行き止まり 1/3
バトル中でもタイムアタック中でも、事故が起きることは珍しくない。ただ、相手に怪我をさせることは多くはない。
その多くはない例として、島田雄一と河野俊太の一件がある。彼らは走りの観察をし合っていたが、先行していた島田が何でもないカーブにて、集中力の欠如のためのミスを犯し、道を塞ぐ形でスピンして、後ろについていた河野が、島田の車をかわした勢いで、ガードレールと接触したもので、河野は全身打撲で三日入院することとなったが、彼自身は『よくあることだ』として、遺恨はなかった。
しかし、その日から一週間、島田雄一が妙義山へ来ることはなかった。
夕方、駅前繁華街のビルの一階、妙に薄暗いゲームセンターへと、地図を頼りに中里は辿りついた。ニキビ面の中学生と思わしき少年少女が我が物顔で煙草を吸い、毛穴の広がりきった皮膚を持つ人間が格闘ゲームに興じている、そのような店は、中里が中高生時代に通っていたそれとはまったく異質な、だが峠のごく一部の時間帯の持つ雰囲気とは同質な、犯罪の匂いが強く立ち込めた場所だった。
島田雄一がそこへ通っていたという情報は、河野俊太がもたらした。彼らは元来友人で、河野は退院当日に別の仲間の車に同乗して山へ来ると、事故以来、島田との連絡が取れないと中里に嘆いたのだった。金はどうでもいい。ただ、あの一件が心理的に負担になっているのならば、それは違うと教えてやりたい。しかし自分がそう言っても島田は信じないだろう。そういう奴だ。目じりが下がり気味の柔らかい顔を、悔しそうに歪めて話す河野に、中里はひとまず待ったらどうかと忠言した。その四日後、再び現れた河野は、中里に手書きの地図と、島田の写真を手渡した。
電子音がうるさく、人の声もようようとする中、中里は暇そうな人間を探してゆっくり歩いた。誰も注意は向けてこない。皆がそれぞれゲームに集中している。一旦角まで進み、そののち壁に沿うと、奥に喫煙所らしいスペースがあり、高いスツールに腰掛けて、煙草を吸っている三人の若者が見え、中里は彼らにそっと近づいた。
「あの」
「あ?」
丁重に声をかけると、似合わぬ赤い髪留めをつけた細い顔の青年が、無知を晒すように顔を歪めた。中里は懐から写真を取り出しながら、「突然で悪いんだが」、と切り出した。
「人を探しているんだ。こういう奴を、ここで見かけたことはないかな」
「ああー? どれどれ」
三人ともが鳩のように首を突き出して、写真を覗き込み、即答した。
「俺知んねー」
「俺も。こんな宇宙人みてーな奴見てたらゼッテー覚えてるし」
「残念だったなオッサン。他の奴に聞いとけよ」
最後の青年の言葉に、ぴくりとこめかみは動いたが、懐に写真をしまうと、なるべく表情を動かさぬように、そうか、ありがとう、と感謝の意は表明して、中里は彼らに背を向けた。狙うとしたら、島田と同年代の人間だ。間違っていた。
と、
「おい待てよ」
突然腕に負荷を感じた。掴まれていた。そして抵抗する間もなく引っ張られ、壁を背にして取り囲まれた。三人の青年は、下品ににやにやと笑っていた。
「オッサン、折角答えたんだからさ、小遣いちょーだいよ」
中里は黙って彼らを睨みつけた。よく見れば、少年と呼ぶべき容貌で、薄暗い中でも、ヤニ色に染まっている歯が見えた。思わずため息が漏れた。子供を相手にしている場合ではない。
「生憎、俺も金は持ってなくてな。他を当たれ」
掴まれている腕を瞬間的に大きく振り、手を払いのけると、髪留めをつけた少年は細い顔に険を走らせ、何の前触れもせず、払われた手で拳を作り、顔面に突き出してきた。中里は、反射的に左に首を大きく動かした。少年はコンクリートの壁に拳を食らわせ、ぎゃあ、と悲鳴を上げ、何歩か退いた。その空いたスペースから抜け出す前に、左右にいた少年二人によって、両肩を壁に押し付けられていた。
「おいオッサン、何してんだよ俺のお友達に」
頬をニキビに侵食されている少年が、幅広の口を近づけて、妙な抑揚のつけ方で言ってくる。俺は何もしてねえよ、と中里はため息とともに言った。てめえ、やるつもりか、と、右側の、顔の骨組みがしっかりしている少年が、息も荒く言う。そんな気も、暇もねえんだ、と再び中里はため息とともに言った。島田の情報がなければ、こんな場所にいる必要もないのだ。壁に押し付けられた肩甲骨が痛い。
