落ちる 2/2
風が窓を叩き、時折ガツガツと不安定な音を起こす。数秒で髪が乱れたほどの威力だった。外ではまだ続いているらしい。他に部屋にあるのは冷蔵庫が発するかすかなモーター音と、時計が秒針を進める音くらいなものだった。紫煙を吐き出して数秒でそれらが気になり出し、中里は五回吸っただけの煙草を灰皿の脇にねじ込んだ。新たな煙草を取り出して、火を点ける。吸った瞬間は思考が止まる。煙を吐くと、感覚が鮮明になる。そして苛立つ。何十分も同じことを繰り返していた。少しでも峠に行っていれば、気も晴れたかもしれない。だが迷っている状態で走っても、車に失礼である気がした。それに今日は風が強い。気を抜いた挙句、ひっくり返ってはお粗末すぎる。こうして煙草を吹かしながら、そして岩城清次を待つ時間だけが過ぎていく。
火の点いている煙草のフィルター部分を親指でこすりながら、中里は過去の例を探した。私事で共通しそうな動機を持つものといえば、愛車の転換だろうか。シルビアからスカイラインに乗り換える時点で、迷いはなかった。他の人間がどう思おうが、どうでも良いと思っていたし、今もそう思っている。速さへの欲求を止める理由を持たなかった。やりたいものはやりたいのだ。昨夜を振り返る限り、あの男もそういう原理で動いているだけなのだろうと想像された。その変わり身の早さも、だから今では納得もできる。惚れてしまったら、他のものは見えなくなる。思い出の蓄積による愛着などとは別の、体の奥底からわき上がってくる、天啓のごとき絶対性を持ち、先天的であるかのような自然さを持ち、常に情念をはらむ、一つの欲望が、すべてを決定するのだ。その動機自体を疑うつもりもないし、非難する気もない。
だが、中里には今もって、岩城清次に好かれなければならない因果関係が飲み込めなかった。これまでの話の中で、何が好きだと明確に提示されたこともあったような気はするが、信じたくもなかったので意識から除外をし、結局ほとんど記憶には残っていない。おぼろげな欠片も、不気味さが先に立って追放してしまう。そのため根拠は知れないが、しかし昨日のあの男の様子を思い出すだけで、あれは重症だと簡単に頷けた。確かにあの男は、こちらに惚れている。それは認めざるを得ない。あの男の好きだという感覚が、自分の持つそれと同様であることも、あそこまで言い張られては、理解しないわけにはいかない。
しかし、なぜ『そうならなければならないのか』が、分からなかった。中里の持つ岩城清次という男の概念と、そういった理屈とは、一致しない。そもそも概念が、統一されていないのだ。
あの男については、人間として、まあいいんじゃないかとは思える。致命的な鈍感さや走り屋としての無責任な悪意の飛ばしようは、自らを振り返ると責められるものでもないし、それを除けば基本的には律儀で、重大な欠陥もない人格の持ち主だ。目の保養になるような顔でもないが、不備もない。あくまでも何の私情も交えず一人の人間として見るならば、嫌いではない。だが、特別な意味で好きになることはないと、断言できる。どれだけ世話をされたところで、あの行為への欲望など喚起されないし、一緒にいても、驚きや怒りや苛立ち以外で胸が高鳴ることが一切ない。言動も悪態も親切も何もかもが型にはまりすぎていて、本来、嫌いと思えるまでに、意識もできない相手なのだ。だから、腹の据わりが悪い。期待に、恩に応えられないという、罪悪感が生まれて、胸を締めつける。だが、ここから下に、私的なこだわりが挟まっている。最初の屈服による屈託だ。その前提のため、嫌悪感が入り込み、罪悪感を認めないように、相手を無視する傲慢さを保たねばならない。そしてその更に下、基本的事項として、走り屋としての立場がある。実力は劣るはずはないという自負と、一度の敗北による事実上の格差だった。
