三者三様 3/3
幼い頃、踏む度にしゃくしゃくと鳴る雪が面白くて、一時間も飽きずに自宅の庭で駆け回っていたことがある。泥と一体になった雪を躊躇なく触り通していた自分を、ただ見ていた兄がその記憶には必ず付随する。例えこちらがその存在をつかの間忘れても、兄はモスグリーンのジャンパーのポケットに両手を入れたまま、ただ立っていたのだ。最初は見守られていると感じていたが、一人での雪いじりにも退屈し始めた頃には、こちらが振り向いても何の反応も示さないその兄が、まるでのっぺらぼうに思え、檻の中で監視されているような恐怖と、手を出されないことへの寂しさに囚われ、気がつけば泣き喚いていた。そこでようやく兄は、頭を撫でに檻を外して来てくれたものだった。
煙草も鍵も財布も持っていないことを確認し、啓介は舌打ちした。ガレージのシャッターも開けられず、FDを見ることすら叶わない。せめて一枚上着を取っていれば、煙草が一本でもあれば、このまま太陽が照っているくせに冷気に満ちる外にもいられるが、部屋着のみでは凍えるばかりで、一人で暇を潰す術もなかった。
今となっては真っ白に積み重なっている雪を一人靴で踏みつけたところで、何の面白味も感じられない。汚らしい、それだけだ。誰かと一緒であれば、雪だるまを作るのでも、雪合戦でも熱中できる。だが、一人ではどうしようもなかった。
あれ以来だ、と啓介は思う。あの兄が許すまでの寂しさを体はいつまでも忘れておらず、誰かがいる状況での孤独は克服できていない。完全に一人ならば耐えられるのに、他人の息遣いを感じるだけで、思考が切り替わってしまう。
昔は兄の方が多くの人間と接触を持っていた。啓介は兄以外には興味を抱けなかった。だが、今では兄の方が利益にならぬものを淡白に切り捨て、啓介は薄っぺらい無意味な関係でも保ち続けている。一時の孤独をしのぐ、それだけのためであってもだ。いつから互いの他者との関係の取り方が変わったのか――おそらくその本質は変わっておらず、特徴が発現する環境が年とともに整っていっただけなのだろうが――、啓介には分からない。
ただ、兄が物事の基準を世界でも社会でもなく、あくまで自分に置く人だということは、経験的に理解していた。
くだらねえ、と呟いた声が、白く宙に浮く。だからといって、高橋涼介が高橋涼介独自の考えと信念に基づき、中里毅を恋人として選んだことを、そしてそれを隠してきた挙句にあんな場を用意して説明したことを、たやすく納得できるわけではない。
そこに何の利益があるというのか、そこにどんな必然性があるというのか、そこに愛情があるというのか、そこに真実があるというのか――場の設置の意図はともかく、聞いたはずのあらすじは、記憶に残ってもいない。理解などしていなかった。初っ端の衝撃で、頭はほとんど回らなくなっていたのだ。
ここまで逃げ出してきたのは、そんな状態から抜け出して冷静に考えたかったからだが、考え始めるとすぐに嫌になったので、啓介はガレージのシャッターに背を預け、腕を組み、尻が地面につかないように膝を曲げていった。煙草が欲しい、FDに乗りたい、家に入りたい、外に出たい、一人になりたい。様々な欲望が胸の内側でうごめいて、不快さだけが募っていく。それでも啓介は動けなかった。目をつむると、低い背をした兄のモスグリーンのジャンパーの色だけが、鮮やかに見える。
あの日から、兄が嘘を吐くということを、自分は予期していたはずだった。そして、見ぬ振りを心がけてしまったのだ。
不意に耳慣れた音が脳内で反響し、啓介は閉じてすぐの目を開いた。玄関の重たいドアが開き、家人が侵入してくる音だ。だが啓介は外にいる。人間を呑み込んだか、排出したのだろう。心臓の鼓動が高鳴り、息が熱くなった。安堵と腹立たしさが混じった思いに、指先が焼ける。
