写真 1/2
中里毅は日産スカイラインR32GT―Rを駆る走り屋であり、妙義山をホームとする走り屋集団妙義ナイトキッズのリーダー格でもある。
チームにおいては指導者として正式に認定されているわけではないが、妙義屈指の運転技術と溢れる男気により、メンバーからの絶対的な信頼と、揺るぎない発言力を勝ち得ていた。
栃木から遠征してきたエンペラーとのバトル後、一悶着あった末にチームに団結が生まれるまでなると、そんな中里のもとに走りに付随する相談を持ちかける人間も出現し始めた。他の走り屋とのいざこざや事故の対処、板金や塗装、なぜかその日の天気に関するまで、相談の種類は様々だ。箱根の島村栄吉を退けた後はなし崩し的に、その傾向が強まった。
そんな己の立場を、俺はひょっとしてリーダーってよりも便利屋として見られてねえか、と中里が訝り始めた頃のことである。その日、峠にて野村という角刈りのメンバーが携えてきた相談事は、中里の便利屋としての立場を確定するほど例を見ないものであり、またそこから始まる事態は誰もが想像し得ないものとなる。
その相談の切り出しは、中里の思考に数拍の空白を与えるほど頓狂であった。
「写真が、欲しいんすよ」
野村は顎を引き、無骨な顔に似合わぬつぶらな目で中里を窺うように言った。
相談内容を把握できず呆けた顔で、写真、と繰り返した中里を、履いている黒のジャージで両手をぞんざいに拭った野村が、上目遣いでこわごわと見た。
「赤城の、レッドサンズの、FCの高橋涼介の、っす。ほら、赤城の赤い彗星」
「白い彗星だろ」
面倒くさそうに訂正したのは、中里の隣で値踏みするように野村を見ていた、染めた長い前髪と加虐趣味を思わせる顔貌とやたらと回る舌を持ち、赤いホンダシビックEG―6を駆る、庄司慎吾だった。
チームに入った当初から中里に対してなぜか敵意を剥き出しにしていた庄司慎吾は、中里が結果的に昔の雪辱を晴らした箱根での島村栄吉戦以降、意固地な態度を気が抜けたように軟化させていた。慎吾の心境の変化を中里は、俺の勇姿に一目置いたんだろうと解釈しており、また慎吾は中里のその盛大な勘違いに気付いていたが――単に無駄に意識をするのが面倒になっただけだ――、わざわざ言い立てることもしていなかった。それは無関心ではなく許容である。触れれば切れるような緊迫は二人の間から減衰しており、今では大して意味のない世間話を交わすようにさえなっている。
その日も中里と慎吾が二人、取り留めのない言葉を重ねていたのだった。そこで勇壮なような悲愴なような空気を背負った野村が入り込んできて、頓狂な切り出しをして、高橋涼介の通り名を間違えて、慎吾にすげなく訂正されて、今にいたるわけである。
野村は、あ、と焦ったように首を掻きむしり、震えている口を開いた。
「いえ、その高橋涼介がっすね、縦にこう膝くらいまで入り込んでて、FCに寄っかかって哲学者みたいに考え込んでる構図ってのが、どうっしても早急に必要なんです。いや写真だけならいいんすけど、ネガも必要だってんで、俺もう困っちまって」
野村はすがるように中里に言った。中里は不可解さのためゆっくりと首を傾げ、眉間にしわを寄せた。
「それはよ野村、お前が撮りに行きゃあいいだけの話じゃねえのか」
「それはもう、行ったんすけど……ムリっした」
具合が悪そうに言った野村が肩を落とす。中里は眉間のしわを深くした。
「ムリったってお前、写真撮るくらいどうにかなるだろう。そんなに必要なら土下座するなり何なりよ」
「そういやな」
気だるげな慎吾が、唐突に気だるげな声を上げた。中里が顔を向けると、慎吾はどこか大仰な調子を作った。
「俺の知り合いも、高橋涼介の写真撮りに行ったことあるぜ。何でもマニアの間で高く売れるらしいってんでな、小金稼ぎだな」
