通り道に狭く 1/2
関わる人間は数を増し、遠征先の相手は速さを増し、技術も計略も多く要求されるようになっていた。絶対に負けられないバトル。それは以前と変わらない。だが、以前とは段違いの刺激がある。実感できる自分の成長、把握できる相手の強さ、一瞬の隙が絶対的な敗北とおおよその死を呼ぶバトルの末、得られる勝利と高い名誉。その歓喜と絶望が隣り合わせの日々は、以前よりもよほど、充実している。
それでも啓介は、トレーニングとは関係なく、地元に足を運ぶのはやめられない。自分の隣に立つ実力者はもはやいない、底の知れた走り屋たち、だが変わりのない仲間たちと、たった数分でも、同じ空気を吸いたくなる。ここが自分の始まりだ、それを感じたくなる。憎悪と怨恨と暴力とで世界ができていると思っていた自分、加害者でもありながらただただ被害者ぶっていた自分、結局は無力だった自分。できそこないで、だから親から愛されないのだと誤信していた自分を、ありのままに受け入れた過去から、今が始まった。ここが、自分の始まりだ。それを感じると、疲労で自棄になりたがる頭に、酸素と栄養が回り、変わらぬ意欲がわいてくるのだ。
だが、数分そこにいるだけで、ふと、思い出すことがある。昔のことだ。そう昔でもないのに、随分離れたように感じるのは、半年以上、それに関連するものと、一度も出くわしていないからか、ここ数カ月の経験が充実しすぎているからかは、定かではない。
去年のことは、たった今起こったかのように、鮮明に思い出せる。夏、藤原拓海が現れた時の興奮、屈辱。それは、既に自分のモチベーションの一部だ。自尊心は少し不満の声を上げるが、兄と自分だけでは、県外遠征はここまで順調に進んでこなかっただろう。兄とも自分とも違う感性を持ち、底の知れない才能を持つドライバー、去年の夏から冬まで、たった半年ほどで、自分と兄を含め、多くの名の知れた走り屋を破った、藤原拓海が加わったからこそ、公道最速を証明するためのプロジェクトDが、無敗の伝説を刻めていることは、明らかだった。それは、今だ。いくら時間が経ったところで、興奮も屈辱も薄れはせず、それどころか、藤原と同じチームで競うことにより濃くなるばかりで、昔の話で終わりはしない。
昔に感じるのは、だから、別のことだった。去年の秋。妙義山で、中里毅、野暮ったく32のGT−Rに乗っていたドライバーに勝った時の、平静。それまでとは異なる、それまでよりも高い意識で臨んだバトルだった。相手の地元での勝利は、当然得るべき結果だが、それは終わりではなく、公道最速を示すための過程、最低限のプラクティスになるのだと、そうしようと、意識したバトルだ。目標を設定してそれを達成し、次の段階へ進む。中里とのバトルでは、それまでより冷静に、意識的に、その作業を行えた。勝つために必要な力を自分に反映させ、取り込んでいく、勝利が前提の、ステップアップのためのバトル。それは、今につながるバトルだった。
だが、昔のことに感じられる。藤原とのバトルのように、今とつながっているのに、藤原とのバトルと違い、手法は洗練されたにしても、今と臨む観念は変わってないというのに、中里とのバトルは、随分と離れたことのように感じられる。
地元にいて、地元ではないその昔を思い出すのは、自分のことながら、啓介にとって不可解だった。一度もその男が、赤城山に現れたことはない。もしかしたら、来たことはあるのかもしれないが、この地で会ったことがないのだ。会ったのは去年の夏、秋名山で一度、同秋、妙義山で一度。苛立ちを紛らわすために走ってた時と、バトルの時だ。バトルが終わってからは、会っていない。所詮は違うチームの走り屋で、親しくもない相手だ。会う理由もなかった。
地元に帰り、数分馴染んだ空気を吸い、頭が醒めるに従って、地元では会ったことのないその男を思い出す理由が、分からない。
茨城で、スカイライン、34のGT−Rに乗り、良い大人のくせに大人げない走りを見せつけてきて、やはり良い大人だったドライバーとバトルをしてから、それは顕著になった。GT−Rのせいかもしれない。ブランドを裏打ちする高性能、ハイパワーの車。大人げなかったのに、敵わないほど大人だったドライバーが、中里と同じ型式のそれで作り上げたコースレコードに、太刀打ちすることができなかった、圧倒的な力量差を思い知らされた出来事も、記憶を一層呼び起こすきっかけになったのかもしれなかった。