岩城清次について考える時、そうして方向性の違う事が一気に押し寄せてきて、どれを放るわけにもいかず、理性と感情がそれぞれ正当性を主張し、まとめられない。結局、概念は統一されない。理屈を適用できない。あの男が分からない。あの男をどう捉えれば良いのか分からない。時間が解決するかとも思われたが、この一ヶ月のおかげで、収拾がつかなくなった。次々既成事実ができあがり、突っつけば本体を崩せたはずの穴も消えた。
あの男と一生顔を合わせない、ということはリベンジがならないということで、まず走り屋としての自分が許さないし、ではここに来させないことにする、ということはどうかといえば、あの男の性質を理解し始めている自分がちょっと待てと手を上げる。そこまでするほどあれは悪い奴か? そこで屈した自分が現れて、あの男の悪行をよりどころとして返報を主張する。理性的な自分が客観的にそれは当然だろうと頷いて、自虐的な自分はこれまでのあの男の献身と自分の責任の事実を押し付けてくる。自尊的な自分はそれに負けじと自分が作り上げてきた立場による正当性を発掘してくる。どの自分も自分でしかない。否定はできない。だがどれか一つでも肯定すれば、矛盾が生じる。収拾が、つかないのだ。
どのような場合においても矛盾しないことといえば、ばつが悪い、これしかなかった。どうあがいても解消できそうにないことだ。そしてどうされたところで苛立ちを消せないのであれば、もういっそあの男が飽きるまですべてを受け入れてしまうのが吉ではないか、と考え出しては、待て待て諦めるのは癪に障るぞ、と思い、いやいや癪に障るとかいう問題ではなく、といった具合に中里は堂々巡りに陥るのだった。結局分からない。あの男をどう受け止めるべきなのか、そして自分がどうするべきなのか、本当に、さっぱり分からない。これほど先の見えないことなど今までなかった。目的地が知られていない。延々走るだけで、どこへたどり着くのか誰も教えてくれもしないし、自分で探そうとしても地図一つ、羅針盤すらもない。だがもう、立ち止まれないのだ。何かを決めて、進んでいかねばならない。でなければ終わりはない。かといって進んでも、終わりはない。終わりを作ろうとしていないからだ。
元々一度決めたら梃子でも動かぬ気性が取り柄だった。歯がゆさを覚えないわけでもなかったが、そうしかできない自分こそが中里にとっては誇りだった。それが自分だった。だが今はどうだ。迷ってばかりで、一度決めたことも覆した。今までの自分が通用しないのだ。ならば、新しくなるべきだろうか。これから作っていくべきなのか。今更だ。過去の自分はどうなるというのだ。これまでの自分は――。
「……何やってんだろうなあ……」
ふと指まで灰が到着しかけていることに気づき、中里は慌てて煙草を灰皿の端にねじ込んだ。吸殻を積み過ぎて、灰皿の底はとうの昔に見えなくなっている。どれもが完全に役目を果たさぬうちに曲げられているものだから、余計にかさばっている。せめて吸い切るべきだと思いながら、箱から一本抜き出す手は止まらない。吸い始めてから、何やってんだ、ともう一度呟く。何をくだらねえことを。だが、最早同じことを考えすぎて、感じすぎて、自責の念も枯渇してきた。雪辱を遂げる相手でしかなかった男に、こうまでかく乱されるなど、予想もしなかった。むしろこちらがかく乱させてこそだったはずだ。道理から外れている。それでも買ってこられた煙草を吸っている。気が紛れることはない。ただ、捨てるのも勿体ないという思いが、口に咥えさせるのだ。二十万はそんな風にも思わなかった。二十万。一万円札が二十枚。車をいじるうちに簡単に飛んでいくほどだが、少ない金と言えるものではない。それを投げ捨てようとした。本当にあの男が受け取ることを、金で事態を解決することを望んでいたのか、その時も今も分からないままだ。衝撃が過ぎていたのかもしれない。取り乱していた。だが、あの姿こそが、あの振る舞いこそが、あの状態こそが本来の自分だと言われても、否定できる自信すら枯渇してきている。このままでは駄目になる。そう思っても、何が駄目であるのかということまでが曖昧になり、考えられなくなっていく。思考はそして、放擲される。
