三者三様 2/3
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 あれは高校一年生のことだった。涼介の身長はまだ180cmに達しておらず、車に関する話題など互いの中になかった頃だ。当時、一学年上に林田という色白で痩身、整っている柔和な顔つきで女子に人気があった男子生徒がいたが、半袖のシャツでは肌寒くなってきた秋の終わり、史浩の家で小テストの対策を行っていた時、涼介はそれを語った。
「あの野郎、汚ねえペニス人の顔に押し付けやがって。小指を折るだけじゃ足りなかった。いっそ折っちまえば良かったんだ、包茎が。愛情の欠片も知ってねえくせに好きだのセックスだの、馬鹿としか言いようがねえ。馬鹿に権利なんざ与えるから犯罪が起こるんだ。クソったれ」
 それを思い出す度に、強烈な日差しの中、生白い顔に似合わぬ汗を浮かせて登校していた涼介が史浩のまぶたの裏に蘇る。強烈な日差しが幾分和らいだ放課後、帰路を林田に尾行された涼介は、人気のない道中、路地裏に押し込まれて告白を受けたという。フェラチオを強制されかけて、従順を装い隙を見て睾丸を握り込み、林田が屈んだところで右手を取って、小指を通常曲がらない方向へと曲げてやった。その夏同じ学年のミーハーな女子が、テレビの残虐場面を皆で怖がっている最中、林田先輩が小指を骨折したという話題を出していた記憶が史浩には残っている。くだらない話ほど良く覚えているものだ。その涼介の概略語りに含まれていた卑猥な言葉もすべてそらんじることができる。同級生や弟には一切使わない、優等生という名声には相応しくない表現の数々を、数学の証明問題に取り組んでいる最中に事もなげに吐き出した涼介に、大変だったんだなという感想以外は口にせず、しかしその時史浩は、こいつにホモネタ振るのはやめとこう、と誓ったものだった。
 昔から涼介は、美形で背が高く学力は優秀で運動神経も悪くなく性格も誠実で実直、慈愛に溢れていると見なされていたため、女生徒からの評判が高く、また男子生徒からはやっかまれることも多かったが、頼りにされることも多かった。同時に、若さゆえに憧憬を恋愛と誤解して攻撃をしかける者たちも多く、それは性別を問わなかった。中学時代も一度、涼介は卒業間際に後輩の男子生徒に告白を受けているが、その時は平穏に話が流れたので、そういうこともあるもんだ、と史浩は思っていたが、あの高校一年生の秋に、認識は変わったのだ。
 しかし現在、再びその転換期が訪れているようだった。

 騒がしい男と荒々しい男が去ると、空気が一挙に静まった。涼介は湯気ももうのぼらないコーヒーに口をつけ、相手方の親友と名乗る男は焦点の定まらない目でテーブルを見据えており、史浩はぼんやりと遠い過去などを思い出し終わり、今度は比較的近い過去を思い出していた。
 中里毅という男――妙義ナイトキッズのリーダー格、黒い日産スカイラインR32GT-R、昔はS13に乗っており、当時からその速さは一部では有名だった――今年の夏の初めに彗星のごとく現れた秋名のハチロクこと藤原拓海に負け、続いて啓介に負け、また続いて栃木エンペラーの岩城清次に負けて、近頃ようやくホームで勝ち星を上げたという男。太そうな黒髪と太い眉、大ぶりの目に硬そうな鼻と口、直線的な輪郭を持ち、平均的な日本男児の身長をして、大概古びれたスニーカーとブルージーンズを履いている男。涼介の写真を撮りに赤城までお越しになり、涼介に惚れて告白して撃沈したとうわさを立てられ、涼介と文通をしたがって、実際に涼介と付き合っていることを本日この場で明かされ、涼介の愛の鞭に憤って飛び出した啓介の追いかけ役に多数決で選ばれた男。
 確かに、と史浩は考える。ヒントはごろごろと転がっていた。だが啓介の主張通り、何もない、その一言で涼介はすべてを否定してきている。信じた俺がバカだったのか、と軽く思い、まあそうなんだろうな、と素直に思う。嘘と真実を常に気まぐれにばら撒く男のことは、常に疑い、正しい可能性の高いもののみを選んでいくのが正攻法だった。