どうしているのか、と思う。32に乗って、妙義山で懸命に走っていた男は、どうしているのか。以前なら、数秒そう思い、まあどうもしてねえだろう、結論を出して、頭からは消えた。それが、最近では、どうしているのか、の後に、どうせまた、と思っている。妙義で偉そうにしてるんだろう。思うが、実感はない。想像もつかない。去年、最後に見た中里は、雨が降る中、うなだれていた。その全身から、生きることへの情熱が抜けきったかのようだった。その後、どこかでバトルをして、勝ったと聞いたような気もするが、今、中里に偉そうにする力が残っているのか、想像もつかない。
神経をすり減らすバトルを積み重ね、地元に戻り、兄に課せられたトレーニングに励み、更に神経をすり減らした末に、仲間と同じ空気を吸い、安心する。ここが、自分の始まりだ。そう感じながら、真っ先に頭にのぼるのは、あの男のことだ。記憶は、それに触れることを望んでいるかのように、何度も何度もよみがえる。秋名山で、その場にいない藤原へ憧憬の目を向けていた顔、妙義山で、敵意も露わに突っかかってきていた顔、バトルの後で、絶望の縁に立ち尽くしていた顔。
どうしているのか、と思う。どうせまだ、妙義でしがなく走っているんだろう。思うが、実感はない。想像もつかない。本当のところ、中里がどうしているのかは、分からない。記憶にも思考にも、手応えがない。
地元にいて、安心して、地元ではない男のことを思い出して、不安になる、その理由は、やはり分からない。
分からないが、良い事態ではなかった。今のところ頭にのぼる状況は限定的で、回数も時間も少ないから、走りに影響はないが、他の状況でも表れたり、数が増え、長引いたりするようになれば、茨城遠征の終わりも見えているこの局面で、取り返しのつかないミスを招いてしまうかもしれない。
兄か史浩にでも聞けば、中里の動向などすぐに知れるだろう。二人とも群馬の情勢は把握しているはずだし、そうでなくとも中里は、県内で良くも悪くも有名な走り屋だ。足跡を見逃す方が難しい。ただ、身近な人間には、話を持ち出したくなかった。中里という、自分がホームで負かして以来、名前も挙げていない走り屋を、ただ、思い出して、どうしているのかと思う、それだけの話を、どうやって切り出せば良いのか、分からなかった。それに、よそから仕入れた話をいくら吟味したところで、実際ではない。知りたいのは、どうしているか、実際なのだ。
となると、兄や史浩に聞くという選択肢はない。他の人間にもだ。兄の頭を煩わせたくもないから、万に一つでも兄とつながっている人間には、話をしたくない。情報は、どこからでも漏れるものだ。直接妙義山に行ってしまえば、いずれ話は筒抜けだろう。だが、中里と会えば、実際を知れば、この不安も取り除かれるはずだ。説明は、それからでも遅くはないし、自分でも根元を把握しきれない感情について言うよりは、それが消えた結果を言う方が、よほど容易い。
善は急げだ。とはいえ、今すぐ妙義に行くというのも、考えものだった。中里がそこにいるかどうかも知れないし、中里のいるチーム、妙義ナイトキッズの状況が不明なまま乗り込んで、おかしな事態になってもいけない。可能性の問題だ。自分はもう、以前のように、一人気ままに遊んでいられる立場ではない。プロジェクトDを背負っている。何の可能性も、危険性も考えずに行動して、トラブルに巻き込まれるわけにはいかないのだ。妙義に行くにしても、誰か、ナイトキッズと中里の近況を知っていそうな人間に、話を聞いておいた方が良いだろう。それも、兄につながらない人間にだ。身近にいそうにはないその人間について、啓介はだが、すぐに思い当たった。
チームのメンバーが集まる峠に入ると、多くの視線と挨拶を浴びる。昔は当たり前だと思っていたが、遠征を繰り返すにつれて、地元の仲間の出迎えは、特別暖かいものなのだと気が付いた。それらを適当に受け流しつつ、ぐるりを見回し、啓介は目当ての男の姿を探した。刈り上げの黒髪、白無地のTシャツ、垂れ下がったカーキのオーバーオール、ブルーのアディダス。一人、煙草を咥えながら、端っこで、赤いS15の足元に座り込んでいる。周りに人はいない。レッドサンズのメンバーは、選抜試験を越えてチームに入っているからか、選抜意識が強く、同時に高い位置を保とうとするための対抗意識も強いが、それ以上に、同じ苦境を潜り抜けてきたという連帯意識が強い。だから、チームの中で他のメンバーとおおっぴらにつるまないのは、珍しいタイプだ。
