落ちる 1/2
無意識にテーブルの上を探っていた手が、塊の入っていない紙の箱をぐしゃりと潰してようやく、中里は自分が何をしているのか気がついた。煙草を求めていたのだ。だが感触のみで手の中には紙しかないと知れ、部屋を見回しかけその前に、このところ買い物に行っていないため蓄えもなくなっていたことを思い出す。
そこで、
「ねえのか」
と横から問われ、あ?、と首をひねると、見慣れてしまったごつい顔の中にある明瞭とした目が、こちらの手元を舐めていった。
「煙草」
それから顔に真っ直ぐ視線を向けられ、ああ、まあ、と近頃とみに増えてきたばつの悪さのため言葉を濁すと、突然横の男は立ち上がった。ゆったりとしたシャツの上から、床に放っていたブルゾンを引っ掛け、何も言わずに部屋から出て行こうとする。
「どこ行くんだ」
中里が慌てて尋ねると、男は何の苦労もなさそうな表情で振り向き、買ってくるよ、一カートンでいいよな、と言った。いや、そんなことは、と中里が再度言葉を濁していると、男は厳つい顔に不敵な笑みを浮かべ、地を這うような低い声にぞっとするような優しさを含ませ、続けた。
「どうせ酒も欲しいしよ、ついでだ。気にすんな」
そうして中腰になった中里は、男の背を見送るしかできず、ドアの閉まる音がしてようやく、一息吐けるのだった。
ここのところの、いい加減もう岩城清次だろうが誰だろうが飽きて去ってくれるだろう、という中里の希望的観測は、当たる気配すらなかった。
一ヶ月前の、あの思い出しても身の毛のよだつ夜に交わした約束通り、指一本こちらに触れてこないまま、岩城は一週間に平均三回、この家の敷居をまたいでいる。そのたび酒だの食材だのを持って来ては、人の家の台所で調理を始める。作られる簡易的な洋食も和食も中国料理も、欠点のない、美味いとしか評しようのない味だった。中学高校と親戚の中華料理屋でバイトをして、高校卒業後は車関連の知り合いのツテで板前になったが、車の整備による手指の黒ずみを何度も指摘され禁煙もできなかったので二年でクビになり、次になじみの洋食屋に雑用として拾われて良くしてもらい、まったく別系列の人手不足のレストランに店長同士が知り合いということで回され、あまりにも正統かつ窮屈な店だったので性に合わず人員も確保されたところで辞職して、店長自身が喫煙者で車好きである今の居酒屋に移ったという。だから料理の腕だけはな、と、毒でも入ってんじゃねえのかと懸念しつつ初めてその料理を食し、由来の疑問ばかり出した中里へ、岩城はやはり厳つい顔で違和感のあるほど爽やかに笑ったものだ。金の元だからよ、自信がある。
岩城の来訪は曜日を問わなかった。ただ向こうも走り屋であるためか、大体は中里が山から帰る時間に現れる。来た場合は交換させられた携帯電話の番号によって知らされる。事前に都合を聞いてくることはない。来たい時に来て、作りたいように料理を作り、後片付けをしたらそのまま帰るか、酒まで持ち出すかした後は、ベッドの横にスペースを作り、布団を敷いて寝、早朝にさっさと帰っていく。中里が何をし返すわけでもないというのに、岩城はそれを延々と繰り返し、中里の予想を覆し続けているのだった。
もっとも初めの頃は中里も、やりたいようにすればいい、何をしても通じ得ぬ無力感を味わって、失意の底に沈んで飽きるなり何なりしようが、どうせどうでもいいことだ、となおざりに思っており、そもそもあの野郎が何を思い込んでいるのか勘違いしているのか知れないが、すぐに正気に戻るだろうと捉えていた。厄介事だけは避けたい、関わりたくない、という気持ちもあった。敢えて意識から外していた。それが、この部屋にあの男を迎え始めてから三日で、その動向を無視できなくなっていた。三日目だ。峠からの帰りで深夜になり、携帯電話の着信も気にせず家の近くまで来て、突っ立っているその男の姿を見た時、覚える必要もないはずの罪悪感に襲われて、どうしようもないほど胸が苦しくなった。どれだけ待ったんだ、と聞いて初めて、三時間くれえかな、まあほとんど車でだしよ、と何でもないような顔をして答えられては、近隣の目や防犯について考えるよりも何よりも、自分の心痛を取り除くために、合鍵を渡すことを決定したほどだった。
丁度二週間目、提供された夕食を囲みながら、燃料代についての質問をしたことがある。思えばその頃には既に、その男を無視できずにいることからの居心地の悪さが、腹の底に溢れかえっていた。そのくらいは俺だって計算してるぜ、と得意げに岩城は答えた。そういうことじゃねえよ、と中里は苛立ちながら返した。
「勿体ねえだろ、んなわざわざいちいちこっちまで、何度も何度も来るってのは」
「勿体ねえとか思ったことはねえな、俺は」、と岩城は濃厚なドリアを口に含んだままもごもごと言った。「前の彼女は山形だったし」
「山形?」
中里が眉をひそめると、口の中のものを飲み込んだ岩城が、ああ、とはっきりした声を出した。
