行き止まり 2/3
  2  


 仕事を一日休んだ時と同じように、四日行かなかった峠にて、風邪だったと言うと、庄司慎吾などは、何とかは風邪は引かないはずだ、と周囲の人間も巻き込んで揶揄してきたが、中里は怒ることができなかった。苛立ちはあったが、それを行動につなげる機構が、狂っているようだった。河野が出してきた心配も感謝も、余計なものとしか感じられず、むしろ原因として憎んでしまいそうで、感情を抑えることに労した。
 できること、唯一望んだことといえば、走ることだったが、タイムはいつも以上にばらついた。からかってきた者たちも、それには心配を示していた。しかし、中里は誰の気遣いをも不要とした。立場の危機を感じていた。トップの座を虎視眈々と狙っている者は、山ほどいる。苦労を重ねて手に入れたチームを、この権威を、今、誰かに奪われるなど、許しがたいことだった。ただでさえ敗北がかさんでいる中、弱みを見せるわけにはいかず、だから中里はいつも通り峠に毎日通い詰め、短時間だけ集中して記録を残し、何とか身を保った。
 そうするうちに、一週間経ち、腰の鈍痛は取れ、顔色も良くなり、日常は取り戻されたかのようだった。

 排便の際に痛みが走ることも、薬の塗布の必要もなくなり、安定した記録が残り出した頃、
「中里さんはいるかな」
 と、バイクに乗った小太りな、見たことのない男が峠にやって来た。にこにこと満面の笑みを浮かべ、下がった眉は気の弱さを示しているようだったが、高い背と厚い肉は、威圧感を持っていた。直接中里が応対すると、話したいことがあるんだけど、と男は申し訳なさそうに、微笑を浮かべたまま言った。
「時間、取らせてもらってもいいかな?」
「いいが、何だ」
「人がいないところで頼めるかい。あまり聞かれたくないんだ。悪いね」
 男は線のような目をしており、その瞳はよく見えなかった。何のために話を請うてきているのか察することはできなかったが、中里はひとまず相手の望む通り、人のいないところへ誘おうと歩き、駐車場から離れると、男が先導した。そして、躊躇なく黒々とした山へ分け入っていく男を、おい、と中里は追った。木を越え、草を踏み、暗闇に溶けそうになる男の背に、手を伸ばそうとした時、強い悪寒を感じ、咄嗟に身を引いた中里は、己の眼前を、男の太い腕が通り過ぎていくのを見た。
「――てめえ」
 引いた身を立て直し、中里が睨むと、男はそれまで延々乗せていた笑みを消し、鬼気迫るものにして、舌打ちした。
「あれ、間違えたかタイミング。まあいい、おい、シマダはどこだ」
 愛想の欠片もなくなった、低めた声で、凄んできた男の言葉も、その変わりようも、中里はすぐには理解ができなかった。
「……あ?」
「島田だよ、島田雄一。あんたがあいつの居場所知ってるってことは、アキラから聞いてるんだ。大人しく言わねえと、次は確実に、当てるぜ」
 男は指輪のはまった太い指を、関節の具合を確かめるように振り、再び拳を作った。
 本来ならば自分とは無関係である事柄に巻き込まれているという理不尽さのための、また一方的な言動を働く男の傲慢さへの怒りと、暴力の予感から、中里は一挙に神経が昂るのを感じた。体中が熱くなり、脳みそが熱で変性したような錯覚すら感じた。手先の感覚が薄れ、呼吸が浅くなる。突如訪れた強い緊張を、中里の頭は処理しきれず、自棄になった。
「知らねえよ、クソガキが」
 吐き捨てるように言うと、男はふてぶてしい太い面を、間もなく先ほどの、人懐こい笑みに変じた。中里は意表をつかれた。そして油断した隙に、髪を掴まれ、みぞおちに一発拳を食らった。痛みよりも、吐き気がこみ上げて、胃液が漏れた。髪を掴んだ男が、膝からくずおれた中里と、視線を合わせてくる。
「島田はどこだ」
「……知らねえっつってんだろ」
「喋りゃあ許してやるよ。喋らなけりゃ、もう一発だ」
 男は楽しそうに、優しく見える顔で、無慈悲に笑った。クソ野郎、と力の入らぬ体を持て余しながら、中里は思った。どいつもこいつも、てめえのことしか考えちゃいねえ。島田、河野、慎吾。
 ――高橋啓介。
「知るかよ」
