写真 2/2
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 高橋涼介はマツダRX―7FC3Sを駆る走り屋であり、赤城山をホームとする走り屋団体レッドサンズの創立者であり、リーダーであり、群馬の走り屋のカリスマである。
 前線をしりぞいた今となっても、類まれなる走りの才能と知能により絶対者としてチームに変わらず君臨しており、先日にいたっては一年前に敗北を与えた相手、栃木のランサーエボリューションVを操る須藤京一が群馬に遠征してきた際、赤城山で見事打ち負かし、途方もない技量をその場にいる全員に見せつけて更なる信者を獲得していた。
 休日はそんな高橋涼介を目当てとするギャラリーも多い。だがその日の赤城山は、まるで何かを予兆するかのようにギャラリーも、また走り屋も平常の休みよりも数が少なかった。
 だからとんと縁のなかった人間の名前が携帯電話の液晶に表示された時、涼介はなるほどなと思ったものだ。つまり前兆だったわけである。
 そしてその人間からの電話に出る前、わずかの時間で涼介が推測した用件は、比較的明るい声をしていたその男に尋ねる前に否定され、次に推測していた用件も尋ねる前に否定された。
 結果、その男の用件が、啓介とのバトルでもチームとしてのトラブルでもなく、涼介への何事かの依頼であり、その男がそろそろ赤城山に来ることだけがその通話によって確定されていた。
 その男の声は深刻ではなかったため、さしたる問題はないと踏んだ涼介はそれから、時間が時間のためチームにも撤収を命じた今まで、その通話を頭の片隅に追いやっていたのだった。
「アニキ、あと何本だっけ」
 涼介の背後から、ダークブラウンのストレートパンツに爽やかな青いチェックのシャツを着た、鋭い顔つきの男が声をかけてきた。鋭いが幼さを目元や口元に残しているその男は、涼介と二つ違いの弟である啓介だ。
「二本だ。最初はタイムを気にしなくていい」
 涼介が言うと、了解、と啓介は顔をほころばせた。この弟の表情には人を惹きつけるものがある。身内びいきを差し引いたとしても将来人望を集めることに違いないだろう、と涼介はその顔を見る度に考えていた。
 その時、どこか聞き覚えのあるエンジン音があたりに響いた。
「来たか」
「誰が」
 きょとんとした啓介に、涼介が顎をその方向にしゃくると、初心者の運転かというほどゆっくりと丁寧に、その黒くいかつい車が入り込んできたところだった。
 げ、と啓介が嫌そうな声を上げる。
「GT―Rかよ、ここにあれで乗り付けてくるなんざ度胸のあるヤツだな」
「そりゃそうだろう、あれは中里だ」
 涼介が何食わぬ顔で言うと、ふうん、と鼻を鳴らした啓介は、直後物凄い勢いで涼介を振り向いた。
「中里ォ!?」
「そう近くで叫ぶな、十分聞こえる」
「いやだって、中里ってアニキ、妙義のかあ?」
 涼介はやってきた車に顔を向けたまま、それ以外に俺には中里という苗字の知り合いはいないな、と言った。
「俺だっていねえけどよ、何だって……あ、さっきの電話、まさか」
「そのまさかだ」
「何で言わねえんだよ、それ」
「ただの知り合いに変わりはないだろう」
 中里との通話が終わった時、啓介が誰からだと聞いてきて、涼介はただの知り合いだ、と答えた。それで会話は終わっていた。
 そりゃそうだけどよ、とふてくされたように啓介が唇を突き出す。この弟はGT―Rというグレードを持つ車――特に日産スカイライン――が嫌いであり、またGT―Rに乗っている人間をも毛嫌いしていた。妙義ナイトキッズの中里毅はその筆頭である。
「電話を受けた時に奴が来ると言えば、お前の走りに悪影響が出かねないと思ったんでな」
 涼介が言うと、啓介は驚愕の面持ちで、まさか、と声を高くした。
「何で俺があいつを気にすんだ。ありえねえ」
「今も気にしてるじゃねえか」
「そりゃあ、アニキが黙ってたことにだよ」
「ならお前は、俺があの時点で中里がここに来ると言っても、何ら変わりなく走りをまっとうできたと自信を持って言えるのか?」
 とがめる風もなく涼介が問うと、う、と啓介は具合がまずそうな顔をした。涼介はそういうことだ、と優しく笑った。啓介は納得いかないようだったが、分かったよ、と小さく言った。
