷わずその後ろにFCを滑り込ませた。
「え、アニキ」
「ちょっと待ってろ」
「おいアニキ」
弟と訝りと焦りの声は車内に閉じ込め、涼介は車から降りた。風は生ぬるく、肌に残る汗を冷やし、体温を下げていく。排ガスの匂いが満ちる中、FCのライトを頼りにするまでもなく、目と鼻の先に見えるR32に、涼介は歩み寄った。その右後方にしゃがみ込んでいた男は、涼介の影を前面に受けながら立ち上がっており、直線的な容貌の全面には動揺を表していた。
「堪え切れなかったか」
あと一歩という間合いを取って、挨拶も何もせずに涼介は言った。32のドライバー、中里は、意味を解せぬように目を瞬いた。
「何?」
「フロントタイヤがもたなかったんだろう。お前の走りはそういう走りだったからな」
涼介の言葉を聞き、中里は眉をひそめ、睥睨してきた。分かったような口を利くな、とその太い目は言っているようだった。単純で、明快だ。睨まれているというのに胸がすき、涼介は中里の視線を、ただ受け入れた。やがて中里は眉間に力を入れることに飽いたような、そうする意義を疑ったような空白を漂わせ、ため息を吐いたのち、深刻さといじらしさの潜んだ声を出した。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだ、クソ、負けちまった、完璧に。でも気分は悪くねえ。あのハチロクとバトルをできたってことが、一つ幸せだぜ」
言って中里は、爽快感に満ちた笑みを浮かべた。折り合いとも割り切りとも違う、真摯に走り抜いた男だからこそ見せられる、敗北の許容。それを受けている自分が、それを与えたわけではないことに、涼介は卒然強い隔たりを感じた。だから咄嗟に中里との間合いを半歩埋め、それからとってつけたように「なるほど」、と頷き、隔たりを消す要件を現実に示した。
「それで、俺との約束は覚えているか?」
中里の笑みが消えたのは瞬間で、迷い子のように情けなく顔が緩んだのも瞬間で、ゼロとゼロが重なり、疑念と躊躇のみが残った。
「覚えてるぜ、けど、俺に何をしろって言うんだ、お前が。俺がお前のためにできることなんて、そうそうないと思うけどよ」
先日秋名山でこの男に会った際、ハチロクに負けたらこちらの言うことを何でも聞く、という言質を取っていた。計算しての行為ではない。あまりに負けない負けないと意地を張る中里を見ていたら、揶揄をするだけで愉快になってきて、勢いが出た。我慢をする必要も感じなかった。悪意を持てなかったからだ。ただ、楽しかった。今も、戸惑った目をちらちら向けてくる中里を見下ろしていると、幼稚な欲望が胸にのぼり、冷えた体を温める。からかい通してやりたくなる。単なる口約束と言えど、それを結ぶまで意地を張る男だから、無下にもできないだろう。敗北をもってして、自慰のためではない笑みを浮かべられる男だ、真剣にものを頼めば何でもやるに違いない。やらざるを得ないに違いない、それが分かる。相手を感じたのは短い時間。だが、直感は涼介に直観としての確信をもたらす。中里毅とは、そういう男のはずだ。
そういう男に真剣になるならば、迂闊なことはできない。それも分かる。もしも一つ行動を違え、そのたった一つの誤り正そうとしたところで、過ちの道は消しようもないほど早く、深く、遠く刻まれていくだろう。錯誤すらも見届ける覚悟を、自分が持っているか否か、涼介には判断がつかなかった。時期は、尚早だった。
「そろそろ交流戦をしよう」
「あ?」
意外そうに目を瞬いた中里へ、肩をすくめてみせてから、涼介は冷静に述べた。
「レッドサンズとナイトキッズの交流戦だ。俺があのハチロクとバトルをしてからになるけどな」
言い終えると、間があった。訝しげな視線をしばらく向けてきてから、中里は窺うように言った。
「それだけか?」
とりあえずは、と涼介は返した。まだ何かあるのかよ、と中里は眉をひそめる。
「あるかもしれないし、ないかもしれねえ」
「何だそりゃ」
「お前の行動次第だぜ、中里」
この男が自分に何をもたらすかによって、のちの行動は定まるだろう。機が熟すのか、熟すような機はそもそもないのか、覚悟は生まれるのか、この程度の会話で浮かれているだけで終わるのか、すべては自分のみでは決定できないことだった。
「分かんねえ奴だな、お前は」
中里は、何とも嫌そうに言った。涼介は軽く笑うだけにした。
「俺とあのハチロクとのバトルが終わったら、正式に話を詰めよう。よろしく頼むぜ」
ああ、と頷いた中里が、顔に深刻さを浮かせ、意味深長に声を低めた。