 中里は目をつむり、嘲るように笑った。全身への痛みを覚悟した。顔はないかもしれないが、あるかもしれない。鎖骨も、肋骨も、折られるかもしれない。あの神経を直接引き裂かれる痛み、肉がいつまでもうずく、熱。それがこの、豚のような男からもたらされると思うと、吐き気がした。

 だが、もたらされたのは、掴まれていた髪の解放で、
「あい、あいてててて」
 男の間抜けな声が聞こえ、中里が目を開けると、男は自分の頭に両手をやっていた。代わりのように、男の髪を、誰かが掴んでいた。
「相変わらずトロイな、タカオ」
 みなまで見るまでもなく、その軽く、それでいて重い、揶揄するような響きを持って耳に侵入してくる声の、男の髪を掴む、血管の浮き出た手の主が、誰かは知れ、中里は咳き込んだ。腹を殴られた時とも、男に殴られることを想像した時とも違う、どんな考えも切断されるような吐き気が催された。舌の裏に溢れた胃液が、口の端から糸を引いて、地面に落ちる。
「……啓介」
 太い男が、その名を呼んだ。久しぶり、と高橋啓介の、何でもないような声が、草木の揺れる音の間を、よく通った。
「お前よ、その肉の多さどうにかなんねえかな。秋なのに暑苦しくてたまんねえ、風情がねえよ、風情が」
「何のつもりだ、こりゃ」
「ああ言っとくけど、シマダのこと知ってんの俺だから、そいつ殴っても意味ねえぜ」
「はあ? ……アキラの奴、フカしやがって。お前のことはいの一番に庇う――」
 そこで、何か鈍い音がし、男の言葉は、何とも言いがたい悲鳴に変わった。中里が口元を拭って顔を上げると、男が土の上に転がり、それに高橋が馬乗りになったところだった。おい、と男は巨体を揺するが、高橋はうまく男を組み敷いた。その鮮やかさが、己の体験を呼び起こし、中里は余計に吐き気を感じたが、もう目を逸らすことはできなかった。
「てめえ、何すんだッ、クソ!」
「こいつはよ」、と高橋は中里を一瞥し、酷薄に笑った。「俺の知り合いなんでな。やられた分は俺から返させてもらうっつーことで」
「お前が知り合い程度でそんな……」
 男が言い終える前に、高橋は拳を振るった。顔面を殴る。殴る。殴る。男の両腕はしばらくは抵抗を見せていたが、やがて力なく地面に落ちた。そこで高橋は腕を止め、起き上がり、その脇腹を思い切り蹴って転ばせ、うう、と呻いている虫の息の男をうつ伏せにした。
「そこでしばらく寝とけ。後でちゃんと俺がお前の親父のところに送り届けてやるからな。安心しろ」
 高橋が言う間、ぶふー、ぶふー、という男の呼吸だけが響いていた。焼き豚食いてえな、と、パーカーとジーンズという前と変わらぬ姿の高橋は呟いてから、四つ這いのまま一連の暴力を正視していた中里の前にしゃがむと、
「大丈夫か?」
 と、立ち上がらせようとしたのか、腕を取ってきた。ぞわ、と全身の毛穴が収縮したため、中里はその手を大きく払い、後ろに尻餅をついていた。高橋はその場にしゃがんだまま、払われた手とは反対の手で、その甲を撫でた。
「小便チビりそうなツラしてんな、おい」
 眉間にしわを作り、立ち上がった高橋は、中里へと歩を進めた。中里は鳥肌を立てたまま、ばっと立ち上がり、そのまま足を引き、木に背をぶつけた。ざわわ、と梢が鳴る。
「逃げるなよ」
 目の前に立った高橋が言い、再度、ゆっくりと手を伸ばしてきた。その指が額へ触れ、左側頭部を、髪をかき分けながら、掌で覆ってくる。中里は、その手を払う機会を逸した。熱い掌を感じると、収縮した毛穴が拡張し、どっと汗がわいた。
「殴っちまったからな、前。こう、プチッときて。聞こえてたか?」
「……離せ」
 胃液も唾液もからになった口で、それだけがようやく言えた。高橋は目を細めると、かき分けた短い髪を掴み、中里の顎を上げさせた。
「俺は百歳まで生きる予定だから、簡単に死ねねえんだ。死ぬ気で走ったこともない。勝つためにしか走らねえよ、俺は。だから、喧嘩でだって、死ぬ気はねえ」
 ごく近い距離で、高橋は中里を見下ろし、囁くように言った。じわじわと、頭皮の痛みが戻ってきた。薬を塗るたびに心臓を締め付けた屈辱まで戻ってきて、中里は歯を噛み締め、それを一瞬だけやり過ごすと、高橋を睥睨した。
「今なら、この前のことは許してやる。離せ」
 相変わらず、無様にかすれた、震えた声しか出ず、中里は居たたまれなさに、出ない唾を飲み込んだ。高橋は綺麗につり上がった目で、真っ直ぐ中里を捉えた。わずかな唾を飲み込み、中里は再び口を開いた。