「高校時代の同級生でよ、卒業してからどっかこっか転々としてたらしくてな。いつだったか、偶然こっちで会ってよ、何かどうも俺が惚れちまって、家まで送って、その時が山形だ。前が秋田とか何とか……まあ、それから押しかけまくってな。んで付き合ってよ、どのくらいだありゃ……三ヶ月くらい経ってたかな、あんま覚えてねえけど、そいつの家行って合鍵で鍵開けたらあれだ、ベッドの上に裸の野郎が寝てるだけでよ。とりあえず話聞かねえとと思ったんだけど、その野郎の寝てるツラ見てたら何かムカついてきてな、思わず一発殴っちまった。それでそのまま帰って、次の次の日か、もう一回会いに行ったら、鍵が変えられてて、ドアのあれだ、チェーン越しにな、二度と来るなって、泣きながら怒鳴られたぜ。すんげえ顔だった。怒鳴るこたねえよなあ、血も出てなかったんだぜ、そいつ。ああ、殴った野郎の方な。女は殴ってねえ。主義じゃねえし」
「……それで?」
「あ? 終わりだよ。フラれちまった」
その通り、その話は終わり、燃料代についての話に戻ることもなかった。
その翌日、箱根の帰りにまで来られていた時にはさすがに中里も心底参った。結局こちらが動揺しすぎて、大して働きもしないだろう勘を光らせられて事の次第を白状せざるを得ず、一部始終を話し終えるとまず、そんなにイイ女なのか、と岩城は不思議そうに言った。ああ、と中里が何かやましさを感じながらも頷くと、へえ、と納得の声を上げただけで、後は相手の走りの質についてや、どうして走り屋になろうとしたのかなど過去話が始まって、中里の恋情は二度と取り上げられなかった。すると、この男との関係がどうにかならないものかという焦りにも基づいていたが、確かに全身を熱く寒くしていた感情は、綺麗さっぱり消えてしまい、建前上は友人であるはずのこの状態でも、居心地は悪くなる一方で、まったく治まる気配がない。
こうして一月経って、岩城清次という男は自分の思いを伝える時以外に話をまとめる気がほとんどないということが、中里には否でも応でも理解されている。職業遍歴を語った後、現在の店の話が始まってから職場が近いという理由で初めていろは坂に行き、須藤京一に会ったということも、岩城はそれを話してどうしたいということではなく、ただ思い出したから言ってみた、というだけのようで、初めて須藤京一に会った、という事実から何の展開もしなかった。例えば峠の走り屋連中、庄司慎吾などは敢えて話題を逸らすことがある。その場合、後から中里は不快感を得ながらも、正当な怒りを覚えることができるのだが、岩城の場合は計算なく行うものだから、責めることはお門違いにしか感じられず、わだかまりだけが残る。その上、岩城は自分が話したいことを話せば満足する男であるから、こちらが気になったことは一々聞かねばならず、それに対する答えが素っ頓狂であることも往々で、そのため次々質問を浴びせねば気が済まなくなる。そしてしばらくしてから、中里はふと自分が岩城清次という人間についての知識を深めているという現状に気づき、ぞっとするのだ。
いっそ再び手を出された方が、こうして悩まずに済むかもしれない。約束を一度でも違えれば、相手をとことん潰す名目も立ち、関係を絶つこともできる。
だが、二度とあの痛み、屈辱を味わいたくもない。あの行為を強いられるくらいなら、あの行為に関連する記憶をこじ開けられるくらいなら、こうしてぬるま湯に浸かっている方がまだマシだと思う自分もいる。
「……めんどくせえな」
仮定としてもどっちが良いとも決められず、舌打ちし、必要な物だけが置かれ、綺麗に拭かれたテーブルを見る。それから髪の毛もほこりもほとんど落ちていない床、自分が背を預けているホテルのように整えられたベッドまでを見、その自分の家とは思えぬ整頓ぶりを確認し、中里は深いため息を吐いた。元々掃除は嫌いではないから定期的に片付けてはいたが、ここまで毎日整えてはいなかった。冷蔵庫にしてもこのところ、岩城の買ってきたもので占められており、自分の金で入れるものといえば好みの銘柄の酒とつまみくらいなもので、一人の時に開いては食材や嗜好品が無駄なく詰められた状態にわずかに違和感を覚え、だが自然と欲しい物を選び取っている。一人暮らしは長いから、自炊もお手の物だ。それでも、作ってくれる人間がいると、段々と油断が生じてくる。調理を手伝いたくとも岩城は一人の方がやりやすそうで、食器洗いくらいはと手を出せば、その間に風呂が用意されている。何をやっても同等になることがない。生活は、楽といえば楽だ。職場の同僚にも先日、このところ顔の血色が良い、と言われた。確かに峠からの帰りにはコンビニ弁当で済ませていた頃よりは栄養状態も良いし、最初は同じ部屋にあの男がいるのだと思うと緊張して吐き気までしたが、このところはその存在にも何もかもを準備されることにも慣れ、簡単に睡魔に襲われてしまう。
段々と、侵食されている。
明確に何か、精神的な危機を感じるのだが、あの男を遠ざけることを考えようとすると、途端に腹の奥でくすぶっている感情が意識され、思考は停滞する。それは感情というほど大雑把ではない、殺意によった。だが意志ともいえなくなるほど弱まっているそれは、それでもいまだに様々な前提から、取り除かれていない。