四箱目の煙草が残り三本になったところで、玄関のチャイムが鳴った。火を点けたばかりの煙草を灰皿の端で強引に潰し、ドアへ行く。覗き穴を確認もせずに開くと、先にいた岩城は驚いたように黒いジャージに包まれている体を揺らした。それを見て中里は筋肉を緊張させていた。近頃ではチャイムも鳴らさなくなっていたのだ。
「よお」
「ああ」
「あー……あのよ、中里、昨日は……」
外に立ったまま、窺うように見上げてきながら岩城は言う。入れよ、とその言葉を最後まで聞かず、中里は部屋に戻った。ドアが閉まる音がした後、人の気配が遠くに生まれた。中里は部屋の中央に立ち、テーブルの煙草を見て、首を振り、ため息を吐いた。来ると分かっていたのに、ひどく焦ってしまっている。掌に汗がにじんで、顔に血が少しずつ集まり、体のどこかを動かしていなければ落ち着かない。舌打ちしてから部屋の入り口を見ると、そこで立ち止まっていた岩城と目が合った。紙袋を片手に提げている岩城は、びっくりしているような不安なような不思議なような、またはそのどれもであるかのような頓狂な顔をして、口は閉じたままだった。沈黙に苛立った中里が、睨みながら何だと問うと、あ、ああ、とようやくその口が開く。
「いや、その……昨日は悪かった」
口ごもりながらの岩城の言葉を、いい、そりゃもう、と再び途中で中里がさえぎると、約束破っちまって、とまで続けた岩城は、
「あ?」
と、今度は分かりやすく満面に不審を広げた。いいんだ、と中里は岩城に対して半身になって、片手を振りながら投げやりに言った。
「俺が許したことだ、よく分かんねえが……いや、だから……俺も帰れと言っちまったし……とにかく、もう終わったことだ、どうでもいい。ぐだぐだ言うな」
訝しげなままの岩城は、そ、そうか、とそれでも頷き、二度咳払いをすると、一歩こちらに歩み寄り、なあ、と意を決したように声をかけてきた。何だ、と他に適切な態度も考えつかず中里は、ただ睨みつける。何か遠慮がちに岩城は、腕を組みながら言った。
「その、俺も考えたんだけどな」
「何を」
「……俺は、お前が好きなんだよ」
言い聞かせてくるようなその言葉に引っかかりを感じながらも、ああ、と中里が頷くと、こちらも頷いた岩城が、それで、と続ける。
「お前の嫌がることをしちまってても、仕様がねえっつーか……まあお前も満更でもねえんじゃねえかとか勝手に思ってて……いや別に何もねえってことは何もねえってことだから、何か変にあるよりゃいいんじゃねえかとか……でも、ここまでそんなに気に食わなかったってのは、その、気がつかなくて、悪かったというか……」
「悪かったも何も」、と一向に進まぬ話に早々に業を煮やした中里は、またも岩城の言葉を断ち切った。
「もうどうでもいいんだよ、さっき言っただろうが。まだるっこしくてたまらねえ、本題を言え本題を!」
「あ、ああ」
怒鳴り声を受けて多少うろたえたようだったが、口元に拳を当てて咳払いをしたのち岩城は、それまでぴくぴくと動かしていた眉毛を厳しく固定し、泳がせていた目はこちらに据えた。中里は身構えた。岩城は口から大きく息を吸い、数秒止め、顔を背けて一度吐き出し、再び中里を見据えると、今度は音を立てずに息を吸った直後、
「お前が今日ヤらせてくれねえなら、俺はもう二度とお前に会いには来ねえ。決めてくれ」
と、ゆっくりと言った。それがゆっくりだったためか、あるいはその声の調子が常以上に重かったためか、中里は咄嗟に意味を解しかねた。
「何?」
「ヤらせてくれるなら絶対痛い思いはさせねえよ」、と岩城は力強く言ったのち、はたと気づいたように、「ただお前が嫌なら絶対やらねえし、もう会いに来る気もねえんだ、マジで。お前が嫌なら」、と焦った様子で続けた。
中里は岩城をまじまじと見た。決める?
「どうだ」
両手を広げてこちらを窺う岩城は、断罪を待つ殉教者のような悲壮さを持っていた。こめかみの辺りがうずいてきて、中里は岩城から顔を背けた。火照る頬を手で撫で、決める、と考える。何で俺が、こいつのことまで決めなきゃなんねえんだ?
