通り道に狭く 2/2
兄と中里が、付き合っている。
分からない。だが、混乱はしなかった。
庄司はナイトキッズを象徴するような、柄の悪さのある走り屋だ。ままごとの意味で、付き合っていると言ったわけではないだろう。大体それならば、中里がパニクるわけもない。去年の秋、自分に負けた後、よそ者とのバトルで、相手が相応の実力者だったとはいえ、完膚なきまでにやっつけられた奴だ。メンタル面に難があるのは知れている。
その中里が、兄と、付き合っている。肉体関係をはらんだ上で、だろう。
分からない。だが、混乱はしていない。庄司がわざわざそれを、あのタイミングで持ち出してきたのは、こちらを攪乱するためなどではなく、おそらく一旦中里から、遠ざけるためだ。庄司は中里が持つ、偽物についての正しい情報を得られるだけの確かな筋が何か、知っていた。こちらがその正体について、疑念を抱いていたことにも勘づいた。ツークッションは置かないと脳味噌が弾け飛ぶ中里に、直接その件を持ち出されることを、庄司は恐れたに違いない。ナイトキッズ内で、最も中里に近い人間が、庄司のはずだった。庄司にとって、兄や自分よりも、中里の方が価値のある、特別な意識を向けられる、大切にすべき、守るべき人間だという、それだけの話だ。そう割り切れるだけの冷静さが、啓介には備わっていた。
それでも、分からないものは分からなかった。兄と中里が付き合っている。それを庄司が知らせてきた意図は分かる。それが示す意味も分かる。肉体関係をはらんだ交際。ただ、その全体像が、分からない。
レポートに取りかかる時のようだ。一つ一つ、頭の中の、意味のあることを、箇条書きにする。その時点では、意味の羅列から、全体像など見えはしない。すべてを見通すには、散らばる要素を元に思索を繰り返し、足りない要素を探して補い、確かな理屈を閃く必要がある。例えば今なら、中里毅というR32に乗る走り屋、高橋涼介という偉大な兄、男同士の肉体関係をはらむ交際、その点と点を便宜的にでも線で結び、時間をかけて、何が表されているのか、探す必要がある。
しかしながらそれは、全体像を分からねばならない場合に、やるべきことだ。中里の言い方に覚えた違和感は、偽物の正体を知る確かな情報源への疑問に変わり、庄司による中里と兄の関係についての告知でその疑問は解消しながら、新たな謎を運んできた。兄と中里が付き合っている。それは本当なのか、いつからなのか、どういうことなのか。だが、その謎が脳裏に浮かんでも、以前のような、腹を騒がす不安を、啓介は感じなかった。なまじ、知らない話だからだろう。兄のことも、中里のことも知ってはいるが、兄と中里が付き合っていることは、想像もつかないし、実感もわかない。中里を思い出して感じた、手応えのなさは、手応えがあった時を知っていたからこそ、生まれたものだ。最初から手応えがなければ、手応えがないことで、不安にもならない。そこに思いを巡らせる必要も、時間を割く必要もない。
おかげで、トレーニングに影響はなかった。家族が、実の兄が、同性と、男と付き合っているという話を聞いて、パニクらず、崖下で行方不明にもならない自分は、案外非情な人間なのかもしれない、啓介は、帰路につきながら、ぼんやり思った。
部屋にこもり、文章と格闘し、朝日を迎えてから、兄の部屋に入った。ノックはしない。そっとドアを開ける方が、ノックをするよりも、音を立てずに済むからだ。
兄はベッドにはいなかった。机の前に座り、モニタを睨んでいたが、啓介が部屋のドアを開けてすぐに、椅子を回して向いてきた。相変わらず、いつ寝ているか分からない人だ。ドアを開けたまま部屋に入り、おはようさん、と挨拶をすると、お帰り、と当たり前の言葉が返ってくる。両親が当たり前にはかけてくれなかった言葉を、兄はいつでも当たり前にかけてくれた。今なおそうだ。
「アニキ、中里と付き合ってるって?」
その兄に、持ってきた書類を渡すと同時に、啓介は言った。兄と中里との関係の正否も内容も、分からないままでも良かったが、遠からず、妙義に行った話が兄に伝わった時、それについて何を言われても、あるいは何も言われなくとも、黙っていることに、耐えられそうにはなかった。知ったことを知らなかったものとして振る舞うのは、好きではないのだ。できないわけではないから、必要に迫られれば、手の内も、情報も、隠し通す。ただ、唯一いつでも当たり前に、この家に迎え入れてくれる兄相手に、気遣いからの隠し事という小細工も、通用させたくはなかった。
書類を受け取った兄は、動きを止めて、探るように、こちらを見た。探るようなくせに、果てのないその目を食らい、ああ、マジか、と啓介は喉の奥に落ちるものを感じた。兄は顔を逸らし、書類を机に置いて、それを小首を傾げながら数秒見下ろして、再び見返してきた。そこにはもう、探る色はなく、ただひたすら、真っ直ぐなだけだった。
「妙義山に行ったのか」
「冷やかしにな」
この言葉で片付けられるのだから、先に行ったのは間違いではなかっただろう。それに際しての心情についてなど尋ねられては、話が混乱してしまう。
「んで庄司って奴と話したら、そう言ってたから、そうなのかなと」
兄の顔を見ていると、九割九分そうだと思えるが、直接兄の口から否定なり肯定なりをされなければ、確定的にはものを言えなかった。
「悪いか?」
だが、兄は、直接否定も肯定もしなかった。それは、遠回しな肯定だった。啓介は瞬間、唾を飲み込み、耳の内側から聞こえたその音の大きさに、少し動揺しながらも、兄から視線を外さずに、いや、と言った。
「別に。何で」
「男同士だからな。拒否感を持っても当然だ」