「失せろ。消えろ、消え失せろ、俺の前から――」
 言葉は、高橋の口の中へと消えていった。開いていたところへ、急に舌がねじ込まれた。髪を掴まれ、顔を背けることもできなかった。高橋の舌を、口腔全体で感じる。肉の熱さ、感触。柔らかく、しかし強くなぶられるうちに、中里は高橋のパーカーの裾を、両手で強く、すがるように掴んでいた。首筋がざわついてたまらない。腹の痛みが、嫌な熱へと転じていく。吸い上げられて終わると、我知らず、舌が伸びていた。息が荒くなる。高橋は、濡れた唇をすうっと横に広げた。
「ゲロくせえ」
 かっとなり、情動が、高橋の体を押しのけようとした。だが、それより早く、高橋は中里の頭皮を引っ張り、痛みによって動きを抑えた。そして中里の耳に口を寄せ、何気なく囁いた。
「ずっとおっ勃てといてよ、許すも何もねえだろ」
 瞬間、頭から一気に血が引いて、中里は言葉を失った。知られていた恥ずかしさと、違う、という思いが喉元で渦巻き、呼吸以外を封じ込めた。すると高橋は、中里の髪から手を離し、再び噛むように口付けてきた。いくら逃れようとしても、どこまでも追いかけてくる。舌を奪われている隙に、ジーンズに手をかけられていた。慌てて両手で、その両手首をもぐように握り締めたが、高橋はそれに耐え、ボタンを外し、ファスナーを下ろすと、舌を抜いてから、中里の左足を、靴底で踏みつけた。
「――いッ」
 つま先に走った痛みから、瞬間的に中里は、高橋の両手首を一際強く握ったのち、力を抜いており、戒めを解かれた高橋は、中里の左足を踏みつけたまま、腕の伸びる範囲までそのジーンズを下着ごと引き下ろした。
「やめろ、お前」
「暴れるなよ、倒れるから」
 身を屈めた高橋は、完全に露出した左の膝裏へ腕を回すと、中里の左足を踏む力をうまく加減して、足全体を持ち上げると同時に、靴を脱がして、一度持ち替えてから、肩へと担ぎ上げた。抵抗する間もない、自然な動作だった。
「馬鹿力だな、折れかけたぜ、俺の大事な手首が」
 唇が触れるまで顔を寄せてきた高橋が、責めるように言ってくる。左足は担がれたまま下ろせず、右足は力を入れ続けていなければ、膝が崩れそうだった。抜け出せない。中里はせめて、木へ後頭部を押し付け、いくらかでも高橋の顔と距離を取って、震える声を吐いた。
「何考えて、やがるお前、高橋」
「ヤるんだよ」、と高橋は、情緒のない顔のまま言った。「今度はちゃんと、ゴムもある」
「ふざ、ざけるな、こんなところで……」
「起きねえよ、そいつは。お前だって一時間は起きなかった」
 下唇を食んできながらの言葉は、先ほどの小太りの男の存在についてのようで、違うッ、と中里はかすれた声で叫んだ。
「山で、こんな」
「バトルもセックスも、似たようなもんだろ」
 高橋が言うと同時に、空気にさらされていた尻の間に、冷たい粘液を感じた。飛び跳ねそうな体を、木に押し付けられ、抑え込まれる。ずぐり、と節のある、細いものが入ってきた。
「……何ッ……」
「慣らさねえと、前みたいに痛くなるぜ。そっちがいいなら、そうしてもいいけど」
「やめろ、やめ」
「それに、俺のテクが疑われんのもな」
 頬に唇をつけてくる高橋の顔を避け、下を見ると、指が差し込まれているのだと分かった。奥まで入ったそれが、創傷の治った内部を、かき回してくる。己の体の中から出る、濡れた音と、枝の鳴る音、男の息、そして遠く、車のエンジン音、排気音、仲間たちの騒ぎ声が聞こえる。引いた血の気が、戻ってきた。鼓動が速まる。中に入れられた指が、明確に感じられる。そして、ある一点をなぞられ、背筋に電流が走った。
「うッ……」
「イイだろ」
「……ぐ、うう」
 えぐるように動かされるたび、他の部分までがうずき出し、指を追加されると、より熱が昂った。ぐちゅぐちゅと、音を立ててこすられて、強い刺激が脳を焼いた。
「うあッ」
 裏返った、高い、大きな声が漏れ、中里は咄嗟に、頼るものもなくさまよわせていた右手で、口を覆った。高橋は興味深そうに見下ろしてきた。
「ここか?」
「ンッ、んんん」
 口を塞いだまま、首を振る。下半身が、徐々に己の統制から離れており、痛みの記憶は、快感に塗り替えられていた。