「ふざけんじゃねえぞ、クソ!」
そう叫んだのは、壁を殴った細い顔の少年だった。右手を左手で覆い、髪を乱し、顔を真っ赤にしている。中里は身構えた。このままでは、サンドバッグになりかねない。何とかして、目の前の少年が殴りかかってくる前に、左右の少年の手から逃れ、更にこの店からも逃れなければならない。だが、二人の少年の力は予想外に強く、腕も取られてしまっているため、上半身は動かせそうになかった。足を踏むか。考える。右の奴の足を踏んで、そいつが痛みにひるんだ隙に腕を抜いて、逆側の奴を殴る。そしてそのまま逃げる。これだろう。頭は冷静だった。喧嘩の場数は踏んでいる。
「てめえ、コラ、おい、調子に乗ってんじゃねえだろうな、コラ。おお、死ねよ、殺してやる!」
ダンダンと細い顔の少年が言いながら歩いてきて、拳を振りかぶり、中里が足を動かしかけた瞬間、
「ぐぼっ」
という音とともに、左へ吹っ飛んでいった。少年は、その先にあるUFOキャッチャーの筐体に、ガン、と軽くぶつかり、UFOキャッチャーで遊んでいた男女が、その衝撃で垂れたパンダのぬいるぐみを手に入れ、歓声を上げたが、中里は周囲の音を聞く余裕すらなかった。UFOキャッチャーと逆方向へ目をやると、黒いパーカーのポケットに両手を突っ込んだ長身の男が、足を上げた体勢のまま立っており、そのバランス感覚に惚れ惚れするよりも先に、中里はめまいを感じ、壁に背を預けるようになっていた。
「うっせんだよてめえら、人の後ろでギャーギャー騒ぎやがって」
聞き取りやすい軽い、けれども凄みのある声を発したのは、茶髪を天へと逆立てた、端整な顔立ちの青年だった。その顔が、怒りと苛立ちに染まり、とてつもない迫力を生み出している。
残った二人の少年がそれぞれ、何しやがる、ふざけんな、とかつぜつ悪く怒鳴ると、青年は鬱陶しそうに、あのな、と綺麗に生え揃った眉を歪めた。
「君らのおかげで初めて四面までいったのにしくじっちまったんだよ、俺は。どうしてくれる」
「ああ? 知るかバカ、それよかおめー、こんなことしてどうなるか分かってんだろうなァ、コラ」
「知るかボケ」
青年がきっぱり言うや否や、二人は飛びかっていき、青年に軽々と、足のみで地面へ這いつくばらされていた。滑りやすい床に、血がぽたぽたと垂れている。中里は驚きのあまり足を動かせなかった。膝に力が入らない。その青年の動きの無駄のなさに、感動があった。最小限の動きでよけ、急所に膝を入れ、モーションの大きい回し蹴りを難なく決めた。それも、ポケットから両手を抜かないままに。
青年は倒れた二人の腹だけを各々一発蹴り上げ、UFOキャッチャーにもたれていた体を壁に沿わせた一人の顔の横に、素早く足を叩きつけた。
「おい、俺の二ヶ月ぶりの楽しみ奪いやがったんだから、お前らもっとシュショーにしろよ、シュショーに。っつーか男ならゲーセン来たら黙って遊べ。分かったな」
いまいち道理の通らぬ青年の言葉にも、少年は恐怖にゆがんだ笑顔で、はい、と頷いた。青年はそれを見下すように、ふん、と鼻から息を吐き、少年の顔のすぐ横の壁から、硬そうな黒い靴を履いている右足を外すと、面倒くさげに中里の方へ歩き出して、顔を上げ、あ、と言った。中里は何かぎくりとして、咄嗟に声を出せなかった。
「中里?」
青年――高橋啓介は、先の凶暴さを一切感じさせぬ顔で、何、と不可思議そうに言った。
「何でお前がこんなとこいんだよ。似合わねえぞゲーセンなんて」
中里は声に詰まりつつ、人を探しに、とだけ言い、ああそう、誰だよ、と高橋が軽く尋ねてきたため、島田雄一って奴なんだが、とまで答え、いや、と咳払いをした。
「何でもねえ、お前が知ってるわけねえな」
「シマダシマダシマダ、あー、シマダユーイチ? 宇宙人っぽい奴か?」
知ってるのか、と驚くと、つーか俺のダチの知り合い、と事もなげに高橋は言い、来いよ、と歩き出した。中里はやはりすぐには足を動かせなかったが、先を行った高橋が振り向いて、「何ぼーっと突っ立ってんだお前」、と訝ってきたため、考えるよりも先に、慌ててついていった。