机へ目を戻した兄によって吐き出された言葉は、至極真っ当に聞こえるのに、なぜか重みが欠けていた。兄と中里が付き合っていることを、それはきっと、そうなんだろう、とは思っても、悪いかどうかなど、考えてもいなかった。男同士の肉体関係をはらむ交際なのだから、拒否感を持っても当然とは、それこそ当然の話だ。だが、拒否感はなかった。それ以前に、現実感も、手応えもなかった。中里との関係を、遠回しながらも肯定されたというのに、その全体像も、それにまつわる当然であるべきことも、いまだ掴めなかった。
「好きなんだろ?」
聞いたのは、一般的に付き合うということの、当然の、大前提だ。それくらいは掴んでおかなければ、良い悪いも、言えなかった。兄は、表情をまったく変えずに、ああ、と言った。ならいいんじゃねえの、啓介は肩をすくめた。
「そんなもんだと思うぜ、多分。何で中里なのかは分かんねえけど」
「俺も分からない」
すぐさまの、分からないこと自体を、分かりきっていると言わんばかりの、迷いのない、兄の声だった。
分からない。
付き合っていることを、兄は否定しなかった。兄は中里と、付き合っている。その理由は、分からない。だが、好きなことは、認めている。今、認めたはずだ。一般的に付き合うということの、当然の、大前提を、兄は認めたはずなのだ。
「好きなんだろ?」
確認するように、もう一度、尋ねていた。兄が、こちらを見た。表はくっきりとしていながら、裏に濁りを浮かせている目を見た途端、酸素を遮断されたように感じ、八秒に満たない時間、啓介は息ができなかった。呼吸を再開できたのは、兄が机に向き直り、視線が外れてからだが、それも長続きはしなかった。
「あいつはお前のことが好きだ」
「は?」
兄のその横顔とそっくり明瞭な、感情を一つも表さないがゆえに、深い色を秘めている声を、聞き間違えることも、聞き逃すことも、できなかった。それは、聞こえていた。
「恋愛という意味じゃない。けど、あいつはお前のことが好きだ」
言葉は耳に届いていた。頭にまでは、届かなかった。だから、兄の言っていることが、分からなかった。何がどうなっているのか、考えようとしても、息苦しさが邪魔をする。今、必要なのは呼吸をすることだ。息を吸って、吐いて、脳に酸素を送る。
「それで?」
吐くついでに、啓介は声を出していた。
「それだけだ」
言い捨てて、兄は机上の書類をたぐり、講評を始めた。それを遮ってまで尋ねることを、啓介は用意できず、その話は、二度と現れなかった。
正念場は、何度も通った。その度に、毛穴という毛穴から冷や汗を噴き出させ、全身の神経を麻痺させんとする恐怖、思考を割り砕かんとするプレッシャーを吸い上げて、計画的に、練習的に、本能的に、ドライビングをまっとうし、勝利をもぎ取ってきた。強豪相手の、五里霧中になりかけるほど追い詰められたバトル。過去、それを終えた時に比べたら、今日、体を包む疲労感は、よほど軽い。油断がどれほど悪い事態を招くのか今年に入り改めて学んだため、手は抜かず、意識に刻んだ課題は遂行したものの、死力を振り絞ってはいなかった。
「ところでお前、自分の彼女が俺のこと好きだったら、どうする」
「…………はあ?」
次の、おそらく最後の正念場を控えての、基本の基本を再認識する、調整試合のような趣のあったバトル後とはいえ、駐車場には、雑多な情熱の余韻が残っている。そこでドライバー同士、水分補給をしながら、走りの所感を交わすことが相応しいあまりに、それを妨げてまで卑近な話を出すのは場違いがすぎたようで、目を瞬いた藤原は不審げに、大きく顔を歪めた。その変化を見届けて、俺はこんな顔してねえよな、思いながら、いや、と啓介は言葉を足した。
「恋愛って意味じゃなくてな」
「……ファンとか、そういうことですか?」
考える間を置いて返してきた藤原に、うん、まあ、と頷く。正確な意味など知りもしないが、曖昧なことを言ってこれ以上藤原を混乱させても、仕方がない。一通りの緊張が抜けた状態で、こちらを崇拝せず、余計な詮索をせず、知ったような顔もしない、見透かせない部分があっても、根本を信用のできる人間と、男と話をしていたら、何となく、意見を聞いてみたくなっただけだ。好き、という、一般的に付き合うことの大前提を、一度は肯定しながら、肯定も否定もしなかった二度目、兄が持ち出してきたよく分からない話について、藤原だったらどう感じるのかと、興味が生まれただけだった。
「いや、別に……」
藤原は、疲労からというよりは、元来からに見える緩い動作で、頭を掻いた。
「サインとか頼まれると、微妙ですけど」
「微妙」
「……嫉妬はするかな、やっぱり」
その素朴な声は低くなり、その顔は、不機嫌そうに曇った。最近妙に浮ついていることを考えると、藤原は自分の恋人がこちらのファンだという状況を、具体的に、生々しく想像したのかもしれない。なら、不機嫌にもなるだろう。気持ちは分かる。仮に今、自分に恋人がいて、それが藤原のファンだとしたら、嫉妬をしないわけがない。同じ目的に向かい協力し合っているとはいえ、本質的には、一番負けたくない、競争相手だ。バトルには、勝てと思う。負けるなと思う。俺以外に負けるなよ、そう思う。お前を倒すのは俺だけだ、そう思う。そこは、譲りたくはない。負けたくはない。恋人の目も、向けさせたくはない。おそらく藤原も、似たように感じているのだ。自分だけが、気にしているのではないのだ。それは、痛快な事態だった。
大体が、もうバトルは終わっており、藤原の機嫌が悪くなったり集中力が乱れたりしたところで、プロジェクトに害はなく、土台仮定の話で、この程度の漠然とした不安は、簡単な経緯で解消し、私生活に呆けながら走りに好影響しか及ぼさずにいられる幸福を、いや増す手助けにしかならないのは明白だ。ほんのちょっと良い気味だと思ったところで、罰は当たらないだろう。しかし、長々他人の痴話に思いをかける趣味も、啓介にはなかった。
「ファンねえ」