「勃ってんだよ、だから。触ってもねえのに」
 耳に吐息を吹き込み、高橋は指を抜いた。それにすら、声が出る。誰にも聞かれたくはなかった。目の前の男になど、最も見られたくもなかった。ごそごそと、動きがある。あの忌まわしいファスナーの下りる音が聞こえ、中里は目をつむった。高橋啓介、と思う。それだけだ。それが一体自分にとってどういう男だったのか、最早分からなかった。なぜこうして、その男に犯されるのを待たねばならないのか。なぜ自分は、一切を抵抗できないのか。何もかも、分からなかった。ただ、あの破滅を想起させるほどの痛みと、終わるまでの地獄のような時間の長さだけが、今の中里にとって、分かっていなければならない現実だった。
「入れるぞ」
 目を開くと、真剣な表情の高橋がいた。鼻の頭に浮いている汗が、うそ臭かった。じきに、十分にぬめりのあるそれが、散々いじられた穴へと入ってきた。少し進み、止まり、進み、止まる。ぴり、とした痛みが走り、止み、走って、止んだ。完全に止まった時、痛みよりも、押し込まれた圧力の方が、肉体を硬くした。左足を担ぎ直してきた高橋が、徐々に動き出す。押し込まれるたび、ふさいだ口の中で、妙な声が鳴った。
「前より緩くなってる」
 機敏に、適確に腰を揺らしながら、高橋は呟いた。早く終われ、と中里は思った。助けてくれ。俺はもう、嫌なんだ。益々熱くなる体も、全身が神経になったような感覚の鮮明さも、いくら抑えても喉からこぼれる声も、一度も触れていないのに勃起していることも、時間が進み、繰り返されるごとに深まる刺激も、何もかもが嫌だった。これならば、無理矢理ねじ込まれるだけの方が、まだ良かった。少なくとも、快感のために、抜けていくものを引き止めることはない。
「クソ、疲れるな……まあ、一回くらいなら」
「――んんっ」
 またも足を担ぎ直して、高橋は動きを速めた。中里は空いている手で、高橋のパーカーの襟を掴んだ。高橋は動きを止めた。中里はただ首を振った。訝しげに眉をひそめた高橋は、二、三度頷くと、より一層深く、強く抜き差しを行った。中里が射精したのは、その直後だった。

 抜かれると、右足が崩れ、木に沿って体がすべり落ちた。担がれていた左足も、すんなりと連れ立って落ちた。高橋はゴムを処理していた。土と草が、尻に触れ、嫌な感触がする。中里は腰を上げ、身を起こして再び木にもたれ、右足に溜まっていたジーンズと下着を、よろめきながら履いた。だが、左足を裾に突っかけて、前に転びそうになり、高橋の腕に胸と背中を支えられた。
「おい、無理すんなよ」
「離せ」
「靴、履くだろ。とりあえず、座れよ」
 言われるより早く、腰を落とされていた。あぐらをかいた状態で、ともかく、左足を裾から出して、靴を履かせる。それだけで息が荒くなり、一度座ると、起き上がる力がわかず、なおも背中に腕を回してきている高橋へ、俯いたまま中里は、切れ切れの言葉をぶつけた。
「何で、こんなこと、しやがる」
 少しの間ののち、やりてえからだろ、という、単純すぎて答えになっていない答えが返ってき、何で、となおも中里が問うと、タイミングだな、と言って、高橋は中里の腹へと、手を伸ばしてきた。
「ついちまってる。俺のじゃねえけど」
 暗闇で良く見えないが、黒地のシャツに、染みができているようだった。うるせえ、と中里はその手を払い、震える両足に力を入れ、立ち上がった。何がタイミングだ、何で、タイミングで、俺がこんなこと、されなきゃなんねえんだ。屈辱がすぎて、不条理さしか感じられなかった。足を無理矢理進めると、膝が耐え切れず、ふらつき、またも高橋が、体を支えてきた。
「そのまま行かれると、俺が誤解されちまうんだ」
「知るかよ、てめえのことなんて」、と中里は、うめくように言った。「俺は知らねえ、島田も、何も、俺は知らねえんだ」
「悪かったよ」、と高橋は中里の体をちゃんと立たせながら、言った。
「アキラがな、あいつも何考えてんだか、前ゲーセンにいたあの出っ歯だよ、それがそのデブに迫られて、お前の名前出したってな。バカじゃねえかな、俺がタカオのこと二回病院送りにしてんの知ってるくせに」
「知らねえ、俺は、何も、こんなこと」