 以前この弟は中里毅とバトルをし、勝っている。そして、勝った後、自分の力を誇示するようなことを言ったらしい。それを悔いている。本人は正確な状況は語りたがらないが、様々な話を総合すると、そういうことだ。気にかけている。だから、中里毅の話をする時は注意せねばならない。失われていない後悔が、啓介の技術を妨げるからだ。
 車のドアが閉まる低く冷たい音がした。
 そちらに二人が顔を向けると、くだんの黒のBNR32から二人の男が降り立ったところだった。
 運転席からは小奇麗なジーンズに黒いシャツ、薄いベージュのジャケット姿の中里毅が、助手席からはレッドサンズとナイトキッズの交流戦の折、事前の怪我によってバトルを辞退した、膝の抜けたジーンズに紺のセーター姿の男が現れた。
 涼介はその骨ばった顔つきの男を記憶に残していた。その男が交流戦に出なかったからでも、妙義の下りで中里と張り合っているからでもない。その男が涼介とバトルする前の藤原拓海と、片手をステアリングに固定したバトルを行なっていたからだ。更に言えば、そのバトルが藤原の欠点の消失につながり、涼介とのバトルに多大な影響を与えたことが明確であったからだ。
 そのため涼介の記憶にはその男、庄司慎吾の名前は残されていた。
 ちらほらといるレッドサンズのメンバーの視線をわずらわしそうに退けながら、中里は悠然と涼介の前まで歩いてきた。涼介の横にいた啓介が一歩前に出て、剣呑な気配を放ちながら中里の前に立ち、
「よくもまあそのだせえ車でここまで来たな、中里。その無神経さだけは誉めてやる」
 と、威勢良くタンカを切った。涼介が中里の到来を黙っていたことがよほど腹に据えかねていたのだろう、それは中里に対する完璧な八つ当たりだった。だが涼介は、可能ながらも啓介を抑えずにいた。今抑えることで啓介にフラストレーションが溜まれば、それこそ走りに悪影響が出かねない。悪影響というのは何もタイムだけの話ではなく、一つ操作を誤ることからの生命の危機をも包含している。だから涼介はひとまず事態を静観することにしていた。
 顔を歪めた中里は、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで、メンチを切るヤンキーのように下から啓介を睨み上げた。
「そういうことはな、てめえの車の悪趣味さかんがみてから言いやがれ、高橋啓介。今時原色マッ黄色なんざ『私はセンスがありません』って言ってんのと同じじゃねえか」
「何だとコラ。馬力しか能のねえ重くてイモっぽい車乗ってる方こそ、『私は田舎者です』って看板かかげて歩いてるようなもんだろ」
 腕を組み顎を上げ、身長の差をトコトン活用して中里を見下ろした啓介に対し、大きく開かれた中里の口から罵声が上がるかと思われた時、その頭を後ろから庄司慎吾が見事な音を立てて叩いていた。
 啓介も涼介も拍子を外された中、イテッ、と手で頭を押さえた中里が、庄司慎吾に振り向き息のような声で叫んだ。
「お前、絞めるんじゃねえのかッ」
「まず叩いて、殴って、蹴って、絞めるのはそれからだ。いきなりやって本懐遂げねえで落としてどうする」
 庄司慎吾は素知らぬ顔で、中里の頭を襲った右手をぶらぶらと振った。
 どうやら中里が啓介に食ってかかっろうとすれば、この庄司慎吾が叩くなり殴るなり蹴るなり絞めるなりして、中里を止める算段だったらしい。理に適ってはいるな、と涼介は思った。
 中里は叩かれた部分を無造作に掻き、髪を軽く整えてから渋々といったように、少々気勢を削がれている啓介を再び向いて、まあ、と余裕があると見せかける声を出した。
「お前の目が腐ってるってことはこの場にいる人間なら誰でも分かるだろうから、それはいい。それよりもな、俺が用があるのはお前じゃなくて、お前のアニキだ」
 涼介はその呼ばれ方に、ふと懐かしさを覚えた。
 藤原拓海とのバトル以降は裏方に徹していた涼介であったが、つい先日、エンペラーの須藤京一とバトルをするべく表舞台に立った。そのため今のところは、啓介よりも涼介の評判が一時的に高くなっている。
 そんな中、走り屋相手に涼介が、啓介の兄であると称されることは、決して多いとは言えなかった。藤原拓海は元々高橋兄弟を知らなかったのだから特別として、ここ何ヶ月かは記憶にない。