あんまりやりすぎると出入り禁止になるよ、と言った格闘ゲームの台の前に座っている長髪の男に、お前シマダ知ってたろ、と高橋啓介は会話の流れを無視して言った。
「あー、ユウちゃんかァ?」
「あいつ、今どこにいるんだ」
「あれならあれっしょ、えーといつだったかな、ほら、海の日にタカオの彼女に手ェ出したじゃん?」
「知んねえよ」
「それを彼女が今更罪悪感にさいなまれたか何だかしてバラしちゃってさ、現在逃亡中よ。逃亡者だな」
「俺はあいつがどこにいるのかを聞いてんだけど」
「何、かくまってやんの? やめた方がいいよ、タカオだし」
知らねえならいいよ、と高橋啓介が長髪の男に背を向けると、あー待て待て、と男は慌てたように呼び止めた。
「俺のツテをだね、利用して聞いてみるから、ちょっと待とうや啓介クン」
長髪の男は携帯電話を取り出して、ボタンを押し、左耳を人差し指で押さえて大声で話し始めた。一分も経たぬうちに通話を終えると、携帯電話をポケットにしまいながら、高橋を見上げ、
「サカマキ知ってんべお前、あのー、歯並びわりー奴」と言った。
「ああ、声たけーのな」
「そう。あいつんとこだってよ、かくまってんだって、あいつがな、ははは。家知ってっけ?」
「知ってんよ、サンキュ」
「いえいえ」
男に片手を上げて、再び高橋が歩き出す。百円を入れてゲームを始めた男と、自分の横を通りすぎて出口に向かった高橋を、中里はひとまず見比べた。ずんずん進んだ高橋は、やはりきちっと立ち止まって、不可解そうに振り向いてきた。
「おい、だからお前何でそんなにボサッとしてんだよ、中里」
「何の話だ」
「シマダに会いてえんだろ、ついてくりゃ多分いるぜ」
中里が目を見開いて、何だそりゃ、と言うと、何だも何もねえよ、と高橋は苛立たしげに言った。
「俺がサカマキに用事あるから、ついでに来るなら好きにしろって。どうせアニキに時間合わせなきゃなんねえから暇だし。まあ嫌だってんならどうでもいいけどな、俺は」
そこまで言われて断るのも強情のような気がして、中里は渋々、しかし今度はこちらを振り返らず進み出した高橋に、遅れないほどの速度で歩いた。
少し離れた駐車場にあったFDに乗り込み、高橋は手早く発進した。車中での、FDが生む機械音がうとましく、そのサカマキという男に何の用事があるのかと中里が問うと、金返してもらってねえんだよ、と高橋啓介は、ただ面倒くさげに答えた。返済期限過ぎてんのに、連絡すらしてきやがらねえ。取立てか、と中里が続けて問うと、人間として当然の行いだな、と火の点いていない煙草を咥えながら、器用に高橋は言った。
「借りたもんを返す。期間に応じた謝礼をつけて。それをできねえ奴には、こっちから何が正しいのか教えてやんねえと」
高橋が本気でそう考えているのかは知れなかったが、その言葉はまるで薄っぺらく中里には感じられた。何が正しいのかなど、この男が知っているというのか。中里が黙り、しかしライターの火を差し出すと、それに煙草の先端をつけ、やがて煙を吐き出した高橋が、ああ、と今度は聞いてきた。
「お前はその、何だっけ。そう、シマダ、あいつお前の知り合いか?」
「まあ、そうだな」
その先に言葉を続けなかったのは、事情をすべて説明するのがためらわれたためだった。どうも、この男と走りを介する話はしたくない。故障した車は工場から戻ってきているとはいえ、絶対的な敗者――この男もこの車も含め、バトルに続けて三度も負けたのだ――である己の立場が痛感されるし、素直に先の赤城山での防衛戦を称えるタイミングも逸してしまった。再会は突然すぎた。それに、少年らを鮮やかに倒した、あれほどの身体能力を見た後では、敵愾心すら萎えてしまっていた。
中里の短い肯定を、高橋はそれだけのものとして受け取り、何を追究してくることもなく、煙草を吸い続けた。中里も煙草を吸いたかったが、ここで吸うのも弱みをさらすようで、ためらわれた。よく知らぬ駅前を、高橋啓介の運転するFDの助手席で通り抜ける、この現実には、簡単に馴染めなかった。
「お前怪我ねえか?」