 高橋に腕を取られ、肩を借りる体勢になっても、全身の力が抜け切っていたため、中里は拒否できなかった。
「まあ、お前があいつにやられてなくて、良かったよ。間に合った。急いで来たからな」
「知らねえんだ。俺は。知りたくもねえ」
 森から道路に出ながら、念仏のように中里はそれを唱え続けた。知りたくもなかった。あれほど抗えないものがあるなど、これほど自分が弱かったことなど、知りたくもなかった。
「腹、押さえとけよ。あと顔下げとけ。俺がうまく言ってやる」
 歩きながら言われたが、既に中里は顔も上げられず、シャツの染みを隠すように腹を右腕で覆っていた。仲間の誰にも、こんな姿をまともに見られたくはない。真実を知られ、何年もかけて築き上げてきた、この峠での居場所が、失われてしまうのが、恐ろしかった。

「毅?」
 足音とともに、珍しく、慌てたような庄司慎吾の声がし、コンクリートの地面に、茶色のスニーカーが見えた。おい、大丈夫か、とすぐそばでかけられる、焦った声に、ああ、としか中里は返せなかった。
「さっきの奴に、腹やられててな。骨までいっちゃいねえと思うけど、少し痛みがあるらしい」
 体を支えている、高橋が代わりに嘘を述べた。慎吾は奇妙な間を置いてから、お前が助けたのか、と問い、まあな、と高橋は何でもないように言った。
「時間かかったけどよ。なかなか手ごわくて。けどまあ何とか無事だ。俺がこのままこいつの車まで運ぶよ、今日は帰してやった方がいい」
 言い、歩き出す高橋と中里を、おい、と慎吾は追ってきた。
「何があった」
「細かいこと話すと、キリねえんだよ」
「何なんだ、どうしてそいつがそんなザマになってんだ」
 食い下がる慎吾に、高橋はついに足を止め、
「だから端折るけどな、あのデブはこいつを逆恨みしてた、そんで俺はあのデブと知り合いだから、わざわざ尻拭いに来てやった」、と簡潔に言った。
「逆恨みって」
「女絡みの被害妄想、言うのもめんどくせえくらいくっだらねえ話だ。全部終わったけどな」
 高橋は一方的に押し切り、慎吾はやはり奇妙な間を置いてから、そうか、悪かったな、高橋啓介、と切れ切れに言った。思ってもねえこと言われてもな、という呟きは、中里の耳にはしっかり届いていたが、「あン?」、と正確に聞こえていなかったらしき慎吾が訝り、「別に?」、と高橋は正確に断じた。
「じゃあ俺、こいつ運んだらあのデブ回収してくから。手ェ出さなくていいぜ、お前らは」
「用事、それだけかよ」
「他にあると思ってたか?」
 『高橋啓介』が、妙義山に『走り』を目的として来ることなどないというような、不遜な物言いだった。
「いや」
 と、言う慎吾の声は、人を見下す時特有の冷たさがあり、
「どうも、ご丁寧にありがとよ」
 と続けられたそれは、中里の耳に、やけに障った。
 こちらこそ、と言うが早いか高橋は、中里を引きずるように歩き出した。仲間の視線、集まるドライバーの視線を感じながら、中里はようやく力がこもるようになった足を、必死で動かした。愛車の前に辿りつくと、高橋の支えを外した。ジーンズのポケットから車の鍵を取り出しながら、久方ぶりに離れたような、高橋を見る。パーカーのポケットに両手を入れ、寒そうに肩をすくめた高橋は、死なねえようにな、と言い、中里の前から離れて行った。その背がまだ見えるうちに、中里は32の運転席へと乗り込み、エンジンをかけ、再び震え始めた両足と両手、ぶれる視界、蘇った腰部の痛み、動悸を無視して、自宅へ帰るために発車した。



 骨が折れているわけもなく、打撲傷も三日で消え去った。初回に比べれば、尻も無事だった。
 思い出し、つい比較すると、まるで慣れているように感じられ、中里は吸っていた煙草を途中で吐き出した。ここのところずっと、気分が悪い。仕事場で内実を知られることなどありはしなかったが、峠では、あの小太りの男との関係や、高橋啓介の武勇伝を聞きたがる者、からかい半分で話題にする者、あの一件に触れようとしない者、反応は様々で、どの扱われ方も、中里にとっては不愉快だった。事実を知られたらどうなるか、そればかりが頭の中をぐるぐると舞って、常ならば心が安らぐはずの仲間との会話も、苛立ちが先に立った。慎吾がそこで急所を突いてこないということは、よほどなのだろうと思う。走行記録が落ちていないことだけが、唯一の救いだった。そこを保っていなければ、中里には己がさまようことが目に見えていた。