よお、と声をかけると、座り込んでいた宮戸はこちらを振り仰ぎ、細い目を不思議そうに瞬いた。そして、咥えていた煙草の火をアスファルトで消して、立ち上がり、どうも、と頭を下げる。社交辞令も面倒だし、それを必要ともしないメンバーのはずだった。啓介は、単刀直入に切り出した。
「ナイトキッズって今、どうなってんだ」
「はい?」
宮戸は短い間に何度も瞬きを繰り返し、やがてそれを落ち着かせると、ああ、と合点したように頷いた。ここで質問の意味を聞き返してこないのも、レッドサンズにいるにしては珍しいタイプだった。他のメンバーは、何かにつけて会話を引き延ばしたがる。
「いつも通りらしいですよ。中里さんも元気でしたし」
答えはすぐにあった。そして、啓介はすぐに疑問を抱いた。
「お前、中里に会ったの」
ナイトキッズについては、らしい、という伝聞を使ったが、中里については、元気だったと確定した。直に会っていなければ、そういう言い方にはならないだろう。宮戸は今度は瞬かなかった。答えは、少し遅れてあった。
「この前、妙義山に行ったんで」
宮戸がナイトキッズの情報をよく握っているのは、地元が近いからとか仲間がいるからとか何とか、誰かに聞いたことがある。だが、宮戸が中里を敬称つきで呼び、中里と直に会うような関係とは、聞いたことがない。大体、こちらはナイトキッズについて聞いただけで、中里については聞いていないのに、宮戸は中里の話を出してきた。それは、宮戸の中でナイトキッズというものが、中里のものだという意識が強いせいなのかもしれないが、確証はない。
「妙義に、ねえ」
様々な疑念を含めて啓介が言うと、宮戸は目を瞬かぬまま、よそを向き、小さく鼻から息を吐いた。まあ、隠すほどのことでもねえか。荒れた口調で呟いて、目を戻してくる。
「俺、レッドサンズに入る前に、妙義山に通ってましてね」
へえ、と啓介は一部で得心した。それなら、ナイトキッズの情報を握っていても、おかしくはない。地元が近いかどうかは知れないが、妙義に仲間がいるというのは、間違った話でもないようだ。
「できるだけドラテク身につけてから、こっちに入りたかったんですよ。毅さんにはそれで、妙義じゃあ随分世話になりました。だから、今でもたまにあっちに行って会いますし、話もします」
つやのない肌を一つも動かさず、宮戸は言った。毅さん、と啓介は呟いた。慣れない名前だ。ナイトキッズのメンバーは、中里をそう呼んでいた。宮戸も、そう呼んでいるのだ。レッドサンズのメンバーが、自分を啓介さんと呼んでくるのと、似たようなものかもしれない。ただ、自分の場合は同じ苗字を持つ兄がいたから、差別化の要素もあっただろう。中里と同姓の人間がナイトキッズにいるとは、聞いたことはない。名前で呼ぶのは、完全な親しさの表れだ。
「あの人も、Dのことは気になっているみたいでね」
言って、宮戸は突然、表情を変えた。つやのない肌が動き、作り出されるのは、笑みだった。
「っつか、藤原拓海と高橋啓介か」
宮戸の笑みの先にいるのは、藤原でも自分でもなく、中里に違いなかった。会話は数えるほどしか交わしたことがないが、顔色を変えないことが印象的なメンバーが、宮戸だった。そういう男に、柔らかい笑みを浮かべさせる男。そういう男に、毅さんと呼ばれる、Dのことが気になっている男。
「の割には、アプローチねえな」
言ってから、アプローチという言葉は何か違う気がしたが、宮戸はそれについては何も指摘してこなかったので、啓介は言い直さなかった。
「余計な意識させたくないんでしょう。アプローチがあるとしても、Dが終わってからじゃないですかね」
「ふうん。義理堅いのかね」
その言葉も何か違う気がしたところ、それもあるだろうけど、と笑みを続けたまま肯定しながらも、宮戸は説明してきた。
「根が真面目な人なんですよ。筋が通らないことは好きじゃない。でも、頑固ってわけじゃないんです。俺が後ろ足で砂かけるみたく妙義離れた時も、笑って送り出してくれた。他の奴らは今でも裏切り者だのミーハーだの何だの好き放題言ってきますけど、毅さんは、普通に気にかけてくれますしね」