 ただ、嘘を吐こうがどうしようが、涼介が最後にすべてを明らかにしてくることを信頼して、損害を受けたことは一度もない。何があろうと一人で乗り越える奴だが、その過程で多少でもこちらに影響を与えていた場合、首尾を報告してくる律儀さ、それは初めてお互いを知った時分から今まで不変のものだった。だから史浩は、例え己の身の程がバカであれ、曖昧なまま涼介を判ずることは控えてきており、今回の説明にせよ、涼介に対しては怒りも憎しみもわいてこない。
 しかし、ホモネタを好ましく見ていないと思われたこの男が、あの中里と付き合っているということは、それまでに多くの伏線があったにしても――涼介自ら妙義山に足を運び、中里自ら赤城山へ足を運んだこと数回、思わせぶりな態度と言葉、不自然な全否定――、納得よりも、驚きが先に立った。正直なところ、まだ信じられない気持ちがある。隣に座っている涼介と中里毅が『そういうこと』になっており、『そういうこと』をしているという、涼介の口から語られた事実が、うまく呑み込めずにいる。想像ができないのだ。だから、現実感がわいてこない。というかできるならば想像なんてしたくないし、できても嫌だ。
 ともかく、と、停止しかける思考を軽く蹴飛ばしながら、史浩は一旦気持ちに整理をつけることにした。これは驚きを禁じえない事柄ではあるが、少なくとも犯罪に手を染めているわけでもないし、二人とも泥沼にはまっているようでもないし、啓介にしたところであれが涼介の関係で駄々をこねるのはいつものことだし、あのいかにも男らしさを追求していそうな中里相手ならプロジェクトへの影響もないだろうし、ご両親への説明はどうするのかと思うが――結婚し世継ぎを産み病院を維持していくことが融資の前提なのだから――、先のことは先のことである。
 問題は、ない。うん、ない。いいじゃないか、若いんだから恋をして当然さ、今時相手の性別なんて気にする方がナンセンスだ、ははは。はあ。
 納得しようとする自分が虚しくなり、小さくため息を吐いていた。そしてそれをきっかけとするように、涼介が動いた。前のソファに座っている中里の自称親友――確か庄司慎吾という奴だ、シビックに乗っている――へ顔を向け、両手を広げると、「さて」、と話を開始した。
「何か言いたいことはあるか?」
 そこに変種の虫でもいるかのようにじっとテーブルを見据えていた庄司慎吾は、「あ?」、と呆けた様子で顔を上げ、数秒そのまま涼介を見た後、不思議そうに言った。
「ここって禁煙?」
「よほどのお客様じゃない限り、吸うならば灰皿を持って外へ出ていただいてるよ」
 涼介が紳士的に答えると、外ねえ、と庄司慎吾は呟いて、浅くソファに据えていた腰をずらして深くし、背中をだらりと後ろに預け、大きくため息を吐いた。外には現在啓介と中里がいるためか、服装がパーカーにジーンズという長時間の冬場の外出を想定してのものではないためか、いずれにせよただちに喫煙するという選択肢は庄司の中から消えたようだった。
 ため息を吐いたのちは、神経質そうに耳の裏を小指でカリカリと掻き、涼介をかったるそうに眺め、「あんたは」、と唇の動きを控えめに庄司慎吾は言った。
「何か、俺に言いたいこととかあるのかい」
「あると思うか?」
 聞き返した涼介に、さあ、と庄司は首に手を当て横に倒し、ボキリと鳴らし、逆側も同様に鳴らしてから、言葉を続けた。
「人を指名してきたってことはそうとも考えられるし、けど強制参加でもねえし、じゃあ違うかもしれない。そもそも話があるってんならこんなまだるっこしいやり方しねえとか、大して重要でもねえからついでにやってみたとか、まあ色々考えようと思やァ考えられるけどな、結局どうだろうが俺には分かんねえし、分かんねえところで死ぬわけでもねえし。あんたが何してえのかとかよ」