唐突に、高橋が顔を向けてきて、中里は何か悪いことをしたかのように、やはりぎくりとしていた。この顔にも馴染めない。
「怪我?」
「囲まれてただろ、さっき」
そこで、ようやく聞かれたことの意味が分かった。ああ、いや、と首を横に振る。
「何もねえよ。一発も受けてない」
「そうか」
「お前にも助けられたしな」、と、自分一人でも逃げられた、という思いもあったが、真心から中里はそう表した。
「知り合いがな、怪我するってのも気分悪いからよ」
中里の言葉を聞き流したように、高橋は不愉快そうに顔をしかめて言った。中里は先ほどの喧嘩――というよりも、一方的な高橋啓介の暴力を思い出し、さすがに反応良いな、とつい呟いていた。「あ?」、と、今度は意を解せぬように、高橋は顔をしかめた。さっきの三人のした奴だよ、と中里はその時感じた、素晴らしい動きへの興奮も思い出しながら、続けた。
「ああ、別に、いつも通りだ」
しれっと言った高橋へ、いつもやってんのか、と中里がとがめるように言うと、たまにな、たまのいつも、と言い訳するように答えた。
「そんなしょっちゅう俺だって喧嘩売りもしねえよ。売られたら買ってやるけどさ、無視するのも可哀想だし」
「そんなことやってて、危険じゃねえか」
「峠攻めてる奴がそれ言うか」
笑われて、中里は顔が熱くなるのを感じた。嘲られているような気がして、苛立ちが腹の奥に生まれていた。まあ、と高橋はそれには気付かず話を変えた。
「もっと肉つけた方がいいんだけどな、ホントは。プロレスとかやってる奴らにゃ数打たねえと利かねえしよ。でも体重増やすと車がな。こういう時は無駄にたけえ背がムカツクぜ」
至極腹立たしそうに言う高橋啓介に、できれば俺ゃ、分けてもらいてえけど、と中里は、動じていることを気付かれぬよう、話を続け、分けれるもんならな、と高橋は冗談を一切遮断し、紫煙を細く吐いた。
「リーチあるのはいいけどよ、んなもん総合だのやるわけじゃねえんだから、俺は別にそんな必要とも思わねえよ、タッパなんざ。っつーかお前もそんな低かねえだろ、中里」
話を向けられると、苛立ちが喉元まで一気にのぼってきて、舌打ちが漏れた。
「お前に慰められたってな」
「慰め? ワケの分かんねえこと言うの好きだな、お前。俺、お前くらいの背でいいと思ったこと、何べんもあるぜ」
「そういうことを」
たまらず中里が声を絞ったが、きょとんとした高橋の顔を見、その素朴さを受けると、そういうことを言えるのは、上から見ている奴だけだ、という言葉は、ごまかさざるを得なかった。
「……言われたって、俺にはどうしようもねえんだから」
そりゃそうだろ、と高橋は言い、やっぱお前、ワケ分かんねえ、としめた。そのステアリングを握りながら煙草を挟んでいる指の長さが、やたらと目についた。
どこにでもあるアパートの傍に高橋は車を停め、身軽に降り、煙草を地面に放り捨てて歩くと、一階、そのドアチャイムを鳴らした。しばらくしてからドアが開き、チェーン越しに女性の顔が見え、高橋の捨てた煙草の火種を靴で踏み潰してから、その隣に並んだ中里は、どきりとした。
「やっぱり、啓ちゃんだ。何で?」
高く甘い声で女性は言い、よお、と高橋は軽く手を上げてから、シマダいるだろ、ここに、と爽やかに笑った。だあれ、と女性は言ったが、隠すことねえって、と高橋は柔らかく続ける。
「アキラから聞いて来たんだから、俺ら。タカオは関係ねえよ。っつーか俺、あいつ嫌いだし」
「えー、マジ?」
「マジ」
ふうん、と鼻で言った女性はチェーンを外し、ドアを完全に開けてから、奥にいる中里に顔を向けてきた。整った顔立ちで、高校生と言っても通じそうなほど幼さが残っていた。あるいは、そのくらいの歳なのかもしれない。
「ね、そっちの人は?」
「シマダに用事がある奴でよ、俺はサカマキに用事があんの」
「えー、啓ちゃんのトモダチって感じしないね」
「ただの知り合い」
言った高橋がどかどかと上がり込み、中里はその後をついて、入る途中で女性ににっこりと微笑まれ、どぎまぎとした。
「どーぞ」