嬉しそうに、宮戸は語る。きっと、嬉しいのだろう。宮戸の話では、宮戸はレッドサンズの選抜試験に通るために、手近だったからか、理由は定かではないが、ともかく赤城に来る前に妙義山で走り込み、技術向上に励んでいたということだ。そこに根付いているナイトキッズの人間としては、通い詰めておきながら、地元を踏み台にされるのは、良い気分ではなかったに違いない。今の宮戸を裏切り者と呼ぶ人間がいるのも分かる。だが、中里はそうではなく、今でも宮戸を、同じ場所で修練を積んだ走り屋として、受け入れているらしい。宮戸を嬉しくさせて、宮戸に毅さんと呼ばれている男。毅さん、と啓介はもう一度呟いた。慣れない名前だ。中里。その方が、しっくりくる。
「とにかく、ナイトキッズは普通でしたね。まああいつらの普通は普通じゃないですが、俺が見た限りでは、いつも通りでしたよ」
宮戸は、つやのない肌を停止させた。話を自分からまとめてくるのも、レッドサンズのメンバーとしては珍しかった。そうか、ありがとよ、と頷いてから、啓介は、まとめるには足りない要件があることを思い出した。
「今日、中里は妙義にいると思うか?」
聞けば、宮戸は五秒の間に、十回瞬きをした。驚いたところで、顔色は変わらないが、瞬きの量は変わるらしい。
「いると思います。昨日会った時、今日も来ると言ってましたし、この時間なら、まだいるでしょう」
声色も変わらないが、動揺はするのだ。妙義山に行ったのを、この前、と自分が言ったのも、忘れてしまったのかもしれない。だが、変わらずつやのない、瞬きも止まった宮戸の、無表情に近い顔を見ていると、動揺したからではなく、無駄な話を増やさないためにわざと、短い言葉の中に、確実な情報を入れてきたようにも思え、ありがとよ、もう一度言い、啓介は宮戸から離れた。礼は返されたが、別れはあっさりとしたものだった。あの男なら、誰にも話は漏らさないだろう。あの笑みからも、喜びながらの話からも、宮戸が人間的な興味を抱いているのは、自分やレッドサンズの人間にではなく、ナイトキッズの人間、それも中里に違いないと思えた。
宮戸の雰囲気が、他のメンバーと違うように感じられるのは、そういうところで、ナイトキッズに近いからかもしれない。あのチームには、知り合いがいる。古い知り合いだ。不良を気取っていた頃に出会い、何度か共に行動をした。今は連絡を取っていない。結局お互い、いるべき場所も進むべき道も、重なりはしなかった。そういう人間でも、目立たず存在できるのが、ナイトキッズだった。普通ではない、普通の走り屋チーム。
とにかく、そういうナイトキッズはいつも通りで、中里は元気らしい。だが、所詮は伝聞だ。やはり、実感はない。
ちょっと出てくる、とだけ近い人間に言い残し、FDを妙義に向けることに、躊躇はなかった。走る前に、片をつけてしまいたかった。障害になりそうな可能性を、一つ一つ潰していく。それは、ドライビングを行う上でも大切な、地道な作業だ。少しでも手を抜けば、必ずほころびが表れる。なおざりに扱うことは、できなかった。
妙義山は、男だらけだ。赤城山も男が多いが、ギャラリーの女が必ずいる。妙義山にはそれすらいない。変にむさ苦しい。FDから降りた啓介へ視線を向けてくる男たちも、それぞれ変に野暮ったく、洒落っ気はどこにも見当たらなかった。
「あれ、もしかして高橋啓介の偽物じゃね?」
一歩近づいただけで、集団の中の一人、半分金髪の男が、唐突に声を上げた。その隣、スキンヘッドの男が手を叩く。
「そうか、変装か!」
「毅さん、気を付けてください!」
その更に隣、大学生然とした男が、右方へ手を伸ばしながら、滑舌良く叫んだ。
「そいつは高橋啓介に変装した大泥棒で、妙義山に隠されているという秘宝を見つけるために、毅さんに取り入ろうとしているのかもしれません!」
叫んだ後に、後ろにいる男に蹴り飛ばされ、その他の男たちからも、手荒いツッコミを受けていた。何がしたいのか、よく分からない集団だ。啓介がぼんやりその突発コントを眺めていると、別の男の、低いというのに、どこか甘さのある叫びが上がった。
「お前ら、くだらねえこと喋くってる暇があったら走ってろ!」
右方だった。その叫びだけで、コントは終了した。へーい、と男たちは気のない返事をしながらも、散り散りになる。