「お前のしたいようにするぜ、俺は。中里」
声に導かれるように、中里は再び岩城を見た。これ以外に選択も考えいないというような、愚直な様相が目に飛び込んでくる。中里は深く考えられぬまま、顎を撫でていた手で、岩城を指差すようにした。
「お前……俺に、決めろってか」
「ああ」
「お前の処遇を、俺が……」、とまで言って、中里は額に手を当て、首を横に振った。そして額に当てた手で髪を頭頂までかき、そこで岩城を見据え、何で、と呆れながら尋ねた。
「俺がそこまでできる。お前のことじゃねえか、お前が決めろよ」
「いや俺がしてえのは、お前が嫌がらねえことなんだぜ。でもそりゃ俺にはいまいち分かんねえし、だったらお前が決めるのが一番手っ取り早いじゃねえか。簡単だ。間違いもねえ。な?」
同意を求めてくる岩城は、自説の合理性をまったく疑っていないようだった。確かに簡単で、間違いのない方法ではある。他人事ならば中里も首肯しただろう。だがこの男が相手にしている人間とは、紛れもなく自分だった。そしてその自分は、その簡単で、間違いのない方法すらもできない状態にあるのだ。中里は俯き、頭頂で止めていた手を後ろにやって、それでひとしきり首筋をかくと、そのまま一歩岩城に近寄って、あと一歩の間合いを保ったまま顔を上げ、あのな岩城、と言った。
「言っておくが、俺はもうお前の関わることなら何でも嫌になってんだ。良いも悪いもねえ。分かるだろ? そいつが何をやったって気に食わねえんだよ。そいつがいてもいなくても同じなんだ。この世から消えたってそれはそれで気に食わねえ。どうしようもねえ。それで、お前は俺にどうしろってんだ?」
鼻白んだような岩城の顔を見るまでもなく、感情的になっている自覚は持てた。声は震え、抑揚がつきすぎている。顔は熱く、筋肉が変に緊張している。だが冷静さは勝ち取れなかった。どうしようもねえ。その思いと苛立ちが、勝手に体を動かしてしまう。
「なあ、お前ホントにいきなりどうしたんだ?」、と、岩城はこちらの問いには答えず、釈然としない様子で聞いてきた。「そんなこと、今まで一つも言わなかったじゃねえか」
「いきなりじゃねえ、お前が気づかなかっただけだ。ずっと俺は、お前のことが気になって気になって仕方がなかった」
その返答を聞いてすぐ、はっとした岩城の、目を見開き口を笑みの形にしながらの、
「それは俺が好きって――」
「帰るか今すぐ!」
言葉は迅速にそう遮って、中里は玄関の方向を指差した。作りかけた笑みを消し、いやいやいやいやいや、と岩城は真面目ぶって首を振る。ため息を吐いてから、クソ、と中里は舌打ちした。
「昨日、肝心なことを言い忘れてた」
「あ?」
「お前のことは、好きにはならねえよ」
言ってから、中里は岩城を見た。
「俺は。一生な」
目を逸らさずに言い切ると、岩城はしばらく不可解そうに見返してきた。それから難しそうに眉根を寄せ、鼻の頭を空いている手の親指でこすり、まあそれは後で考えるからいいけどよ、と簡単に言った。
「とりあえず、どっちか決めてくれよ。とどのつまり、やるかやらねえかだ、今の問題は」
中里が極限までしかめた顔で睨みつけても、岩城は臆することもなかった。先に視線を外したのは中里だった。とりあえず? 頭が痛くなってくる。好きな相手と会えなくなるほどの決断を、とりあえずで済ますのか? 好きな相手に好かれないと告げられたことも、後で考えるからいいのか? 何だこいつは。分からない。中里は頭を振り、足を動かした。考えたくもない。考えたくないのだ。岩城を無視し、ベッドの前まで行き、掛け布をすべて床に落とす。そうしてから岩城を向き、間の抜けている顔を一瞥してから、その上腕を掴んで思い切り引っ張り、ベッドへと投げた。ベッドに尻をついた岩城が勢いそのまま後頭部を壁にぶつけ、呻く。中里はその腹にまたがり、後頭部を押さえながら上げた岩城の顔を下から覗き込んだ。うわ、と岩城は仰け反り、壁に後頭部をかばった手の甲をつける。その顎を右手で掴んで、中里は口付けた。唇を触れ合わせるだけで、すぐに顔を離す。岩城は目を見開いていた。その顎を掴む手に力を込めながら、嬉しいか、と中里は言った。は?、と更に目を大きくする岩城へ、しっかりと口を動かしながら、再度問う。