あいつは芸能人か、と顔をしかめた中里に、どうだかな、と慎吾は興味もなさそうに肩をすくめ、話を続けた。
「そいつ、絶好の位置を確保したまでは良かったんだけどよ、追っかけだかに分をわきまえろってことでボコられてな。それでもめげず近づいていこうとしたら、取り巻き連中にフクロにされて叩き帰されたってよ。一週間顔腫らしたままだったぜ」
何でもないように言った慎吾は、まあ、と鋭い目で傷跡一つない野村の顔を見た。
「ホントに撮る気あんなら、そのくらい当然のことだよな」
「お、俺は怪我したってよかったんすよ」
心外だというように語気を荒げた野村を、へえ、と相変わらずの鋭利な刃物のような目で慎吾は見据えていた。
それでも野村は悲しげな面持ちで言うのだった。
「でもね、俺多分、高橋涼介前にしたって、カメラのシャッター押せないんすよ。何かもう、遠くから見ただけでフンイキに呑まれちまって、近づいたら、写真撮るとかそんなん吹っ飛んじまいます。俺みたいなヤツとは住んでる次元が違うんすよ、高橋涼介。俺も、そのくらいの身の程、わきまえてます」
そうして野村は悲痛なため息を吐いた。
つまり野村は、高橋涼介に尋常ならぬ畏怖の念を抱いているわけだ。
確かに赤城山をホームとする赤城レッドサンズの高橋涼介という走り屋は、現役を引退した今においても、伝説を生々しく語り継がれるほどの男である。とかく速い、顔良し、頭良し、体良し、金持ちだ。欠点という欠点が見当たらない。だがあの男だってプロというわけでもなければブラックジャックでもないし、アラブの大富豪でもないのだ。そこまでへりくだる必要もねえだろ、と中里は思う。
しかし、野村は高橋涼介は絶対者であると刷り込まれているようだった。元々噂に振り回されやすい気質の男だ。おそらく他の人間が誇張した話から妄想を膨らませ、高橋涼介は途轍もない偉大な走り屋で人間であると思い込んでしまったのだろう。可哀想だが、改善の余地はあるまい。
そんな勘違いが元でこれだけ悲愴な面持ちでいられると、高橋涼介の写真を撮るくらいならば、まあいいだろう、と中里も同情の念を抱き出してしまった。しかし、そもそもそこまで震え上がっている野村が、高橋涼介の写真を撮る必要性が、どこにあるというのか?
「お前、何でそんなに高橋涼介の写真が欲しいんだ。叩き売りするつもりかよ」
中里が動機を問うと、顔に色を戻した野村が、
「女が」
と呟いた。女?、と素っ頓狂な声を上げた中里を、野村は気まずそうに見ながら、とつとつと語った。
「いや、結構イイ感じになってる女がですね、走り屋好きで、高橋涼介の写真一週間以内に持ってったら、デートしてくれるって約束してくれたんすよ。さっき言った構図限定で、ちゃんとネガつけて。でもデートしてくれるとかより、俺、マジその子好きで、欲しいんだったら手に入れてやりたいんすよ。どんな手使ってでも。でも使った手は俺は正直に、言うつもりっす。だって、俺がやったんじゃねえのに、評価されるなんて、嫌っすよ」
手段を構わない野村のやり口に中里は道義的な反感を覚えたが、心意気には感心した。己の体をいとわぬほどに惚れているのならば、同じ男として手助けするにやぶさかではないな、と考える。つい先日島村戦の折、碓氷の沙雪に早合点の思い込みを淡々と訂正された、もとい失恋を経験した中里にしてみれば、恋に身をよじらせる男の気持ちは十二分に理解できた。更に野村は中里の実力を認容し、頼っている。元より重圧に弱いながらも、おだてられれば月まで飛び出しかねない気質の中里であった。弱い立場の人間から頼られれば無下にできない義侠心を持っており、高橋涼介に無駄に怯えている野村を可哀想に思う保護欲も持っている。