「ったく……」
右方だ。コント集団を散らした男が、ため息を吐いて、こちらを見る。その傍には、黒のR32。探すまでもなかった。男はこちらを見たまま、しっかりとした足取りで、歩いてくる。黒髪、削げた頬、太い眉と目と唇、くどい顔。見かけは確かに、元気そうだった。顔色は決して悪くない。
「何しに来た、高橋啓介」
訝しげに、中里は言った。声も、元気そうだ。掠れ気味なのは生まれつきだろう。見かけも声も、態度も元気そうだし、何しに来たかと問われて、素直に答えてやるのが癪になるほど、中里の様子は、時間が止まっているかのように、去年、交流戦でのヒルクライムバトルの前までと、変わりがなかった。
「冷やかし」
だから、そう言った。はあ?、と案の定、中里は意味を理解しない風に、顔をしかめる。
「見るだけで何もしない。って感じだな」
解説はそれ以上せず、啓介は肩をすくめ、お前煙草持ってるか、と聞いた。中里はしかめた顔を、うさんくさそうに緩めたが、黒いポロシャツの胸ポケットから煙草の箱を出した。叩いて一本伸ばしたそれを、差し出してくる。サンキュ、と手で抜いて咥えると、すぐにライターの火も出てきた。至れり尽くせりだ。義理堅く、根が真面目。そして、人が良い。
「こんなところに来てる暇、あるのかよ」
胸ポケットに煙草をしまい、訝しげなまま、中里は言った。もしかしたら、煙草が切れたから、せびりに来たとでも思われたのかもしれない。煙草は持っている。それは知らせず、啓介は吸った煙を吐き出してから、言葉を返した。
「そういう言い方はねえだろ。仮にも地元を」
地元を指して、こんなところ、と言う中里には、違和感があり、指摘には、意識せずに刺が混じった。胸ポケットに手を当てたまま、中里は目を瞬いた。大きな目が、ぱちぱちと音が立ちそうに閉じて、開き、それは逸らされた。気まずそうに、下唇が噛まれる。別に、たかが言い方の一つ取り上げて、中里を責めるために、ここまで来たのではない。所詮は冷やかしだ。見るだけで、何もしない。だが、黙っていて、気まずいままでいられても、愉快ではなかった。啓介は、ついさっきの無意味なコントを思い出し、まあ、と別な話を振ることにした。
「ちょっと来るくらいの暇ならあるさ。偽物も懲らしめたし」
目を戻してきた中里は、偽物か、と話に乗った。お互い、気まずいままでいるつもりはないようだった。
「似ても似つかねえ奴に騙られるとは、とんだ災難だったな」
心底から、同情するような口調だった。一連の件で、味わった不愉快さが理解されているようで、気分は軽くなり、啓介は続けた。
「殺人事件とか起こしてないだけ良かったよ。名前使われて人の命奪われちゃあ、後味が悪すぎる。ちやほやされたいだけの奴に利用されるのも、後味は良くねえけど、まだマシだな」
「ま、有名税だ。この先も、ステータス狙いの奴らは現れるだろう。足をすくわれねえように、精々気を付けとけ」
先程まで気まずそうにしていたというのに、中里はもう、強気に笑っていた。えっらそうに、と啓介は睨む振りをした。中里は、得意げに笑うだけで、自分も煙草を吸い始めた。その、自然な動作を見ていると、態度を改めろと言うのも馬鹿らしく思え、啓介は貰った煙草を、ただ吸った。
有名税。その通りかもしれない。目立てば目立つ分、名声に群がる人間は増え、敵も増える。ただでさえ相手の地元に乗り込み、お株を奪うのだから、正々堂々渡り合ってくる走り屋ばかりではないと、プロジェクトが始まって以降、嫌というほど思い知らされたが、それを警戒するあまりか、直接対せぬままに損害を与えてくることもある、不特定多数の人間についてまで、意識は及んでいなかった。今後、プロジェクトDの、自分たちの名を汚されないよう、近場だけでなく、遠くにも一層目を光らせておく必要があるのは、その通りだ。
自戒すると、不意に啓介は、懐かしくなった。中里を相手にしていた時は、今ほど強く、様々な方面を警戒してもいなかった。すべての意識を、バトルに注げていられた、純潔な頃。戻れないからこそ、今の夢に手が届くほど高まった地位を投げ出してまで、引き返す気もないからこそ、ただ、懐かしいのだ。ナイトキッズは柄の悪いチームで、メンバーには不良崩れもいる。だが、信用していた。同じエリアの走り屋というのもある。それ以上に、ナイトキッズの一番手である中里は、卑怯な真似はしないという、根拠もない確信があった。直感だ。それは、正しかっただろう。少なくとも中里は、相手に不利なルールのバトルを押し通したり、道路にオイルをばら撒いたり、似ても似つかない人間を騙って女を口説こうとしたりする奴ではない。