「俺に、こんなことをされて、お前は嬉しいのか。俺にこんな風にされてお前は嬉しいのか?」
中里は岩城を見据え続けた。岩城は眉間を狭くして、眉と目の間も狭くして、しばらく口を開けたままでいた。やがて一度目を逸らしてから、はっきりとこちらに戻し、
「お前はこういうのは、好きじゃねえのか」
と、不思議そうに、問い返してきた。中里は言葉を返すために空気を吸い込んで、そのまま息だけ吐き出した。そして掴んでいた岩城の顎から手を外し、その体からも降りた。ベッドに座り、間を置かず、上着を脱ぐ。この男が気になるのは、好意のためでも、恋情のためでも、嫉妬のためでも、悪意のためでもなかった。今、そのどれもは腹の奥底で眠っている。上半身を裸にすると、スウェットパンツも脱ぎ、下着も脱いで、靴下も脱いだ。思考は体を支配しない。思いでもない。欲求だ。理解できるはずのものを、理解できないことによる恐怖、それを回避するためだけに、筋肉を収縮させ、関節を動かし、素裸にまでなる。暖房の効いている部屋は温いが、それでも鳥肌が立った。
「お、おい、何して……」
焦ったような声を出した岩城を向き、シーツに後ろ手をついて、足を開く。見目が良い状態とも到底思えないまま、やりたきゃやれよ、と中里は言った。後のことは、それから考える。
呆然とその場に正座をしていた岩城は、中里が自分の体勢を冷静に捉え出した頃、陽気さの欠片もない重々しい声を発した。
「……い、いいのか」
「お前は俺の話を聞いてねえのか」
「いやいや聞いてる聞いてる聞いた聞いた、うん……」
岩城は頷くも、こちらを下から上まで眺めるだけで、そして信じられぬように言った。
「……いや……なあ、マジでいいのか」
「やりたきゃやれっつってんだろ、俺は! だってのにいちいち人にお伺いを立ててくるんじゃねえ!」
自分の格好を滑稽に感じ始めていた中里が、どうとも処されぬ状況に怒りに覚え、後ろにやった手を前に戻して振り回しながら叫ぶと、あ、ああ、と岩城は目を泳がせて頷き、その場で服を脱ぎ始めた。中里は呼吸を整えながら、ベッドに寝転がった。仰向けになり、両手で顔を覆う。顔が熱い。頭が痛い。太ももの外側に他人の熱が触れた。中里は顔から手を除いた。目の前に、嘘のように真剣な岩城の顔がある。その唇が、躊躇している風に開く。
「あのな」
何だ、と中里が苛立ちを隠さず睨み上げると、いや、と岩城は数秒顔を背け、思い切ったように再び見下ろしてきた。
「俺は、始めたら止めらんねえぜ。いいんだな」
念を押すような調子だった。どこかで致命的な間違いを犯している感じが一瞬したが、一瞬で過ぎ去ったので、いいんだよ、と中里は潜めた声で岩城へ凄んだ。
「さっさとしろ、俺は、お前のことを考えてると頭がおかしくなりそうなんだ、これ以上俺に何も考えさせるな。分かったな」
「わ、分かった、よし……キスしていいか?」
中里は目をつむり、情動をやり過ごした数秒後に開いた。そして位置の変わっていない岩城の頬を両側から手で押さえ、自分の頭を持ち上げて唇を合わせた。歯が当たる。性欲など感じない。唇に触れる相手の肉も、ずるりと中に侵入してくる肉も、おぞましいばかりだった。だがやめられない。放り出せない。すべてを遮断しても、こびりついている記憶は消せない。存在は残る。それに怯えたくはない。岩城の手が頬を覆い、餌を貪る肉食獣のような勢いで幾度も唇を、舌を、粘膜をこすり合わせてくる。ぴりぴりとした刺激が背筋を固め、首を辛くする。中里がその頬から手を離し、口付けから逃れるように頭をベッドに戻すと、岩城は追ってはこず、何かを恐れているように、それでいて何かに心酔しているように目を細めた。
「……好きだ」