 五日経っても、事態は一向に改善していない。夜は良く眠れず、疲労は取れず、無理矢理胃に押し込んだ食事は、たまに消化の途中で口まで戻された。浅い眠りは夢を呼ぶ。夢は、現実的だった。
 煙草の残り香を味わいながら、地面に落ちた火種を靴ですり潰し、中里は指で目頭を揉んだ。家にいると、食べなければ、眠らなければ、休まなければならないという、焦燥感がわき起こる。ゆっくりため息を吐けるのは、皆が撤収した、この一人でいる峠だけだった。ここでなされたことは覚えている、忘れられることなどないが、一切を裏切らないものとは、機械で測られたタイムであり、人間の思惑を残酷に断つほどの独自性を持った、車でしかなかった。
 もう一本、煙草を取り出したのは、迫りくるエンジン音を耳にしたからだった。フィルターを咥え、しびれるような指先を操り、火を点ける。煙が肺に染み入り、血液が脳へと運ばれ、指先の感覚が明確になっていく。何度かゆっくりと煙を吐き出すと、近まるやかましい音とともに、強い光があたりを直線的に照らし、その中から、眩しい黄色に覆われた車が現れた。中里は32のボンネットから腰を上げ、地面に立ち、慌しく煙草を吸った。脳へと達したニコチンが落ち着かせた気分は、目の前に荒くその車を停められると、すぐに揺らいだ。黒い細身のパンツに白いインナー、茶のジャケットという出で立ちの高橋啓介がその運転席から降りてくると、中里の頭は混乱しきった。
「お前一人か。まあおせえし、いただけで損ねえけど」
 歩きながら高橋はよどみなく言い、中里の目の前まで来ると、真面目くさった顔を向けてきた。
「中里、アキラが、あのゲーセンの出っ歯がな、お前に謝りてえってこっちの耳にタコできるほど言いやがるから、そのうちあそこ行ってくれよ。あいつ車持ってねえし、俺もうタコは要らねえし」
 あ、ああ、と中里がどもりかけながら頷くと、
「あの後何もねえだろ?」
 高橋は当然のように聞いてきて、あ?、と中里は話が分からず顔をしかめた。あのデブだよ、逆恨み、と高橋は続け、中里が唇で挟んでいた煙草を、やはり当然のように、指で奪い、吸い、煙を吐き出し、考えるような顔をした。その口から漏れた煙の流れを目で追いながら、いや、ねえよ、何も、と同じリズムで中里は言った。何もない。あれから今日まで、嫌になるほど、何もないのだ。
 「あいつには」、と高橋は指で持った煙草の先端をすがめて見ながら、
「俺がきっちり礼儀ってもんを教えてやったから、お前のとこに来るなんざありえねえと思うけど」と明瞭に言い、そのまま中里へ目を向けて、
「一応気をつけろよ。あいつ頭おかしいんだよ。っつーか全員頭おかしいからよ、どいつもこいつも」
 と、再び煙草を吸った。中里が徐々にこの状況に馴染み、高橋の傍若無人さに、久方ぶりの怒りを思い出して、お前もか、と聞くと、鼻から煙を出した高橋は、そう見えるか、と幼さの窺える、不思議そうな表情をした。怒りは、不条理な苛立ちへと形を変え、中里は唾を飛ばすように言った。
「てめえがやったこと考えりゃあ、分かるだろ」
「じゃあやられたお前はどうなんだ?」
 虚を突かれ、たじろいだ中里の唇へ、高橋は煙草の吸い口をねじ入れた。その時皮膚に触れたその指は、背骨にざわめきを強く残し、中里は無意識に唇だけで煙草を咥え直した。
「聞くことじゃねえか」
 高橋は横を向き、眩しそうに眉と目の距離を縮め、遠くを見ながら、独り言のように言った。中里は高橋から目を逸らし、煙草を吸って、それを感覚の薄い右手にやった。心臓が奇妙な調子を刻んでおり、唾はさほど出ず、汗はやたらと出ていた。
 どっちだ、と呆けかけながら思う。盛ったからと男相手に即座に事をなしたこの男と、それで射精まで至った自分と、一体どちらの頭が正常であると言えるのか。考えようとすると、頬が火照り、こめかみが痛んだ。それは考えるまでもないという、肉体の主張のようだった。
 結局、あの瞬間、礼儀を果たされたあの瞬間から、肉に骨に染み入っていたはずの、まともなものは、失われてしまったのだ。奪われてしまった。あるいは、捨ててしまった。