それが己の立場を徐々に便利屋へと変質させていることに現時点で気付いていない中里は、よし、と首を前に垂らしている野村の肩を、一つ叩いた。
「そこまで言うなら、俺がやってやる」
「いいんすか!」
濃い満面を爽やかな笑みとした野村に、おう、と力の入った顔をしている中里が一度頷いて、二人の間に兄貴と舎弟的雰囲気が流れた時、
「まあ待て」
と悠然とした慎吾の声が割ってきた。中里も野村も意表をつかれて慎吾を向いていた。慎吾のぬらぬらした目は野村を捉えていた。野村はその薄気味悪い目に怖気づいたらしく、不安に色づいた顔で、口を閉じ顎に力を入れていた。
「野村」と軽い声で慎吾が言った。
「別にこいつに頼まなくたって、女の気ィ引くだけなら手段はあるぜ」
野村が顔を強張らせる。慎吾はそれを確認してから、軽々と続けた。
「俺がお前を一週間、殴り続ける。一週間経ったら、その女にボコボコになった面見せて、涙をこらえて写真を撮れなかった、と謝る。そうすりゃどんな女だって、気概は認めるだろうから、そっからそういう雰囲気に持ち込むんだな。それで引くような女なら、最初っから写真目当てだってこったから諦めもつくだろ。ただ殴られてりゃいいだけなんだから、楽なモンだと思うぜ。加減もしてやるよ」
諭すように慎吾は言っていた。野村は戸惑ったように視線を泳がせたが、決意を秘めた目で慎吾を見た。
「それも、できます。俺、やってもいいっす。でも、俺は写真が欲しいんすよ。あの子に、写真をあげたいんです。騙されたっていいです、それでも、高橋涼介の写真とネガが、欲しいんです」
しばし野村と慎吾が見合った。慎吾は軽いため息を吐き、やはり面倒くさげに顔をしかめ、興ざめしたように言った。
「何だってこう最近は、よりにもよって俺らのチームにシチメンドウなヤツらが増えてんだろうな」
「何だそりゃ」
話の呑めない顔をした中里を慎吾は無視し、まあと手を振った。「それなら俺も乗るぜ」
「いいのかよ」
即座に聞き返したのは中里だった。慎吾は再び中里を見て、少しの間意味深長に言葉を止めたが、お前がいいならいいんだよ、としれっと言った。
「俺は見物するだけだからな。やるのはお前、責任おっ被るのもお前、車を出すのもお前だ」
「勝手なこと言いやがって」
「おお、俺は自由気ままに生きる主義だからな」
「よく言うぜ」
胸を張った調子の慎吾を中里は一瞥し、やり取りに入りこめず呆然としていた野村を見た。
「一週間以内にゃ何とかしてやるよ。ただしカメラはインスタントだ」
野村が目に生気を宿したのは、すぐだった。
「そ、そりゃもう、撮ってくれるならインスタントだろうがポラロイドだろうが、あ、今、金渡します」
「終わってからでいい。それよりさっさと走ってこいよ、やりたかったんだろ」
ポケットをまさぐっていた野村は、しばし口を半開きにした後、緊張の抜けた笑顔を浮かべ、はい、と爽やかな声を上げ、己のシルビアに向かって脱兎のごとく駆け出して行った。
その姿を見ていた慎吾が、どうでもよさそうに言った。
「ありゃ、ヘタすりゃ女で首回らなくなるな」
かもな、と中里は同意した。中里とて一度女性を好きになると一直線に突き進んでしまうため、人のことを言えた義理ではないが、あれは重症だ。
そうして野村の車が見えなくなった頃、疲れたような顔をしている慎吾に、中里は言った。
「しかし、お前が話に乗ってくるとはな」
「面白いことがねえんだよ、最近」
「ただ高橋涼介の写真撮りに行くだけだぜ。面白くも何ともねえだろ」
「毅」
慎吾は一切の性質を感じさせない声を出した。中里の体は無意識に強張った。何だ、と出した声はかすれていた。
「あそこにゃ高橋啓介がいるぜ」