「ハチロクに負けた者同士の争いになるかもしれねえけどな」
その言葉は、涼介を迷わせ、顔を強張らせないような笑みと、棘の混じった声を演技として作ることを強要した。
「俺が負けると思うか?」
「俺にはハチロクが負けると思えねえんだ」
「俺が勝つことはないと」
「そんなんじゃねえけど……でも、俺はあいつに勝ってほしいぜ」
視線をよそにやった中里が、頬で皮肉を強調したがりながら、しかし柔らかさと優しさを口元に乗せた。すべての背骨の間に、緩いアスファルトが広がる錯覚を涼介は得た。熱く、黒く、重く、粘ついているもの。その粘着が、俺が勝ったら、と口にさせようとしたが、走り屋たる高橋涼介は背を伸ばし、錯覚を潰した。だが黒く重い粘つきは消え去らず、背中全体に染み渡り、冷え、固まった。個人の高橋涼介が、妬けるな、と呟くのまでは抑えられなかった。
「あ?」
中里はよそから涼介に顔を戻し、意味を解せぬように顔を歪める。率直な感情の露呈。誰への思いも体面は隠せていない。下手な演技をした自分が、それを疑問にも感じていないような中里が、その中里に感情をかき乱されている自分が滑稽に思え、涼介は、苦笑していた。それを見て、一層中里は顔を歪める。
「何だよ。馬鹿にしてんのか?」
「してるとしても、そっちじゃねえな」
「はあ?」
不可解そうに、中里が顎を突き出した。つられるように、その顎に涼介は指をかけた。迷いも覚悟も立ち入らない、自然な行いに感じられた。顔を寄せ、唇を触れ合わせて、すぐに舌を差し込む。びくりと中里の体が揺れたが、接触は絶たれなかった。中里の目は固く閉じられており、まつげが震えていた。舌は涼介の舌から逃げたがり、その動きで自らを窮地に追い込んでいた。角度を変えないキスは短く終わる。だが、唇が離れてすぐに手で口を拭った中里の息は、上がっていた。FCのライトは涼介の背に当たっており、中里は逆光のままだ。暗がりに、それでも皮膚の薄い目元の赤らみはよく見えた。黒く重い粘つきが、背中で燃える想像が、実際に涼介の体を熱くした。
「……何のつもりだ、高橋、涼介」
かすれた声で、中里が言った。戸惑いと怒りの表された目、声。涼介はそれをただ許容し、笑った。
「挨拶だよ」
「あい、サツゥ?」
「じゃあ、またな」
手を挙げ、背を向ける。ガソリンが気体に変わる音が響く中、耳は後ろで人の呼吸音を聞き分けたが、声は拾わなかった。
「……あのさあ」
FCのドアを開けて運転席に乗り込み、発進して数分経てからようやく、車内に閉じ込めておいた弟は、腑抜けた声を出した。
「どうした」
「何やってたんだ、アニキ」
「交流戦の打ち合わせだ」
弟の純粋な問いに、涼介は不純に返答する。
「……それだけ?」
「ああ」
「……ふうん」
鼻で言った啓介の顔を横目で見ると、不服そうながらも、追究するという選択肢は持たないようだった。理解しえないことに、執着するか切り捨てるか、啓介は即断する。本能だろう。決定に際するよりどころがほとんど感覚であるのは、兄弟同じらしい。
「ナイトキッズとやんのかよ」
つまらなそうに、啓介が呟く。この弟のGT−R嫌いもまた、おそらく本能だ。それだけに盤石であり、いかなる理屈も通しはしない。兄弟として理解しながら、涼介は不意にステアリングを握る自分の指に余分な力が加わっていることを感じて、軽く息を吐いてから、弟との会話を組んだ。
「あのハチロクが出てこなけりゃ、行うはずだったからな」
「アニキが出るのか?」
純粋な問い。それに純粋に答えようとして、涼介は再び軽く息を吐き、僅かに間を空けた。
「今の中里相手なら、お前で十分だろうよ」
「そうか?」
「自信がないか」
水を向ければ、啓介は両手を頭の後ろにやって組み、大胆に笑った。
「んなことねえよ。GT−Rごときに俺が負けるか」
灼々たる弟の笑顔に、涼介は続けるべき多くの言葉を腹の中で失い、ただ、そうだな、と同意を示した。時間はある。どうにでもなる。俺が、どうにでもする。
ハチロクに負けた者同士の争い。
その通りだ。啓介はハチロクに負けている。中里もハチロクに負けた。肯定は、嘘ではない。ただ、真実を告げなかっただけだ。
中里。俺はお前とは、争わないよ。
声にせず、口の中で呟くと、脳があの男の深刻な顔を目の裏に焼いて、背中に剥ぎ取れぬ熱を、涼介は感じた。それはおそらく、二度とそれを受けない自分から、次にそれを受けるだろう人間への、嫉妬だった。
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