煙草を吸いながら記憶に浸り、そう思い、啓介はふと、何か違和感を覚え、ん?、と首を傾げていた。
「あ?」
隣に立ったままの中里が、首を傾げて見てくきた。義理堅く、根が真面目な、人の良い男。
何か、引っかかった。おそらく、その男の発言だ。だが、何が引っかかったのか、ぴんとはこず、いや、と啓介は傾げた首を戻し、肩をすくめ、煙草を吸った。気のせいかもしれない。中里も傾げていた首を戻し、ただ顔だけは不可思議そうなまま、そうか、と頷いた。
「毅さん! 暇です! 俺の隣に乗ってください!」
直後、後ろから、しゃがれた叫び声が飛んできた。振り向くと、若さが動きににじみ出ている男が一人、ちぎれんばかりの勢いで、両手を振っている。中里へ目を戻せば、あの野郎、と苦々しげに額を手で押さえていた。野暮ったい走り屋たちの、洒落っ気のないやり取りに、啓介は、笑っていた。
「行ってやれよ。仲間だろ?」
中里は、額から手を離し、怪訝の色の濃い、上目で見てきた。だが、間もなくそれに納得を表すと、小さくため息を吐いて、苦笑に似ながらも、自信に満ちた顔で笑う。
「冷やかしはお断りだぜ」
横を通り際、中里は言った。そして、両手を振っている男へと歩み寄った。
ナイトキッズのメンバーは、寄ってはこないが見てはくる。その視線に、地元で感じるような暖かさはない。かといって、県外遠征で感じるような冷たさもなかった。声のでかい連中の、勝手に耳に入ってくる、行動通り何がしたいのかよく分からない話では、低俗な好奇心が幅を利かせており、去年、交流戦で面子を潰してやったことへの怨恨や、今年、群馬の代表として連戦連勝を果たしていることへの感心は、簡単に切り捨てられている。愛すべき同志ではない。憎むべき敵でもない。歓迎も敬遠も忌避もする必要のない、ただの、同県内の名高い走り屋。そう見られているのが、よく分かる。
その半端な、だからこそ余分なものを含まない視線を、いくら向けられても、積極的に何かをし返す気は起きずに、啓介は半分まで減った煙草を吹かしつつ、周りは無視して、若い男と話している中里をただ、ぼんやり眺めた。煙草は、普段自分が吸うものよりも、タールがきつい。なぜこれを貰おうとしたのか、自分でも分からなかったが、折角貰ったものをすぐ捨てるのも、勿体なかった。中里も男も、こちらは見ずに、互いに集中しているようだった。中里は、男と話しながら、笑っている。よく笑う奴なのかもしれない。さっきも、気まずくしていたのに、話を変えただけで、すぐに笑った。とんだ災難だったな、と同情するように言ったくせに、有名税だと続けてくる頃には、強気に、得意げに笑っていた。
啓介は、咥えていた煙草を落としそうになり、慌てて唇に力を入れた。
とんだ災難だったな、と、同情するように、中里は言った。似ても似つかねえ奴に騙られるとは、とんだ災難だったな。
似ても似つかない奴に騙られる。
そうだ。似ても似つかない、失礼な顔をした奴に名前を使われた。その始末はほど良く穏便につけたが、奴らは方々に出没していたらしいし、情報はどこからでも、どこにでも漏れるものだ。中里がその正体を知っていても、おかしくはない。実際、偽物が出たという話自体は、ナイトキッズにも流れていたのだろう。出会い頭で始まった奴らのコントの主題は、それだった。その連中が、偽物の正体まで知っていても、おかしくはない。中里が知っていても、おかしくはない。
おかしくはないが、違和感があった。その情報を、中里が入手していても、おかしくはない。違和感は、そこにはない。言い方だ。今日、同じような言い方をした男がいた。ナイトキッズについて、いつも通りらしいですよ、と言い、中里さんも元気でしたし、と、こちらが尋ねてもいないことを付け加えた、宮戸。その当たり前に、瞭然とした口調。確かな筋からの正しい情報を、握って間もない、そこに特別な意識を置いている人間でなければ、あんな言い方はしない。
中里さんも元気でしたし。