ざしざしと足音が聞こえ、視界の右端から黒づくめの男が現れて、ガレージの前に落ちている啓介の横を素通りして正門へと歩いていった。ズボンのポケットに両手を入れ、時折足元を気にしながら、がに股で、猫背気味に門まで辿りつき、左右に走る道路を見回し、首をすくめ、そのまま後ろに数歩下がって、回れ右をし、ようやくこちらに気付いて体をわずかに跳ねさせていた。そして真っ直ぐ何事もなかったかのように近付いてくる男をしゃがんだまま眺めながら、コントかよ、と啓介は呟いた。
「ここにいたのか」
目の前に立たれると、逆光線のために表情が見えなかった。薄目になりながら、啓介はまず聞いた。
「お前、煙草持ってねえか」
「……車に行けばあるが」
顎をしゃくって示した男に、いや、と首を振り、見下ろされ続けるのもむかむかしたため、「で」、と啓介は跳ぶように立ち上がった。鼻先が顎先に触れ合いかけ、男は背を反らしたが、足の位置は変えなかった。
「何の用だよ」
「悪かったな、突然」
今度はこちらが見下ろしながら尋ねると、浮かない顔をした中里は浮かない声でそう言った。被害者を気取っているように感じられ、啓介は腹立たしくなって、上目に見てくるその体を、近すぎだ、と胸を押して離れさせてから、呼吸二つ分間を取り、
「そうやってしみったれたツラして深刻げに謝ったら、俺が広い心で『そんなこともうどうでもいいんだ気にするな』とか言うと思ってんのか?」
早口に言うと、中里は驚いたように目を見開いた。その作られたような決まった反応に、更に腹の底が熱くなった。
「てめえに何言われたって俺には何もねえんだよ。自惚れんじゃねえ」
舌打ちして、シャッターに再び背を預け、濡れた靴を見る。この男など、どうでもいいのだ。どうでもいい相手に謝られたところで、自己満足に利用されているとしか思えない。この動揺は、この男のためではない。すべては兄の問題だ。兄が知らぬ間にこの男を選んでいたという事実、兄が嘘を吐き通していた事実、兄が一対一で告白してこなかった事実が、納得いかないだけだ。
だがそれを知らぬ中里は、自己満足の言葉を重ねてくる。
「気にするななんて言われたいわけじゃねえ。ただ、やり方がまっとうじゃなかった。それを謝りたかったんだ」
「お前がやったんじゃねえだろ」
「俺も手を貸した」
目を上げると神妙な男の顔があり、苛立ちが募り、啓介は声を荒げて吐き捨てた。
「いちいちでしゃばんじゃねえよ、てめえが何だろうが関係ねえんだ。これは俺たち兄弟の話だぜ」
言葉は何の感情も処理せずに、中里の眉をひそめさすだけだった。クソが、と啓介は思った。この男は何も分かっていない。分かっていないくせに、分かったような顔をしてやがる。余計にむかむかして、何だその顔は、とつい喧嘩を売るように言っていた。
「あ?」
「文句があるなら言えよ、クソ、都合が悪くなりゃ黙りやがって」
「文句なんざねえよ。何で俺がお前にケチをつける」
不当そうに言う中里に、
「じゃあ何だそのいかにも不満ですっつーツラは、文句も何もねえならもっとノーテンキな顔してやがれ、そもそもそういう時以外に俺に関わってくんじゃねえよてめえは、ジメジメグダグダされてもうざってえだけだ」
指を突きつけながら啓介は言うだけ言い、中里は眉をひそめたまま、すまん、と謝った。啓介は更に言葉を費やしかけ、歯をかみ締めるだけにした。そこは一つや二つ言い返すとこだろ、空気読め。
大体、もうできてしまったことは、どうしようもないのだ。涼介は、初志貫徹の男だった。一度決断したことは、そこに迷いや悩みが確実に介在しようと他人が何を言おうと、覆すことをしない。それは血のつながった家族でも同じだった。見捨てるならば完全に見捨てて、拾い上げるなら最後まで面倒を見る。兄はそういう、情け深く、冷酷な人間だった。だから納得しなければならないことは分かっているし、実際、納得はしてしまっているのだ。家から飛び出すまでもなく、冷静に考えるまでもなく、遠い昔から、兄のことは認めてしまっている。こんなこと、もうどうでもいい。