「かったんだって?」
 聞かれたようで、目を戻すと、いつの間にか高橋は、ゆがみのない顔で、真っ向から中里を見ていた。中里は数秒で煙草を吸ってから、煙とともに、「かった?」、と問い返した。
「何かバトルで、お前、勝ったんじゃねえの。前に何か、聞いたぜ」
 何かを指すように右手を動かしながらの高橋の言葉は、中里に近いはずの、遠い記憶を蘇らせた。胸にやまぬ疼痛をもたらすべき、過去の清算と失恋の記憶は、郷愁しか呼び起こしはしなかった。
「……そりゃ、随分前にだろ」
「忘れてたんだよ。まあ、詳しいことは何だか良く知んねえけど、良かったな。寿命が延びて」
「……ああ」
「俺の立場もさ、ここでギリギリのバトルしたように見える俺のな、それもお前があんまり形無しになっちまうと、どうよって話だろ。ちゃんとしといてくれねえとさ。この辺で安定してるチームって、今のところはここぐれえだし」
 褒められているのかけなされているのか分からなかったが、最早考えるのも億劫だったので、ああ、と中里は頷き、煙草を吸って、灰ばかりで指に熱をもたらすそれを、地面に落とした。火種の処理もしなかったのは、「そうだ」、とそこで高橋が、突然人の顔の前に、両手の甲を持ってきたためだった。
「お前これ、アニキにSMしたかって言われたんだぜ。俺にそんな趣味ねえっつーの、プレイとか、めんどくせえじゃねえか」
 まさに中里の目の前には、薄いあざのある、高橋の両手首が見えていた。それを自らがつけた、近すぎる記憶も蘇り、胃がきつく蠕動し、中里は突然舌の裏にわき上がった唾を飲み込んだ。ここで謝るのは、筋違いだと分かっていた。分かっていたが、なぜか、罪悪感と背徳感が腹の中でないまぜになっており、口中に唾が溜まる一方だったので、悪かったな、馬鹿力で、と中里は不得手な当てつけを言った。いや、と両手を腹の前まで下ろし、そこへ目を落とした高橋は、明瞭に否定した。
「おかげで俺はSM好きだっていうアニキの変な誤解が解けた。意味分かんねえけど」
 言いながら高橋は、両手で中里のシャツの裾を掴んでおり、前のやつだろ、これ、と品定めするように見ると、ザーメン取れたのか、と今度は中里を品定めするように、冷たい瞳で見据えてきた。
「離せッ」
 と、中里は、前回体を穿たれた痛みと、その目の奇妙な威力による恐れから、咄嗟に叫び、シャツの裾を取り戻したが、代わりに高橋に両手首を捉えられ、引っ張られた。
 体が前へと傾いて、互いの鼻が触れかけ、息がかかる距離は保ったまま、離れる。
「そんなひでえツラで、そうビクビクされるとな」
 毛穴が見えるほど近く、高橋の滑らかな顔があり、中里は溜まった唾を飲み込んだ。その視線に、殺されるような気分だった。高橋はゆっくりと、困ったように、共有する現実などないというように、唇の端を上げた。
「やっちまいたくなるだろ」
 取られた手首を誘導された先には、高橋の欲望を物理的に押さえている革があった。手の甲に、指に、奥のそれを感じ、中里は目を見開いて高橋を見た。
 途端、口付けられた。
 長く親しい、変わることなく体を覆う峠の空気と、両手首の痛み、その先に触れる硬さ、再び唾が枯れかけた口の中を、粘膜を湿すように苛烈に動いていく舌、すべての感覚が一時に、恐怖と羞恥を呼び起こし、中里はとにかく逃げ出さずにはいられなかったが、そうするよりも早く高橋が、音を立てて舌を離し、「なあ」、と唇を軽く合わせたまま、囁いてきた。
「咥えてくれよ」
 思わず中里は、顎を引いていた。陶然としたような面持ちの高橋が、緩やかに頬を上げる。神経が麻痺しそうなほどの強い昂りを感じ、中里は自分のだけではない唾を飲み込んでから、やめろ、と首を振ったが、高橋は中里の両の手の甲にそれを押し付けながら、回り込むように、耳に口を寄せてきた。
「抜きさえすりゃ、おさまるんだ。口貸してくれるだけでいい」
「無理だ、そんな」
「それとも、ヤられる方がいいか」
 全身に鳥肌が立ち、震えが走った。息を呑む音が、喉から鳴っていた。
 それを合図としたように、高橋は後ろに下がりながら、掴んだ中里の両手首を、斜め下方へと引っ張ると、急に離した。中里はコンクリートに膝をつき、また両手もべたりとつき、掌に、肉の焼ける感触を得た。