似ても似つかねえ奴に騙られるとは、とんだ災難だったな。
そんな言い方をした中里は、若い男と二人、まだ笑っている。冷やかしは、もう終わらせて良いのだ。中里は元気で、まだ妙義山で、偉そうに、32で走っている。言葉で確認したわけではない。だが、会ってすぐ、見てすぐに、実感できた。直感だ。中里が、卑怯な真似をする走り屋ではないと確信した時と同じの、直感だった。それは、それならば、合っているはずだ。だから、もう不安はない。帰れば良い。ちょっと寄る暇はあっても、長々居座るほどの暇もない。昔のように遊んでいる暇は、ない。
だが、違和感は消えなかった。それは、正体の分からないものを前にした時に抱く不安と、よく似ていた。中里の様子が分からない時に抱いていた不安と、よく似ていた。内臓の隙間にこびりつき、脳味噌を侵食していく、始末をつけねば今を殺しかねない、軽んじたいが、重大な不安だった。
啓介は、中里を見るのをやめた。周りに目をやると、十歩ほど先、三人立っている男の中に、昔の知り合いがいた。目が合って、にやりと笑う。半袖の黒いシャツの下、背中にはまだ入れ墨があるのだろう。啓介は口端だけで笑った。昔の知り合いは、すぐに、自然に顔を背ける。来た道も往く道も、始まりも終わりも重ならない。属しているのは、違う場所だ。それでも、同じ場所に立つことはできる。同じ時を過ごすことは、できる。一人でよその峠にいながら、欠片も疎外感を覚えないのは、ここにいるすべての人間が、似たように立っているせいかもしれない。だから、動くにあたって、消えない不安はあっても、反感や嫉妬や嫌悪などの、無駄な感情は入ってこなかった。
昔の知り合いから遠くないところ、こちらを見てくる男がいた。目が合って、すぐに逸らす。茶髪、陰気な顔、傍には赤いEG−6。吸い切った煙草を地面に捨て、啓介は、その男へと近づいた。一歩前まで来ても、男は顔を背けたままだった。
「よう」
声をかけて、男はようやく向いてきて、長い前髪に隠れかけているごつい顔を、嫌そうにしかめたが、どうも、と声は返してきた。やる気のなさそうな、粘ついた声。
「庄司だっけ、お前」
つい先日、兄がその名前を口にしていた。去年の夏に藤原がやったという、非公式のバトルについて、話題にのぼった時だ。ナイトキッズの、赤いEG−6。つい先日のことといえ、記憶に自信がなかったので聞いてみると、庄司の顔は、ますますしかめられた。
「あんたに名前を呼ばれる義理はねえな」
「義理がなけりゃ、名前呼んだらいけないのか」
「いけないね」
取り付く島もない。取り付く気もないだけに、それは構わないのだが、話をする気はあった。啓介はため息を吐いてから、しみじみと言った。
「どこの馬の骨だかって野郎に勝手に名前使われた人間に、優しくしようって気は起きないのかねえ」
「好きでメジャーになってんだろ。自業自得じゃねえか」
即座に庄司は言い返してきた。この流れなら、いける。
「いくら背格好が似てるからって、すぐバレるような真似してんじゃねえよって話だろ」
口調を変えないよう、しみじみと啓介は続けた。途端、庄司は嘲笑した。
「馬鹿の考え休むに似たりだ。真面目に相手をする方が馬鹿を見るぜ」
話に乗っている。だが、否定はしていない。背格好が似ている、という情報を、庄司は鵜呑みにしている。それは、偽物の正体を知らないからだ。顔は勿論、背格好も似ていない。それを知らないから、庄司は情報を鵜呑みにした。兄の話によれば、ナイトキッズ内で、庄司は中里に最も近い男のはずだった。バトルの時も、庄司は中里の一番傍にいた。情報は、かなり共有されているだろう。だが、庄司は偽物の正体を知らず、中里は知っていた。
「何だ」
じっと見ていると、庄司は嘲笑を引っ込め、再び顔をしかめた。この後どうするかと考え、手管を使うのも面倒になり、啓介は、嘘を吐くのはやめることにした。
「中里が」
「あ?」
「似ても似つかねえって言ったんだよ。俺を名乗ってくださった奴のこと。実際ズイブンなブサイクだったんだけど。まさに似ても似つかねえってやつ」
打ち明けてしまうと、庄司は訝しげに眉を上げてすぐ、目を見開いた。
「お前……カマかけやがったのか」
頭の回転は悪くないらしい。最後には本音で押さなければ、はぐらかしてくるタイプだろう。判断は、間違えていない。