 涼介は膝の間で手を組んだまま、億劫げに喋る庄司慎吾を見据えていた。その涼介の横顔には、通常さほど知らぬ他者を相手にするにあたって最低限付される愛想すらなく、史浩はとりあえずぬるくなっているコーヒーをすすった。
「お前を呼んだのは、この場にあいつ一人じゃ気まずいことこの上ないと思ったからだよ」
 やけに発声良くそう言った涼介に、庄司慎吾は片方の眉をわざとらしく上げた。
「あいつはそのくれえで、潰れるようなタマじゃねえだろ」
「責任を一人で感じられても困る」
「なら最初から内輪で済ませりゃいいんじゃねえの」
「うちの弟は理想と想像と現実とのギャップによく苦しむんだ」
「中里よりもおたくの弟を優先して、その後始末に俺をお呼びになったってか」
 庄司は自分の右手の指を一本一本調査するように見下ろしながら、肯定も否定も欲していないように言った。そして涼介はそれへ言及することなく、話を次へと進めた。
「お前の話はあいつからよく聞いてるよ、庄司慎吾君。卑劣なこともするが根は良い奴で、繊細だと」
 はっ、と頬を痙攣させるように庄司慎吾は笑った。これまでで初めての笑顔だったが、他人の首筋に刃物の腹を押し付けるような残忍さが潜んでいた。その笑みを浮かべたまま、「おい」、と庄司慎吾は右の掌を返しながら言った。
「あんた、上から下まで偏見でできてる奴の言うことを信じるんじゃねえだろうな」
「間違いだとも思わないな、俺は」
「そりゃ、ありがとうとでも言ってやろうか?」
「どういたしまして」
「こちらこそ」
 それから二人は揃って口を閉じた。何だこりゃ。史浩はここにきて、ようやく疑問に思った。何で俺はこの場にいるんだ。場違いだ、場違い。史浩は手に持ったまま忘れていたコーヒーカップをソーサーにゆっくり置き、腰を上げながら涼介へ言った。
「涼介、俺コーヒー入れてくるぜ」
「座ってろよ」
 中途半端に立ち上がりかけた状態で涼介を見下ろすと、不思議そうに見上げてきた涼介は、ソファに目をやり、史浩に目を戻し、両眉をわずかに上げた顔で、「座ってろ」、と一字一句をしっかり発音しながら言った。はい、と史浩はソファに座り直した。庄司慎吾はちらりとこちらを見てから、興味を失したように目をつむった。
 なぜだ、と史浩は腰の位置を変えながらも、変わらずぐるぐると考え続けた。何で俺がここにいるんだ。涼介と中里との事情は最初から最後まで、その感情の動きまでも解説つきで既に聞き終わっているし、それを糾弾するつもりもない。言ってしまえばもう話は終わっている。涼介が引き止めようとする理由が分からない。そして庄司慎吾と涼介との何らかの駆け引きの場に同席する義務は史浩にはない。
 かといって史浩は、この場を辞退する気にもなれない。昔から都合の良い人間という位置で見られやすいためか、諍いにせよ痴話喧嘩にせよ仲裁役を頼まれることが多く、断るのも後味が悪いので引き受けては、最中に当事者だけが加熱して置いてけぼりになることも多かったが、人間大抵変わらないなあと思うくらいで、関心もなかった。この程度で貸しを作れるならばラッキー、とは考えていた
 だがこれは違う。貸しを作るにも相手は長い付き合いのある友人であり、そもそも借りの方が多い。参入する意義はない。
 ただ――気になるのだ。何をするのかだとか何を考えているのかだとか、そういう細かい事柄がではなく、ただ、今、この旧友の存在が、気になって仕方がない。慣れない努力をしたところで、無視できる状況ではなかった。
 何なんだかなあ、と思いながら、史浩はただ横にいる涼介と、はす向かいにいる庄司慎吾を交互に観察した。そのうち庄司慎吾が今度は鼻の脇を掻いて、目を開き、「高橋さん」、と今までよりもはっきりと唇を動かした。
「あんたが俺をどう思ってるか知らねえけどな、知るつもりもねえ。けど、俺はホンットウに、どうでもいいんだよ。あいつが誰と付き合おうが男と付き合おうがあんたと付き合おうが何しようが、もう勝手にしてくれりゃあいいんだ。だって俺、あいつのダチでもないんだぜ。それでこんなところに誘ってくだすって、どうしてえんだ?」