それでも割り切れない理由は、一つしか残っていない。
――罪悪感だ。
何だよもう、と啓介は頭を掻き、目の前に突っ立っているでくのぼうのような男に、「アニキは」、と情報を与えることで、それを減らそうとした。
「アニキには、お前の走りでも初心者と同じレベルに見えてるぜ。特別視しちゃいねえ、次元の違いだ。それで得取ろうとしてんなら、全然可能性ねえぞ」
GT-RGT-Rと喚いていたこの男ならそれが選択の要因でなくとも、関係を続ける上での肝のはずであり、怒るか憎むか悲しむか、ともかくこちらの無遠慮な侵入を非難してくるかと思ったが、中里は何かをためらうような表情をして、だろうな、と頷き、啓介が眉を動かすと、ためらいを保ったまま、呟くように言った。
「あいつには直接言われた、才能がねえだの金の無駄だのと」
そこには激しい感情の動きはなく、ただ中途半端な諦念だけが広がっているようだった。啓介は、兄が実際的に欠陥を指摘したことも中里がそれを受け止めていることも信じきれず、悔しくねえのか、とつい尋ねており、何言いやがる、と中里はそこでようやく明らかな驚きと憤りを見せた。
「悔しいに決まってんだろうが、俺だって妙義で頭張ってるんだぜ、それを虫けらみてえに言われてへらへら笑ってられるかよ」
「じゃあ」、と啓介が言うと同時に、「だがな」、と中里は困惑を乗せて言い切った。
「下手に庇われるよりゃあ、マシだろ」
同意を求めているくせに、自信がほとんど見受けられない態度だった。じゃあ何でアニキなんだ、という問いを啓介は喉の奥に引っ込めて、それでも、とその怪しさを追及した。
「アニキがいいってか」
「俺は別に、走りがどうのでこんなことになってんじゃねえよ」
中里は永遠つきまとう煩悶と戦うごとく苦々しい顔つきをしており、絞り出された声は他人に合点を強いる明瞭さを持っていたが、その車を度外視しているような言いようには、過去この男と真剣なバトルをした自分が、走りを含めて兄を見ている自分が愚弄されたように感じられ、啓介はなぜだか下劣に笑っていた。
「お前にゃプライドってもんがねえのかよ、中里」
顔色が変わったのがはっきり見えたかと思うと、中里は声の調子すら低く変えた。
「俺は、俺なりに色々考えてやってんだ、何も知りもしねえお前にそのことに関して口出しされる筋合いはねえ」
ふざけんなよ、と言い返すまでも啓介は嘲笑を浮かべていたが、
「俺が何でそんなことに口挟まなきゃなんねえんだ。大体俺がお前のことなんざ知るわけねえだろうが、俺が知ってんのは分かってんのはアニキのことだけだ、アニキが――」
そこで笑みは消え、口を開けたまま言葉を止めていた。あいつが何だ、と中里は訝る。本来言おうとしたことを再び喉の奥に引っ込めて、うるせえ、と啓介は突っぱねた。
「クソ、どいつもこいつも……」
背を預けているシャッターが、がしゃりと鳴る。兄がどこまで本気であるか知っている、そう言おうとしただけだ。だが、躊躇した。どこまで本気なのか――どこまでしか本気ではないのか、それまでこの男に教えてやるのは勿体ないという貧乏性からと、残酷だというわずかな良心からと、兄の領域を侵害してしまうようなことへの畏怖による、抑止力だった。
「……勝手しくさって、一丁前に」
反動をつけてシャッターから背を外し、中里の横を通り、数歩進む。靴に包まれている足先が、冷たくなっている。どいつもこいつも何も知らねえくせに、思いながら、啓介は右足で浅い雪を蹴り上げた。勝手に何でも進めやがる。ばしゃばしゃと水交じりの残骸が落ちる音が終わったところで振り向くと、中里は半端に口を開けていた。最早制止も詰問も受ける気分ではなかったので、舌打ちし、いいか、と啓介はまとめにかかった。