人に罵倒されて歯噛みをしたことも、物に八つ当たりしかけたことも、峠で大乱闘を繰り広げたこともある。だが、すべては怒りと悔しさに根付いており、勢い余って相手の骨を砕きかけた時にせよ、殺意に体を突き動かされたことはなかった。それが、あの時――あの野郎が浅ましい顔をさらして人の領域にずかずかと踏み込んで来て、散々体をなぶったあの時ばかりは、殺す、ぶっ殺すという言葉以外に頭に浮かばないほどだった。何が恐ろしかったかといえば、人を殺すことを苦もなく当然と考えられる人間ではないと、そこまで堕落はしていないという自負が、否定されてしまうことで、だから次の時には、肉体の無事を確保することしかできなかった。相手を叩きのめすということが、できなかった。今もできないだろう。真実あの男を殺したいと思っている自分がまだある以上、あの男を暴力をもって引き離すということは、できそうもない。
しかし現状を思うと、あまりの居心地の悪さのため、胃がきりきりとしてくるのだった。
大体、いくら相手が自然にやるからといって、いちいち来てもらい、食材を持ってきてもらい、飯を作ってもらい、掃除をしてもらい、煙草と酒まで買いに行かせているわけだから、すなわちこれは――。
「……釣った魚に餌はやらねえ、みたいな……」
呟き、うわあ、と中里は頭を両手で抱えた。全然違う、釣ってない、俺は断じてあんなものは釣ってないぞ。釣ってたまるかこの野郎。ぶるぶると顔を横に振り、背中を伸ばして後頭部をベッドに乗せる。大体あの男はこちらをあれほど痛めつけたのだ、何を貢がれても遠慮も気兼ねもする必要はない、むしろ贖罪されて当然なのだ。天井を眺めながらそう考えるも、実際にそう思えるかは別だった。
何が当然なのか、どうするべきなのか、自分がどうしたいのか、一切が決められない。
それは二度目に完全なる抵抗を果たせず刺激に流された引け目のためでもあり、あまりにも一直線にこちらに向かってくるあの男の態度のためでもあった。殺意はある。怒りもある。憎しみもある。それ以上に、疑問がある。なぜ、岩城清次はああまでこちらに尽くせるのか、ということだ。
例えば碓氷の沙雪、彼女と同じ空間にいるだけで中里の胸は始終高鳴り、ともすれば頭も体もどうにかなりそうなものだった。仮に岩城清次がこちらに告げてきた惚れた云々が、その当時の自分と同じ感情であるならば、あの男もまたこの部屋ではそうであるということだ。中里からすれば好きな女性と一緒にいて、どこにも触ってはならない、ただ生活の手伝いは許される、という状況において、色々と堪えられるかは自信がない。だがあの男はそもそも堪えているような風もないし、苦しそうな風もない。
そのためあの男の存在自体が、中里にとっては謎になりつつある。
好きだなどとは罪の意識がつい口走らせた都合の良いこじつけで、一度言ってしまった以上取り消すのも恥辱のために岩城は仕方なく動いているのではないか、あるいはこちらを油断させておいてそのうち金品でも盗む気ではなかろうか、と推量も立てて目も光らせたがその兆候はまったくなく、鼻歌交じりに台所に立つ姿や、レースのビデオを持ち込んで来て一緒に鑑賞する時の真剣さ、酒が入った時の無防備さ――こちらがその財布から金を盗めそうなほどだ――、過去から現在、未来に至るまで語る口調の自然さ、馬鹿がつくほどの意見の真正直さなどを思い出すと、とても計画的犯行を成し遂げてくれそうな人間とも捉えられず、だが単なる馬鹿と見なすには割合筋の通った考え方をするので、そういう奴がなぜ自分を好きだなどと抜かしやがるのか、とまで思考を伸ばしては、中里は苦悩する。謎だった。理解ができない。そして時間が経つにつれ、苛立ちを遠ざけるべく無視を肝に念じていたあの男の存在が変に馴染んでくるにつれ、その内実を想像し始め、自分の態度は非情すぎやしないのかとまで疑ってしまう。
「ああクソッ、しゃらくせえ!」
中里は身を起こし、一人叫んだ。情けなさと悔しさと腹立たしさが根強くあり、その上を不信が覆ってきて、普段なら飽くことなくできる内観すら、億劫になってくる。あの男を前にして、強硬に拒絶をできない自分が信じがたく、それどころか逐一労を割かれることに奇妙な負い目を感じて案ずるまでしつつある甘さなどは、もうどこから生じているのか見当もつかない。身体は健康に満足しているが、精神は今にも白旗を揚げそうだ。それも、何に対して降参したいのか、分からない。ただ、あの男とともに過ごしているうちに、これまでの人生において着実に頑強に築いてきた自尊心が、何の非難も侮辱も蹂躙もされていないというのに、少しずつ奪われていっているようだとは、分かる。