 どう見ても庄司慎吾と中里毅は友人と称して差し支えない関係のように史浩には思えたが、それは当人の意識次第なのだろうと納得することにした。涼介は涼介で、妙な間を置いてから言葉を返した。
「言いたいことがあるんじゃないか、お前は」
「俺が? あんただろ」
「お前が何をしようが俺の知ったこっちゃない」
「俺があいつを襲っても?」
「勿論」
 即座にそう言った涼介を、驚きつつ史浩は横目で覗き見し、それから突拍子もない問いをした庄司慎吾を窺うと、不可解そうに涼介を眺めており、そののちふうんと唇を突き出して、いややんねえけど、と思い出したように否定した。分かっている、と返した涼介の声は、地を這うように低く、わずかに険が差していた。
 史浩は双方とも凝視しそうになり、自分の手に目を落とした。同性の友人を強姦するという仮定をたやすく出せる庄司慎吾も、それが為されたとしても『知ったこっちゃない』と即答できる涼介も、史浩はとがめる気にはならず、ただそれらの己には到底備わらぬ思考回路に驚くのみであり、それゆえに感情を隠すには苦労した。声を出さなかっただけ上等だ、と無駄に固くなっている体を自覚しながら、自分を励す。普通はこんなこと、ねえんだから。
 高橋家の兄弟との関わり合いの中で、常識の無力さは理解していたつもりだった。社会の規範に現実的な拘束力などはなく、善悪の感覚を身につけていない人間には通用もしない。ただ、倫理を蔑ろにするではなく、棚に上げてものを言う人間は想定しておらず、心臓が良く働いた。史浩はあまねく心構えを不可とする己の固定観念が無性に煩わしくなるとともに、近くに座る二人の青年との明確な差を表すそれが、無性に大切なものに感じられた。
 そのように史浩が常人の虚しさと偉大さを同時にかみ締めていたところで、「俺は」、と庄司慎吾の耳の奥を舐めるような声が、静寂を切り開いた。
「あいつが……おかしくなりさえしなけりゃ、別に他はどうでもいいさ」
 顔を上げると、背もたれに体を預けたまま、薄ら笑いを浮かべている男が見えた。その笑みは他者を侮蔑するものだったが、同時に自嘲も含まれているような曖昧さがあった。上げた目を再び落としかけ、史浩は庄司の腹の上で組まれた両手の指が、細かく動いていることに気付いた。集中して見ていると、右手の親指のささくれをいじっているらしいことが分かる。
 考え方としては、無責任とも取れた。精神に異常をきたさなければ、中里に何が行われようが無関係だということだ。だが一方で、粗雑な口調とはかけ離れている保守的な、かつ狭量だが、限度と手法によってはその対象を確実に保護できるものとも捉えられる。おかしくなりさえしなければ、是正は一切求められないのだ。
 それが本音か、と史浩は思った。物事を軽んずるように笑いながら、荒い動作でささくれを剥いた右手の親指を左手で握り締めている庄司慎吾は、その望みに溢れる慈悲の心を卑しめることで、不条理な物語を割り切ろうとしているのかもしれない。
「それは無理だな」
「あ?」
 その庄司の顔が、笑みを保ったまま強い不審で歪んだ。隣で猫背がちに座る涼介は、時間の経過を感じさせぬ安定した声で、一つも笑わずに言っていた。
「恋愛とは、互いの価値観の変化を楽しむものだろう」
 軽薄な言葉が重厚な響きを持つのは、迷わぬ涼介が発するからなのだろう。庄司は笑みを消した。二人はじっと睨み合った。何か重大な確信を探るがごとく、どちらも一歩も引きはしなかった。
 恋愛ねえ、と史浩は二人から目を逸らして物珍しく思った。種を維持するために人間に組み込まれたプログラムの一つに過ぎない、などと言っていた男しては、人間的な理論である。あるいは当人が既に変化しているからこそ、経験に即する形で手段であるものに目的が与えられたのだろうか。
 ――俺は気付かなかったのか?