「誤解すんなよ、俺はお前のことなんざどうでもいい、クラッシュして頭蓋骨潰れようが野垂れ死のうが俺には関係ねえ。お前がアニキに何しようがお前の勝手だしアニキの勝手だ。知るかよそんなこと、くだらねえ」
くだらねえって、と話をさえぎってきた中里を、「だから」、と殺意を込めて睨みつけ、黙らせる。
「俺に何の期待も遠慮もしてくるな、何も言うな触るな関わるな。俺をアニキとてめえのことで使うんじゃねえ、持ってくんじゃねえ。んなことしたらソバット食らわしてやる」
一つ息を吐き、念のため「あとアニキに変なことしたら殺す」、と付け足して、話を終わらせた。
数拍置いてから中里は、啓介から目を逸らさないまま、しかしどもりかけながら、分かった、と言った。
ガレージの奥に見える玄関から、その時一人の男が排出され、こちらに向かってきた。出っ張った頬を隠すような茶髪と、だらしない顔に格好、中里の親友だと力説していたその男は、中里の隣に来たところで一瞥しただけで、顔は真っ直ぐ啓介に向け、顎を上げながら、おい、と言った。
「兄上殿がお呼びだぞ、弟さん」
丁重な言葉には丁重な言葉を返すのが啓介の主義であったので、弟言うんじゃねえよロン毛、と言うと、俺はロン毛って名前じゃねえよハゲ、と男は言い、今度は啓介なぞ主眼ではなかったというように、中里を見た。
「毅、帰るぞ」
あ? と間抜けに声を上げた中里には、
「話は終わったってよ、お兄さんが。帰りたけりゃ帰っていいって。んでついでに弟さん呼んでくれって言われてな」
男は嫌味を交えず説明し、だから俺は弟って名前じゃねえ、と啓介が売られた言葉を買うと、俺だってロン毛って名前じゃねえよ、そこまで髪も長かねえし、と男は更に同じ調子で言った。
「っつーかお前ら兄弟なんだからいいじゃねえか、高橋高橋じゃどっちがどっちの高橋か分かんねえだろ」
「話の流れで分かるだろうが、てめえら二人して頭わいてんじゃねえのか」
視線を険しく啓介が言うと、男は唇を閉じ、隣の中里を窺い、こちらに聞かせないために潜めたのだろうが、十分に聞こえる声で、何だこいつ、と囁いて、別に普通だろ、と中里は囁き返していた。
啓介が面倒になって舌打ちし、
「お前ら用が済んだんならさっさと帰れよ」
と手を振ったところ、中里は真面目な顔で、ああ、と頷いた。その素早さに多少の未練でも見せてくることを予想していた啓介は驚きのあまり、帰るのかよ、と矛盾を自覚できることを言っており、案の定中里は訝った。
「お前が帰るなら帰れっつったんだろうが、高橋」
「アニキに会ってくとかしねえのか」
驚きついでに口が先走っていた。中里は意外そうに眉を上げ、それから難しそうに眉根を寄せ、しかし当然のように言った。
「別に俺にしても、もう話はねえ。後はお前ら兄弟のことだろう。それに、こいつも送ってかなきゃなんねえしな」
俺を言い訳に使うんじゃねえよ、と中里に親指で示された男が言い、てめえもいちいち口出してんじゃねえよシンゴ、と中里は苛立たしそうに言い返し、男はそれに更に言い返した。
「勝手に使われて黙ってんのは性に合わねえんだよ」
「俺の車出さねえとお前だってすぐに帰れねえのは事実だろ」
「それが正しかろうがだ、っつーかここまで引っ張り出されて一つも口出ししねえなんざ癪じゃねえか」
「俺相手に出してどうする」
「俺だってこいつら相手に出すほど命知らずじゃねえよ」