恋愛という意味ではない好きを、ファン心理と捉えるとは、さすが、浮ついている人間の発想は違う。色事とご無沙汰の自分一人では、それほど具体的な例えは思いつきもしなかっただろう。ただ、そう仮定すると、藤原とは関係のない部分で、にわかに疑問がわいた。家族のことだ。兄のことだった。その仮定を兄の話に流用すれば、中里が、自分のファンということになる。兄がそれで、自分に嫉妬しているということになる。だが、そんなことがありえるのかと、啓介は思う。兄が嫉妬することも想像しづらいが、そもそも、中里が自分のファンなどということが、ありえるのだろうか。
冷やかしに行った際、中里に、そんな素振りはまったくなかった。憧憬の目で見てきたり、会話を引き延ばそうとしたり、言葉をつっかえたり、そういうことだ。秋名山で初めて顔を合わせた時、秋名のハチロクを褒め称えていたことを思い返すに、中里がファンになるならば、今、隣でまだ不機嫌な顔を続けている、うつけ者のような大物の方だと思える。
ただ、中里は、兄と付き合っているような素振りすら、見せなかった。態度を信用して良いものかどうか、微妙なところだ。初対面で、FDの外観を堂々とくさしてきたり、かと思えばごく自然に、からかいの色を見せず、人をブラコン特定してきたり、藤原とのバトルで余裕をかまして負けたり、バトル前に柄の悪さを体現するような睨みを利かせてくる、冷静とは縁遠い奴だから、それほど器用には思えないのだが、あの時点では確かに中里は、兄との関わりなど、一切感じさせなかった。こちらが世間話を振らなければ、ボロも出さなかっただろう。
世間話を振らなければ、ボロも出さない。
言い換えればそれは、世間話を振るだけで、ボロを出すということだ。ナイトキッズの庄司は、中里に、兄との関係を尋ねた旨の話をしている。それは、尋ねずにはいられないだけの要素を、中里が、庄司に与えていたからに違いない。ボロを出したのだ。付き合っているならば、世間話くらいするだろうから、中里は、兄にもボロを出しているに違いない。
付き合っている。
いや、庄司は中里とは付き合っていない。だが、庄司は中里に、兄との関係を尋ねた。自分も同じだ。中里とは付き合っていないが、庄司に中里に関することで、カマをかけた。中里と、話をしたからだ。中里と話をして、中里に、ボロを出されたからだ。似ても似つかねえ奴に騙られるとは、とんだ災難だったな。違和感を覚えるほど当たり前に、瞭然とした口調でそう言った、義理堅く、根が真面目な、人の良い、隠し事をできない男の、確かな情報源、特別な意識。
思い返してみれば、もう一つ、違和感を覚えた時があった。会って間もなく、煙草をせびった後、中里が言ってきたことだ。こんなところに来てる暇、あるのかよ。あれもつまり、そうだ。確かな情報源、特別な意識。こちらに多くの暇がないことを、中里は知っていた。おそらく兄に聞いていた。それを気にかけていたからこそ、地元を指して、こんなところ、と似合わない言い方が、口をついて出た。そして、地元に対する罪悪感から、気まずくなり、話題を変えると、すぐに食いついてきて、またボロを出した。ありえない話ではないだろう。中里が、世間話一つでボロを出す人間というのは、間違いのない前提のはずだ。
では、中里は、いつ、どのようにして、どのようなボロを、兄に出したのだろうか。それは、兄が中里と関係を結ぶ前なのだろうか、後なのだろうか。それは、何かの理由になったのだろうか。例えば、中里がこちらのことを、恋愛という意味ではなく好いていると、兄が認めた理由に、なったのだろうか。兄が中里と関係を結んだ、その理由に、なったのだろうか。
分からない。だが、何か、肝心なことを分かりかけているような、不明瞭な焦れったさを覚え、啓介は、無意識に咥えていた、ペットボトルの飲み口を噛んだ。
「それ、誰かの話ですか?」
停滞した物思いは、深い心配と、浅い好奇心の広がっている声に、遮られた。隣を見ると、いつの間にか藤原の顔は、不機嫌が一掃された、いつも通りの、割と整っているというのに、掴みどころのないものに戻っていた。
初めの頃は、車が好きでも他人に興味を持たない、冷めた奴だと勝手に思っていた。姿を追っているうちに、そうではないとすぐに分かり、共に行動をしているうちに、基本的なところは、人並みなのだと分かった。藤原拓海は、人並みに、喜んだり悲しんだり怒ったりする。人並みに、人を心配して、人に興味を持ったりもする。
藤原に興味を持たれて、悪い気はしなかった。だが、仲間としての親しさはあっても、そのままを言えるほどの、家族と同等の親しさはない。
「知り合い。これも有名税ってやつかね」
水を飲んでから答えると、はあ、と藤原は分かっているような分かっていないような相槌を打った。これ以上は、何も言われないだろう。家族と同等の親しさはないが、仲間としての親しさが、それに劣るわけではない。違う次元にあるものに、優劣など、つけられはしないのだ。
「メジャーになるのも楽じゃねえよなあ」
つい本音を呟けば、少し間を置いてから、ですね、と同意が示された。おそらく藤原は、偽物騒動のことを思い浮かべているのだろうが、啓介にはその正確な中身を、解説できるものでもなかった。
相手方と挨拶を交わして戻り、史浩と話している兄の顔は、遠目にも、いつも以上に、隙がないように見える。次の、おそらく最後の正念場を見据えるべきこの現状にあっては、それも当然だろう。
家族が、実の兄が、同性と、男と付き合っているという話を聞いて、自分はパニくらず、崖下で行方不明にもなっていない。兄もそうだ。同性と、男と付き合っているという話を、家族に、実の弟に知られて、パニくらず、崖下で行方不明にもならず、何の欠陥もなく、粛々とプロジェクトを進行している。それを薄情かもしれないと思うのは、違うような気がしてきた。