少なくとも、この状態が最善であるわけはないのだ。考えてみれば、峠でも仲間に調子が良さそうだと言われ、また付き合いが悪いと言われ出してもいる。確かに岩城からの着信があった日には集中できないため、結果的に夜半に入らぬうちに帰宅するし、この自分一人では維持できない整い具合を見られたくないため、チームの連中を家に呼ぶこともなくなった。何か怪しまれていても、おかしくはない。こちらを負かして悪態を吐きステッカーまでを切り裂いてきた男と、友情を育んでいるなどとチームの連中に誤解されては――それ以上に、あの行為の事実を知られては、面子も潰れ、人望も何も消え去るだろう。引いた目で自分を見、接してくる連中がありありと想像され、中里は寒気を覚えた。最善でないだけではない、このままでは、間違いなく――俺は、駄目になる。
中里は数秒かっちりと目を閉じ、開いてから、今日何度目かも分からぬ深いため息を吐いた。離れるべきなのだ。何でも提供される環境に甘んじて、優柔不断に殺意がどうだの自負がどうだのとためらっている場合ではない、その自負を形成する自我そのものが、このままでは確実にすり減らされていく。得体の知れない好意を受け、理解ができないそれを、その感情を想像だけはできてしまい、その正否も知れないというのに、いつまでも内臓を引き絞る苦痛を味わうこの現状も、最早耐えがたい。あの男にせよ、触れられない相手、それも男に身銭を切っていつまでも尽くしていたって、どんな先があるというのか。報われない。そう、あの男のためにも、離れるべきだ。
中里は慎重に考えた。今にも復活せんとする殺意を封じながら、これまで避けてきた相手との正面衝突をなし、この無為にしか思えぬ煩悶から抜け出すことだ。さもなければ、こちらの人生の先も見えない。この一ヶ月、惰性の素振りも見せずにここへと足しげく通い、今もまたこちらのために、夕食後の充足感に浸っているところを抜け出して、一つも気負わず煙草と酒を自身の財布を持って買いに行った岩城清次を考えると、もうすぐの冬がいざ来ても、自然消滅などはなさそうである。丁度良い、今日この日をもって、引導を渡してしまおう。このまま続けることなど無意味でしかない。あの男がいない時間こそを日常に戻すのだ。やがて孤独に違和感を覚えることもなくなるだろう――。
考え切ったものの、現実感を手にできぬまま点けていないテレビを眺めていた中里の耳は、そうしてドアが開く音を感じ取った。
満足げに帰ってきた岩城に差し出されたコンビニ袋を中身も見ずにテーブルに置き、その素早さに唖然とした男に目の前に座るよう指示をして、何でとも問わずにあぐらをかいたその従順さに苛立ちを感じながら、中里は真っ直ぐその顔を見据え、
「お前、もう来るな」
と間を置かずに断言した。
「あ?」
「もうウチには来るな。俺にも二度と会いに来るんじゃねえ。分かったな」
不可解そうに顔を歪めた岩城へ息を断ち切るように言うと、歪んでいても問題のない顔を数秒保ったのちに岩城は、はあッ?、と大声を上げた。うるせえよバカ、と中里が顔をしかめても、な、何だ、と低い震動の伝わる声を向けてくる。
「え、何、来るな? 何だいきなり、そりゃ一体どうしてだ」
「どうしても何も」、と中里は両手を広げて目を見開いている岩城に少し気圧され顎を引き、それでも身は引かずに、冷静を心がけて答えた。
「こんなママゴトみてえなマネをいつまでも続けてたってお前、何か利益があるってか?」
「利益? そりゃねえだろ。商売じゃないんだし」
ごく当然に答えられ、中里は窮しかけたが、そうだ、と考えながら頷き、指を突きつけた。
「商売じゃねえんだ、利益はねえ。つまりこんなことには一利もねえ、先も見えねえ、それに俺はお前みてえな図体のでかい野郎にこまごま世話されたって、嬉っしくも何ともねえ」
とんとん拍子に発声良く中里が言うと、一層顔をしかめた岩城は、そんなねえねえって、吉幾三じゃあるめえし、と不可解そうに呟いたのち、
「それに、俺は嬉しいんだけどよ」
と、やはりごく当然に言い、その顔の疑念のなさかその声の曇りのなさかその言葉の一方さのためか、中里は限界を超えた苛立ちによる怒りを覚え、途端に頭からは冷静という言葉も思考も跡形もなく消え去った。
「お前のことはどうでもいいんだよ、俺が気に食わねえんだ! だからもうやめろっつってんだよ、俺は!」
結論はそのように単純明快だというのに、伸ばした手で自分を示しながら中里が唾を飛ばす勢いで叫んでも、いや、まあ落ち着けよ、と顎も身も引き気味の岩城は広げた両手を胸の前に挙げ、
「えーと、あれだ、お前だってよ、好きな奴には何かしてやりてえって思うだろ?」
と、人の意見を脇へ置いて問うてきたため、
「俺と、てめえは、友達なんだろうが!」
再び指を突きつけて、そう中里は怒鳴っていた。興奮のあまり、血管がぶち切れそうだ。好きだからといって、友人相手にここまで尽くす道理など、中里の中にはない。引いた顎と上半身はそのまま、だが床に後ろ手をついて尻の位置はそれ以上動かさず、岩城は不満そうに見返してきた。
「ダチでも何でも、だから好きな奴にはよ、見返りとか関係なく、何でもしてやりたくなるもんじゃねえか。それの何が悪いってんだ」
「だからいい悪いの問題じゃねえんだよ! 俺が! この俺がッ、それを気に食わねえっつってんだ、何度言ったらてめえは分かる!」