呟きは、顎に触れた。唇がそこから、喉までゆっくり折りていく。時折軽く吸いつかれ、ざらついた舌で皮膚を舐められる。何もない、と中里は思った。これは単なる作業だ。何の意味もない。何もねえ。それ以外には何も思えなかった。岩城の手が肩から上腕の外側へ滑っていく。唇は胸を行き、突起を挟む。じっとりと舐め上げ、また細かく擦られ、歯を立てられて、全身の毛穴が拡張していった。吐き出す息まで熱くなる。中里は目をつむり、歯を食いしばり、両手でシーツを握り締めた。力を入れていなければ、自分がどう動くか分からない。鬱陶しいほど丁寧に、岩城は表皮を唇で撫でていく。胸から腹へ、そして腹から鼠径へ伝い、血が集まり出している陰茎へ着く。唾液をなすられる感触には慣れなかった。だが含まれると、むき出しにされた粘膜が刺激を味わい出して、快感にかすむ頭から下腹部が離れていく。時間がどれほど経ったかは分からなかったが、温い口腔から外気へ出された時、自分のものがしっかりと勃ち上がっていることは分かった。腰の奥がうずいている。その時かさついた音と何かがシーツの上に落ちる音がして、更に足を開かせられたのを感じ、中里は目を開いた。自分の足の間に座った岩城は手にボトルを持っており、蓋が開かれたそこからその中身が下腹部に垂らされるのを中里は見た。冷たさと、ぬめる液体が肌を進む感触が、視覚と一致した。ボトルを放った岩城が、先走りとその液体にまみれた陰茎に手で触れながら、顔を寄せてきた。
「痛かったら、言えよ……」
熱に浮かされているような囁きに、その意味を解さぬうちに中里が頷くと、岩城もまた頷いた。触れているものを軽く擦りながら、別の手で陰嚢を揉み、そしてその下の窄まりへ指先をあてがってくる。勃起しきっている中心を扱かれ、穴の周囲を撫でられて、むずむずとした刺激が、直接的な快感を煽った。視界がわずらわしく、目を閉じる。鼻から声が漏れていくのを止められない。やがて勝手にひくつき出したそこに指を差し入れられ、中里は反射的に腰を引こうとしたが、自身の天頂を擦られて動きを阻まれた。節くれだった長く太い指が、ゆっくりと抜き差しされる。同時に陰茎にも刺激を受けているために、痛みと快感が判別できない。
「大丈夫か」
動きを止めての遠くからの問いかけに、中里はともかく頷いた。不必要な快感を与えられ、それを求めることに、疑問を感じる余裕もなくなっていた。全身が熱くなり、汗が染み出すばかりで、呼吸も整えられない。増えた指が、繊細に、丹念に中を広げてくる。何度も味わった異物感にも、規則的な刺激にも慣れ始め、ゆっくり息を吐いたところで、中里は頭が真っ白になるのを感じた。声を上げていた。それが刺激のためであるとは瞬時に理解し得ず、肉を押し広げている指の動きを再び感じ出し、数度繰り返し同じ場所を擦られて、ようやく何度も追い詰められたその感覚を思い出すと同時に、射精していた。
出し切ってしまうと、思考を覆っていたもやが、さあっと晴れていくようだった。その頃には緩まった場所から指を抜かれており、何もない平常の状態に違和感を覚え、中里は再び目を開いた。天井だけが見える。膝裏に触れられる感触があった。足を更に開かれていた。中里が頭をもたげようとすると、それより先に岩城が両肘を顔の横に落とし、目の前まで寄ってきた。何か言われるのかとぼんやり思ったが、岩城は進む勢いそのまま唇を寄せてきた。有無を言わさぬように舌が入り込んでくる。中里は岩城の動きを抑えるようにその頬を両手で固定したが、中をかき回してくる肉の動きまでは止めようがなかった。えぐい。だが、吐き気はしない。あるのは脳みそが焼け焦げそうな感覚だけだった。そして唇をふさがれたまま、物足りなさがつきまとっていた場所へ入り込まれ、中里は限度を越えた圧迫感におののき、岩城の口の中で呻いた。鮮明な肉体の記憶が屈辱を呼び起こし、中里は岩城の舌を噛んでいた。口は解放された。呼吸はどうしようもなく浅くなった。
「……いてえか?」
「いや……クソ……いい、早く……済ませちまえ」
泡立っている唾を飲み込み、息を落ち着かせながら、怪訝そうにこちらを窺ってくる岩城へ言い捨てる。入れて、出して、それで終わりのはずだ。余計なことが多すぎる。だから益々混乱する。何にどんな意味を見出せば良いのか、何が暴行で何が認められるのか、何が適当で何が不適当か、分からなくなる。与えられる性感が鮮明すぎて、煩雑な思考などは入り込む余地がない。岩城は根元まで収めてきたのち、極端なまでにじっくりと引き、押し込むことを繰り返した。恐怖を感じ、中里は顔をしかめた。貫かれていることに対する、痛みに対する恐怖ではない。この先自分がどうなるのか、一つも予想が立てられないことに対する恐怖だった。そのため焦れったいほど遅く動く岩城のものによって、今度はそうと直感できた刺激を引き起こされた時、中里は迷わず声を上げていた。