結局、信頼してしまえるのだ。何をやっても誰と付き合っても、兄は決して今を捨てはしないと、ここから去りはしないと、信じられる。これは、今は、兄の夢だ。兄の夢を、兄が捨てるわけがない。だからいつも通り、何もなかったように、接することができる。兄も、信じてくれているはずだ。自分が今を捨てることなどない、ここから去ることなどない、そう信じてくれているから、いつも通り、何もなかったように、接してくれている。その信頼を裏切ることはないだろう。これはもう、自分の夢でもある。捨てることなどありえない。自分たちはそうしていつも通り、最後の正念場に向け、走り続けるだけだ。
考える必要は、もうなかった。兄と自分の信頼を崩すものはなく、正体不明の不安もない。だが、啓介は考えている。藤原と別の雑談を終え、一人水をちびちびと飲みながら、考えている。スイッチが入った。レポートを真面目に書き上げてきた、弊害だ。分からないことが分かりかけると、分かった時に得られる、脳内のみで完結する、究極的な快感を求めて、考え続けずにはいられなくなる。藤原との会話によって、そのスイッチが、入ってしまった。思考はもう、止められない。
兄と中里が付き合っていて、そこに肉体関係があるとして、寝食を犠牲にしている多忙な兄が、中里の元へ逐一行っているとは、考えにくい。その頻度も分からないが、会うとすれば、我が家が兄にとって最も都合が良い場所のはずだ。義理堅く、根が真面目で、人の良い男なら、相手を、兄を優先するだろうから、兄は自分の部屋に中里を招いた上で関係を持っていると考えるのが、妥当だろう。
だが、いつ兄の部屋を訪れても、啓介はその名残を感じたことがなかった。遊びたくなくても遊ばずにはいられなかった時代、男女関係の修羅場を回避するため、他人の情事の気配には、とりわけ敏感になった。今も、その嗅覚には自信を持っている。だというのに、雑談や生存確認やレポート提出のために兄の部屋に何度行っても、情事の気配はおろか、他人の気配すら一つも感じたことはない。
兄は中里を招きながら、その痕跡を徹底的に消し去っていた。それは、兄一人の仕業ではない。目立つGT−Rを遠ざけ、家に泥を残さず、煙草も残さず、体液の匂いも残さないためには、相手の、中里の、積極的な協力が必要だ。兄は中里と手を組んで、徹底的に、隠そうとしていたのだろう。兄と一つ屋根の下で暮らす家族、おそらくは最も行動を共有する自分に、中里との関係を知られたがらなかったからこそ、その痕跡を、二人して徹底的に、消し去った。
徹底的。
だが、徹底的ではない。そこまで徹底的に自宅から中里の存在を排除しながらも、兄は、中里との関係は、徹底的に隠そうとしてない。なぜなら兄は、中里を放っていた。ボロを出すに違いない中里を、自由にしていたのだ。
久しぶりに会った中里は、以前と変わらなかった。結局ボロは出していたが、変に緊張しているような様子はなかった。もし兄が中里に、関係を隠すための何らかの指示を出していたら、中里はもっと、おかしな態度を取っていただろう。つれなくなるなり、喧嘩腰になるなり、無視を決め込むなり、違和感はあっても、この大事な時期に深入りするには、危険性がひしひしと伝わってくる、不穏な態度だ。そんな中里と、世間話などできるわけもない。する気も起こらない。だから、兄が中里に何らかの指示を出していたら、中里はボロも出すこともなく、自分が庄司にカマをかける流れにも、ならなかったはずだ。
庄司。あの男のことを、兄は知っている。以前茨城で、藤原が去年の夏非公式に行った、ナイトキッズの赤いEG−6、庄司とのバトルの話になった時、庄司が何者かについて語ったのは、兄だった。敵に回せば基礎が崩れるため、動向把握が不可欠な群馬の走り屋チームについて、情報を持っているのは史浩だけではないし、藤原が兄とのバトルで、急激な技術向上を果たした理由を、兄が探っていたというのは、疑問も覚えない正当な話だった。兄は庄司のことを知っていた。知っていた上で、口止めもしていなかった。中里が真っ先にボロを出すであろう、ナイトキッズで中里に一番近い人間、庄司のことも、兄は放っておいたのだ。
つまり兄は、徹底的に、自宅から中里の痕跡を消しながらも、中里との関係を、徹底的に、隠そうとはしていなかった。明かす余地を残していた。こちらが中里との関係について尋ねた時、すっとぼけもしなかったのは、最終的には、バレても良いと思っていたからではないだろうか。中里と付き合っていることを、家族に、実の弟に知られても構わないと、どこかで兄は、思っていた。いつか知られるものだという、心構えを持っていた。
俺も分からない。
あいつはお前のことが好きだ。恋愛という意味じゃない。けど、あいつはお前のことが好きだ。
それだけだ。
それだけだったのだろう。それだけを、兄は、意識していた。あの時、兄が向けてきた目。呼吸を止めるほどの圧力を有していた、整然と見えるのに、感情が奥に抑え込まれて、濁っていた目。あそこに潜んでいたのは、もしかしたら、嫉妬なのかもしれない。走り屋としてではない、家族として、兄弟としてでもない。男としての嫉妬だ。兄の意識。特別な意識。確かな情報源。特別な意識を置く、あいつからの、中里からの、確かな情報。それは、兄が中里と付き合っている、理由になっているのではないか。分からないと言いながら、その理由を兄は自分で分かっていたからこそ、あの目を向けて、それだけの話を、持ち出してきたのではないか。伝えずには、いられなかったのではないか。スイッチが入ったのだ。満たされるまで、切ることのできないスイッチ。兄の場合は、それだけで終わった。自分の場合は、終わらない。まだ、全体像は分からない。
すべてを見通すための、確かな理屈を閃くには、足りない要素がある。それが何かも、得る方法も分かっている。今すぐには手に入らないことも、分かっていた。これ以上考えても、どうしようもないことも、分かっていた。ピースが足りないジグソーパズルなど、完成させようもないのだ。