「何で気に食わねえんだよ」
中里の怒声を受けても、決して反発ではないもののために岩城の顔はしかまるのだった。血は沸騰し切っていたが、そのこちらの内心をまったく理解していないらしい岩城を見ていると、全身に染み渡っている悪意よりも、言葉で説得できていない無力さがひしひしと感じられ、中里は岩城に迫った分を下がって元の位置に座り直してから、俯き一つ息を吐き、改めて顔を上げた。岩城は不可思議そうにこちらを見据えている。冷静、冷静、と一度追っ払ってしまった言葉を胸のうちで繰り返しながら、いいか岩城、と中里は低く、落ち着いた声を出した。
「俺はお前のその、俺を好きってのがいまだに全然まったく一切合財これっぽっちも、理解ができねえんだ。それで色々されたって、ちっともワケが分からねえ。つまり、俺にはそんなことをされるいわれがない、だから気持ちわりいし、気分も悪くなる。気に食わねえ。そういうことだ。いくらお前でも、そのくらい分かるだろうが」
中里が言い終えると、岩城は反らしていた体を起こすとともに、後ろにやっていた腕を胸の前で組んで、目も口も固く結び、この世の次元を解明せんとしているような苦渋の表情を浮かべ、うなった。一抹の希望を抱きながら、中里は待った。やがて岩城はかっと目を開き、滑らかに言った。
「お前、好きな女がいたんだろ?」
唐突な問いに、思考が働かぬうちに、ああ、と中里は頷いており、だろ、と岩城も頷いて、重々しく続けた。
「で、俺は女でも男でも、好きになったら変わりはねえ。だから、お前が女を好きだってのと変わりはねえだろうな。ほら、分かるじゃねえか。簡単だ。それでも何か、気に食わねえか?」
組んだ腕を解き両手を広げ、様子を窺うように尋ねてきた岩城を、中里は開けた口をふさげぬままに見た。夢は潰えた。そうだ、元よりこの男は、相手の常識を理解して歩み寄ってくるのではなく、自分の常識に相手を近づけようと、それを無意識のうちにしてしまう野郎なのだ。大概物事を都合良く解釈してその都度打ちのめされ続けている中里は、岩城のその言い分の根源を、考えるより先に、直観できた。分かる。分かってしまえる。だからこそ、それが自分に向けられていることが、信じがたい。
「……分かった。分かったが……」
中里は岩城から視線を外して呟いて、今まで屈託する際も意識的に避けていた事実を思い浮かべ、感情を整理しつつ、考えは整理できないうちに、目を前方へ戻した。組んだ足の膝を両手で掴んでいる岩城は、忠義者のごとく微動だもせずその場に座ったままである。一度咳払いをしてから、中里は瞬きを多くしつつ、考え考え言葉を出した。
「お前が俺を……好きだってのが、そういうことだとは、分かる、分かるけどな、しかし……なら、何でお前は、こんな状態で、平気でいられるんだ? お前が、そういうんだってんならお前、だからつまり……」
とまで言って、喉の奥まで上ってくる不快感のため、ああクソ、と中里が額を押さえて舌打ちすると、ああ、と岩城が閃いたように言った。
「ヤりてえかどうかってことか?」
目まで覆った手を下げ、あっさり言うんじゃねえよ、と睨みつける。あ、ああ悪い、とすぐに岩城は首を縮こめた。中里が再度舌打ちし、下げた手で首筋をがりがり掻くと、いや、まあ、と焦ったような岩城の声が続いた。
「ヤりたかねえってわけじゃねえっつーかやべえことになってるとも言えるような……いやいや、できりゃあ正直、お前、そりゃ最高だな。最高だ、でもほら、んなことしたら二度とここ入れねえとか何とか、お前が言ったじゃねえか、だからよ」
「それをお前はすんなり呑んでこんな召使いみてえな立場に落ちて、それで満足してられんのか。何だそりゃ、おい岩城、お前にはプライドってもんがねえのかよ」
気後れしたような岩城が、いやその、とちらちらこちらを目だけで見上げながら、
「プライドはあるけどよ、だってお前、好きなんだぜ、俺は。お前が。満足だよ。ムリヤリできねえこともねえよ、いや、やろうとすりゃできるぜ多分、前もしたんだからよ。でもそれじゃお前がつれえだろ、そんな顔見ると、きっと萎えちまう」
それでもはっきりと言うのだった。そのそぐわぬ憂いに沈んでいる顔、声と、現状と過去と事実が、別々に経験的に処理される。思考は追いつかなかった。そのため中里は開けたままの口から、考えもしないで言葉を発した。
「だったら何で、あんなことしやがった」
「あ? 何?」
ただちに理解されないことに頭がかっとなり、平静も保っていられず、そのシャツの胸倉をぐわっと掴み、「初めにッ!」と、怒鳴りつける。
「俺をあんな目に遭わせておいて何がてめえ、俺は、だからまだてめえをぶっ殺したくてたまんねえんだよ! それを何が、何だ、筋が通ってねえ、お前、頭おかしいんじゃねえか!」
岩城は目を白黒させ、両手を顔の横に上げて無抵抗を表すると、あの時はあれだ、と、考えながらのように言葉を発した。
「えー、俺はその、何だ……そう、お前のことはどうでも良くて……」
「はあ?」