手前がダイニングで、床には新聞やらビニール袋やら雑誌やら空き缶やら、物が溢れていた。何とか歩き進むと、ようやく奥の六畳間に辿りついた。ソファの隣に敷かれた布団の上、硬そうな短い茶髪の男が、あぐらをかいて、俯いている。中里はその前にしゃがみ込み、島田、と声をかけた。男が痙攣するように首を動かし、恐る恐るといった具合に、顔を上げてくる。元々は血色が良く、つやつやとしていた顔が、随分やつれており、より強調されている目玉は、宇宙人の印象を強くした。
「よお。元気、じゃあねえようだな」
島田は気弱そうに大きな目を泳がせ、わ、悪い、とどもりながら、かすれた声で言った。俺に謝ることはねえだろ、と中里は返し、再度俯いてしまった島田に、ゆっくり、優しく、けれども甘えを与えぬように続けた。
「河野が言うには、あれはお互い様のことだから、責任を感じる必要はねえとよ。だが、その問題だけでもないらしいな」
いや、と言葉を濁した島田の頭に手を置き、硬い髪の奥にある頭皮を撫でながら、まあ、と笑ってやる。
「お前も色々事情はあるだろうが、自由になってからでもあいつに顔見せてやれ。直接事情を説明しろ。みんな心配してんだから」
「あ、ああ……ホント、悪い……」
「だから謝らなくていいっつってんだろ。元気でやれよ」
最後に頭を軽く叩き、立ち上がる。島田はあぐらをかいた足首を、手で白くなるほど握りしめていた。荒い息が聞こえ、その中から、名を呼ばれた気がして、中里は、「あ?」、とごく普通に見下ろした。
「……ありがとう」
聞き取りにくい声で言った島田の頭を、それは河野に言えよ、と再度叩いて、中里は彼に背を向けた。高橋は流し台に腰を預け、こちらを眺めていた。女性も高橋の隣で、こちらを見ている。もういいぜ、と中里が彼らに近づくと、そうか、と高橋は流し台から離れ、あ、そうだ、と女性を見た。
「おいナツミ、お前サカマキに言っとけよ、今週中に七万返してこねえと十万にするからって」
「えー、キョーちゃん今週スッちゃったから駄目よお、ムリムリ」
「だから十万な。五ヶ月滞納なんざ今までいねえぞ、俺のダチで」
「ねえ、あたしが返すんじゃダメ?」
先を歩きかけた中里は、その女性のねだるような声に振り向いた。高橋の腕に、女性が腕を絡めている。だが、高橋の顔は一切油断を浮かばせなかった。
「お前が?」
「サービスするよ」
女性は高橋の顔に唇を触れさせるほど近づいたが、高橋はひどく柔らかく笑って、
「それを俺以外の奴にしてやって、現生作るんなら話に乗ってやるぜ」
と、簡単に女性に絡めとられた腕を抜き、えー、と不満そうに声を上げる女性へ、あいつによろしく、と不敵に笑うと、あっという間に中里の先を歩いて行った。
慌てて追うように外に出ると、高橋は組んだ両手を頭の上にやり、伸びをしていた。中里はとりあえず携帯電話をジーンズのポケットから取り出して、河野の番号を呼び出した。腕を下ろして首を回している高橋を見ながら、電話に出た河野と会話を始める。
『ああ、毅さん』
「よお。島田は、まあ大丈夫だ。心配するな。そのうち山にも来るだろう」
声に気付き、高橋は振り向いてきた。中里は手を顔の前に上げ、その仕草で、ちょっと待っててくれ、と示した。
『そうですか、良かった。生きてんすよね』
「生きてる。普通にな。しばらくは落ち着かないかもしれないが、命に関わるようなことにはなってねえよ」
『あー良かった、ほっとした。マジですいませんでした毅さん、この借りは必ず』
「いいよ、そんなもん。じゃあまた山でな」
『はい』
通話を切り、ポケットに携帯電話を戻すと、
「お前、案外ちゃんとやってんだな」
こちらをずっと見ていた高橋が、出し抜けに言った。発言の意図が分からず、何だ、その案外ってのは、と中里が不審がると、右手の親指で他の指を折ってペキペキと鳴らしながら、何だってな、と高橋は言った。
「こうして見ると、全然トップらしくねえって意味だよ」
「全然?」
「ゼンゼン」
「おい」
「仲間内だけで光ってても、どうしようもないと思うぜ、俺は」
かちんときて、この、と言いかけたが、その言は正論にも感じられたし、ここまで連れて来てもらった恩もあるので、中里は唇を噛んでから、悪かったな、と言い直した。
「あ?」
「おかげで助かった」