 史浩は彫刻のような涼介を横顔を一瞥し、気付かなかったんだな、と納得した。その楽しみはいつから始まったのか、どこから生じたのかはともかく、変化が恋愛という行為と対象者に限定されていれば、悟りうる余地も僅少であり、それが普通とは言いがたい関係によりもたらされたのであれば、尚更察知はしがたい。そもそも、この男が予断を許さなかったのだ。
 仕方ねえな、人間だし、と思いつつコーヒーカップに手を伸ばそうとして、「そりゃどうだか知らねえけど」、と庄司慎吾も笑うことなく言ったため、史浩は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「あんたの影響受けたら、ロクなもんになりそうにねえんだけどよ」
「ひどいものになったらどうする?」
「先の話だろ」
「遠くない将来だ」
 涼介が故意に絡んでいることが史浩には分かった。おそらく庄司慎吾も分かったのだろう、顎を引いたまま涼介を数秒見据えると、舌打ちしてから、ソファに浅く腰を掛け直し、前かがみになって、テーブル越しに涼介を下から睨み上げた。
「どんな手を使ってでも、てめえと縁を切らせるよ」
 脅迫めいた物言いののち、すぐさま、はっ、とつまらなそうに庄司は笑い――残忍さよりも、空虚さが多分に含まれている――、両手を広げた。
「これで満足か?」
「ああ。本音を聞けて嬉しいよ」
「耳鼻科行けよ。まあ、それもどうでもいいんだけど」と、庄司は尻の位置を少し動かし、「結論だ、俺はあんたとは一切関係ねえから。味方になる気もねえし敵になる気もねえし、妄想に付き合うつもりもねえ。俺は俺で色々あるんだよ、金ねえし、彼女も欲しいし」
「紹介しようか」
 結論には触れずに提案した涼介に、いやいや、と庄司慎吾は嫌そうに手を振った。
「あんたの知り合いなんざあんたみてえのばっかだろ、勘弁してくれ」
「股を開くしか能がない女のストックもあるけどな」
 真面目に言った涼介を、庄司は振っていた手を止めて、味のしないものを口に入れたような顔で見た。
「そういう言い方はやべえんじゃねえの? 高橋涼介さんは」
「馬鹿に人権はない」
「選民思想かよ、おっかねえの」
「冗談だ。ところで俺の友人は処女率が高いんだが、それでもいいかな?」
「自分で探すよ、世話になりたくもねえし」
 庄司慎吾は疲れた様子で首を振り、「それで」、と真剣な様子で切り出した。
「俺はもう帰りてえんだけど」
「どうぞ。話は終わった」
 今のが話だったのか、と内心驚く史浩にも構わず、二人は話を進めていく。
「それが、うっかりしてて今日あいつの車に乗って来ちまってるから、あいつが帰らないことには俺も帰れねえんだよな」
「なら中里にそう言ってくれ。ついでに俺の弟を呼び戻してくれ、ご機嫌取りをしなきゃならん」
「分かったよ」
 そうして庄司は立ち上がり、右の親指の爪を舐め、思い出したように涼介へ聞いた。
「あんた、直接二人に話さなくていいのか」
「不要だ。紛らわしくなる」
 数秒見下ろしてから、あっそ、と庄司は小さく言い、ごっそさま、とひらひら手を振りさっさとリビングから出て行った。しばらくしてから玄関のドアが開閉される音が響き、そして世界は静まった。