「よし」
ペットボトルの水を飲み干し、啓介は、自分を鼓舞するように声を発した。一人の時間は、終わりにしなければならない。命を預ける車、それを預けられるメカニック、献身的なサポートに勤しむ後輩。そこへ戻るのに、無関係な思考は、邪魔なだけだ。空のペットボトルを、力いっぱい握り潰し、思考を切り替える。戻らなければならない。この夢に続く現実、それを共有する仲間以外に、今の自分が抱えるべきものは、一つもない。
果たしてスイッチは切れることはなく、日を置かず、啓介は再度妙義山に赴いた。前回の訪問で、ナイトキッズが物騒な状況にないことは知れている。最低限の用心はしても、敢えての情報収集はしなかった。
時間が止まっているかのように、そこは変わりがなかった。女は一人もおらず、変にむさ苦しい。FDから降りた自分に、無遠慮な視線を向けてくる男たちも、変わらず野暮天揃いだったが、今回は、奴らのコントが始まる前に、先んじて近寄ってきた男がいた。その男も、時間が止まっているかのように、変わりがなかった。探す手間は、省けたらしい。
「冷やかしはお断りだっつったの、忘れたか」
訝しげに、中里は言った。声が大きめなのは、後ろにいて今にも騒ぎ出しそうなメンバーを、牽制してのことだろう。
「今日は違うぜ」
訂正してやり、肩をすくめ、煙草あるか、と聞く。中里は、うさんくさそうな顔で、先日と同じに見える、黒いポロシャツの胸ポケットから、煙草の箱を出す。流れは同じだ。煙草を貰い、咥えると、すぐにライターの火。きついタール。慣れない匂い、慣れない味。
どうしても、煙草が吸いたいわけではなかった。それでも貰った理由は、今は何となく、分かる。煙草でなくとも良かった。ただ、中里から何か、貰いたかったのだ。その理由までは、分からなかったが、関係もなかった。胸ポケットに煙草をしまった中里は、黙っている。余計なことを口走らないよう、気を付けているのかもしれない。そんな努力はもう、不要であることを知らせるために、啓介は煙を吐き出しながら、周囲に聞こえない大きさの声を、出した。
「お前、アニキと付き合ってんだって?」
およそ五秒後、中里の顔から血の気が引いていったのは突然で、一気だった。影が濃くなるのに、白さは増す。分かりやすい変貌だった。
「何の、話だ」
強張っている唇を、懸命な様子で、中里は動かした。啓介は、一服した。中里の呼吸は止まっていない。それを確認してから、答えた。
「庄司とアニキから聞いた話だ」
思考も止まってはいないようだった。何で、と中里は、唇を震わせた。
「何であいつ、慎吾が」
「俺がお前に直接聞いたら、パニクってクラッシュ一発お陀仏完了になるとかで、教えてくれたんだよ。良かったじゃねえか。命拾いして」
「ふざけたことを……」
中里の顔は、怒りをにじませているのに、青白いままで、今すぐ崖下から飛び降りても、不思議ではないと思えるほどだ。直接聞くな、ツークッションは置けと警告してきた庄司は、伊達に中里の近くにいもしないということだろう。今も、少し離れたところから、こちらを見てきている。目が合うと、すぐ逸らすのも、変わりない。
「高橋?」
気の抜けたような声が聞こえて、啓介は中里に目を戻した。その顔は、打って変わって呆けていた。
「何だ」
「じゃねえ、お前の……アニキに、聞いた?」
「聞いた」
「何を」
「お前と付き合ってるってことを。あと、お前が俺を好きってことも」
呆けた顔が、引き締まる。青白いまま、引き攣れていく。明らかな動揺が、中里の目を泳がせて、声を裏返していた。
「信じるのか」
「まあ、アニキの話だからな」
嘘を吐いている、兄の目ではなかった。兄が嘘を吐いたと信じる理由はないし、兄の言葉を信じない理由もない。
「俺の話はどうなる」
口調を速め、中里は言った。中里の話、中里の情報。足りないピースだ。白い顔に、徐々に血の気を戻しつつある中里を、今以上刺激しないよう啓介は、静かに尋ねた。
「お前の話って何だ」
「そういう話じゃねえって話だ」
「なら、どういう話だ」
「どうもこうも……」
言葉を濁した中里が、舌打ちをして、隣に並んできた。距離が近まり、声はひそめられる。
「俺はお前のことなんか、好きじゃあねえんだ」
本音でもあるようで、嘘でもあるような、苦渋に満ちた中里の声だった。兄もこの声を、聞いただろうか。兄が聞いたのは、この話だったのだろうか。だが、兄の話は、この話ではない。中里がこちらのことを好きだと、恋愛という意味じゃなく好きだと、兄が認める理由となった、その話は、情報は、この話ではない。何か、違っている。どこに齟齬が生じているのかは、言葉で選び、確認するしかない。煙草を吸い、何でもないように、聞く。
「アニキが、間違ってるってことか」
「そうだ。お前のアニキは間違ってるぜ、完全に。俺がお前に手を出すわけがねえ」
横を睨みながら、中里は、断言した。啓介は、口を開けていた。全身の力が、瞬間的に、抜けた。指から煙草が落ちるのも、止められなかった。長いまま地面に転がったそれよりも、中里の言葉が、頭を占めた。
間違っている。完全に、間違っている。中里がだ。中里は、好きという言葉の捉え方を、間違えている。
間違えている。
いや、正確に言えば、間違えているのではない。中里は、間違えさせられているのだ。
俺がお前に手を出すわけがねえ。
「そうか」
「あ?」
つい呟くと、中里は、険しい表情を向けてきた。義理堅く、根が真面目な、人の良い、隠し事をできない、ボロを出しまくる男。その男の捉え方は、兄の言葉に裏打ちされている。
「アニキが、そう言ったんだな」
「聞いてんだろ」
言下に、言外に肯定した中里が、唾を飛ばす勢いで、勝手なことを、と続けた。