野村のシルビアの見えないテールランプの光を追いかけながら、慎吾は言った。中里は瞬間歯を強く噛み締め、感情の波を遠ざけた。
一度目を閉じ、眉間にしわを寄せたまま開いた中里は不器用に、だがゆったりと笑った。
「そりゃ赤城だからな」
「まあ、いねえかもしれねえが」
「どうせリベンジする時にゃ会うことになるんだ。それにバトルしに行くわけでも、チームしょってくわけでもねえ。いたとして、俺個人が写真撮るくらいでガタガタ抜かすほど、あっちだって狭っ苦しかねえだろ」
鷹揚に中里は言い切った。
やっぱこいつは単純だな、と曲がり道のない思考を思いながらも、慎吾は口には出さなかった。
その中里の愚直さには気をもまれることもあるが、時折図らずも、世の中ってのは案外シンプルだ、と納得させられることがある。それは一時的な錯覚に過ぎないのだが、決して慎吾にとって不愉快な感覚ではなかった。
もしかしたら、と慎吾は考える。高橋涼介にも、この馬鹿さは通じるのではないか。
何せ高橋涼介が溺愛している弟は、中里よりも行動原理が単純である高橋啓介だ。レッドサンズとナイトキッズの交流戦の折、わざわざ人のチームを名指しして『敵はいない』と断言し、自分が藤原拓海とバトルできないからといって辺りはばからず拗ねていた、あの高橋啓介なのだ。あれに比べればまだ可愛い程度のストレートさを、中里も持っている。所詮他人であるから高橋涼介の寵愛はまずもって受けられないだろうが、正攻法で気を引き写真撮影までこぎつけることは可能ではないだろうか。
そして仮に高橋涼介と中里がある程度の親密さを得れば、つられて中里の高橋啓介に対するわだかまりも薄れるのではないかと、慎吾は考えていた。
中里は今、劣等感にも似た煮え切らない感情を、高橋啓介に残している。それは中里自身に対する遺恨とも言えた。払拭するためにはバトルでの勝利が特効薬だろうが、時期も可能性も未確定だ。そして仮に高橋啓介ともう一度バトルをできたとしても、勝てるのか。それでもう一度負けてもなお、中里は走り続けるのか。慎吾には分からない。分からないことは、嫌だ。
中里は考えるよりもまず行動する人間だ。闇雲に高橋啓介に負けたイメージだけを膨らませるのではなく、他の経験を与えてそちらに意識が向けさせる。バトルではなく、他の部分で吹っ切らせてしまえばいい。そうなれば赤城山にだって行けるようになるだろう。そして慎吾も柄に合わない義理立てを中里にしなくて済むことになるのだ。
そう慎吾は考えていた。考えていたが、それをおくびにも出しはしなかった。
一つため息をついて、呆れたように中里を見る。
「赤城に高橋涼介いるか、連絡入れて確認しとけよ」
「分かってる」
「いたらその時点で話をつけろ。それでさっさと済ませるんだ、こんなこと一週間もかかずらうような問題じゃねえ」
「当たり前だ」
慎吾は話を終わらせるように一度頷き、何も言わずに己の車へと足を向けた。中里はその背に、不意に思い立って、
「なかなかだぜ」
と、声をかけた。慎吾が振り向くのを待たずに、中里は言った。
「お前がいるのはな」
振り向いた慎吾は毒気の抜けた顔をしていた。しばし不自然な静寂が流れた。慎吾は舌打ちするとかったるそうに頭を掻き、軽く立てた人差し指を中里に突きつけた。
「あっち行って勝手に先走ったら、絞めるぞ」
「やれるもんならやってみろ」
「自信過剰め」
つまらなそうに言った慎吾は顔を前へ戻し、足を進めかけて、止めた。半分だけ顔を中里に向け、早口に言う。
「俺は認めちゃいねえが他のヤツらが言うにはチームのリーダー格らしいからな、てめえは」
慎吾はもう振り向かずに歩いて行った。
そのため中里の頬が緩まったところを、慎吾は見なかった。
トップへ 1 2