「おい、やめ……ッ」
「どうした」
「……あ、く……そ」
そこで止められると、じりじりとした感覚が続くばかりで、体が動くのを抑えることが辛く、何でもねえ、と中里は目を閉じた。何でもない。何もない。実際何もなかった。岩城は止まったままで、
「大丈夫か?」
と問うてくるだけだった。腰が動かぬように腹から下腿までに力を込めながら、中里は閉じた目を開いた。岩城の顔が間近にあった。すべて引っ詰められている髪のいくらかがほどけ、その額に張りつき、前衛的な模様を作り出している。何とはなしに中里はそれを見た。そしてその下の太すぎない眉と、硬そうな目までを見た瞬間、一気に顔が熱くなり、首をねじって、シーツを延々握っていた手でその視線から隠れるようにした。一拍遅れて、沸騰した頭に羞恥心が上ってきた。
「毅」
耳に息が触れ、油断していた体が揺れた。名前を呼ばれることに違和感を覚えられもしなかった。全身が燃えているように熱く、汗が止まらない。頭の中は空っぽだ。唐突に動かれて、そのため悲鳴のような声が漏れた。
「や……ッ、やめろ、岩城、い……」
「言っただろ、もう駄目だ。止まんねえ」
「違う、これは……」
「痛かねえだろ?」
耳元で囁かれて押し込まれても、中里は否定できなかった。痛みはある。だが、遠すぎる。受け入れている場所が快感ばかりをつなぎ、状況をより一層明確にする。過去とは違う。力によって屈しているのではない。強制されているのではない。自ら受け入れて、感じている。今更それを思い知った。たまらない。たまらないほど甘美で、恥ずかしい。岩城は押し込んだ状態のまま再び止まり、顔を覆っていた中里の腕を掴むと、力強く、慎重に、剥いでいった。中里は右の頬をシーツにつけたまま、目だけを岩城に向けた。その恍惚としたような顔、そのねっとりとした視線を感じると、ぞくぞくとしたものが腰の奥から頭の上まで駆け上り、勝手に肉が動いた。
「名前、呼んでくれよ」
笑みのような、呆けているような表情で、岩城は言う。清次って。意味を考えられぬまま、鸚鵡返しに中里は、その名を呟いた。たった三文字ですら、舌がうまく回らなかった。岩城は完全な、陶然としているというのに陰惨な笑みを作り、身を起こしてこちらの足を抱え直すと、最初よりも滑らかに動き出した。待ち構えていた体が独りでに呼応する。
「あ……あ、あ……」
放られた手でシーツを再び掴み、衝動を抑えようとするが、奥まで擦っていく動きを腰が追っていった。声も抑えられない。何を見るべきか、何を見るべきではないかも分からなくなり、中里は瞬きだけを繰り返した。全身が快楽に埋まっていく。前後が知れない。肉が肉を打つ音がどれほど高まっても、痛みは遠く、被さってくる岩城の体温、いつの間にかすがってしまっている背の肉の感触の方が、よほど近かった。
「好きだ……好きだ」
肩を抱いてきながら、すぐ目の前でうわ言のように岩城が繰り返す。まともに働かない頭は、その言葉の意味も取り上げず、肉体を絶対とするだけだった。中里は喘いでいた。そうして呼吸をしているのか、声を上げているのか判然としなくなり、合間合間に揺さぶってくる男の名を呼ぶも、喉は緩まる一方だった。唾を飲み込む暇もない。岩城は休まない。激しくされればされるほど、何かが近づいてくる。泥沼のような快楽の中、蕩けた体が引きつっていく。それは徐々に迫り、唐突に背骨を貫いた。脳髄にまでしびれが走り、そのまま何度も突き上げられ、視界の端が白くなった。時間の感覚が失われ、いつ波が去ったのかも分からなかった。射精の快感はその後すぐに直接の刺激によって与えられたので、終わりだけは分かった。ただ岩城がいつ達したのかも分からなかった。
岩城の体が離れていくことに、未練は感じなかった。感じたのは喉の渇きだった。唾を飲み込み、乾燥した口内にも液を移す。呼吸は楽にはならない。一度咳き込んだ。再度唾を飲み、一つため息を吐くと、岩城が戻ってきた。体を密着させてくる。その熱を感じると、途端に自分の体の輪郭がはっきりと認識された。
「なあ」