 啓介をそしるならば、啓介を高橋涼介の弟だと断じる方が効果的であることは言うまでもない。中里が涼介の名声を知らないわけもないだろう。だが中里は涼介を啓介の兄だとした。そしてそこには何ら深い意図など感じられなかった。
 つまり、と涼介は思った。
 この男は、馬鹿なんだろう。
「お前のセンスが悪いってことはこの場にいる人間なら誰でも分かるだろうからいいが、アニキに何の用だよ」
 中里の言を受けた啓介が、こめかみを固くさせながら言った。中里は殺気すらこもっているような目で啓介を見た。
「何でお前のアニキに用件があるってのに、お前を通さなきゃいけねえんだよ」
「てめえの用なんざどうせくだらねえだろうに、アニキ出すまでもねえだろ。俺が話聞いてやるだけでもありがたいと思え」
「お前に話を聞かれるくらいならな、その辺の虫でも通した方が何倍もマシだ」
「ならそうしろ、ほら通せるもんなら通してみろよ。できねえこと言ってんじゃねえ、目障りだ。とっとと帰れ」
「程度の問題言ってんだ俺は、例えを本気に取ってんじゃねえよ単細胞」
「ああ?」
 前に出ようとした啓介を、やめておけ、とようやく涼介は片手で制した。啓介の怒りも静まっているようだし、いい加減埒も明かない。
 釈然としない様子ながらも動きを止めた啓介を、中里が嫌そうに見た。内心ブラコンめ、とでも思っていることだろうが涼介は別段気にもしない。険しい顔つきの中里に、それで、と涼介は本題を切り出した。
「頼みとは、一体何だ」
 電話にて中里は、歯切れの悪い調子で涼介に、折り入って頼みがある、と言ってきた。頼みの内容いかんだと答えた涼介に、直接会って話したいと中里は言い、別段都合も悪くない涼介は了承したのだった。
「あー、それなんだがな」
 中里はやはり歯切れの悪い調子で、その、と首筋を撫でた。言わずに帰るということもなかろうが、時間がかかるのも好ましくはない。だがついさっき啓介と言い合った後では言いづらくもあるのだろう。そういえば、と涼介は一旦別の話を振ることにした。
「お前、箱根に行ったそうだな」
 目を軽く見開いた中里が、ああ、と頷いた。
「温泉にゃ行ってないけどよ。知ってたのか」
「群馬の情報はある程度把握しているんだよ。勝ったそうじゃないか」
「勝ち負け言い立てるほどのバトルじゃねえよ」
 浮かない調子で中里が言った。涼介はそれで、と再び切り出した。
「何なんだ、頼みってのは」
 気がほぐれたのか、中里はあっさりと口にした。
「写真を撮らせてくれ」
 その場の空気が停滞した。誰も彼もが息を詰めているようだった。啓介も、庄司慎吾でさえも珍味という名の通りの珍味を食べたような顔になっている。ただ中里だけは顔色を変えていなかった。
 涼介は数秒だけ置いてから、
「それは中里、ここで写真を撮りたいということか? それとも、この俺の写真を撮りたいということか?」
 と念のために確認した。
「お前相手に頼んでるんだから、お前の写真を撮りてえに決まってんじゃねえか。その辺の景色撮るのにわざわざお前に許可は求めねえよ」
 何を当たり前のことを言っているんだ、と言いたいげ中里の口調だった。ふむ、と顎に手を当てた涼介より先に、中里にその本意を尋ねたのは啓介だった。
「お前、何でアニキの写真だよ。まさかそれ、引き伸ばしてお前の家の天井に貼り付けるんじゃねえだろうな」
「何で俺がそんなアイドルオタクみてえなマネしなきゃいけねえんだ、よりにもよって高橋涼介の写真で」
「男が男の写真欲しがるかよ、普通」
「魅力あるならな、男だろうが女だろうが虫だろうが車だろうが、いつまで見たって飽きねえもんだろ」
 中里は一般論で語っていたのだろうが、話の流れとしてはそれが中里自身の持論とも聞き取れた。空気は停滞どころか停止した。気付いた中里は、慌てて両手を上げて無抵抗を示した。
「待て、誤解するなよ。別に高橋涼介、お前を見てていつまでも飽きないって言ってるんじゃねえ」
「そんなことは聞いてりゃ分かるさ。お前にそんな趣味があるとは思えない」
 だからこその疑問が涼介にはあった。
 なぜ中里が、俺の写真を撮る必要がある?