 逃げ足が速い、というよりは、引き際を知っていると言うべきなのだろう、あの青年、涼介の悪趣味な冗談も技巧的に流したあたり、世渡り上手そうに見えた。それをしてわざわざこの場で涼介と差し向かいでのやり取りをさせるとは、中里毅とは一体何なのか、ふと落ち着きの戻った家の中、史浩は肝心の相手の人格をほとんど知らぬことに気付いた。
 興味がなかったわけではなく、ただ今回は事態の流れが急激すぎて個人の探究など忘れており、また、そんなに変な奴ではない、という点のみで悪人という可能性を除外していた節がある。実際の中里毅は、庄司慎吾すら手玉に取るほどの極悪非道残虐無慈悲な人間かもしれないし、涼介をも騙している演技巧者なのかもしれない。
 そのような選択を多少の会話の印象からのみ、そんな変な奴じゃなさそうだし、という理由だけで否定しようとする自分が、史浩は甘く思え、ついため息を漏らしており、そして隣を見ると、涼介もこちらを見ていたため、咄嗟に史浩は言っていた。
「お前、林田って覚えてるか?」
「ハヤシダ?」
「高校ン時、俺ら一年の時に二年にいただろ。ほらあれ、デビットボウイに似てるとか言われてた細っちいの」
 涼介は顎に手を当て、眉間に薄くしわを作った。「ああ」、と涼介が頷くまでの数秒間が、史浩にはとてつもなく長く感じられた。
「林田幸一か。俺に告白してきた」
「ああ、俺はそのことがあったから、お前が……こうなるなんて、思いもしなかったぜ。驚いた」
「そうだろう。俺も驚いている」
 どこがだよ、と笑いながら立ち上がると、悪かったな、と二度目の謝罪をかけられ史浩は、別にいいさ、まあスッキリはしたし、と腰に手を当てながらなるべくのんびりと言った。
「プロジェクトは大丈夫なんだろ?」
「支障はない」
「啓介はどうだ」
「あいつは強いからな」
 信頼以外に何もない調子で涼介は言った。そうだ、この男はそういう相手へほど、えげつない手を使っていく。必ず手元に戻ってくると、信じているのだ。なるほど、確かに強い、と呟いて、こいつは底意地微妙なんだよな、と思いつつ、台所へ行く前に、史浩は別の相手を思い出した。
「中里には」
「必要ない」
 最後まで聞き終える前に、史浩を見上げた涼介は言い放った。表情らしい表情がなく、史浩の頭にはその時我慢という言葉が浮かんだが、数秒その顔を見下ろしていても、涼介が何を耐えているのかまでは感じ取れず、そうか、と笑みを浮かべるだけにした。結局何が起ころうとも一人で処理するしかできない奴だから、大丈夫だろう。それが自分たちのいつもなのだ。利己主義結構、頼られぬ構われぬ寂しさなどは、この男とともに稚気のみなぎる策略を練る愉快さには到底適わない。それに、この大人と言い切るには独善的すぎる男の自己の存亡を左右する感情のおりの引き受け手ならば、もう見つかっているはずだ。
「ありがとよ」
 そして足を動かしかけたところで突然言われ、どういたしまして、と反射的に史浩は返しており、言ってすぐに先の涼介と庄司慎吾のやり取りを思い出し、つい考えなく笑ったところ、涼介は既に得意げに笑んでいた。



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