「誰でも知ってることなのか、気になったもんでな」
庄司の反応からすると、おそらくそれは、中里だけが知っていることだ。違和感は、疑問に形を変えた。では中里は、どんな確かな筋からその情報を入手したのか。どんな特別な意識を、そこに置いていたのか。
啓介は、後ろを向いた。若い男と話していたはずの中里の姿は、既になかった。いやに、胸が騒いだ。
「馬鹿の考え休むに似たりっつっただろ」
頭の回転は悪くなくても、口は悪いらしい男の、粘ついた声が、冷静を呼んだ。その声の元に向き直り、誰が馬鹿だ、一応言い返しておくと、多分俺だ、と俯きがちに、庄司は言った。
「あとは、お前のアニキだな」
聞き間違えたと思った。だから、聞こえた言葉を、そのまま発していた。
「アニキ?」
「毅と付き合ってる」
それも、聞き間違えたと思い、聞こえた言葉を、そのまま発していた。
「付き合ってる?」
「付き合ってる」
庄司は言いきり、ぱさついた髪の根本を、鬱陶しそうに掻いた。アニキ。毅。付き合っている。啓介は、浮かんだ単語で文章を作った。アニキが、中里毅と、付き合っている。
「何だって?」
突拍子もない、信じがたい話だった。思いきり顔を歪めてそう言いながら、しかし同時に啓介の頭の中では、一つの答えが出ていた。中里の情報源。確かな筋。その場にいなかったが、その場にいた人間の話を聞いている人間。
兄が。
中里と、付き合っている。
頭を掻くのをやめた庄司は、同じことを、もう繰り返さなかった。
「あいつに直接確認するなよ、パニクった末にクラッシュするのがオチだからな。その件聞くのはお前のアニキにしとけ。あいつに持ち出すならそれからだ」
庄司が、昔の知り合いを思い起こさせる、他人を射殺すような鋭い目で、こちらを揺らがず見据えながら、こめかみに指を当てる。
「ツークッションは置かねえと、脳味噌弾け飛ぶタイプなんだよ」
バアン、と口で言って、それを弾いた。否応なく、頭の弾け飛んだ中里が想像されて、啓介はむかつきを覚えながらも、頭を整理した。馬鹿の考え休むに似たり。その馬鹿を、多分俺だと庄司は言い、アニキだとも庄司は言った。それは、兄が、中里が付き合っているからだ。庄司は、そう言っている。
「何でお前はそれ、知ってんだ」
自分でも知らないことだった。兄の話だ。
「あいつは隠し事できるタイプでもねえし。まあ、俺以外に知ってる奴もいねえけど」
だが、庄司にとっては、中里の話のようだった。証拠がないから、庄司の話を事実は認められないし、兄を馬鹿と見なしてきた庄司の、兄の話などはとても信用できないが、一番中里と近しいはずの庄司の、中里の話ならば、信用せざるを得ない面がある。義理堅く、根が真面目な、人の良い、隠し事をできない男の話。
「隠し事できねえのに、お前以外には隠せてるのか」
疑う面を出すと、庄司は左右の眉の高さを変えた。そのまま少し上を向き、険のある舌打ちをしてから、表情を緩め、面倒そうに、肩をすくめる。
「俺以外に、聞く奴がいねえんだよ、そんなこと。聞かれなけりゃ、何も言わずに済む。何もねえんだ」
庄司は、聞いたのだ。今自分が庄司に聞いているように、中里に聞いて、庄司がカマにかかったように、中里は話を漏らした。それは、いつのことなのか。いつからそれは始まっていたのか。そもそもそれは、本当に、始まっていることなのか。疑問は次々わいてきたが、何も言わずにEG−6のドアを開けた庄司を呼び止めてまで、聞く気はしなかった。
「お前、俺にそれ言って、俺がパニクるって考えはなかったのかよ」
ただ、突拍子もない、信じがたい、しかし確かな筋からの正しい情報を、こんな時に持ち出されたことへの、疑念はあった。庄司の態度はつっけんどんだが、敵対的ではない。こちらを動揺させたいようにも見えなかった。庄司は車内に入りかけた、半端な状態で、不思議そうに、見返してきた。
「その程度でパニくる奴なら、とっくの昔に崖下で行方不明になってるだろ」
赤の他人や知人ではない。家族が、実の兄が、同性と、男と付き合っているという話だ。その程度、と言われる筋合いはなかった。だが、啓介は否定できないまま、庄司の乗り込んだEG−6のテールランプが目の前を過ぎるのを、見ていた。
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