片手でシャツを絞り上げたまま、中里は意味を解せず目を剥いた。岩城は眉をひそめ、記憶を探るように遠くへ目をやりながら、とつとつと言った。
「暇つぶしにちょっと、っつー感じで……俺、お前みてえな奴をぶちのめすってのが、結構好きだってだけで、お前がどうこうってんじゃ……そうそう、お前の名前も覚えてなかったし、ああでもお前のことは覚えてた、いや、あのガキ、高橋啓介に負けるまで思い出さなかったけどよ」
中里は布から手を離していた。そのまま無意識のうちに仰け反り、倒れかけたところで後ろ手をつく。岩城は釈然としないように伸びた襟ぐりを整え、しかしだな、と中里が下がった分、顔を寄せてきた。
「そこでヤるまでいったのは、お前が初めてだぜ。普通の奴にはそういう気、起きねえし」
何を言ってんだこいつは、とぼんやり思いながら、俺が普通じゃねえってのか、と中里が反射的に言い返すと、あ?、と眉を大きく上げた岩城は、ああいや、と顔の前で片手を振った。
「いやそうじゃなくて……いやそうか? っつーかこう、こっちに何だ、噛み付いてくるところを、その前に返り討ちにしてやりてえ、みてえな……いや、それじゃあ返り討ちじゃねえか……いや、でも俺ァ、好みの奴じゃねえとそれでも勃たねえよ。だから最初から好きだったんじゃねえのかな」
他人事のように言う岩城を、他人事のように眺める。理解どころか認識が追いついてこない。ただ、口だけは勝手に動く。
「……お前、ついさっき、一分もしねえ前に、どうでも良いって言ってやがったじゃねえか」
「ああ、そりゃまあ……その時はそうだったから、まあ突っ込んで痛い目遭わせてやれりゃいいかな、みてえな……あ、いや、でも二回目からはな、いや二回目っても出した回数じゃなくて、二日目か? あの時から、っつーかあの途中からか、いや最後の方か? ……まあ、とにかく間違いなく好きになったし、今も違いねえよ。うん。好きだぜ。それは確かだ、絶対だ。信じてくれ」
居住まいを正し、岩城は真正面からこちらを見据えてくる。何だこいつは、と思う。確かにこの左右均衡のくせに崩れている顔の、この口で、どうでも良いと言っていた。それでなぜ、好きになる? 惚れた? 同じ好きだと? 何が同じなんだ? こいつは何だ、誰を見てる? 俺か? 俺に何をしろってんだ。何をしろと? わけが分からない。分かったと思ったことが、もう分からない。理解ができない。疑問だけが頭の外側を巡り、内部は徐々に滞り、やがて止まった。中里の体をそうして動かしたのは、少なくとも意志ではなかった。立ち上がり、テレビの横の棚の、上から三番目の引き出しから、封筒を取り出す。危機感を覚えて以後、動向の参考にするべく入れた札が二十枚、そのまま収められている。それをテーブルに落として、どこかおどおどしている岩城を見下ろす。体の表面は熱いのに、内側は凍り付いているように寒い。そのためか、出した声はわずかに震えた。
「それに二十万入ってる。お前が今まで俺に使ってきた金の何倍かにはなるだろ。持って出てって二度と俺の前にそのツラ見せるな」
岩城は封筒に目をやり、それを手に取ると立ち上がり、中身を見ないまま中里に差し出した。中里は岩城を見た。その顔から不安は消え失せており、不審だけが表に染み出していた。
「要らねえよ、これは」
かつてなく、冷静な声で、それはまた諭すような調子を含んでいた。愚弄されたように感じられ、顔に一気に血が上り、中里は封筒を叩き落していた。札が何枚か抜け、床に舞い落ちる。中里は岩城のみを睨み続けた。
「二十万だぜ。中見ろよ」
「お前がそんなに嫌だってんなら……まあ、とりあえずは出てくけどよ、金は要らねえっつってんだ。受け取る理由がねえだろ」
「てめえは俺は、どうでもいいんだろ、だったら金を取れ、取ってさっさとここから出てけ」
「だから、それは前のことで……」
「信じられるかそんなこと!」
喉が千切れそうなまでに叫び、血液の奔流による脳内の轟きに耐えられなくなった中里は、荒い息のまま、床に両膝をついた。あ、おい、と慌てたような岩城の声と気配が、すぐに下りてくる。
「いきなりどうしたんだよ、お前。変だぜ。今まで何も、知らん顔でいただろ。それで別にいいじゃねえか、友達で、問題ねえよ。今まで通りにやってりゃあよ、なあ」
目の前に同じく膝をついた岩城が、そうして両肩を掴み、懸命の体を見せてきた。肩の骨と肉に加えられる力から、捉えられた肉体の記憶が開き、にわかに恐怖を運んできたが、それを悟られたくないがために、中里は岩城の胸倉を再び掴み、触れる寸前までその顔に顔を寄せ、しっかり見据えて声を吐き出した。
「問題あるからこうしてんじゃねえか。俺が耐えられねえんだよ、そういう風にされると、気に食わねえんだって。ずっと前からそうだった。もうお前、何もするな、しなくていい。俺もお前をどうもしねえ。これ以上、俺に関わらないでくれ。放っといてくれよ。どうでもいいと思ってたんだろ、なら今でも思えるだろうが。頼むぜおい、無理なことじゃねえだろう」