 その割り切られているやましさの見えない態度からは、欲や打算からなされている行動とは見て取れない。あるいは隠しているのかも知れないが、陰惨な手段を用いたバトルも数多くこなしている後ろの庄司慎吾はまだしも、前の前の中里がそれほど器用な男であるとも涼介には思えなかった。GT―Rを使っているくせに、ハチロクとのバトルでコーナー勝負を挑むほど真っ直ぐな男だ。ならば金絡みではない依頼でも受けたのか。しかしいくら親しい人間から頼まれたからといって、わざわざ赤城まで来て涼介の写真を撮るなどという、一歩間違えれば何らかの誤解を生じかねない面倒な行動を中里が起こすのだろうか。
 涼介は数瞬考えて、先ほどの考えを思い出し、起こすだろうな、と結論を出した。
 決して中里は、頭が回らないわけではないだろう。一つの走り屋のチームをまとめ上げてさえいる。だから思考の問題ではない。それは多分、すべてをわきまえた上での感情だ。
 涼介は中里を見た。声高に悪いと叫ぶほどの顔でもないが、良いと言うには荒すぎる顔だ。涼介はその目を見た。力強く、実直であるがゆえ雄弁であり、平凡な目だ。平凡。平凡であることは、あるいは平凡ではないのかもしれない。少なくとも涼介は、そのような平凡な目を見ることは、久しぶりだったからだ。
 幾ばくかの懐かしさと、特別な凡庸さをもたらしたことには感謝してもいいかもしれない、と涼介は思った。
「いいぜ、撮りたければさっさと撮れ」
 いいのか、と今の今まで涼介に見られ身構えていた中里は、驚いたように言った。
「こちらの都合によって途中で打ち切らせてもらうがな。啓介、今のうちに体をほぐしておけ」
 啓介すら驚いたように、ああ、と少々どもりながら頷いた。
 中里はポケットからインスタントカメラを取り出しながら、思いついたように小難しい顔をした。
「そうだ、ちょっと撮らなきゃ、いや撮りたい構図があるんだが」
「構図?」
「FCに寄りかかってだな、こう、遠くを見ながら何か考えてもらえるか。明日の朝飯だろうが天気だろうが、何でもいいからよ」
 涼介は少し離れた位置に停めてあったFCまで歩いた。中里がその後から、他の人間も距離を置いてだがその周囲に集まっていた。
 考えるべきことは多いが、指示されてすぐに浮かぶほど押し迫っているわけでもない。さて何を考えようか、と思い、涼介はカメラを構えようとしている中里を見た。
 そういえば啓介とこの男は、車に持つこだわりや感情の発露の仕方など、似ている部分があった。先刻の頭が足りないという意味ではない馬鹿さも、似ていると言えるのかもしれない。そうだ、だから俺はそれを不愉快に思わなかったんだ。涼介は今になって気付いていた。
 だが、正確に検証していけば二人の差異は明白だった。啓介は中里ほど闊達でも泥臭くもないし、中里は啓介ほど溌剌ともしていなければ乳臭さもない。そして唯一絶対の違いがある。啓介の潜在能力はまだ底を尽いていないが、中里は既に努力の限界を抱えてしまっているのだ。
 啓介はいずれ中里の手の届かない場所まで行くことだろう。しかしそれでも、啓介は中里に変わらぬ悪態を吐くかも知れない。それは速さの問題ではないのだ。そしてそれは走り屋としてではない。だが二人には走り屋である以外に何ら共通項はない。そこにあるのは一体何だというのか。
 高橋、と中里の声がして、涼介は物思いから浮上した。
「何だ」
「すまん、カメラ目線じゃなくていい」
 中里は戸惑ったような顔をしていた。涼介はああ、と頷き、体勢を少し変えてから、汚れの目立つアスファルトに視線を落とした。
 走りにおいて興味をそそられる相手ではないだろう。この男のレベルが低いとは言わないが、藤原拓海や須藤京一に比べれば下であることは自明だった。
 しかしでは、走り屋でないところではどうなのだろうか。
 そう考えようとした自分を涼介は馬鹿らしく思った。必要性のない思考だ。啓介と中里は走り屋であり、また涼介も走り屋という枠の中で中里と接している。故意に他の視点から関係を持とうとしてなどいない。涼介がそうであるというのに、啓介が中里くらいの男を特別とする道理がなかった。