 ぐう、と唸る。
 手を上げると、先ほど落とした煙草が下にあり、掌の中央に黒い灰がついていた。
 ジップ音はその時既に聞こえていたが、自分で顔を上げる前に、前髪を掴まれ、膝立ちになっている高橋の股間へ寄せられて、むき出しのそれを眼前にすると、中里は、驚かずにはいられなかった。直接それを見るのは、初めてだった。他人のを、これほど間近で見たこともまた初めてで、それを口へ入れるなど、考えられることではなかった。
「ほら」
 それでも噛み締めた歯を緩めたのは、身を縛る頭皮の懐かしい痛みと、唇の端に当てられるそのおぞましい感触が、誰に見られるかも分からぬこの状況を、再び思い出させたためだった。誰もが集まるこの場所で、何をされるのも嫌だったが、一度はなされているという記憶と、早く逃げ出したいというあらゆるものに対する恐怖感が、ただ口に呼び込むことだけを決定した。
 口蓋や舌を削るように押し入ってきたそれは、喉を直撃した。むせる前に、途中まで引き抜かれ、再び喉をふさぎ、鼻頭に陰毛が当たる。両の側頭部を固定され、規則的に、強く繰り返されると、顎から頬にかけての肉も骨も痛くなり、呼吸は苦しく、唾は飲み込めなかった。
「歯、立てるなよ」
 水が跳ねるよりもねっとりとした音が響く中、高橋の、息のような声が下りてきた。
 この、凶暴の象徴のようなものが、自分の中を荒らしていったのだと思うと、中里は新たに腹が引き裂かれるような気分になり、いっそ噛みちぎってしまいたかったが、同時に、あの意思とは無関係に這い上がる、圧倒的な、肉体こそが絶対と決めつけるほどの快感も思い出され、下半身がうずき、力は入れられなかった。
 何をされるのも、嫌なのだ。
 だのに、自動的に与えられるあの快楽を、どうしようもなく肉体が求めていた。
「う、うう」
 張りを増すものとともに引き出されていく唾液が、泡となって唇の端に溜まり、顎へと滴る。なぜこの行為を了承してしまったのか、中里は疑うしかできないほどの苦しみの只中にいた。確かに口を貸すのみだが、延々と、休むことも許されず続く、これでは丸きり隷属だ。
 それで勃起するなど、自尊心は、どこへいってしまったのか。中里には、今、それを探すこともできなかった。

 待望した行為の終わりは、速まった規則的な動きと、耳が外から捉えた荒くなる高橋の呼吸音、口腔を支配する生臭い物体の膨張から窺い知れたが、喉の奥に粘液が送り込まれたのは突然のことだった。数秒間、動かぬことを強制され、そののち、口を解放されると同時に、溜まった唾と一緒に吐き出したが、いくらかは嚥下しており、中里はえずいた。数回咳き込んでから、垂れかけた涙と鼻水を手で防ぎ、涎を拭う。指先も掌にも、砂がついていたが、気にする余裕もなかった。
「まあ時間ねえからどうせヤれねえんだけど」
 四つ這いのまま顔を上げると、既に立ち上がって襟を正している高橋が、素っ気なく言った。中里が顔をしかめて睨むと、だからさっきのは、ウソ、と高橋は唇をすぼめ、表情を崩さぬまま、
「ケータイにかけるよ、そのうち。俺の番号入れてるから、出ろよ」
 と言うと、くるりと身を翻し、中里を見ることなく、FDに乗り込み、間も置かず発車して、峠を下りていった。
「はあ?」
 そのすべてを眺めたのち、中里は一人ごちて、無意識に立ち上がりかけ、意識的にやめた。正座になったのは、何となくだった。だが、何か懺悔の気持ちがあったのも事実で、それはいまだ硬度を失わぬ股間を、殊更掌が痛む拳で叩いたところで、消えることはなかった。
 身を焼くような怒りも、憎しみも、羞恥も、興奮も、何に対するものなのか、最早区別もつかなかった。ただ、何もかもは体のうちで熱となっており、その業火に焼かれるような苦しみだけが、唯一明確だった。
 胸に痛みを覚えながら、終わりはないのか、と思う。もう、あの男から――それに従うことを是とするこの肉体から、逃げることはできないのか。
 勃起がおさまるまで、しばらくそのままその場に座ったまま考えたが、中里はやはり、どんな答えも見つけられなかった。そして中里が山を後にするまで、そこに誰か、救いの主が訪れることもなかった。



トップへ    2