「あいつはそう、勝手に思ってやがる。勝手に、俺が、お前に手を出すと困るとか、そう、何が、何が可能性の問題だ。そんなものありえねえんだよ。俺は違う、俺は、そっちじゃねえんだ。そっちじゃない。なのにあんな、そんなことを勝手に決めつけて、いくらやっても結局あいつは信じてねえ、口で何て言おうが結局あいつは、人のことを勝手に」
周りに聞こえそうなほど、その声は大きくなっていき、そろそろ一旦遮ろうかと思ったところで、しかし中里は、散らしていた視線を、不意にこちらに集中させてきた。啓介はそれを、黙って受け止めた。血の気の戻った中里の顔が、再び白さを増していく。厚い上唇がわずかにめくれて、前歯が半分まで覗いた。
「聞いて、なかったのか」
呆然としている中里の声は、息のようだった。まあな、と啓介は肩をすくめた。急に、煙草を吸いたくなったが、落ちたものを拾い上げる気にもならなかった。
「話を、したんだろ」
中里の声は、聞き取りにくいままだ。何とか、耳には届いた。
「そこまでは、してねえよ」
兄とは様々なことを話し合うが、恋愛相談をしたことはない。したいと思えばするだろうが、そう思ったことがない。兄も、いくらか恋愛経験はあるだろうが、自分に相談したいとまで、思ったことはないのだろう。そもそも、中里との関係についてならば、兄はそれを、半ば隠そうとしていた。相談する気があるのなら、痕跡をあそこまで徹底的に消し去らず、兄だけが分かる理由を、強い感情を根差した目を向けて、伝えくることもせず、すべてを語っているはずだ。だが、こちらをブラコン特定している中里は、自分たち兄弟が、何でも洗いざらい分かち合っているものと、思い込んでいた。おかげで、中里の情報は手に入ったのだから、勘違いされるのも、悪いばかりではないかもしれない。
俺がお前に手を出すわけがねえ。
足元の、アスファルトの上、落ちた煙草を見ながら、そうなんだろう、と啓介は考えた。中里がそう言うなら、そうなのだろう。恋愛という意味では、中里はこちらのことを、好きではない。俺は違う、と中里は言った。俺は、そっちじゃねえんだ。そっちじゃない。そっちじゃないのなら、こっちではある。恋愛という意味でなければ、好きではある。
兄はそれを知っていた。兄がそれを言ったのだ。中里が、恋愛という意味ではなく、こちらのことを好きだと、兄はそう言った。嘘ではない。兄は嘘を吐いていない。しかし、中里の話からすると、兄は嘘を吐いている。中里に、嘘を吐いている。中里の思いを知っていながら、正反対のことを言い、決めつけて、可能性の問題を持ち出している。中里が、恋愛という意味で、こちらのことを好きだと決めつけて、手を出しかねないと主張をしている。そして、やっている。兄は、中里が、こちらに手を出さないように、監視するためにか、脅迫するためにか、中里と付き合っている。
しかしその話には、矛盾がある。兄は、中里が、そうではないと知っていた。恋愛という意味で、こちらを好きではないことを、知っていた。あるいは、始めた時には知らなかったのか。だがそれは、中里のことだ。世間話一つで、ボロを出す男のことだ。間違えようなどあるだろうか。兄が、間違えることなど、あるだろうか。
いくらやっても結局あいつは信じてねえ。
信じているのではないか。兄は、分かっているのではないか。ただ、信じていないと、嘘を吐き続けているだけではないのか。それは、何のための嘘だ。嘘を吐いて、中里を怒らせ、脅してまで、兄が中里と関係を持っている、その理由。
まだ何か、欠いている。全体像を把握するための、必要な要素を、探しきれていない。
「クソッ」
息のような声に、思考が断ち切られた。顔を上げると、中里の肩は、上下していた。呼吸は、目に見えて速い。
「クソ、クソ、クソ」
その速さのままに中里は、声を発する。吸気より、呼気の方が耳についた。赤らむ顔、光る皮膚。動揺の深さは、一目で知れた。これは危険だ。啓介は直感し、おい、と右手を伸ばした。
「落ち着けよ」
「うるせえ!」
肩に触れかけた手は、怒声とともに、振り払われた。中里は口を開けたまま、息を吸う。このままでは、何を叫び出すか知れたものではない。そこから新たな怒声が発される前に、啓介は、素早く出した両手で、中里の肩を掴んだ。
「中里」
肘を曲げ、顔を真っ向から近づけて、視界を占有し、呼ぶ。怒気に満ちた、赤みの増した顔と合った。血走った目と、合った。中里の開いた口から、声ではなく、息が漏れたのが、音で、温度で、感触で分かった。
「落ち着け」
見合ったまま啓介は、ゆっくりと言った。その息遣いが緩むとともに、中里の顔からは、怒りによる強張りが失われていった。生まれたのは、新たな強張りだ。太い眉の根元が上がり、目元が固まり、口元がわなないて、作られた表情は、すぐに隠れた。
「俺が」
俯いた中里の声は、波打った。
「俺が、お前に憧れちゃいけねえのか。ただ、速い奴に、憧れるみたく、憧れちゃ、いけねえのかよ。それだけも、駄目なのかよ」
震えていた。中里の声も、全身も、細かく震えていた。泣いているように、震えていた。
途端、中里の肩を掴んでいる手に、勝手に力が入った。強く、それを引き寄せようとしていた。止めたのは、続いていた思考だ。額に熱が上り、拍動が速まり、しかし、後頭部は冷えきった。
レポートに取りかかる時、まず一つ一つ、頭の中の、意味のあることを、箇条書きにする。その時点では、全体像など見えはしない。だが、散らばる要素を元に思索を繰り返し、足りない要素を探して補えば、確かな理屈が閃いて、すべてを見通せるのだ。天啓が舞い降りるようなその瞬間には、肉体を動かすことにはよらない、脳内のみで完結する、究極的な快感がある。
それを求めていたというのに、スイッチは切れて、それが得られたというのに、胸に満ちたのは、そんなものがどうでもよく思えるほどの、ひどい後悔だった。