 その他の可能性を模索することなど愚考にすぎないのだ。そう考えながらも涼介は、もし走り屋としてではなく出会ったとしても、啓介はやはり中里を毛嫌いするのだろうか、そして自分はその時中里をどう評価するのだろうか、と不思議に思った。それは奇妙な想像だった。涼介はそれを想像できるほど中里を知らないのだ。
 そして、フラッシュが一度たかれた。
「これでいい」
 言った中里は、既にカメラを下ろしていた。涼介は僅かに眉を動かした。
「一枚でいいのか」
「こんなもん、二枚も三枚も撮ったってしゃあねえよ。失敗したわけじゃあるまいし。お前だって忙しいんだろ」
 中里は仏頂面で言い、ありがとよ、とカメラを振った。かすかにやり投げに見えるその態度が、己の神経を逆立てたことを涼介は理解した。優遇は嫌いだというのに、俺らしくないな、と思いながらも涼介は中里を呼び、中里が反応を示す前に言い切った。
「それでもお前は撮りたいんだろう」
「そりゃな」
 空気が固定された。中里と涼介の視線がかち合った。互いの意図を探ることもせず、意味なく見合っていた。中里は涼介から視線を逸らさぬまま、手に持ったカメラを無意味に動かし、あれだ、と不自然に落ち着いている声で言った。
「お前は、いい男だからな。それだけだ」
 やるせない沈黙が流れた。中里はおかしなことは言っていない。だが何かがおかしかった。
「お前もなかなかいい男だ」
 涼介はつい言っていた。中里は何とも言えない顔をして、自慢じゃねえが、と不思議そうに言った。
「今まで生きてきて、いい男だと名指しされたのは初めてだぜ」
「それはマジで自慢じゃねえな」
 どこか憐憫を含んだ目をした啓介が言い、まあな、と中里は頷いた。啓介はいぶかしげに中里を見た。中里は啓介の視線を受け、居心地悪そうに身をすくめた。その中里の肩を、おい、と動じているようでもあり動じていないようでもある庄司慎吾が叩いた。
「もう終わっただろ、帰るぞ」
「ああ、じゃあ、悪かったな、邪魔をして。失礼する」
 庄司慎吾は目礼し、中里は軽く頭を下げ、二人茫洋とした足取りで32に乗り込んで、のろのろとその場から消えて行った。固定された空気が再び流動する。その場にいた涼介以外の人間すべてが、大小差があれども同時にため息を吐いた。
「啓介。ラスト二本だ」
 気分を落ち着けるための煙草を探っていた啓介に、涼介が宣言した。あ、おう、と頷いた啓介が、ふと涼介をじっと見た。
「アニキ、前に写真撮るの、ってか撮られるの、苦手っつってたよな」
「いつの話だ」
「俺がアニキのカメラ使って撮ろうとしたらさ。撮られるのは苦手だって」
 あああれか、と涼介は言った。
 涼介は昔カメラを持っていた。今も部屋には置いてあるはずだ。父親から譲り受けたカメラだった。暇な時に外へ出て、人や車、細かな部品を撮ったこともある。だがレンズの中では息づいていたそれらが、現像するとひどく無機質になることに失望し、いつからかカメラを手に取ることはなくなった。それを啓介が涼介の部屋で興味本位でいじっていた時に交わした会話を、今啓介は言っている。
「あれはただ、俺がお前に見せてる顔を写真として残したくなかっただけだ。何でも見透かされそうでな」
 己が啓介の前で無防備になることを涼介は分かっていた。その自分の姿をその頃はまだ、見据える勇気がなかった。
「今のはいいのか」
「俺も大人になったんだよ」
 へえ、と首を傾げる啓介に、それに、と涼介はつい口を滑らせていた。
「俺が考えてたことなんて、どうせ誰にも分からねえ」
 啓介は斜めに首を傾けたまま、冗談の色を失した顔で涼介を見て、冗談の色を失した声を出した。
「中里のことでもねえだろ、アニキに限って」
 この弟に重要な隠し事はできないな、と考えながら、涼介は薄く笑って、さあな、と言った。
 そして、不意にやけに爽やかな気分で、久しぶりにカメラを出してみようか、と思った。
(続く)

2004/06/18
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