啓介は指を差されてそう言われたところで、何も言わず、二人がその発言の不適切さに気付いて顔を向けてきたところで、何の表情も作らなかった。ただ、くだらねえ、と思っていた。くだらねえ。何でもかんでもくだらないのだ。リアクションが取れないと言っていた史浩も、細かいことをツッコむロン毛も、律儀に何もかもを言い返す中里も、勝手にここまで話を進めた兄も、何も知ろうとせずに何も見ようとしなかった自分も、くだらない。くだらなすぎて、もう誰を責める気にもなれなかった。
男はばつが悪そうにパーカーのポケットに手を突っ込んでもぞもぞしており、中里は失敗したと顔に書いて、『あ』という形に口を開いていたが、出てくるのは聞き飽きた謝罪の言葉だと啓介は察し、中里が息を吸って止めたと同時に無造作に言った。
「お前はいいのかよ、それで」
決して中里を心配したわけでも、憐れんだわけでも、ましてや同情したわけでもなく、果たしてこの男がどういう立場でもって、涼介との別離を苦もなく認めるのか、どこまでこの男が知っているのかが気になったために啓介は問うたのだが、中里は瞬きを数回する間、特別な表情も作らず、ごく平凡に、
「そういうことじゃねえからな、俺は」
と、抽象的過ぎることを静かに言って、じゃ、と手を上げ、ガレージの奥側に横付けしているスカイラインへ歩いていった。ロン毛の男は中里の背を見てから、啓介を見、「何だ」、と啓介が聞いたところで、いや、とこもった声で言い、中里の後をゆっくり追った。
啓介は二人にそれ以上意識は払わずに、すぐさま家の玄関に向かい、ドアを開け、中に入ると、タイル張りの土間でしゃがみ込んだ。暖かい空気が硬くなっていた筋肉を柔らかくし、鼻水を作り出す。鼻をすすると、あの癇に障るエンジン音が地面の底から振動してきた。ため息を吐いて、上がり口に座り靴を脱ぐ。やがてエンジン音は遠ざかり、喉の奥も湿ってきた。鼻をすすっても、液体が漏れ出そうになる。ティッシュが欲しい。煙草も欲しい。温かい飲み物が欲しい、風呂に入りたい、ベッドで寝たい。やりたいことが、脳の外側でぐるぐる回っている。
「どういうことだよ」
その内側の働きのため、三角座りで、膝に向かって呟いた。『そういうこと』であれば、会ったというのか。なぜそれを、こちらを見ながら言ったのか。あの野郎、と唇を噛む。じゃあ俺は、『そういうこと』だってか?
ふん、と思い切り鼻から息を吐いて、啓介は立ち上がった。くだらねえ。あんな男は勝手にすればいい。俺は何も知らねえよ、とスリッパを履きながら思う。だが、知らないなりに、知っていることもあったのだ。例え間違っていようが否定されるいわれもない、確かな知見があった。それを踏みにじられたくも、侵されたくもない。勝手にすればいい。大体、あんな奴を気にしてなどいられない。これから経験を積み、運転技術やバトルに際しての反応力、適応力や判断力をもっと磨いていかねばならないし、大学も四年で卒業したい。
そうするにあたっては、兄のことですら余計だった。
それでも、どうしても止まらない鼻水を仕方なくトレーナーの袖口で拭いながら、仕返しだ、と啓介は決め込んだ。今まで嘘を吐いてきたんだから、とことん駄々をこね返してやる。話の骨子は認めたが、聞き分け良くなどしてやるものか。言いたいことは山ほどある。話したいことが山ほどある。やはり責められるべきはあの兄だ、啓介は思い直した。小さなお山の大将程度が似合っている奴を引きずり出して懇ろになって、真意を隠し、周囲を巻き込み、遊び続け、この先も続けるのだと言明した、あの兄だ。弟として走り屋として、こんな場を用意してあの男に対して居たたまれなくさせた、あの兄だ。様々なものを切り捨てたのに、自分のことは少しも捨てる気配を見せず、無条件に抱えようとする、あの男だ。
そしてそこからリビングまでの道のりは、啓介にはゼロのように感じられたのだった。
(終)
(2006/08/17)
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