こめかみから汗を滴らせながら、岩城は多少乱れている息の合間から、反応を求める声をかけてくる。ほとんど出ていない唾液を飲み込んでから、何だ、と中里は問うた。
「付き合ってくれねえか」
見下ろしてくる岩城の顔には一つの迷いも見えなかった。中里は目を閉じ、顔をしかめた。何もかもが抜けたためか、現実感がどんどんと戻ってきている。だが岩城の言葉が表していることは、随分と昔の話のように思えた。適当な記憶を掘り出してから、中里は顔から無駄な力を抜き、岩城を見上げ、返事をくれてやった。
「俺は、お前のことは、好きにはなれねえよ」
この期に及んでもまだ、終わりへの一抹の希望は捨てられなかった。普通の奴ならば決めるはずだという期待があった。岩城清次という男がそういう意味での普通の奴ではないことを知った上で、まだ無責任な願いを抱いていた。自分の身に起きたことを、自分が招いたことを全部余さず受け止める自信もなかった。終わりが提示されれば、少なくとも過去にはなる。それは一抹の希望だった。後は己の甘さが完膚なきまでに砕かれることが望まれており、それ以上にもう何でもいいという自棄の気持ちがあった。
「付き合ってくれねえかっつってんだぜ、俺は」
そして中里の眼前で、岩城は不満げにそう言った。明らかに甘えが打ち砕かれた。更に、そのある方向では曇りのない顔をずっと目にしていると、自棄の気持ちが増大していき、事態の細かい意味を考えることも無駄に思えてきた。な、と岩城はそうして浅いところでその定義を思い出しかけている中里に、決断を促してくる。否定されることを想定していないような性急さだった。あるいは当初の意味においては既に否定されていることを知っており、新たな意味を持ち出しているのかもしれない。分からない。この男が何を考えているのかなど、最早考えられない。それよりこのべたついている体をどうにかしたいのだ。
「……ああ」
「何?」
顎を上げて顔を逸らし、呻くように言うと、岩城は律儀に上から覗き込んできた。中里は舌打ちして、今度は横に顔を向け、勝手にしろよ、と言い捨てた。いいのか、と岩城はまたも顔を真正面に運んでくる。そのしつこさに我慢がならず、岩城の額を手でわし掴みにし、押し上げながら中里は、だから、と叫ぶように言った。
「お前はいちいち俺に聞いてくるな、俺はもう、今はお前のことなんか考えたくもねえんだ。好きにやってくれ」
押し上げられた岩城は、中里が額から手を離してもその体勢のままで、そうか、と重々しく頷くと、よし、と再び素早くのしかかってきた。
「じゃあ、もう一回しようぜ」
「は?」
ようやく抜け出せられるとばかり思っていた中里は、目を剥いていた。恋人同士としてよ、と岩城は凄みしかない笑みを浮かべながら、当然のように続けてくる。中里はその意味を頭に浸透させてから、断る、と言おうとして口を開いたが、「大丈夫だ」、と岩城に機先を制された。
「無理はさせねえ。俺がいったら終わりだ、それでいいだろ」
そこでようやく、断る、と吸い込んだ息を声として出せたが、ゴムつけねえからよ、と岩城は笑みを浮かべたまま軽々と言った。そしたら早く終わるはずだ。中里は頭痛を感じた。どこかの血管が内側で破れているような気さえした。だが痛みに襲われている場合でもないので、
「お前、人の話を……ッ」
早くに反論しようとして、唐突に急所を握られて、意識がそちらに向いた。その隙に、粘膜そのままのものがするりと入り込んできた。抗力を取り戻していなかった場所は、拒みもしなかった。戻ってきた圧迫感も信じられず、反応が遅れる。
「あ、クソ、この……」
「元々早い方だしよ、俺」
簡単に計画を遂げられて焦る中、悠々と岩城は言うのだった。そして動き出す。不愉快だ。この流れは不愉快だが、一度火を点けられた場所は、些細な刺激で炎を宿す。否応なしに、情欲が沸き立つ。
「毅」
条件反射で、呼んできた男へ目をやった。自分が抱きついている男だ。自分を貫いている男だった。それが、ひどく嬉しそうな、あまりに平凡のために一層狂気的な、その顔を寄せてくる。
「好きだぜ」
唇越しにその震動が伝わっただけで、音が脳に告げる前にもう、中里は思考を失った。
(終)
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