間違っていた。完全に、間違っていた。中里ではない。兄でもない。自分だ。自分が間違っていた。中里と、兄のことばかりを考えていた。そこに割って入っている自分のことを、抜かしていた。欠かしていた。この話に足りないピースはそれだった。中里が兄をどう思っているかでも、兄が中里をどう思っているかでもない。自分が中里を、どう思っているか、ということだ。
地元に帰り、落ち着く度にその男を思い出して、無事かどうか不安になって、会いたくなって、理由をつけて、会いに行かずにはいられずに、会って安心して、煙草を貰って、世間話一つで、また不安になった。そういうことだ。中里のことなど、気にしていないと思い込んでいた。だが、気にしていた。どうしようもなく気にしていた。茨城のGT−Rに出会う以前から、ずっと前、自分でも気付かないずっと前から、意識をしてしまっていたのだ。兄はそれを、ずっと前から分かっていた。兄は何もかも、分かっていた。
妙義山に行ったのか。
冷やかしにな。
だからあの時、その言葉だけで、片付けた。あれは、自分が片づけたのではない。兄がそう、片付けさせたのだ。兄は何もかも分かっていた。いつか、こういうことが起こりうると、分かっていた。自分が中里と会いたくなって、中里と会って、中里に触れずにはいられなくなる可能性を、分かっていた。何より大切な、捨てることなどありえないはずの今も、先も、一切合財放り出してまで、それを抱え込まずにはいられなくなることを、分かっていたのだ。だから先手を打った。こういうことが起こった時に、何も始まらないように、爆弾を仕掛けた。自分をその場に踏み止まらせる効力を持つ、守るべき今を共に作り上げてきた、兄の存在そのものを、捨て身でぶつけてきた。
好きなんだろ?
ああ。
ならいいんじゃねえの。そんなもんだと思うぜ、多分。何で中里なのかは分かんねえけど。
俺も分からない。
好きなんだろ?
あいつはお前のことが好きだ。
は?
恋愛という意味じゃない。けど、あいつはお前のことが好きだ。
それで?
それだけだ。
兄は嘘を吐いていない。兄が自分に嘘をつくことなどない。すべては兄の本音だ。兄は中里が好きで、中里を選んだ理由は分からなくて、中里が自分を恋愛という意味ではなく好きだということは分かっていた。それだけだった。あの目。しまえない感情に濁っていた兄の目。あそこに潜んでいたのは、嫉妬だけだったのか。そこに愛情はなかったか。そこに後悔はなかったか。そこにあったのは、何もかも分かっていた兄の、何もかも守ろうとする、必死な想いだったのではないか。
間違っていた。完全に間違っていた。もっと早く気付くべきだった。もっと早く、自分でどうにかするべきだったのに、機会はもう、取り戻せもしない。その後悔が、指先を冷たくして、力を奪った。中里は、俯いている。すぐ目の前に、その黒い髪の、生え際が見える。啓介は、慎重に、手を動かした。中里の肩から、ゆっくりと剥がした手を、これ以上近づかないように、腰の横に下ろす。気取られぬよう、息を整え、鼓動を鎮める。
周囲には、緊張が漂い始めていた。点在する走り屋たちと、距離は近くない。乱暴な態度を取らず、小声で話せば、まだ邪魔はされないだろう。啓介は、落ち着いた自分を感じてから、言った。
「駄目じゃねえよ」
中里が、顔を上げる。落ち着いて、それを見返して、繰り返す。
「駄目じゃねえ」
中里が憧れてきたとして、中里に、駄目なことなど一つもない。
こんなところに来てる暇、あるのかよ。
冷やかしはお断りだぜ。
兄に言いがかりをつけられている中里は、自分と会うことで、手を出したとまで決めつけられないよう、多少意識をしていたのだろう。言動にわずかな不自然さが表れる程度には、それしか表れない程度には、気を引き締めていた。中里は、冷静とは縁遠い、世間話一つでボロを出す、器用ではない男だ。兄に言いがかりをつけられていなければ、気を引き締めてもいなかったのではないか。交流戦での因縁があるとはいえ、もっと、こちらへの憧れを露わにして、接してきたのではないか。無意識に、ファンとしての行動を取っていたのではないか。憧憬の目で見てきて、会話を引き延ばそうとして、言葉をつっかえる。そして自分は、それを前にして、利用せずにはいられなかっただろう。
だから、駄目なのは、中里ではない。自分なのだ。兄がいなければ、兄が中里と付き合っていなければ、兄が中里に嘘を吐き、中里の意識を捉えていなければ、躊躇なく憧れてくる中里に、躊躇なく触れていただろう、自分の方だ。
だが、それを中里に、言うことはできない。言えば折角止められたものが動き出す。止めたものを進めてしまう。兄の、中里への、自分への想いを、兄が守ろうとしているものを、自分が守りたいものを、壊すわけには、絶対にいかない。今の自分ができるのは、プロジェクトの仲間たちと、それを統べる兄と共に切り拓く現実をもって、中里に、憧れられることだだけだ。
落ち着いて、胸を張って、中里を見返した。この時ばかりは、プロジェクトDの高橋啓介として、FDのドライバーとして、中里の視線を受け止めた。
泣きそうに強張っている顔は、瞬間で、苦々しげにしかめられて、些細な痛々しさが、残るだけのものになった。
「悪い、これは、俺の問題だ。お前には関係ねえ。これは、俺の問題なんだ」
発された声には凄みが戻り、逸らされた目には力が戻る。まだ肌に火照りは窺えるが、中里は、極度の興奮状態からは抜け出した。個人的な問題に矮小化して、話を切り上げようとしているのは、我に返ったからだろう。強い動揺を示したことに、羞恥を覚えて、この会話から離脱したがっている。
兄と中里の関係、その全体像はもう把握した。兄と中里の関係が、どれだけややこしく、特別に築かれているのか、実感できた。今なら二人の間に生じたであろう会話も、想像できる。だから、これ以上考えるべきことは何もない。中里から聞くべき話もない。放してやればいい、そう思いながらも啓介は、言葉を使わずにはいられなかった。