どの感情が体を動かしているのか、把握できなかった。怒りか憎しみか悲しみか、だがともかくこの場から脱したい一心で、責めるように、またすがるように中里は岩城にそれを言っていた。顎を上げて顔を遠ざけた岩城が、眉間にしわを作り、筋肉を強張らせた。開いたままのその口から言葉が出てくるまで、時間はかからなかった。
「いや、無理だ」
この緊張に合わない、低いくせに軽い声は、雑音として処理されかけた。内容を理解した時、中里は限界まで目を見張っていた。岩城は口を閉じ、中里が口を開いて息を吸い込んだところで、胸を合わせてきた。横に、結われている岩城の髪の束が見えた。
「好きなんだよ」
耳元で、重さを取り戻した岩城の声が響いた。胸倉を掴んでいる拳を挟んで寄った胸から伝わる拍動と、頭の後ろでどくどくと収縮している血管の調子が違い、心臓が狂っているように感じられた。好き? 好きだから何なんだ。だからどうした。
「俺にどうしろってんだ、お前は」
体を寄せ合ったまま、中里は苦々しく呟いた。頭がうまく働かない。肩を強く掴まれている。耳障りな息遣いが間近で聞こえる。血は頭に上りっぱなしで、それでも内臓は冷えていて、布から手が離せない。震えそうだった。
「触っていいか」
これは既に震えている、岩城の声が耳に入り、耳から抜けていった。頭に何も残らなかった。うるせえよ、と中里は呟いた。脳みそをかき回していく伝わってくる熱も心音も息遣いも何もかもが、うるさくてたまらない。思考が組み立てられないのだ。どうして無理なんだ。何で離してくれないんだ。分からない。どれだけ時間が経っても、雑音はやまない。頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「なあ」
目の先には無駄な物の見当たらない部屋が広がっている。ここがどこなのか、混乱しかける。目を閉じる。内側ばかりがざわめいている。逃げ出したい。だが、どこから逃げ出したいのかが分からない。この体からか、この場からか、この状況からか、この感覚からか――分からないから、逃げ出しようがない。中里は唾を飲んだ。
「触るぜ」
肩の骨を覆っている岩城の手が、そうして背中へ下りていく。ぞくぞくした。床にだけ触れている左手を、強く握り締める。筋肉が攣りそうになるが、力を入れていなければ全身ががたがたと震えそうで、緊張し続けるしかない。背中を布越しに何度も撫でていった岩城の手が、シャツの裾から入り込んでくる。熱いのか冷たいのか判然しない、じっとりとした汗にまみれた手が、地肌を這っていく。
触る? そうだ、触っている。何で触る? 好きだからか? それがどうした。何だというんだ。だが、やらないと言っていたぞ、こいつは。俺がやるなと言ったからだ。なのに何で今は触っている。俺がやるなと言っていないからか? どうして俺はそれを言わない? 不愉快だ。だから止めさせて、追い払えば、それで終わりだ。不愉快? 不愉快なのか? ならなぜ俺は止めていない? どうなってるんだ。どうなってるんだ?
全身にはびこる興奮と熱と不快感と正体の知れない感覚が、思考を妨害する。背筋を余すところなく覆っていった岩城の手が腹に回り、ジャージの下、下着の下に入り込む。陰毛を探られ、その更に下で縮こまっている陰茎を取られる。慣れた感覚が背骨から頭頂へと走っていく。互いの体の間、汗で滑っている手で包まれて、別の手で肋骨をさすられる。じっくりなぞられて、下腹部に血が集まるのが分かる。懐かしい、一人では味わえない快感が迫ってくる。
「なあ、どうだ」
重い音が耳を打つ。気持ちいいか。岩城の声だ。気持ちが良いか? そうだ、気持ちが良い。あの時よりも何十倍も気持ちが良い。早く出してしまいたい。中里は息とともに、声を漏らしていた。心臓の音が近すぎて、吐き気がしてくる。血迷っていた。岩城が余計に体を寄せてきて、背を片手で支えられたまま、床に倒される。中里は目を開いた。すぐ間近に岩城の顔があり、息を呑む。しばらく見合った。採掘場に転がる岩を適当に選んで削り出したような、何の覆いもかけられていない、自然な硬さと無骨さのある顔だ。人をうっとりさせるものではない。それでも中里は目を逸らせなかった。顔に集まっていた血が、一気に首から下に落ちていくのが感じられる。その分、まだ握られている、勃起しかけているものに集まっていく。中里は掴んでいた岩城の胸倉からようやく手を離した。痺れの残る手を、自分の胸の上に置く。見下ろしてくる岩城は突然顔を上げ、頭を振り、忙しなく瞬きをすると、
「触るだけだ、……触るだけ」