高橋は目を細めて中里を数秒見、ああ、と納得の声を上げ、ついでだついで、と指を鳴らしていた右の手首をぷらぷらと振った。
「居場所探すまでならともかく、お前のために俺がこんなとこまで車出すわけねえだろ」
「んなこた分かってるけどな、何だ。ちゃんと筋は通さねえと」
「そうか。ありがとよ」
何でもないように高橋は言い、「あ?」、と中里が訝ると、「何だ?」、と不思議そうに見てきた。いや、と中里が少し間を置いてから、何でお前が礼を言う、と尋ねると、高橋は眉間を絞った不思議そうな顔のまま、んなもん言いたい気分だったからだろ、と答えた。
「じゃねえと俺は人に礼は言わないぜ、そんな良いシツケも受けてねえし。アニキはどうだか知らねえけど」
人として云々と語ったくせに礼を重視しないとは、と中里はいささか妙に思いつつ、お前のアニキについては俺もどうだか知らねえが、と返した。
「普通、そこで礼を言うのは俺じゃねえか」
「普通がどうだかも知らねえけどな、俺は別にそんな言葉は欲しくもねえよ。いくらでもどうとでも言えんだからよ、何だって、言おうと思えば」
高橋の億劫げな物言いは、言葉が通用せぬ現実を知っている人間のものだった。中里は意外に感じた。誰にでも甘やかされ、順風に生きてきた、自分の力では到底どうにもならないものなど知らない男だと、だからこそ強く、また速くあるのだろうと認識していた。その自分との絶対的な富の差、適応すべき環境の違いを想像し、中里はわずかに、羨望と憧憬、劣等感を抱いていたものだ。しかし、それが今、殊更卑怯な考え方に思われ、中里は無闇に恥ずかしくなって、高橋から目を逸らし、なるほど、とだけ言った。
「お前が何か、どうしても礼がしたくて仕方ねえってんなら話は聞くけどな」
そう続けた高橋に、どうしてもってんじゃねえけど、と恥ずかしさに覆われた頭から、正直なところを返してしまい、中里は慌てて取り繕った。「礼儀の問題だろ」
「礼儀なあ」
ポケットから取り出した曲がった煙草を咥えた高橋は、やはり億劫そうに言った。
「どこまでが礼儀ってのか、俺には分かんねえんだよな」
「そりゃ、相手が禍根を残さねえくらいじゃねえか」
「何だそりゃ」
「気を悪くしなくなるっつーか」
取り繕ったところから綻び出すため、中里はとにかく間に合わせの言葉を吐いていた。ふうん、と煙草を咥えた唇を突き出した高橋は、アパートへと向き直り、咥えた煙草を火も点けぬまま地面に吐き捨てると、その奥へと歩き出した。中里は捨てられた煙草をもったいないと思いつつ、条件反射で後を歩いていた。高橋は島田のいた部屋の隣の部屋のドアを無造作に開け、「オータさん」、と声をかけて進んでいく。中里は驚きのあまり、足が動かせず、中に入ることはできなかった。しばらくすると、長い黒髪の、骨と皮しかないような男がドアから現れ、「じゃあ四十五な」、と中に向かって言うと、中里を一度も見ることなく、道路へ出て、左へ曲がり、すぐに姿が見えなくなった。
そこで、
「中里、お前はだから何回俺を待たせりゃ気が済むんだよ」
後ろから声がして、振り向くと、ドアから高橋が顔を出しており、中里はやはり条件反射で、もう一度その後をついた。
島田のいた部屋とは打って変わって、そこにはほとんど何もなかった。奥の六畳間に、申し訳程度にベッドとテーブルがあるが、冷蔵庫もテレビも棚も雑誌も何もない、殺風景極まりない部屋だった。居住空間とは思えないほどだ。これから引っ越す、と言われる方が頷けた。
高橋は奥の部屋のカーテンを閉め、夕日を遮断すると、畳の具合を確かめるように何度か踏みしめた。中里は高橋から三歩ほど離れた距離で立ち、薄暗くなった中、何だ、と高橋を睨むように見た。
「こっち来いよ」
手招きされ、二歩進むと、中里が出した左足の膝裏を、高橋は突然長い右足で払ってきた。中里はバランスを崩し、背中から落ちかけたが、左足が右方向へ払われていたため、反射的に体を右にひねって、右腕をつきながら、うつ伏せに畳に倒れこんだ。わけが分からないまま、立ち上がろうとした。しかし、両手を畳について、上半身を起こしたところで、急激に、ジーンズのボタンとファスナーを外されていた。咄嗟に中里は、考えもしないまま、前方へ逃げ出そうとしたが、ウェスト部を掴まれており、動くと同時に下着ごと引っ張られて、腰から膝上までが露出しただけで、少しも進みはせず、陸に上がった魚のような無力さで、再び畳に落ちた。そこで、膝上からも布を剥ぎ取られ、下半身はすべて露出した。