「本当に、そう思うか」
中里は、気まずそうに一瞥してきて、ああ、と頷いた。問いの中身をろくに考えもしていない、その場当たりな態度。胸に残る後悔が、それだけでも変えさせたいと、欲望を突き上げて、中里を見据えたまま、なら、と啓介は言っていた。
「お前は分かってるだろ」
力の戻った目が、戻された。その顔は、不審による強張りが幅を利かせていた。話をできるだけの冷静さは、お互いに確保している。あとは、思考をどう引きずり出して、使わせるかだ。
「それは、自分の問題なんだよ。問題はつまり、自分のことだ。自分が、どう思ってるかだ。それは外せない。外しちゃいけない。外したら、何考えたって、正しくなくなっちまう」
灯台下暗しといえ、それを外していた自分は、兄と中里との関係を本当は、理解したくなかったのかもしれない。自分がもう加われないそこに、近づきたくなかっただけなのかもしれない。だが、今は違う。自分を外さずに考えられる。その場しのぎの態である中里が、それを外していないようには、見えない。
「それがお前の問題だってんなら、お前はそれを、外してねえんだろ。なら分かってるだろ。お前がアニキをどう思ってるのか、アニキがお前をどう思ってるのか、そう思うアニキのことを、お前はどう思ってるのか、全部分かってるんだろ、中里」
それでもそう主張するのが、どれだけ重大なことなのか、中里は理解するべきだ。自分の問題すらも自分で把握していないのに、把握できているものとして話を済ませようとする卑怯さを、中里は理解するべきだ。それを把握してこそ、見えるものがあるのだと、本当に大切にすべきものが見えるのだと、中里は、理解するべきだ。兄がいることの幸福を、兄のことを、中里こそ、理解しているべきなのだ。
中里は、また目を逸らした。苦悩が、削げた頬に深い影を落とした。
「あいつは、同じことしか言わねえ」
ぽつり、中里は呟いた。考えの基準をどこに置くべきか、責任の基準をどこに置くべきか、迷っている声だった。啓介は、くだらぬところで立ち止まっている中里を、殴り飛ばす代わりに、その顔を強く、睨みつけた。
「言葉に頼るなよ」
「言葉以外に何がある、それがなくて何が分かる」
アスファルトを睨み、あらゆる可能性を打ち捨てるように言った中里に、突然、抑えがたい、怒りがわいた。声は、潰さなければ、抑えられなかった。
「やってんだろ、お前らは。散々寝てんだろ」
言葉以外も使っていたに違いない兄を、蔑ろにされたことによる、怒りだった。その兄とまともに向き合っていない、それどころか自身ともまともに向き合っていない中里への、怒りだった。その二人を、知らぬうちに、ここまでややこしい状態に追い込んでしまった自分への、怒りだった。
「何も感じてねえなんて、言わせないぜ」
怒りを、目と声のみによって、啓介は発した。家族でも、同志でもない。来た道も、往く道も、始まりも終わりも重ならず、違う場所に属し、それでも同じ場所に立ち、同じ時を過ごし、違う体を分かち合える、他人だからこそ、違う思いを、違う存在を、深く強く、純粋に感じられる関係が、築けるはずだ。中里は兄と、兄は中里と、そういう関係に突っ込んでいるはずだった。何も感じていないわけがない。何も分からずにいられるわけがない。向き合うだけで良いのだ。相手と向き合う自分と向き合えば、分かりたくなくても、分かってしまうはずだった。それくらいのこともできない、軟弱な男が、ここに立っているとは、思いたくなかった。
ここに立っているのは、義理堅く、根が真面目で、人の良い、冷静とは縁遠く、不器用に、命を賭したバトルができ、普通ではない走り屋に慕われ、何度負けても立ち向かっていける、この地を始まりと終わりに決められる、そういう強さを持っている男の、はずだった。
弾けるように、その男が、こちらを向いた。そしてその顔はすぐ、下方へ消えた。目で追うと、中里はしゃがんでいたが、唐突なあまり、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。束の間しゃがんでいる中里を見下ろして、ようやく中里がしゃがんだことを認識し、啓介は、慌てて片膝をついた。
「おい」
「やめろ。待て。何も言うな」
膝の上に組んだ腕を載せ、その中に頭を抱えたまま中里は、くぐもった声を出す。ただでさえ、声を荒らげ気味に会話していたため、周囲の、ナイトキッズのメンバーの視線は、これでもかというほど、肌に刺さっていた。中里がうずくまっては、より一層注目される。何を待てというのか知れないが、長くは待てない。
「ありえねえじゃねえか」
次の言葉が出てくるまで、長くはなかった。それでも幾人かの足音は、迫っている。
「何が」
すかさず啓介は、中里の組まれた腕を見ながら、尋ねた。その中に顔を隠したまま、中里は、答えた。
「あいつが俺を、好きだなんて」
その声は、小さく、弱々しい、誰に聞かせるつもりもないくせに、誰かの否定を望んでいるものだった。
望み通りにしてやりたかったのは、一瞬だ。
中里の、兄の、自分の望みが叶うようにしたい、そう思えたのは、先へと続けられる意志が、勝ったためだった。
「お前がそう感じるなら、そうなんだろ」
地面を伝わってくる足音が、間近に聞こえる前に、啓介は言った。
「それは、お前の問題だ」
腕から顔を上げた中里が、こちらを見る。赤く濡れた目が、ゆらゆら揺れて、強固に、据わった。
もう、手は出せねえな。
後悔の枯れた胸に、ひたすら透明な空気が流れ込んでいくように感じながら、啓介は、何にも砕かれぬ自信と勇気をもって、笑った。
(終)
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