と独り言のように呟いて、中里の視界から下方へと消えた。天井を数秒眺め、中里は再び目を閉じた。定期的に欲求は解消しているし、画像や音声だけでは満足に勃起しないことも近頃はあった。その上で、これだ。つまり、そうなることを、体が、頭が、許しているのだろう。それは、これまで受けた献身を無視できないためかもしれないし、脳みそを焼くような快感を期待しているのかもしれないし、動物的本能が理性を凌駕しているのかもしれないし、あの屈辱感が意外にもやってきていないからかもしれない。一人でやる時ほどまとわりついていた、罪悪感と自己嫌悪の気配もない。だが何の理由であれ、端にある不快感と中心にある快感を得ることを、何かが、自分が許していることだけは確かだった。じゃああの時はどうだ、中里は思った。こうしてしごかれて、射精して、次には挙句に入れられたままだ。快感はあった。ならば許したのだろう。違う、許してなどいない、認めてすらいないはずだ、あれは単なる暴行だ。物理的な刺激に肉体が反応しただけだ。あの時は違う。腹の上に唇を押し付けられている感覚はあった。それが消え、天を仰いでいるだろうものに風を受けたような気がした時、じゃあ今は、と考えていた。今は何なんだ? そしてそのものを生温い場所に包まれて、考えは分断された。
「……ッ、お……」
粘膜だ。滑りを帯びた肉が、絞り上げていく。思わず呻いていた。刺激が強すぎる。中里は目を開き、息を止め、下方を見やった。口に含まれていた。五秒も見ていられず、天井を睨みながら、呼吸をし、そのまま声を出す。
「おい、やめろよ、おい」
絶対であるはずの制止の声は、はっきりと出したというのに、岩城の動きを止めなかった。感覚が久しぶりすぎて、新鮮すぎる。分断された考えが霧散し、肉体だけが鮮明になる。やめろ。喘ぐように言っても、刺激は止まない。気づけば腰を抱えられており、逃げようとすると引き付けられて、余計な快感が背骨を貫いた。下腹部が遠い。大腿が突っ張る。射精は堪え切れなかった。吸い取られていくのが分かり、そこで初めて羞恥が血を顔まで引き上げてきた。顔を両手で覆い、二度深呼吸をする。その間に、出し切ったものは解放されていた。口元で合わせた手を腹まで下げて、床につき、上半身を起こす。目の前で、片膝を立てて座っている岩城が、開いた唇を人差し指と中指で拭いながら、こちらを見ていた。中里は露出したままの萎えたものを下着の中にねじ込んでから、岩城を改めて見た。
「……あんま飲むもんじゃねえな、やっぱ」
そう言って、岩城は妙な具合に笑った。ずきずきと耳の後ろが痛んできて、中里は俯き、額に手を当て頭を小さく細かく振った。それから岩城を見ないまま、帰ってくれ、頼む、と言った。無性に居た堪れなかった。恥ずかしさもあれば、後悔もあった。少しののち、前方で動く気配があった。衣擦れの音と、床を踏みしめる音、そして止まり、
「また来ても、いいか」
と、重々しい声が降ってきた。激しい苛立ちに襲われて、額に当てていた手を振り下ろしながら、「勝手にしろ!」、と床に向かって中里は叫んでいた。
「とにかく今は帰ってくれ、帰れ! 俺を一人にしてくれ!」
そうして見上げると、岩城は面食らったようで、あ、ああ、悪かった、と小さく頷き、じゃあ、と縮めた背中を向けた。中里は再び両手で顔を覆い、一つ大きくため息を吐いた。そのまま玄関のドアが開き、閉じる音を聞いて、汗のために額に張り付いている前髪ごと髪を後ろへ両手でかき、顔が仰向いた勢いで床に寝た。全身が汗で濡れていることに、今更気づく。呼吸が平常通りになるまで、時間がかかった。その間に、汗が冷えていき、体は冷えていった。頭も冷えた。
やはり、二度目の時、初めから殴り倒してしまうべきだったのだ。いくらぶっ殺したかったとはいえ、経験は半殺しで止めたはずだ。力で屈服させられたのだから、力で下し返せば、それで済んだ。こんなことにはならなかった。あの時、何をためらっていた? 殺すことをか? 本当は、されたかったんじゃないか? そんなわけがない、あんなことをされたいと誰が思う。あんな痛みも苦しみも、もう御免だ。嫌だった。ためらったのだ。ためらった。あの顔を二度と見たくなかった。あの姿に二度と触れたくなかった。忘れていた記憶が蘇るからだ。一秒たりとも同じ空間にいるという認識をしたくなかった。じゃあさっきは何で許したんだ? こちらこそがどうでも良いと思おうとした相手に、先にどうでも良いと思われていたことが屈辱だったからか? だから『させた』のか? そこまで浅ましくなったのか? どうしたんだ。止めようとした? 本気でしたのか? 本当は何がしたかったんだ? 何をしようとしていた。思い出せない。あの時は逃げた挙句に捕まった。自業自得だ。誰を責めるべきでもないと知っていたはずだ。いや、そうか? 暴行を受けたのは明確にこちら側だった。報復は当然だ。責任はどこにある。どうしようと思っていた。思い出せない。もう昔のことだ。何が正しいかなど今更決められない。あの時決められなかったものを、今決められるわけがないのだ。ではこのままいくのか? ついさっき、やめると決断していたのに? あれは何だったんだ。決めていたじゃないか。なぜ覆した。何を迷った。
――何で、こんなことになってんだ?
「……何やってんだあ、俺は……」
声にすると、急に様々なものがこみ上げてきて、中里はそれを堪え切れなかった。
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