寒気がした。
中里はすぐにまた起き上がろうと腰を上げ、両手をもう一度畳について左へ体をひねろうとし、その矢先に、今度は首から一気に押し潰されていた。右頬が、強く畳に当たった。湿ったいぐさのざらざらとした感触と、鼻へつく青臭く、黴臭い匂い、首根っこを強く掴まれている痛みと熱だけが現実的で、空気に触れている下半身の冷たさは、かけ離れているようだった。だが、むき出しの太ももの間に、高橋の足が割り入ってきて、腰を一層高く、股を一層広くされると、内股までに触れるその布地の感触が何であるか、中里には区別がつかなくなった。
「どこまでがな」
高橋の声が、左耳へと直接吹き込まれ、背中全体がざわついた。首が、喉が、頬が、じりじりと痛む。
「礼儀か、やってみろよ」
中里が言葉を発するよりも早く、高橋は無造作に、局部を握ってきた。そのため中里は、言葉ではなくまず声を発していた。
「俺の気を、悪くさせねえくらいか?」
首根っこを固定している手と、反対の手が、こなれた手つきで動く。どちらも同じ熱さで、どちらも同じ感触だった。怒りよりも、恥ずかしさと、不条理さと、混乱と、そして強い恐怖が、中里の体を支配した。
「――高橋ィッ」
畳に押しつけられている喉からしぼり出した声は、軟弱にかすれていた。
「あんま大きい声出すと、隣に聞こえるぜ」
一方、高橋の声は、腹を揺るがすほどに低く、多少のかすれは艶やかだった。左の耳朶に触れる息のざわめきに、中里は嫌な熱を覚えた。その途端、全身に血液が素早く行き渡るのが感じられ、痛む箇所にも、掌中に収められているている箇所にも、等しくどくどくと血潮がたぎった。こんなはずはない、という思いが、中里のうちで延々と巡っていた。こんなことはない。ありえるはずがない。しかし、罵声を浴びせてやりたいのに、体面を意識するがためそれも適わず、どんどんと膨らむにつれ、冴え渡る感覚は、感情を引き連れてきた。
――恥ずかしくて、たまらない。
「お前、ナツミとヤりてえって思っただろ」
唐突な問いに、思考は理解を間に合わせなかった。
「……何」
「俺もヤりたかったんだよ。溜まっててよ、微妙に勃っちまったし」
反射的に脳裏に浮かんだ女性の顔は、殿部の狭間に当たっている硬いものにようやく気付いてしまうと、一瞬にして跡形もなく消え去った。ぬめりを帯びている自分のものが、突然浅ましく思え、中里は死にたくなるような気持ちになった。だから、こんなこと、という呟きは、我ながら弱々しく、屈辱感に満ちていた。首筋を押さえてくる手の位置をわずかに変えた高橋は、ありえねえ、と信じられないように言った。
「お前があいつの代わりになるわけねえだろ。女の。頭わいたかよ、お前、童貞?」
非難されているのか聞かれているのか、判然としなかったが、違う、と中里は喉を酷使して答えた。そこで、高橋は中里の、使用可能なまでに勃ち上がったものから手を離し、その手をそのまま、睾丸の奥へと這わせてきた。
「こっちは?」
ひだをぐるりとなぞられて、今までにないほどの恐怖と、恥辱が胸を締め付けた。声すら出なかった。
「まあ、やったことあったらちょっと引くけどな、それも」
そこからも指を離した高橋は、尻に押しつけていた腰も離し、中里がそれによる解放感を味わっていると、ファスナーの下りるジイッという音が、緊張を取り戻させた。膝頭が、震え出した。
「やめ、やめろ……高橋」
「よく考えたらここ、何もねえんだよ。悪いな」
「やめてくれ、頼む、本当に……ッ」
突然首を解放され、浮いた右耳が遠く、呼吸は楽になったが、その手は腰を掴んできて、尻の狭間に、濡れているそれが当てられた。やはり、声は出せなかった。狭い穴に、押しつけられている。入れたくなどないのに、呼吸による体の緩みから、わずかに開いた隙間に、強引にねじこんできた。
「ひッ……」
体を真っ二つに引き裂かれるような痛みに、喉が空気を漏らした。みちみちと、肉の悲鳴が中から聞こえる。侵入を阻みたくても、開かされた太ももにすら力を込められぬため、相手の動きを受け入れる他なかった。
「ぐう……う……」
「キツ……おい、力、抜けよ」
頭を振って、逃げようとするも、腰をしっかりと固定されており、中里は最後まで入れられていた。とてつもない苦痛だった。無理矢理詰め込まれている苦しさ、無理矢理開かされている痛み、それはかつて味わったことのないほど、意識が飛んでしまいかけるほどの、苦痛だった。その上、それでも何とか慣れかけたところで、粘膜をこすられると、新たな皮膚の痛みが起こり、涙が流れ、うなりが漏れた。
「ぐ、う、うう……」
「逃げるなよ」
減ったと思えば増え、なくなったと思えば戻ってくる、その繰り返しは、次第に滑らかに、速くなっていったが、痛みが軽減することはなかった。そこには何もなかった。一端の官能も、情愛も、憤怒も、憎悪すらなかった。ただ、中里の肉体には、混乱と、恐怖と、そして、苦痛と同量の、興奮があった。痛めば痛むほど、それを殺そうとするのか、勃起は持続した。
「や、め」
抑圧もないため、言葉はいくらでも出せるというのに、懇願もろくにできなかった。涙を止められず、鼻水が下り、息継ぎはうまくできなかった。鼻をすすると、しゃくり上げるようになった。外側も、内側も、何もかもが痛く、苦しく、熱く、壊れそうだったが、早くやめて欲しいのに、体は一向に壊れなかった。助けてくれ、中里は思った。誰かここから出してくれ。
中里をそこからただちに出すことはなかったが、その中に出して事を終わらせ『助けた』のは、高橋に他ならなかった。直腸に溢れるものを感じながら、息を荒くしたまま、中里は上半身を起こした。鼻を大きくすすると、鼻水が喉の奥に下りていき、尻はずくずくと痛んだ。いつの間にか、萎えていた。
「おい、大丈夫か」
目の前に、黒いジーンズに包まれた足が見え、そうしてすぐ、整いきった顔が現れた。
「送ってくぜ、その体じゃ――」
言葉も聞かず、中里はその顔に、唾を吐きつけていた。高橋はその右頬についた唾を指で、不思議そうになぞると、中里を改めて見た。薄茶色の瞳が、ぶれることなくこちらを捉えていた。見られていることに、中里は耐えられなくなって、息を吸った。
「死ねよ」
まったく意図しない言葉が、口から吐き出されていた。そののち、頭に衝撃があり、意識はそこでようやく途絶えた。
頭痛に気付き、目が覚めた。重いまぶたを開くと、暗闇が広がっていた。そこに満ちている、懐かしく、ごく親しい空気と、体の下に広がる柔らかさは、自宅であると中里に確信させ、安堵をもたらした。嫌な夢を見たような気がしたが、思い出せなかった。ただ、全身が冷や汗で湿っており、頭部と腰部、特に肛門にひどい痛みがあった。
何があったかは、覚えていた。
寝ていたベッドから、痛みを耐えつつ起き上がり、電気を点けた。目がすぐには慣れず、立ちくらみもしたため、苦しみながら、ベッドに腰掛けた。覚えている。中里は両の目頭を指で拭い、しばらく呆けた。覚えている。覚えてはいるが、それがどういう意味を持つ現実なのかという、理解と認知にまでは至っていなかった。
無意識に、ベッドの前に置いているテーブルに手を伸ばしており、ふと何をしようとしたのかと考え、煙草を取ろうとしたのだと気付き、そうしようと思っていたが、中里の手は、煙草の箱の横にあった、何かの文字の書かれた紙を手にしていた。ひっくり返すと、それはガソリンスタンドのレシートで、もう一度ひっくり返すと、バランスの悪い文字が記されていた。煙草吸いてえ、と思いながら、中里はその、090から始まる番号と、高橋啓介、という名前を見た。途端、思考が回転し出し、胸が詰まって、鼻の奥が熱くなった。思わず、そのレシートを握り潰していた。心理的な涙が、しばらくとめどなく流れ、吐き気を覚えて便器に嘔吐したところで、それはようやくおさまった。レシートは、その前にゴミ箱に捨てた。
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